補足/小島弘氏証言/仮題「あの頃」

 

  更新日/2018(平成30).2.12日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 本サイトで「小島弘氏証言/仮題『あの頃』を拝読しておく。

 2007.10.20日 れんだいこ拝


【小島弘氏の証言 №2】
 早稲田大学国際教養学部教授/森川友義60年安保―6人の証言 №3」。
●「六全協」と全学連の再建
 ―32年生まれというと森田実さんと同じ年齢ですね。それから島成郎さんと古賀康正さんが31年ですね。香山健一さん、小野寺正臣さん、佐伯秀光さん、星宮煥生さん、生田浩二さんは33年。
■高野秀夫は32年生まれ。
―牧(衷)さんは?
■彼は海軍兵学校の最後だからもっと年上だね。当時は戦争から帰ってきたやつもみんな一緒だったから。軍隊の学校があったでしょう、士官学校。それで、入ってすぐ終戦になっちゃって、もう一回東大とかに戻ってくるんです。だから、学年をダブっている人が多いんですよ。18歳の中に混ざっておじさんみたいなのが大勢いて。しかも兵隊から帰ってきた人もいるからね。
―森田さんや香山さんに知り合ったのはいつですか。
■56年9月に全学連の中央委員会というのがありました。
―8中委ですね。7中委が「歌ってマルクス、踊ってレーニン」のレクレーション活動に路線変更した事件。これは55年9月、名古屋でやっていますが…。
■名古屋のやつにも参加していますが、森田に会ったのは、56年9月に8中委、第8回中央委員会っていうのがあった時です。56年6月の全学連第9回全国大会から57年6月の第10回大会の間に、この8中委があって、その時に委員の欠員ができたんです。僕の前任者に明大文学部の加藤君という人がいて、中央執行委員になっていました。彼が病気で休んでいて、その時に補欠で同じ文学部の僕が補充されたんです。9月半ば過ぎると砂川闘争が始まってしまいました。右も左も分からないようなのが突然全学連なんてところに行かされて、その後すぐに砂川に行ってしまったわけです。
―大学の自治会活動はその前にやってられましたか?
■56年の夏までやっていました。明治大学の自治会は何人くらいだったかな…。そんなに多くなかったと思う。文学部そのものは一番人数の少ない学部でした。その前まで文学部の自治会委員長やっていて、辞めると同時に中執委員にさせられたんです。森田とは砂川闘争で半月間余り同じ場所で寝泊りしていましたから(親交を深める意味で)それが一番大きかったんじゃないですかね。
―森田派に大きな影響を与えた清水幾太郎先生に会われたのは砂川闘争の時ですか。
■56年です。森田がその前年に青木市五郎(砂川町基地拡張反対同盟行動隊長)とか清水幾太郎に会って砂川を応援してくれって言われるんです。
―それは森田さんも回顧しています。56年4月末に森田さんが清水先生と最初に会った時の逸話として「その日、清水教授に指定された四谷の鰻屋に行ってみると、そこにいたのは清水教授、高野実前総評事務局長、青木市五郎砂川基地反対運動行動隊長の3氏だった。3氏とも明治生まれの気骨ある立派な人物だった。この3氏から、社会党、総評はいつ裏切るかわからない。全学連よ、立ち上がってくれ。砂川米軍基地拡張反対運動をわれわれと一緒にやってくれ、と熱心に説得された。私は清水、高野、青木3氏の真剣さに心を打たれ、参加を誓った」とあります。
■その翌年も基地反対文化人会の一員として清水さんは砂川に来ていましたから、森田よりちょうど1年後に知り合ったんじゃないかと思います。
―全学連の再建、所謂「第2次全学連の再建」への最大のきっかけは「六全協」になると思いますが、小島さんはどのような反応をされたのですか。
■今は共産党が強くないから分かりづらいけど、当時は大学に入る過程でみな正義感に燃えていました。日本にこんなに貧乏人が大勢いたら駄目だというので、マルクスの『共産党宣言』等を読んで共感して、共産党こそ理想の社会を築く政党だと思って入ったわけです。そうしたら、途端に「六全協」になって、これはひどいところに入ったなと思いました(笑)。中国の文化大革命前後もそうだと思うけど、「六全協」まで共産党は武力で日本を解放しようとしていたのです。だから山村工作隊や中核自衛隊をやっていたわけです。当時の共産党っていうのはほとんど地下にもぐって裏でいろんなことやっていました。列車襲撃だとか…、その後の赤軍派みたいなもんだね。ピストルで人殺したりというのがずいぶんありました。僕はそんなこと知らないで共産党に入りました。それで、「六全協」でみんなが反省するんです。
―反省というのは?
■たとえば僕もびっくりしたことがあったんですが、宮本顕治以下幹部がいて、もちろん春日(正一)もいて、これまで指示してきた幹部がいるところで、30過ぎくらいの女性の党員が涙流すんです。その人の旦那は共産党員で地下工作をやっていて、普段人目に付かないところで活動していたんだけど、時々奥さんのところにやってきたようで…。その奥さんの話だと結局3回妊娠して、3回ともおろしたと言うんです。しかも、党の命令でやったというんです。
―どうしてですか。
■革命家にとって子供はいらない、っていうことでしょう。それでとうとう子供が産めなくなってしまった。そしてその女性が泣きながら訴えるんだよ、幹部の前で。私は日本共産党のために子供が産めない身体になりました、って。僕らはその時あまりよく意味が分からなかった。旦那が悪いんじゃないかと思ったりして。とにかく共産党にとってみれば革命が近いから、今で言うアフガニスタンの若者のように命がけでやってたわけですよ。ヒューマニズムを尊重する政党かなと思ってたけど、これはえらいところに入っちゃったなと思いました。

