砂川闘争史

 更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4)年.4.7日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 「ちきゅう座」の「<09.01.29>砂川裁判に関する情報公開請求について<塩川喜信>」を参照する。


【砂川闘争―裁判闘争史】

 砂川事件をめぐる経過は次の通り。

1957年   7月

米軍立川基地にデモ隊が立ち入る

   9月 23人が刑事特別法違反容疑で逮捕。後に7人が同罪で起訴
1959年  3月

東京地裁が「米軍駐留は違憲」として7人に無罪判決(伊達判決)

 4月 検察側が最高裁に跳躍上告
12月 最高裁、1審を破棄、差し戻しを命じる
1960年  1月 日米安保条約改定
1961年  3月  東京地裁、7人に罰金2000円の判決
1963年 12月 最高裁、上告棄却を決定。有罪確定
2008年   4月  59年の最高裁判決の前に駐日米大使と最高裁長官が密談していたことが米側公文書で判明
2009年  3月 元被告らが日本側の記録開示を4機関に請求。5月までに「文書不存在」として不開示
10月 元被告らが再度、4機関に開示請求
11月 内閣府など3機関が同様理由で不開示
2010年  3月 外務省が開示と通知

【第1次砂川闘争始まる】
 「7中委イズム路線」はそうは長くは続かなかった。歴史の摩訶不思議なところであるが、宮顕が学生運動を右派的に手なずけたその瞬間に、砂川闘争が始まった。

 政府が、立川基地拡張のため、調達庁砂川宮崎町長に土地収用を申し入れ。町として反対決議、「砂川基地拡張反対同盟」を結成して反対闘争へ。所感派・国際派の別を問わず、宮顕式穏和化路線に反発する急進主義派の学生たちが「平和と民主主義」の根幹に関わる政治闘争として砂川闘争に取り組んで行くことになる。

 1955.9月、政府は、400名の警官隊を導入して測量を実施し始める。農民・労働者800名が阻止行動。労働者と農民が当局と激しく衝突した。「土地に杭は打たれても、心に杭は打たれない」というスローガンの下に闘いは進められた。一部杭打ちが行われる。これを第一次砂川闘争と云う。翌56年秋口には流血の事態を向かえることになる。

