武井昭夫の「芸術運動家としての花田清輝」その2

 (最新見直し2013.02.27日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、1997年12月の武井昭夫芸術運動家としての花田清輝」(社会評論110号、発行=小川町企画、販売=土曜美術社出版販売)を確認しておく。

 2006.4.26日再編集 れんだいこ拝


 戦後への出発——綜合的芸術運動の構想

 さて、戦後の出発にあたって花田さんは、戦中からの経験にたって、新しい状況にも対応して運動を構想しました。戦中の困難きわまる時代でも仲間といっしょに自立した表現の手段をつくりだし、それを持続しながら自分自身も表現を通じて豊かになっていく、仲間にもそれを伝えていく。そして実利の上でも少しでも労働者や民衆に役立つことをやっていく、という戦争中に示された抵抗精神、それにもとづく運動観を戦後の新しい条件の下に適用し、花田さんはみずから綜合文化協会を作った。新日本文学会の発足、それにも参加していく。と同時に、『近代文学』にも積極的に協力し、その第一次同人拡大時にそれに参加していく。それから野間宏、椎名燐三、埴谷雄高、梅崎春生、小野十三郎、中野秀人、のちに佐々木基一、関根弘、安部公戻らが参加した「夜の会」というものがあって、日本の戦後のアヴァンギャルド芸術のひとつのゆりかごのようなものになったのですが、そこにも参加して岡本太郎さんといっしょに中心になっていった。自分が中心になるからみんな集まれというのではなくて、そういう可能性のある運動には積極的に参加して、そこでできるだけ多くの可能性ある人々とともに仕事をしていこうと考え、そしてそういう運動を推進していった、というのが一九五〇年代までの花田さんでした。

 どんな運動もほんとうに展開できるのは二、三年、長くて五、六年で、再編過程に入ったり、休眠状況になったり、ときには財政的にゆきづまって解体したりします。そうするとまた新しく組織を作り直してがんばる。それが「運動族」です。花田さんも終始、そういう活動を展開してきた。のちのちまで花田さんと運動との関係はそんなふうだった。そういうなかで、花田さんの運動論・運動観として特徴的なものとして抽出しうるものがいくつかあります。

 その一つは、一九六〇年代あたりに前面に押し出されてくる、ジャンルを越えた総合的芸術運動という観点です。視聴覚文化、映画あるいは演劇さらにはミュージカルという分野との積極的な交流が主張され、実践される。批評もジャンルを越えて行なう。作家がシナリオや台本も書く、他分野の人たちに文学についての発言をしてもらう。そのように、あくまでも総合的な視野に立とうとした。文学は活字文化の中に閉じこもっていれば、衰弱していく以外にない。文学が一九世紀から二〇世紀へ諸芸術の中軸を担いつつ培ってきたクリティシズムがほんとうに生きていくためには、ジャンルの枠を打ち破って総合的な芸術創造の場に生き返らなければならない。日本の文学はすでに明治末期に近代化のなかで衰弱し自然主義文学を経て、私小説におちこんできた。プロレタリア文学がそれを打破しょうとして中断された。時代が転挨した新しい文学運動は芸術総合化、あるいは綜合的芸術の視野をもって、もう一度変革されていかなければならない。文学は一度死んで、いろんな大衆的諸文化との交流の中で、その批評性を再組織し生き返るべきだ。文学が培ってきた批評精神は総合的芸術運動、芸術総合化のなかで生かされなければいけない、という考えです。

 文学と他ジャンルの芸術との結合、その総合化という点で、おもしろいのは、次回からの第二期の連続講座でとりあげる大西巨人さんの文学です。大西さんはそれこそ活字文化の権化のように思われる方が多いと思うのですが、事実そうです。そうですけれども、『神聖喜劇』をちゃんと読まれたかたはわかると思いますが、あの大長編は、文学が他のジャンルで実験したさまざまの形式をもう一度文学に集大成してきたような趣さえあるのです。たとえば映画のシナリオのいちばん新しい成果を取り入れている。戯曲形式も入っている。短歌、俳句、詩もどんどん取り込まれる。それから、小説の中に独立した話を放り込んで、小説の広がりをもたせている。視点も多様になり、当然さまざまな語り口が競演することになる。とりわけ、古今東西の文書からの引用で構築される表現等々——こうした作業は古典文学の中にもいろいろに試みられていて、だからアヴァンギャルドは突然二〇世紀になって出てきたわけではなくて、時代時代に、前衝的な作家が努力してやってきてもいる。大西さんは文学の権化のように見えてますが、衰弱しゆく近代文学を超克しようという作家ですから、総合芸術家的な視野を、『神聖喜劇』一作の展開の中に示されているわけです。花田さんはそれを集団化してやろうとした、ともいえます。

