補足

「唐牛問題(「歪んだ青春−全学連闘士のその後」)考」

 更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4)年.5.11日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 以下、「唐牛問題」を考察する。唐牛氏その人については「唐牛健太郎」で考察する。「田中清玄」については、「田中清玄考」で考察する。

 高杉公望氏の「田中清玄と安保全学連問題の実像」は次のように記している。
 「田中清玄については、日本共産党によるデマ・中傷によって『極右』などという実像とまったくかけ離れたレッテルが独り歩きしてきた。そのため、田中清玄から資金カンパを受けた安保全学連についても、それが何事かであるかのような無意味な囁きが再生産され続けてきた」。

 ここで、「唐牛問題」を取り上げる理由は、この件に関して、第一次ブント側が当時も今も、宮顕-不破系の論理に太刀打ちできていない事情を切開してみたい為である。それは唐牛氏の冤罪を晴らす為でもあるし、田中清玄氏への偏見を晴らす為でもあるし、総じてこの問題に表れる宮顕系日共論理を内部から排撃しない限り日本の左派運動が隆盛を見ないと思うが故にである。

 新左翼側が日共運動を批判しつつもなぜそれに代わる自前の運動を創出できないのか。その原因として、「唐牛問題」に典型的に見られるように宮顕論理を真に克服し得ていないという理論面での貧困が横たわっているが故ではなかろうか。史実は、新左翼側が理論で克服するのではなく、日共に対してぶつけるようにして怨情的な批判運動を展開させていくことになった。党派運動におけるこうした理論面でのひ弱さとその反動としての怨情化運動は利益にならないのではなかろうか。このままいくら待てど暮らせど、れんだいこ以外にこの問題を取り組む人士が出そうにないので、ここで敢えて考察してみたい。

 2003.4.26日再編集 れんだいこ拝
 2018.6.24日、「全学連闘士のその後について荻上チキらが議論する」を聞いたが、当の番組を再現させているところは評価できるが、その評論となるとまったく陳腐なステレオタイプな評論であることに呆れる。れんだいこの本稿の労作を少しも学んでいない。田中清玄を右翼としてのみ描き出すことを恥じない。語り手がそうだが、聞き手も然りで合わせてくだらなさ過ぎる。こんなもんで飯が食えるのだから羨ましい限りだ。

 2018.6.24日 れんだいこ拝


【事件の発端】
 まず、「唐牛問題」発生の経過を見ておくことにする。1963年は「中ソ論争の公然化」で明けた。マル学同内も黒寛派と本多派の深刻な対立が進行しつつあった。社会党協会派内も左右の抗争が激しく、社青同解放派誕生へ向けて胎動しつつあった。こうした情勢下の折、1963.2.26日9時半過ぎよりTBSインタビューによるラジオ録音構成「歪んだ青春−全学連闘士のその後」が放送された。担当ディレクターは吉永春子。番組は、安保闘争時の全学連幹部活動家が、名うての反共右翼であるとして描き出された元武装共産党時代の委員長・田中清玄氏から闘争資金の援助を受けていたこと、安保後には田中の経営する土建会社に勤めている等親密な関係にあったことを暴露した。放送で取り上げられていた「全学連闘士」達とは、当時の全学連委員長・唐牛健太郎、書記次長・東原吉伸、共闘部長・小島弘、社学同委員長・篠原浩一郎らであった。

 その内容を3.2日付け「内外タイムス」が、「全学連に意外なパトロン 五百万円ボンと出す反共運動家の田中氏」と題して次のように報道した。
 「安保闘争で世界的にその名をとどろかせたゼンガクレン″に意外なスポンサーがついていたことがわかった。戦前の武装共産党″の書記長―戦後は反共活動家として有名な田中清玄(きよはる)(57)がその人。この新事実は、現在の学生運動家や当時安保デモに参加した学生に大きなショックを与えているだけでなく、当時全学連を支持した進歩的文化人の間にも『これは安保闘争での全学連のはたした役割りを再評価させる問題だ』という声が起きるなど大きな波紋をよんでいる」云々。

 宮顕系日共は、この「歪んだ青春−全学連闘士のその後」を連日に亘ってアカハタで取り上げ、「エロ新聞なみのひわいな中傷記事と、全学連によって主導された安保闘争全体にたいする誹謗の政治的アジテーションをもって」(吉本隆明「反安保闘争の悪煽動について」)政治的カンパニアを組織した。

 3.22日号週刊朝日が特集を組み、次のような記事にしている。
 3月10付の「アカバタ日曜版」は、この問題を特集し、TBS放送の要旨をのせたほか、東原、唐牛、篠原三君の私生活の乱脈ぶり″まで伝えた。そして「CIA、公安調査庁につながりをもつ田中清玄」と書立てた。 学生集会にも、TBSの放送を再録音したテープを持出し、攻撃の輪を広げているが、3月17日から19日まで東京で開かれる平民学連(日共系の学生組織)主催の全国学生会議には、この問題が大々的に取上げられるというウワサもある。

 日本共産党中央委員・青年学生部長の砂間一良氏はこういった。「われわれは、ざまあみろといった気持は毛頭もっていない。ただ、全学連の指導部を占拠したトロツキストの実体が、こんどの放送で分ったことと思う。彼らが運動の焦点を″反岸″にしぼり、アメリカ帝国主義との闘争にそっぽを向いたのは、来日反動の黒い手が背後にあったからだ。田中清玄はその窓口だった。当時いわれていた国会放火説″も単なるウワサではなく、政府はそれを機に徹底的な弾圧を加えようとしていた。トロツキストの役割はこうした激突主義によって安保闘争を分裂させることにあったのだ。日本共産党の路線が正しかったことをこんどの放送が証明したが、あのころ全学連指導部のカタをもった学者、文化人も教訓として受けとめてほしい」。

 吉本隆明氏は、3.25日号日本読書新聞の「反安保闘争の悪煽動について」で次のように記している。
 「これに伴奏するように、『知識人』が、例によって、例のごとくつまらぬ感想をのべてこの誹謗に加わった」。

 日共式プロパガンダに対して次のように批判している。
 「わたしたちは、まず、『事実』の核心を、安保闘争時と三年の歳月を経た現在の総体のなかにさしもどさなければならない。(全学連幹部であったとき、唐牛健太郎らは、田中清玄の企業に就職していなかった。就職している三年後の現在、かれらは全学連幹部ではなく、一個の市民、または人民である)

 わたしのささやかな体験に照らしても、わずか二、三百人の中小企業で、十日間のストライキを組もうとすれば、闘争の責任者は数百万円の資金の目あてがなければ闘争にはふみきれないものである。全安保闘争を主導的にたたかった学生、知識人、労働者、市民の動員数と日数をいま、詳らかにすることができないが、そこで必要とされた資金の総体のなかで、田中清玄から、かれらが引きだしたという金は、(数百万円というのが事実だとしても)小指のさきほどの部分にすぎないことは、常識さえあれば、だれにでも、理解できるはずである。

 田口富久治は、政治学者として政治資金について一個の見解を披瀝したいならば、まず、このことを前提としなければ、虚構の論議になるとおもう。そのうえで、田口が関心をもつ日本社会党やそれに反対するのは危険であるという日本共産党の政治資金の実体について、学問的探求を試み、すくなくともそこから、何を学者として感得しうるか試みてみるべきではなかろうか。小才のきいた結論などを学者としてひき出すべきではないのである。部分を拡大して総体の問題にすりかえ、部分的誤謬を拡大して総体を無化する方法は、あらゆる政治的、思想的な悪煽動の発端である。  

 マス・コミと日共機関紙をはじめ、これに唱和するすべての『知識人』たちは、一様に、田中清玄から全学連がひき出した、小指のさきほどの闘争資金のみを拡大して、ここに攻撃と論議を集中している。もちろん、日共機関紙のばあいは、学生運動を自己の影響下におこうとする明瞭な目的意識をもった悪煽動で、それなりに攻撃の動機は明白である。しかし日高六郎から田口富久治にいたる『知識人』の発言は、おそらく、別の根拠にもとづいている。それは何であろうか? かれら、古典的『進歩』主義者は、田中清玄→武装共産党の指導者→転向→反共右翼→悪玉→恐怖(陰謀)というように理解の矢を結びつける、いやしがたい心的な傷痕と、古典性を刻印されている。それから逃れることはできないのである。(中略) 悪玉? 陰謀家? 恐怖? もし、今日の田中清玄からそんな像をみちびくとすれば、かれら進歩的『知識人』のなかに、戦争期にうけたインフェリオリティ・コンプレックスと、古典進歩主義の理念との結合が、ひとつの宗教的固定概念として存在しているからである」。

【カンパの内容証言】
 この「資金援助」自体は、田中清玄氏も当時の全学連指導者側も認め、東原氏の手記や「週刊朝日」の追跡調査(「録音構成『歪んだ青春』の波紋―安保の主役たちと日共と田中清玄氏―」)でも裏づけられた。概要を明らかにすれば次のような諸事実が露見していた。
 「田中氏から貰った金は、当時の金で4〜5百万円で、4万円、5万円、多いときで50万円と、何回かにわたって受け取った。何名かの者は飲み食いから毎月の小遣いまで貰っていた。田中氏の家へ行って飯を食ったこともある」。
 「闘争の戦術指導の遣り取りも為されていたらしく、『非常に参考になったことは事実ですよね』と回顧している」。
 「60年安保闘争時、田中は配下の武道家集団を全学連の護衛につけ、児玉系右翼の襲撃から護っていた」。
 「田中は唐牛、東原、篠原達の就職の面倒まで見ていた。唐牛氏も『革命の布石を打つためには、誰の所で働いたって構わない』としていた。東原氏も『神戸の田岡一雄氏とその配下の佐々木竜二氏には、何かとお世話になった』と述べている。ブント書記長島氏も、ブント解体後の一時寄宿していた」。
 「警察・検察の温情に接しており、警視総監をしていた小倉謙氏や、その時の学連の闘争を扱っていた野村佐太男検事正と時々会い、フランクな話をし、そしてこの方々が、『若い学生と全学連に並々ならぬ温かい感情と同情心をもって事に当たられていると聞いたときは、全く驚いた』と証言している。当時の公安一課長をしていた三井氏とも運動の最中に会っていたが、『全学連に対して、並々ならぬ同情心を持っておられた』と述懐している」。

【日共の異常とも云える政治主義的カンパ二ア】
 「唐牛問題」は、共産党がこの問題を大々的に取り上げ、60年安保闘争時の全学連指導者ブントのいかがわしさを喧伝していくことになった、という意味で政治的事件となった。この時の共産党の飛びつきようは異様なほどに徹底し、地区党の末端まで「トロツキストの正体は右翼の手先」だとする録音テープを大量に配布し、機関紙アカハタで連日この問題を取り上げた。その結果、60年安保闘争に金字塔を打ち立てた当時のブントの「いかがわしさ」が浮き彫りになり、その輝かしい功績もろともが葬り去られて行くことになった。
(私論.私見) 日共プロパガンダに対する新左翼側の沈黙

 問題は、この日共系のプロパガンダに対して、当事者のブント側の反論がか弱く、他の左派諸派もまた沈黙を余儀なくされていることにあった。この構図が今日まで続いていると云っても過言ではない。このことは何を語るか。日共側のこの理論攻勢に新左翼側が理論闘争レベルで対応し得ていないだけの能力しか持っていない、ということではなかろうか。時の権力を勝手に機動隊に仮想して、肉弾戦を如何に戦闘的にやろうとも、こうした理論面での切開をしないままのそれでは情けない。


【日共の田中清玄批判の詐術を批判する】

 以下、れんだいこが、「唐牛問題」に関する日共側の姑息な手口を暴いて批判する。「田中清玄インタビュー」内容の詳細を知りたいが手元にないので、漏洩されている諸見に逐次コメントしていくことしかできない限界があることは致し方ない。

 まずは、この時の日共党中央の喧伝には例の詐術があったことを指摘しておきたい。どういう詐術かというと、1・この時日共は、田中清玄氏を主として民族主義者的な「名うての職業的な反共右翼」として描き出し、2・その右翼的政界フィクサーがブントへ資金提供していたという「いかがわしさ」を浮きだたせ、3・よってブント系トロツキストの反共的本質を明らかにする、という三段論法をとった。

 日共側は、田中清玄像を「職業的な反共右翼」としてフレームアップさせていたが、事情通はそれでは納得しない。田中清玄氏は戦前の武装共産党時代のれっきとした委員長であった。通り一辺倒な「職業的な反共右翼」で済ますわけには行かない。という訳で、この種の問いかけを為す者に対しては次のように説明していた。

