プリント上巻1(1期から3期まで)

問う論!戦後学生運動】

【戦後学生運動史上巻目次】

【序文】
【執筆観点】
【れんだいこの戦後学生運動区分論】

 章  区分     期間            概要
 1章  1期      終戦直後−1949   全学連結成とその発展
 2章  2期その1  1950          共産党の「50年分裂」
 3章  2期その2  1951−1953     「50年分裂」期の学生運動
 4章  3期      1954−1955    六全協期の学生運動
 5章  4期その1  1956          反日共系全学連の登場
 6章  4期その2  1957          革共同登場
 7章  5期その1  1958          ブント登場
 8章  5期その2  1959          新左翼系全学連の発展
 9章  5期その3  1960          60年安保闘争
 10章 6期その1  60年安保闘争直後  ブントの大混乱
 11章 6期その2  1961          マル学同全学連の確立
 12章 6期その3  1962−1963    全学連の三方向分裂固定化
 13章 6期その4  1964          新三派連合結成
 14章 7期その1  1965−1966    全学連の転回点到来
 15章 7期その2  1967          激動の7ヶ月
 16章 8期その1  1968          全共闘運動の盛り上がり
 17章 8期その2  1969          全国全共闘結成
 18章 9期その1  1970          70年安保闘争とその後
 別章 【戦後学生運動補足、余話寸評】
 別章 【れんだいこの日本左派運動に対する提言】
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【戦後学生運動史下巻目次】

 章   区分    期間          概要
 19章   9期その2 1971−1975  1970年代前半期の諸闘争
 20章   9期その3 1976−1979  1970年代後半期の諸闘争
 21章  10期その1 19780年代   1980年代の諸闘争
 22章  10期その2 1990年代    1990年代の諸闘争
 23章  10期その3 2000年代    2000年代の諸闘争
 別章1 【連合赤軍考概略】
 別章2 【党派間ゲバルト考概略】
 別章3 【よど号赤軍派考概略】
 別章4 【日本赤軍考概略】
 別章5 【三里塚闘争概略】
 別章6 【新日和見主義事件考】
 別章7 【ロッキード事件考】
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 インターネットサイト
 参考文献

 【序文、日本左派運動内のもつれた糸を紐解く為に】  

 思い起こせば筆者体験であるが、全共闘学生運動の華やかりし頃、検挙に継ぐ検挙をものともせず、60年安保闘争に負けじとばかりの闘いの炎が猛り狂っていた。この頃の伝聞である。新参で入獄して来た活動家に対して獄中の活動家が放った言葉が「革命はなったか」であった。云った本人は至極マジであった。これが面白おかしく伝えられていた。こういう逸話は捜すまでもなくゴマンとある。かの時代が終わったのは確かである。

 「きみまろ」ではないが「あれから40年」。余りにも情況が悪くなった。我が国の政治権力者の治世能力が格段に落ちている。政治運動全体が漫談化している。にも拘らず左派運動の先頭に立ってきた学生運動の灯が潰えている。仄聞するところ、中核派系の学生による法政大での闘争が聞こえる程度である。なぜこのようなことになってしまったのだろうか。政治運動のみならず政治評論さえ消えている。久しくまともな言及に出会ったためしがない。筆者は、「饒舌無内容の失語症時代」と規定している。この状況を打開する為に何をすれば良いのだろうか。かっての活動家なら均しく憂いているであろう。  

 こういう問題意識は時空を飛ぶ。漸くかの時代の再検証の動きが始まっている。若松孝二監督が「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」を制作し各地で上映されている。藤山顕一郎監督が、今日時点に於ける新旧学生運動家の結節組織である「9条改憲阻止の会」の面々の闘いを「We命尽きるまで」に編集し上映されている。筆者は、この動きを奨励したい。できることならこれを契機に、学生運動史上の名場面を採掘したシリーズものを望みたい。特に採り上げるシーンは、戦後直後の勃興期の学生運動、1951年の血のメーデー、その直後からの山岳武装闘争、1955年以来の砂川闘争、警職法闘争、勤評闘争、原水禁運動、60年安保闘争、1967年の激動の7ヶ月の諸闘争、全共闘運動、その頂点としての東大安田砦攻防戦、よど号赤軍派事件、70年安保闘争、連合赤軍派事件、アラブ赤軍派事件、中核派対革マル派、社青同解放派対革マル派の党派間武装闘争、川口君虐殺糾弾早大闘争、三里塚闘争等々と続くフィルムを見てみたい。

 しかし、これをどう描くかが肝腎であろう。筆者は、無条件的讃美も批判も相応しくないと思っている。願うらくは、過去そういう運動があったと云う史実の確認と、今日時点でこれをどう評するべきかで生産的な議論を呼ぶような構成にして貰いたい。書籍では、この間それなりの回顧物が出版されてはいる。但し、今日時点に於いてはいずれも、それらの分析観点は既にステロタイプなものでしかない。失礼を顧みず云わせていただくなら、筆者の学生運動論が現われるまでの意義しか持ち合わせていないように思われる。筆者の学生運動論が公開されて以降は、これを塗り替えるものでなくては意義が減じよう。筆者には、そういう自負がある。これを契機に関心者が共同テーブルに就くことを願う。

 そういう折の2008年元旦、「検証内ゲバ1・2」等々の出版で日本左派運動の諸問題に積極的に切り込んでこられている社会批評社の小西さんとネットメールで年賀挨拶を交わした。筆者はこの時、「対話物語り学生運動史」の上宰を着想し、お盆の頃までに書き上げる旨表明した。小西さんは「期待する。でき上がったら原稿を送ってください」とエールしてくれた。こうして筆者の処女作の出版決意が固まったが、さて、どう纏めるかということになった。既にネット上に「戦後学生運動考」をサイトアップしている。これを原資料として、要点整理のような形で纏めることもできる。これなら割合早くできる。しかし、既に書き上げているものを単にブック化するより、今までの書き付けを踏まえての新たな学生運動論を著してみたい、そういう形でもう一汗掻きたいと思った。当初は盆の頃までにはできると思っていたが、大幅に遅れて今ようやくでき上がった。

 筆者は、学生運動論になぜ拘るのか。それは、僅かな期間といえども青春時代に掛け値なしの感性で没頭した生命が宿され今も息づいているからであると思う。あの時、マルクス主義的な観点を得た。これは貴重であった。他方逆に、そのステンドグラス的メガネを掛けたことにより却って曇った面、失った面もあるような気がしている。マルクス主義的観点を受容したことにより社会に妙な拘りを持ち、停滞的ながらも伝統的に愛育してきている日本社会の善良なしきたりに盲目となり、それがその後の筆者の人生を妙に屈折ないしは半身構えにさせたかも知れないと思っている。  

 その汚れを落としながら、必要なものは継承しつつ新たな観点を模索し続けているのが現在の筆者である。今もその途上にある。そういう風に形成されつつある筆者の思想観、歴史観を仮に「れんだいこ史観」と命名する。これによれば、既成の学生運動論もマルクス主義解説本も殆ど役に立たない。史実検証的なところは学ばせていただくことができるが、著者の評価的なくだりはバッサリ切り捨てるしかない。「れんだいこ史観」と市井の評者のそれはそれほど隔たっている。  

 そういう新たな視点に基づく学生運動論を提起したいと思う。その成果として、端的に現在の日本左派運動の余りにもな逼塞情況に打開の道筋を生み出したい。筆者が見立てるところ、日本左派運動はもつれにもつれた糸で身動きできなくされており、筆者以外には誰も解けない気がする。これが本書執筆の理由となっている。大言壮語かどうか、それは読んでみてからのお楽しみにして欲しい。  

 【執筆観点】

 本書の執筆観点を明らかにしておく。筆者は、政治情況が革命を欲しているにも拘らず、日本左派運動史の負の遺産がのしかかり、何を信じてどう闘えば良いのか、確信と展望を失っていることが遠因で低迷していると考えている。このまま行くと日本左派運動そのものが壊死してしまう怖れを感じている。これを憂う同志が少なからず存在すると信じている。そういう訳で今こそ、かって存在した学生運動の功罪を見据えた正確な理解を求めたがっているのではないかと窺う。本書は、これに応えるものである。

 しかし、これを中立公正に書き上げるとなると難しい。そこで、まずは真紅の熱血が確かに在って、理論はともかくも本能的に正しく実践したと評価できる運動の流れを中心に検証し、これを芯としてその他の潮流も確認してみようと思う。そういう意味での「中立公正」に書き上げるよう苦心した。既成のものは随分あるが物足りない。日共系のものも新左翼系のものも、明らかに筆者と観点の違う記述が罷り通っており、この種のものをいくら学んでも為にならない。そのような観点からのものを更に追加しても、屋上屋を重ねることにしかならない。何事も見立てが難しい。その見立てを正しくして最低限伝えねばならない動きを記しながら、筆者自身が得心できるような新たな学生運動論を纏め、世に問いたいと思う。

 なぜ適正なテキストが必要かというと、これがないと盲目運動に堕してしまうからである。日本左派運動の弊害ないしは幼稚性として、どういう訳か史実を刻まず伝承しようとしない作風がある。僅かの史実も自派に都合の良いように書き換えして憚らない作風がある。史書の重要性を顧慮しないこういう運動が首尾よく進展しないのは自明であろう。

 具体的に戦後学生運動論をどう書くか、ここで視点を明らかにしておきたい。一つは、当時の時点に立ち戻り、当時の感覚に立ち入り内在的に書くのも一法である。肯定的に継承する場合にはこの方法が良い。だが、これから追々記すように半ば肯定、半ば否定的に記す場合には、姿形が見えて来た今日の視点より過去を論評的に書く方が適切ではなかろうか。その後の学生運動の衰微を知る今となっては当時の正義を語るより、今日から見た当時の理論及び実践上の欠陥を指摘しつつその後の衰微の事由を検証して行く方が説得的ではなかろうか。 

 実は、ここに拘る事由がある。筆者は今、戦後学生運動のみならず近年から現代に至る左派運動総体がどうやらその正体が怪しいと気づいている。当然、全否定するようなものではない。肯定的に受け止めるべき流れと、それに纏いついた不正の流れを仕分けし、その両面を考察せねばなるまいと気づいている。こういう気づきを得ているので、当時の感覚に深のめりして書くより、肯定面のそれと否定面のそれを分離させつつ評論しようと思う。その方が却って適切なのではなかろうかと考えている。

 では、マルクス主義の負の面とは何であろうか。当然、関心はそのように向かう。筆者はかく述べる。マルクスは、初期の「共産主義者の宣言」から晩年の不朽の名作「資本論」に至るまで一貫して、社会発展の歴史的発展必然行程として封建制から資本制への転換を認め、資本制の次に待ち受ける段階として社会主義、共産主義への歩みを展望させた。これにより、プロレタリアートに対し、資本制からの解放と救済を主眼とする歴史的使命と闘う武器としての理論を与えた。これが、マルクス主義の功績である。

 ところで、マルクスが、資本制下に苦吟するプロレタリアートに闘いの根拠と正義を与えたのは良いとして、人類社会の歴史的行程として封建制から資本制への転換をいとも容易く歴史的必然として容認したのはいかがなものであろうか。筆者は今、眉唾すべきではなかったかと考えている。ここには明らかに理論の飛躍と詐術が認められるように思うというのがれんだいこ史観である。本来の歴史的発達は、幾ら科学と産業が発達したとしても、その後の歴史に立ち現れたような資本制には必然的には移行し難いのではなかろうか。資本制に移行したのは、歴史的必然としてではなく明らかに人為的なものなのではなかろうか。その推進者及び推進主体なしには為し得なかったのではなかろうか。この推進者及び推進主体こそが資本制の産みの親であり、体制の黒幕なのではなかろうか。かく認識し直したい。

 当然次のようになる。それが人為的なものであるなら、我々が闘うべき対象は、徒な体制批判としての資本制ではなくむしろ資本制を生み出した黒幕に対してではなかったか。そして、資本制が具象化している個々の労働現場で、資本制に代わるあるべき在り方を廻る闘いが肝要だったのではなかろうか。この両面を政治運動化すべきなのではなかろうか。筆者は、そのように思い始めている。

 マルクスは、この黒幕に対して言及を避けており、むしろその著作は却って煙幕的役割を果たしている気配がある。個々の労働現場でのあるべき在り方を廻る闘いを放棄させ、革命還元主義的な煽り方をしているようにも思える。それらはいずれも、黒幕にとっては痛くも痒くもないむしろ彼らにとっても有利な革命理論となっているように思われる。これが意図的故意か偶然かまでは判然としないが、マルクスと黒幕との通謀的証拠が遺されているからして没交渉であったとは云い難い。

