東大全共闘とバブル以後の時代状況
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’67年から始まって'69年に終焉していった学生の運動体がありました。全共闘運動と呼ばれるものです。東京大学医学部の学生に対する処分の中に一人あらぬ嫌疑を掛けられた学生が含まれていたために、そのことに対する抗議行動から始まって全学を巻き込んだ運動体へと発展していったもののことです。それは東大安田講堂の前にテントを張って数名の学生が抗議の為に寝泊まりし始めたことから始まりました。そしてこの動きが全学に広がり全学共闘会議(全共闘)が結成されたのでした。この運動体が最も盛んになっていた時期に大学で学生生活を送っていた人々の多くが、後に「団塊の世代」と呼ばれるようになった年代の人たちでした。この世代は戦後日本の民主主義教育を受けた第一世代でもありました。
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当時は’61年から73年にアメリカとの戦闘が続き'75年にサイゴン陥落で修了することになった三百万人のベトナム人と五万八千人のアメリカ兵が死亡した冷戦時代最大の戦争であるベトナム戦争(ちなみに第二次世界大戦時のアメリカ人兵士の死者数は四十万人、世界全体での死者数は五千五百万人だそうです)たけなわの時期であり、アメリカからの委託研究を行うこと自体が何らかの形で戦争に荷担することであり、ベトナム戦争は冷戦構造下の米ソ両大国のつばぜり合いから生まれるドミノ理論(世界の国々が次々と共産主義化して行く)であるというアメリカ側の認識に対して、全共闘の中ではベトナム戦争を民族の独立戦争ととらえていました
(2002年6月にはアメリカが初めてベトナム戦争に向き合ったとされる映画”ワンス・アンド・フォーエバー”が上映されていましたが、フランス軍を北ベトナムが撃退したあとにアメリカが戦争を開始した最初の戦闘の映画です。しかしこれではアメリカ軍を遙かに上回る犠牲者を出しながらも戦争としては北ベトナムの勝利に終わった十一年間に及ぶかつてのベトナム戦争の全貌を明確に知ることができないように思われます。なぜならベトナムとアメリカとのこの最初の戦闘はアメリカ勝利のものですし、アメリカが敗北したことは映画の最後の方で北ベトナムの指揮官がそれとなく戦争の結末の予感を述べる言葉でしかほのめかされてはいないからです。
アメリカの事実上の敗北に終わった戦争であるということは、映画の最後に映し出されてくる当時の戦死者の名前を刻んだワシントンにある石のプレートと共に言葉で明確に述べられたかというと、そのようなエンデイングになっているわけではありません。それ以外にもベトナム戦争を題材にした映画にはコッポラー監督の「地獄の黙示録」などがあります。)
従ってアメリカからの委託研究を行うことはベトナムの独立にも抗することになるため、当時の東大生たちは自分たちが東大に所属する学生でありながら「我々は東大生であることを拒否する」という対応をとりました。いわゆる「自己否定の論理」と言うものです。 |
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それは当時の東大生たちが「社会内存在としての自己の在り様」を自ら問いただして行く過程で生み出した一つの理念でした。 行政の立場でベトナム戦争に具体的に反対して立ち上がったのは72年にアメリカの戦車搬送を百日間に渡って阻止した横浜市の飛鳥田一雄市長くらいでしょうか。国の要職にあった人物で具体的に反戦として立ち上がった人はいなかったと思います。
そして学生達の主張の中には後に環境問題という名称に変化していった公害問題なども含まれていました。駿河湾の製紙工場から出される廃液がヘドロになって堆積している問題に対して教授が雑誌で「自然の浄化能力の範囲内にあるもの」とする企業や行政に有利な内容の論文を掲載したことなどに対して都市工学の学生達が抗議の声を上げたのです。すなわち異議申し立てをしたのです。
公害問題は石牟礼道子さんなどが小説で取り上げた水俣病の問題などがすでに広く知られてもいました。 水俣病は1956年に発病が確認され、それが工場排水に含まれる有機水銀が原因で起こることが政府によって認められたのは1968年でした。それ以外にも東京都内などでは大気汚染の問題が深刻になっていました。ちなみに光化学スモッグの被害者数は70年が一万七千人、71年四万八千人、72年二万人、73年三万人、74年一万五千人、76年四万七千人ほどでそれが大きく減少したのは80年代に入ってからでした。このデータは2002年7月28日の読売新聞朝刊に載っています。
また学生運動が沈静化したすぐ後には東大校内の教室を開放して宇井純氏が市民に向けて公開講座を主催し、そこでの模様は『公害原論』という本にまとめられたりした時代でした。産業社会が生みだしている弊害が大きくなり始め、そのことを問題にするだけの下地が十分に日本社会の中に存在していたのです。 |
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それは日本経済の急成長すなわち日本経済の成功の陰の部分であったわけです。そして当時のアメリカでは、「先進国では学生は反乱を起こさない」というのが通説でしたが、アメリカでもフランスでもそして日本でもその通説を覆す出来事が起きたていたのです。
当時の大学の存在を「ユニバーシテイではなくマルチバーシテイ」として表現する考え方もでてきていました。大学が社会の片隅で人知れず行動して研究教育活動をしている時代とは違い、大学自体が社会に大きな影響力を持った存在になっていることを指摘した意見です。
そのような時代の中で全共闘運動は起きていたのです。そしてその運動体は組織という体裁よりも理念の運動体としての色彩が強いものでした。なぜなら資金的な裏付けがほとんどなかったにもかかわらず当時の多くの学生に大きな影響力を持ち、全国の大学の中で百六十九大学もの大学が一斉休校にならざるを得ないほどのものでもありました。いわゆるステューデント・パワーが吹き荒れたわけです。
別名「髭の総長」と呼ばれた東大全共闘議長の山本義隆(2001年時点で60歳)さんは『知性の叛乱』という本を当時出版されその後で『大学解体』にまで行き着いていましたが、その運動体が収束に向かう時点では最近亡くなられた江藤淳さんが『夜の紅茶』というエッセー集の中で「ごっこの世界が終わるとき」と言う表題で当時の学生運動を批判しました。言葉が言葉として理解されるような社会状況でなかった当時の日本の体制の下で学生達が実力行使をしたことを批判したのですが、彼が自殺される前にはオウム真理教と全共闘とを引き合いに出して、「浅薄な[正義]を断固として排す」と言う帯のついた『国家とはなにか』という本を出版されました。
本の帯の言葉は普通著者自身ではなく出版社が用意する場合が多いですが、ここではその本の内容を端的に示す言葉として受け取らせてもらうことにします。その中で全共闘運動もオウム真理教もごっこであり、戦後の日本人も全員国民ごっこをさせられていたのだと述べています。 |
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では思慮深い日本の知識人や政治家あるいは官僚や一般のサラリーマンの人たちは、ベトナム戦争当時にはベトナム戦争に対して何を考え何を言葉として吐き、どう行動していたというのでしょうか。アメリカ自身はベトナム戦争を「正義の戦争」としていました。また全共闘運動とオウムとは比較的に若い世代が引き起こした出来事であるとは言っても本質が全く異なるものです。ましてや国民全員が全共闘運動を行っていたわけでもありません。
全共闘運動は当時の多くの学生に影響を与えたとはいっても日本全体からすればあくまで少数派です。二千六年二月二十日の朝日新聞朝刊に載った『私の[団塊]流:言論』の中で、上野千鶴子さんによれば「私たち世代にとって[大学解体]を叫んだ大学闘争は非常に大きな出来事でした。ただし人口学的に考えてみると、私と同年齢(千九百四十八年生まれ)の人達の四年制大学への進学率は十三%、女性に至ってはわずか五%で、人口の約九割は大学へ行っていない。その上全共闘はシンパも入れて約二割、アンチ全共闘が約二割、残りの大学生の六割はノンポリだったから、大学闘争は世代のマジョリテイを巻き込んでいないと言う点を押さえておく必要があります。」と述べています。二人に一人が大学生と言われる二千年代の日本とはかなりの隔たりがあったというのも事実です。
しかも全共闘は運動体ではあっても組織としては非常に脆弱なものです。心理的な共感だけが主なよりどころであり資金的な裏付けがないからです。そしてまた、そのような行動をとることが金銭的な利益につながるというものでもありませんでしたし、そのような行動を採った後で金銭的利益が期待できたり社会的な地位が得られると言うことを望めるようなものでもありませんでした。
そのためヘルメットを被って行動していたいわゆる過激学生に大きな影響を与えていた評論家の吉本隆明氏は全共闘運動のことを「全共闘はあぶくだ」とどこかの新聞紙上で述べていたと記憶しています。
吉本隆明氏までがそんなことを言うのかと私は思ったので記憶しているのです。そのような行動をとらなかった人たち、あるいはその時代以後のバブル経済さなかの人たちは計算高い人間になっていました。その計算高さはバブル崩壊後においても変わらぬことなのではないのでしょうか・・。 |
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確かに全共闘運動はそれまでの日本の趨勢を根本から問い直しはしましたがその趨勢そのものを変えるだけの力は持ち得ませんでした。『その時歴史が動いた』という訳ではなく『その時歴史は動かなかった』のです。しかしその二十年後には従来から変更されることなく続いていた日本経済自体が、その持てる資金力と組織力の総力を傾けて作り出したあぶくの経済すなわちバブル経済を迎えそして崩壊して行きました。
バブル経済崩壊で失われた日本の資産総額は二千一年時点では一千三百三十兆円、内訳は土地が八百十八兆円、株式が五百十二兆円です。金融不祥事や金融破綻それに伴う金融不安そしてオウム真理教によるサリン事件、雪印乳業や日本ハムの牛肉詐欺事件、三菱商事のODAなどの不正事件、東京電力の原子力発電所のトラブルの隠蔽など有名企業あるいは優良企業とされてきた企業の様々な問題の噴出やその前後には大蔵省の不祥事そして外務省の問題、武富士の盗聴事件、三菱自動車のリコール隠し、NHK職員の使い込み、UFJ銀行の金融庁にたいする検査妨害や三井物産の排ガス浄化装置のデータねつ造、西武鉄道の堤義明会長の有価証券虚偽記載また道路公団の各大手企業を含む談合事件など全てバブル経済崩壊以後の出来事です。
バブル経済崩壊後には、有名企業や一流企業とされる会社のお偉い方達がテレビカメラの前で頭を下げる光景が日常的に見られると言っても良いほどになりました。不祥事を起こしても頭を下げたがらないのは政治家だけかも知れないと思える気分になるほどです。
そして全共闘運動のあぶくがはじけた後には言葉すなわち理念が残されましたが、わずか四年そこそこしか続かなかった日本のバブル経済がはじけた後には巨額の不良債権と経済の落ち込みに対する経済対策費の支出による国・地方あわせて二千年時点で六百四十五兆円の財政赤字すなわち赤ん坊まで含めて日本人一人あたりかれこれ六百四十五万円に上る借金が残りました。夫婦二人子供二人の日本の標準家庭と呼ばれる世帯にとっては家のローンがあった場合にはそのローン以外にさらに二千五百八十万円の借金が上積みされるわけです。
日本の財政は少なくとも九十一年までは黒字の範囲にありましたが、九十三年から赤字化したのです。 しかも先に記したようにバブル崩壊によって資産が失われ、その額は一人あたり千三百三十万円ほどの損失になります。失われた資産と公共部門の借金を合わせれば一人あたりかれこれ二千万円にもなります。日本人は金持ちなので「そんな金ははした金だ」というのなら、私なんかはそのお金を恵んでもらいたいくらいです。私も五百円あるいは千円ほどの金を募金に寄付したからと言って恩着せがましい顔をしたいとも思いませんし、また五百円程度のお金を恵んでもらっても恩着せがましい顔はされたくもないですが、私は公的な権限があるわけでも全くなくお金を恵んでくれた人にその見返りとして何をどうしてあげられる力もない人間なので処罰される心配はないということで、 一人あたり二千万円を優に超えるお金となれば喜んで恵んでもらってあげることでしょう。ただそんな人間にお金を与えようとする人などは皆無だろうとは思いますが。
二千二年時点では赤字債権の額はさらに増えて六百九十三兆円になっています。そして先の六百四十五兆円という数字は国・地方合わせてのものですが、二千三年時点では国だけで六百四十三兆円
、二千四年六月時点では国の財政赤字だけで七百二十九兆二千二百八十一億円、国の赤字国債の利払いだけでも三十六兆五千九百億円の財政赤字の状態になってしまっています。 |
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二千年時点近辺での日本の世帯あたりの預貯金額は平均で八百万円~九百万円とされますが、個人的に幾分かのお金を貯めて預金通帳の数字を眺めて喜んでだけいられるのでしょうか。個人的に貯めたお金以上の借金が公的部門で生まれ出てしまっているというのであれば、その借金を自分の預貯金から差し引きして考えなければならなく
なる場合とてもあります。
昔、私が予備校生だったときに通っていた予備校の国語の教師は「君たちは、預金通帳を眺めてにこにこ夫婦で寝床の中で笑っているような人間にはなるな」といっていたことを覚えていますが、預貯金はないよりあった方がよいと思うのは誰しもだとしても、たとえ預金が幾ばくかあったとしてもそれだけでにこにこしてばかりはいられないというわけです。個人的なあるいは家族的な幸せだけに安住してしまう生き方は全共闘運動の中では「小市民的」といわれて軽蔑されてもいましたが、二千年時点で小市民的な幸せに浸っていたくとも、公的部門で作り出されてしまっている大きな借金のことは気にせずにいられるというものでも無いように私には思えてきます。
私は「小市民的な幸せを求めることはくだらないことだ」と、かつての運動体の中にあった価値観を押しつけるつもりはないのですが、現実問題として小市民的な幸せを追求することも危うい状態になってきているのではないのだろうかと思うのです。「団塊の世代は拝金主義だ」と述べる本を書く人も二千五年時点では存在し始めましたが、戦前生まれの人で敗戦後の二十世紀の間の戦後とよべる時代も生きてきた世代を含めて、戦後の日本の中の各世代を特徴づけるものとして「清貧の生活を守り通した」世代はあるのでしょうか? 清貧の生活をしていたとしても、消費生活を切りつめることで出費を減らし一生懸命貯蓄に励んでいたとしたらそれは拝金主義でないといえもしないことでしょう。戦後を生きた各世代で拝金主義ではなかった世代はあったといえるのでしょうか? 団塊の世代以外の世代は誰もが皆オカネに対する執着がきわめて薄い身綺麗な人々ばかりであったとでもいえるというのでしょうか? 団塊の世代だけが拝金主義者で日本人の他の世代の人々は全てオカネに対する執着心がきわめて薄く「団塊の世代の方ですか。団塊の世代の方達は皆拝金主義者だそうですから、どうぞオカネは好きなだけ持って行ってくださっていいですよ。」という気前のいい人たちばかりで、
気前よくオカネを団塊の世代に渡したら日本に存在するオカネの大半は団塊の世代の所にばかりにもっぱら滞留することになるので、団塊の世代の人たちの多くはみんな富豪になっていてもよいはずです。