 概要「戦前、日本共産党の指導部にいたことがあり、1930年の『武装メーデー』なるものを指令して党と革命運動に重大な損害を与え、しかも逮捕されるといちはやく獄中転向して、出獄後は侵略戦争に進んで協力した経歴を持つ。そして戦後は、労働運動や民主運動の破壊工作に渡り歩く職業的な反共右翼として名前を売っていた。TBSラジオのナレーターも云っていたように、戦後、彼は土建業に従事するようになったが、合間を見ては、日本各地を反共演説をぶって歩いた。戦後の大争議と云われた苫小牧の王子製紙のストライキも、彼の手に掛かると、あっというまに第二組合ができ、あっけなく争議は潰れてしまったことで判明するように極悪反共分子である」。

 まず、田中清玄氏をかように像化して憚らない宮顕論法が如何に悪質なものであるのかを順次見ておこうと思う。第一に、田中清玄氏は云われるような「日本共産党の指導部にいたことがあり」で済まされるような存在ではない。その真実像は「武装共産党委員長時代の足跡」で簡単ながらスケッチしているので参照されたい。田中氏は、「党の最高幹部として、一時期れっきとして委員長を勤めた者」である。そういう経歴を持つ者を、「日本共産党の指導部にいたことがあり」などと曖昧表現で済ますことは的確な表現ではない。というか、宮顕特有の落し込め詐術である。

 次に、「1930年の『武装メーデー』なるものを指令して党と革命運動に重大な損害を与え」とあるが、この判断もまた宮顕特有の逆裁定見解でしかない。史実は、田中氏は、昭和3年の「3.15事件」、昭和4年の「4.16事件」という両弾圧で壊滅的危機に陥った直後の党活動の立て直しに着手し、これに成功した功績を持っている。これが正しい評価である。一般に「武装共産党」時代と云われるが、この時期「革命運動に重大な損害」を与えたかどうかは判定が難しい。急進主義運動で対権力闘争をひるむことなく展開し、直接対決した珍しい史実を残しているが、それは誉れな財産となっていると評価することも可能であろう。

 この時期蒔かれた種がその後の大衆運動の諸分野で着床したことも見落とされてならない功績である。史実の語るところ「革命運動に重大な損害」を与えたのは、その後の党運動で宮顕が主導した「小畑中央委員リンチ致死事件」に代表される一連の党内査問事件の方がズバリそのものであろう。

 次に、「逮捕されるといちはやく転向」も事実に反している。特高の度重なる拷問に頑強に抵抗し、その強靭な体力ゆえに奇跡的に生命が維持されたとも云うべき踏ん張りを見せている。この点ではむしろ、本人の弁にも関わらず拷問を受けなかった宮顕その人の方が胡散臭い。田中氏の「転向」はそうした不屈の獄中闘争後のことであり、それは当時の国際情勢とコミンテルン指導の変調さを思案した結果の思想問題であり、必要以上には踏み込むべきではなかろう。

 むしろ、当時の転向雪崩現象は今日ありていに為されているような外在的批判では済ましえない内実を持っているのではなかろうか。むしろ、不屈の闘士然として伝えられている宮顕神話の獄中下の様子こそ奇異そのものであることが今日判明している。この件については「宮顕の獄中闘争について」で解明しているので参照されたし。

 次に、「出獄後は侵略戦争に進んで協力した経歴を持つ」も、何を根拠にそのような捻じ曲げ断定しているのであろう。氏のその後の様子は自伝で確認されようが、一風変わって山本玄峰老師に私淑し、三島の龍沢寺での修行生活に入っている。ほぼ時局とも没交渉であり、時の支配層より大戦末期での敗戦処理方法において師事する玄峰老師の聴聞が為され、その秘書的活動で当局と渡り合っている史実は残されているが、「侵略戦争に進んで協力した経歴を持つ」ようなものでは断じてない。

 次に、戦後の活動であるが、その詳細は自伝に譲るとして「合間を見ては、日本各地を反共演説をぶって歩いた」というような形跡はない。「苫小牧の王子製紙のストライキも、彼の手に掛かると、あっというまに第二組合ができ、あっけなく争議は潰れてしまったことで判明するように極悪反共分子である」については詳細不明であるが、捏造の可能性のほうが高い。宮顕話法はこういう為にする批判の為の史実捻じ曲げは常習的であるので、迂闊には乗れない。

 これについては、2002.6.15日発刊の「60年安保とブントを読む」の中で、東原吉伸氏が次のように書いている。

 「独占支配に対抗すると称して工場占拠・労組による経営管理まで行おうとするソ連の第5列、日共の指導する労働争議などを分裂・解体する仕事にも体を張った。泥沼に叩き込まれていた王子製紙苫小牧の180日に及ぶ争議の現地指導を最後まで行い、解決させ、会社蘇生の基礎を固めた」。 

 肝心なことは、解決のさせ方であったと思われるが、これ以上は分からない。

 以上逐一の反論で判明するように、宮顕共産党の田中清玄批判は悪質さ重度のそれである。この辺りの正確な事情が不問のままに、「職業的な反共右翼」像がフレームアップさせられ、その指導を受けていたブント指導部のいかがわしさが糾弾されるという構図で、「唐牛問題」が展開された。この非道ぶりが知られねばならない。

  この後おってみていくことになるが、63年当時のブントは分裂状態で崩壊状況にあり、日共のこうした欺瞞的な策動に対し有効な反撃が組織できなかった。れんだいこなら、こう反論する。

 「田中清玄氏は、あなたがたの党の前身である戦前の武装共産党時代のれっきとした党委員長であり、転向後政治的立場を民族主義者として移し身していく ことになった。これは彼の人生ドラマであり、我々の関知するところではない。その彼が、当時においては政治的立場を異にするものの、当時の我々のブント運動に自身の若き頃をカリカチュアさせた結果、資金提供を申し出たものと受けとめている。氏の『国家百年の計』よりなす憂国の情の然らしめたものでもあった。ブントは、これにより政治的影響を一切受けなかったし、当時の財政危機状態にあっては有り難い申し出であった。

 もし、これを不正というのであれば、宮顕の戦前の党中央進出過程と戦後の党分裂期の国際派時代の潤沢な資金、トラック部隊への関与、その他日共へのソ連共産党資金ルート等々について究明していく用意がある」。

【日共の『権力によるトロツキスト泳がせ論』を批判する】
 ところで、宮顕系党中央が、「唐牛問題」で当時のブント活動家を批判するのに、「権力によるトロツキスト泳がせ論」を満展開させていたことも見落としてならない点である。TBS放送「歪んだ青春−全学連闘士のその後」でこのことが裏づけられたとしていたが、その根拠として、1・挑発行動の戦術指導を受けていた、2・検察・警察首脳とも密接な関係にあった、3・60年安保闘争後唐牛氏らが一時田中清玄あるいはその盟友山口組三代目組長田岡氏らの関連先へ寄寓していた、等々を暴露していた。これにどう反論すべきであろうか。残念ながら当時のブントはこれにも沈黙させられた。

 れんだいこなら、こう反論する。1・挑発行動の戦術指導を受けていたについては、その通りであるが、「挑発行動」と捻じ曲げるのは宮顕得意のすり替え論法であり、我々はあの当時最も先鋭且つ効果的な方法を必死になって模索していたのであり、そうした時に田中氏の戦前の武装共産党時代の経験は大いに参考になった。このことのどこに不都合がありや否や。

 2・検察・警察首脳とも密接な関係にあったについては、公安は公安なりに真剣に情報取りに向かうものであり、我々が運動の利益を考えながらこれに是々非々で対応するのは闘争現場の現実がしからしめるところである。そういう意味で、小島氏の「公安は僕を捕まえたいが、捕まえると全学連とのパイプ役がいなくなるので向こうも困る。当時はそんな訳で、警察と一種の信頼関係があった」のは、革命の弁証法のひとコマである。ここに疑義を差し挟み傲然(ごうぜん)とする者こそ、過去一度もそのような運動主体になりえなかった者の為にする批判ではないのか。

 3・60年安保闘争後唐牛氏らが一時田中清玄あるいはその盟友山口組三代目組長田岡氏らの関連先へ寄寓していたについては、我々の革命の侠気に対して、田岡氏が侠気の理解者となって立ち現れたのであり、それは世の中の味わい深く興味深いところでもある。それは、同じ左翼陣営を構成する日共側の執拗な我々のパージに比較して鮮やかに対照的であった。

 この問題の眼目は次のことにある。そのことによって、活動家が当局のスパイにされたのか、強制的に転向を余儀なくされたのか。実際はまさに侠気によって支えられていたのではないのか。自分達が行き所をなくすよう画策しておいて、侠客家田岡氏の世話になったことをもって日共がそれをしも認められないとするのは悪質姑息な暴論であろう。我々はむしろ逆に、これを非難し戦前の特高警察以上の執拗さでかっての全学連闘士を追い詰めることを楽しもうとする連中の我が身の反侠客性を恥じよ、と問い掛けたいと思う。

【資金カンパ考】
 ところで、「唐牛問題」を廻って真剣に協議せねばならないことは、運動上に付き纏う金権パトロン問題ではなかろうか。こう課題を見据えたとき、「唐牛問題」は日共対トロツキスト運動の非難合戦の地平を離れて普遍性を獲得する。人も運動体も聖人君子的仙人思想にとらわれては何事も為しえない。金権まみれの現体制の批判運動を展開するからといって、運動側に金権にまみれずにあたかも霞を食って生きていくべしとする論法と手法が強制される必要は全くない。むしろ、そういう規制を設ける論調は、一度でも実際に我が身を革命運動の中に置いたことのない者の為にする無益理論でしかない。

 運動を持続的長期化させる場合に常に纏いついてくるものは資金問題である。ここに工夫と手当てなしには運動は一歩も進展しない。運動側内で支援金を出し続け支えあうべきだ論も嘘臭い。この論自体は結構だが、この論が第三他者からの支援金を排除しようとするなら、それは有害な潔癖主義でしかない。むしろ、我が社会を批判し変革するにも、我が社会が生命線にしているところの金権を活用する能力を持ってしか運動の成果を生み出せないという矛盾をそのままに踏まえるべきではなかろうか。一つ一つの過去の運動経験を検証し、運動体にとって有益な資金調達と排除すべきそれを識別し、運動の発展のために叡智を尽すべきではなかろうか。

 当時の財政状態について、財政部長・東原の手記にはこう書かれている。
 概要「青木昌彦は万世橋署、唐牛は麹町署、佐久間さんは品川署といった具合で、寒さに震えながら彼らは英雄になった。田中清玄氏とのそもそものきっかけは、約30名にのぼる起訴された学友の保釈金や、膨大に膨れ上がった全学連の経費の調達だった。どう見積もっても6〜70万の金は最低必要だった。連日の駅頭カンパや文化人、俳優、政治家廻りで活躍して集まった金は、その日のうちに消えていった。差し入れ、弁護士料、経費とその日暮らしの心細い状態であった。島さんも、事ここにいたっては余裕がないし、埒があかないということで大口に集中せざるを得なくなった。いろいろと知名な事業家がノートされた」。

 この資金カンパについて、島氏は次のように述べている。

 「ブント書記長としての私の仕事の大半はカネ作りであったとさえ云える」。
 「安保では、月に1000万円の規模でカネが必要だった」。
 「全学連の加盟費なんかで足りるわけはない。文化人からも集め、街頭カンパもやった。条件のつかないカネなら、悪魔からだって借りたかった」。
 「(田中清玄が援助してくれるという話があったとき、)相手が田中だと知っていたのは、幹部と財政部員だけだが、条件なしなら貰っちまえという判断になった」。
 「全体からいえば、田中のカネなんか一部分で、大したものではない」。

 唐牛自身次のように述べている。

 「北小路が委員長になった36年の17回大会の経費も、田中とM氏のカンパで賄ったんじゃないかな。全学連にはカネがなかったですよ」。

 しかし、この問題が、唐牛ひいてはブントの「いかがわしさ」を公認させ、葬り去られる契機となった。運動につき纏うのは、いつもこの現実である。ここをキレイ事云う者が、一体過去において何ほどの運動を創出しえたのだろう。「唐牛問題」での田中清玄の献金は、そのことによってブント運動が捻じ曲げられたのかどうか、ここが眼目であって、献金自体を却下する必要がなく、それを咎める日共見解は悪質な暴論であろう。