 では、資本制の黒幕とは何及び誰であろうか。当然、関心はそのように向かう。筆者はかく述べる。マルクス時代も、我々の戦後学生運動時代にも定かには見えなかったが、今日段階ではっきりしているのは、近代から現代へ至る歴史に於いて真なる創造者は、近現代史上裏モンスター的に登場し世界を席捲支配している国際金融資本であり、これが資本制帝国主義の黒幕ではないのか。これについては、「提言2、ネオシオニズムに対するそもそもの無知から出藍せよ」で更に言及する。

 戦後学生運動は、否日本及び世界のマルクス主義的左派運動が、このカラクリを見抜けぬまま、マルクス主義を金科玉条視し、憧憬し純朴に仕えてきた歴史があるのではなかろうか。左派の国際主義はその空疎性にも拘らず今なお左派精神を規制しているが、そろそろその不毛、恐さを顧みるべきではなかろうか。マルクス主義者の伝統的宿アは批判に長けるが、こうしたことを内省するのに弱い面があるように思われる。その精神は極めて安逸と罵られるべきではなかろうか。

 我々はこうして、史上の真の敵に向かわず、在地の国家権力打倒に勤しむことにより、むしろ真の敵に利用されてきたのではなかろうか。人民大衆が一定シンパシーするもそれ以上接近しなかったことの裏にはこういう事情が有るのではなかろうか。これを批判的に総括せずんば学生運動論を称賛的に書き上げても意味がない。筆者はこのように認識しているので、戦後学生運動及び左派運動総体のこの盲目性を見ないままの運動史を単に字面で叙述することができない。このことを言い添えておきたかった。漸く結論になった。そういう訳で、以上の観点からの学生運動論を書き上げることにする。

 これが、筆者の学生運動論上宰事由である。長年腑に落ちなかったものが今次第に溶けつつある。これを如何に暴くか。ここに筆者の能力が掛かっている。願わくば、筆者共々多くの人士が叩き台にしてくれんことを。そして、得心いったなら、今からでも遅くない、日本左派運動の軌道をあるべき方向に据え直してくれんことを。こう俯瞰しながら以下、戦後学生運動史を検証する。

 【れんだいこの戦後学生運動区分論】  
 筆者は、戦後学生運動を次のように質的識別する。
 
 第1期は、戦後直後の1945.8.15日から1949年末までの期間とする。「全学連結成とその発展」と命名する。以下同様に時期ごとの本質規定で命名することにする。この時期、学生運動が戦後革命の随伴運動として勃興し連動していく様を窺うことができよう。待望の全学連が創出され、官大の東の東大−西の京大、私大の東の早大−西の同大が主導し、武井系が指導する。得ない。主として東京の流れを追うことになるが紙数の都合上止むを得ない。これをお断りしておく。戦後ルネサンスの息吹が感じられる正成長の時期である。この時期は万事の「打ったて」になるので総合俯瞰式に詳論していかざるを得ない。

 第2期を1950年から1953年末までの期間とする。共産党中央の分裂の煽りを受け全学連も分裂する時代となる。これを2期に分け、その1を1950年とする。「50年分裂、国際派に従う全学連」と命名する。「共産党の50年分裂」により、全学連は党中央系所感派と国際派に分かれ反目する事態に陥る。国際派は宮顕派、志賀派、春日(庄)派、国際共産主義者団、神山派、中西派、福本派に分かれる。これに応じて全学連内も色分けされる事態に陥った。全学連中央の武井派は宮顕派の指導に服した。

 その2を1951−1953年とする。「50年分裂期の二元運動」と命名する。この時期、所感派が武装闘争を打ち出す。全学連中央は呼応せず専ら反戦平和闘争に向かう。これを批判する部分が全学連中央の奪還に向かい玉井系を創出し武装闘争に向かう。但し、武装闘争が破産するに及び瓦解を余儀なくされる。  

 第3期を1954年から1955年とする。「六全協の衝撃、全学連の崩壊」と命名する。1954年の学生運動は、所感派の武装闘争が行き詰まり、国際派の平和闘争も特段のものが見られず、学生運動がほぼ壊滅した時期となる。1955年、共産党の六全協が開催され「50年分裂」事態が統一されたが、これにより党中央が徳球系から宮顕系へと転換する。徳球系が賊軍、宮顕系が官軍となり立場が入れ替わる。これより共産党を日共と表記することにする。武装闘争に呼応したグループは切り捨てられ、全学連は有り得べからざる右派系運動に転換させられる。他方、砂川闘争が始まり、これに取り組む過程で急進派が生まれて行く。穏和系は「戦前来の党の旗の下への結集」を第一義にし、この流れが民青同となる。これに対して、急進派は日共に反旗を翻しつつ独自の学生運動路線の模索へと突き進んでいく。この時期の学生運動は否応なく急進派と穏和派に二分化していった。これが歴史の弁証法であろう。

 戦後学生運動の第1期、2期、3期はこういう紆余曲折を経る。後の展開から見て留意すべきは、いずれにせよ全学連運動が共産党指導下に展開されていたところに特徴が認められる。これ以降、反日共系全学連が誕生し、独自の歩みを続けて行くくことになる。

 第4期を1956年から1957年末までの期間とする。反日共系左派運動が胎動する。これを2期に分け、その1を1956年とする。「反日共系全学連の誕生」と命名する。この当時最も戦闘的能力を保持していたのが学生党員グループであった。彼らは、この間左右にジグザグする党指導により全学連が瓦解させられた経験から、もはや党の指導そのものを峻拒し始め、自力の「闘う全学連」再建に向かう。これを指導したのが不世出のコンビ「島−生田同盟」であった。この年、2月に「フルシチョフ・テーゼ」、「スターリン批判」、10月「ポーランド・ハンガリー事件」が発生し、衝撃を与える。日共の対応は、先進的学生を到底納得させることができなかった。この怒りが以下の動きへ繋がる。

 第4期その2を1957年とする。「革共同登場」と命名する。この時期、外に於けるソ連邦体制の混迷、それに伴う国際共産主義運動の分裂、内に於ける六全協以降の日共化という事態が生起しており、この新事態にどう対応するのかが問われていた。この時、トロツキー理論が導きの星となった。これにより、トロツキズムを青い鳥と見立てる「共産党に代わる前衛党」として革共同が登場した。革共同は、日共運動をスターリニズムとして批判し、返す刀でトロツキズムの称揚に向かった。但し、太田龍派と黒寛派、関西派の三派対立が続いていくことになる。他方、全学連指導部を形成し始めていた「島−生田同盟」はこれに合流せず、日共内反党中央派として止まりつつ自律形成し始めることになった。この流れが追ってブントを立ち上げる。これを一応「新左翼」と称することにする。こうして、日本左派運動はこの時期、日共、革共同、党内反党派全学連と云う三派が登場することになった。学生運動は三つ巴で競合しながら正成長して行く稀有な理想的時代となった。

 但し、それを平板に受け止めてはならない留意すべきことがあるのでコメントしておく。新左翼の出自経緯はかようなものとして是認できるが、では新左翼がその後日共に代わる党派に成り損なった原因はなへんにあったのだろうか。今日に於いてはこう問わねばならない。これについて筆者は思う。新左翼は日共運動の変調を批判しつつも、宮顕、野坂の左派資質の疑惑には向かわなかった。それは、この間宮顕を「唯一非転向聖像」視したうえで誼を通じ、先行して党中央を形成していた徳球−伊藤律系運動批判に明け暮れていた後遺症でもあった。これにより、「宮顕聖像を保持し続けたままの反宮顕運動」にシフトして行った。これがスターリニズム批判運動の裏の部分であったと思われる。それは、徳球派の運動を弁証法的に継承しようとしなかったこと、宮顕を左派的スター二ストとして位置づけ続けたという点で二重の誤りであったと思われる。そういう曇った観点のままの急進主義運動を志向したことにより生産的有効な左派運動の創出に失敗するのも致し方なかったように思われる。

 もう一点確認せねばならない。新左翼は、体制内化し続ける日共運動に対し反体制運動を対置した。しかし、幾ら急進ぶっても体制転覆後の青写真を持たぬままの体制否定運動でしかなかった。即ち、宮顕式体制内化運動と同床異夢の「政治本質的には無責任且つ去勢された革命運動」でしかなかった。「革命ごっこ」と揶揄される所以がここにあると思われる。この体質は今日まで続いているように思われる。  

 してみれば、「左派系新政権樹立、新体制創出」運動と云う本来の左翼が掲げていた至極真っ当な運動が、意図的か偶然かはともかく一貫して取り組まれることなく今日まで経緯していることになる。これが新左翼運動の陥穽であったと思われる。このことを見据えながら、当時の動きを検証していく必要があろう。この視座抜きの検証は評論に堕すことになろう。左派運動がそういう隘路に入ったことにより、その後の左派運動が人民大衆運動からインテリの自己充足運動へ変質した面がなきにしも非ずであろう。既成の日本左派運動史家にはここを衝く視点が欠如している。日本左派運動の諸問題については別章の提言シリーズで解析することにする。

 第5期を1958年から1960年安保闘争までとする。全学連が日共支配のクビキから離れ、60年安保闘争を牽引する。これを3期に分け、その1を1958年とする。「ブント登場」と命名する。「島−生田同盟」はブント結成に向かう。全学連急進主義派の一部は革共同に流れたが、その他の多くはブントに流れ込んだ。こうしてこの時期の全学連は、ブント、革共同、民青同の三者鼎立となった。全学連運動は以降ブントが崩壊するまでこの定式が確立することになる。ブントは、革共同と競うかのごとく60年安保闘争へ向かって進撃を開始する。

 第5期その2を1959年とする。「新左翼系全学連の発展」と命名する。この時代のブントを後のブントと識別する際には第1次ブントという。反日共同盟ともいうべきブントと革共同の共同戦線が全学連執行部を掌握する。全学連運動は以降、反日共系が牛耳る定式を確立する。但し、60年安保闘争へ向かう過程で両派が対立し始め激しい主導権争いを演じる。ブントがこれを勝利的に押し進めつつ運動全体を牽引する。

 第5期その3を1960年初頭から安保闘争までとする。「60年安保闘争、ブント系全学連の満展開」と命名する。60年安保闘争を別立てとする理由は、60年安保闘争の意義を確認したいという意味と、この時成立せしめられた日米新安保条約がその後の日本を縛り、この時より戦後日本が憲法秩序と安保秩序の二重二元構造社会へ入ったという歴史性を際立たせたい為である。当時の全学連運動は左派運動史上2.1ゼネスト以来の政治情況に肉薄した。国会包囲闘争が連日昂揚し、6.15国会突入闘争で樺美智子が犠牲となる。岸政権は安保改定承認と引き換えに退陣を余儀なくされた。この間、革共同は関西派(西派)と全国委派(黒寛派)に分裂し、全国委派が次第に勢力を増す。民青同派が全学連の統制に服さなくなる。

 第6期を1960年の安保闘争直後から1964年までとする。全学連が分裂し多様化し始める。これを4期に分け、その1を1960年後半とする。「安保闘争総括を廻るブントの大混乱」と命名する。日共系民青同は逸早く体制を建て直すが、宮顕指導への反発から構造改革派が分離する。革共同全国委がブントに理論闘争を仕掛ける。ブントは60年安保闘争の成果を確認できず、総括を廻り三分裂、四分裂する。あろうことか、「黒寛・大川スパイ事件」で知る人ぞ知る凶状持ちの黒寛の指導する革共同全国委に雪崩れこむという痴態を見せ分解する。革共同全国委bQの本多氏の革命的情熱に魅せられた面が強かったと云う事情があったようである。島のブント再建の動きが垣間見られるが、もはや如何ともし難かった。この間、社会党系の社青同が誕生する。

 第6期その2を1961年とする。「マル学同系全学連の確立と対抗的新潮流の発生」と命名する。ブントは大混乱したまま収束がつかず、その過半が革共同全国委系に合流して行く。これにより、全学連は革共同全国委系マル学同の指揮下に入ることになる。残存ブントはブント再建に向かう。以降、全学連は、マル学同、民青同派、構造改革派、ブント再建派、社青同派の五派に分岐する。やがて、構造改革派、ブント再建派、社青同派が三派連合を形成し共同戦線化する。