 砂川闘争とは次の通りである(東京平和運動センター「土地に杭は打たれても心に杭は打たれない」参照)。
 砂川闘争の舞台となった砂川町(東京都北多摩郡砂川町、現立川市砂川町)は、新宿から西に延びる五日市街道に沿って東西約9キロ、南北約4キロの範囲に広がる。戦前、1916(大正5)年、陸軍立川飛行場が開設され、戦時中には飛行場が空襲の標的となり町内の小学校二校が全焼させられている。戦後は米軍に接収され、新たに滑走路が拡張された。立川基地は、1950年の朝鮮動乱時出撃拠点となる等日本左派運動から見て許し難い存在であった。
 1955.5.4日、米軍立川基地の拡張計画が発表された。拡張区域には町の命綱である五日市街道が一部含まれており、計画が実施されると、百数十戸の住宅の立ち退きや町の東西を結ぶ五日市街道が300mにわたって東西に分断され集落としての機能が損なわれることは明らかであった。
 「砂川基地拡張反対闘争」とは、戦後直後に接収され米軍基地化された東京都立川町の反戦運動に源を発している。米軍立川基地拡張のために隣接する砂川町の約5万2000坪を接収することに対して、町ぐるみで反対闘争を行った事件で、「流血の砂川」と言われるように、多くの負傷者を出した。
 5.6日、拡張予定地内関係者が集まり、協議の結果、砂川町基地拡張反対同盟を結成。行動隊長に青木市五郎が任命された。
 5.8日、砂川町基地拡張反対総決起集会を開催して反対決議を行い決議文を町長に手渡した。五日市街道沿道に「基地拡張絶対反対」、「土地取り上げ反対」の立て看板がはりめぐらされ、家いえの門口には「立ち入り禁止」の立札が立てられた。
 5.9日、東京調達局の職員が町役場を訪れ、計画案を伝えようとしたが怒声にかき消され、ほうほうのていで引き揚げた。
 5.12日、町議会が開かれ、「基地拡張反対」の動議が全会満場一致で可決され、闘いは町ぐるみ態勢でいくことになった。町議全員が闘争委員となり、町長も巻き込んでの本格的反対闘争の組織づくりが着々と進められていった。こうして町ぐるみの闘いが始まった。
 5.30日、政府と国会に対して請願行動をおこなった。重光外相と根本官房長官と会見したが門前払いされた。
 6.3日、基地問題について衆議院内閣委員会が開催され、参考人としての意見陳述が行われた。砂川代表は「一坪たりとも土地の接収はご免だ」と堂々と意見をのべた。委員会終了後、衆議院第一議員会館に基地代表が集まって話し合い、全国基地拡張反対連絡協議会の結成について確認しあった。
 6.9日、三多摩労協との共闘受入れが決まり、基地拡張反対町民総決起集会が開催され、労農共闘が実現した。全学連急進派はその支援に立ち上がった。
 6.18日、都調達局が6.21日から8.31日まで収容予定地への立ち入り測量を行うという通知を発送したのを受けて、支援の労組主導による総決起集会が町内の阿豆佐味(あずさみ)神社で開かれ、町民1300名が参加した。
 8.24日、農民約1000名が五日市街道の両側に座り込みを続ける中で、反対派農民と測量隊が揉み合いとなり、夕刻には警官隊2千名が出動し農民が蹴散らされる事態となった。この日、測量ができず、予定最終ぞの8.31日になっても測量が実施できなかった。
 9.13日、米軍立川基地の拡張工事の為砂川町の強制測量が開始され、地元反対派がスクラムを組んで座り込み、反対派農民、労組、学生数千名と警官が早朝の六時から夕刻まで対峙し時に正面衝突した。午後5時、測量隊が為すすべなく引き上げた。血気盛んな全学連急進主義派が現地に泊り込み、反対同盟を支援した。これが砂川武闘闘争の始まりとなった。この砂川闘争の経験が、宮顕式穏和路線と次第にのっぴきならない対立を見せていくことになる。

 この時の闘いで、田中副闘争委員長(町議会副議長)、内野全町行動隊長(町議)、宮岡行動副隊長をはじめ12人、支援労組員15人が不当検挙された。
 9.14日、警官隊1800名が、前日には付けていなかった青ヘルで防護し、反対派農民の検挙に乗り出した。再度衝突となったが、指導者の狙い撃ち逮捕により反対派が蹴散らされ、負傷者100名以上、検束逮捕者30名を出して惨敗させられた。午前中の内に予定測量を完了している。一週間ほどのち、機動隊の小隊長、自殺。
 同日夕刻、砂川町基地拡張反対同盟が阿豆佐味(あずさみ)神社で集会し、行動隊長/青木市五郎があいさつの中で「土地に杭は打たれても、心に杭は打たれない」の名文句を生み出している。

 高見圭司「五五年入党から六七年にいたる歩み」は次のように記している。
 「この当時、私がかかわった運動らしい運動は“砂川基地拡張反対闘争”であった。このころは、五三年ごろから妙義、浅間の基地闘争、内灘の村民を先頭にした実力阻止のすわり込み闘争が高揚していた。砂川闘争は数多く起った全国各地の安保条約にもとづく基地反対闘争のなかで天目山のたたかいであった。五五年九月二二日砂川町で強制測量が開始され、警察機動隊と地元反対同盟、東京地評傘下の労働者、ブンドの指導する全学連が激突し闘った。私は、この日警察機動隊の前に坐り込み、ゴボウ抜きされ、ズボンは引きちぎられ、そのご数日間足を引きずって歩かねばならないほど機動隊に蹴られたのである。その後も何回か現地闘争に参加した」。