 「唐牛問題」の真の問題性は、かように反論できなかった当時のブント系諸君の理論的貧困にあるのではないのか。その主要因に、根強い「宮顕=戦前唯一非転向タフガイ人士」観が横たわっているように思われる、と見立てするのがれんだいこ観点だ。だがしかし今、れんだいこは、「宮顕論」でその虚構を撃った。後は、めいめいがハタと気付いて論を練り上げ直すことだろう。だがしかし、れんだいこのこの指摘が為されてもなお見て見ぬふりの方に忙しい素振り見せるのなら漬ける薬はないとしたもんだ。

 2003.1.27日再構成 れんだいこ拝


【「田中清玄と安保全学連問題の実像」考】
 サイト「田中清玄と安保全学連問題の実像」は、「唐牛問題」に関して当時の関係者の貴重証言を集めている。且つ「田中清玄研究」を一歩進めている。読後感を以下書き付け、議論材料を提起したいと思う。
 【前書き】
 「前書き」は、「唐牛問題」についてれんだいことほぼ同じ観点の見解を要領よく披瀝している点で御意である。議論すべきところは、「田中清玄の転向後の政治思想的な位置づけ」であり、「リベラル右派」と見なすのはやや漠然とし過ぎではなかろうかという思いが湧く。

 「リベラル右派の立場から、反岸信介闘争の資金援助を全学連に対して行ったというのが偽らぬところであった」としている点に概ね異存はない。但し、「リベラル右派」と云うよりは、「戦後政治史上において、戦後の国の成り立ちを是として戦後復興に取り込んだ産業人(正確には成功した起業家)であり、次第に政権与党内ハト派と気脈を通じてその黒幕となる。主として民族資本的利益を代弁する商社的活動で海外事業に取り組み、特に中東石油の買いつけルートづくりで功績が顕著であった」軌跡を総覧すれば、「リベラルにして右派模様の本質左派」ないしはイデオロギー色に染まらない「ハト派系財界人の逸材国士」とみなすべきではなかろうか。

 従って、「ようするに、田中清玄という人物は、きわめて若い時期に共産党委員長を一時期つとめただけあって、異常に高い知的能力をもちあわせ、国際的な学者たちとも親交の深かった、そういう土建業者だったのである」という観点に賛成である。

 「戦後保守政治の中で、田中清玄が『黒幕』として動いたとしたら―むろん、それは多分に虚像であろうが―、それは反岸勢力の『黒幕』としてであった。もっとも、日共や革共同のような超教条主義的な『左翼』にとっては、自民党のハト派とタカ派の違いなどはどうでもよかったのかもしれない」という観点も同感である。付言すれば、戦後左派運動は、戦後体制の読み違いから「自民党のハト派とタカ派の抗争」について全く無関心で過ごしてきたことは、無能力の極みであったように思われる。

 「ともかく思うことは、どうしてこうも日本共産党によるデマ、捏造、デッチ上げだけは堂々と罷り通り続けるのであろうか、ということである。そもそも、昭和初期の歴史イメージのかなりの部分が、日共系の歴史家や小説家たちによる捏造の産物だということは、今日ではまったく明らかにされていることである。(たとえば、坂野潤治(千葉大学法経学部教授(東京大学名誉教授))『日本政治「失敗」の研究 ─中途半端好みの国民の行方』光芒社、参照)」という観点に賛成である。

 「島成郎が田中清玄にも資金カンパの要請することを思いつくきっかけとなったのは、1959.11.27日の全学連による反安保の国会正門突入闘争に対するごうごうたる世論の非難の中で、文藝春秋に寄せられた田中清玄の文章によるものだった。それは、三十年前の若き日の自分の過ちを見るような愛情のこめられた全学連批判の文章であった」は、史実の貴重な指摘である。

Re::れんだいこのカンテラ時評894 れんだいこ 2011/01/25
 【田中清玄の「武装テロと母 全学連指導者諸君に訴える」考】

 れんだいこは腹の足しになる議論が好きだ。議論でなくてもよい文章も好きだ。そういう気持ちに応える一文を再読する機会を得たのでブログにしておく。「田中清玄と安保全学連問題の実像」に、田中清玄氏の「武装テロと母 全学連指導者諸君に訴える」(文藝春秋、1960.1月号)が掲載されている。 (ttp://bundpro2.fc2web.com/Sehen/sub6.htm)

 れんだいこは、この論文をサイトに紹介いただいたことをまことに感謝している。極めて内容の質が高く議論すべき箇所も多い。以下、引用しつつれんだいこなりに解析問答する。願うらくは全文が欲しい。どなたかサイトアップしてくれないだろうか。

 時代は、1960(昭和35)年の60年安保闘争前夜である。前年の1959(昭和34).11.27日、安保粉砕第8次統一行動で東京には8万名が結集し、この時の国会デモで全学連5000名らによる「国会乱入事件」が発生した。社会党、共産党幹部が鎮静化に向け説教するが、続々と都教組などの労働者二万数千名が加わり、国会内で抗議集会を開き続けた。

 この時、全学連書記長の清水丈夫が国民会議の指揮車によじ登り、流れ解散を呼びかける指導者を遮(さえぎ)り、「座り込みを断乎続けよ」とアジった。国鉄などの若手労働者が、「学生を孤立させるな」、「中へ入った連中を見殺しにするな」と指令を無視して雪崩れ込んだ。構内はデモとシュプレヒコールで渦巻いた。こうして約5時間にわたって国会玄関前広場がデモ隊によって占拠された。これがブント運動の最初の金字塔となった。

 清玄は、このブント系全学連の“暴挙”に対し次のように賛辞している。返す刀で社会党、共産党のエセ左派ぶりを嘲笑している。
 「全学連の指導的立場の諸君! 諸君の殆どが、日共と鋭く対立しつつ、新しき学生共産党とも云うべき共産主義者同盟を組織し、学生大衆運動の盛り上げに腐心していると聞くが、自分は三十有余年前、大正末期、1924年−1927年、未だ幼年期にあった学生運動を組織したものの一人として、更に、昭和3年(1928年)からは、日本共産党の指導的立場に在った者として、諸君の動向を目にし耳にするにつれ、諸君に訴えずには居られぬものを感ずる。諸君が今回組織した国会デモを、マスコミは一斉に叩き、世論も亦国を挙げて非難した。曰く『赤いカミナリ族のハネ上がりだ』、曰く『極左冒険主義の暴走だ』、曰く『トロツキズムのブランキスト的逸脱だ』等々と。社会党はおろか共産党すらもが、デモへの種を蒔いた自分たちの先導にはソシラヌ顔で諸君を攻撃する事によって、自分の責任を回避している」。

 清玄はかく述べた上で次のように諭そうとしている。
 概要「しかし、かような非難を放っただけでは、国会デモ事件の本質的な批判と全学連運動の今後の在り方に対する問題の解決には少しもならない。国会デモ事件は単に今日の左翼的学生運動の表面に表れた一現象に過ぎない。問題は、このデモを惹き起こした君達共産主義者同盟(ブント)つまり新共産党とその指導下に立つ全学連の指導方針、並びに君らの根本的な世界観にあるのだ。今更申すまでもないことだが、自分には諸君を『極左冒険主義的ハネ上がり』であるなぞと、世論の尻馬に乗って極めつける丈の資格は全くない。かって、自分等の突っ走った、昭和5年の共産党の武装、和歌浦の党中央本部と警官隊との乱射事件、並びに川崎市メーデー武装デモ、仮国会議事堂焼き討ち計画等々数々の武装行動と、官憲殺傷48件にも上るテロ行動を顧みれば、とてもおこがましくて諸君らに非難を浴びせることなどは到底できない」。

 清玄のこの指摘によれば、問題とされた「ブントつまり新共産党とその指導下に立つ全学連の指導方針、並びに君等の根本的な世界観」の擦り併せにより、清玄好みに変化を受容するのなら協力を惜しまないとのエールであったことにもなる。付加して、自身が委員長時代の武装共産党時の諸行動を回顧してブントにシンパシーを寄せている。この論文を読んだ島らブントの若き俊英は賢明にもかく匂いを嗅ぎ取った。ここから双方の接触が始まる。してみれば、この論文がそれを契機とさせたという意味で貴重な論文となっている。

 清玄は次のように要求している。
 「ただ自分の諸君等に希求してやまないのは、先ず諸君等の今回のデモ闘争とその根底をなす全学連の闘争方針を真に自己批判し、次に諸君らの唯一の理論的武器であるマルクス=レーニン主義をも、進歩してやまない世界情勢と二十世紀中期の人類が持つ理論物理学・生成化学等、現在の偉大な諸学問の成果に照応させつつ、客観的に、徹底的に糾明して人類の新しき行動指針を集大成して貰いたいということだ」。

 れんだいこは今思うに、この指摘は卓見だ。清玄は当時の学生運動に対し次のように疑問を呈している。
 「国会デモ後、諸君は口を揃えてマスコミに発表して曰く、『吾々の勝利だ、資本主義に一撃を与えた』(葉山君)、『全学連が、このデモで労働者から孤立したというのは誤りで、むしろ初めて労働者の支持と信頼を得たと思う』(唐牛君)、『吾々の国会デモは、労働者に蹶起を促した』(清水君)と。以上いずれも、諸君は、労働者大衆を指導し得て彼等大衆に支持されている革命家かの様に自分自身を思い込んでいる。

 甚だ諸君には御気の毒な事だが、日本の労働者大衆は誰れ一人として君ら共産主義者同盟の考え方や、そのデモ闘争を支持しているものはないのだ。君らが自分自身で労働者大衆に支持されているかの様に思い込んでいるのは、とんでもない君らの自惚れだ。君らのデモ闘争を支持している組合員は、せいぜい嘗っての学生運動から現在では組合の書記に転出しているインテリ連中か、或いは此の連中の感化を受けた一握りのインテリ化した労働組合マンだけだ。君らは、口を開けば労働者階級と云うが、諸君は本当に労働者大衆と云うものを、具体的に生活の裡で知っているのか?

 昭和二年再建された第二次日本共産党が三・一五の検挙で弾圧される前後、党員が未だ100名余りの頃、自分は党の組織者として、自分から進んで、帝政ロシアのナロードニキのヴォ=ナロードの気持をロマンチックに想像しながら、党細胞組織のために、先ず浅野ドック、次に横浜ドック(現三菱重工)に定期工として入り込んだ。そして製罐現場の大ハンマー振りをやらされ、最初のうちはからだの骨ぼねがバラバラになる程の痛みを歯を食い縛って頑張り抜き、造船工になりきることにつとめたのである。そして初めの頃は自分をシロウトと見て、馬鹿にして全然相手にしてくれなかった労働者達の信頼を徐々にかちとり、年月をかけて党細胞の組織と組合の急進化に成功した経験を持っているが、この時、自分は初めて頭の中でマルクス主義的に考えて幻想を創り出していた労働者階級(プロレタリアート)と現実に生きている労働者階級というものが、如何に違っているかを如実に知って愕然とした。これが東大新人会から入党して、一かどの革命家気取りであった自分に対する最初の打撃であり、最初の幻影喪失でもあった。君らの中の何人の人々が、革命家としての立場から、労働者として工場に入り込んで、労働者の生きてる実体を知り、且労働者階級のために働いているであろうか!