なぜなら団塊の世代はその他の世代に比べて頭数が多いのが特徴ではあっても、日本の総人口に占める団塊の世代の割合は5.3%にすぎないからです。全体の5.3%だけでしかない団塊の世代のところに日本のオカネの
三~五割もが集まっていたりしたら団塊の世代は富豪になり得ます。そしてもしそれが現実だったとしたら、団塊の世代の端くれである私も富豪になれていたのかも知れません。
しかし私にとってそれは夢のまた夢で、あり得ないなのが現実です。団塊の世代が富豪でないのなら拝金主義と呼ばれた団塊の世代からすれば、団塊の世代を取り巻く他の世代が上も下も守銭奴だから富豪になれなかったのだと言うことになるわけですし、日本の大富豪と言われる人たちや高額納税者の中には団塊の世代ばかりが目白押しで圧倒的な割合を占めるといえるのかどうかです。六本木ヒルズの住人の大半が団塊の世代だというのなら団塊の世代は拝金主義者だとの言い分にも幾分の真実味も生まれてくるといえるのでしょうが・・・。そのようなことを示す資料やデータが存在するのかどうかと言うことでもあります。
しかしそういうにはほど遠い出来事が数限りなく起きています。また、株主に頭を下げる企業経営者や消費者である顧客に頭を下げる従業員なども拝金主義となるわけです。資本主義社会ではオカネを出す人に頭を下げるのは一応のルールであるはずですが、どうなのでしょうか?オカネを払う人に頭も下げず「ありがとうございます」とも言わずにオカネをもらってやっていける仕事は「武家の商法」だけですから。
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そして現実の経済を知るために個々の日本人全員がいやでも支払わなければならない授業料すなわちバブル経済崩壊後において公的部門でできている借金は意識するしないに関わらず一人あたり平均六百万円以上になります。この授業料は日本人にとっては安いものであったのかあるいは高くついた授業料だったのでしょうか。しかもその国・地方の借金の額は二千二年時点では八百兆円に増えています。小さなところで少々の得をしているつもりでいても、大きなところで損をしてしまえばどうにもならないのです。しかも日本人全員にこれだけの費用を負担する意志があったのなら、少なくとも日本人全員が自分が本来取得したであろう教育水準とは別に経済学の学士号かあるいは修士号を取得できたことでしょう。村上龍氏の『あの金でなにが買えたか』をもじって言えば「この金でなにができたか」といったところです。
そして大方の日本人にとってはテレビで見ているだけで済んだあるいはテレビで眺めて論評だけしていれば済んだ全共闘運動のあぶくとその後の経済のあぶくとではどちらのあぶくが日本人自身にとってより有益なものだったのでしょうか?すなわちどちらの方が多くの日本人にとってましなあぶくであったと思えるのかと言うことです。少なくとも、経済のあぶくであるバブル経済の崩壊はテレビのニュース解説を聞き流しているだけでは済まず、またテレビのニュースを論評しているだけでは済まず日本人全員の生活に陰に陽に影響してくるものであろうと思います。陰にとは行政サービスの削減や廃止、陽にとは増税という方法によってです。 |
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また全共闘が資金的な裏付けのないまま行動した運動体であったのとは対照的にオウムは資金源を確保するためにさまざまな工夫をし、組織として生き延びる術を駆使しています。組織としては脆弱だった全共闘は三百人程度の籠城学生に対して延べ八千五百人の機動隊投入という三日間に渡って繰り広げられた東大安田講堂の攻防戦で幕を閉じ現在は全共闘なるものは日本の社会には存在していません。安田講堂に籠城しても食糧の備蓄は三日分しかなかったのですから、また人質を取って立てこもっていたわけでもないのですから長く持ちこたえること自体無理なことでした。
日本の社会に全共闘が存在していたのは正味二~三年くらいのものです。それは全共闘が理念の運動体であり組織ではなかったからです。従ってその運動体を組織がかりでつぶしにかかれば鎮圧できることはほぼ明らかです。当時は自民党佐藤政権でしたがアメリカとの間で沖縄返還を控えていた時期であったために日本国内の反米左翼勢力とおぼしきものはどんな理由があってもとにかく潰しておかなければならないという事情もあったといえるでしょう。沖縄を返還する必要があると考えられたのもベトナム戦争に対してアメリカの爆撃機が沖縄から発進する事に対する学生達の激しい反対運動があり、そのままでは保守政権の佐藤内閣が持たないと判断したライシャワー駐日大使が本国に沖縄返還を働きかけたことによる部分もあると言えるでしょう。また当時の全共闘運動は大学解体や既成の権威の打破を掲げて行動しましたが当時の日本社会は高度経済成長の成功によって敗戦による自信喪失から自信を回復しかけていた時期なのでその主張はあえなく力で封じ込まれました。
日本の高度成長期が終止符を打ったのは七十三年の第一次オイルショックによってだからです。全共闘運動が起きていた頃はまだ日本の高度成長時代が続いていたわけです。しかしバブル経済崩壊以後の日本の状況は既成の権威や大組織の失態が組織規模でも個人レベルでも起きてきているので、既成の権威を打破しようとする勢力が存在しなくとも権威とされてきたものあるいは定評のあった組織自体が自己崩壊の瀬戸際にあるといえる状況です。
経団連の元会長を送り出した企業も経団連の副会長や理事を送り出している企業も不祥事にまみれてしまったのです。狂牛病の発生で牛肉や鶏肉の偽装で日本の最大手の企業も不祥事を起こすまでになりました。 |
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私は二千年時点近辺において再び体制打破を唱えるような運動を若い世代が起こすように呼びかけようというつもりはありませんしそのような考えで書いているわけでもありません。すなわち我々の世代の若かかりし時代の姿をもう一度若い世代に再現してもらいたいなどという気持ちはないのです。また我々世代がもう一度青春時代を取り戻すために同じような行動に出ようじゃないかという意味で書いているわけでもありません。しかしそれらを再評価することでこれからの日本の社会や組織というものの考え方や行動がこれまでとは幾分かでも変わったものになって行くことを願って書いているのです。
私は当時の学生運動の言動が全て正しかったと正当化するつもりはありませんが、聞くべきものまた考えるべきことは幾分かはあっただろうと思っています。そして組織としての力を持ち得なかったが故に全共闘運動は消え去る運命をたどりました。しかしそれは現在から考えると全共闘が理念の運動体であり組織ではなかったが故にたどり得た幸運な運命だったかも知れないとも私は思います。
また一般の書店では販売されず地下鉄の売店などでしか購入できない『WEDGE』と言う雑誌の二千年五月号には「安保・全共闘に次ぐ若者[第三の反乱]」と言う見出しで若者達の間に広がるNGO(非政府組織)ブームが記事にされています。そのような道を選択肢の一つにしている若者自身にとって六十年の安保世代やその十年後の全共闘世代と自分たちを類比させて記事にされることが喜んで受け入れてもらえるものなのかどうかを私は知りませんが、少なくとも私にとってはオウム真理教と全共闘運動とを類比させる考えよりもまだ納得のできる記述だと思います。
NGOの代表的なものには国境なき医師団や自然保護あるいは難民救済あるいは教育関係そしてまた地雷除去などのさまざまな団体が数多く生まれています。単一の国家という枠組みだけでは対処しきれない問題が世界の中に生まれ出ている状況の中で積極的に世界に関わっていこうとする意思の表れだろうと私には思えますが、これまでの経済社会を担っていた既存の組織ではない場所に自分の人生の場を選ぼうとする動きは、これまでの既成の社会に身を置いてきていた人間の目には「反乱」として映るのかも知れません。
全共闘の運動が激しかった頃にはフランスでも五月革命と呼ばれる学生運動が激しさを増していました。現代経済社会が生み出しているひずみに抗議する運動でしたが、政府や企業が作り出してしまう経済的なひずみなどをフォローしアフターケアーする部分が必要だったわけです。NGOはそのような意味で現在そしてこれからの民主主義、市場経済、グローバリゼーション、IT革命という四つを柱とする世界(これは読売新聞二千年・七月九日朝刊の「地球を読む」で、行天豊雄さんが述べている二十一世紀の世界を構成する重要な要素というものを借用させていただきました。)で構成される世界秩序の中の問題点に現代社会の中で疎外された者達の側から行動する者達なのかも知れません。そしてNGOの活動の有力な手段がこれまたインターネットであるというわけです。確かに全共闘以後三十年を経てまた新しい動きが出始めているという記事の内容と行天豊雄さんのNGOに対する位置付けなどは私にも興味のあるものです。 |
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全共闘運動は激しい運動でもありましたが、現実の日本を変えて行く力になりえたのかと問われればその成果には乏しかったと言わざるを得ないかも知れません。ただその意義が再び見直されそうな気配になってきたのは同じく三十年後の二千年時点になってからのことだと思います。時代の推移の中での全共闘運動についての歴史的な再評価は過去の時点において日本政府や多くの日本人が下した評価と全く同じ評価のままでよいといえるのかどうかが私からの問題提起なのです。現時点から考えたときにはその評価も当時とは違ってくるのではないのかというのが私の考えです。
二千一年二月五日号の雑誌『AERA』には、「[団塊はずし]企業で始まる」という記事が掲載されています。横並び意識の強い団塊の世代 (昭和二十二年から二十四年すなわち千九百四十七年から四十九年にかけて生まれた七百二十八万人という飛び抜けて頭数が多い世代)の必要性が失せて、六十代の企業トップ達が五十代前半の団塊の世代を飛ばして四十代に企業経営のトップの座を譲ろうとしていることを書いた記事です。
「団塊の世代」という言葉自体が堺屋太一氏が千九百七十六年に出版した小説『団塊の世代』として生み出したものであり (したがって堺屋太一さんは団塊の世代のゴットファーザーすなわち[名付け親]です。)「団塊の世代がなにもいわずにそれをそのまま受け入れているのはなぜなのか」と藤本義一氏が指摘していますが、私からあえていうなら、「全共闘世代」でもいいですし、アメリカでその年代の人間を呼び慣わしている「ベビーブーマーの世代」でもいいと思います。あるいは「戦争を知らない子供達」の世代でもいいかもしれません。それらの中でもっとも的確に我々世代の特徴を表現しているものは「ベビーブーマー」だと私は思っています。
なぜなら第二次大戦が終わって戦地から引き上げてきた帰還兵達が子作りに励んだ結果他の世代に比べて頭数が非常に多いからです。 平成十五年度版『文部科学白書』によれば千九百四十六年生まれが百九十三万人なのに対し次の年の四十七年は五十万人以上増えて二百四十九万人、四十八年が二百四十三万人、四十九年が二百三十六万人で、それが五十年になると二十万人以上減って二百十三万人へと低下します。
団塊の世代を千九百四十六年~千九百四十九年生まれまでとする考えもありますが、それで計算すると団塊の世代の総数は九百二十一万人に上ります。したがってネーミングとしては「団塊の世代」という呼び方よりも「ベビーブーマー」の方が優れたものだと私は思
うのです。
そして学生時代の千九百七十二年の第一次強制収容の時に三里塚の成田闘争 (成田闘争はベトナム戦争の激化によってアメリカ軍の死傷者を日本に空輸するために羽田空港を使うことの上で、それでなくても過密になっている日本の羽田空港の限界を感じていた政府が急遽成田に国際空港を作る計画を打ち出したことから始まりました。成田に空港を作るという話が出てから
一週間か一ヶ月か記憶が曖昧になっていますが非常に短期間で閣議決定がなされ実施に移されたとかですので、これでは地元に対して十分な説明と話し合いの時間が与えられていたとは到底言えるものではありませんでした。
そのため地元住民の農民達は反対運動を始めたわけです。それでなくとも三里塚は戦後の復員者や失業者対策として政府が入植者を募って開墾させ、やっと優良な農地にまで仕上げて農業で生活が出来るようになったという歴史のあるところです。そのような人達にとって今度は「空港を建設するから出て行け」と頭ごなしにしかも力ずく言われるのは農民にとってははあまりにも理不尽だと感じられたことでしょう。日本の大手企業の社長の一人は「農民が保守的なのは成田で反対運動をしている事を見ればわかる」とテレビで述べてもいましたが、では当時の政府は極めて民主的な手続きを採ったといえるのかと言えば、「御上みの言うことには黙って従え」という態度であったことは明らかです。
東京大学の元総長が座長になって政府・空港公団と農民との間で話し合いの場が持てるようになったのは政府と反対派農民との対立が三十年にも及んだ後になってからなのです。少なくとも話し合いの方向へ方針が変更をされたのは、機動隊を導入して反対派を鎮圧している最中の空港開港直前の七十八年三月に管制塔が襲撃される事件が起きてから以降のことであり、実際に話し合いの場が持たれたのはその後十三年も経ってからのことでした。政府は方針を決め農民が反対し始めると即機動隊を導入して力でつぶしにかかったがために、三里塚の問題はこじれにこじれる結果になったといえる部分もあると思います。
後に空港公団は理事長が反対派農民達の家へ如何にも苦々しいといった表情を浮かべて謝罪して回りましたが、であるなら現地で実力行使を行っていた千葉県警や東京の警視庁などからも反対派だった農家の人達に何か一言あっても良いものと私などは思います。)などに参加し た(空港建設反対で三里塚へ行き私を含め二十人ほどの学生達が反対の座り込みをしていると前面から空港公団が手配したブルドーザーが脅しをかけて迫ってきたりしました。別にそこが工事箇所というわけでもないところにです。両サイドと後ろはジュラルミンの盾を持った機動隊が包囲していて我々丸腰の学生達は動くことの出来ないような配置になっていました。また私を含む数名の仲間は反対派の農家に宿泊させてもらって農家のお母さんには一宿一飯の恩義を受けたのですが、反対運動を支援するためにやってきていた女子学生達が中で寝泊まりしているテントを早朝に機動隊がごつい革のブーツのような靴でテントごと踏みつぶして壊したりもしていました。そのためテントの中で寝ていた女子大生が「人殺し~ッ!」と叫んだりもしたのです。
しかしこの程度のことはむしろ野試合のような牧歌的で平和的なもので、たぶん一時強制収容後だろうと思いますがブルドーザーに向かって火炎瓶が投げつけられたり第二次強制収容の時には学生と機動隊との衝突で警官隊に死者が出たりもしました。ですが様々な反体制運動と体制とのぶつかり合いの中で自殺したり、また社会人になってから学生時代にそのような行動を取ったがためにマークされて自殺に追い込まれていったりした人もかなりいたことを忘れてほしくはないと私は思います。またブルドーザーに火炎瓶が投げつけられたりする映像はテレビで流されることはあっても、何も持たないヘルメットをかぶって座り込んで抗議しているだけの反対派の学生達に脅しでブルドーザーが迫ってくるところや女子学生が寝泊まりしているテントが機動隊によって踏みつぶされてゆく様子などがテレビには映し出されることはないのです。機動隊とてテレビカメラが回っているところでは自分たちの行動の正当性に疑問が持たれるような行為は避けるわけです。