 森田実・氏は、「森田実の言わねばならぬ【298】」で、次のように証言している。
 「1955年の第一次闘争の主体は砂川町の農民とこれを支持する労働組合(総評と三多摩労協)、社会党、共産党だった。このときは警察機動隊に徹底的に叩かれた。この体験から、砂川基地反対同盟と支援者の思想的リーダーだった清水幾太郎学習院大学教授と高野實前総評事務局長は砂川町の青木市五郎行動隊長とともに、1956年当時全学連の平和部長だった私(森田実)に対して「全学連として砂川闘争に加わるよう」求めた。私は協力することを約束し1956年から砂川闘争に参加した」。

【第二次砂川闘争】

 1957.9.13日、第二次測量開始が予測される中、全学連は砂川基地反対の闘争宣言を発して現地闘争本部を設置し、地元農民、支援団体と協力しながら闘いを組織した。10月になると学生はぞくぞく現地に乗り込み泊り込んだ。全国から3千名を現地動員し、農民.労働者と共に泊り込むこととなった。

 10.4日、政府は、滑走路拡張のため機動隊・警察官3千名を動員して強制測量強行を指針する。10.2日、全学連拡大中執委が、9.22逮捕の学生3名(他に労働者4名)の刑特法での起訴に抗議声明。総評・全学連・社会党・共産党など21団体の砂川闘争支援連絡会議が、反対同盟を支援するため全国動員決定。

 10.12日、立川基地拡張の第二次強制測量始まる。10.13日、これを阻止せんとして反対同盟員、学生、労働者ら6000~7000名がスクラムを組み、座り込む。警官隊がこん棒を振りかざし、暴力的に排除し始めたため衝突、「武装警官隊2千名に襲われ、学生1千名重軽傷」。これにより「流血の砂川事件」と云われる。

 この時、砂川町の農民と労組、全学連、社会党、共産党、その他全国から馳せ参じてきた支援者でつくるデモ隊が機動隊の攻撃に耐え抜き、測量完全実施を阻止した。これによって砂川町における米軍基地拡張は事実上阻止された。反体制運動のほとんど唯一の勝利だった。 但し、砂川闘争では都委員会も全組織をあげてよく戦ったが、中央部のスターリン的干渉に悩まされた」とある。 

 10.13日、.砂川の激突で測量中止。10.14日、鳩山内閣は遂に測量中止声明をせざるを得ないところとなった(砂川闘争は14年の永きにわたっての闘いとなったが、不屈な闘いが功を奏し、1968.12.19日、基地計画中止が発表された)。この報に接した砂川町は、「勝った」、「勝った」の歓声で、五日市街道はどよめき、喜びと化し、「ワッショイ」、「ワッショイ」のデモガ繰り広げられ、無法地帯の様相を呈した。これを第二次砂川闘争と云う。

 「砂川基地反対闘争」は、全学連にとって、50年秋の反レッド.パージ闘争以来の勝利であり、学生運動史上歴史に残る輝かしい戦いとなった。その功績として、従来、軍事基地反対闘争は民族解放闘争や武装闘争の突破口的位置付けで取り組まれてきていたが、これを平和擁護闘争として取り組み、地元農民・市民・労組等々との提携による民主勢力の結集で闘うという貴重な経験となった。

 安東氏の「戦後日本共産党私記」は次のように記している。
 「内灘闘争によって火の手を挙げられた基地闘争は、この砂川闘争においてついに勝利を収めることができた。以降、軍事基地の新設、拡張は容易には設定し得なくなった。加えてこの闘争を機として行政協定→安保条約の問題が世論の正面に登場し、60年安保の闘いの第一歩が記されたのである」。

砂川基地反対闘争をめぐる対立発生
 この時の砂川闘争では都委員会も全組織をあげてよく戦ったが、中央部のスターリン的干渉に悩まされた。このことが全学連中執の内部の現地指導部と留守指導部との間に、砂川闘争の評価をめぐって意見の対立を生じさせた。

 56年秋の砂川闘争後、学連内に内部対立が生じた。現地指導部(森田・島)が「現地動員主義の成功」評価で意気軒昂になったのに対して、留守指導部(高野・牧)がその他の運動との結合との絡みでしか評価しないという対立であった。その後の経過からして、現地指導部を急進主義派、留守指導部を穏和主義派と見なすことができるように思われる。留守指導部の背後に宮顕系の指導があり、このことが次第に全学連中執を悩ませていくことになる。