 労働の経験もない。而も親のすねを齧っている君らに一体労働者大衆の心理と生活とか判る筈がない。君らは自分の頭の中で革命的な労働者階級(プロレタリヤート)という幻影を、マルクスの誤謬に従って、つくり上げて、これと現実に生活している労働者階級とを思い違いして、一生懸命に幻想にしがみついてる丈だ」。

 清玄のこの問いかけは重い。続いて、唐牛・全学連委員長に対して、同郷であることに加えて奇しきな境涯の一致を見出し、次のように誼(よしみ)を通じている。
 「自分は全学連委員長唐牛君に関する記事を読んで想わず目を瞠った。唐牛君も自分と同じ函館で成長して居るではないか。母一人子一人と云う唐牛君の家庭も亦全く自分と同じ家庭条件だ。その唐牛君が故郷の湯の川に独り居る母に健康を案じた手紙を送っているとの条を読んで、自分は、自分の為に自殺した母のことをゆくりなくも想い浮かべた。自分は唐牛君の様に母想いの優しい優れた性情の持ち主ではなかった。昭和二年末入党以来一切の音信を母と絶って地下にもぐり、いわゆる職業的革命家として前記の様に京浜の工場に潜入したのだ。爾来二年有余、或いは海外に、或いは国内を転々とする小生の消息を母は知る由もなかった。昭和五年二月五日、自分の母は、此の自分の『良き日本人たらん事を』念望して自らの手で自らの生命を絶った。唐牛君も亦、三十年前の小生同様『能力さえ許せば、本当の職業的革命家になる積りだ』と自己の将来を語っている」。

 続いて、全学連運動に対して次のように苦言している。
 「私は茲で唐牛君のみならず、島、香山、森田、葉山、清水君等、共産主義者同盟の諸君に訊ねたい。それは他でもない。君等は本気になって『学生と革命的インテリが中核になり、革命の根幹である労働者階級がゼネストを起こす。……新中間層ホワイトカラーとの統一戦線は否定する。当然吾々も武装し政権を奪取する』と革命のプログラムを考え、その為の指導的革命政党が共産主義者同盟と考えて行動して居るのかという事だ。若し、諸君が斯様に考えて居るのならば、『それは日本に於ても、世界中何処に於いても絶対に実現する条件を備えていない。小ブルジョア的革命論だから、左様な歯の浮く様な子供じみた革命闘争は即刻おやめなさい』と私は勧告し、且つ、共産主義者同盟の即時解体を御勧めする。君たち学生がいくら革命的な理屈を並べても第一労働者階級は耳も傾けない事と、学生運動の様な温室の闘争では真の革命家は育ち上がらないと云う事を申し上げたい。ついで、諸君の提唱する革命のプログラムは、学生とインテリゲンチャーの役割りを不当に重要視する点に於いて1925−27(大正14−昭和2年)の福本イズムと全く同一範疇のものであることも」。

 要するに、かって清玄の母が清玄に諌死したような気持で、清玄が全学連活動を諫めていることになる。れんだいこは、末尾の福本イズムの評価については疑問があるが耳を傾けておくことにする。

 要するに清玄は次のように云っている。君たちの運動は地に足のついてない小ブル急進主義の運動ではないのか、それは日本左派運動の宿アであり、君たちもそれに無自覚に汚染されている云々。この指摘は、60年安保世代のみならず70年安保世代にも云える訳であり、今日かっての隆盛がないもののそれは状況を一段と悪化させているだけで本質的に何ら議論されていないところのものではなかろうか。

 次に、清玄は自身を次のように振り返っている。
 「自分は、三十年前、学生運動の為に東大に入学したのではなかった。自分は社会主義に入門した大正13年(1924年)既に故鈴木治亮(日共党員・三・一五逮捕・病死)や沼山松蔵氏(三・一五当時の日共北海道委員・現クロレラ会社重役)と北海道に於ける最初の労働組合函館合同労働組合を創設し、翌大正14年(1925)には沼山氏と協力して札幌合同労働組合を創立し、同年秋、現日共青森県委員長大沢久明氏や社会党県議岩淵謙三氏と最初の農民組合を青森県黒石に設立した。主として農民運動と労働組合運動に奔走するかたわら、旧制弘前高校の社会科学研究会を確立して之れを学生社会科学連合会に加入せしめた。一時は全校生450名中約300名迄を会員に獲得して猛威をふるったものであった。従って高校3年の時の登校日数は60日位のものであって危く放校されるところであったが、学校当局は学生ストを危惧して無事卒業させてくれた。

 東大に入学したのも、一つは母を安心させる為と東京に出て本当の革命運動を工場内に於いて体験する事によって職業的な革命家として自分を鍛え、この生命を日本の労働者階級と農民大衆ら勤労国民に献げつくすという覚悟からであった。それ故、東大新人会にも当然入会し、亀井勝一郎、現仙台市長・島野武、大山岩雄、代議士佐多忠隆、田中稔男代議士(彼は当時の新人会幹事長)、武田麟太郎、藤沢恒夫等と同じ釜の飯を喰ったが、学生運動を今更やるのが目的でないので、共産党の手ののびるにつれ、新人会の総会に出席しても発言する事を一切禁ぜられ、亦新人会の幹部の位置に就く事も禁じられた。間もなく京浜地区に党オルグとして工場に潜入する事になってからは一切学生運動と縁を切って共産党運動一本に専念した。

 だが、極右翼団体七生社(当時の幹部現社会党左派代議士穂積七郎・同五一等々)との衝突には駆り出されて京浜工場地帯からやって来ては当時の極右翼の模範的闘士であった穂積兄弟、特に現代議士の七郎とは殴り合いの火花を散らした。彼が三十年後、社会党の而も容共的松本治一郎門下の極左派代議士になろうとは夢にも考えられなかった。特に戦時中は翼賛青年団の大幹部であった丈になおさらである。自分等は、はっきり言って、学生運動を軽蔑して居た位である。従って島君や唐牛君の共産主義者同盟的革命理論には如何にしても賛成ができない」。

 清玄はこうも云う。
 「百五十年前の欧羅巴の諸学問の集大成であるマルクス主義は、原子力時代の今日、凡ゆる学問が飛躍的な発展を遂げた今日、亦世界が資本主義が異質的な発展を遂げた今日、古いマルクス主義を信条としたならば、政治も経済も何一つとして為し得ないのである。現にノン・アルバイトの工場ができて、労働価値説=剰余価値説というマルクス学説の根底を打ちくだいて居るではないか。従って、労働価値説と剰余価値説に立つプロレタリア革命とその独裁の思想も亦成立し得なくなって居るのだ。他方資本主義も質的変化を遂げて居る。

 ソ連に於いてもアメリカに於いても、政治と経済・文化を掌握して動かして行くものは、今日では最早、資本家でもなければ、プロレタリアートでもなくて、実に技術者を含めた経営者と称するインテリゲンチャーである。来るべき世界はプロレタリアートのものではなくて、インテリゲンチャーのものだ。全学連の諸君は、何等の革命的意義もないエネルギーの無駄な消費であるデモ闘争をやめて、変動し、進展してやむ事を知らぬ世界と人類の持つ一切のものの究明にそのエネルギーを使用していただきたい」。

 この部分は清玄の問いかけでもあろう。この問いかけも議論されるに値する。れんだいこは、なし崩しに右に傾くことによってではなく、左の精神を涵養しつつこの「清玄の訴え」と対話したいと思う。何も清玄の言に応化ずるつもりはないが、対話し甲斐がある論であることは確かである。

 蛇足ながら、この清玄を罵倒し抜いたのが宮顕率いる日共であった。この日共から得るものは少ないが清玄から学ぶものは多い。そういう気がする。もう一言しておけば、この清玄と角栄が案外裏で気脈通じていたことが知られていない。両者とも在地土着型の社会主義的な世の中を憧憬していた面がみられる。れんだいこ独眼竜の見方であるが、これが歴史の奥深さであろう。

 2011.1.25日 れんだいこ拝

【森田実「戦後左翼の秘密」考】
 この著作の紹介も貴重である。1963.2.26日のTBSインタビューによるラジオ録音構成「歪んだ青春−全学連闘士のその後」の複数の証言者の一人が森田実氏であることが明らかにされている。森田実「戦後左翼の秘密」はその経過を記しており、日共系の女性記者とおぼしき人物にはめられて、隠し録音された発言を放送され、抗議したら恫喝されたことを記している。
 森田氏は、「右翼の大物といわれていた田中清玄の世話になり、安保闘争で資金援助を受けたことを、TBSがセンセーショナルに放送したのです。この放送の中で、私の談話が有力な資料として使われました。この原因の一つは私の軽率さにありました。迷惑をかけた人たちには申し訳ないことをしました。この経過を話しましょう」と切り出している。本人が、「迷惑をかけた人たちには申し訳ないことをしました」と後悔していることが分かる。

 「ゆがんだ青春」の反響が大きかったことが次のように記されている。
 「TBSラジオで放送され、大反響が起きました。新聞や雑誌が、これを次々に記事にし、六○年安保闘争の裏側でひどい腐敗が起きていたというイメージづくりが行われました。共産党は鬼の首でもとったように『森田は腐敗分子だ』と書いていました。いつのまにか、私が田中清玄から金をもらったように書く新聞・雑誌まででてきました。私のところには、あらゆる方面から抗議の電話や手紙が来ました」。

 興味深いことは、「談話によって最も傷ついた人間=唐牛健太郎と彼の仲間」が森田宅に脅迫電話を掛けていた事実が明かされている。「これからオマエの家に行く。首を洗って待ってな」という電話があり、三、四時間ほど経って「今東京へ着いた。これからオマエをバラしにゆく」となり、森田氏が防御用にゴルフクラブをもって門の内側で、何回か振り下ろす練習をしていたところ脅迫者が逃げ出した。「脅迫電話はこれを契機になくなりましたが、ここには、新左翼の頽廃した姿が示されていると思います。つまり暴力主義です。尚、最近、酒の席で島自身からきいたことですが、この中には島成郎もいたということでした」とある。

 島氏亡き今となっては確めようもないが、森田氏が批判するように「暴力主義」の問題というよりは、森田氏の録音発言に反感を覚えた側がこれを理論的に反論為し得なかった「没理論性」にこそ真因があるように思われる。この没理論性が安易に暴力的決着へ向かおうとしていた、とみなすべきではなかろうか。

 もう一つ。「私は村岡記者の質問に答えて、かなり気楽に答えていました。一時間ほどのインタビューが終わって、二人の記者が帰るとき、コタツの中からテープレコーダーが出されました。うかつなことに、私はこの時まで自分の談話が録音されていることに気付かなかったのです。それでも、私は相手がTBSの放送記者であることを知りません。念のため一言、『記事にする時は、もう一度私の承認を得てほしい』といいました。相手はうなずきました」とある。

 この問題の重要性は、「歪んだ青春−全学連闘士のその後」の証言取りを日共系のジャーナリストの手で行われたということが明らかにされていることにある。つまり、端から党利党略的な代物であったということになる。次に、「記事にする時は、もう一度私の承認を得てほしい」という要望にも拘わらず無視され、センセーショナルに利用されていったことである。問題は、この件を通じて宮顕系日共が「闘う左翼のイメージダウン」を日本列島津々浦々に広めていったという反動性も見ておくべきだろう。

 締め括りに思うことは、森田氏は、事の重要性において「日共系の女性記者とおぼしき人物」を明らかにする義務があると考える。森田氏の謂いに従うならば、姑息な形で勝手に録音し、「記事にする時は、もう一度私の承認を得てほしい」という要望にも拘らず無視された相手である。当然、この御仁は責めを負うべきである。そして、この御仁は、言い訳をすべきである。そういう形で、これを指揮した者を手繰り寄せ暴いていかねばならない。歴史責任とはそういうものである、この辺りの曖昧さが左派運動の信頼を欠く病床になっているのではないのか、森田氏の上述の話は自身の弁明に過ぎず、事の真相解明にはなお中途半端である、とれんだいこは考える。

 なぜ、れんだいこは執拗に拘るのか。「戦後左派運動の金の卵、第一次ブントを潰すことに躍起となった」宮顕系の左派運動内への異質な闖入ぶり、その悪質な策動振りを解明せんが為である。それ以外に意味はない。これは、戦前の好戦派の黒幕批判解明の論理と通底している。この辺りを徹底的に追い詰める作法を確立しているならば、「唐牛・東原問題」も又同様に黒幕追求まで辿り着ける筈である。逆ならば、全てが闇の中で風化させられてしまうであろう。そうであるならば、日本左派運動の無能さを示す悪習でしかなかろう。

 2004.9.24日再編集 れんだいこ拝

【西部邁「六○年安保 センチメンタル・ジャーニー」考】
 西部氏のコメントの質の低さが露呈している。「ブントや唐牛が切羽詰まって、少なくとも詰まったと思って、清玄から金をもらったのだろうとしか思わない」は、一見理解を見せているようで愚弄している。「近年になって何度か田中清玄という人と面談してみた結果、自分には折り合えないひとだということがわかった」も、世間の風潮に悪乗りした見解披瀝でしかなかろう。

【島成郎「唐牛健太郎の壮烈な戦死」考】
 島氏のコメントの質の高さが良く出ている。「後日、スキャンダルめいて報じられた田中清玄氏との関係も、伝えられるような決して低次元のものじゃありません」は、要領よく的確に結論を述べている。「まあ、発端は金でしたけれども。経緯を少し話しますと、当時の全学連はものすごく金がかかった。事務所も、自前の印刷工場ももっていたし、宣伝カーも調達しなければならない。それで財務担当者に『お前が悪者になれ』といって、どこからでもいいから金を集めろ、という具合だった」と、台所事情を明らかにして理解を求めている。

 問題があるとすれば、「財務担当者に『お前が悪者になれ』」と命令した下りであるが、金銭ないし資金、資本に対するコンプレックスを物語っており、この観点では宮顕系の暴露戦術に闘えないことが分かる。一般に、政治的影響を受けない限り、資金はどこからでも調達せねばならない、この観点の欠落がこういう言い訳を余儀なくさせているように思われる。