反対派農民と学生達との連携が強まり成田空港反対の抵抗運動がしぶといものになってきたために政府は農民と学生とを分断するための成田新法も作りましたが抵抗運動は下火になることにはなりませんでした。私も現地の反対派農家の人から「学生の協力がなかったらここまでの反対運動をすることは出来なかった」との言葉を聞きました。私が成田に行った折には反対派農家の小学生の子供達が空港反対のビラなどを支援の学生達に配っている姿も当たり前に見られました。反対派の農家にとっては反対運動は家族総出で行うものだったのです。機動隊は派遣命令で動くことが職業ですが、反対運動をしている農民は反対運動をすることが職業ではなくそれだけ余計な負担も負わねばならない立場におかれます。また反対運動に参加していた学生達もそれが職業であったわけでもありません。
二千八年九月二十六日には誕生したばかりの麻生内閣の閣僚である国土交通省の中山大臣が「(成田で反対している人は)ごね得というか、戦後教育が悪かったのだと思いますが、公のためにはある程度は自分を犠牲にしてでもというのがなくて、自分さえよければと言う、そういう風潮の中で、なかなか空港拡張も出来なかった」と述べたとされ批判にさらされて発言を撤回し次の選挙への出馬も取りやめました。
それほど戦後教育や道徳教育に反対している日教組が問題だというのなら、一介の市井人になってから三里塚の農民達がしていたように自分の子供や孫まで動員して自費で日教組批判のビラ撒きでも街頭でやればいいのではないでしょうか。右翼団体の構成員の人達なら支援してくれるかも知れません。ただ、暴力団傘下の下部組織になったりもしている右翼団体の人達が社会的道徳心をよくわきまえた人達かどうかまでは私にはわかりませんが・・・。しかし戦後教育が問題だというにしても空港建設に最初に反対の声を上げ始めた農家の人達は先にも書いたように戦地からの引き揚げ者達などですから戦後教育を受けた人達でも日教組の教員による指導を受けた世代の人達でもありませんでした。
第一次強制収容の時点ではたぶん三十五歳~六十代の人達が家の主や女将さんであったはずです。戦後教育の第一世代と呼ばれる団塊の世代は二千八年時点では五十九歳~六十一歳になっていますが当時はまだやっと二十代の前半になったばかりでしかなかったからです。戦後教育の中で育ちながら戦時中の価値観をそのまま戦後に持ち越してきていた団塊の世代の一人が懸賞論文の内容を問題とされて二千八年に政府から解任された自衛隊の田母神空幕長と言えるでしょう。また、ごね得目当てだけで自分の人生のうちの生産年齢のほとんどにも当たる三十年もの時間を割いて自分の本来の仕事のほかに反政府の意思表示を掲げて機動隊にマークされながら闘い続けることが果たして出来ると言えるでしょうか。テレビCMでは二十四時間闘っているとされる日本のサラリーマンの人達にでもそんなことが可能かどうかを聞いてみればいいことです。
そして当時の三里塚では賛成派・条件付き賛成派・反対派の三つに分かれ、賛成派に属していたのは主に大規模農家でした。大規模農家はむしろ少数であると考えることが妥当でしょう。一般の社会でも大金持ちの数の方が中・低所得者の数よりも遙かに少ないからですが、それらの人達はホテル経営などに転身し、また賛成派の子供達は機動隊に雇われたりしたのですから「村はどうなっても政府の意向に従って自分さえよければ」と行動していたのはむしろ賛成派の方だったとも言えます。すなわち「政府に取っついて自分だけいい目を見よう」というわけです。ならば賛成派の人達の行動も戦後教育の弊害と言えるでしょう。ただ当時の賛成派も反対派と同じく戦後教育を受けた時代の人だったわけではありませんが・・・・。日教組の教員から教育を受けた訳ではなかった人達でもそういう行動を取ったというわけです。
中山大臣は東大卒で二千八年時点で六十五歳です。当時の学生運動の東大全共闘議長だった山本義隆さんは二千八年時点では六十七歳であることを加味して考えると、自分の生まれる前のことあるいは物心がつくかつかないかの頃の出来事だったので詳しいことは知らなかったというのならまだ許されるものですが、自分が若かった頃にすでに起きて来ていたマスコミも何度も報道した大きな出来事であり、また自分が過ごしていた時代の歴史的経緯であるので十分知ることが出来た世代ですし、国土交通相などの任にも就くまでになる人でありながら知らなかったと言うのではあまりにもひどい話だというのが私の感想てす。
そしてその当時の子供達よりさらにずっと若いとはいえ反対運動を手伝ってビラをまいていた側の小学生の一人であったかも知れない成田問題をテーマに住民運動などを研究している一橋大学の社会学の大学院生の相川陽一さんも二千八年五月二十二日にNHKの首都圏ニュースに出ていましたが、もう三十歳と紹介されていました。良い研究成果を上げてくれることを願っています。
成田闘争の)帰りの地下鉄の電車の中でヘルメットを持っていたためにサラリーマン達から罵声を浴びせられた経験のある私は(かつて私を罵倒した私よりも年上のサラリーマンの人たちと現在活躍している私よりも年齢的に若いサラリーマンに人たちとで、体質的にどれだけサラリーマンと言われる人たちは変わったのだろうかと思うことは時々あります)、その時点で日本のサラリーマン社会を見限り、祖父母も両親も共働きのサラリーマンの家庭で育ちはしても私自身はサラリーマンになることを拒否していて、では自分をどうするかの態度留保のためにその後三年ほど大学に残ったりした人間なので企業組織のトップが団塊の世代飛ばしをしてトップの座を四十代の人に一気に若返らせようという話はどうでもいいことなのですが、また年功序列の制度の中であったからこそトップ経営者になってきた六十代の経営者が、時代の変化の中で年功序列が崩れたからという理由もあって四十代にトップの座を与えるという意志決定をするのもおかしなものとも思えますが、その記事に関連して堺屋太一さん(65)が、「団塊の世代は、生まれた時から社会の流れに従順に育った。高度成長期には新入社員として、省エネルギーや環境対策が求められたときには熱心な社員として社会の要請に順応した。学園紛争も、それはそれで時代の要請だったといえるだろう。」と述べています。
しかし学園紛争が時代の要請だったとするなら、なぜその時点で力で潰されなければならなかったのでしょうか? そして堺屋太一さんは力で潰すことに反対の立場を表明していたのでしょうか?むしろ千九百七十年の大阪万博の開催準備の方の仕事で忙しかったのではと思います。また時代の要請だったというなら、それをつぶしにかかった側の人達は時代に逆行していたとも言えるのではないのでしょうか?当時は反体制あるいは少なくとも体制に従順ではないという事を表現する髪型であった長髪(現在で言えばロンゲ)にしているだけでNHKの紅白歌合戦には出場が許されない時代でした。当時人気のあったGS(グループサウンズ)やフォークグループのメンバーの中には長髪の人たちが多数いました(ただし、当時は長髪にしていた人でも現在では髪が薄くなってしまって、長髪にしたくともそれが今ではままならない人も中にはいますが・・・)。体制に必ずしも従順ではないことを意思表示をしていたビートルズが長髪だったことの影響が大きかったかも知れません。ビートルズの"Power to the people(人民に力を)"という歌などは、資本主義社会においては左翼思想と言われてもいい歌でもありました。反体制の意味合いがあった当時の長髪は「戦争を知らない子供たち」という歌の中で「髪が長いと許されないなら~」という歌詞にもなりました。 |
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ビートルズが登場した頃は彼らは本国のイギリスにおいてさえ「リバプールの汚らしい五人組」と言われていて、世界中の多くの人々に認められ日本の音楽の教科書や英語の教科書に載るようになったのはジョン・レノンがマーク・チャップマンに暗殺された後のことです。
(余談ですが、ビートルズの『アビー・ロード』というアルバムがあります。私はその中の最後に収録されているカム・トゲザーが一番好きなのですが、そのジャケットにはビートルズのメンバー達が横断歩道を渡ろうとしている写真が載っています。その横断歩道には今では日本でも当たり前になっている白い何本もの帯が路面に書かれているのですが、このアルバムが発売されたころの日本にはそのような横断歩道はありませんでした。
むしろ日本ではヘレン・ケラー財団の資金で作り始められたという視覚障害者のための歩道のボツボツである点字ブロックの方が先に普及し始めていました。アビー・ロードは千九百六十九年にアルバムが製作されたようですが、私が述べているのは千九百七十年代初めのころの日本のことです。また、ビートルズの日本公演の折には右翼団体は街宣車を出して「日本文化を堕落させる」と抗議の意思表示をしてはいましたが、街宣車を乗り回すのが好きな右翼は横断歩道などの表示がなされ始めることに対しては抗議行動はしませんでした。
千九百六十年代と言っても六十年代の中盤頃は日本ではまだ道路がそれほど整備されておらず、私が住んでいる平塚にある上下一車線の旧国道一号線は古くから舗装されていましたが、上下二車線の現在の国道一号線になっている道路などは当時は土がむき出しの未舗装の道路でした。六十年代にはは東京が一度ひどい大渇水に見舞われたことがあり、水を運ぶ自衛隊のタンク車が夏の暑い時期にホコホコになっているその道路を土埃を舞あげながら東京方面に向かうのを目にもしました。私は高校生でしたが、高校の英語教師が視察でヨーロッパへ行ってきた土産話として「ヨーロッパでは道路が舗装されていてほこりが立たないから靴磨きがいない」と授業で話をしたことが印象に残っています。しかし道路が舗装された現在でも細かい土埃のようなものが嫌でも私の家の中には入ってくるので、果たしてその話は本当なのだろうかなどと今になって思います。
ですが道路事情が悪かった当時の日本では納得してしまうような話ではあったのです。ですからビートルズのアルバムの横断歩道のマークを初めて見た時には「このマークはなんだろう??」と驚いたので私の印象に残っているのです。アビー・ロードが発売された当時は私は大学生でした。)
ビートルズが千九百六十六年に日本を訪れてコンサートを行った時点でその会場であった武道館に行く高校生などは不良呼ばわりされかねないものでした。そのため当時のフィルムでは、若者達は会場にはいるところを撮影されるときに顔を団扇などで隠して入場する風景も残っているくらいです。自分が会場へ行っていたことが学校などにバレたりしたらまずい立場になってしまうからでした。最悪の場合は退学処分です。千九百六十五年には非行防止のためという理由でエレキギターは禁止になったりもしました。
しかし全共闘運動当時の若者達すなわち男子大学生達などは大勢長髪にして反体制のスタイルにしたので理髪店が儲からなくなったと言われるほど長髪が一世を風靡しました。学生達にとっても長髪の方が髪を伸ばし放題にでき床屋代がかからなかったので好都合だった部分もあるかも知れません。銭湯で頭を洗うときの石鹸がちょっと余分にかかるくらいの経済的負担で済みましたし、現在のように洗髪用のヘヤー・シャンプーも学生達には一般的でない時代でした。歌謡曲の『神田川』の中に「洗い髪が芯まで冷えて 小さな石けんかたかた鳴った~」と歌われているそんな時代だったのです。それは当時の学生達にはそれほどカネはなかったからです。
北朝鮮のテレビ番組では長髪はブルジョア的だと批判の対象になっているようですが、資本主義の日本の反体制の学生たちは別にブルジョアではなかったのです。北朝鮮においても北朝鮮の体制が勧める髪型に従順ではない髪型として長髪が批判の対象になっているようです。私も長髪にしていましたし、現在でも長目に髪をカットしてもらったりしています。そして現在でもロンゲの人や茶髪の人などはいますがそれはファッションでその髪型に強い政治的なメッセージや政治的意味合いがあるとは現在では思えません。
団塊の世代が学生時代すなわち青春時代を送っていた千九百六十年代後半における時点では日本の見合い結婚と恋愛結婚の割合が逆転し始めました。恋愛結婚が勢いを増してきたのです。それまで主流だった見合い結婚が恋愛結婚とクロスしその後見合い結婚は減少し続け恋愛結婚の割合が増加し続けて今日に至っているのです(NHK放送大学2007年6月10日「比較文化研究」より)。
東大安田講堂での三島由紀夫と全共闘の討論でも「三島さんはお見合いでしょ?」と学生が質問したりしています。当時の学生達が大勢寄り集まっていた新宿西口のフォークゲリラの歌の中にも見合い結婚の前世代をからかうような「親が勧めるから結婚したの~ おゝ!人生は悩みよ楽しくはないは恋なんかしない間に老けちゃうわ~」というものもありました。そのため恋愛結婚した人が多くいる団塊世代の夫婦は「友達夫婦」とも呼ばれるのかも知れません。団塊の世代の青春時代も日本社会の一つの時代の変わり目だったと言えます。
また二千四年五月二十一日の読売新聞夕刊には、国民生活白書が竹中平蔵経済財政・金融大臣から政府に提出され、その中でNPOの活動の広がりに対し「知識や経験を持つ[団塊の世代]らが退職後に地域で活動する事を奨励していると有ります。その記事に付随するグラフでは、団塊の世代が含まれる五十歳から五十九歳の年代が「今後参加したい」「現在参加している」という割合が他の世代よりも高くなっていることが示されています。「団塊の世代はもういらん」と企業が言うかと思えば、「定年後も団塊の世代は社会に貢献して欲しい」と政府は言い出したりします。団塊の世代を含む年代は人から言われなくても社会意識は他の年代に比べて決して低い世代でもありません。団塊の世代はとかくあれこれ言われますが、期待も大きいのかも知れません。ですがもう、定年退職した後になってまで政府や企業の号令に踊らされる必要もないので、個々人が個々人の意思で自分なりにやりたいことをしていればいい年齢に十分なっているとも思います。すなわち自分で判断し行動できる人間になっているということです。団塊の世代は知識も経験もあると言われますが、団塊の世代から言えば「こうまでいいように言われるなら、退職後くらいは自分のいいように生きよう」と言うことにもなります。そしてその時々の情勢でこうまで便利に扱われると言うことも団塊の世代の新たなる経験の一つに加味されるのかも知れません。
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そして団塊の世代以前の年代の文化人達の当時の全共闘などの学生運動に対する物言いに共通するのは、一つのキーワードによって性質や目指す方向性が全く異なるものをごちゃ混ぜにして同じものであるかのように語ろうとすることです。まるで燃えるゴミと燃えないゴミそれにプラスチックゴミを同じゴミ袋に詰めて捨てるようなもので、そんなことをすれば人から苦情が出るはずなのに「ゴミはゴミだから」と言っているようなものです。
そのような言説を多くの日本の文化人と言われる人々はこれまで振りまいてきました。なぜ反逆したものと体制に従ったものが同じ性質の人たちだといえるのでしょうか。過激派とか呼ばれた学生達が従順でなかったからこそ機動隊を導入せざるを得なかったはずです。従順な人の所には大勢の機動隊員が装甲車に乗ってジュラルミンの盾やら催涙銃やらを持ってやってきたりはしないはずです。団塊の世代が省エネルギーや環境のために働いたのは、それは従順である方がよかったと私は思います。逆らう理由はないからです。しかし企業のトップ経営者が贈収賄事件などを起こしても、その企業の従業員達が経営陣に抗議して会社に立てこもって機動隊に会社のビルが包囲されたり、放水や催涙弾が撃ち込まれたりすることはこれまで全くありませんでした。そのような過激な行動にでないまでも、そのような場合においても従順であることには疑問がもたれるとは思います。経営陣に対して抗議の意志を従業員がはっきりと示してもよいはずだからです。また自らがそのような組織の一員であることを自らに問うことは可能なはずです。