 それから、花田さんがつねづね口にしていたことは、運動はクリエイティプでなければならない、作品を創っていくことをめざす。批評は、そういう方向性を持つべきだ。そういう意味で、運動にはクリティークが必要だということです。つまり解説文がいくらあってもだめで、ほんとうの批評がなければならない。作品も同じで、そこに内在的に批評精神が貫かれているべきだ。——そういう点でクリエイティプなものはクリティークに満ちあふれているものである、そういうものを作らなければいけない。——小説であれ、映画であれ、演劇であれ、運動をとおしてどれだけのものを作るか、それがどういうふうに現実の中に生きていくか、それをはげましあい協力しあって集団でやろう——それがわたしの理解している花田さんの主張でした。

 そういう意味で花田さんは「共同制作」ということを言った。それは、みんなで集まって分担しあえばなにかができるといったようなものではない。一人一人が全体を表現する。その競作を一つのものとして創る。そういうものが一〇本、二〇本と集まれば、追究すべき世界の全体が描き出される。花田さんの「共同制作」というのは、補い合って一人前になりましょうというのではない。みんなである対象について、あるいはあるテーマについて、それぞれが全力で競う。それを五人なり一〇人なりがやったのを重ね合わせて、より強力なもの、より全体性のあるものを創り出していく——そういう仕事をやらなければいけない。そのためにはまずディスカッションをして共通の課題をはっきりさせて、どういうふうにやろうかというベクトルを確認したら、それぞれが「おれが全体をやるんだ」というつもりで取り組む。だれかががんばってくれるだろう、おれはこの部分だけやりますよ、というようなのをいくら集めてもだめだ、そんなのは共同制作ではない——そういう考えが花田さんの運動論の基底にはあって、芸術創造は集団でなければならない、運動としてやらなければならない、ということを繰り返し言い、そして実践していった。

 だから、横への広がりを花田さんはいつももっている。同時にそのつながりを通して、あとの時代へとつながっていく。それがどれだけ広がるか広がらないか、つながるかつながらないかは運動を構成する者のにもよるけれども、時には時代によってその運動の火が消されてしまうこともある。しかし、できるかぎり、火種は伝承され、次代の誰かが運動をやろうとするときにそれが一気に生き返っていく。そういう仕事をやろうと花田さんは呼び掛けた。たえず運動腐の中でそれを呼び掛けてきたし、それをやろうとしてきた。

 そういう意味で花田さんは戦後の四五年から五〇年代半ばのプロセスを見ますと、可能性のあるところにはいずれへでも行って、そこで一員として、また必要と要望とがあれば中心になって活動を展開した。


 花田溝輝の運動論——「楕円」と「群論」の思想

 そういう中で『復興期の精神』の「楕円幻想」で描いた運動論における楕円の思粕†すなわち、一つの中心だけで円を完結させるのではなく、二つの焦点を置いて思い切って楕円の世界を描けという考えを実行していく。それを広げていきますと、「群論」に示された、あのガロアの群論の世界を運動の組織論として推進します。それは共通項を持つ人々を群としてとらえ、運動としてまとめていく。運動家は運動の科学というものをきちんとふまえて、自分の役割に応じて自分の身の処し方も考えていかなければならない。そういう考えに立って花田さんは、運動の組織運営にあたって、形式で言えば、独裁ではなくて民主主義的なものを非常に大事にされた。モノローグでなくダイアローグで。一人が命令してやるのではなくて、対話、それから座談が大切だ、討論が大切だ——という主張で、それが協働の基礎に置かれた。