 島氏らブント指導部と田中氏との接触の経過について貴重な証言が為されている。「で、その頃田中清玄氏が、『文藝春秋』に学生運動に共感を示すような文章を載せたんですね。それを見て、『お、これは金になるかもしらん』といって、出掛けていったわけです。こっちはアッケラカンとしたものでしたが、かえって田中氏の周囲の方が、最初は何だか気味悪がったらしいです。

 会ってみると田中氏本人は、どこにでも飛び込んで誰とでも仲良くなれるという、唐牛みたいな性格の人で、昔の血が騒ぐというのか、あとあとまで『オレが指導者だったら、絶対にあのとき革命が起こせた』としきりにいうくらい情熱的でした。でも案外金がないらしくて、当時奥さんの胃潰瘍の手術費用にとっておいた何十万かを回してくれたんです。大口ではあったけど、大した金額じゃありません。それで私達の運動がどうなるというものでもなかった。これがキッカケになって、のちのち家族ぐるみというか、人間的な付き合いがつづいたわけです」。

 島氏らブント指導部と山口組組長・田岡氏との接触の経過について貴重な証言が為されている。「山口組の田岡氏とのことも、田中氏の繋がりです。田岡という人もなかなかの人物で、私達はそれで好きになったんだけど、児玉誉士夫が六○年安保のとき、ヤクザを全部集めて右翼連合を作ったんですね。稲川会はじめ皆入ったが、田岡氏だけは『極道は極道で、政治に手を出すのは下の下だ』といって、絶対に参加しなかった」。


【東原吉伸「追想の中の『二人の改革者』」考】
 東原氏もインタビューを受けて証言した一人であった。その意図に反して政治的に悪利用されていったことに忸怩たる思いを抱きつづけていることが明らかにされている。「安保の約三年後に、私がごく軽い気持ちで、田中清玄や多くの人から資金援助を受けたことを漏らしてしまった。そのためマスコミの好餌となったことがあった。私があえて事実を公表したのは、それは資金援助をして頂いた方々へのせめてもの感謝とお礼の意味であったし、今でも『当然のことをした』までだと思っている。もちろんそのやり方は、唐突で、若気の至りというか、軽率であったことは否めない。ディスクローズしたことと時期は私の独断ではあった」とある。

 島氏が東原氏の悪意のなさを悉皆し、逆に気遣っていた面が明らかにされている。「島は大騒ぎになった後でも、陰に陽に私を支えてくれた。その渦中でもあったが、私の叔母が突然死したとき、二十人近い人間を派遣してくれて、落合斎場で葬式を仕切ってくれたりもした」とある。

 「島成郎と田中清玄との交友関係」について貴重な証言が為されている。「既に田中清玄とは、資金の面で関係が成立していたが、ブント書記長との交流となると対外・対内的に慎重にも慎重な扱いが必要であった。当時、田中清玄といえば、本人は不本意だろうが、反響右翼の大物という見方が定着していた。全学連サイドとしては、同盟書記局の島が、右翼の大物と関係を持つこと自体が冒険であり、大変な決断を必要とした」とある。

 田中清玄評について、「日本でのマスコミの風評とは異なり、彼はこれらの地域では、『トーキョータイガー』と呼ばれた革命家であり、中東から東南アジア諸国の独立のために命をかけた熱血漢だった」、「彼は、戦後日本に温存された守旧勢力と一切の妥協をせず、それに挑戦状をたたきつけ、若き企業家、政治家、学者など、新興勢力を糾合して新しい、強力な日本産業国家の再建に尽力していた」とみなしていたとある。

 出会いの情景が次のように明らかにされている。「会うと挨拶もそこそこ、いきなりソ連論、日共論、ロシア・米国などの大国にたいする警戒論等々、具体的で、田中清玄にとっては武装共産党委員長時代や十数年に渉る獄中生活、コミンテルンとの死闘といった経験を踏まえた実践論として説得力があった。島も日本共産党東京都委員会のエリートであった時期からの、組織内の不毛の論争と分派闘争を経ているので、議論は結構かみ合い、延々と続いた」。

 東原氏の手記にはこう書かれている。

 「当の人(田中氏)が現われたとき、ドキリとした。一人ではなく、先の二人(秘書)に輪をかけた感じの男が三人一緒だったからだ。(中略)日共には慣れっこになっていたがしかし目つきもきつく大柄な人間は苦手だった。我々のコンプレックスも手伝っているのだと考えながらも、どうでもなれと思った。当の人が、僕らの向かい側にすわるなり『ご苦労さん』と一言云ってペコリと頭を下げられた。(中略)その瞬間、この人は我々の味方なのだと思った。恐らく、僕は、心からにっこりしたに違いない。それから話ははずんだ。結局、日共に反旗を翻して闘った者はいるが、中ソに公然と反旗を翻したのは君らが初めてだ。それはそれとして安保が通ろうが通るまいが大した意味を感じない。しかし岸内閣の遣り方は全く気に食わないので、共にやろう、ということになったように思う。田中清玄氏と我々の関係は、みだりに口外できなかった。(中略)この時、田中氏と同行した諸氏についても書く必要がある。まず、そのいずれも唐手で名を馳せた人間であるのには驚いた。まず大田義人氏であるが、この人は当時、光祥建設の経理部長をやっておられ、金のこと以上に、活動家の身辺の世話をかけることになった。秘書の藤本さんは、いわば学連の守備隊長で、その後のデモ、大会には必ず護衛に立っていただくことになったのだが、この年より一年前、日大二部のスト破りの隊長でもあったこともまた皮肉な話だった」。

 東原氏のインタビューに戻る。

 「それ以来、二人はよく会った。お互い話題には事欠かなかった。いうまでもなく島のステージは、一歩そこを出れば安保反対運動の渦中であり、同時に彼は、革命的学生・労働者の精神的支柱であり、ヒーローだった。(中略)しかし彼は、やりくりして、不思議にこの会合のスケジュールは確保した。田中清玄は、寸暇を惜しむことなく、多くの業界人を島に引き合わせた。必ず業界のドンだった」。

 その他興味深いことが種々書かれているがサイトで確認すべし。


【奥浩平氏の受け止め方】
 奥浩平氏(1961年横浜市大入学、マル学同中核派の活動家、後に自殺)の遺稿集「青春の墓標」は、この時の気分について次のように記している。
 「このような放送をされても、僕は『裏切られた』という気がしない。唐牛のアジテーションは真剣だったし、僕はあの時の彼の顔を信用している。裏切ったとしても、安保に占める全学連の位置が歴史的に動くものではない。むしろ、商業的、そしてまた、ある明確な意図をもって行ったTBSの報道に『待ってました』と飛びつき、テープをつくり、プリントを作りして、職場に、同盟(民青)に配ることに異常な熱意を見せた共産党こそ、いくら弁解しても払いきれない不自然さを認めるのである。(中略)僕はここに公然と君に対して闘いを挑む。−もちろん、民青の他に、構造改革派、社青同---があるわけです」。

【田中清玄「田中清玄自伝」(インタビュアー大須賀瑞夫)考】
 ブント指導部と田中氏の出会いの様子が次のように明かされている。(詳細は「60年安保闘争の評価(3)田中清玄問題(2) 」参照)
 「私のところにきたのは、島成郎です。最初、子分をよこしました。いま中曾根君の平和研究所にいる小島弘君とかね。東原吉伸、篠原浩一郎もだ。島にあってくれということなんですね」。

 最大のハイライト証言が為されている。今となっては真偽を確かめようがないのが残念である。唐牛氏の全学連委員長抜擢に当って、相談が為されていたとして次のように証言している。
 「島が唐牛に全学連の委員長をやらそうと思うが、どうだろうかって。『あなたと同じ函館の高校で、今は北大だ』と言ってきた。それで僕は『君がいいと思ったら、やったらいいじゃないか』と答えた。島の決断です。私に接近してきたのも、彼の決断だった。島がいなかったら、私と全学連の関係はできなかったでしょう。本当は全学連委員長というのは、東大に決まっているんですよ。それを破って、京大でもない、北大の、しかも理論家でもない行動派の唐牛を持ってきた。唐牛は直感力では、天才ですね。しかし、組織力ということなら島です。先見性もね。決して彼はスターリンや宮本顕治のような独裁者にはならない男です。一つの運動が終わると去っていって、また次の運動を組織していく、そういう点で天性のものを持っている。沖縄での精神病院での地域医療活動だってそうでしょう。まさに社会的実践そのものです。彼はいい男ですよ。時々ここへもポカッ、ポカッと来ますよ。去る者は追わず、来るものは拒まずです」。

 更に興味深いことが証言されている。岸首相擁護の右翼団体との暴力戦に抗するために、田中氏の秘書・藤本勇氏の空手グループを動員して「突き、蹴るの基本から訓練」をしたとある。
 「日大の空手部のキャプテンで、何度も全国制覇を成し遂げた実績を持っていた。彼をボスにして軽井沢あたりで訓練をさせたんだ。藤本君がデモに行くと、一人で十人ぐらい軽く投げ飛ばしてしまう。『お前は右翼のくせに左翼に荷担してなんだ』なんて、だいぶ言われていたけど、『なにを言ってやがる。貴様らは岸や児玉の手先じゃねえか』って言ってね。デモをやると右翼が暴れ込んでくるんだ。それを死なない程度に痛めつけろ、殺すまではするなと。それでしまいには右翼の連中も、あいつらにはかなわんということになった」。

 この話も秘話であろう。「あの時、岸首相は自衛隊を出動させようとしましたよね」との質問に次のように答えている。

 「それをきっぱりと断ったのが赤城防衛庁長官と杉田一次陸上幕僚長だった。えらかったねえ。岸がうるさく迫ったんだが、二人ともはねつけた。杉田陸幕長は戦前、東久邇宮付きの武官で、米国留学の経験もあり、あんなことで兵を出したらどんな事になるか、よく分かっていた」。

 「なぜ黒幕なんて言われたんでしょうか」との質問に次のように答えている。

 「さあ、私には分かりませんが、マスコミが流したことは確かです。戦後ある時期まで、新聞紙はもちろん、出版社などにもずいぶん日本共産党の秘密党員やシンパがおりましたからね。それから私は岸信介や児玉誉士夫らと徹底的に戦いましたが、かれらもまたマスコミにはかなりの影響力をもっていました。彼等の双方から挟撃され、意図的にそのような情報が流されたということじゃないでしょうか」。

 ある左翼系歴史学者曰く「なに、田中清玄? ああ、あれはインチキですよ」と切り出したとあるが、「ある左翼系歴史学者」の方こそインチキだということが十分に考えられよう。ちなみに、サイト管理人高杉氏は、次のように述べている。

 「ただし、森田実や西部邁は、田中清玄に対する評価は否定的である。彼らのように自民党ハト派よりももっと右に行ってしまった旧ブント系の評論家が否定的に評価し、風雲児の風来坊として全うした島、唐牛、東原らが高く評価して交流を続けていたのは面白いことではないだろうか」。

 実に興味深いことである。


【「吉本隆明が語る戦後五五年H 天皇制と日本人」考】

 この証言で貴重なのは、「たとえば六○年ごろでも、全学連の主流派の幹部連中が、右翼の田中清玄から三○○円ぐらい借りたというんですね。そしたら、借りた男と田中清玄がレストランで会食して飲んでいるところを共産党に写真を撮られちゃって、世間に向けて悪宣伝されたんです」とあるように、共産党が執拗にブントのいかがわしさを脚色せんとして取り組んでいる様子の暴露をしていることである。「(柄谷行人氏について、)雑誌の座談会で、あいつら幹部どもは右翼のカネをもらったりしてよくないとかいっているわけです。そんなことをいうインテリが大勢いるんです」と証言していることが注目される。

 続いて、吉本氏の観点を次のように披瀝している。

 「だけど、僕はそうはいわないんです。僕の原則は、右翼だろうが左翼だろうが、寄附されたカネはみんなもらっちゃえってことです。その代わり、応分の宣伝はする。だから、僕にいわせれば問題にならないんです。柄谷は実際の活動を何も知らないくせに、おかしいとかいうんですが、僕なんかは冗談じゃないよって思いますね」。

 れんだいこの見解は、吉本氏のこの観点も変調と捉える。「だけど、僕はそうはいわないんです」とあるのは良いとして、「僕の原則は、右翼だろうが左翼だろうが、寄附されたカネはみんなもらっちゃえってことです」にはいささか問題がある。というのは、この場合、田中氏を右翼と俗規定していることにある。吉本氏ならば、この前提をも疑惑する観点が欲しい。