そのような意味では団塊の世代が体制に従順であるというよりも、日本の企業自体が体制に従順な存在であるといった方がよいのかもしれません。あるいは日本人全体が性格的には従順なのかもしれません。少なくとも政府の方針などに激しい抗議行動をしたのは六十年安保の全学連と七十年安保を前にした全共闘運動だけでしかないとも言えるからです。
六十年安保闘争以前には総資本対総労働の対決と言われた三井三池闘争もありましたが、それは反政府の運動ではありませんでした。それ以前もそれ以後も、余り目立った反政府運動など日本では起きていません。そして学生運動時代には体格も良く訓練も行き届いていた機動隊の方が性格的には素直で当時の政権(政府)すなわち自民党政権の意向や大学当局の要請に従順に従って行動していた人たちだったはずです。
すなわち全共闘運動に加わった学生達は命令に従ったと言うよりも言い分に共感したからこそ行動を起こしたので、上からの命令や指示で行動していた機動隊組織の人たちとは訳が違ったのです。当然の事ながら社命で動いている企業組織の企業マン達とも全く異なるのです。 |
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「団塊の世代は横並びで個性がない」といっても、個性をもろに出し自分たちの言い分を大学当局や政府にぶつけて行動した人たちまでをもノンポリといわれた政治的無関心層である人たちとごちゃ混ぜにして同じものだといってしまえば、全部の人たちに個性が無くなるのも当然のことでしょう。反逆した人間も従順に体制に従った人間も同じものだというのなら戦時中には羽振りよく振る舞えた軍属も、軍部に弾圧されて惨憺たる憂き目を見させられた自由主義者も共産主義者もまた宗教者も同じものであるということにもなります。
しかしそれら各人たちがたどらされた運命は非常に異なっています。学生運動を行った人間もノンポリの学生も同じもののように語られていても、実際にそれらの学生達の日本社会の中での処遇のされ方は非常に異なっていたのが現実です。団塊の世代には個性がないというのは個性の違いや言い分の違い、それから生まれ出る行動の違いを見極める目を評価している側の人たちが持ち合わせていないだけのことです。
ベトナム戦争に反対した学生達と日米最終戦争を唱えたオウム真理教とをなぜに同じもののように語れるのかと言うことでもあります。すなわち枯れ葉剤というダイオキシンが含まれた物質が散布されてもいた戦争に反対した者とダイオキシンの散布をも計画していたオウムの行動とを何故に同じものと呼べるのかと言うことです。
日米最終戦争という時代錯誤の話を持ち出していたが故にオウムはアメリカから毒ガス攻撃を受けているという自作自演の作り話で行動をとらざるを得ませんでしたが、ベトナム戦争は全共闘や反戦活動家の作り話ではなくアメリカが実際に戦闘行動を行ってい戦争だったのです。反戦論と好戦論を同じものにできるならどのような違いも同じものだと言うことになってしまいます。そして団塊の世代を語る上で反逆した人間と従順に従った人間を同じもののように堺屋氏は語っているのです。
「やった人間もなにもしなかった人間も同じものとして評価するのではなく、やった人間はやった人間、やらなかった人間はやらなかった人間として異なった評価をはっきりとするようにしよう」というのがこれからの企業社会が行おうとしている「実績評価」だと思いますが、日本の団塊の世代以前の年代の文化人の方々の評価の仕方にはそれが感じられません。反体制の人間として行動した者は行動した者、行動しなかった者は行動しなかった者としてはっきり評価を分ければいいだけです。団塊の世代飛ばしをして若返りを図ろうとしている六十代の企業のトップ経営者までもがこのようなはっきりとしない評価の目しか持っていないとするなら、それはどんな社員評価や人選に結果としてなるのでしょうか。大江健三郎さんのノーベル賞受賞記念講演の題名である『 あいまいな日本の私』という気分に企業マン達も陥るのではないでしょうか。
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二千一年時点では六十代の人達が国のトップ指導者や東京都知事になっています。森喜郎首相が六十三歳、森政権退陣後の総裁選の四人のメンバーで橋本龍太郎元首相が同じ六十三歳、亀井静香氏六十四歳、麻生太郎氏六十歳で唯一例外の小泉純一郎氏が五十九歳、石原慎太郎東京都知事が六十八歳などです。そして団塊の世代以前の年代の文化人達のこのような物言いは江藤淳氏(存命であれば五木寛之氏と同じ69歳)然り、五木寛之氏(69)然り、そして堺屋太一氏(66)然りです。そして藤本義一氏(68)となります。付随的に書けば吉本隆明氏は77歳
、三島由紀夫氏が存命であれば76歳、同じく司馬遼太郎氏78歳、後藤田正晴氏86歳と言ったところです。 また政府の政策決定に大きな影響力を持つ日本経団連会長の奥田氏は69歳です。ベビーブーマーの世代は文化人達が原稿料稼ぎのネタにするのには頭数も多いので格好の対象とされる世代なのかもしれません。
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二千一年一月二十九日の『毎日新聞』朝刊には次期東大総長の佐々木毅氏の記事が載っています。日本の停滞の原因として「習慣とは政治に対する態度。この習慣の面で日本人が変わってしまった。直接的に政治に関わることをしない。デモやストライキがいつの間にか消えた。政治家からすれば警報装置が無くなった。だから永田町の中、国会の中だけでことが済んでしまう。........日常的な国民と政治の意志疎通が無くなった。残ったのは陳情と圧力団体だけ。異議申し立て型の国民の意思表示が四半世紀ほど無い。」これがその記事の一部です。
全共闘運動のような激しい形での異議申し立ても機動隊導入という形で封じ込められ、そのような異議申し立てをしたところで制裁を受けるだけで歴史的にはまともに再評価されるわけでもないというのであれば、誰もそのような割が合わない損な役回りをあえて引き受けようと思わなくなるのは当然の結果だと思います。それはかつてそのような時代において異議申し立てを行った人々を日本の社会がどのように処遇してきていたか、また事後的にもどのような再評価をしてきていたのかにも大いに関係があることだと思います。
またもし「現在は異議申し立てを行う学生がいなくなった」といわれて学生達が再び異議申し立ての行動を起こしたときには、大学はかつてのように機動隊の手に学生達を引き渡すことによってそれらの学生を鎮圧することはないということを保証するとでもいうのでしょうか。その保証もないところで迂闊に異議申し立ての行動でもとれば大学側に学生達がはめられるだけのことになります。
そして機動隊に仕事を作ってあげるだけです。
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そして二千一年時点でも東京都内では部落問題の小規模のデモの光景も見られますが、その場合においても警察の警備は一般社会人のデモ隊列の部分よりも学生のデモ隊列の部分には厳しい警備の仕方をしています。六十年代末の頃の学生達のデモの時には機動隊とのもっと激しいぶつかり合いが頻繁にありました。それに比べればその後のデモは非常におとなしいものではあります。 そして二千一年時点での東京の光景は学生達や市民のデモよりも右翼団体の街宣活動の方が活発な様相を呈しています。その光景はかつて学生達のデモ隊が東京の街のあちこちを埋め尽くしていたのとは様変わりです。団塊の世代よりも 四~六才若い世代の作家の村上龍氏も「全共闘運動の姿を見て政治には距離を置いて見るようになった」と 『サンデー毎日』二千年十月一日号の対談の中で述べています。
すなわち全共闘運動の顛末を目にした後の世代の人間はもっと利口になったというわけです。そして利口な人間ばかりになってしまったが為に政治状況や社会情勢が停滞してしまったというのであれば、それは大方の日本人がそのような選択をしそのような評価をこれまで下してきていたが故の結果なので致し方のないことでもあるでしょう。又そのような選択を大方の日本人が採るのなら衰退の方も自分のこととして受け入れればよいだけのことです。少なくともそれは、当時において抗議の声を上げて立ち上がったり全共闘運動の中に参加していった学生側の責任ではないはずのものだと思います。そうでありながら二千一年時点において「異議申し立て型のデモやストライキが無くなってしまった」といってみても、そのような行動は過去に於いて力で排除された歴史が日本にはあるのだという事実を排除した側の人間がまず認めるべきでしょう。すなわち佐々木毅氏がこれから着任しようとする東京大学の 総長という地位に当時あった「太った豚になるより痩せたソクラテスになれ」という名言で知られる大河内一男総長が機動隊の導入を決めたと言うことをです。 |
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当時もかなりの数の日本の若者達が変えようとしても変わることがない日本に見切りをつけて海外へと脱出して行きました。それは「シラケドリ~ シラケドリ~ 南の空へ
飛んで行く~ みじめ みじめ」という囃子歌にまでなりました。確かに全共闘運動に参加した学生達も、その運動が鎮圧される姿を目の当たりにしたシラケの世代にとっても、幾分惨めさがあったことは事実だろうと思います。「なぜ自分たちはかくなる者であるのか」という意識があったからです。当然その裏には「なぜ日本はかくなるものであるのか」という問いもあったと思います。そしてまた二千一年時点においては再び日本に見切りをつけて海外へ移住しようという若者向けの記事などが雑誌に見受けられる状況になっています。日本国内にいたのでは自分の将来に期待がもてず展望ももてないという状況の現れの一端だとも思えます。
実際に私が教えた生徒の一人は「俺みたいな人間や先生みたいな人は日本にいたってしょうがないよ」といわれたことがあります。 彼はいつかイギリスへ渡ってみたいとのことでした。日本に変化を求め日本を変えようとしてきた人々がことごとく悲哀をなめさせられるという経験を戦後の日本は何度かたどり、そうでなかった人間が優遇されてきていたという日本の現状は多くの人たちが目の当たりにしてきていたからです。二千一年三月時点では第二次森内閣に対して野党が提出した不信任案などが連立与党の数の力で否決されてはいますが、そしてそのような動きの中で自民党の加藤紘一氏達も執行部の意向に従わない行動をとって自民党執行部からの報復人事という制裁を受けていますが、またその様子はあたかもかつての学生運動が当時政権の座にあった自民党政権による機動隊導入でつぶされて行く姿にも似て見えますが、敵対勢力や対抗勢力をひとまず潰したとしても、では与党は自分たちをどうしてゆくのかということになると立ち往生の状態だといえます。変更を求める勢力を否定し封じ込んでも、ではなにをどうするのかが見えてこないのです。
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二千一年二月二十一日の毎日新聞夕刊には「有罪判決から二十八年:反戦デモ参加五十歳男性職員公判中に郵便局採用」という見出しで、当時のベトナム反戦デモに参加し逮捕されて公判中に郵便局職員になっていた男性が公判中の身であることを承知の上で当時の上司が採用したにもかかわらず二十八年後に神奈川県の藤沢郵便局から解雇されたという記事が載っています。それまでに支払われてきた給料の返還は求めないものの退職金はゼロだとのことです。全共闘議長だった山本義隆さんの『知性の叛乱』の中の言葉で言えば「この弾圧を見よ!」といったところです。
このことに対する裁判の最終的な結果は失職したのが妥当という最高裁の判決が確定したと二千七年十二月十三日の朝日新聞夕刊に記事が載りましたが、ベトナム戦争の当事国であったアメリカにおいてベトナム戦争の徴兵を拒否して三年間の投獄を余儀なくされたヘビー級ボクサーのムハマド・アリはその後無罪とされたことを考えれば、日本のこの判決には私は疑問を感じます。裁判で有罪とされたといっても裁判所が出せる判決は公務執行妨害に対してのものであり(当時の機動隊と学生のデモ隊との間では、機動隊がジュラルミンの盾を学生に押しつけてきてこづいたり学生の革靴の上から盾の縁で足をたたいたりして、それに対してジュラルミンの盾を腕や手で押し返しただけで公務執行妨害で逮捕されることもあったのです)、ベトナム戦争そのものに対する見解や判断を裁判所が出せるはずのものでもないし最高裁が実際にベトナム戦争の是非にまで踏み込んで判断したという訳でもないと思います。
すなわち日本の裁判所は日本と同盟関係にあったドイツは自国のナチスを自国の法廷で裁いたのとは違い戦時中の軍部の中枢にいた人間を自国で裁くことができなかったのと同じように時代をも裁けるわけではないのです。
ドイツは戦後になっても旧ナチスの残党狩りを自らの力で行っても来ていました。日本は戦時中の軍部を自ら裁けずアメリカの行った東京裁判にそれを委ねたからです。すなわち体制に反した自由主義者は制裁を加えられても、そのような体制を運営していた支配層を日本人は自分たちで裁くことができなかったのです。
日本国内ではアメリカが行った東京裁判にいろいろな評価の仕方をしたりしていますが、あれほどの大きな被害が自分にも及んでくるような政策判断の誤りを行った旧軍部をなぜ自分で裁こうとしなかったのでしょうか?そして東京裁判に疑問を唱える日本人の人たちから見て、ではフセイン大統領を裁く裁判と「その裁判はアメリカの意向が反映されていて正当性を持っていない」と主張するフセイン元イラク大統領の姿をどのように考えるのでしょうか?日本が自らの指導者の過ちを裁けなかったのはバブル経済による経営責任を銀行経営者や政策担当者に負わせることができなかった日本の姿に通じています。
時代に異を唱えた者を罰することはできても時代を動かしてまちがいを起こした支配層の人間を日本の社会は自分では裁く力がないのです。少なくとも全共闘は「力は正義だ」とも「数は正義だ」とも言っていたわけではないのです。なぜなら結果的にはベトナム戦争がアメリカの歴史上アメリカが初めて対外的に敗れる戦争であったといっても、全共闘は日本国内では力で封じ込まれましたし数の点では少数派だからです。そして当時の学生達は時代に対して行動していたのです。従って時代を裁く力はない裁判所が時代に対して行動した人間に対してその行動面のみを裁いて見せているだけのことです。
アメリカ国内ではベトナム戦争終結以後「NAM」と言うだけで多くのアメリカ国民は口を閉ざして余り語りたがらない話題であったと言われます。それと同じように日本人の多くは学生運動のことをあれこれあげつらって話題にすることはあってもベトナム戦争それ自体に関しては多くを語ろうともせず、その戦争の最中の自分たちの立場については口を閉ざしたままです。全共闘運動と言われる学生運動を論評した政治家や多くの文化人と言われる人々もまた巷で学生運動に批判的であった人々にもそれは共通していることです。多くの日本人にとってもベトナム戦争を語ることはタブーになっているのではないのでしょうか?日本の文化人の人達は学生運動だけを取り出して語る事はしても
冷戦構造やベトナム戦争またその戦争に対する当時の日本政府のスタンスから話を説き起こして当時の学生運動へと話を言及させた人はいないからです。