 それからもうひとつ、非常におもしろいことは、花田弁証法の特異さです。「対立物を対立したまま統一する」としちゃうと言うんですね。テーゼ、アンチ・アーゼ、ジン・テーゼの定式では対立はアウフ・ヘーペン(止揚)されて統合になるのですが、花田弁証法では対立の内包するダィナミズムをそのまま生かしてクリエイティプな力にしていくという考えです。花田さんはわたしに対して、若くて無知で鼻柱だけは強いわけのわからない奴だけれども、いつも対等に扱い、「とにかく対立しろ、君はもっと僕に対立しなければだめなんだ」と言って、自分の意見に対立して討論を仕掛けることをすすめ、それをおもしろがった。それで花田さんも多少は自分が新しい視野やアイデアを得ていたようにも思います。「対立物を対立したまま統一」するという考え方は、花田さん独特のもののようにわたしは思うのですが、これは大変民主的な運動論です。運動民主主義の生み出すこのダイナミズムを大切にした。これは民主主義の精神がなければできないことです。

 のちの花田—吉本論争ですが、花田さんははじめ吉本さんを挑発するポーズをとるんです。それは何も敵対しょうというのではなくて、対立する要素があるのをちゃんと見ていて、だからその対立点を明瞭にして討論をし、それを通して将来の協働の場を作ろうという意識があったと思います。それに対して吉本さんは敵対的・暴力的に攻撃に転じていった。とにかく、吉本さんは、「おれが死んだら世界は和解してくれ」(「異数の世界におりていく」より)という人ですから、「おれが生きているかぎりは世界を和解させないぞ」とばかりに論争した。つまり、新しい真理に到達するために異なった意見をダイアローグでつきあわせてたたかわせる、そのたたかいじしんをクリエイティプなものとしていこうというのではなかったわけです。政治的姿勢に置き扱えていえば——これはわたしなどにはのちに「ああそうだったのか」と解ってきたのですが——吉本さんは支配体制との対決を基本軸としているのではなく、日本のマルクス主義的左翼への怨念にみちた敵対心が存在していたわけです。むろん、それは「論争」の過程でいっそう増殖されていったのですが……。こんにち、久保覚さんの労苦で掘り起こされた諸資料、湯地朝雄さんの読み込みなどで明らかな真実に照らせれば戦中の花田さんに対する「転向ファシスト」といったレッテルばりなど、ルールもなにもあったものではない、やくざの振うめったうちの暴力のようなものだ、と言うべきでしょう。吉本さんの「論争」は、茂吉の短歌論争、宣長の国学論争のように、自分の派や閥をひろげようという闘いに類似しています。

 花田さんの討論はちがう。それは、花田さんの文章をよく読めばわかります。自分の文章の中に生き生きとした対話がある。自分の前段の主張を後段でひっくり返してみせたりする。読者に考えさせるのです。プレヒトの劇作法に通じるものがある。集団・運動といっても、参加者を部品化して身動きできなくするのではなく、組織には組織の科学があることをわきまえ、その方法をそれぞれが自覚して身につけて、それに習熟していく。その中でそれぞれが個性を発揮してクリエイティブな仕事をするという理想の追求です。その方法をやれば、対立者も協働者にとりこめるのです。

 花田さんは戦後初期、福田恆存ともいっしょに仕事をしました。そのうち福田はイデオロギッシュになって政治的反動の方向にいってしまう。そうなってからも、わたしが花田さんといっしょに芝居を見に行ったりすると、たまたま福田恆存に会う。会うと二人はうれしそうに話をしていました。もちろんそれでどうなるというわけでもないけれども、才能があって可能性がある人に対して——とうていこれはぼくにはできないことですが——ていねいに親しく対していた。花田さんはそういうことができる人だった。それはこういう方法論が身についていて、困難の状況下で運動をすすめてきて、そういう苦労をする中で、できてきたものではないか、とわたしは思います。

 〈質疑応答の中から〉

 花田溝輝と『近代文学』同人たち

 花田さんは『近代文学』の第一次同人の仕事を全部否定しているわけではありません。たとえば、『近代文学』派に共通する、半封建的なものに対しての近代的なものの追求と実現に一定の意義を認めています。しかし、花田さんは近代資本制社会を止揚しようとしているのですから、近代の行き詰まりのなかから生まれて、近代の批判者でもあるアヴァンギャルド芸術を媒介として、リアリズムの革新、社会主義的なリアリズムを追求しようとしていたわけです。いつまでも個人の主体性の確立にこだわり、そこに止まり、近代的エゴの確立が大事なんだというような、花田さんに言わせれば半世紀も逆戻りしたようなところに足ぶみしているかれらに対しては批判的にならざるをえないわけです。しかもそういうモラリズムの観点を一歩も出ないようなところから、それより遙かに先を進もうと苦闘するものをあげつらう「保守」性には、辛辣な批判を浴びせたのです。