 第6期その3を1962年から1963年とする。「全学連の三方向分裂固定化」と命名する。1962年時点より全学連再統一の道が閉ざされ、それぞれの党派が競合的に自力発展していくことになる。この期の特徴は、正統全学連執行部をマル学同が占め、民青同は別途に全自連、平民学連経由で全学連再建に向かう。反マル学同で一致した三派連合が全学連の統一を模索していくも逆に破産する。こうした時期の1963年、革共同全国委が中核派と革マル派に分裂する。全学連旗は革マル派に引き継がれる。全学連は、革マル系、民青同系、三派連合系、中核派の四つ巴で競合し始める。

 第6期その4を1964年とする。「新三派同盟結成、民青系全学連の誕生」と命名する。三派同盟から構造改革派が抜け、代わりに中核派が入り込み新三派同盟が形成される。新たな全学連創出の動きが急になり、民青同が苦節を経て成功する。新三派連合も自前の全学連に向かい始める。

 第7期を1965年から1967年までとする。学生運動諸派がそれぞれに定向進化し始める。これを2期に分け、その1を1965年から1966年とする。「全学連の転回点到来」と命名する。1965年頃より60年安保闘争以降低迷していた全学連運動が俄かに活性化し始める。この期の特徴は、学生運動が党派的に新たな出発をしていくことを明確にさせたことに認められる。この年、社青同解放派が結成され、べ平連、反戦青年委員会が立ち上がり学生運動と合従連衡する。

 1965年頃から大学紛争が始まる。1月、慶応大学で授業料値上げ反対闘争が勃発した。この背景は次のように考えられる。この時期増大し続けるベビーブーマーの大学生化に対して私学が受け皿になった。私学は、「大量入学→マスプロ教育→設備投資→借入金増→学費値上げ→大量入学」という悪循環に陥った。自民党政府は対応能力を持たず、切り詰め教育政策の他方で財政投融資をはじめ軍事費にはどんどん予算を投入しつつあった。1966年になるとベトナム戦争がエスカレートし、中国で文化大革命が始まり余波が押し寄せ始める。こうした影響も加わってわが国の学生運動を一層加熱させていくこととなった。

 早大闘争が始まり、東大でインターン制廃止闘争が始まる。明大、中大闘争が始まる。「三里塚・芝山連合新東京国際空港反対同盟」が結成され、第二次ブントが再建される。これに合流しなかったМL派、その他諸党派が並存する。この当時、大雑把に見て「五流派」と「その他系」から成り立つ百家争鳴期に入った。「五流派」とは、組織の大きさ順に民青同派、中核派、革マル派、社青同、第二次ブントを云う。「その他系」とは、ベ平連系、構造改革派系諸派、毛派系諸派、日本の声派民学同系、アナキスト系諸派の他ノンセクト・ラジカル等々を云う。

 第7期その2を1967年とする。「激動の7ヶ月」と命名する。1967年初頭、中国の文化大革命が本格化し「造反有理」を訴える紅衛兵運動が乱舞する。この時期、ベトナム戦争が泥沼化の様相を見せ始め、本国アメリカでべトナム反戦闘争が活発化する。フランス、ドイツ、イギリス、イタリアの青年学生もこれに呼応し学生運動が国際化し始めた。これらの花粉が日本の青年学生運動に影響を与え、日本版紅衛兵とも云うべきノンセクトラディカル、新左翼活動家を生み出して行くことになる。

 こうした国際情況を背景にして、この時期に学費値上げ反対闘争が重なることにより学生運動が一気に加熱し、全国各大学の学園闘争として飛び火しバリケード封鎖を生み出すことなった。民青同系は主として学園民主化闘争を、新三派系は主として反戦政治闘争を、革マル派系は「それらの乗り越え闘争」を担うという特徴が見られた。委員長に中核派の秋山氏が就任して以降、新三派系全学連が激烈化し武装し始め、1967.10.8日から始まる「激動の7ヶ月」と云われる市街戦に突入する。砂川基地拡張阻止闘争、羽田闘争、佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争、王子野戦病院建設阻止闘争、三里塚空港阻止闘争等の連続政治闘争が担われた。この経過で、全学連急進主義派の闘争が機動隊の規制強化といたちごっこで過激化していくことになり過激派と云われるようになった。この動きに革マル派、民青同が屹立する。  

 第8期を1968年から1969年とする。全共闘運動が満展開する。これを2期に分け、その1を1968年とする。「全共闘運動の盛り上がり」と命名する。急速に新左翼及びノンセクト・ラディカルが台頭し、反戦青年委員会運動、べ平連運動と相俟ってベトナム反戦闘争に向かう。東大闘争、日大闘争が激化し、全国の大学闘争を牽引する。三派から中核派が抜け出し中核派全学連が誕生する。三派の残存勢力が反帝全学連を創出する。この期の特徴は、今日から振り返ってみて大きな山を画しており、戦後学生闘争のエポックとなった。60年安保闘争で見せたブントの玉砕主義闘争以降最大の昂揚期を向かえ、いわばそのルネッサンス期となった。  

 第8期その2を1969年とする。これを「東大闘争クライマックス、全国全共闘結成」と命名する。東大闘争が1969年初頭、安田講堂攻防戦へと至る。以降、東工大、早稲田大、京都大、広島大などでも全国学園砦死守闘争が展開された。第二次ブント系の社学同派全学連が発足する。4.28闘争直前に中核派に破防法が適用される。「大学の運営に関する臨時措置法案」が施行され、この頃常態化していたキャンパスのバリケード封鎖が解除されていく。当然、これに抵抗する闘いが展開される。赤軍派が結成される。「60年安保闘争を上回る70年安保闘争」が日程化し多岐多流の潮流がうねりとなって9.5日の全国全共闘連合になだれ込む。ノンセクト・ラディカルと八派連合を糾合した共同戦線であり、70年安保闘争を闘い抜く主体が確立する。

 全共闘運動は、この時点がエポックとなった。つまり、実際の70年はこの69年に及ばなかったということになる。このルネッサンス期の花を潰した内的要因について考察しておく。なぜ「あだ花」に帰せしめられたのだろうか。物事には必ず原因がある。結論を述べれば、全国全共闘運動は正面から機動隊、右から民青同派、脇腹から革マル派、左から赤軍派、背後から公安の重圧を受け翻弄されていくことになる。特に、70年安保闘争を目前に控えた1969年頃から革マル派を策源地とする中核派、社青同解放派との党派間ゲバルトが胡散臭い。

 第9期を1970年代通期とする。層としての学生運動の最後の時期となる。これを3期に分け、その1を1970年とする。「70年安保闘争」と命名する。反代々木系最大党派に成長していた中核派は、69年頃からプレハノフを日和見主義と決めつけたレーニンの「血生臭いせん滅戦が必要だということを大衆に隠すのは自分自身も人民を欺くことだ」というフレーズを引用しつつ急進主義路線をひた走っていった。

 ところが、70年安保闘争は佐藤政権に打撃さえ与えることができなかった。この時既に民青同と革マル派を除き、全共闘に結集した「反代々木系セクト」はかなりな程度にずたずたにされており、実際の力学的な運動能力が潰えていた。機動隊権力が一層の壁として立ち現れるに至っていた。従って、国会突入、岸政権打倒にまで至った60年安保闘争のような意味での70年安保闘争は存在せず、政治的カンパニアだけの動員数のみ誇る儀式で終わった。60年安保闘争は「壮大なゼロ」と評されたが、70年安保闘争は「そしてゲバルトだけが残った」と評されるのが相応しい。  

 70年以降の学生運動の特徴として、次のような情況が作り出されていったように思われる。一つは、いわゆる一般学生の政治的無関心の進行が認められる。学生活動家がキャンパス内に顔を利かしていた時代が終わり、ノンポリと云われる一般学生が主流となった。従来、一般学生は時に応じて政治的行動に転化する貯水池となっていたが、70年以降の一般学生はもはや政治に関心を示さないノンポリとなって行った。学生運動活動家が特定化させられ、両者の交流が認められなくなった。  

 その原因は色々考えられるが、旧左翼運動は無論としてそれを否定した新左翼運動も叉左派権力創出の道筋を創れなかったことにより、左派運動そのものの稚拙さが食傷され、「70年でもって政治の季節が基本的に終わった」のかもしれない。あるいはまた、それまでの左翼イデオロギーに替わってネオシオニズムイデオロギーが一定の成果を獲得し始めたのかもしれない。皮肉なことに、世界の資本主義体制は「一触即発的全般的危機に陥っている」と云われ続けながらも、この頃より新たな隆盛局面を生みだしていくことになったという背景事情もある。  

 日本左派運動はここで佇むべきであった。戦後左派運動を総括し、理論切開による新たな運動を展望すべきであったところ、そういう理論的切開をせぬままに相変わらずの主観的危機認識論に基づいて過激化を定向進化させていった。しかしこの方向は先鋭化すればするほど先細りする道のりであった。
 
 第9期その2を1971年から75年までとする。「70年代前半期の諸闘争」と命名する。70年安保闘争を終え、代わりにやってきたのが内ゲバと党派間ゲバと連合赤軍派の同志テロであった。1972年、連合赤軍によるあさま山荘事件が発生し、その後12名に及ぶ同志殺人が明らかとなり衝撃を与えた。同年、日共系民青同に新日和見主義事件と云われる粛清劇が起こり、川上氏らの主要幹部が処分された。1975年、中核派最高指導者・本多氏が革マル派にテロられ死亡している。

 第9期その3を1976年から79年までとする。「70年代後半期の諸闘争」と命名する。中核派対革マル派、社青同解放派対革マル派の党派抗争は更に凄まじくなる。1977年、社青同解放派最高指導者・中原氏が革マル派にテロられ死亡している。革マル派は、甚大な被害を出しながらも敵対党派の最高指導者をそれぞれ葬ったことになる。  

 第10期を1980年代から現在までとする。学生運動としては見る影もなく凋落する。これを3期に分け、それぞれ「80年代の学生運動」、「90年代の学生運動」、「2000年代の学生運動」と命名する。  

 以上の区分が一般的に通用するのかどうかは分からない。が、筆者の分析によれば、かく区分した方が分かり易い。以下、この区分けに従い、学生運動史上避けては通れない今日的になお意味を持つ重要局面、事件を採り上げ解析する。「これについて筆者は思う」と前置きして、適宜に筆者の見解を適宜付した。参考になればと思う。日時の特定が必要な場合には日にちまで記し、不要の場合は月表示で済ませた。

 1章 1期 終戦直後−1949  全学連結成とその発展

 【日本敗戦、戦後体制の歴史的意味考】

 1945(昭和20).8.15日、日本の天皇制帝国主義はポツダム宣言を受け入れ無条件降伏した。第二次世界大戦は連合国勝利、枢軸国敗北という形で終結した。この戦争は表向きは、自由主義陣営対ファシズム陣営という形での世界戦争と喧伝された。マルクス主義的には新旧帝国主義間の市場争奪覇権戦争と規定されている。これについて筆者は思う。真相は、国際金融資本ネオシオニズム派と反ネオシオニズム派の二度にわたる世界大戦であったのではなかろうか。国際金融資本派がこれに勝利することにより、彼らが戦後体制を思うがままに操り始め、一朝事あればワンサイドゲーム化することになった。

 この間新たにソ連邦を盟主とする社会主義圏が登場し、戦後はこの二大陣営が拮抗する冷戦構造となった。これについて筆者は思う。両者は根底的なところで国際金融資本派の双頭の鷲であった。これが冷戦構造の裏の仕掛けだと思われる。しかし、日本左派運動はそのようには理解せず、「資本主義対社会主義」に幻惑させられ、資本主義体制打倒運動に挺身して行くことになる。あるいは社会主義の変質に抗して反スターリニズム運動を呼号して行くことになる。2009年現在で見えて来ることだけれども、それは「作られた抗争」だったのではなかろうか。近現代世界を牛耳る真の権力体である国際金融資本派との闘争に向かわないこれらの運動は一知半解運動だったのではなかろうか。
 
 筆者は、レーニン式帝国主義論も胡散臭いと思っている。レーニンは、同書により資本主義の最高の発達段階としての帝国主義規定論を生み出し、近代に於ける西欧列強の帝国主義間抗争の実態検証と来るべき社会主義革命の必然性を説いた。が、そういう国ごとの分析にいかほどの意味があるのだろうか。むしろ、西欧列強を背後で操る近現代世界を牛耳る真の権力体である国際金融資本派の世界戦略こそ解明すべきだったのではなかろうか。この観点は、太田龍・氏が登場するまで、日本左派運動の見識にならず今日まで至っている。否、太田龍見解が市井提供されているにも拘らず牢としてレーニン主義的帝国主義論の枠内での見方が続いている。  