二千年の9.11テロの後から開始されたテロとの戦いで、アフガン侵攻直後から始まった大量破壊兵器を問題にした誤報に基づくイラク戦争が始まりそれが第2のベトナム戦争のような様相になって泥沼化し始めている二千七年初めの時点では、日本国内ではアメリカに対するさしたる過激とも思われるような抗議行動も起きていないのでイラク戦争やその後の占領政策そしてそれらに対する日本政府の対応などを含めたイラク情勢それ自体を語らざるを得ないことでもあります。抗議行動でもすれば、またぞろそのような人達だけを話題にしてイラク情勢自体に対して語らずに済ますというベトナム戦争時において多くの日本の文化人や知識人達が使った誤魔化しの手口も使えるからです。なぜならベトナム戦争が起きていたからベトナム反戦などの学生運動が燃えさかったのであり、アメリカや日本で学生運動が激しかったからベトナム戦争が起きたというわけではないからです。まあ、イラク戦争に対しては激しい反対運動も日本国内では起きていないので、イラク情勢がどうであれ四十年近く経ってしまった時点でも学生運動のことはあれこれ取り上げて論じてはいても当時のベトナム戦争を語らなかった日本の多くの知識人や文化人そして日本人は日本国内ではそれほど大きな反対運動が起きていない国際間の戦争すなわちイラク戦争から占領統治にいたるイラク情勢に対しては言及してみようとする気もないし言及するつもりもないし語ることも出来ないだけなのかも知れませんが・・・。
逆に言えば国際情勢などには関心を払っていない人達が学生運動のことばかりをあげつらって語っていただけのことなのかも知れません。ベトナム戦争時には日本は沖縄返還の問題がまず前提にありましたが、イラク戦争とその後の時点では北朝鮮の日本人拉致問題を抱えていて日本政府はどうしてもアメリカの協力を得なければならない事情があります。かつての時代とこの時点での事情はよく似ているとも言えるでしょう。どちらの場合においても日本としてはアメリカの軍事的な展開に対する懸念を強くは言い出せない条件があるわけです。一年間に千七百万人以上もの日本人が海外渡航する時代になっていながらイラク情勢などの国際情勢に対して無頓着なのはどういう事なのかと私には思えますが、六十四年に始まった日本の海外渡航の自由化とはいっても東大安田講堂の攻防戦があった翌年の千九百七十年の海外渡航者数は年間百万人にもとどいていないような時代でした。そしてイラク戦争は中東という日本からは地理的には遠い場所の出来事ですが、ベトナム戦争はアジアでも日本の近くでの出来事でもありました。 |
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二十八年もたっていても日本の社会の対応はこのようなものでしかないという事実を見れば従順に体制に従っていた方が身の安全とささやかながらでも金銭的な利益と幸せにありつくことができるという気分に人々はなり、そのような気分は日本全体に蔓延していたことなのではないのでしょうか。これ以外にも、当時学生運動に参加してその後大企業に就職した人の中には何十年間にもわたって当時のことをいっさい口に出さずに隠れキリシタンのようにして過ごしている人もいるということです。全共闘運動時点の出来事だけでなくそれ以後に起きてきているこれらの情報を見聞きすれば、人々はもっと利口になっ てゆくことでしょう。人々がもっと利口な選択をして行くことが後々の日本の社会にとって賢明な選択であったと事後的に評価できる結果をもたらすものであるかどうかは別にしてもです。
ピーター・タスカ氏が彼の著書の中でギリシャ悲劇の言葉を引用しながら「[運命こそが性格だ]という言葉は[性格こそが運命だ]ともいえる」と述べていますが、まさしく日本人の性格がそのようなものになったのでそのような運命を日本の社会がたどったともいえると思います。
政治意識やあるいは社会意識がもっとも高かった部分あるいは行動は過激ではあったが非常に良心的で自分たちの明示した主張と自分たちの行動との間にはっきりとした関連性があった人々を日本の社会は力で排除し傍流に追いやり社会の表舞台からは葬り去って遠ざけてしまったからです。反逆した人間達の全てがこの時点の日本の表面で顔をちらつかせている訳ではないからです。
山本義隆東大全共闘議長などはマスコミの取材をいっさい拒否という姿勢を貫いています。彼は当時東大大学院博士課程に在籍する物理学徒でした。すなわち、政治家を志すわけでもない人間にとってはなまじ政治や社会問題に関心などもって政府の意向に反発したり反抗したりする行動などはしない方が身の安全だ、あるいは個人などはいくら突き飛ばしてもかまわないが自分が所属している組織の意向には逆らわない方が自分の身にとっては安全なことだということになったと思います。すなわち個人としての意識をすべて社会やそのときの体制や組織の意向にコミットさせてしまった方が個人の人生にとっては無難で安全な道なのです。個の意識を幾分か犠牲にしても、組織や体制の意向には反せずに生きていった方が自分の一生にとっての損得からすればその方が得が多いという例が実際に数多く存在しているからです。反逆したが故に得をした人などほとんどいないのも事実です。反逆したことが評価されて出世のスピードが格段に早かった人が身の回りにいるかどうかを皆さんが自分で確認していただければ分かることだと思います。企業は反逆した人間達を優先的に採用したなどと言うことではないですし、四十年近く経っても「学生運動をしておきながらサラリーマンになんかなった連中だから・・・」とテレビの前で言ってはばからない団塊の世代よりも若い世代の評論家である宮崎哲弥氏のような人もいるわけです。
学生運動をするような人間はサラリーマン社会などには入ってくるべきではないと言ったこのような発想は当時の学生達よりも年齢的に上の世代のサラリーマン達の多くが持っていた当時のサラリーマン社会の大勢となっていた考え方でもありました。学生運動の世代よりも年上のサラリーマン達と宮崎哲弥氏との間には二十年以上の時間差すなわちひょっとしたら四半世紀かそれ以上もの年齢差があるはずですが、以前の時代の考えをそのままコピーしたような考えの人間が時間を超えて単純再生産されているだけのようにも見えてきます。少なくともベトナム戦争もまたその戦争の結末がどのようなものだったかもすでに我々の知るところになっているにもかかわらず宮崎哲弥氏には全く関係がないようです。 |
当時の運動体の中に参加してもその後職業人として変節していった人たちもいるのは確かなことでしょう。しかしそれらの人がある程度の役職に就いたとしても、それはかつてその人がそのような反逆の行動をとったことが評価されてのものでもないはずです。というのも全共闘運動などは事業化や職業化できないものですし
、また事業化・職業化しない方がよいものだからです。もしそうでないならキューバ革命を成功させたチェ・ゲバラのようなプロの革命家にならなければならないと不可能です。チェ・ゲバラを含めて十二人で始まったキューバ革命が成功して、そのメンバーであったカストロ議長は政権のトップにたちましたがキューバの経済担当大臣になったチェ・ゲバラはその役職を捨て革命家としての道を選んで命を落とした訳です。
ボリビアの山中で遺体となってチェ・ゲバラは発見されたと記憶しています。そしてそれ以外の道といえば「革命は素人がやんだよ」といって結成された日本赤軍のような道しかないと思います。 |
冷戦構造の世界のまっただ中で起きていた、そして当時は異端視されていた日本の全共闘運動あるいは新左翼運動とも呼ばれた運動体の自己否定の論理という言葉と同じ言葉が、冷戦終結後のかれこれ当時から三十年以上経った時点でアメリカの超大企業の会長や大前研一氏だけでなく他の日本の大企業経営者達の口からも聞かれるようになってきたのには興味を覚えますが、社会を変化させるには革命を起こすべきなのか改良するのがよいのかという議論もかつてありました。
資本主義社会は改良主義の道をたどってきたと思うのですが、その改良主義が生み出したのが「情報技術革命」という社会であるのは皮肉なことともいえます。確かに情報化社会はこれまでの社会を大きく変える可能性を持っていますが、それが「革命」なのかあるいは「改良」なのかはもう少し後にならないとその評価を下すことはできないのかもしれません。そして全共闘運動以前から日本に存在していた組織は二千一年時点でも生き延びて現存してはいますが、組織としては弱体だった全共闘とはいったい現時点の日本にとってどんな意味を持ってくるのかと言うことでもあるのです。
全共闘運動の頃の日本の首相は自民党の佐藤栄作氏でしたが、彼が平和裏に沖縄という領土返還を実現させたことが評価されてノーベル平和賞を受賞したことについて海外から「ベトナム戦争に肩入れした佐藤栄作にノーベル平和賞を与えたことはノーベル平和賞の歴史における最大の汚点だった」という指摘が二千一年九月に出されました。沖縄返還の交渉相手であったアメリカのニクソン大統領との共同受賞ではなく佐藤栄作氏の単独受賞でもありましたが、戦後世界の日本社会の中で正統とされていた者と異端とされていた者が入れ替わりそうな指摘といえます。社会の価値観が大きく転換して行く時代には、それまで正統とされていた価値観が異端になり、異端とされていた価値観が正統なものになって行くことも良くあります。戦時中の日本の軍国主義全盛の時代には異端であった自由主義は戦後の日本に於いては正統な価値観へと入れ替わりました(戦犯とされて後に戦後政治に大きく関与した人物は何人かいますが、その人々が戦時中には自由主義者でなかったことは明らかですが・・・。戦時中に自由主義を掲げていた人たちは軍部によって惨憺たる羽目におかれ、戦後政治に影響力を与える地位にはつきがたい状態にされていたと言っていいでしょう)。
強い者勝ちの経済構成だった財閥や大地主も、財閥解体と農地開放という改革を迫られもしました。税制も累進課税のシャープ税制を取り入れました。すなわちそれまでの日本国内の
大きな経済的格差をある程度是正し各産業や個人の経済力を平準化して日本の戦後は始まったのです。これらは時代の価値観が大きく転換した実例です。これらの改革とも相まって生まれた戦後の民需品を重点にした大衆化社会の経済活動は、戦時中よりもまた戦前よりももっと活発なものであったことは大方の日本人ばかりでなく諸外国の人々にも認めてもらえると思います。 |
しかし全共闘運動は高度経済成長の時代が進行している最中にバブル経済は日本経済が中成長の時代の中で生まれ出ていた問題だったのです。全共闘運動はその時代の中の一瞬で消え去りはしましたが、既存の経済主体は戦後といわれる時代を生き延び、その問題が吹き出したのはバブル経済崩壊以後のことでした。戦後型日本経済が制度的にも経営面でも行き詰まり状態を迎える中で日本経済にも再び大きな価値転換の時機が到来してきたといえるわけです。
そのような時機に於いて、戦後世界の中では異端とされた全共闘が唱えた自己否定という言葉が、バブル崩壊以後の経済苦境にある日本の中で再び耳にされることが私には興味深いということです。そのような理由があればこそここに私はあえて過去となった全共闘運動のことを記すわけであり、さもなければ日本のある時期の出来事、あるいは私にとっては重要であった過去の出来事の記憶という事くらいの意味しか私がここに書き留める理由はないと思っています。
戦後といわれる二十世紀の時代の中で我々日本人は、次の時代にもつなげて行くことのできる普遍性を持ったどんな新しい価値観や理念を生み出していたのでしょうか。それは戦後体制が行き詰まりを見せたからと言う理由で、戦前や戦時中の思想や理念にただ回帰しさえすれば解決できるものだとも思えません。戦後といわれる二十世紀の間を、それらのことは一切何も考えずに戦後のスタート時点に形成された価値観や理念の下でひたすら経済的な発展だけを求めて生きてこられたとしたら、既存社会に生きてきていた人たちはそのことを幸せなことだったと思うべきだろうと考えます。
そして全共闘運動の学生たちのことを語ったあるいは批判的に語ってもいた日本の文化人たちの中で、ベトナム戦争それ自体へも言及した人は皆無です。すなわち江藤淳氏・吉本隆明氏・五木寛之氏・堺屋太一氏・司馬遼太郎氏・三島由紀夫氏などの各氏です。ましてや 『東大落城』を書き機動隊の指揮官であった佐々淳行氏(二千一年時点で71歳)、その上に位置していた後藤田正晴氏(二千一年時点で87歳)などがベトナム戦争に対してコメントや自己の見解を述べているわけではありません。 それらの人たちがベトナム戦争を語らず学生運動のことだけを語れていたとするなら、 ずいぶん気楽なものだと私には思えます。 |
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では、翻って日本の既存の組織の現状はどうでしょうか?バブル経済に大きな役割を果たした銀行が、バブル経済が破綻して以後、「かくなる事態を招いた状況の中で、我々銀行員は他産業の従業員より高い給料をもらうことを拒否する」とでも言ったのでしょうか。
二千八年九月二十八日の讀賣新聞朝刊では「千九百九十四年度の銀行員・一人当たりの平均給料・手当は長期信用銀行が一千万円、都市銀行は八百七十六万円。産業界では[製造業の三~四割は高い[などの不満が渦巻き・・」とあります。
住専などの公的資金が注入され始めたのは九十五年頃からとされます。しかも役員報酬や行員の給与なのがカットされたのは政府が二千二年に金融再生プログラムを策定して給与の削減圧力をかけたことによるもので銀行自らがその意志決定を政府の方針に先んじ行っていたからではなかったのです。
そして戦後教育との関連で言えば、日本の金融危機の時点で銀行などの経営トップになっていた人達は戦後教育を受けた世代よりも年上の人達です。団塊の世代の人達はその時点ではまだ四十代の中盤であり、大手銀行などの大組織においては当時はまだ日本は年功序列の社会であった訳なので、そのような時代の中ではトップ経営者になるには若すぎる年齢でした。出世したと言われてもせいぜい支店長クラスで経営の中枢に入り込めるような位置にはいなかったと言えるでしょう。少なくとも銀行全体の賃金体系を決定できるような地位にはいなかったのです。
年功序列のシステムが変更され成果主義に切り替わったのはバブル経済が崩壊し始めてからしばらく経った時点からのことです。もし当時四十代半ばの年齢で大手銀行のトップになる人がいたらまれな人物とされてマスコミが騒いでいたはずです。そして公的資金を導入してもらいながら自分たちは高給に甘んじていられる事に対して銀行員たちは「社会内存在としての自己の在り様」を自ら問いただす作業はしていないはずです。もし上のように言う銀行員がいたらその人は銀行マン失格なのでしょうか。もしそうなら銀行という組織はどのような人間を望ましい銀行員であるという人物評価をしている組織なのかと言うことにもなります。どんなに自分たちがへまをして大きな社会的悪影響を生み出してしまっていても自己肯定してはばからずにいられる神経の持ち主だと人々から思われても仕方がないはずだからです。金融ビックバンに伴って個人にとっては自己責任の原則が求められはしても日本の銀行を初めとする企業組織の自己責任には余り言及されていないのも事実です。組織としての自己責任のあり方は曖昧なままになっています。
銀行員の一般的な給与水準が高いことが石原慎太郎東京都知事の「外形標準課税」の大手銀行への適用と言う手段の行使の重要な口実になったのであり、銀行が自己否定をして給与を引き下げていたならば外形標準課税の話もまたそのような税を銀行だけに適用することが税負担の公平性を損ねるという議論も生まれ出て来にくかったはずなのです。すなわち銀行組織が自己否定していたならば話はもっとすっきりと収まり無駄な議論に時間を費やしたり銀行側から裁判云々の話もする必要がないのです。外形標準課税の議論は行財政改革をも絡めてもっと一般的な形で議論すべきものだと私は考えています。