 「そのとき、全学連の首脳が僕のところにきて、こういうことで困ってるから、何とかならない問題ですかねって相談したんです。それで、オレに何か書けというなら条件がひとつある、田中清玄の悪口を書いてもいいかって訊いたら、かまいませんよっていうんです。『いくらぐらい借りたの?』って訊いたら、『三○○万円ぐらい』ってたしかいってました。それで僕は『読書新聞』に書きまして、連中は助かったとかいってましたけどね。助かったもヘチマもなくて、ようするにそんなことは問題にならない。つまり、あれだけ多くの人が全国的に動いているわけですから、ずいぶんカネがいることぐらい、すぐ判断できるわけです。三○○万円なんてのは問題にならないくらい少額なんですよ」。

 吉本氏のカンパ問題に対する観点はれんだいこと一致する。問題はやはり、「田中清玄の悪口を書いてもいいかって訊いたら、かまいませんよっていうんです」という時の田中清玄観にある。「田中清玄=右翼の親玉」認識こそ精査されねばならないのではなかろうか。


【吉本隆明「反安保闘争の悪煽動について」】

 れんだいこは、「唐牛問題」に関する吉本氏の観点と基本的なところは一致している。問題は、「田中清玄規定」の差にある。吉本氏に拠れば、田中氏は、「お人好しの下らぬ人物にしかすぎないとおもう」、「ただの好々爺の像しかそこには存在しない」、「中小企業のおやじ」であるようだ。れんだいこは、この規定に陳腐さを感じる。

 転向論についても触れているが、れんだいこが同様に感じるところである。吉本氏の転向論は、宮顕を「獄中非転向唯一タフガイ人士」として認定した上で、その価値に拘る必要がないと云う逆説論を展開している。この説の致命的欠陥は、宮顕=「獄中非転向唯一タフガイ人士」を疑惑する作業がないところにある。聖像にひれ伏した後否定するというややこしい論理展開になっているが、仮に純理論上有り得るとしても、まずもって必要なことは具体的な聖像そのものの精査であり、ここを媒介しないままに論を展開するのはいささか片手落ちではなかろうか。

 もう一つ。「革共同全国委員会の機関紙『前進』(三月十一日号)は、まさに、かれらの同志そのものである唐牛・篠原を、革命運動から脱落した転向者であると指弾している」とある。当時の「革共同全国委員会の機関紙『前進』」が、日共のプロパガンダと軌をいつにしてブント攻撃に加担していた様が窺えて興味深い。

 れんだいこに云わせれば、戦後の徳球―伊藤律系運動、60年安保のブント運動、60年代後半の全共闘運動は戦後日本左派運動の継承されるに値する誉れである。この良質な動きに、宮顕系日共と黒寛系革マル派とが裏から表から潰しにかかっている構図こそ普遍的に現われている戦後日本左派運動の宿アである。「唐牛問題」も又このことを例証しているように受け止めさせていただく。

 吉本氏は次のように弁護している。

 「わたしたちは、かって、このような情景を体験したのではなかったか? 兵士となった青年たちと大衆とが戦闘のなかで死に、将軍たちが生き残った情景を? 現実的な生活者大衆は死に「知識」人が生き残った情景を? また戦後の無数の大衆運動や政治運動のなかで見たのではなかったか? よくたたかったものは死に、たたかわないものが生き残った情景を!

 安保闘争において、わたしの属していた市民、労働者、知識人の行動組織は、全学連と共闘し、重傷2、軽傷多数、タイホ1を支払った。残念ながら、終始、全学連や共産主義者同盟から自立してたたかう力量がなかった。わたしの属した行動組織は、全学連と共闘しえたおそらく唯一の市民、知識人、労働者の集団だつたが、その賭け方では、全学連と共産同に一籌(いっちゅう)を輸(ゆ)せざるをえなかった。

 かれらは、よくたたかい、権力から粉砕され、わたしたちは生き残った。わたしが生き残った将軍であったとしても、どうして兵士たちの「死」に石を投げることができよう?わたしが、生き残った「知識」人だったとしても、どうしてよくたたかって「死んだ」行動者を非難することができよう? これはモラリスムの心情でいうのではない。かつて、政治を文学的に文学を政治的に演ずることに組しなかったものの、行動者と「文学」者とを峻別する論理によるものである。また、かれらの組織的「死」と、三池闘争の労働者の敗退が、情況の「死」を集中的に象徴しているという客観認識によるのである。

 これを「象徴」的な事件として粉砕された組織以外は、すべて「情況」の外に出たのである。そして、この「情況」の外にはじき出されたという現状認識が、安保闘争後のわたし(たち)の思想的な悪戦の根拠となったのである。粉砕されたものたちは、現に孤立のなかで裁判に付されており、あるいは巷に散った。わたしの敗戦体験と戦後体験は、かれらの後姿を像としてまざまざと描くことができる。

 ところで、当時も、いまも、「情況」の外にいながら、それを自覚もしていない「知識人」たちは、マス・コミと日共の共同的な謀議に和して、観客席から石を投げている。かれらの存在を見て、どうしてかれらによって担われる「文化」を軽蔑しないわけにいこうか? 「文化」が「文化」としての自立的な意味をもち「知識」が「知識」としての自立的な意味をもつためには、つねに、まかりまちがえば、現実的な壊滅をあがなわねばならない生活者や行動者の意味に「文化」や「知識」そのものによって、拮抗しえなければならない。観客席から降りもせずにどうして石を投げている暇があるのだ?」。
 「古典的な「転向」論は、いかなる意味でも、現在の状況では存在しえない。戦前の古典的な概念によれば、リングの上の選手がノックアウトされたとき、それに加担したものも舞台をしりぞかねばならなかった。また、ひとたびノックアウトされたものは、もとのコーナーから姿をあらわすことができず、究極的には、反対のコーナーから登場せざるをえないものであった。しかし、わたしたちの「戦後」の情況は、ノックアウトされた選手に加担した観客席は、ラムネなどのみながら、現象的に「存在」し石さえ投げることができるし、ノックアウトされた選手はいつの日かおなじコーナーから登場することができるのである。これこそが「戦後」でありその情況の本質である。

 唐牛健太郎らが、一個の市民、または人民的生活者として田中清玄の企業で飯を食おうと、どこで飯を食おうと、それは、諸個人の恣意の問題であり、そこには、当人が賦与しているような思想的意味も、他人が非難しているような思想的意味も、特別に存在しえない。人はだれでも、かれを一個の「生活史」としてみれば、支配によってその生活を司られている。

 田口富久治が、デマゴギーによって対比するように、「岸の金によって岸を倒す」ということが背理ならば、資本制社会で、その「生活史」を司られているものが、資本制社会を否定する運動をすること、思想をもつことが背理でなければならない。

 さしあたって、学校経営資本や国家資本に寄食して、社会主義的な言辞を弄する学者の存在も背理というべきであろう。

 この問題のなかには、ボタンをおしで核バクダンで多数の人間を殺生するものは、「感覚」的には抵抗を和らげられるが、手斧をもって、他を殺生するときは、たとえ一人の人間を殺すばあいでも、無限の「感覚」の抵抗を強いられるはずだということとおなじ問題しか存在しないのである。

 階級社会における「生活史」を諸個人としての「生活」に還元するかぎり、一人の人間が、資本家になるとか、検事になるとか、権力者になるとかいうことは、どのような立場からも何の問題にもならないのである。このような恣意性を「強いられる」ことのなかに資本制の本質は存在しているからである。

 何故に、マス・コミらは、日共らは、そして、知識人らは、それを問題にするのだ? そこには、3年間の歳月を無視した詐術が存在しており、また、かれらは、一様に古典的転向論に左右されている。
 3年前に全学連の幹部だったものが、3年後に一個の市民、労働者として縁故就職した? 政治責任? あるいは変節? かれらは、それを問題にするのだろうか?

 わたしのかんがえでは、それは間違いである。唐牛らが3年かかつて、そこに何らかの思想的「変化」がおこつているとすれば、そこに安保後の「情況」の変化が、「先駆的」に象徴されているものを、みるべきなのだ。唐牛らに石を投げているものの内部に、いまだ顕在化されていない「変化」が、そのなかに先駆的に示されているのである。いいかえれば、石を投げている者は、鏡にうつったじぶんの姿に石を投げているのだ。

 そして、わたしたちに、強いられている思想的、現実的課題があるとすれば、このような「情況」の変化を、いかにして止揚しうるかという困難な問題のなかにある。わたしひとりは、別物だなどと考えているものは、情況そのものが判らないのである。わからないものは情況を動かすことも、支配することもできないのは自明である。つまり「情況」外の存在である。

 革共同全国委員会の機関紙「前進」(3月11日号)は、まさに、かれらの同志そのものである唐牛・篠原を、革命運動から脱落した転向者であると指弾している。ここには、組織エゴイズムとネオスターリニスト的発想の再生する姿しかない。しかし、「情況」は、革共同全国委を第二の「日共」に成長せしめることも、唐牛らを第二の「田中清玄」に変質せしめることもありえないだろう。

 わたしたちは、歴史の地殻の変化を、その程度には信じてもいいのである」。

【宮顕日共の田中清玄批判の裏に垣間見るどす黒さについて」】
 最後に、宮顕系日共党中央が、なぜ田中清玄をかほどにまで悪し様に罵ったかについて言及しておく。田中清玄は児玉誉士夫と民族右翼の覇権を奥の院で争っていた形跡が有る。これは、自民党内のタカ派とハト派の抗争に関係している。児玉はタカ派に田中はハト派に列なっていた形跡が有る。してみれば、宮顕系日共が、田中清玄に対しても田中角栄に対しても徹底的に批判プロパガンダしたのは、宮顕をしてそう指図する奥の院が存在したからではなかろうか、ということになる。

 なるほど児玉批判もしたのであろうが、トーンが弱い。それに比べれば、田中角栄は無論その盟友小佐野賢治批判の凄まじさたるや。あれこれ思えば、宮顕ー不和系日共は、政権与党のタカ派とハト派の抗争に於いて常にタカ派を助けハト派を叩く役割を果たしてきたことが判明する。これは偶然だろうか。