 しかし花田さんは、日本の近代文学の中で、有島武郎の『或る女』を最高傑作として評価しています。明治社会で自立していこうとした女性が日本の「近代」とぶつかってゆく悲劇的姿をあれだけ措いた作品は比肩するものがない。小説としての方法も、衰弱して私小説へ後退していくものを見事に超えています。わたしの知る限りでは、大西巨人さんも第一等の作品は『或る女』だとしていたと思います。

 日本に近代的な骨格をもつた文学を確立していくことに花田さんはむろん反対ではなかった。ただし、それをさらに乗り越えていこうとしたのが花田さんです。世界文学のレベルから近代文学のゆきづまりを見ていて、それを越えようとする文学としてプロレタリア文学とアヴァンギャルド芸術をみ、その両者を統合し、両者緊張関係のなかに創造力の生成を見ようとしたのです。そうした試みは、たとえ一時挫折したといえ、すでに戦前からなされているのに、戦後になって、ただ「近代文学の確立」と主張していてはダメだ、日本の遅れた文学に対する批判としての積極性を容認しつつも、そんなところにとどまっていてはならないんだという批判があったわけです。ですから、第一次同人拡大のときにさそわれて『近代文学』の同人になった。花田さんは中に入っていって、討論しながら変えていこうとしたのでしょうが、意図と見取図は正しくとも、その通りいくかというとは、話はまた別問題です。なかなか成功しないばかりか、非常な困難につきあたっていくわけです。しかしそこに立ち入りますと長くなりますから……。


 「政治と文学」論争、日本共産党五〇年分裂と

  文学運動内の抗争を経て

 花田さんは、敗戦の翌年十月に新日本文学会に入会しています。戦争中から機会が来たら中野(重治)さんとは一緒に運動をやりたいと思っていた、とのちに語っているように、花田さんはやはりプロレタリア文学運動の伝統を引き継ぎ 但し唯引き継ぐのではなく批判的に発展させることを望んでいた、と思われます。しかし、中軸で活動をするようになるのは、だいぶ後になります。敗戦後の数年は、花田さんは、みずからつくつた綜合芸術協会(機関紙『綜合文化』)の活動(一九四七年)、『近代文学』同人への参加(一九四七年)。「夜の会」の結成(一九四八年)が中心になります。

 この間に、新日本文学会は、戦前のプロレタリア文学運動の全盛期の中軸だったナップ系の文学者を中心に運動の態勢を整えていく。その中で、プロレタリア文学運動の評価——とりわけ小林多喜二の「党生活者」の評価など——をめぐって、第一次のいわゆる「政治と文学」論争が『近代文学』派の荒正人、平野謙らと旧ナップ系で新日本文学会の中軸となった中野重治・蔵原惟人らとの間でくりひろげられた(この論争は別名「主体性」論争ともよばれ、ジャンルを超えて哲学や政治・経済学の分野の人々の間にも広がっていった)。

 論争の間、花田さんは直接にこれに触れた発言はしていないように、わたしは思います。ただし、後に花田さんが『近代文学』派の山室静や荒、平野、それに埴谷雄高らとくりかえした第二次「政治と文学」論争などからみて『近代文学』派に批判的だったろうと想定されます。しかし、問題の見方は旧ナップ系の人々とは異なり、かれらへの批判も含むものだったと思われます。一口で言って、花田さんはインターナショナルな世界文学の観点から問題をみていたわけです。

 花田さんが日本共産党に入党するのは一九四九年で、入党推薦者が当時の党本部文化部の青山敏夫という人です。新日本文学会の主流となったのが旧ナップ系の文学者で政治的には宮本顕治に親しい人々ですが、この青山敏夫氏は牧頼恒二、増山太助といった人たちとともに徳田球一を家長とする主流派閥の文化オルグ・グループを形成していました。日本文化人達盟の機関紙『文化タイムス』などを中心に活動が行なわれていたようで、旧ナップ系に比して一世代若い人々が担っていました。