一方、このような自己否定を組織はなかなか行わないと言う事は官僚組織にも言えることですし新潟の女性監禁事件に際してあからさまになった日本の公安当局者たちの身の振り方などにも当てはまってきます。卒業式で日の丸・君が代の伴奏を自分の信念として拒んだ女性の音楽教師は職務命令に従わなかったという理由で東京都の教育委員会から解雇通告をされているにもかかわらず、監査に赴きながらほとんど何らの監査もせずに麻雀と宴会をしていた人は依願退職で済みます。しかも退職金は規程に従って少しも減額されることなく支払われました。職務など履行していないにも関わらず制裁はないわけです。信念などを持った人間は時として制裁を受けますが遊びがてらで仕事をしている人間は同じような行為でも無罪放免という遙かに寛大な扱いを受けてしまいます。すなわち組織から自立した個としての自覚を持った人間は組織によって経済的に自立できないようにされることもあるわけですが、組織の意向には従順に従ってはいても仕事は遊びがてらで別に信念などがない人間の方が優遇されているのが実体です。そのことについての組織内部からの批判の声は弱いと言えます。江藤淳氏は「浅薄な正義を排す」と述べていますが、現在の日本の大組織には浅薄な正義すら存在してはいないのではないのでしょうか。「思慮深い正義」なるものは存在しているというのなら、その思慮深い正義から引き出される結論は「何もしない」という事なのでしょうか。あるいは人間が思慮深くなると正義の感覚は消失するのでしょうか。 |
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大前研一氏が二千年の三月になって雑誌『PRESIDENT』の「負けない決断:六つの法則」と言う特集記事の中の一文として「必要なのは[自己否定]システムだ」と言う文章を載せてます。経済のパイが増え続けた高度経済成長の時代に多くの日本人の頭に組み込まれた「あれもこれも」と言う発想すなわち大前氏の言葉で言えば「and」で結びあわせて行く思考回路から「あれかこれか」という「or」の回路に変えないと経済は緩慢な死に至り組織は衰弱して行くという主張です。
それまで築き上げたものの延長線上に未来を描くのではなく、過去を否定しても新たなる選択をする決断の重要性を述べています。その大前氏の「自己否定」という言葉はアメリカのGE会長のジャック・ウエルチ氏が「日本の財界人は自己否定ができない」と語ったことから引き出されています。そして大前氏は松下幸之助さんが発案した「スクラップ・アンド・ビルト」と言う言葉がまさしく「自己否定」の考えだと述べていますが、これから考えると当時の「大学解体」はスクラップの部分であり、大学の教育研究機能を一時停止して時代の問題や大学のあり方を考える討論集会や団体交渉(団交)に切り替えたのは学生達が行ったビルトだったともいえます。しかしこのような学生の動きは大学当局による機動隊導入によって排除されて行きましたが何かしら社会を変えて新たなるものを形成すべきだったろうと思うのです。 |
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今から三十年前に国家というものの方針によって機動隊組織から力ずくの制裁を受けた学生達の方が現在の組織人達よりもまだ自分の頭で自分を考えようとしていたと思います。すなわち自分の頭で「社会内存在としての自己の在り様」を自らに問いただすだけの思考力があったと思うのです。その思考の結果として彼らは自己否定を行ったのです。本来的にエリートの心性の持ち主であったのは彼ら学生達の方であり必ずしも現在の組織の中で組織人として高い地位に就いて行った人たちの方ばかりではなかったと思うのです。だからこそ三十年以上も前に学生達が自分たちの頭で考え出していた思考の論理がこの時点では皮肉にも現実のビジネス社会に身を置いてきた大前氏の口から再び語られて来るというわけです。ビジネスとは無縁のところで考え出された思考の論理がビジネスの社会においても有効だというわけです。
このような論理によって導き出した理念は二千年時点頃から盛んにいわれ始めたサラリーマンやビジネスマンあるいはOLの人たちが企業社会の中で生き延びて行くための実務面でのスキルアップをいくら行っても生み出せないものなのではないのでしょうか。しかも森内閣における公共事業見直しの中では、公共事業予算の総額は変えないものの、その内訳を従来の公共事業をうち切って新規の事業に振り向ける上で、亀井政調会長は「スクラップ・アンド・ビルドだ」とはしゃぎながら話しても居ます。自己否定の論理は国家の経済運営に於いても重要な考え方でもあったというわけです。
しかし当時は自己否定して暴れる学生達などはなるたけ産業界としても政府としても排除しておきたかったわけですし自己否定などというような選択をしなかった学生達の方を企業組織も官僚組織も優先的に採用し優遇してきた訳なので、それらの人々がある程度の地位についたときに自己否定できないのも当然といえるでしょう。ド・モルガンの定理ではありませんが「否定の否定は肯定に転じる」のです。すなわち自己否定する学生を力で否定することによって自己肯定したのですからそれらの人たちは自己否定しないしできるわけもないわけです。自己否定した学生達を横目に見ながら嬉々として勉学に励み何ら逡巡することなく実社会へと旅立って行こうとしている生き方をする学生達に対して山本義隆議長は「実践的に否定されるべきである」と当時述べています。
バブル崩壊から二千年時点に掛けての時間の中で露呈されたのは、まさにそのような自己肯定の道を歩んだ人々が実践的に否定された姿であるといえるのではないでしょうか。すなわち当時国家から処罰された学生達の言い分は結果的には日本の社会に貢献する可能性があったものだったと言うことであり、それらの学生達が処罰される姿を横目に見ながら何のためらいもなく実社会へと旅だった人々は結果的に日本という社会に大きな不信感を抱かせるような行動をもとれる人々でもあったというわけです。
二千六年一月十二日の朝日新聞朝刊の社説には「団塊のあした」と言うシリーズ記事が載っていますが、団塊の世代が退職時期を迎え少子化の日本で年金暮らしが始まろうとしている状況では「学園闘争が燃えさかったとき、全共闘運動に身を投じた学生達は特権的な立場を自覚し、それを否定して社会変革を進める側に回ろうと叫んだ。[自己否定]のスローガンである。あれから四十年。この世代が老いの入り口にさしかかる。数を頼んで既得権益にすがるのか。それとも、自ら手放すことで変革の歯車を回すのだろうか」とあります。
しかしかつて自己否定をしたあるいは自己否定に共感して行動した元学生達に再度自己否定することを求めるのではなく、その前に、これまで自己否定など一度もしてこなかった人達や自己否定という発想には縁遠いと自分自身を思っていた影響力のある人達に自己否定をしてもらったり、
不況による自殺者がでているような状況の中でセレブだ勝ち組だと騒いでいる日本人の方にまず自己否定を求めてしかるべきではないのかとも思います。
現代のセレブや勝ち組と言われる人達にはカネはあってもそれだけの意識の高さはないのでしょうか?自己否定して行動したが故にそれでなくとも日本の社会の中で割を食わされてきた人達には再度の自己否定を求められる必要はないと思います。しかも
歳をとってから年金を受け取るのは何も団塊の世代だけの特権として制度化されているわけではないのですから・・・。 年金制度を支える若年層の数が少子化の影響で減少し年金生活に入る団塊の世代は数が大きいので団塊の世代の年金を支えきれないから自己否定してもらいたいという話であるのなら、団塊の世代の親を含め団塊の世代の数の力で支えられてきていた世代(団塊の世代よりも五歳~十歳ないしは十五歳~十七歳ほど年下の世代の両親なども含まれるであろう世代です)も存在しているのは明らかなことです。年金の面で特権的でいられたのはむしろ団塊の世代の数の力に支えられてきていた世代の方です。「年金の問題で団塊の世代が苦境を味あわされるのなら、彼らの数の力で支えてもらってきた我々は年金の面で優遇されることを拒否する」とそれらの世代の人たちは自己否定でもしたというのでしょうか・・・・???またそれらの人を親に持つ団塊の世代よりも年下の人達は自分の親に「少しは自己批判しろよ」といえるのでしょうか?団塊の世代が年金などの面で特権的でいられるなどと思っている団塊の世代などは少数でもあるでしょう。そのくらいのことは自覚している人の方が多いと思います。
当時の時代において自己否定していたものがその時点で肯定されていたというわけでもないのに、それどころかむしろそれを一般の人達や政府は潰す側に回っていたのが事実でありしかもその後の歴史の中で再評価し直されたというわけでもないのに、年金の問題がらみの場面でだけ自己否定が正当化されているようにも思えてきます。もし自己否定を求めるのなら当時の時代の中での自己否定の発想を歴史的な評価として正当な主張だったと肯定してみせればいいだけだとも思います。自己否定の論理をご都合主義で持ち出されてもなんの意味もないからです。 |
*****そしてこの時点でたとえ実社会の トップ経営者の人が「自己否定だ」と言ってみても、その地位をかつて自己否定していた学生に譲り渡すというわけでもありません。当時の学生は排除されていたので、その地位に立ったところで実務面での準備訓練がないので取って代わりようもないのも確かです。
このような動きは戦時中に自由主義者が当時の軍部から弾圧され後の戦後社会では日本が自由主義の道を選んでいったことにも類似するように私には思えます。自由主義者を徹底的に弾圧排除して、戦後日本が自由主義の国になったからといって、かつての自由主義者が戦後の日本政治の政権運営の中枢に取って代わったわけではないのと同じです。
実社会で高い地位についていた人が「自己否定」と言ったところで、むしろ戦犯として処刑すれすれで軍国主義に荷担し実際には自由主義者を弾圧していた側の人が戦後の自由主義社会になった日本の政治的な運営の中枢に居座ってもいたという事実に類似するわけです。
また戦後の始まりの時点では「天皇の人間宣言」が行われました。当時は「自己否定」という言葉はなかったにしてもこれはまさしく、それまで神格化され神とあがめられていた人の「自己否定」そのものだったはずです。そして敗戦時には「一億総懺悔」として国民全員が自己否定して新たなる時代の選択をしたはずでした。すなわち戦後という時代は日本人の自己否定から始まったと言っても良いはずのものでした。軍部独裁の軍部が統制する社会ではなく文民統制の民主主義国家に日本は変身したのです。
そのことまでをも私は否定しようとは思いません。むしろそのことを私は肯定的に受け止める者の一人です。それを否定すればまた再び軍部独裁の国家に回帰しかねないからです。これからの日本を大きく方向転換させなければならない状況に二千年時点の日本があるにしても、戦後的な価値のすべてを否定し去る必要はないと思いますし、軍部独裁の戦時中の日本より戦後の日本の社会の方が問題はありながらもまだましな社会であると思うからです。
これは人から私が聞いた話なのでどこで三島由紀夫氏が述べたものなのか分かりませんが、当時三島氏は「国の税金を使っている大学でこのような事態を引き起こすのは問題なのではないか」と全共闘の学生を批判していたようです。
三島由紀夫氏と東大全共闘は安田講堂で討論集会を開いたことがあります。それは『三島由紀夫VS東大全共闘』と言う本として出版されたのでその中に含まれているのかも知れません。この本は私も読んだのですが現在では記憶が曖昧になっています。ただ、国の税金を使っている大学で後々の(三十年以上もたってからの)日本にとっても参考になるこれほど先駆的な考え方が生み出されていたとするなら当時の学生達は税金で運営されている大学の学生として十分日本社会にも貢献したはずだと思います。日本の政府がそれを認めていないだけです。それは日本の官僚組織や企業組織あるいは政党組織が組織の温存と組織の維持・防衛本能また個人的な自己保身しか考えていないが為に認めることのできない考え方だからです。
ある意味では日本の勤労者の八十二パーセントを占める給与所得者すなわちサラリーマンの意識や行動が変わらなければどうにもならない問題かも知れません。
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司馬遼太郎氏は「思想に酔える人酔えない人」という当時の講演の中で全共闘の学生のことを引き合いに出して「マルクスを読んだこともないのにマルクスのマの字を聴いただけで信じてしまう」と批判しました。しかし日本人の多くはマルクスを読んだこともないのにマルクスのマの字を聴いただけで否定していたのではないのでしょうか。「当時の学生にとってマルクスは宗教だった」と言うのであれば、それを否定していた人たちも反マルクスの宗教にかぶれていただけのようにも思います。
また三島由紀夫氏は「天皇はなどて人間宣言したもうたか」といって戦後的価値に疑問を投げあるいは戦後を否定したような形で自決しました。三島氏自身盾の会を結成する費用は全て自己負担したと述べていましたが、しかし私にはその道を後追いする気持ちは全くありません。また三島由紀夫氏は「全共闘以後私は三年待った。だがなにも変わらなかったではないか。ならば今度は我々がやる」といって市ヶ谷の自衛隊本部で盾の会のメンバーとともに割腹自殺を決行しました。
しかし全共闘だった人々やその共感者だった人にとっては三十年も待たなければその意味合いを幾分かでもわかってもらえそうな時代はやってこなかったのです。そのような意味では多くの日本人に自分の考えを述べ行動した結果がなんであったかを三十年近く沈黙して考え続けるくらいの覚悟をもって話したり書いたりしてもらいたくもなります。いくら言論が自由であるとしても、有料メデイアのなかで収入を得ながらただただ話しまくったり書きまくったりすることだけが能ではないと思うからです。そして非常に皮肉な事ながら当時の学生達を鎮圧する上で大きな役割を果たした後藤田正晴氏は神奈川県警の犯罪行為に端を発してからの一連の学生を制圧した機動隊などをも含む国家公安や警察権力の不祥事に伴い警察の機構改革の仕事を任される羽目にもなりました。管理監督及び監視すべきなのは学生ではなく公安当局や警察組織になってしまったのです。
後藤田正治氏はNHKの”戦後五十年:そのとき日本は”『東大全共闘二十六年後の証言』という特集番組の中で「全共闘は認めることができない」と述べてもいました。警察の一連の不祥事は戦後五十五年目そして全共闘運動から三十一年目の出来事でした。それまで三十年近く実社会のサラリーマンとしてやってきた当時自己肯定した学生達に「これまでの自分を自己否定しろ」といっても「今更そんなこといわれても」ということでしょうし、それと同じように実業界の人が「自己否定の論理が必要だ」といい始めても、当時自己否定していた学生達からすれば「今更そんなこといわれても俺達の人生は戻ってくる訳じゃあないし」ということでもあると思います。
全共闘運動が警察力の前に封じ込められて行く様をテレビで見ていた当時の高校生達はシラケの世代と呼ばれましたが、三十年も経って実業界の人から「自己否定でございます」といわれても、また政府が公共事業の進め方で「スクラップ・アンド・ビルドだ」といってみても当時自己否定していた反体制といわれる学生だった人間にとっては「シラケるよな~」といったところでしょう。私にとっても「三十年もの間そういうことは何も考えて来ていなかったのに、今更それがどうしたの?」という感想しかもてません。ただ、冷戦構造の崩壊と日本のバブル経済の崩壊とは、これまでの価値観を何かしらか変える、あるいは変えざるを得ない出来事なのかもしれないと私には思えるのです。そして時間は取り戻すことは出来ないものだとするなら再評価し直すことしか不可能でしょう。