 
この意見の対立は次のところにあった。共に「層としての学生運動論」に依拠しつつも、急進主義派はこの時期多数派を占めており、「現地動員主義」を高く評価しその後の闘争的質の指針たらしめようとしていた。他方、少数派の穏和主義派は、「日常要求の闘いを通じての広範な学生の参加運動の志向」へと逆戻りさせようとした。急進派はこれを右翼日和見主義として批判した。こうして、全学連再建後の学生運動内部に早くも非和解的な二潮流が分岐していくことになった。この二つの潮流は激しく論争をしながらその後交わる事は無かった。

 以降、全学連内で主流と反主流の論争が表面化することとなった。この対立は、砂川闘争を指導した東大の森田と学連書記長で早大の高野の対立に集約された。急進主義系派は概ね森田支持派となり、宮顕系日共派は概ね高野支持派となった。この対立にはもう一つの要素が加わっていた。つまり、全学連運動の主導権を廻る旧帝大の雄東大勢と私立の雄早大との反目も関連していた。「闘争勝利後の構造改革派=牧+高野と構改派反対・島との対立、森田実の背後に安東仁兵衛の奇怪な動き」とある。

 
変調な事に、早大の高野派が党の意向を汲んでいたようで、この争いは闘いの戦術から政治路線、革命理論にまで及び果ては大衆的規模の対立までなった。「この背景には党中央のスターリン的干渉があったと判明している」と評されているが、「党中央のスターリン的干渉」と評するのは、宮顕悪事の一般化過ぎよう。

 この時有名な「孫悟空論議」が為されている。「孫悟空論議」とは、砂川における学生の活動に対して、高野が「総評・社会党幹部と云う釈迦(世界情勢)の掌で踊った孫悟空に喩え、『極左冒険主義』の危険をはらむもの」とする論で、これに森田が「運動における学生層の役割を過小評価するものとして非難応酬」した経過を云う。

 この論争に対して、石堂清倫氏は次のようにコメントしている。
 「学生がカタストロフ型の変革にあこがれ、長期の平和移行にあきたらないのは、よくある現象であった。しかしそうした外見的区別基準をもっていただけではない。それまでのスターリン型の思考が原型となっているところにスターリン主義が瓦解したのであるから、一時的な真空を何によって充たすかを十分に検討すべきであった。……いま一つ反省しなければならないのは、学生たちの中央軽蔑、一種の下克上現象の続出は、砂川闘争における中央部の無力、それに引きかえ学生は中央部なしに自分でやれるという自信をつけたことにあろうという片山さとしの説であるが、まさにそうである」。

 こうしてこの時期の56年秋の砂川闘争後、全学連内に主流急進派と反主流穏健派の内部対立を生じさせることになった。もともと党の意向とも絡んだ組織運営をめぐっての対立であったようであるが、私立の雄早大の高野と旧帝大の雄東大の森田との反目も関連していたようでもある。


 高野秀夫は、この後全学連反主流派の「構造改良派」の雄として50年代後半の学生運動を指導していくことになった。加えて、香山.森田の指導に対する物足りなさが次の流れへと向かうようである。付言すれば、高野は、宮顕に使い捨てされた挙句入水自殺を遂げることになる。


 この争いは闘いの戦術から政治路線、革命理論にまで及び果ては大衆的規模の対立にまで発展していくことになる。急進主義派はその後森田を乗り越え更に左派化し、宮顕系日共派は高野を乗り越え更に右派化していくことになる。こうして、全学連内部に宮顕系日共派とこれに反発する急進派が誕生することになった。全学連再建後の学生運動内部に早くも非和解的な二潮流が分岐していくことになった。

 この二つの潮流は激しく論争をしながらその後交わる事は無かった。学生党員グループの先進派は、この間ジグザグする日共指導による引き回しに嫌気が差し、もはや日共党中央の影響を峻拒し自律化せしめようとし始める。以降、学生党員グループのこの動向が全学連運動の帰趨を決めていくことになる。この連中が闘う全学連の再建目指して胎動していくことになる。