 のちの日本共産党「五〇年分裂」にいたる要因の文化運動面におけるあらわれは、早いものではもう四七年くらいから出てきていた。逆にいえば、共産党内部の路線上の対立が文化運動の世界に反映してきたとも言えます。それがまた文学運動に持ち込まれたのが『新日本文学』に対抗する『人民文学』の発行です。こうした形で四九年にははっきり分裂状態として現われてくる。党の分裂は五〇年春からですが、文化運動の中にはすでにいろんな軋みが出ていた。そういうものはこの年表には出てきません。ここでのちのわたしと針生一郎さんとの論争の中で問題になる「政治のアヴァンギャルドと芸術のアヴァンギャルド」の関係をどう見るかという問題につながっていくのですが、ここでは時間がありませんので、別の機会にゆずり、論争の中身は省略します。

 花田さんと青山氏の関係についてわたしは詳しくは知りませんが、花田さんの影響かどうか、「夜の会」その他で勉強していた安部公房さんらに代表される若手のアヴァンギャルド芸術派はこの線で共産党と結びつき入党する。そして、この人たちがのちの『人民文学』に組織化され、政治的にはいわゆる極左冒険主義の方向へ進みます。朝鮮戦争前夜、反動化が進む中で気分的に急進化していくわけです。京浜工業地帯の労働者党員たちと交流して観念的に昂揚し、やがて火炎瓶闘争などを讃美するルポや詩を書くようになる。芸術のアヴァンギャルドという、内部世界の前衛的な探究者が、外部世界へ対応するときは、政治と芸術との違いをあくまでも科学的に測定してその法則性をつかみながらやらなければならない。芸術のアヴァンギャルドが政治のアヴァンギャルドになるといっても、芸術には芸術の論理があるように政治には政治の論理があるわけで、政治と芸術を同一視してしまって、政治の論理だけで芸術を見ようとするのも間違いで、同様に芸術を作っているものの論理と方法論をそのまま政治にもっていくのも間違いです。政治と芸術には対応関係はあるけれども、組織一つとっても、運動論を考えても、違いがあり、それをきちんととらえて対応していかなければならない、という問題が十分に理解されていなかった。その結果、共産党内の対立が、主として徳田派閥によって文学運動に持ち込まれて、分裂を含む対立・抗争がおこり、大きな混乱がおこって、それが数年続いた。

 一九五二年、花田さんは新日本文学会第六回大会のあと編集長に選任される。新日本文学会は前述の対立抗争で力を消耗します。それを克服していく方向を、中野さんを中心にいろいろに考え、花田編集長の登場となったわけです。

 これはのちに実際経験してわかった面もありますが、このときの会の改善は、歓迎すべきもので、新しい編集委員会も作って、運動自体を全体として再編成する。会議の構成からやりかたまで再編成した。そういう新しい流れがやっと出てきた。これを推進したのが、リーダーとしては中野さんであり、それによって中心に押し出されてきたのが花田さんです。ここから花田編集長時代がはじまるのです。


 わたしの幸運——大西・花田両氏との出会い

 たまたまですけれども福岡で仕事をしていて、『近代文学』同人でもあった大西巨人さんが新日本文学会の第六回大会後に上京されて、九月に同会の中央常任委員会の常任書記となって組織部を担当された。一と月後に、当時浪人していたわたしがたまたま花田さんに誘われ、大西さんにもすすめられて編集部に入りました。

 脇道にそれるかも知れませんが、わたしが花田さんのもとで仕事をすることになるいきさつを話します。花田さんを語ることになると思うからです。わたしは新日本文学会の会員になったのは早く、一九四七年でしたが、文学などやっている暇もなく学生運動と政治運動に明け暮れていたのですが、五二年春には国際派がつぶれ全学連も徳田派にのっとられて、やることがなくなった。高校時代、平田次三郎さんに頼まれて『思潮』という雑誌の編集部にいて九州在の大西さんに原稿依頼していたりしたので、上京して神田に住んだ大西さんを訪ねていろいろ話をうかがったりしていた。たまたまわたしの友人の『新日本文学』編集部員が大西さんに執筆を頼もうとしたら、編集長の花田さんが納得できない理由でダメだと言ったというのを聞いて、一定の仕事をしてきている会員に理由もなしに書かせないというのは何事かと、文句を言いに書記長の中野さんのところに行ったら、ここは新日本文学会のいいところで「よし、意見があるなら言いなさい」と言われて、指定された日に出掛けていった。常任中央委員がずらりと並んで待っていた。