また、二千四年五月十一日のNHK”クローズアップ現代”では、企業の会議を議題となる担当部門の一般社員を含めた管理職や社長などを交えた議論の場を作り、意思決定をスピード化する即断即決をした方が成果が出るという内容の報道がされました。そうした方が個々人が納得ずくで行動するようになり、上意下達での上から下への指示だけで決まる意思決定よりも自分たちが主体的に意思決定に関わっているという参加意識が生まれて組織が活性化し成果が生まれると言うことです。
しかしこの放送よりも三十五年も前に、東大全共闘は全員参加型の徹底討論という方式を採用していました。直接民主制に近い形のものです。 学生達が始めたことなで会社組織が行う会議よりも討論の仕方などが稚拙なものであったことも確かですが、集団が自分の行動を集団内部で討論して決めてゆくというその試みは先駆的なものであったことも確かなのではないのでしょうか。直接民主制は、多人数になればなるほど物理的な制約で成り立ちにくくはなりますが、インターネットや双方向テレビ技術などで、住民の意思や国民の意向を直接投票で表す技術的な条件も生まれつつあると言えるでしょう。 |
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私の考えからすれば東大全共闘は日本の社会の中に生まれ出るのが早すぎた人々だと思いますしオウム真理教の人々は日本の社会に生まれ出てくるのが遅すぎた人々だと思います。そして他の多くの人々、すなわち日本の社会の多数派だった人々は状況次第で動いて行く人たちだと思います。状況次第で動くとは、その言い分が正当であるかどうかに判断基準が置かれてのではなく、状況がその言い分を必要としているかどうかに自分の判断基準を置いているのです。すなわち状況がその言い分を取り込まなければならなくなるまでは、その言い分を認めようとはせず、そのような言い分を申し立てている人たちを否定したり排除したりしていられると言うことです。
全共闘はその考え方が先駆的過ぎたために当時の日本社会にはそれらの論理が十分には理解されず日本社会には受け入れてもらうことができなかったと思うのです。彼らの考え方をもっと多くの日本人が評価していたなら、バブル経済崩壊以後に起こった銀行や証券などの金融をはじめとする様々な不祥事に対する有名企業のトップといわれる人たちやその組織に所属する組織人達の対応の仕方も幾分かは違ったものにもなったのでしょうが、残念ながら日本にはその土壌もそのような考えを是認する組織の風土もありませんでした。私自身は東大生ではありませんが当時の学生運動すなわち全共闘運動の心情的な共感者(シンパサイザー)であり自分なりに行動もした者にとっても三十年も待たなければ解ってもらえないことなどもあったというわけですし、三十年以上経って幾分口がききやすい状況になってきたというわけです。
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一方オウム真理教はサリン事件で警察が介入する時点で「宗教弾圧だ」と抗議の声を挙げてもいましたが、少なくとも戦後世界の日本においては宗教法人は日本の社会では税制面などで優遇されてきています。戦時中には確かに国家神道以外の宗教は軍部から弾圧された歴史がありますがオウムの生きていた時代は戦後の日本なのです。そしてオウム真理教の人たちはパソコン販売やインターネットあるいはコンピューターソフトの開発など技術的なことにおいては新しい分野を手掛けはしていますが信じている理念そのものが非常に古くさいと思うのです。
それは六十年以上も前に中国大陸に侵攻していた旧日本軍の関東軍の中で生み出された「日米最終戦争」という言葉に示されるように、軍事技術や軍事情報に対する異常なまでの関心の高さに現れていると思います。そのような意味で私は東大全共闘は生まれてくるのが早すぎオウム真理教は生まれてくるのが遅すぎた人々だと考えるわけです。なぜならオウム真理教はアーレフと名称を変更しながら自己組織の維持に汲々とせざるを得ない姿を露呈しているからです。
全共闘はあのような行動を採る上で経済的な採算などは考えてはいませんでした。自民党執行部に反逆しかかった加藤紘一氏もその後政治資金の不正使用で政界の表舞台からは遠ざからざるを得ませんでした。しかし全共闘には資金的な裏打ちはなかったわけです。カネにまつわる不祥事で全共闘が消滅したわけではありませんでした。最初から 最後まで全共闘という運動体はカネとの縁などはなかったからです。 その証拠に資金的な工面をしてきた当時のセクトと言われるものは現在でも存在しています。全共闘のような行動を当時取ったとしてその先に経済的な利益が期待できたわけではなかったのです。むしろこれから実社会にでる学生という身分の人間にとっては将来的には不利になることが十分予想できるものでもありました。また全共闘は技術は残しませんでしたが十分に理念は残し得たと私は思います。もしその理念の使用料を全共闘が企業に求める権利があるというのであれば、当然全共闘は金銭的利益をこの時点で得てもよいといえれるほどのものです。
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ただ日本の場合には、自由とか民主主義とかあるいは人権や福祉という重要な理念的概念は日本人自身が自己犠牲を払って生み出したものではなく外部社会から導入したりあるいは与えられたりしたものであり、ほとんどすべてただ同然で手にできたものでした。しかし「理念などはなんの犠牲を払うことなくいくらでもただ取りすることができるものだ」と考えるのは誤りだろうと思います。犠牲を払って理念を作りだした人たちの上に乗ってただ自己利益さえ上げればいいというものではないと思うからです。すなわち日本の企業や日本政府は商品の販売や税金など他人に金を請求することは一人前にできても他人に金を支払うという方は一人前と呼べるだけのことができていないといえると思います。
「自己否定」という言葉の裏で当時どれだけの数の学生達が自己犠牲を払ってきたかと言うことにも思いを致すべきだとも思います。資本主義社会の日本の企業のトップ経営者が「理念の使用料はただで自分の提供する財やサービスは有料だ」というのは「他人のものは自分もの、自分のものは自分のもの」というどこかの国の共産党員のような発想にも思えます。日本人は戦後といわれるかれこれ五十年以上の間に、自分自身でどれだけの理念を新しく形成し得てきたのかというと、その成果は非常に乏しいように私には思えます。
東京大学はかつての学生の行動によって荒れ果てた安田講堂の修復費用を当時の学生達に要求していましたが、学生達が当時唱えた理念の使用料で相殺してしまえばよいだけです。そして当時自己否定しなかった人たちは、これまでの自分たちが何をしてきたのかは自らに問うことなく、ただ理念を乗り換えながら生き延びて行くのです。何の目的でどのような技術を開発するのか、開発した技術を何のために如何に生かすのかはいつの時代においても理念の部分に関わってくるものであり技術そのものからは開発理念は生まれ出ないのです。確かに自然科学などの分野には偶然による大発見も存在しています。レントゲンによる放射線の発見あるいはビタミンCの発見などがその代表的なものです。それらはいずれもノーベル賞を受賞した発見です。しか
もノーベル賞を創設したアルフレッド・ノーベルのダイナマイトの発明も元々は偶然による発見のたまものでした。それまではニトログリセリンを荷車で運んでいました。その頃はゴムタイアが発明されていなかったので木の車輪に鉄板を打ち付けた車輪でありニトログリセリンがでこぼこ道の振動で爆発し運搬している人が死亡したりしていたようですが、ある日ノーベルが偶然ニトログリセリンを砂の上にこぼし、それが固まったのでハンマーでたたいたところ爆発しなかったと言うのがダイナマイト発明のことです。
しかしそれは第一次大戦に於いて戦争の道具として使われ多くの人命を奪う結果となり、それを嘆いたノーベルは遺言で平和賞を作るようにと言い残しました。ビタミンCの発見者も「軍事利用はされないだろう」と思ったそうですが、長期間海中にいて活動する原子力潜水艦の乗組員のビタミン補給に使われているのを知って残念がりました。潜水艦の中では十分な野菜を食べることが出来ないからです。そして二千年にノーベル化学賞を受賞した白川さんの研究も、他の研究生の失敗した実験が発端という偶然が加担していたものでもあるようです。
二千二年のノーベル化学賞受賞者の田中耕一さんも失敗して混合した薬品を試しに使ったものが元になりました。「ある偶然の出来事を維持しようとする不幸な試みを結婚という」とはアルバート・アインシュタインの言葉だそうですが、しかし人文科学の分野はともかくとして自然科学の分野では偶然発見された産物もそれが一度発見され非常に有効だとわかると人間はその偶然を必然化させようとし始めます。「偶然は準備していた人の所に訪れる」とはパスツールの言葉だそうですが、偶然から生まれたものをどのように使うかは理念や思想の問題になります。そして技術は開発理念や開発思想が先にあって初めて優れた技術が生み出され存在していると思うからです。
パソコンの発明は千九百四十五年にアメリカのヴァネーバ・ブッシュが 「頭脳を支援する機械の必要性」を唱え、それがアップルコンピューターとして初めてパソコンという形になったと言われます。パソコンの誕生にはまずビジョンがあってそのビジョンを実現しようと多くの人たちが力を発揮したわけです。パソコンを使ってインターネットをやる時代にはネットで知り合って集団自殺する人などもいますが、あくまで使う側が何に使うかの意識の問題と言えます。それは自然科学だけでなく文化や芸術にたいしても言えることです。作曲ができる人は軍歌を作曲もでき同じく平和の歌も作曲できることでしょう。彫刻ができる人は勇ましく戦う兵士の像も造れますし平和な家族の像も造れることでしょう。それらに使われている創作技術や技法は全く同じだったとしても描かれている理念や思想は全く違うということです。理念や思想というものは人間の自然に対する認識や人間に対する認識の仕方あるいは人間同士が作る社会(その中には国際間の関係なども含まれますが)に対する認識の仕方に関わってくる問題だからです。 |
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当然の事ながら先の銀行員の話に戻れば銀行の信頼の回復を求める事と自らの給与水準を他産業よりも遙かに高いものにしておきたいという欲求とは大前氏の言葉を借りれば「and」で結びあわせることで達成はできないことだろうと思います。大きな痛手を負った銀行の信頼の回復を最優先するのかそれとも「カネの虫」とさげすまれ批判されても自分の給与の維持に血眼になるのか、どちらかを選ばざるを得ないと思います。
私の友人の奥さんが留学生としてアメリカにいたときにアジアからの留学生が「If you want to get something ,you have to lose something」(もしあなたが何かを手に入れたいのなら、あなたは何かを失わなければならない)と言っていたと以前の年賀状に書 いてありました。まさにそんな時代に日本も突入してきたというのが私の実感です。そしてこのようなことはSOGOに対する公的資金投入による負債の免除と言う方針の中で、年収四億円と言われるSOGOの水島元会長の身の振り方などにも当然当てはまってきます。
一般の社会ではリストラによって多くの自殺者も出ている中で、自己が作り出した負債を自分が退任することと引き替えに棒引きにしてもらいながら自己の資産の提供によって負債を幾分かでも返済する気持ちを持とうとしないなら、当然の事ながらそれは人々の批判の対象にされても仕方がないと思います。二千年七月十七日の読売新聞朝刊には水島社長が十万株の私財を提出したがそれは千葉そごうなどもはや価値がなくなった一株の価格が一円としか評価されない株式十万株であり、私財提供額はたったの十万円だとあります。これでは一般家庭で家の中に溜まっているゴミを外に出して「我が家は資源ゴミを出しているから私財を提供しているんだ」と言っているようなものです。問題なのは資源ゴミを出した程度の行為を一般の人が本当に私財を投げ出したと認めてくれるかどうかと言うことだと思います。なぜなら四億円もの年収があり最近十年間だけでも四十億円以上の収入を得て、しかも三十五年間にも渡ってSOGOの経営に深く関与していた人にとっての十万円は資源ゴミ程度の価値しかないものだろうからです。と言うのも四十億円で十万円をわり算すれば25/1,00,00,00でしかないからです。この数字を年収五百万円の家庭に置き換えた場合、十年間での総収入五千万円の百万分の二十五は千二百五十円にしかならないからです。年収八百万円が標準家庭とされる日本の家庭以下の家族においてすら、千二百五十円という額は小学校の低学年の子供の一ヶ月分の小遣いにも満たない金額なのではないでしょうか。
水島会長は問題が発生してから「僕は金がないから」と発言していましたが、全国の高額納税者に名を連ねていたような人に金がないのなら日本人の誰に金があるというのでしょうか。確かに企業を経営して行く場合には利益は最大にし費用や支出は最小にするのが企業経営者という者でしょうが、自らの経営の失敗に伴う責任の取り方の場面においてもそのような経済的合理性の手法を個人の次元で採るというのは人々の納得を得られないと思います。家計にしても企業にしても公的部門の運営にしても、自己部門の経済的余力を大きくするには「入るを図りて出るを制す」と言うやり方を採らなければならいものであることは当然ですが、自分の経営的失敗の事態の中で自己の「出る」を制するために他人から「出させる」ことが批判の対象にされているからです。私はこの時点で八十八歳まで元気で現役のまま働いてきた人の事をあえて悪く言おうとするつもりは毛頭ないのですが、これが法学博士の学位まで持っている人の対処の仕方だと聞かされると何か私にはちょっと哀しい感じがしてきます。
まさにインド出身のノーベル経済学受賞者すなわちアジア人で初めてノーベル経済学賞を受賞したアマーチャ・セン教授の言葉を借用すると、水島会長の行動は「合理的な愚か者」に見えてきてしまうからです。「水島社長万歳」と社員が万歳三唱をしたり、「貴様と俺とは同期の桜同じ国体の庭に咲く~」などと、公式席上で大勢の社員達が戦時中の日本を彷彿とさせるような軍国調の決起の姿を披露してバブル経済の状況を梃子にしながら拡大路線を突き進んでいった一つの有名百貨店の結末でした。水島会長自身が興銀出身だったと言うことは、百貨店の社長・会長を務めたと言ってもその経営方法はバブル経済の時の銀行が行っていた行動と軌を一にしたものと変わるところがなかったと言えるようです。すなわち戦時経済体制で編成されていた日本の金融行政の中での出来事だったといえます。当然水島会長の年齢から考えれば水島会長は教育勅語の時代の教育を施された人のはずです。しかしその年代の人でも、戦後世界の日本の急速な経済発展の中ではこのような対応しかとれなかったわけです。教育勅語を復活させれば立派な人間が育ってくると思うのも幻想なのではないのでしょうか。なぜなら教育勅語で育った人の全部が全部立派な人物ばかりだとはいえないからです。そして興銀がはじき出し経団連などの産業界もそうなることを望んでいた最小の税負担で済むはずのSOGOの債権放棄によるSOGO救済ではなくSOGOの倒産を求めた世論は結果的には税負担が増してしまう道を選び経済的合理性の道は選ばなかったわけですが、モラルハザード(倫理の崩壊)が起きることをくい止めたという点では世論は「合理的な愚か者」ではなかったというわけです。