 もとへ。敗戦国日本は連合国軍支配下に置かれ、戦後日本の争奪戦が演ぜられた。日本取り込みは、それほど重要な世界史的関心であった。当初は米ソ両陣営による分割支配の動きもあったが、日本占領は米国のイニシアチブ下で進行した。ソ連の巻き返しはならず最終的に1951年のサンフランシスコ講和条約、同時に締結された日米安全保障条約で米国の単独支配下に置かれることになった。

 これについて筆者は思う。残念ながら、日本左派運動には、戦後日本をこのように客観化させて捉える視点はない。それはともかく今日判明するところ、戦後日本が米国統治下に取り込まれたことは、日本人民大衆的にはその方がまだしも良かった。ソ連統治下に置かれた場合には、プロレタリアート独裁の名の下にソルジェ二ツィンの暴露した如くな政治犯に対する情け容赦のない銃殺ないしは収容所送りが常態化していた危険性があったと考えられる。国有化理論で市場統制されることにより戦後日本の復興は大きく停滞させられた可能性がある。ひとまずはこう受け止めるべきだろう。

 ところで、GHQの初期対日政策は初期と後期で大きく変わる。日本が米国側に取り込まれるまでの初期政策は、戦前的天皇制絶対主義権力の徹底的解体に向かい、その為の諸政策例えば治安維持法撤廃、労働運動の容認、左派運動の合法化、財閥解体、農地解放等々を矢継ぎ早に打ち出し、その限りに於いて日本人民大衆的にはこれは僥倖であった。つまり、GHQの初期対日政策は概ね善政であったと云うことになる。

 但し、留意を要するのは、この間GHQの報道管制が敷かれており、近現代世界を支配する国際金融資本に不利益な思想ないしはイデオロギーが徹底壊滅されたことである。戦前の満鉄調査部の「ユダヤ問題時事報」、続く国際政経学会の月刊「ユダヤ研究」、不定期刊「国際秘密力の研究」等々による「シオン長老の議定書」派即ち「ネオ・シオニズムの国際秘密力に対する研究と警鐘運動」が存在さえしていなかったほどに痕跡さえ消された。これについて筆者は思う。これにより、戦前日本に獲得しつつあった国際情勢論が葬られた。残念ながら、日本左派運動にはこう捉える視点はない。

 【獄中政治犯の釈放による戦後共産党の再建】

 GHQの初期対日政策を日本左派運動史上の枢要事に限定して確認すると、共産主義者の利用と憲法改正が最も重要なものであったと思われる。まず、共産主義者の利用について確認しておく。敗戦より2ヵ月後の10.4日、GHQ指令「政治犯を10月10日までに釈放せよ」が発令され、政治犯が釈放された。釈放された党員は直ちに共産党を再建した。これを主導的に指導したのが府中刑務所派の徳田球一(以下、「徳球」と略称する)、志賀らであり、これにより戦後共産党は徳球−志賀体制で始発することになる。

 後の絡みで言及しておけば、宮本顕治(以下、「宮顕」と略称する)の動きが既に怪しい。10.10日の一斉釈放より一日早い10.9日に釈放されている。宮顕は、戦前の「小畑中央委員査問致死事件」と云う刑事事件に絡んで併合犯であった為、政治犯のみを対象とするGHQ指令では釈放されぬところ、「生命危篤に基づく特例措置という超法規的措置」により違法出所している。この時なぜ宮顕が釈放されたのかの経緯そのものが依然として未解決問題となっている。宮顕は後に涙ぐましい努力で復権証明書を手に入れ、これにより解決済みと居直り続け墓場まで持って行ってしまった。日本左派運動は、未だ新旧左翼ともこれを訝らない。

 その宮顕が、戦後初の党大会となった12月の第4回党大会で、徳球−志賀体制に異議を申し立てしている。その理由は、概要「戦前共産党の旧中央委員で指導部を構成すべし。さすれば我こそが戦前最後の党中央委員であるからして、戦後の党の再建は宮顕・袴田の二人が中心になるべし」と云うものであった。しかし、戦後共産党再建に何ら貢献せず、「小畑中央委員査問致死事件」のイカガワシイ履歴を持つ宮顕の弁は相手にされず却下されている。

 これについて筆者は思う。ここで、これらのことに触れるのは、宮顕のイカガワシサと徳球派と宮顕派の対立が既にこの時から始まっていると云う「生涯の天敵関係」を踏まえたい為である。それと、宮顕が何故に執拗に日本左派運動の分裂を策動するのか、その裏使命を確認したい為である。通説本は、このことに触れていない。触れたとしても、「徳球最悪、宮顕まだしも論」的観点から言及するのが通例である。驚くことに、新左翼でさえこの見解に位置している。これでは戦後共産党運動史の真の座標軸が定まらず、抗争の真実が見えてこないであろう。

 翌1946年に野坂が延安から鳴り物入りで帰国する。これに伴い、同2月の第5回党大会で徳球−野坂−志賀体制となり、1947.12月の第6回党大会で徳球−伊藤律−野坂−志賀体制へと変遷していくことになる。留意すべきは、志賀の相対的地位低下と伊藤律の登用である。志賀は次第に反徳球化して行き、宮顕と手を結ぶようになる。六全協後の宮顕独裁化過程で、これに反発し党を放逐されて始めて、こんなことなら徳球時代の方がまだましだったと恨み節をこぼすことになる。

 【戦後憲法体制に結実するプレ社会主義考】

 もう一つの流れとして戦後憲法の創出がある。マッカーサー指令により帝国憲法に代わる新憲法制定が要請され、難産の末に1946.11.3日公布、1947.5.3日、施行された。この戦後憲法をどう読み取るべきだろうか。これについて筆者は思う。日本左派運動は、大きく道を過ったのではなかろうか。戦後日本国憲法は、マルクス主義的には垂涎のプレ社会主義憲法と規定されるべきであったのではなかろうか。こう位置づけることで、日本左派運動は本来これを護持受肉化せねばならないものであった。だがしかし、日本左派運動はこの時、教条ステロタイプ的な理論を振りかざしブルジョア憲法として規定し、急進派はダマサレルナ理論を振り翳して本質暴露論に興じた。穏健左翼は護憲運動に向かった点で新左翼よりはマシではあったが、反戦平和主義的且つ民主主義を護れ的な護憲運動でしかなかった。これにより、ブルジョア憲法と貶しながら護憲するという二枚舌運動にのめり込んでいくことになった。

 しかしてそれは両者とも理論の貧困そのものを示してはいないだろうか。頭脳が半分だけ賢いとこういうことが起こるという見本であろう。その点、日本人民大衆は、歓呼の声で戦後憲法を歓迎した。戦後憲法の持つ本質的にプレ社会主義性を見抜いていたからであった。戦後憲法の受容の仕方一つ見ても、「賢き大衆、愚昧な左派運動」と云う戦後の型が見えて来るのが興味深い。

 憲法に続いて教育基本法.学校教育法が公布施行された。これも然りで、プレ社会主義教育法足りえているのではなかろうか。概要「民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献する」との理念を掲げ、「個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成。普遍的にしてしかも個性豊かな文化の創造をめざす。教育は不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるものである。教育行政は、この自覚の元に、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標」と記している。

 これについて筆者は思う。この憲法−教育基本法を貫く精神及び原理は、ルネサンス以降の西欧精神の正統嫡出子的な面を貫通させている。これが正の面である。他方で、国際主義的精神を称揚し、愛民族、愛国心的ナショナリズムや伝統の尊重を盛り込んでいない。本来これは接合し得るものであるのに意図的に遮断されている。これが負の面であろう。こういうところに憲法−教育基本法の癖があると云えば云えるであろう。そもそも「愛民族、愛国心的ナショナリズムや伝統の尊重」は、特段に憲法及び教育基本法に盛り込まずとも、自生的に生み出すべく運動展開すれば良いのではなかろうか。これらは本来、法的強制によるものではなく、自主的に自生させるものとする観点を創造すれば良いだけの話ではなかろうか。この点で、右派勢力の批判も、日本左派運動の愛国心否定論も徒に混乱を招くだけのことでしかなかろうと思う。

 これは、「日の丸国旗、君が代国歌問題」にも繋がる。「日の丸、君が代」を左派的に取り込む闘いを組織する必要があるのではなかろうか。国旗、国歌自体に咎があるのではない。入学式、卒業式には国旗掲揚、国歌斉唱が有ったとして、それほど目クジラするには及ばない。問題は、行事の至るところで「日の丸、君が代」を押し付け、排外主義的な愛国愛民族意識形成、画策されんとしている戦争加担政策に利用しようとするのをサセナイ闘いを組織する方がよほど大事ではなかろうか。筆者には、こちらの闘いを疎かにする方がよほど重罪に思える。

 興味深いことに、こうした「上からの戦後革命」とこれに伴う社会情勢的変化の下で、官民上げての戦後復興が着々と進められて行った。この時、戦前の大東亜戦争過程で構築された護送船団方式の官僚権限集中制が大きく力を発揮した。これに戦後政治家の有能なる指導が加わることで戦後日本は世界史上奇跡の復興を遂げていくことになる。戦前的統制秩序から解放された人民大衆の喜びに満ちた勤労も大きく貢献した。これを、「日本型社会主義」と云う者もある。

 これについて筆者はかく思う。現在、構造改革と云う名の反革命政策が矢継ぎ早に繰り出されているが、これらは全て「戦後日本プレ社会主義制」」の解体政策ではなかろうか。医療、年金、雇用、貧富格差制限等々これらは皆亡くして分かる日本型社会主義制の賜物ばかりではなかろうか。「戦後日本=日本型社会主義」は案外、的を射ているのではなかろうか。今からでも遅くない、我々がなぜ護憲するのかにつき「プレ社会会主義論」で理論武装すべきではなかろうか。この理論を生まずして為す日本左派運動各派の護憲理論には理論サボタージュが認められるのではなかろうか。

 【戦後直後の学生運動、戦後ルネサンスの息吹】

 戦後学生運動は、戦前の治安維持法が撤廃された戦後ルネサンスの下で向自的発展を遂げる。1945−46年は戦後学生運動の端緒期であり、戦後民主主義時代のスタートに立って薫風香る自治会活動を基盤として運動展開されていった。戦後の学制は、格別「大学の自治」を尊重した。戦前の軍部の介入に対する苦い経験を反省して獲得したとも云えようが、特別闘い取ったと云う訳ではないので、初期GHQの対日政策の一環としてもたらされた措置であったと見なすべきだろう。

 戦後の学制は、アメリカン民主主義理念に基くと思われる「学生に対する民主的且つ社会性の育成」、「学生生活の向上や課外活動の充実をはかる」という大学教育の一環として学生自治会を用意していた。各大学とも、学校側が各種の便宜を与えて、学生全員を自治会に加入させ、自治会費を徴収し、その運営につき学生に自主的運営に任すこととなった。しかしそれはつまり、学生全員加入制による前納徴収会費が自治会執行部に任されることになったことを意味する。これはこういって良ければ一種の利権であり、この後今日まで各党派が血眼になって各大学の自治会執行部を押さえるのかを廻って対立していくことと関連することになる。

 戦後当初の学生運動は、新憲法秩序の下で、「戦後民主主義の称揚と既得権化」を目指して学園内外の民主主義的諸改革と学生の基本的権利をめぐっての諸要求運動を担っていくことになった。学生生活エンジョイ的な趣味的活動から、生活と権利の要求や学習活動、平和と民主主義に関する政治的活動まで取り込んだ幅広い活動が生まれた。次に、大学新聞の発行、生活協同組合、セツルメント、文化サークル活動などを再建させていった。この時期はいわば、学生の生活権訴求、これに関わる範囲での政治活動と云う即自的段階の学生運動であった。その内面的心情は、「戦前の悲劇を二度と繰り返させまい」とする反戦平和思想と、戦前に挫折せしめられた共産主義革命を夢見る日本革命思想の両面から形成されていたように思われる。このニューマの中で、マルクス.レーニン主義の研究が風靡していくことになった。それに伴い、共産党に入党する学生党員が増えていった。 

 これについて筆者は思う。政治的意識の培養が一朝一夕には為されずステップ・バイ・ステップで高められていくことを思えば、「戦後民主主義の称揚と既得権化運動」自体は否定されるべきことではなく、契機づくりとしては必要必然なプロセスではないかと思われるがいかがなものであろうか。急進派には物足りなくても片目をつぶれが良いのではなかろうか。問題は、否定するのではなく、そこから弁証法的に出藍していくのが望まれているのではなかろうか。「戦後民主主義の称揚と既得権化運動」はその際の培養土のようなものとして重視されるべきではなかろうか。史実はそう向かわず、急進派は次第に「戦後民主主義の称揚と既得権化運動に対する否定的革命主義運動」に向かって行くことになる。しかしそれは培養土を否定する分それだけ先細りの急進主義運動に陥る危険性がある。こういう観点はいかがだろうか。 