 あのころはわたしは花田弁証法などまるっきりわかっていなかった——いまでもたぶんにそうですが——当時の文学ニュースの中にチェコスロバキアで『シラノ・ド・ベルジュラック』が上演か出版かを禁止されたという記事があって、花田さんはある雑誌であの闊達な詩人の芝居が発禁になったことは悲しいことだと書き、ある雑誌では、ああいう頑固なナショナリスト、ファシストまがいのやつは弾圧したほうがいい、というようなことを書いていた。単細胞のわたしは、たまたま両方読んでいて、あっちでは弾圧されて悲しいと書き、こっちでは弾圧してしまえとはいったい何だ、と単純に腹をたてていた。つまり花田さんの弁証法の論理——楕円の思想などまったくわかっていなかった。ことを両側面から見て全体を捉える、そしてそれぞれの側面をときには強調して相手の意見(ここでは読者の反応)を触発する、というのをわかっていないし、花田氏なにするものぞと意気込んで出かけたけれども、ことはあっけなく解決した。つまり、わたしたちの一般的主張は認められ、具体的な件はわれわれの情報収集が不十分で、花田さんの実際やろうとしていたこととわたしたちの理解とは違っていたことを認めざるをえなかった。それでわたしは帰りぎわに花田さんに、間違った情報、不十分な理解で抗議をした面があったことをあやまりました。しばらくしたらきみ編集部にこないか、と花田さんに誘われたわけです。そういうところが花田さんにはあるんです。そういうとおかしいかもしれませんが、花田さんは対立者を同志として協力しながら変えていく——そういうことをやった。以後、わたしは花田さんの運動の参加者として——ときに不実、反発もしましたが——こんにちにいたっているわけです。


 花田編集長時代の『新日本文学』

 わたしがはじめて花田さんの話を聞いたのは新日本文学会の大会で外国文学委員会の報告をされたときでした。中村光夫と広津和郎の『異邦人』論争がありまして、それをめぐっていろいろその場でも論議がでたとき、花田さんが射殺されたアラブ人の立場からものを見ろ、その立場から論じた人が一人でもあるか、と言うと、一瞬、会場がシーンとなった。そういうようなかたちで花田さんは新日本文学会に登場してきました。いい気になっている者には、強い意見をぴしっと言う、同時に、間違っても、それを認めるやつは仲間に入れてやっていこうという、若い者には親切——これも花田さんのひとつの運動論の実践だと言えます。むろん、実践的には、そういうものが裏目にでることもあれば、うまくいくこともある。それは方法論そのものが悪いのではなくて、方法論と状況との関係での測定の多少の誤りであって、状況の悪さのほうに主として問題があったように、わたしは思います。

 花田編集長時代は一九五二年七月号より五四年九月号まででわずか二年間です。しかし、表紙をはじめずいぶん変わりました。作家では大西巨人さんの登場。島尾敏雄、竹田敏行、富士正晴、まだ学生だった小沢信夫、それにたくさんの労働者の作家が書いています。一番目立つのが若手の文学者たちの執筆です。目次の一覧を見てもらうとわかるように、毎号のように徐々に新しい人が入っているわけです。当時の若手の批評家が網羅されているおもむきがあります。今ではみんな「大家」になってしまっていますが。浜田新一はいまは日高晋という本名で宇野経済学の学者になってしまいましたが、あのころは文芸評論をやっていました。大野正男もいまは最高裁判事ですがこのころは文芸評論家です。清岡卓行さんは詩人にして映画評論家、いまは小説を書いています。村松剛はこの頃『世代』の最左翼といわれたが、その後右翼になって死んでしまった。奥野健男はいまも文芸評論家です。ほかに吉本隆明、日野啓三、さらに江藤淳まで書いています。当時、二〇代後半から三〇になるかならないかくらいで、みな新進の文学者たちでした。それだけではなくて、さっき言いましたような大井広介や梅崎春生や大岡昇平らたくさんの人たちが座談会などに出席してくるようになってきた。そういうかたちで広がっていった。