【岸政権が、米軍立川基地拡張を再度画策し始める】
 1957.6月、岸信介首相は渡米してアイゼンハウワー大統領と会談、「日米共同宣言」を発表。後に60年安保改訂につながる日米安保条約の改定についての協議を開始した。これと並行して砂川町では米軍立川基地拡張のため強制測量が再強行の動きを見せ始めた。

【第三次砂川闘争前段、反対派学生が基地突入】

 1957.7.8日、基地内にある民有地を強制収容するため、再び砂川基地拡張の強制測量が行われた。夏休み中であったが学生は労働者と共にかけつけ、機動隊装甲車を先頭とする警官隊2千名と対峙した。米軍は、基地の柵内側に長さ1000mのぐるぐる巻きの鉄条網で立ち入りを防ぐと共に、更に機関銃を載せた軍用ジープ2~3台で反対派を威嚇した。これに構わず数十名の学生がシュプレヒコールを叫びつつ、、有刺鉄線を切り倒して基地内に突入した。「基地そのものを認めない、安保条約反対、戦争反対、平和を守れの意思表示として、基地内に入った」。「米軍基地内に初めて日本人が公然と突入した」と気勢をあげた。

 この事件に米軍側は相当あわてたようで、米軍兵士が銃を持って出てきた。 闘争を指導していた森田実・氏がデモ隊を基地外に出るよう指揮してい、事無きを得た。基地内に入っていたとき、米軍と日本の警察が写真を撮っていて、写真に撮られた学生と組合員が9.22日に選別逮捕される事になる。森田実・氏は次のように証言している。

 「あとで聞いたことだが)不思議なことに基地内でデモ隊を指揮していた私は写真に写っていなかったようで、逮捕はされなかった。このとき逮捕された学生の1人が、当時、明治大学自治会の委員長で都学連委員長(だったと記憶している)土屋源太郎さんだった」。

【第三次砂川闘争中段、基地突入学生が逮捕される】

 9.22日、警視庁は、「さる6.27日-26日の砂川町の基地測量にあたり、基地内に立ち入って妨害した」という理由で、安保条約に基づく日米行政協定の刑事特別法2条違反容疑と暴力行為等処罰に関する法律の適用により、23名の学生.労働者を逮捕した。全学連小野寺書記長、土屋都学連委員長等9名の学生、労働者(学生3名、労働者4名)が起訴された。

 海野晋吉弁護士を団長として30数名の弁護団が結成され、被告と共に法廷闘争を闘うことになる。この事件は、後に東京地裁の判決(伊達判決)で、「米軍基地の存在そのものが憲法違反であり、基地への侵入は無罪である」という「伊達判決」が下されたことで画期的な意味を持つことになった。


【第三次砂川闘争後段、抗議闘争激化する】

 全学連は直ちに行動を起こし、200名の学生が国鉄新橋の労働者とともに、警視庁に押しかけ抗議した。深夜に全学連拡大中執が開かれ、全国的な闘争を組織することを決定した。9.23日、全学連、砂川闘争関係者逮捕に25日第一波、28日第二波抗議行動を決定し、連日警視庁に抗議デモを仕掛ける。

 9.25日、全学連2300名の抗議デモが組織された。2000名の武装警官隊がこれを襲撃し、2名を検束、十数名に重軽傷を負わせた。しかし、全学連は闘争の鉾を納めず、26日、27日と立て続けに警視庁への抗議デモを組織し労組とともに主要駅で真相報告とカンパ活動を展開している。

 9.28日、原水爆実験反対・砂川不当弾圧反対国民大会〔日比谷〕に学生を含め一万名参加、IUSのメッセージ届く、京都・大阪・九州でも学生・労働者が決起。

 9.27日、京都でも3千名の学生の決起大会、市内デモが行われ、この日に京都を訪れていた岸首相を手厚く歓迎している。

 9.28日、全学連第二波の決起行動。 9.28日、不当弾圧抗議が組織され、広汎な抗議闘争が組まれた。日比谷で全学連.総評.基地農民.原水協.社共両党による1万余の国民大会が開かれ、弾圧に抗議している。

