砂川闘争史 |
更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4)年.4.7日
(れんだいこのショートメッセージ) |
「ちきゅう座」の「<09.01.29>砂川裁判に関する情報公開請求について<塩川喜信>」を参照する。 |
【砂川闘争―裁判闘争史】 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
砂川事件をめぐる経過は次の通り。
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【第1次砂川闘争始まる】 | |||||||||||||||||
「7中委イズム路線」はそうは長くは続かなかった。歴史の摩訶不思議なところであるが、宮顕が学生運動を右派的に手なずけたその瞬間に、砂川闘争が始まった。 政府が、立川基地拡張のため、調達庁砂川宮崎町長に土地収用を申し入れ。町として反対決議、「砂川基地拡張反対同盟」を結成して反対闘争へ。所感派・国際派の別を問わず、宮顕式穏和化路線に反発する急進主義派の学生たちが「平和と民主主義」の根幹に関わる政治闘争として砂川闘争に取り組んで行くことになる。 1955.9月、政府は、400名の警官隊を導入して測量を実施し始める。農民・労働者800名が阻止行動。労働者と農民が当局と激しく衝突した。「土地に杭は打たれても、心に杭は打たれない」というスローガンの下に闘いは進められた。一部杭打ちが行われる。これを第一次砂川闘争と云う。翌56年秋口には流血の事態を向かえることになる。 砂川闘争とは次の通りである(東京平和運動センター「土地に杭は打たれても心に杭は打たれない」参照)。
高見圭司「五五年入党から六七年にいたる歩み」は次のように記している。
森田実・氏は、「森田実の言わねばならぬ【298】」で、次のように証言している。
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【第二次砂川闘争】 |
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1957.9.13日、第二次測量開始が予測される中、全学連は砂川基地反対の闘争宣言を発して現地闘争本部を設置し、地元農民、支援団体と協力しながら闘いを組織した。10月になると学生はぞくぞく現地に乗り込み泊り込んだ。全国から3千名を現地動員し、農民.労働者と共に泊り込むこととなった。
10.4日、政府は、滑走路拡張のため機動隊・警察官3千名を動員して強制測量強行を指針する。10.2日、全学連拡大中執委が、9.22逮捕の学生3名(他に労働者4名)の刑特法での起訴に抗議声明。総評・全学連・社会党・共産党など21団体の砂川闘争支援連絡会議が、反対同盟を支援するため全国動員決定。 |
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「砂川基地反対闘争」は、全学連にとって、50年秋の反レッド.パージ闘争以来の勝利であり、学生運動史上歴史に残る輝かしい戦いとなった。その功績として、従来、軍事基地反対闘争は民族解放闘争や武装闘争の突破口的位置付けで取り組まれてきていたが、これを平和擁護闘争として取り組み、地元農民・市民・労組等々との提携による民主勢力の結集で闘うという貴重な経験となった。 安東氏の「戦後日本共産党私記」は次のように記している。
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【砂川基地反対闘争をめぐる対立発生】 | |