 【社交ダンス論争】  

 「1947.2.1ゼネスト」前夜、「社交ダンス問題」が論争になっている。たかがダンスという勿れ、興味深い内容なので言及しておく。徳球書記長は、「社交ダンス活用論」を次のように述べている。概要「あらゆる平和闘争手段を動員すること。特にこれまで弱体であった文化闘争を重視して、特に大衆活動に適する音楽と社交ダンスを含む舞踊を我が党の指導においてこれを奨励すること、これが重要である。文化活動とは何か? 文学、評論は現在の状態においては、これを見ても理解する能力を失っているほどに、日本では封建的な力によって、ものの表現力さえも失われておったのである。また、現在の紙のキキンのために、段々力が弱くなってきたのである。しかるに生理的自然の要求からの躍動が声になっては音楽になり、動作となっては舞踊.ダンスになる。これは大衆的な大きい躍動である。これが実際の生理的要求から音楽となるのである。(中略)既に敵はこれを運用して、現状では闘争を滅却せしめるために音楽を与え、舞踊を与えつつあるのである。これに対し、我が党内がこれを管理し、我が党の影響下にある大衆の管理によってこれを革命的な方向に運用しなければならないのである。文化的な闘争が階級闘争において大きな武器であることを我々は忘れてはならないと思う云々」。

 徳球の弁は、蔵原−宮顕の文化政策に対する批判的意義を持っていた。これに対し、宮顕は、アカハタに「文化運動の前進」論文を発表し、次のように反論している。概要「音楽やダンスなど大衆向けの文化活動は、卑俗趣味への無批判的な追随である。(中略)日本人民大衆の教養と文化向上に永久に限界をおくのは正しくない。映画.演劇.文学.スポーツ.ダンス.音楽のいずれにせよ、そのうちどれだけが『最も大衆的』と決め付けてしまうことも根拠がない。最も遅れた大衆の面白がることさえやっていれば、民主的文化の創造なんかは、やがて自然に解決できるものと考えることは、文化革命の重要な任務の一つを事実上捨てることになる。退廃的な既成のダンスをプロレタリア的なものにしなければならない」。

 これに対して、徳球は真っ赤になって宮顕見解に反論した。次のように述べたと伝えられている。「社交ダンスに階級性などない、プロレタリア的な社交ダンスがあるなら宮本自身が踊ってみせろ」。これについて筆者は思う。こういうところにも、徳球と宮顕の暗闘の火花が散っていた。社交ダンスを廻ってさえ徳球と宮顕の観点はこれほど食い違っている。一見、宮顕の「退廃的な既成のダンスをプロレタリア的なものにしなければならない」言辞の方が左派的に見える。凡庸な青年は、この手のロジックに騙される。しかし、「プロレタリア的な社交ダンスがあるなら宮本自身が踊ってみせろ」と迫る徳球の批判こそ瞠目すべきではなかろうか。

 徳球は、何でも階級的と冠詞すれば革命的であるかのように云い、後にそれが民主的と冠詞することになる宮顕詭弁のウソに立ち向かっている。実に徳球という人は本質を鋭く見抜き、ツボを得た批判をする。日本左派運動に立ち現れた開放型と統制型の姿勢のこの違い、共産党指導者のこの鮮やかな対比。筆者は、日本左派運動は、こういうところを万事において切開していかなければならないと考えている。興味深いことは、日共のみならず新左翼理論までもがこの時の宮顕見解を踏襲している気配が窺えることである。ならば、「プロレタリア的な社交ダンス」を踊って見せねばなるまい。ここでは社交ダンスが問われているが、これに止まるものではない。文化運動論一切に関わるのは当然、組織論、運動論にも繋がる話だと思う故に採り上げた。

 【「2.1ゼネスト」顛末】

 戦後共産党を指導した徳球時代の党中央は脱兎の如く戦後革命に向かう。今日的アリバイ闘争的左派運動の地平では考えられないズバリの政権取り運動に向かっている。当時、極東アジアでは、日本、朝鮮、支那がロシア革命に続くアジア革命の先鞭を争っていた。この時代の左派運動には、そういう熱気がある。
1946年末から1947年初頭にかけて、日本左派運動は総力を挙げて「2.1ゼネスト」に向かった。1947.1月、共産党は、第2回全国協議会を開催し、徳球書記長が「ポツダム宣言の線に沿う民主人民政権樹立」を指針させ、次のように檄を飛ばしている。「ゼネストを敢行せんとする全官公労働大衆諸君の闘争こそは、恐るべき民族的危機をますます深めた吉田亡国内閣を倒し、民主人民政権を樹立する全人民闘争への口火である」。

 「2.1ゼネスト」は、それまでの「飯食わせ」的経済的条件闘争から民主人民政府の樹立という明らかに革命的政治闘争へと転化していた。GHQが猛烈に干渉を開始したが、共産党と労働組合のスクラムが崩れず、2.1日午前0時を期してのゼネストが必死の情勢となった。ところが急転直下その前日の1.31日、共闘議長・伊井弥四郎はGHQに身柄を拘束されゼネスト中止のラジオ放送を強制された。9時21分、伊井は、NHK放送を通じて「一歩退却、二歩前進。労働者、農民万歳、我々は団結せねばならない!」の言葉を残しながらゼネスト回避を指示した。

 共産党も捲土重来を期しGHQ権力の壁に屈した。これにより「2.1ゼネスト」は流産させられることとなった。しかしながら、「2.1ゼネスト」が、日本の戦後革命史上最も政権の至近距離に迫った事件として刻印された史実は消せない。徳球党中央は以降、社共合同運動に賭けて左派政権創出に向かうことになる。これにつき、伊藤律派が精力的に活動する。しかし、党内の反党中央派の誹謗が強まるという党内状況となる。

 これについて筆者は思う。通説諸本はこぞって、この時の2.1ゼネストの不発を徳球−伊藤律系党中央の平和革命理論と指導の在り方に非を認める批判見解を競っている。これに関連して党綱領の「GHQに対する解放軍規定」が槍玉に挙げられている。果たしてこれは正論だろうか。筆者は、為にする批判と受け止めている。「GHQの対日初期政策=解放軍規定」はさほど重要な間違いではないと思っている。GHQの対日政策の初期には許される規定であったが、その後の政策転換時にも同規定を維持したことが間違いであるとする見立てこそが必要ではないかと思っている。問題は、2.1ゼネストで政権を最も近く手繰り寄せた時の「革命に対する責任能力と革命青写真の無さ」こそ真因ではなかったか。

 それを思えば、左派運動はいつでも政権を取った時の青写真と、政局を担いきる政治能力を証左しておく必要がある。今日、日共不破は「革命青写真不要論」を堂々と説いているが、反動的極みの悪質理論と云うべきではなかろうか。これに相槌を打つ党員頭脳の貧困も叉問題ではなかろうか。新左翼各党派も然りで同じ病気に罹っているのではなかろうか。

 【東大新人会運動】  

 1947.9月、東大で、戦前の新人会の「再建」活動が始められた。これを推進したのが通称ナベツネ(後の読売新聞社長・渡辺恒雄)派であった。ナベツネらの動きは、労働戦線での右派的新潮流である民主化同盟の動きと連動していた。ナベツネらの活動は、当時各分野で巻き起こりつつあった「モダニズム」と関連していた。「モダニズム」は文学の領域で狼煙が上げられ、哲学の分野に飛び火し、論壇を席捲していった。この当時の経済理論における大塚史学、文学理論での近代主義、哲学戦線での主体性論などがこれに当たる。「マルクス主義の硬直的理解からの解放」と位置づけられる。  

 この時、ナベツネは、戦前の転向組にして戦後は反党活動を職業にしていたことで有名な三田村四郎から活動資金5千円受け取っていた。党中央は、「モダニズム」理論の中身の精査に向かう能力を持たず、その右翼的政治性を問題にし排斥していった。12月、党中央は、「主体性論」をマルクス.レーニン主義に反する小ブル思想であるとして批判し、「東大細胞の解散、全員の再登録を決定」した。これにより、新人会活動は掣肘された。今日的に見て「主体性論争」はマルクス主義理論の見直しの契機(「反省の矢」)として重要な意義を持っていたと思われるが、その狙いが反共運動的臭いを持っていた故に封殺された。それはともかく、ナベツネの履歴に於ける「元共産党理論家」とはこの程度のものであることが確認されねばならない。

 【GHQの対日政策の転換による日本の反共の砦化始まる】

 1948年頃より国際情勢の変化を受けて、GHQの対日政策は初期の概ね善政政策から後期の反共の砦政策へと転換する。ここを識別せねばならない。1948.11月、極東国際軍事裁判が結審しA級戦犯25名に判決が下され、12.23日、絞首刑組7名が東京・巣鴨拘置所で執行された。残りのA級戦犯容疑者は釈放された。この過程で、正力松太郎、岸信介、児玉誉士夫らは国際金融資本の秘密エージェント契約している形跡が有り、それぞれが戦後タカ派のドンとして政財官界に影響を与えていくことになる。これについて筆者は思う。日本左派運動は、「正力松太郎、岸信介、児玉誉士夫」即ち国際金融資本の秘密エージェントの動きに対して分析力を持たぬまま運動展開していくことになる。それは児戯的でさえある。

 【全学連結成】  

 1948.9.18日、念願の全学連が結成された。東大を頂点とする国立大学系の学生運動と早稲田大学を中心とする私学系が合体し、各大学の自治会を基盤にこれを連合させて形成されたところに特徴が認められる。初代委員長・武井昭夫(東京大学)、副委員長・高橋佐介(早稲田大学)、書記長・高橋英典(東京大学)、中執に安東仁兵衛、力石定、沖浦和光らが選出された。全学連は、これより以降50年あたりまで武井委員長の指導の下で各種闘争に取り組んでいくことになった。  

 これについて筆者は思う。奇妙なことに、この時の指導者がなべてその後党の出世階段を昇ることがなかった。この時点ではポジションさえ定かでない上田・不破兄弟が登用されていくことになる。こういう人事を意図的にやったのが宮顕であるが、この変調さを指摘する者も少ない。  

 この期以降、学生運動が次第にマルクス主義化し、究極の「社会の根源に対する闘い」へと運動を向自化させていくことになった。この間全学連は、何回かの全国的闘争を経て全国主要大学の隅々まで組織化していくことに成功し、この経過で東の東大、早大、西の京大、同志社、立命らを拠点とする学生党員グループがその指導権を確立していった。全学連はその後、次第に青年運動特有の急進化運動を押し進めることになった。

 【徳球の9月革命呼号、不発】

 1949年、紆余曲折を辿りながら戦後革命の総決算を迎える時期に至った。1月、第24回衆議院選挙が行われ、吉田民主自由党が264(←解散時152)で大幅躍進、単独過半数を獲得した。他方、共産党が「35議席(←4)、得票数約300万票、得票率9.8%(←3.7%)」の成果を得て、人民政権近しの見通しを生んだ。1月、次のような声明を発表している。「人民の戦線が革命的に統一されるなら、民自党のごときは、国会に多数を占めるとはいえ、結局、革命の波にゆられてたちまち沈む泥舟にすぎないであろう」。こうして「2.1ゼネスト」以来の革命的機運が醸成された。

 2月、伊藤律は、第14回拡大中央委員会で、「社共合同闘争と党のボリシェヴィキ化に関する報告」を行い、社共合同運動の成果を報告した。「民族資本家までも含めての党の拡大強化方針」を決定し、次のように指針させている。概要「広範な大衆の中に、なお根強く残っている社会民主主義者の影響を大きく克服して100万のボルシェヴィキ党を拵えていく一大攻勢が社共合同闘争であり、合同闘争は権力闘争であり、地域闘争の発展に他ならない」。

 6月、第15回拡大中央委員会で、徳球書記長は「9月革命」を呼号し意思統一を図った。「9月までに吉田内閣を打倒する」と強調し、次のように述べている。概要「大衆の革命化に対する立ち遅れを急速にとりかえし、結論として吉田内閣打倒はま近いが、その後にできる民主勢力の連立政権に対しては、我が党も参加できるし、また参加せねばならない。階級的決戦が近づきつつあり、労働者の闘争は革命を目指す政治性をあらわにしてきた。人民の要求は身の回りの日常闘争から、非常な速度をもって吉田内閣の打倒、民主人民政権の樹立に発展しつつある。民主自由党を9月までに倒さねばならぬという我々の主張は、かかる条件にもとづいている」。