 その当時、森田とか島とかは東大の学生としてものすごく強烈な意見をはいていました。幹部はみんな反省しろといって。全学連の活動家はたいがい共産党とイコールと思われているけど、全学連というのは共産党の中でも異分子でした。島も森田も。だから全学連の幹部は共産党に対して強烈な追及を始めるわけです。東大の連中はえらく元気がいいなと思った一方で、随分ひどい政党があるもんだな、とも思いました。それで、当時、私は森田とか島とか生田とか、そういう連中に共感して、こういうことをちゃんと言うやつがいるんだと分かって、逆に共産党もまんざらじゃないと思いました。みんな当時は共産党員でしたからね。僕らは党内で自由にものを言っていたんです。後で除名されるわけですけど。
―第一次全学連が事実上崩壊して、当時書記局があった金助町(文京区本郷)にほとんど誰もいないような状態になります。ただ「六全協」の反動で、55年暮れから56年にかけて各大学のリーダーが再建していくと諸々の文献にあります。
■僕は最初文学部自治会の委員長としてやりました。全学連の執行委員になったのはその功績があったからではないですかね。当時、森田や島や香山の方針に沿って明大の中で一番積極的にやっていましたから。教育二法案、小選挙区制、授業料値上げの反対闘争なんかをやっていたと思います。明大文学部に春の闘争のストライキをぶち込んでやったんです。後にも先にもそれしかしませんでしたけどね(笑)。それで、「あの野郎元気があるな」と思われて、中央執行委員にされたのでしょうね。
―明治大学の同僚は?
■土屋君なんかはそうです。彼は明大全体の自治会委員長をやっていました。当時は法学部、政経、文学部、商学部、経営学部、工学部なんかがあって、それらの自治会が集まって、中心が土屋源太郎でした。彼は塩川(喜信)君が委員長やる時に全学連の書記長になりました。臨時大会で香山が辞める時。
―明治大学の他には、森田さん、島さん、生田さん、中村さん、古賀さんも東大です。つまり東大がかなり強かったわけでしょうか。
■人数が多かったからね。
―早稲田は?
―■東大・早稲田は双璧です。あとは京大とか立命館とか。それらの大学で教育問題に対して授業放棄、ストライキをやりました。それで全学連の運動が復活したみたいな感じじです。その次に教育とか学校の問題ではなく、政治問題としての砂川が出てきた。それで、横の連絡が広がりました。あの頃は、日比谷公会堂とか(日比谷)公園とかで集会やデモをやりましたが、その音頭を取ったのは全学連です。全学連が学生運動として復活したのは56年の春からです。
―金助町の全学連書記局再興の中心にいたのは、当時共産党員だった島さんや森田さんだったと言われていますが。
■その前の50年問題で、共産党が二派に分かれた時に、宮本顕治以下国際派にいたのが島です。
▲(註3)安東仁兵衛も国際派です。森田や生田はそのあとになります。余談になるけれども、上田耕一郎に聞いた話だと、生田は地下の仕事をしていて上田を査問したらしいんだ。彼は火炎瓶事件の時は裏の方の責任者をやっていて、上田を苛め抜いたらしいんだよ。生田はそういう恐ろしい方の共産党にも関わっていて、「六全協」になったら、今度は、そうじゃない方の全学連に来て、両方やったんです。その後、彼は東大を卒業してペンシルバニア大学に行くんです。そこでは台湾政府代表の羅福全(ラー・フクゼン)と一緒でした。ラーさんに聞くと、「俺が2、3年かかったドクターをあいつは1年で取ったんだ」と。すごく優秀だったらしい。彼は66年にアメリカでアパートの火事に巻き込まれて死んでしまうんですが。彼は伝説の人なんです。ペン大出た日銀の市川君曰く「ペン(シルバニア)大学では日本人で一番優秀だったのが生田だ」と未だに語り継がれているらしいよ。代議士の柳沢伯夫は生田と高等学校がすれ違いなんですよ。彼が静岡高校に入った時、「生田っていうのはものすごい優秀な先輩だった」と言われたらしいです。彼とは5つ以上違うから、高校では会ってないけど。社会科学研究会の中では伝説的な人物なんです。人間早く死ぬと伝説が残りましてね。
―上田さんは年齢的にかなり上ですね。生田さんは…。
■33年2月生まれです。東大の駒場にいる時に、担当は中野区だったようです。その時に上田はやられたんだね。
―彼の方が年配にも関わらず。
■生田は若くて元気がよかったから。拷問までは行かないけど、多分それに近いことやったんじゃないかな。
 註2 彼らの当時の略歴は次の通り。
森田実  東大工学部、全学連平和部長、全学連中央執行委員。
島成郎 東大医学部、全学連中央執行委員、ブント書記長。
生田浩二 東大経済学部、全学連中央執行委員。
小野寺正臣 東大文学部、57年第10回大会で選出された全学連書記長。
古賀康正 東大農学部、全学連中央執行委員。
香山健一 東大経済学部、55年の第8回大会で副委員長となる。56年第9回大会において全学連委員長。
牧衷 東大、56年第9回大会で選出された全学連副委員長。
星宮煥生 立命館大、56年第9回大会選出の全学連副委員長。
高野秀夫 早大、56年第9回大会で選出された全学連書記長。
佐伯秀光
(筆名・山口一理)
東大理学部、全学連中央執行委員。
 『60年安保 6人の証言』同時代社
 同時代社のホームページは、http://www.doujidaisya.co.jp/






(私論.私見)