この時の砂川闘争では都委員会も全組織をあげてよく戦ったが、中央部のスターリン的干渉に悩まされた。このことが全学連中執の内部の現地指導部と留守指導部との間に、砂川闘争の評価をめぐって意見の対立を生じさせた。 56年秋の砂川闘争後、学連内に内部対立が生じた。現地指導部(森田・島)が「現地動員主義の成功」評価で意気軒昂になったのに対して、留守指導部(高野・牧)がその他の運動との結合との絡みでしか評価しないという対立であった。その後の経過からして、現地指導部を急進主義派、留守指導部を穏和主義派と見なすことができるように思われる。留守指導部の背後に宮顕系の指導があり、このことが次第に全学連中執を悩ませていくことになる。 この意見の対立は次のところにあった。共に「層としての学生運動論」に依拠しつつも、急進主義派はこの時期多数派を占めており、「現地動員主義」を高く評価しその後の闘争的質の指針たらしめようとしていた。他方、少数派の穏和主義派は、「日常要求の闘いを通じての広範な学生の参加運動の志向」へと逆戻りさせようとした。急進派はこれを右翼日和見主義として批判した。こうして、全学連再建後の学生運動内部に早くも非和解的な二潮流が分岐していくことになった。この二つの潮流は激しく論争をしながらその後交わる事は無かった。 以降、全学連内で主流と反主流の論争が表面化することとなった。この対立は、砂川闘争を指導した東大の森田と学連書記長で早大の高野の対立に集約された。急進主義系派は概ね森田支持派となり、宮顕系日共派は概ね高野支持派となった。この対立にはもう一つの要素が加わっていた。つまり、全学連運動の主導権を廻る旧帝大の雄東大勢と私立の雄早大との反目も関連していた。「闘争勝利後の構造改革派=牧+高野と構改派反対・島との対立、森田実の背後に安東仁兵衛の奇怪な動き」とある。 変調な事に、早大の高野派が党の意向を汲んでいたようで、この争いは闘いの戦術から政治路線、革命理論にまで及び果ては大衆的規模の対立までなった。「この背景には党中央のスターリン的干渉があったと判明している」と評されているが、「党中央のスターリン的干渉」と評するのは、宮顕悪事の一般化過ぎよう。 この時有名な「孫悟空論議」が為されている。「孫悟空論議」とは、砂川における学生の活動に対して、高野が「総評・社会党幹部と云う釈迦(世界情勢)の掌で踊った孫悟空に喩え、『極左冒険主義』の危険をはらむもの」とする論で、これに森田が「運動における学生層の役割を過小評価するものとして非難応酬」した経過を云う。 この論争に対して、石堂清倫氏は次のようにコメントしている。
こうしてこの時期の56年秋の砂川闘争後、全学連内に主流急進派と反主流穏健派の内部対立を生じさせることになった。もともと党の意向とも絡んだ組織運営をめぐっての対立であったようであるが、私立の雄早大の高野と旧帝大の雄東大の森田との反目も関連していたようでもある。 高野秀夫は、この後全学連反主流派の「構造改良派」の雄として50年代後半の学生運動を指導していくことになった。加えて、香山.森田の指導に対する物足りなさが次の流れへと向かうようである。付言すれば、高野は、宮顕に使い捨てされた挙句入水自殺を遂げることになる。 この争いは闘いの戦術から政治路線、革命理論にまで及び果ては大衆的規模の対立にまで発展していくことになる。急進主義派はその後森田を乗り越え更に左派化し、宮顕系日共派は高野を乗り越え更に右派化していくことになる。こうして、全学連内部に宮顕系日共派とこれに反発する急進派が誕生することになった。全学連再建後の学生運動内部に早くも非和解的な二潮流が分岐していくことになった。 この二つの潮流は激しく論争をしながらその後交わる事は無かった。学生党員グループの先進派は、この間ジグザグする日共指導による引き回しに嫌気が差し、もはや日共党中央の影響を峻拒し自律化せしめようとし始める。以降、学生党員グループのこの動向が全学連運動の帰趨を決めていくことになる。この連中が闘う全学連の再建目指して胎動していくことになる。 |
【岸政権が、米軍立川基地拡張を再度画策し始める】 |
1957.6月、岸信介首相は渡米してアイゼンハウワー大統領と会談、「日米共同宣言」を発表。後に60年安保改訂につながる日米安保条約の改定についての協議を開始した。これと並行して砂川町では米軍立川基地拡張のため強制測量が再強行の動きを見せ始めた。 |
【第三次砂川闘争前段、反対派学生が基地突入】 | |
