戦後への出発——綜合的芸術運動の構想
さて、戦後の出発にあたって花田さんは、戦中からの経験にたって、新しい状況にも対応して運動を構想しました。戦中の困難きわまる時代でも仲間といっしょに自立した表現の手段をつくりだし、それを持続しながら自分自身も表現を通じて豊かになっていく、仲間にもそれを伝えていく。そして実利の上でも少しでも労働者や民衆に役立つことをやっていく、という戦争中に示された抵抗精神、それにもとづく運動観を戦後の新しい条件の下に適用し、花田さんはみずから綜合文化協会を作った。新日本文学会の発足、それにも参加していく。と同時に、『近代文学』にも積極的に協力し、その第一次同人拡大時にそれに参加していく。それから野間宏、椎名燐三、埴谷雄高、梅崎春生、小野十三郎、中野秀人、のちに佐々木基一、関根弘、安部公戻らが参加した「夜の会」というものがあって、日本の戦後のアヴァンギャルド芸術のひとつのゆりかごのようなものになったのですが、そこにも参加して岡本太郎さんといっしょに中心になっていった。自分が中心になるからみんな集まれというのではなくて、そういう可能性のある運動には積極的に参加して、そこでできるだけ多くの可能性ある人々とともに仕事をしていこうと考え、そしてそういう運動を推進していった、というのが一九五〇年代までの花田さんでした。
どんな運動もほんとうに展開できるのは二、三年、長くて五、六年で、再編過程に入ったり、休眠状況になったり、ときには財政的にゆきづまって解体したりします。そうするとまた新しく組織を作り直してがんばる。それが「運動族」です。花田さんも終始、そういう活動を展開してきた。のちのちまで花田さんと運動との関係はそんなふうだった。そういうなかで、花田さんの運動論・運動観として特徴的なものとして抽出しうるものがいくつかあります。
その一つは、一九六〇年代あたりに前面に押し出されてくる、ジャンルを越えた総合的芸術運動という観点です。視聴覚文化、映画あるいは演劇さらにはミュージカルという分野との積極的な交流が主張され、実践される。批評もジャンルを越えて行なう。作家がシナリオや台本も書く、他分野の人たちに文学についての発言をしてもらう。そのように、あくまでも総合的な視野に立とうとした。文学は活字文化の中に閉じこもっていれば、衰弱していく以外にない。文学が一九世紀から二〇世紀へ諸芸術の中軸を担いつつ培ってきたクリティシズムがほんとうに生きていくためには、ジャンルの枠を打ち破って総合的な芸術創造の場に生き返らなければならない。日本の文学はすでに明治末期に近代化のなかで衰弱し自然主義文学を経て、私小説におちこんできた。プロレタリア文学がそれを打破しょうとして中断された。時代が転挨した新しい文学運動は芸術総合化、あるいは綜合的芸術の視野をもって、もう一度変革されていかなければならない。文学は一度死んで、いろんな大衆的諸文化との交流の中で、その批評性を再組織し生き返るべきだ。文学が培ってきた批評精神は総合的芸術運動、芸術総合化のなかで生かされなければいけない、という考えです。
文学と他ジャンルの芸術との結合、その総合化という点で、おもしろいのは、次回からの第二期の連続講座でとりあげる大西巨人さんの文学です。大西さんはそれこそ活字文化の権化のように思われる方が多いと思うのですが、事実そうです。そうですけれども、『神聖喜劇』をちゃんと読まれたかたはわかると思いますが、あの大長編は、文学が他のジャンルで実験したさまざまの形式をもう一度文学に集大成してきたような趣さえあるのです。たとえば映画のシナリオのいちばん新しい成果を取り入れている。戯曲形式も入っている。短歌、俳句、詩もどんどん取り込まれる。それから、小説の中に独立した話を放り込んで、小説の広がりをもたせている。視点も多様になり、当然さまざまな語り口が競演することになる。とりわけ、古今東西の文書からの引用で構築される表現等々——こうした作業は古典文学の中にもいろいろに試みられていて、だからアヴァンギャルドは突然二〇世紀になって出てきたわけではなくて、時代時代に、前衝的な作家が努力してやってきてもいる。大西さんは文学の権化のように見えてますが、衰弱しゆく近代文学を超克しようという作家ですから、総合芸術家的な視野を、『神聖喜劇』一作の展開の中に示されているわけです。花田さんはそれを集団化してやろうとした、ともいえます。
それから、花田さんがつねづね口にしていたことは、運動はクリエイティプでなければならない、作品を創っていくことをめざす。批評は、そういう方向性を持つべきだ。そういう意味で、運動にはクリティークが必要だということです。つまり解説文がいくらあってもだめで、ほんとうの批評がなければならない。作品も同じで、そこに内在的に批評精神が貫かれているべきだ。——そういう点でクリエイティプなものはクリティークに満ちあふれているものである、そういうものを作らなければいけない。——小説であれ、映画であれ、演劇であれ、運動をとおしてどれだけのものを作るか、それがどういうふうに現実の中に生きていくか、それをはげましあい協力しあって集団でやろう——それがわたしの理解している花田さんの主張でした。
そういう意味で花田さんは「共同制作」ということを言った。それは、みんなで集まって分担しあえばなにかができるといったようなものではない。一人一人が全体を表現する。その競作を一つのものとして創る。そういうものが一〇本、二〇本と集まれば、追究すべき世界の全体が描き出される。花田さんの「共同制作」というのは、補い合って一人前になりましょうというのではない。みんなである対象について、あるいはあるテーマについて、それぞれが全力で競う。それを五人なり一〇人なりがやったのを重ね合わせて、より強力なもの、より全体性のあるものを創り出していく——そういう仕事をやらなければいけない。そのためにはまずディスカッションをして共通の課題をはっきりさせて、どういうふうにやろうかというベクトルを確認したら、それぞれが「おれが全体をやるんだ」というつもりで取り組む。だれかががんばってくれるだろう、おれはこの部分だけやりますよ、というようなのをいくら集めてもだめだ、そんなのは共同制作ではない——そういう考えが花田さんの運動論の基底にはあって、芸術創造は集団でなければならない、運動としてやらなければならない、ということを繰り返し言い、そして実践していった。
だから、横への広がりを花田さんはいつももっている。同時にそのつながりを通して、あとの時代へとつながっていく。それがどれだけ広がるか広がらないか、つながるかつながらないかは運動を構成する者のにもよるけれども、時には時代によってその運動の火が消されてしまうこともある。しかし、できるかぎり、火種は伝承され、次代の誰かが運動をやろうとするときにそれが一気に生き返っていく。そういう仕事をやろうと花田さんは呼び掛けた。たえず運動腐の中でそれを呼び掛けてきたし、それをやろうとしてきた。
そういう意味で花田さんは戦後の四五年から五〇年代半ばのプロセスを見ますと、可能性のあるところにはいずれへでも行って、そこで一員として、また必要と要望とがあれば中心になって活動を展開した。
|