 2006.11.2日 れんだいこ拝

【篠原浩一郎証言】
 2017.5.9日、インタビュアー:筒井潔/取材:加藤俊「篠原浩一郎氏インタビュー・昭和財界傑物伝【前編】 学生運動の指導者が語る四人の傑物・財界官房長官からヤクザの親分まで」転載。
 篠原浩一郎氏…九州大学在学中、全学連の中央執行委員として60年安保闘争に参加、数度の逮捕と入獄を繰り返した篠原氏。その後、日本精工を経て、現在はBHNテレコム支援協議会常務理事を務められている。その数奇な半生と共に、篠原氏のすれ違った数多くの政財界人たちの横顔を伺った。
◆財界官房長官:今里広記氏(日本精工 社長)
◆財界の鞍馬天狗:中山素平氏(日本興業銀行 頭取)
◆昭和の怪物:田中清玄氏(国際的フィクサー)
◆日本一の親分:田岡一雄氏(山口組三代目組長)
 写真のこの老人、どこからどう見ても好々爺という風貌だがとんでもない人である。逮捕歴13回。その昔、岸信介政権を退陣させた学生運動60年安保の指導者だ。敗戦を引きずっていた日本はこの運動を機に高度経済成長期へと変貌を遂げるのだが、その時代の接合点に立ち会ったのが、写真のその人、篠原浩一郎さんなのだ。しかし日本が高度経済成長期に入り輝かしい時代へと進む一方、篠原さんは数奇な半生を辿る。山口組の親分や右翼のフィクサーとの邂逅。その後「九州大学をでて山口組もないだろ」と拾われて日本精工へ。アウトローから大手企業への転職、それが許された時代に、日本の戦後史の底流に流れるピカレスク小説的要素ともいえる面白さがある。いま篠原さんにお話を聞くことによって、昭和という時代が内包していた陰と陽を今一度接合させて、在りし日の輪郭を描きなおしたい。
 義を見て為さざるは勇無きなり
問い 篠原さんの生まれは1938年。育ちは九州の久留米。子供の頃はどういった環境だったのでしょうか?
篠原 親の教えとして覚えているのは九州という土地柄からか、いじめはするのはもちろん、やられても絶対にダメということ。仮にやられたら是が非でもやり返せと言われていました。そうそう、中学の時分には喧嘩の立会人をしたことがありました。あるとき友人から『あいつに仕返ししたいから果し合いの立会人になってくれ』と頼まれてね。ちょうど通っていた中学の前にブリヂストンの創設者の石橋さんの屋敷があったんです。で、その裏手に相手を呼び出して。そこで私は腕組みをして二人が取っ組み合いの大ゲンカをして血まみれになっているのを見守る、と。マァ、私らの世代ではそういうのがあったんですよ。大人でも上司とケンカして会社を辞めたなんてよく聞きました。けれど、そういうヤツは気骨がある、ってまた別の会社が拾ってくれたりね。会社の内でも外でも、弱い者いじめはしないし、そういうことをするのは自分の沽券に関わる、という矜持があったのでしょう。
ご自身は、どんな少年時代だったのでしょうか。
遊びまわっていたな。木登りとか鬼ごっことか。勉強は国語が好きでした。というのも、うちの親父というのは戦中に満洲で肺病を患っていていつも寝たきりでね。私が枕元で本を読みあげると父に喜んでもらえて。嬉しかったなぁ。だから近所の露店で私はよく本を買っていたんです。『源平盛衰記』とか『東海道中膝栗毛』とか。それを一生懸命読みあげた。もともと父は土建業の人でしたから、浪花節の話や人情物、股旅物が好きでね。ああいう物語はストーリーが面白いから、子供でもどんどん読み進めていける。それでいつのまにか読解力が身につきました。父は小学二年生の時に死にましたが、あの枕元で読み上げた物語が勉強の基盤になっていったと信じているんです。全体として勉強は得意でしたが、一方でスポーツはあまりやっていませんでした。当時のスポーツというのは球技ばかりでね、私は得意でなかったんです。というのも、今もそうですが、私は当時からメガネをかけていたので。昔のメガネは牛乳瓶の底みたいに分厚くてさ。走ったりするとすぐガクガクずれてしまうので、スポーツをやるときは外さないといけないんです。でも外すと何も見えない(笑)。そうそう、メガネでいえば学生運動時代にデモをしていた時もズレると困るから外していました。
デモのお話が出ましたが、そもそも学生運動に参加するきっかけみたいなものはあったのでしょうか?
私はけっこうでしゃばりな性格なんですよ。級長をやったり学芸会で主役をやったり。何かあると前に出ていってしまう性分なんです。そういう生来の気質が禍して、幸か不幸か学生運動の先頭に立つことになったんです。
篠原さんが大学に入学した頃は、もう学生運動が盛り上がっていた?
そうでしたね。あの頃は日本全国どこもかしこも安保闘争の只中にありました。日米安保を推進する岸信介政権を打倒しなければ、日本は再び戦争に突入していってしまう、そういう気運がありました。で、そんな時代に育つと『義を見て為さざるは勇無きなり』という言葉が根底にあるものだから、その流れに自らも投じようと。やはり戦前に生まれた私らの世代には皆にあると思うのですが、命を差し出せるものを見つけられたら喜んでそうしたい、と考えていたわけで。
命を掛ける価値が安保闘争にはあった、と。
ええ、ありましたよ。1960年は1月に岸首相の渡米を止めるために羽田空港ロビーを占拠したり、4月にも国会前でデモをしたりして何度も拘置所に放り込まれた年でしたが、その時に一緒に捕まっていた唐牛健太郎と『俺たちは革命のためならいつでも死ねる』といつも話していたぐらいですから。
唐牛健太郎氏……1937年〜1984年、北海道函館生まれ。北海道大学在学中に全学連委員長に就任。1961年に委員長を辞すると、新たに共産主義学生同盟の結成を画策するが、失敗、政治活動から身を引く。その後、様々な職業に従事しながら全国を放浪し、1984年に死去。
 田中清玄、そして田岡一雄との出会い 
問い 篠原さんというと右翼のフィクサーであった田中清玄と交流していたことが言われています。田中清玄は会津藩筆頭家老の家柄として北海道で生まれて、東京大学在学中に戦前の日本共産党に入党した人物。当時の共産主義運動は非合法で、書記長だった清玄は武装路線を取り官憲殺傷を引き起こしていますね。その後治安維持法違反で逮捕され11年近くを獄中で過ごしている。戦後は右翼に転向して熱烈な天皇主義者になった人です。学生運動に飛び込んでいた篠原さんが、どうして田中清玄さんと出会ったのでしょう?
篠原 これはもうね、学生76人が一斉検挙されてしまったために全学連として保釈金を工面しなければならなくなったんです。
60年安保の年である1月16日。安保条約調印のために渡米する岸首相を阻止しようと、全学連約500名が羽田空港ロビーに座りこんで警官隊と衝突した際の?
そうです。結果的に私も捕まり76名も逮捕されてしまった。一人1万円としても最低76万円は工面しなければならなかった。当時では大金です。そこで当時財政部長だった東原吉伸や共闘部長の小島弘さんがシンパの著名人や知識人を駆け回ってカンパを集めたんです。その時に戦前の日本共産党中央委員長でその年『文藝春秋』に全学連に好意的な文章を書いていた田中清玄さんを訪ねた。そうしたらえらく気に入ってもらえてね。支援金を出してくれただけでなく、私らが出所したら呼んでこい、という話になったみたいで。それで実際に唐牛と二人で拘置所から出て一緒にメシを食べましたよ。それが田中清玄さんとの出会いのきっかけです。
 田中清玄氏……1906年〜1993年。戦前、日本共産党に参加し、中央委員長を務める。十年の獄中生活を経て共産主義と決別し、戦後は右翼活動を行うと共に、政財界に太いパイプを作る。戦後のフィクサーとも称される。
 東原吉伸氏……1938年〜、姫路市出身。60年安保では全学連書記局で財務部長をしていた。現在、株式会社天祥技研代表取締役。
政財界に大きな影響力を持つ、右翼のフィクサーとも称された田中清玄の印象は?
それが世間では右翼の親玉なんて言われていたけど怖くなかったんです。私らは生意気な学生だったから臆することは一切なかった。そもそも私らは一人ひとりがいつでも命を投げ出せる、なんて大口を叩く学生だったし、そこはもう右翼の親玉だろうがヤクザの親分だろうが、『対等だ!』と思って気後れせずに付き合っていましたよ。だから清玄さんの凄みがわからなかった。清玄さんにしてみれば、生意気な小僧だけれども可愛かったんじゃないかな。私たち、とくに唐牛のことが。同じ函館の出身で反体制という点でも共通項があったわけで。それこそ唐牛が生意気な口をきくたびに笑って喜んでいたから。一方、私らからしてみれば清玄さんがどれだけ大物な人物かもわからないから、今にして思うと大分軽んじていたところがありました。でもね、そうなるのにも理由があってさ。というのも清玄さんの話って若干嘘くさいところがあったんです。大風呂敷というか、あまりにスケールがでかい話が多くて。例えば、昭和天皇にインテリジェンスを届けていた影の藩屏だった話とか。あるいは、欧州統合の父と言われたオットー殿下(オットー・フォン・ハプスブルク大公)やフリードリヒ・ハイエクとの交流、モンペルランソサエティーの会員だという話。そういった話をよく自慢してきましたから。だから大変失礼な話なんだけど、このおっさんは大ぼら吹きなんじゃないかな、って思っていたんです。それが、清玄さんの言っていたことが全部事実だったと知るのは、時すでに遅く亡くなった葬式の際でしたね。戦前の武装共産党時代から闘争を繰り広げてきた本当にすごい人だったのにね。
確かに田中清玄は面白い人物です。戦前の武装共産党の指導者から後に右翼となり児玉誉士夫のライバルとも称される国際的なフィクサーになった。一方で左翼から右翼に転じた背景には、母親の自決があったとも言われていますね。当時共産党中央部と官憲が激しく撃ち合った和歌浦事件の直後、母親が自決。「おまえが家門を傷つけたら、おまえを改心させるために私は腹を切る」と常日頃から言っていたそうですが、実際に遺書にも「おまえのような共産主義者を出して、神にあいすまない。お国のみなさんと先祖に対して自分は責任がある。また早く死んだおまえの父親に対しても責任がある。自分は死をもって諌める。おまえはよき日本人になってくれ。私の死を空しくするな」とあったそうです。