1957.7.8日、基地内にある民有地を強制収容するため、再び砂川基地拡張の強制測量が行われた。夏休み中であったが学生は労働者と共にかけつけ、機動隊装甲車を先頭とする警官隊2千名と対峙した。米軍は、基地の柵内側に長さ1000mのぐるぐる巻きの鉄条網で立ち入りを防ぐと共に、更に機関銃を載せた軍用ジープ2~3台で反対派を威嚇した。これに構わず数十名の学生がシュプレヒコールを叫びつつ、、有刺鉄線を切り倒して基地内に突入した。「基地そのものを認めない、安保条約反対、戦争反対、平和を守れの意思表示として、基地内に入った」。「米軍基地内に初めて日本人が公然と突入した」と気勢をあげた。
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【第三次砂川闘争中段、基地突入学生が逮捕される】 |
9.22日、警視庁は、「さる6.27日-26日の砂川町の基地測量にあたり、基地内に立ち入って妨害した」という理由で、安保条約に基づく日米行政協定の刑事特別法2条違反容疑と暴力行為等処罰に関する法律の適用により、23名の学生.労働者を逮捕した。全学連小野寺書記長、土屋都学連委員長等9名の学生、労働者(学生3名、労働者4名)が起訴された。 |
【第三次砂川闘争後段、抗議闘争激化する】 |
全学連は直ちに行動を起こし、200名の学生が国鉄新橋の労働者とともに、警視庁に押しかけ抗議した。深夜に全学連拡大中執が開かれ、全国的な闘争を組織することを決定した。9.23日、全学連、砂川闘争関係者逮捕に25日第一波、28日第二波抗議行動を決定し、連日警視庁に抗議デモを仕掛ける。 9.28日、原水爆実験反対・砂川不当弾圧反対国民大会〔日比谷〕に学生を含め一万名参加、IUSのメッセージ届く、京都・大阪・九州でも学生・労働者が決起。 9.27日、京都でも3千名の学生の決起大会、市内デモが行われ、この日に京都を訪れていた岸首相を手厚く歓迎している。 9.28日、全学連第二波の決起行動。 9.28日、不当弾圧抗議が組織され、広汎な抗議闘争が組まれた。日比谷で全学連.総評.基地農民.原水協.社共両党による1万余の国民大会が開かれ、弾圧に抗議している。 9.29日、全学連緊急拡大中執委が、逮捕者全員釈放に勝利の一歩と声明、11.1総決起を呼びかける。 |
【砂川闘争事件第一審判決(伊達判決)で無罪勝ち取る】 | |
1959.3.30日、東京地裁第1審(伊達秋雄裁判長)が、「砂川訴訟」(1957.7.2日、東京調達局が東京都北多摩郡砂川町(現在の立川市内)にあるアメリカ軍の立川基地拡張のための測量で、基地拡張に反対するデモ隊の一部が、アメリカ軍基地の立ち入り禁止の境界柵を壊し、基地内に数m立ち入ったとして、デモ隊のうち7名が刑事特別法違反で起訴された事件の訴訟)で、「米軍駐留は違憲と」とし、被告を全員無罪とする判決を下した。次のように判示している。
世に「伊達判決」と云われる。この伊達判決は国側にとっては衝撃的なものだった。4.3日、検察側は、この伊達判決をつぶすために第二審の高裁を飛ばして直ちに最高裁判所へ跳躍上告している。 |
【砂川裁判闘争事件で最高裁判決が下され、有罪言い渡される】 |
12.16日、最高裁(大法廷、裁判長・田中耕太郎長官)が、「在日米軍の存在が憲法違反かどうか」を問うた砂川事件に関連しての第一審の伊達判決の破棄を言い渡した。アメリカの軍事基地に反対し、その闘争に参加する者を犯罪者とみなすという政治的裁判であった。 最高裁判決は、安保体制と憲法体制との矛盾をどう裁くかで注目されていたが、日本国憲法と条約との関係で、最高裁判所が違憲立法審査権の限界(統治行為論の採用)を示したものとして注目されている。 立川砂川基地はその後、米軍が横田基地(東京都福生市)に移転したことにより、1977(昭和52).11.30日、日本に全面返還された。跡地は東京都の防災基地、陸上自衛隊立川駐屯地や国営昭和記念公園ができたほか、国の施設が移転してきている。最高裁判決については「別章【砂川闘争】」に記す。 |
【砂川訴訟やり直し審】 |
1961.3.27日、砂川やり直し裁判地裁判決、最高裁の判断を尊重し、米軍の駐留は合憲であり、被告全員有罪。罰金2000円。 |
(私論.私見)