 この時期に符節を合わせるかのようにソ連シベリアからの引揚げが再開され、共産主義教育を受けた兵士が帰還し集団入党式を行っている。しかし、シベリア兵の引き揚げは目論み通りにはならなかった。次第に強制労働の実態を知らすことになり、引揚者の集団入党にも関わらず却って共産党の人気を悪くした。国会で引き揚げ問題が議題に上り、「コラッ共産党、シベリアの捕虜をどうしてくれる」と野次られることになった。

 「9月革命」を迎え撃つGHQ−吉田政権は、団体等規制令の公布で公務員の労働争議規制等を強め反動攻勢を本格化させた。この時期、7.6日の下山事件、7.15日の三鷹事件、8.17日の松川事件と云う国鉄関係の相次ぐ謀略事件が発生する。その慌しさの中で戦後革命の最後の綱引きが演ぜられ、日本の戦後革命は不発に終わり、流産した。このことが1950年以降の闘争に大きな影響を与えていくことになる。

 2章 2期その1 1950  共産党の50年分裂

 【「スターリン論評」の激震】

 1950(昭和25)年初頭、ブカレスト発UP電が、「日本の情勢について」と題するオブザーバー署名の論評を伝えた。論評は、日本の戦後革命流産を認め、野坂式平和革命路線を鋭く批判していた。しかし、いきなり外電と云う形で知らされた寝耳に水の党中央は当初「党かく乱のデマ論評」視した。追って「スターリン論評」であることが判明した。これについて筆者は思う。こうした外電形式は、国際的陰謀が働いている場合の常套手段であり、その政治的狙いを勘ぐるべきであろう。してみれば、これに踊る者にも臭いと思うべきであろう。ちなみにロッキード事件勃発もこの例である。  

 「スターリン論評」の受け入れを廻って党内が大混乱した。この時、徳球書記長は真っ赤になってテーブルを叩きながら次のように述べている。概要「我々は、これまで直接、国際的な指導を受けたことはない。自主独立の立場でやってきた。日本としては、日本の事情がある。今のコミンフォルムは、ユーゴ非難しかやっておらん。そんなものの云うことを、まともに聞けるか!。我々は赤旗に、コミンフォルム論文の攻撃を掲載し、堂々と渡り合うべきだ」。伊藤律が書簡を発表し、ソ同盟の日本革命に対する容喙ぶりに対する遺憾の意を表明した。

 徳球−伊藤律ラインのこの時の対応こそ日本左派運動の自主独立気概の嚆矢と云えよう。これに対し、志賀.宮顕の二人が無条件受け入れを主張した。宮顕は次のように批判している。概要「ソ同盟は我々の最良の教師であり、我々は教えを受けなくてはならぬ。ソ同盟は頭脳であり司令塔である。共産党は、国際的な組織であることに値打ちがある。コミンフォルムの批判を友党の批判として無条件に容認すべきだ」。これにより、徳球−伊藤律は所感派、ソ同盟の指示に従うべしとする派を国際派ということになる。

  1.18−20日、党中央は第18回拡大中央委員会を開催し、総勢約2百名による「スターリン論評」の処理を集団討議に付した。会議は激しく紛糾し、延々5時間余の激論が続いた。結局、人民日報社説の友誼的勧告「日本人民解放の道」が決め手となって、「論評」の積極的意義を認める全面承服決議「コミンフォルム機関誌の論評に関する決議」が満場一致で採択された。

 これについて筆者はかく思う。第18回拡大中央委員会の史的意義は、徳球の公明正大な党運営ぶりを伝えているところにある。未曾有の事態に対して衆議を図る徳球式党運営ぶりを見て取るべきであろう。叉、議論内容もさることながら議論内容の歴史的開示が為されていることも評されるべきではなかろうか。今、内情がかく明るみにできるのも、この時の会議の模様が公開されているお陰である。徳球時代の党中央の議論内容はかなり公開されているのに比して、宮顕時代になると全くと云って良いほど伝わらない。少なくとも議事録は作成されていると思われるが案外それも怪しい。つまり、全く秘密のヴェールに包まれている。こういう体質こそ非民主的運営と云うのではなかろうか。


 1.26日、徳球系党中央は、統制委員会議長兼政治局員・宮顕を九州地方党組織の福岡に左遷した。党中央批判者グループの頭目であり陰謀の巣であることに対する措置であった。これについて筆者は思う。この措置にさえ、通説本は宮顕に肩入れしている。筆者は、徳球の果断な措置であったと評している。その差は、宮顕の胡散臭さを訝らず「戦前唯一非転向闘士聖像」を虚と見なすのか実とみなすのかにあると思われる。

 【全学連中央の宮顕派化】  

 「50年分裂」時、結成以来、全学連を指導していた武井系主流派は宮顕派に与した。これについて筆者は思う。武井系主流派が宮顕派に与したのは、宮顕をして真の革命家、徳球をして扇動家視していたことによると思われる。この時点では宮顕のイカガワシサが判明せず、逆に聖像視されていたという、いわゆる「時代の壁」があり、武井系が見抜けなかったということである。  

 問題は、今日に於いては幾つかの資料が漏洩されており、宮顕の胡散臭さがかなり明瞭になりつつあるにも拘らずその成果を議論せず、相変わらずの「唯一無比の英明な指導者」として讃美する傾向があることである。科学的社会主義者を自称する者の頭脳がこれだからして、「科学的社会主義」なるものがいかに杜撰なものであるかが分かろう。補足しておけば、筆者が、マルクス主義系の理論を渉猟して、その難解さに辟易することがある。現在では、その難解さがマルクス主義そのものの難解さではなく、論評者が己の没知性を隠す為に煙幕的に難解にしているに過ぎないと確信している。なぜなら、難解に述べる連中が揃いも揃って筆者式宮顕論に至らず、相も変わらず「戦前来不屈の唯一非転向指導者」視したままの不見識に耽っているからである。そういう凡庸な手合いが、いくら難しく理論をこねてもたかが知れていると云わざるを得まい。

 【全学連が長文の意見書を党中央に提出】

 1950.3月、宮顕に操られた全学連中央グループは、長文の意見書を党中央に提出し、徳球系執行部のこれまでの学生運動に対する指導の誤りを痛撃した。東大や早大の学生細胞からも相次いで意見書が本部に提出され、党批判を強めていった。この時、武井委員長が「層としての学生運動論」理論を提起している。それまでの党の指導理論は、「学生は階級的浮動分子であり、プロレタリアに指導されてはじめて階級闘争に寄与する付随運動に過ぎない」というのが公式見解であった。武井委員長は、意見書の中で、「学生は層として労働者階級の同盟軍となって闘う部隊である」と規定し、学生運動を「層」としてみなすことにより社会的影響力を持つ独自の一勢力として認識するよう主張していた。その後の全学連運動は、この「層としての学生運動論」を継承していくことで左派運動のヘラルド的地位を獲得していくことになる。武井委員長の理論的功績であったと評価されている。

 【徳球が「50年テーゼ草案」提起】

 徳球は、党内の混乱と党非合法化の危険をはらむ緊迫した情勢の中、「当面する革命における日本共産党の基本的任務について」を党内に配布した。これが「戦略戦術に関するテーゼ」(50年テーゼ草案又は徳球草案)と称される重要文書となる。この草案は、徳球執行部の渾身の力を込めた闘争戦略見直し提案であり、党内問題の様々な分野に言及した力作長文であった。徳球は、これを基礎に全的討議を呼びかけた。徳球は、綱領草案を提出するに当たり次のように確約していた。概要「この秋に党大会を開く予定であり、これは秋の大会に提出する草案の、そのまた草案であり、この草案の根本問題に対する中央委員の反対意見がある場合は、どんな少数の反対であっても、これを公表する。各党機関並びに、各党員の意見も、重要と認められる場合は、アカハタ、前衛その他の方法で発表する」。  

 これについて筆者は思う。草案を全党討論に付すという措置は、これまでにない事例となった。このこと自体が党内民主主義の大革新であり前進であった。戦前は、綱領的なテーゼは全てコミンテルン執行委員会において作成されており、戦後になって初めて第5回大会宣言と6回大会提出の綱領草案が党自身の力で打ち出されていた。これらはまだ正式綱領となっていなかった。この意味から、このテーゼ草案は、党創立以来初めて党自らの手で作り出し、これをもとに決定的な綱領を打ちだそうとした点、その為に中央での反対意見の提出から全党の自由な討議を許そうとした点でまさに画期的であった。宮顕時代になって、徳球の民主的開放的公正明朗な党運営の実際が隠匿されてしまっているが、我々はこの史実を学べねばならないのではなかろうか。

 【第19回中央委員会総会で、党内が「50年分裂」】

 4月、第19回中央委員会総会がひらかれた。この総会の眼目は、党の分裂の危機にどう対処すべきかにあった。反対派は、徳球草案が先の第6回党大会で決定された綱領起草委員会を経由しないで提出された書記長私案であるとして、内容以前の形式において攻撃した。志賀.宮顕、神山、蔵原、亀山幸三、袴田、春日庄次郎、遠坂良一等がテーゼ反対を表明した。こうして中央委員会は事実上分裂した。これを「50年分裂」と云う。「50年分裂」により党内には次の派閥が形成されることになった。1・党中央所感派(徳球派、伊藤律派、志田派、野坂派)、2・国際派志賀G(志賀派、野田派)、国際派宮顕G(宮顕派、春日(庄)派)、中西功派、神山茂夫派、福本和夫らの統一協議会G。 これについて筆者は思う。形式で責めるのは宮顕的狡知であろう。

 【徳球派の地下活動、朝鮮戦争勃発、レッドパージ】

 6.6日、GHQ指令により共産党が再度非合法化された。徳球派幹部は国内に椎野悦郎を議長とする8名からなる「臨時中央指導部」(臨中)を残置した上、国際派の面々には無通知のまま地下に潜った。 徳球らの地下潜行とは逆に、宮顕は九州から帰還した。これは組織違反であろうが、これについて問われることがないまま今日に至っている。

 6.24日、朝鮮動乱が勃発する。当時どちらが先に仕掛けたかという点で謎とされた。双方が相手を侵略者と呼んで一歩も譲らなかった。今日では北朝鮮側の方から仕掛けた祖国統一戦であったことが判明している。

 7−9月、マッカーサーは、共産党国会議員の追放、アカハタの1ヶ月停刊の指令に引き続き、無期限発刊停止処分を指令した。続いて、新聞協会代表にレッドパージを勧告。これを皮切りに各分野にわたってレッド.パージの嵐が見舞うことになった。9月、吉田政権は公務員などのレッドパージを決定した。これにより、重要経営と労働組合からの万を越える共産党員と支持者の追放(レッドパージ)などの弾圧が見舞った。

 【全学連の反イールズ闘争、レッドパージ反対闘争】
  
 5月、全学連は、反イールズ闘争に立ち上がった。CIE教育顧問のイールズが各地でアメリカン民主主義を賞賛しつつ共産主義教授の追放を説いて回っていた。5.2日、東北大で、イールズの講演を学生約千名が公開を要求して中止させ、学生大会にきりかえた。東北大学は彼の28回目の講演であったが、ここで初めて激しい攻撃を受ける事になった。この経過は、全学連中央に「『イ』ゲキタイ。ハンテイバンザイ」と電信された。5.16日、北大でもイールズ講演会を中止させた。

 8.30日、全学連は緊急中央執行委員会を開いて「レッドパージ反対闘争」を決議し、各大学自治会に指示を発した。同10.5日、東京大学構内で全都のレッドパージ粉砕総決起大会が開かれた。都学連11大学2千名が参加。これが契機となり全国の大学に闘争が波及する。イールズ講演会を最終的に中止に追い込む。  

 【所感派が武装闘争指針させる】

 8月末、徳球が北京に渡り、地下指導部「北京機関」を作り海外から「臨中」を指導し始めた。この間、日中共産党による日本革命方式が話し合われ、「武装した人民対武装した反革命は中国だけの特質ではない」という認識の下で、ロシアの都市労働者の武装蜂起と中国の農村遊撃隊の組織との結合による武装革命を推進すべしという結論に至った。徳球指導部は、朝鮮動乱勃発と云う国際情勢の変化を受け、従来の平和革命式議会主義から一転して武装闘争路線へと転換せしめることになった。こうして、中国革命方式による武力革命方針が提起された。