 わが子のための諌死があって10年の入獄を経て左翼から右翼に転じるわけですが、その後三島の名僧、山本玄峰老師に弟子入りします。昭和天皇の侍従長、入江相政氏の『入江日記』によれば、1945年の12月21日に田中清玄は生物学御研究所の接見室に招かれ、石渡荘太郎宮内大臣、大金益次郎次官、入江侍従らとともに天皇に会っているそうです。小一時間、清玄は退位なさるべきではないことを懸命に申し上げたといわれています。つまり、昭和天皇との関係もまんざらホラではなかった。まさに昭和の傑物とも言うべき田中清玄ですが、篠原さんがほかに憶えていらっしゃる清玄とのエピソードはありますか?
清玄さんが語ってくれたことで一番憶えているのは共産主義運動がもっているおかしさについて。ソ連の共産主義はロシア一国を守るだけのもので、そのために国際共産主義ネットワークが作られた。だから共産党はソ連のスパイに過ぎないし、日本共産党自身もソ連のことしか考えていない、と共産主義が形成されていく過程で日本の責任者をしていた清玄さんから聞けたのは大きかった。
それは衝撃的ですね。そう話す田中清玄自身はどんな方だったのでしょう?
常に国のことを第一に思っている人でした。でも血の気が多くてね(笑)。言っていることも大きいんだけど、とにかく言葉が剣呑で。『ぶっ殺してやる』とかすぐに飛び出してくる。そういった意味では山口組の田岡一雄さんのほうがよっぽど物静かな人だった。
山口組三代目組長の田岡一雄さんのお話が出てきましたが、二人はどのような関係だったのでしょうか?
よく私と唐牛を交えて四人で、赤坂の田中清玄事務所やその地下のレストランで飲みました。清玄さんは反帝国主義反スターリニズムというスタンス。児玉誉士夫も右翼で暴力団を集めたりしていたけど、それではダメだ、と考えて関西の山口組を上京させて対決させようとして田岡さんを説得していた。私たちもそこにいたけど、清玄さんは学生の力は借りない、お前たちはまだ甘い、と。マァ、というわけで田岡さんとは同志みたいになってたね。
田岡さんと知り合った経緯は?
田岡さんは当時山口組を全国に拡大していく中で東京にも頻繁に来ていて。それで清玄さんの事務所にも来ていました。清玄さんと田岡さんは親友同士でしたからね。それで清玄さんを通じて紹介されました。田岡さんはね、清玄さんと違って寡黙。しかし凄みがある人。そして人を惹きつける何か磁力のような魅力がある人でした。何よりヤクザの役割に強い信念をもっていました。つまり、「社会に加われない行き場のない奴らの受け皿として俺たちヤクザは必要なんだ。カスだって人間なんだ。彼らにしっかりしろと言ってやって、仕事をやって、カタギに迷惑かけないように面倒を見ていかなければならないんだ」と。マァ、古き良きヤクザですよ。本当にあの時代には必要な存在だったんだと思います。考えてみるとね、学校のクラスにも必ず落ちこぼれが何人かいましたでしょ。そういう社会に馴染めない奴らが、犯罪に走りカタギに迷惑をかけないために仕事を与え、居場所を与えてやらないといけない。そういった意味でヤクザという組織が日本社会のセーフティーネットとして上手く機能していた時代が確かにあったことは間違いない事実です。
田岡一雄氏……1913年〜1981年、徳島県生まれ。十代から山口組に加わり、戦後三代目を襲名する。神戸の港湾労働者の手配と芸能興行で財を築き、組長襲名時僅か三十数人だった山口組を全国規模に拡大した。
「ヤクザ」という職業の必要性に強い思いを持っていたんですね。
そうですね。象徴的なエピソードがありますよ。それこそ山口組が大きくなりだして間もない頃でした。東京オリンピック開催を前に、ヤクザ組織を壊滅させるために俗にいう「第一次頂上作戦」が展開されて警察の締め付けが厳しくなっていってね。当時大きかった色々な組織が解散していったんだけれども、当然のことながら警察は山口組にも圧力をかけました。子分たちの企業に圧力をかけて、それで舎弟たちに山口組を脱退する、という誓約書を書かせていくんです。その頃体調を崩して入院していた田岡さんの病室に警察の本部長がその誓約書を持ってきて突きつけるんですよ。「もうお前の子分はこれだけ少なくなってるぞ」とね。でもね、田岡さんは決して首を縦に振らなかった。その間にも組の人数は少なくなっていって数百人くらいの規模になってしまい、ついには当時の若頭も解散しましょうと言うんだけれども、田岡さんは病院のベッドの上にいながら、決して首を縦には振らなかった。信念があったから耐えたんだろうし、だからあの時代に多くのヤクザが解散したあとも残っていったんでしょう。
篠原さんは学生運動後にその山口組で働くことになったそうですが、こちらの経緯は?
私は逮捕歴が13回になっていましたからね(笑)。一般企業で働きたくたって働けるわけがなかった。それに1962年に大学を卒業した時には、もう新左翼は内ゲバになっていて同志討ちし始めていた。その昔の仲間をお互いに殴り合う姿が、否定していたスターリンと同じに見えたんです。あの瞬間、共産主義の内側に孕んでいる毒をまざまざと認識できました。それで縁を切りました。そうしたら清玄さんから、唐牛と東原はウチが引き取るから、お前は田岡さんのところへ行け、と。それで田岡さんが神戸で経営していた海運業者の甲陽運輸でしばらく働かせてもらったんです。田岡さんとはよく飲みましたよ。『全学連と山口組、どっちが強いだろう!』なんて馬鹿話で盛り上がったりしましたっけ。
随分壮大な話ですね! さすがにそこは山口組、と答えるのでしょうか?
いいや、譲らない(笑)。当時私は自分たちの手で岸政権を退陣まで追い込んだという自負があったから。それこそ学生をはじめとした若いヤツを大勢動員できるからヤクザより全学連のほうが強いですよ、ってね。それをまぁ、怒りもせずに笑いながら聞いてくれるわけです。清玄さんがヤクザに狙撃された時(1963年11月)には目の前で深く頭を下げて謝罪してくれましたね。日本精工に移ってからは会うことはありませんでしたが、今になって思い返してみても本当に大人物。素晴らしい人でした。
  <前号はこちら>(時の岸信介政権を退陣に追い込んだ学生運動の指導者、篠原さんは九州大学を卒業後、しかし逮捕歴が故に一般企業への就職などできるはずもなく、山口組三代目田岡組長に拾われる……)
 「国の金なんかあてにしない」
問い しかし、短期間で山口組の甲陽運輸を辞めて、再び唐牛さんと合流していますね。
篠原 そうです。翌63年に、TBSラジオの『歪んだ青春 全学連闘士のその後』という番組で、右翼の大物田中清玄から全学連に資金が入っていたことが報道されて。私たちはそのことを別に秘密にしてはいなかったんだけど、吹聴もしていなかった。でもそれで報道陣が詰めかけるようになって、唐牛はいたたまれなくなって清玄さんのところを離れることになった。それで、『太平洋ひとりぼっち』の堀江謙一とヨット会社を立ち上げよう、ということになったんです。
篠原さんが甲陽運輸を辞めることになったきっかけは?
田岡さんの子供が慶応に通っていてね。卒業したら甲陽運輸の社長にするから、篠原、番頭やってくれと言われた。それを聞いて、番頭で一生終わるのはヤダなあ、と思って辞めたんです。それで『堀江マリン』に合流することになったんです。けど行ったら行ったで、唐牛が嫌な顔をして。その時にはもう会社が大赤字だった(笑)。
それで、唐牛さんは田岡さんにお金を借りに行ったそうですね。
そもそも会社の立ち上げの資金50万円も、田岡さんが出してくれたんです。私が唐牛から連絡を受けてもらいに行ったんですが、ナゼか簡単に出してくれた。後から知ったんですが、その50万は唐牛が田岡さんに『篠原は俺の子分だから、俺が田岡さんに売った事にする。100万で手を打つからまず50万くれ』と言って出させたものらしい。で、会社がいよいよ立ち行かなくなって、唐牛は残りの50万を田岡さんにもらいに行った。もう、私は辞めていたんだけどね。そうしたら案の定追い返されて返ってきた。で、『すげえ怒られた。田岡さんって怖いのな』って(笑)。
その後は日本精工に入社されたそうですが、その経緯は?
ヨット会社は全く大赤字で。そんな時に、法政大学の農学部の先生が『日本人は肉を食わないから体が大きくならない』と言っているのを聞いて、食肉を作ろう、と思い立った。この事業なら日本のためになるし、金も稼げるし。けど国内で牛を育てるには土地がないから、台湾に行って120ヘクタールほど土地を購入した。しかし、肝心の牛がいない。そこで法政大学の先生のところへ行って牛を買う金をくれ、と言ったら『そんな金ない』って(笑)。じゃあ財界人から金を引っ張り出そうと思って色々回っている時に、日本精工の今里広記さんに会った。
今里広記氏……1908年〜1985年、長崎県出身。戦後、日本精工の社長として活躍。「今里という潤滑油が無かったら戦後日本はこんなにスムーズには転がらなかった」(永野重雄)と言われた。経団連常任理事、東京商工会議所常任顧問、日経連顧問。
出資を頼めるほど、今里さんにコネクションはあったんですか?
いや、ないよ(笑)。こっちは全学連のトップとして岸政権を倒した人間だ、という自負だけ。でも財界官房長官だろうが何だろうが対等だ、という気持ちがありましたから。清玄さんの時と同じ。社会的には何の実力もないけど学生30万人を俺は集められるんだ、と。
その計画を聞いた今里さんはどう言われたんですか?
『120ヘクタールなんて微々たるもんだ。だったら産業を興して外貨を稼ぎ、外国から肉を買えばいい』と言われて。そして、『そんな事よりうちに来ないか』ってさ(笑)。九州大学を出て山口組もないだろうって。
それはまた豪快な話ですね。なぜ、今里広記さんは篠原さんを会社に招いたんでしょう?
いや、私だけじゃないんだよ。他にも元全学連のヤツをいっぱい引き入れていました。今里さんは上下の隔てもないし、あらゆることに興味を持っている人でしたから。そして特に政治思想を持ってたようでもない。ある時『どうして私たちみたいなのを可愛がってくれるのか』と質問したんです。そうしたら『俺たちも危ない橋を渡ってきたから』と。
危ない橋、とは?
終戦直後、労働運動が強くて各社はまともに稼働できない頃があったんです。明日革命が起こってもおかしくないというね。そんな不穏な日が続く過程で経営を握っていた財閥系の経営者は皆パージされてしまった。日本精工も老舗のベアリングメーカーなんだけど、社長が逃げ出して。それで当時35歳くらいだった今里さんが、繰り上がって経営に携わるようになったんです。同じように経営を任された人に、興銀のそっぺい(中山素平)さん、新日鉄の永野(重雄)さん、日清紡の櫻田(武)さんたちがいまして、産経グループの水野成夫さんも入るかな。世間で言われるところの所謂『財界四天王』ですね。特にそっぺいさんと今里さんは親友という仲でした。彼等が共産党抜きで労働組合を作り(全国産業別労働組合連合。通称「新産別」)、産業の立て直しを始めた時に、戦犯として公職追放されていた岸信介が自民党を作り、首相として復活してきたんです。岸信介という人は戦前に満洲で統制経済を行った人です。なにせ「満州は私の作品です」とまで言い切った言葉が知られているぐらいですから。当然のことながら日本が米ソ間で経済立国としてやっていくためには、また財閥の力を借りて統制経済を進めていこうと考えていた。それは今里さんをはじめとした当時の財界人にしてみると、たまったものじゃなかった。せっかく新興勢力として日本を復興させてきた自分たちなのに、三井だ三菱だといった財閥が舞い戻ってきたら、資本力にモノを言わせて吹き飛ばされてしまう、と憂慮していたんです。こうした背景があるなか、私たち全学連が岸政権をやっつけたわけで、だから表立って応援はできなかったけれども、心情的にはお礼を言わないといけない、と思ってくれていたようです。
永野重雄氏……1900年〜1984年。戦前から鉄鋼業界で働き、1970年に新日鉄の設立に伴い会長に就任。「近代日本鉄鋼業の育ての親」とも呼ばれる。1959年には日本商工会議所会頭と東京商工会議所会頭に就き、以後死の直前までその職を務めた。
櫻田武氏……1904年〜1985年。東京帝国大学卒業後、日清紡に入社。1945年に41歳で社長に就任し、戦後混乱期の日清紡を維持した。日経連には1961年の創立から携わり、1979年に名誉会長になるまで実質的なリーダーだった。
水野成夫氏……1899年〜1972年。青年時、一時期共産党に入党するが、その後は転向し、製紙業などに携わり、1957年フジテレビジョン初代社長に。産経新聞を買収し、フジサンケイグループの礎を築く。
中山素平氏……1906年〜2005年、長崎県生まれ。東京商科大学(現一橋大学)卒業後、日本興業銀行に入行。1961年から頭取。日産自動車とプリンスの合併や、新日鉄の発足などに尽力し、「財界の鞍馬天狗」と呼ばれた。愛称「そっぺいさん」。
今、戦後財界を彩るそうそうたる方々のお名前が上がりましたが、彼等と篠原さんはどんなお話をしていたんですか?
私は日本精工のなかではいつもは工場計画課というところにいて、工程管理とか改善とかの業務をしていました。けれど経歴が経歴だから、新人社員のくせにちょくちょく会長から呼ばれるし、周りからはヘンな社員と見られていたと思いますよ。一度、私を怪しんだ人事部から大学時代の成績書を取り寄せてくれ、なんて言われたんですが、ちょうどその時に九大に米軍のジェット機が落ちた事故があったので(1968年6月)、ウヤムヤにしちゃったなあ(笑)。改めて今里さんは、よく逮捕歴のある自分を引き抜いてくれたと思います。財界の方々とは、特に仲良くしていたというほどのものではないですけど、意見を求められたりすることはあった。
例えば、どんな?
成田空港建設反対の三里塚闘争の時、財界人だけで事態を収拾しようという動きがありました。その時私は興銀のそっぺいさんに呼ばれて、現地で話ができて信頼ができる相手はいないか、と問われたんです。そこで反対同盟会長の戸村一作の名を挙げたことがあります。そっぺいさんや今里さんは、成田なんかに国際空港作ってもしょうがないから、貨物の空港にでもすることにして、一向に解決しない問題の落としどころを探ろう、福田(赳夫、当時大蔵大臣)とはこちらで話をつける、なんて話をしていた。結局、福田が首を縦に振らず、まとまらなかったけれどね。
財界人が政府を介しないで問題解決しよう、なんて動きがあったとは驚きです。
あの時代は皆が常に日本のことを考えて動いていた。またそれが自社の利益にもつながる時代でもあったんです。今里さんは社長であると同時に活動家で、細かいコトを飛び越しても問題を解決すれば後のことはなんとかなる、と考えて動き回っていた。対して中山さんは慎重で、しっかり見通しを作ってそれに向かって突き進んでいく人。なかなか今の時代にはいない人だね。新日鉄の合併(1970年)の時も、しっかり布石を打ってから事に向かっていた。こういう二人だから政治家を差し置いても、本当にやるべきことを実行していけたんだろうね。
そういう強い意思をもって財界をリードしていた、と。
彼等は財閥出身ではないのでヨコの連帯を持っていない。だから自分たちで団結して局面に当たっていた。それに『政治家だって俺たちが食わせてやってるんだ』という気持ちをもっていたし、国の金なんかあてにしていなかった。自分たちの金でやらなければ男でない、という強さがあったね。今は経団連さえも国の金に頼って物事を進めようとしている。これは残念なことです。
 政府に頼らない
問い 篠原さんも現在は、NGOとして、政府とは別に国際交流などの活動をなさっていますね。
篠原 ええ。私は一度共産主義に絶望した。で、そのあと日本のために何をすべきか、という答えがなかなか出てこなかった。昔、色々な人を仲間に引きずり込んだのに、自分が先に抜けてしまった。だから、自分はまた変節するかもしれない、という自信の無さがあるんです。その上で志を変えずにやっていけるものはなんだろう、とずっと探していた気がします。
そこで、変わらないものを見つけ出した。
はい。まず、人間は大地に根ざして生きていくことが大事だし、そしてその周りの地方でまとまって生きていくことも大事なんじゃないか、と。そうすれば、中央政府がどうなろうと、生活を営んでいける。そんな時に、地方の拠点となる『神社』に注目したんです。
現在は、イタリアの小国サンマリノにある神社に目を向けられているとか。
サンマリノに日本の神社がある、というのを耳にして、去年の6月に訪ねました。自然を大事にするという日本の信仰に感心して造ったそうです。日本の神社は神社本庁が統制しているけど、それは中央の神さまで地方の神さまを無視している。しかし、サンマリノは天照じゃないんですね(笑)。
今後はどのような展開を考えていらっしゃるのですか?
去年は日本神社祭りというのを開催して、日本米や酒の試食会をしました。観光客は来てくれたのだけれど地元の人が来てくれなかったのが不満で。これを来年も行います。これからの目標はサンマリノ神社の日本分社を作ること。こういうのは宣教師が必要だから、どんどんオルグしていかないとね(笑)。
ありがとうございました。

(私論.私見)

 「篠原浩一郎証言」に出会えてよかった。




(私論.私見)