 総目次をあらためてながめると、たとえば「療養者と文学」という特集もあります。まだあのころは結核も多くてたいへんだったんですが、療養者が短歌・俳句の人口の主流を占めていた。そういう人たちを対象にして、少しでも読者を広げていこうとした特集です。おもしろいのは文学者が政治を論ずるのではなく、共産党と社会党と労農党の政治家たちにきてもらって文学の話をする。花田さんが司会している。いろんなテーマを考えてゲストをよんで自分が司会をやって、その人たちからおもしろい問題を引き出していく、というような編集プランもありました。部数は、花田さんの前までは三〇〇〇部刷って一〇〇〇部売れるかどうかいう状態になっていましたが、拡大のための増ページ、増部数といって、一万部刷ったのです。ページ数も倍ぐらいに増ページをし、広告も出して宣伝もした。金もかかった。それをやっても、そうは売れませんでしたけれども、それでも部数は三倍、つまり三〇〇〇部くらいになりました。中野書記長、花田編集長、大西常任書記、秋山清財政部長以下、事務局のメンバーなど中心の人たちはみな頑張ってよくやった。活気は出たが、非常な赤字が出ました。

 どうしたかというと、基金組合というのを会員で作って金を集めて赤字を埋めたりしました。中野さんはその資金づくりや赤字処理のときに二〇〇万円を出しました。当時の二〇〇万円ですから大変です。そんなお金があったわけではないから、中野さんの将来の原稿料を担保ということで筑摩書房から借りた。ですから、その後どのくらいか中野さんは原稿料や印税なしで『展望』に書き、筑摩書房から本を出していた。そうやってお金を出す人がいて、そうやってお金をどんどん使う人がいて、その相互信頼の上に運動というのは成り立ってきたのです。わたしは金を出した中野さん、金食い虫みたいな花田さん、財政部、事業部を担当した大西さん、秋山さんの奮闘を忘れることはできません。何の苦労もなくのほほんと運動なんかはできない。

 そういう悪戦苦闘しているときに、宮本顕治が——会員ではあっても何もしない、ビタ一文カンパしたこともない会員が——文学会の運動や活動に口出しをしてきた。六全協の直前で分裂していた共産党の指導部間で統一が決まりかけていて、共産党主流の徳田派の極左冒険主義が行詰まってきて、国際派の宮本氏が力を獲得してきていた。そして文学運動上は何の解決もついていないのに、『人民文学』の人たちを新日本文学会にそのままもどせ、そのためにいままで頑張ってきたうるさい連中は邪魔だ、ぐずぐず言ったら、追い出そうというわけです。それでまず、大西さんの批評活動にたいして、セクト主義だといって、攻撃してきた。大西さんの野間宏『真空地帯』への批判などがそれだというわけです。中野——窪川(鶴次郎)はこれに屈したが、他の人々は屈しなかった。そこで宮本が直接乗り出してきてこんどは会運営について、実状無視のムチヤクチヤな文句をつけた論文を書いてきてきた。その論争が組織部責任者の大西さんと宮本顕治との間で行なわれた。宮本の反論はどんどん長くなってくる。それを長すぎるから少し短くしろと編集部が言ってもきかない。それを載せるか載せないか採決しろということで結局常任委員会で——だったとわたしは思いますが——採決して、一口で言えば共産党員が載せる、共産党にもどっていない共産主義者とリベラリストの委員が載せないという意見で五対五になった。そのとき議長役をしていた書記長の中野さんが載せることにし、同時に花田さんを編集長から罷免することも決定した。花田さんはそのときにはそのことが議題になることは知っていて出席しなかった。もし花田さんが出席していれば決定はかわったでしょう。しかし、こんな事態を出来させる状況はなくなるわけではない、たぶんそういう考えて花田さんは出なかったのです。

 花田編集長を罷免したあと、中野さんが編集長をかって出たのですが、花田さんに「文芸時評」を依頼し、花田さんは引き受けて罷免された翌月から文芸時評を三回書きました。最初の題が「シラミつぶし」でした。終回の十二月号の題が「別れの曲」です。

 これも知られた話ですが、花田さんは編集長時代文芸時評をやらなかった。主として映画・美術・演劇などのジャンルの批評をやっていた。というのは、自分の厳しい批評が、『新日本文学』の筆者を狭めたりしてはいけないということで、『新日本文学』だけでなく、他の、『群像』などにも時評風の文学評論は書かなかった。そういうふうに禁欲的に、集中してやっていた。「シラミつぶし」は戯文調だが内容は非常に厳しく、文壇文学の作品をかたっぱしからやっつけた。あまりそれがすごかったので、高見順が「作家がいっしょうけんめい書いた小説を、“シラミ”とはなんだ、けしからん。花田はゴロツキだ」とやった。それで有名な「ゴロツキ」論争になった。その中身と経緯は、お配りしたわたしの文章〔「社会評論」一九七六年一月号のコピー〕に書かれています。