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銀行の頭取達であれ官僚や政治家であれ、あるいは有名百貨店の会長であれ、エリートとされる人にふさわしい行動というものは存在すべきだと私には思えますが、果たしてこれまでの日本の既成の組織においてエリートとされてきた人々の身の処し方は、本当にエリートと呼ぶにふさわしいものなのかどうか私には疑問の残るところです。
戦後世界の日本で本当に優れた実業界の人々も少なからず存在してきていたことは確かですが、バブル崩壊以後の状況の中においてはそれまで失敗の経験が少なかったが為に高い地位に就くことができたエリート達が、失敗したときにはどのように対処したらよいのかという問題に初めて直面したのだと思います。ことに創業者ではない、創業者が有名企業に育て上げた後に就職して順次会社内部で出世してトップ経営者になった人の場合にはその姿があらわになっているようにも感じられます。
全共闘は当時の時代の中で挫折しました。あるいは挫折させられました。全共闘運動をして挫折感も経験せず社会人としても何の意識的なひっかかりも抱かぬまま成功していったというなら、いくら「生きて行くため、食べて行くため、生活のため」と言ってもたぶんにそれはまやかしの生き方だろうとも思えてきます。しかしバブル経済までの間に順次社会的な地位を上げて高い地位を得ていっていた人たちには挫折の経験が比較的に少なかったと思います。成功続きの人生であったという強みが、逆にこの時点ではそれらの人々にとって挫折する経験がなかったと言う弱みになっている部分があるのではないでしょうか。「成功した者は失敗を知らず、失敗した者は成功を知らない」状況もここで何か変化する兆しが見えているようです。 現在でも全共闘に批判的な人たちはちまたにも大勢いますが、それらの人達の物言いも他の文化人と同様ベトナム戦争にはふれずに学生運動だけを事さらのように語る語り口が多いのも事実です。 |
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しかし二千年近辺の時点では企業もNPOなどで社会貢献をし始めようとしているところです 。ただ佐々木毅氏は先の新聞記事の中では、「NGOもNPOもガス抜きの効果だ」としています。NGOもNPOも現在の日本では公認の組織となっています。ちょっと前なら自然保護団体などのNGOは日本の産業界からは幾分白い目で見られてはいました。自然保護と開発とは相容れない部分があり両立せずに反目してしまう部分があるのでそうなるわけですが、現在ではそれら自然保護などのNGOは政府もその存在を認めざるを得ないところにまでになっています。むしろ政府の方がNGOを積極的に利用しようとしている国さえ存在しています。本来的に日本の社会が改革されて行くためにはどのような方法を選択すべきなのかといったところなのではないのでしょうか。NPOは非営利組織であるとはいっても、それが政府の方針に真っ向から対立せざるを得ないような局面に立ち至ることが将来的にあるかどうかも問題です。
NPOが政府に対峙せざるを得ない局面が将来あるのかどうかは未知数ですが、正面から政府に対決姿勢をとって異議申し立ての行動を起こすのか、それとも世論調査の結果を報告するだけで政府や政権政党に自重や再考を求めることが可能なのか、いったいどんな方法があるのでしょうか。どんなに支持率が低下しても、また問題が噴出していても、ただただ自分の政権の延命だけを望んで政治をされたのでは人々は困るばかりです。それは政権にある者の感度の問題ですし、国民や住民は自分たちからどのようにしたらシグナルを政治に発信できるのかという問題でもあると思います。実力行使などをしなくても人々の意見や考えが政権政党や政府のもとへと届きそれによって政府や行政の考え方に影響を与えることができる方法の模索です。どのような方法を採っても政権の中枢の考え方を変えることができないとすれば最悪といえます。日本の民主主義にとって民意を反映できる機会は選挙の時だけでしかないのかという問題でもあると思います。 |
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バブル経済が崩壊して十年以上たってもその精算はまだ終わっておらず経済は非常に不安定で自分がいつリストラされ失業するのか分からないと言う状況が存在しています。成果主義という評価基準を早い時期に導入した富士通もその評価方法の見直しをするとのことです。成果主義の評価だと失敗をおそれて社員が挑戦しなくなってしまったからだと言うことですが、経済状態が非常に不安定になっている状況の下では人々は益々安全志向になり従順で利口な選択だけをして行くのではないのでしょうか。自分が失敗した時に会社から格好のリストラの名目とされるおそれがあれば、企業マンとても成功すればそれこそすごいが、成功する可能性は非常に少ないと思われる目標にあえて挑戦はしないという道を選んでしまうのでしょう。ましてやその行動がそのときは否定され制裁が加えられても後々再評価されるかもしれないが、たとえ再評価されるような機会があったとしてもそれは二十~三十年先になってからのことでありその再評価もきわめて曖昧な形のものでしかないであろうなどという行動に賭る人間などはとうていいないと考えた方がいいのではないのでしょうか。
企業においても学校においても「組合員などは校長や経営側ににらまれるので組合には所属しないし組合費も払わないが、組合が交渉によって勝ち取ってくれたベースアップの給与の増額分は黙っていただく」という行動をとっている人も少なからずいたはずです。そのような選択をする方が個人としては利口な選択であるとするなら、徐々に組合活動は衰退し不況が理由でなくても賃金の上昇も望めなくなってゆくのも当然のことでしょうが、誰もあえて管理職や経営側からにらまれるような役回りを買って出る人がいなくなればそのような社会になってゆくのも当然の結果だといえます。
現に組合の組織率は年を追うごとに低下してきているのが事実です。組合活動が衰退すれば会社側からのどんな不当解雇に対しても会社組織や地方行政組織に抗議の声を上げるのは個人でやらざるを得ず、組合という組織の力を借りることも不可能になるのではないのでしょうか。そしてこれまで管理職とされる人間は会社側の人間であり労働組合には所属しないのが通例でしたが、バブル崩壊以後の不況の中で中間管理職の雇用にも危機感が生まれ管理職組合も生まれ出たというわけですが、組合のない管理職は下手をすれば非常に苦しい立場に立たされる人も生まれかねないと思います。それは「個人よりも組織の方が優位である」と考える組織信仰の強い中間管理職の人にとって組織人としての自分にあらぬ災難が自分が属する組織の力で引き起こさたときに一人の個人となってでも組織に立ち向かってゆけると自分自身が思えるかどうかという問いとなって跳ね返ってくることでもあるでしょう。 |
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これまで終身雇用が当たり前であった時代にはそんな心配もする必要がなかったかもしれませんが、組織人にとっても個の意識を持つ必要が生まれ始めた状況のようです。個々人が個々人の意識を強く持つようになると組織が四分五裂しかねないと組織の上に立つ人々は考えるかもしれませんが、それは組織のトップに立つ人の指導力が不足しているだけのことだろうと思います。個々の人間の言い分を尊重し、いっそう民主的な土壌を形成しながら全体の調和をはかるというやり方は、日本人がもっとも不得手とするもののように思えます。トップダウンでどんなにおかしな考えでもそれを遂行するために組織をガチガチに固めてしまい組織のあり方を組織内で議論することがないというやり方が多いからです。
ベトナム戦争の一方の当事国であるアメリカをはじめとして当時の評価のし直しが行われている中で日本は立ち後れ気味のように思えます。しかし資金的な基盤も持たぬままに心理的な共感だけで立ち上がったがために組織としては脆弱で政治団体でもなかった全共闘は機動隊組織にものの見事に力でねじ伏せられる姿を披露しましたが、バブル崩壊後に日本の多くの組織が見せたような醜態だけは全共闘という形で演じないですんだことを私は非常に幸運なことだったと思う者です。そして全共闘運動云々の話しも非常にまれにしか語られなくなっていますし、また当時の運動に今も批判的な態度の人もいることも確かです。冷戦が終了した時点では、冷戦時代とは何であったのか、また冷戦構造の中でのベトナム戦争とは何であったのか
、またそのときの日本政府のベトナム戦争に対するスタンスはどうであったのかの評価がある程度定まれば、その渦中で起きた全共闘運動の評価も自ずと決まってくるのではないかと私は思っています。すなわち歴史的な評価の中で決まるものあろうと思っているのです。当然、全共闘だけを取り出して論じても論じきれない部分が残ると思うのです。 |
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私自身ベトナム戦争から時間が経ったあとでこのようなインターネットをやるようになって、当時アメリカ兵として日本にやってきていたときに知り合った日本人が今どこにいるのかを分かったら調べて欲しいとアメリカ人数人から頼まれて、 図書館にある全国の電話帳をめくってその結果を各々異なるアメリカ人にできるだけ知らせた経験が三~四回有ります。
二千二年に運用が開始された住民基本台帳ネットワークは悪用された場合のデメリットが大きいので民間人には使うことができませんが、このような場合に私が使えたとしたら非常に便利なシステムだとは思います。そして戦争が終わったら終わったで私はそのように行動もしますしまたそのような労を取ることをいとわない人間ですが、戦争に対する評価は評価として下すべきであろうとも思います。また当時の学生の事を映像で見たとしても、テレビなどのマスメデイアの映像はどのテレビ局の映像も全て機動隊の側にカメラをおいて撮影されたものばかりです。
私が学生時代に授業で聞いた東大新聞研究所の教授の出張講義である「マスコミ理論」の中に、「機動隊と学生が衝突する場面を機動隊側から撮影するか学生側にカメラをおいて撮影するかで、その映像を見た人の感想は異なってくる」という話しがありました。機動隊側にカメラがあれば学生が襲いかかってくる映像が多くなり、学生側にカメラがあれば機動隊が自分に襲いかかってくるように見える映像が多くなります。それらを見る人たちは「自分に襲いかかってくるように見える方が悪い」という感想を持つという実証研究の結果があるというのです。当時のフィルムで唯一カメラを学生の側において撮影したのは、一人の映画監督が撮影したドキュメンタリー映画の『怒りを謳え』という短編映画のみで、あとのマスメデイアの映像は全てカメラが機動隊側におかれていた映像です。歴史となった事実を検証するにもこれらの要素も勘案すべきです。それとも歴史は過去の事実が記載されたり記録されたりすると言うだけで、後々の世界や日本にとってそれが何であったかは考える意味がないものとなるのでしょうか。しかし歴史とはそのようなものではないように私には思えます。 |
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ただ、冷戦終結後十年そこそこの二十一世紀初頭の段階では、冷戦時代を世界史・日本史の両面から歴史的に評価するには時間が短すぎるかもしれません。なぜなら各々の時代という現実は、その時々の各国の利害や思惑あるいは主観がない交ぜになりながら動いているものであり、ある程度の時間の隔たりを於いてみてからでないと冷静かつ客観的な評価が下せないからです。
戦後五十年以上経っても、かつての日本の戦争に対する評価が確定的に定まっているという状況でも日本はありません。戦時中に未練のある勢力や戦時中を懐かしがる政治団体も存在しています。占領中に与えられた憲法だからというだけで憲法を改正しようと言う人たちも存在しますが、戦時中がなんであり戦後がなんであったかの総括もしないままの議論にも思われる状況の中で、戦後といわれる時代に一つの理念を残して消え去っていった運動体を、果たしてそれは何であったのかと私は問うている者なのです。
日々の仕事や生活はあり、それらをこなして行くだけでも一人の人間にとっては大変なことだといえるのかも知れません。しかし自分たちが過ごしてきた時間がなんであり時代はどんなものでありその中で自分はどう考え行動してきていたのかは考える必要があるのではないかと思います。またそれらがこれからの時間の中でどのようになるべきなのか、どのような時代や社会を望むのか、そしてそのためにはどう行動するのがよいのか、それらのことも全く考える必要のないことのようには私には思えません。戦後といわれる日本も変更を迫られる状況を迎えましたが、戦後の日本というものの先にあるものが何も戦前や戦時中の日本である必要もないと思います。
未来は見えないものであり過去はその姿がよく捉えることができるので、わかったものの方を選択したくもなるのでしょうが、それは必ずしも賢明な選択だとはいえないのではないのでしょうか。未来は未知のものであり、最大限にイマジネーションを働かせながら探って行かなければならないものだと思うからです。
日本は敗戦によって極度にモノもカネも不足する時代を経験しました。そのため戦後はモノとカネさえ有ればそれで事足れりという考えになり、理念や思想は二の次にされてきたことは否めないと思います。
たとえ戦後の日本人がなにがしかのカネを手にできたとしても、人が聞くに堪えるどれほどの金銭哲学を生みだしてきていたのでしょうか。戦前や戦時中の思想は日本がまだ発展途上国の時代の理念や思想でした。
豊かになり先進国になってからの日本はどんな理念や思想を必要とするのでしょうか。そしてモノを作って売りながらカネを得ては来ましたが思想や理念の形成には力を注いで来なかったツケが二千年代になってでているのかも知れません。すなわちMade
in Japanの製品は世界にあふれましたがMade in Japanの理念や思想そしてその理念や思想に裏付けられた制度やその運営方法をどれだけ日本人は戦後と言われる時代の時間の中で残し得てきていたのかと言うことです。お金を作ることには成功したがその運用で大失敗しなければ理念や思想に思いをはせることも無かった日本というものをどう考えるかと言うことでもあります。
カネの儲け方にも人間性は表れますが、それ以上に儲けたカネの使い方にその人の人間性は端的に表れると言っていいかも知れません。カネを儲けたなら思想も作ってみるべき時期に日本は立たされているようにも思います。そしてカネが生きた形で使われる社会を目指すべきだとも思うのです。 |
大前研一 未来の知性はどこに 全共闘運動 東大闘争の発端と経緯 山本義隆 日大930の会 ベトナム戦争
今から思えばあの頃が 今、全共闘の時代をどう受けとめるか 何処へ ぶらり・ぶらぶら 対抗文化から「精神世界」へ
全共闘運動へ 全共闘世代として マルチメデイア共産趣味者連合 全共闘時代用語の基礎知識 全共闘世代へ:問いに答えて
大江健三郎
ノーベル賞受賞講演全文(英文) 三島由紀夫VS東大全共闘 三島由紀夫 吉本隆明1. 吉本隆明2.
松下幸之助 NGO
Information Center World Ngo Network 国境なき医師団 開発教育協議会 外形標準課税1.
外形標準課税2. 税収:東京都 税収:静岡県 アマーチャ・セン 合理的な愚か者 石牟礼道子 宇井純 そのとき日本は
知性の泉
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