 【宮顕の執拗な反党中央活動】

 8月、国際派7名の中央委員は、宮顕を首魁として党の統一を回復する為と称しながら「全国統一委員会」(「全統委」)をつくって党中央に対抗した。全統委には、全学連中央グループ、主だった各大学の細胞、日本帰還者同盟の中央グループ、新協劇団細胞などが参加した。但し、志賀系「国際主義者団」、中西らの「団結派」、神山茂夫グループ、福本和夫の率いる「日本共産党統一協議会」などは排除され更に分立するという様相を示した。こうして日本共産党内の「50年分裂」は抜き差しならない抗争へと激化していくことになった。

 10月、臨中派はソ連.中国両共産党の支持を得ることに成功し、「10.10日5周年にさいし全党の同志諸君に訴える」で「悪質分子を孤立させよ」と呼びかけた。これにより全統委は解散した。しかし、12月頃、宮顕、、春日(庄)派が統一会議を結成し再度分派活動に乗り出している。志賀派、神山派は除かれていた。これについて筆者は思う。宮顕のこの執拗な党中央分裂策動をどう評すべきか。且つこの時の潤沢な資金はどこから出ていたのであろうか。誰も問わぬまま今日に至っている。

 【朝鮮特需で日本経済が活況化する】

 この年、日本経済は、日本左派運動の混迷をよそに朝鮮動乱を奇果とする戦争特需景気に沸いた。ドッジ.プランのデフレ政策に苦しんでいたに時ならぬ利益をもたらすことになった。後方兵站基地として機能した日本に米軍発注の特殊需要が創出され、この年だけで1億8200万ドル、1950.6月からの1年間で3億4千万ドル(1200億円)に達し、動乱発生前の滞貨推定額1千億円を上回った。以後1955.6月までの5年間の累計は16億2千万ドルに達した、と云われている。日本経済は思わぬ恩恵を受けることとなり、金偏、糸偏景気といわれた動乱ブームに沸いた。開戦後一年間で、鉱工業生産は46%増え、輸出が60%以上増加し、国際収支も50年下半期より輸出超過に転じた。まさに起死回生の「干天の慈雨」となった。以降日本の独占資本は、戦争が生んだ特需景気に活路を見いだしていくことになった。

 3章 2期その2 1951−1953  「50年分裂」期の学生運動

 (1951(昭和26)年)

 【「四全協」で武装闘争へ向けての体制作り】  

 2月、第四回全国協議会(「四全協」)が開催され、「日本共産党の当面の基本的闘争方針」(いわゆる「51年綱領」)が採択され、党結党以来初めての軍事方針を打ち出した。これに基き山村根拠地建設が目指され、山村工作隊、中核自衛隊等が組織され、各地で火炎ビン闘争を発生させることを目論むことになった。武装闘争支援文書「栄養分析法」、「球根栽培法」等が配布された。同書にはゲリラ戦、爆弾製造の方法も書かれていた。党は青年運動組織への指導を大きく転換させ、5.5日、日本民主青年団(民青団)を発足させた。  

 今日、日共は次のように総括している。 「中国の人民戦争の経験の機械的適用であった」、「民族解放革命を目標として、街頭的冒険主義に陥り、セクト化を強め一面サークル主義になった」(「日本共産党の65年」)。これについて筆者は思う。そう批判するのは勝手だが、ならば当時の国際情勢にどう対峙すべきだったのか、手前達の運動がいかほどのものを創造したのかということと突き合わせて云うのが筋だろう。何事も云い得云い勝の愚を避けるのが嗜みであろう。

 【1951年の学生運動両派の動き】

 1951(昭和26)年、党中央が武装闘争を呼号し始めると、宮顕派の全学連主流派は、それまでの先鋭的な党中央批判理論に似合わず、穏和主義的な反戦平和運動に日和見し始める。これに業を煮やした全学連反主流派は堪らず、党中央の武装闘争の呼号に応じて党の軍事方針の下で工作隊となり、山岳闘争、街頭闘争に入る。東京周辺の学生たちは、「栄養分析法」、「球根栽培法」等の諸本を手にしながら三多摩の山奥にもぐり込んだ。結果的にこの時期の党の武装闘争路線は破綻していくことになり、民青団も大きな犠牲を払うことになった。他方、11月、国際派が反戦学生同盟(反戦学同)を結成する。

 【「不破査問事件」】  

 1952.2月、東大の国際派東大細胞内で査問リンチ事件が発生している(これを仮に「不破査問事件」と云うことにする)。この事件は、国際派の東大細胞内における指導的メンバーの一員であった戸塚秀夫、不破哲三、高沢寅男(都学連委員長)の3名が「スパイ容疑」で監禁され、以降2ヶ月間という長期の査問が続けられ、「特に戸塚、不破には酷烈、残忍なるテロが加えられた」と云われている事件である。 

 この事件は、1・戦後学生運動の初のリンチ事件となったということ。2・この時査問された不破らの容疑がスパイであり、その不破がその後日共の最高指導者として登場するに至ったということ。3・この時事件に介入してきた宮顕の胡散臭さが垣間見え、宮顕と不破の特殊関係を見て取ることができる、という三点で興味深い事件となっている。ちなみに不破は最近「私の戦後60年」を執筆しているが、この事件の口を閉ざしている。

(私論.私見) 「東大国際派内査問事件」の発生日について

 ネット検索で「松下清雄を語る会について」に出くわした。それによると、「スパイ.リンチ査問事件の年次」で、て.「1052年2月14日」は間違いで正しくは.「1051年2月14日」であるとの指摘が為されている。れんだいこの「検証学生運動」(社会批評社、2009年)にも言及下さっている。これにより、れんだいこテキストの方も訂正しておく。これにより、「東大ポポロ座事件」と同時期のものと考えての「なぜ両事件の関わりが検証されていないが不自然なことである」と記していた下りが不要となった。判明したことは、「不自然なこと」ではなく「発生年次が丁度1年違っていた」と云うことになる。

 2010.4.29日 れんだいこ拝


 【二つの共産党による二つの選挙戦】

 4月、第2回一斉地方選挙が行われたが、この選挙戦で党の分裂が深刻な様相を見せた。主流派は社共統一候補として社会党候補者を推薦したが、統一会議派は、これを無原則的と批判し、東京都知事に哲学者の出隆、大阪府知事に関西地方統一委員会議長の山田六左衛門を出馬させた。こうして両派による大衆面前での泥試合が展開された。戦前戦後通じて初めて「二つの共産党が別々の候補を立てて選挙戦を戦う」という珍事態が現出した。党外大衆の困惑は不信と失望へと向かった。投票結果はそれぞれ惨敗となった。これについて筆者は思う。宮顕と云うのは、こういうことを平気でやる感性を持っている。

 【サンフランシスコ講和会議と日米安全保障条約の締結】  

 9.8日、吉田首相はサンフランシスコ講和会議へ臨み、講和平和条約が締結された。この条約の締結によって日本は占領統治体制から脱却し主権を回復することになった。 この条約の調印の5時間後、日米安全保障条約が締結された。「平和条約の効力発生と同時にアメリカ合衆国の陸軍、空軍及び海軍を日本国内に配備する権利を日本国は許与し、アメリカ合衆国はこれを受諾する」と記されていた。安保条約により日本の国際的立場はアメリカを盟主とする資本主義国家陣営入りすることが明確にされた。

 これについて筆者は思う。それは、表見的には戦後日本のアメリカ陣営組み込みであったが、真実は、第二次世界大戦後の国際金融資本即ち国際ネオシオニズム裏政府の国際戦略に戦後日本を委ねることを意味していた。吉田首相は、このことを承知のうえで戦後日本の独立を優先させた気配がある。日米安保条約と云う火中の栗を拾わせられることになったが、その行く末は後世の政治に委ねたのではなかろうか。だがしかし、国際ネオ・シオニズム裏政府は容易く御せられる相手ではない。その後の日本は養豚政策で育てられ、やがて骨の髄までしゃぶられ捨てられて行く運命に入った。2009年現在、その仕上げの終盤過程に入っているとみなせよう。

 【「五全協」で軍事路線意思統一】  

 8月、「スターリン裁定」により、国際派の統一会議を分派と裁定し、党内団結を指示した。これにより国際派は総崩れとなった。統一会議指導部は一斉に分派組織を解散した。
10月、「臨中」指導下の党は秘密裡に「五全協」を開き、新綱領(「51年綱領」)の採択や軍事方針の具体化、党規約の改正など党の前途を決定する重要な問題を討議した。臨中議長に小松雄一郎、軍事委員長に志田重男を据えた。志田重男はこの大会で軍事責任者として台頭した。伊藤律は党中央権限を奪われ、宣伝担当からも外された。

 ところで、現在の宮顕派の手になる党史は、四全協.五全協の存在そのものを認めようとしない態度を取っている。「徳田らは(四全協につづいて)10月には五全協を開いた。この会議も四全協と同じく党の分裂状態のもとでの会議であり、統一した党の正規の会議ではなかった」として抹殺している。 これについて神山茂夫は次のように云っている。「この「四全協」.「五全協」について、宮本君などは、それがあったことさえも認めない。その理由は、「六全協」で従来の文書は破棄するという決定をしたから、『四全協』.『五全協』も認めないと云うのだ。これでは極端ないい方をすれば、文書によって、党の歴史上から過去の文書を消し去り、実際にあったことさえ消してしまうことになる。それは出来ない相談である」(神山茂夫「日本共産党とは何であるか」)。

 (1952(昭和27)年)

 【「東大ポポロ座事件」】

 2.20日、東大でポポロ座事件が発生した。劇団「ポポロ座」の演劇発表会に警視庁本富士警察署の私服警官数名が潜入していることが判明、事件となった。多数の学生が取り囲み一部暴力もふるわれ、警察手帳を奪った。押収した警察手帳には学生・教職員・学内団体の思想動向と活動に対する内偵の内容が記されていた。手帳押収に際して暴行があったとして学生が起訴された。この事件に対して、「大学の自治」を強調して「不法に入場した警官にも責任がある」とする見解と、「いかに学内であっても、暴行を受ければ警察権を行使するのは当然だ」とする田中栄一警視総監談話を廻って各方面に論争が繰り広げられることに鳴った。そういう意味で問題となった事件であった。これについて筆者は思う。ポポロ座事件は、「国際派東大細胞内査問・リンチ事件」中に発生している。両事件の関わりが検証されていないが不自然なことである。

 【血のメーデー事件】

 5.1日、第23回統一メーデーが全国470カ所で約138万名を集めて行われた。東京中央メーデーは流血メーデーとなり、「血のメーデー事件」として全世界に報道され衝撃が走った。法政大学学生含む2名が射殺され5人が死亡し、3百名以上が重傷を負い、千人をこえる負傷者がでた。当局は、事件関係者としてその後1230名(学生97名)を逮捕した。


 5月、早大で第2次早大事件が発生した。神楽坂署私服・山本昭三巡査を文学部校舎に監禁。救援の警官隊と座り込み学生1500名が10時間にわたる対峙となった。9日未明、乱闘となる。その後、り、吉田嘉清ら多くの活動家たちが再結集し、都下大学の学生を加え数千人の抗議集会。党は、「座り込み」を「消極的で敗北主義的な戦術」と批判している。
 【全学連第5回大会、所感派が全学連中央奪還】    

 6月、2年ぶりに全学連第5回大会が開催され、徳球系執行部を支持する所感派学生党員が武井系執行部を追放し主導権を握った。1948年の全学連結成以来執行部を担ってきた武井指導部が終焉させられた。新執行部は、党の武闘路線の呼びかけと「農村部でのゲリラ戦こそ最も重要な闘い」とした新綱領にもとづき、農村に出向く等武装闘争に突き進んでいくことになった。中核自衛隊の編成に着手し、山村工作隊を組織した。

 これについて筆者は思う。この経緯を「反帝・平和の伝統を担ってきた武井指導部の引き摺り下ろし」とみなして、この時の政変を疑惑する史論が為されているが愚昧ではなかろうか。この頃、武井指導部は宮顕論理に汚染され、既に闘う全学連運動を指揮し得なくなっていたのであり、歴史弁証法からすれば当然の経過であったと拝察したい。 

 全学連第5回大会の最中、全学連による「立命館地下室リンチ事件」が発生している。徳球系日共京都府委員会の指導する学生党員(「人民警察」)による、反戦学同員に対する3日2晩にわたるリンチ査問事件となり、被害学生は関大、立命館、名大、東京学芸大、教育大、津田塾の反戦学生同盟員ら延べ11名に及んだ。注意すべきは、この時、「宮本顕治、春日庄次郎、神山茂夫スパイ説に基くCICスパイ系図」に基く査問が行われた。これについて筆者は思う。この時の系図はその後幻となっているが公開されるべきであろう。貴重と思う故に敢えて言及しておく。。