 9.29日、全学連緊急拡大中執委が、逮捕者全員釈放に勝利の一歩と声明、11.1総決起を呼びかける。


【砂川闘争事件第一審判決(伊達判決)で無罪勝ち取る】

 1959.3.30日、東京地裁第1審(伊達秋雄裁判長)が、「砂川訴訟」(1957.7.2日、東京調達局が東京都北多摩郡砂川町(現在の立川市内)にあるアメリカ軍の立川基地拡張のための測量で、基地拡張に反対するデモ隊の一部が、アメリカ軍基地の立ち入り禁止の境界柵を壊し、基地内に数m立ち入ったとして、デモ隊のうち7名が刑事特別法違反で起訴された事件の訴訟)で、「米軍駐留は違憲と」とし、被告を全員無罪とする判決を下した。次のように判示している。

 概要「日本政府がアメリカ軍の駐留を許容したのは、指揮権の有無、出動義務の有無に関わらず、日本国憲法第9条2項前段によって禁止される戦力の保持にあたり、違憲である。したがって、刑事特別法の罰則は日本国憲法第31条に違反する不合理なものである。即ち『米軍駐留は違憲』であり、存在を許されないものである。それにより刑事特別法は無効であるので、これによる処罰は不当とする。全員無罪とする」(東京地判昭和34.3.30 下級裁判所刑事裁判例集) 

 世に「伊達判決」と云われる。この伊達判決は国側にとっては衝撃的なものだった。4.3日、検察側は、この伊達判決をつぶすために第二審の高裁を飛ばして直ちに最高裁判所へ跳躍上告している。


【砂川裁判闘争事件で最高裁判決が下され、有罪言い渡される】

 12.16日、最高裁(大法廷、裁判長・田中耕太郎長官)が、「在日米軍の存在が憲法違反かどうか」を問うた砂川事件に関連しての第一審の伊達判決の破棄を言い渡した。アメリカの軍事基地に反対し、その闘争に参加する者を犯罪者とみなすという政治的裁判であった。

 砂川事件は、「一体、条約と憲法ではどちらが優先されるのか」という論争の格好のテーマとなっていたが、既に「違憲である」とする伊達判決が出されていたのに対し、最高裁は次のような「高度な政治判断であり司法判決には馴染まない」法理論で処理した。以降、これが定式化される。

 概要「憲法第9条は日本が主権国として持つ固有の自衛権を否定しておらず、同条が禁止する戦力とは日本国が指揮・管理できる戦力のことであるから、外国の軍隊は戦力にあたらない。したがって、アメリカ軍の駐留は憲法及び前文の趣旨に反しない。他方で、日米安全保障条約のように高度な政治性をもつ条約については、一見してきわめて明白に違憲無効と認められない限り、その内容について違憲かどうかの法的判断を下すことはできない」即ち「安保条約は高度の政治判断の結果。極めて明白に違憲と認められない限り、違法審査権の範囲外であり司法判決にはなじまない」(最大判昭和34.12.16 最高裁判所刑事判例集13・13・3225)。1963(昭和38).12.7日、被告人の有罪(罰金2,000円)が確定し最終判決となった。

 最高裁判決は、安保体制と憲法体制との矛盾をどう裁くかで注目されていたが、日本国憲法と条約との関係で、最高裁判所が違憲立法審査権の限界(統治行為論の採用)を示したものとして注目されている。

 立川砂川基地はその後、米軍が横田基地(東京都福生市)に移転したことにより、1977(昭和52).11.30日、日本に全面返還された。跡地は東京都の防災基地、陸上自衛隊立川駐屯地や国営昭和記念公園ができたほか、国の施設が移転してきている。最高裁判決については「別章【砂川闘争】」に記す。


【砂川訴訟やり直し審】
 1961.3.27日、砂川やり直し裁判地裁判決、最高裁の判断を尊重し、米軍の駐留は合憲であり、被告全員有罪。罰金2000円。





(私論.私見)