 花田氏の論争を貫く「モラリスト批判」の意味

 高見順も戦前の運動の参加者で、戦前に転向をし、戦後は文壇の中心にあって「最後の文士」をきどっていた。そういう人の文学観・文学運動観と、花田さんの文学観・文学運動観との正面からの激突であって、それは結局、日本文壇文学の価値判断と、新しい価値判断を打ち立てようという花田さんとの対立でした。それは芸術論をめぐる論争となって行きました。二〇世紀的アヴァンギャルド芸術の方法をどうみるか、です。花田さんは日本のプロレタリア文学に欠けているものとして、インターナショナルな、世界文学のレベルとの比較における視野狭窄を変革したいと考えていた。とくにアヴァンギャルド芸術が切り拓いたものをどう摂取して社会主義的なリアリズムを新しいものにしていくかを追求した。それは革命ロシアの文学でも充分ではなく、これを本当に起こしていくにはどうすればよいかを問い、それによって戦前のプロレタリア文学を新しく現代的なものとして生き返らせていきたいと、考えていた。花田さんの考えを充分ではないにしてもある程度わかってその意図の実行を新日本文学の創造運動に取り入れようとしてきたのは、旧作家同盟の中では中野さんだったようにわたしは思います。しかし、その中野さんが自分の考えを厳しく貫けなかった——宮本におさえられたのだ、とわたしは思います。

 この「モラリスト」論争は、先行する『近代文学』の主体性理論に基礎をおくモラリズムと、文壇文学の中にあるモラリズムの考え方とが、同根であることを明らかにしました。花田さんはこれこそ、日本文学が克服していかなければならないものとして、『近代文学』派と文壇の代表としての高見順らとの両者を論敵としての数年にわたって断続しつつ論争を展開していきます。

 この間にわたしは吉本さんと仕事をしていく——すなわち「文学者の戦争責任」の問題の追求がそれで、二人の協働作業がなされるのですが、やがて問題のとらえ方が、わたしと吉本さんとには相当の違いがあることが相互にわかってきます。それがのちにわたしと吉本さんとの論争につながっていくわけです。しかし、その前に、吉本・花田論争がくりひろげられることになります。

 このときの花田さんの論もすでに「モラリスト批判」の中で展開されてきていたものです。花田さんの問題提起は、日本近代文学に根幹からの変革を突きつけるものとして、少なくとも「芸術の革命」をめざす者は受け止めるべきだったのです。

 花田−吉本論争を想うと、このときの『近代文学』派、とりわけ埴谷さんの誤りが大きかった、とわたしは思います。花田さんとの論争では『近代文学』派の人たちは、つまりは山室静流の反共主義にゆきつくほかはなく、そうなりたくなければくぐもらざるをえない——本来なら、『近代文学』同人は花田さんの問題提起を正しく受け止めて、文壇文学的伝統との対決に進むべきだったのに、そうした最後のチャンスを見送ったばかりか、やがて始まる吉本さんの暴力的な攻撃に代弁者を見出したように喜び、これに追随し、これを称揚するというようなことをやった。埴谷さんは、のちの吉本さんとの論争でいくらか自分の誤りに気づいたのではないかとも思われますが、もう遅かったでしょう。——結局その結果、あの人たちがやろうとしたことは宙に浮いたままの状況を生み出して、かれらの仕事はいますべて終わろうとしています。

 思い返してみますと、戦争中、花田さんが「文化再出発の会」をつくって『復興期の精神』を書きはじめたとき、コミュミズムの立場からもう一度抵抗を組織しようとしたのでした。一方、そのとき埴谷さんは、『構想』という同人誌をつくってそこで『不合理ゆえにわれ信ず』を発表していった。超個人主義、非合理主義の追求です。対照的な二つの道の岐れめは、すでに戦争中に根ざしていた。一九三九年に二つの道が同時に出発していくわけです。戦後、両方ともその方向を一貫して、死ぬまで歩みつつ、闘っていたわけです。花田−埴谷の対立は表面、花田—吉本論争のようにはならなかったけれど、にもかかわらず、埴谷さんは吉本さんに自分の代弁者、後援者、後盾をみていた。その誤りからどんな教訓を引き出すか——それは今後のわたしたちに遺された課題でしょう。





(私論.私見)