 (1953(昭和28)年) 

 【全学連第6回大会】  

 1953(昭和28).6月、全学連第6回大会開催。この頃、武装闘争が完全に収束し、基地反対闘争が中心課題となっていた。大会は、基地反対闘争を中心として「反吉田反再軍備統一政府の樹立」を闘いとることを宣言し、「学生は民族解放の宣伝者になろう」が強調された。この大会決議に基づいて、大会後全学連は、進歩派教授と協力して憲法改悪反対の講演会を開き、夏休みには一斉に「帰郷運動」で農村に入った。武装闘争の季節が終わったと云うことになる。委員長に阿部康時(立命館大)、副委員長・大橋伝(横浜国大)、松本登久男(東大)、書記長・斎藤文治(東大)が選出された。 

 【志田派式武装闘争の失敗】   

 党内で徳球派系の志田派が台頭し、徳球の片腕として君臨していた伊藤律派を駆逐しながら次第に党中央を簒奪する。その志田派が指導する武装闘争が始まる。5月から7月上旬にかけて、火炎瓶闘争を含めた武力行動がいたるところで展開された。が、ことごとく鎮圧された。秋になると、軍事方針や中核自衛隊の活動が大衆の志向や要求から浮き上がっていることが明白となった。


7月、最後の徳球書記長論文となる「日本共産党創立30周年に際して」がコミンテルンフォルム機関誌「恒久平和と人民民主主義の為に」に掲載された。徳球は文中で、ストやデモに没頭して選挙の問題を軽視する一部の幹部の傾向を批判し、党員は「公然行動と非公然行動との統一に習熟する必要が有る」と警告を発した。

 志田派は徳球指示に従わず、逆に党内粛正に血道をあげ始めた。戦前の宮顕式スパイ摘発運動式第一次総点検運動を展開し、伊藤律派、神山派の一掃に狂奔し始めた。これにつき筆者は思う。この時の総点検運動の地下で志田が宮顕と通じていたとするなら、総点検運動の性格が見えてくる。筆者は左様なものとして認識している。この頃志田は頻繁に料亭に繰り出している。後にこの時の様子が槍玉に挙げられるが、誰と談合していたのか肝心なことは漏洩されていない。しかるに一挙手一動作が的確に把握されている。

 【徳球逝去、伊藤律ね幽閉、宮顕の党中央再登壇画策始まる】

 10月、徳球が北京で客死する(享年59歳)。bQの伊藤律は野坂の手引きで幽閉された。徳球−伊藤律の両指導者が不在となった隙に党中央に再登壇してきたのが戦前のリンチ致死事件仲間の宮顕−袴田であり、この極悪同盟が野坂派、志田派と結託し始める。12月上旬、志田系党中央は全国組織防衛会議を開き、第二次総点検運動を開始した。ここまで主として伊藤律派が次々に査問されていたが、引き続き神山派、反宮顕系國際派の連中が処分された。これが翌年の六全協の地ならしとなる

 4章 3期 1954−1955  六全協期の学生運動  

 (1954(昭和29)年) 

 【「3・1ビキニ事件」から始まる原水禁運動】

 1954.3.1日、アメリカがビキニで第1回水爆実験。死の灰が福竜丸の乗組員に降りかかり被爆した。これを「3・1ビキニ事件」と云う。広島、長崎に続く三度目の被爆に怒った日本国民は大きなショックを受け抗議運動を開始した。全国から3200万人を超える原水爆禁止の署名が集まる等我が国の反戦平和運動の盛り上がりの契機となった。以来、日本の原水爆禁止運動は、「核戦争阻止、核兵器廃絶、被爆者援護・連帯」の三つの基本目標を掲げ前進させて行くことになった。早大全学連のリーダー吉田嘉清がこの頃より原水爆禁止運動に参加するようになる。

 【宮顕の警視庁出入り証言】

 4.6日、宮顕が警視庁2階にある七社会(記者クラブ)へ現れて記者会見している。鈴木卓郎の「共産党取材30年」は、「団規令による潜行幹部の捜査は不当だ、と警視庁へ抗議にきた際のことだと思う」とあるが、党が非合法にされているこの時期に宮顕が警視庁に出入りしていることを裏付けており非常に貴重な証言となっている。

 【全学連第7回大会】  

 6月、全学連第7回大会が開かれた。大会は、「生活と平和の為に」を打ち出し、政治運動とか大衆運動から召還し、一転代わって没政治主義方針確立した。学科別のゼミナール運動を行う方針が決められた。また、サマーキャンプ、大学祭、歌声運動などの運動が強められるようになった。後の自治会サービス機関論を生み出すことになった原点であり、後に「学生運動としては完全に体を失い、俗悪化した大衆追随主義に転落した」と批判されている。人事で、委員長・松本登久男(東大)、書記長・子田耕作(大阪市大)を選出した。

 これについて筆者は思う。全学連のこの急激な穏和化の背景に何があったのか。筆者には容易に透けて見えてくる。この頃既に、宮顕と志田の裏交渉が始まっており、宮顕が事実上復権し始めていたと云うことになる。宮顕の指導するところ必ず穏和化になる。かっての武井全学連との蜜月時代の左派的言辞は、徳球執行部に対する揺さぶりのためであり、いわばマヌーバーでしかなかった。このことも判明しよう。

 【「自衛隊の海外出動禁止決議」、自衛隊発足と原水禁運動】

  6.2日、鳩山内閣は、参議院本会議で、次のような「自衛隊の海外出動禁止決議」をしている。「自衛隊の海外出動を為さざることに関する決議。本院は、自衛隊の創設に際し、現行憲法の条項と、わが国民の熾烈なる平和愛好精神に照し、海外出動は、これを行わないことを、茲に更めて確認する。右決議する 」。これについて筆者はかく思う。これが自衛隊創設時の誓約であった。の時の決議が2009年現在何と遠くまで隔たってきていることか。

 7.1日、陸海空の自衛隊発足。当時の米軍事顧問団幕僚長・フランク・コワルスキーは、著書「日本再軍備」の中で次のようの述べている。「国際情勢のためとはいえ、理想主義的憲法を踏みにじり、国民がきっぱり放棄した戦力を再建せねばならなくなったのは悲しい」。他方、8.8日、全国的な原水爆禁止運動の高まりの中で「原水爆禁止全国協議会(原水協)」が結成された。自衛隊発足と原水禁運動が対のような形で生まれていることが興味深い。

 (1955(昭和30)年) 

 【全学連第8回大会】  

 6月、全学連第8回大会が開かれた。大会は、基地反対闘争と原水爆禁止運動に取り組むこと、文化サークル活動の全国的.地域的交流、世界青年学生平和友好祭に参加することによる国際的交流、芸術家の合同公演を大学当局側と協力して行うなどを決めた。大会はカンパにア的なものに終始し議論らしい議論も為されず、運動方針も「話し合い路線」とするという穏和化を明確にさせ、日常要求主義とサークル主義という没政治主義に陥ることになった。

 【六全協】  

 7月、六全協が開かれ、戦前の共産党解体同盟である宮顕−野坂、これに徳球系の志田を加えたトロイカ体制が生まれた。ここに、六全協の史的意味がある。これについて筆者はかく思う。日本左派運動は、それまで徳球系党中央を批判し続けてきた経緯からこの「宮廷革命」を是として受け入れ、このスタンスが今日まで続いている。

 宮顕は党中央に返り咲くや否や、それまでの急進主義的衣装を脱ぎ捨て、露骨なまでの統制主義と右翼的穏和主義指導に手のひらを返した。日本左派運動の牙を抜き始め、戦後日本左派運動総体を投降主義的な方向へ構造改革し始めた。(筆者は、これより以降の党を宮顕の意向を挺している場合には日共、選挙等他党との比較で一般表記が適切な場合のみ共産党と呼称して使い分けすることにする)  六全協により、徳球体制下で冷や飯を食わされてきた連中が我が世の春を向かえ、勝てば官軍、負ければ賊軍の地を行く党内政争が演じられて行くことになった。敗者側には暫くの間「六全協ショック」、「六全協ノイローゼ」、「六全協ボケ」と呼ばれる状態が続くことになった。  

 これについて筆者はかく思う。これにより多々欠点を抱えつつも曲がりなりにも左翼運動を担っていた本来の共産党員たちが追放され、偽装左派とも云うべき宮顕−野坂連合が党内を支配することになった。ここで注意を要するのは、この時期の日本左派運動に明らかな質的転換がもたらされたことを正確に確認することである。この確認ができないと、この後の革共同、ブントの誕生の流れが見えてこないことになる。筆者の判ずるところ、戦後左派運動の第一期は曲がりなりにも、徳球−伊藤律系の指導により政権奪取に向かっていた。その夢は叶えられなかったが、宮顕−野坂系指導による第二期となると端から政権奪取運動を放棄し、日本左派運動総体を体制内化的な単なる批判運動即ち穏健主義に閉じ込めることになる。  

 六全協は、共産党をしてそういう運動として発展させて行く転換点となった。れんだいこ史観によれば、この定式化がはるけき今日まで及んでいる。してみれば、体制側から見て、日本左派運動を穏和にせしめた宮顕の功績は大なるものがあると云うべきだろう。もし、我々が、日本左派運動を総括せんとするならば、転回点となったこの六全協に於ける質的転換まで立ち戻らねばならないだろう。この重要性が認識されていないところに理論の貧困があると考えている。

 【「7中委イズム」】  

 9月、全学連第7回中央委員会が開かれ、宮顕式路線に従っていわゆる「歌ってマルクス、踊ってレーニンというレクリエーション路線」として揶揄される穏和化方向へ振り子の針を後戻りさせることとなった。これを「7中委イズム」と言い表すことになるが、自治会を「サービス機関」と定義し、一転して日常要求路線へと全学連運動を向かわせることになった。「自治会=サービス機関論」をここで定義しておくと次のように云える。「自治会が政治主義に陥ることを戒め、学生運動如きが情勢分析や政治方針の提起を行うべきでないとした。学生運動は、学生の本分に基く身近な要求を取り上げて、それをサービスしていくべきであるとした。これにより、トイレに石けんを付けるというサービス運動を開始することになった」。これについて筆者は思う。宮顕は、手前が党中央を盗るまでは急進主義的反党中央批判を指針させ、ひとたび党中央を掌握したとなると一転して極めつきの穏和主義的右翼主義的な運動を指針させていくことになった。これが宮顕運動の元来の本質であり、それまでの急進主義は党中央を奪還する為に付けていた仮衣装に過ぎなかったと窺うべきであろう。

 【砂川戦争】  

 当然ながら、当時の学生運動家の昂揚する意識が、「7中委イズム」で押し込められることはなかった。所感派、国際派の別を問わず急進主義派の学生たちが政治闘争に向かい、「基地反対闘争の中での天目山の闘い」として砂川闘争に取り組んで行くこととなった。9.13日、米軍立川吉の拡張工事の為砂川町の強制測量が開始され、労組−学生同盟と警官隊が正面衝突した。こうして砂川闘争が始まった。

 【55年体制の確立】

 この年は、共産党の合同に続いて左右社会党の統一、鳩山系日本民主党と吉田−緒方系日本自由党の合同による自由民主党の誕生による政界再編の年となった。これにより、自由民主党が政権与党、社会党が野党第一党となる自社二大政党制によるいわゆ「55年体制」構図が定着した。ここからが「55年体制」のスタートとなった。

 【正力松太郎の暗躍】

 11月、第三次鳩山内閣で、先の衆院選で初当選した読売新聞社主・正力松太郎(鳩山派)が北海道開発長官に抜擢されている。正力は当選後直ちに原子力行政の推進に力を入れ、翌年には科学技術庁を創設し初代長官に就任する。これによりその後の原子力行政及び事業の土台を築く。正力は、1957(昭和32)年の岸内閣の第一次改造で、国家公安委員長と科学技術庁長官、原子力委員長を兼任で就任する。その後首相を目指し、中曽根康弘らを従え派閥「風見鶏」を作るが「吉田学校生」に対抗できず野望を潰されることになる。

 これについて筆者は思う。正力派の野望を挫いたのは「吉田学校生」内の池田、田中、大平系譜であった。そういう意味で、戦後の政争は政権与党派内のハト派対タカ派の政争こそ凄まじかったと云うことになる。この辺りはもっと着目されるべきではなかろうか。