上巻1(1期から3期まで)

物語りブック戦後学生運動論】 【戦後学生運動史上巻目次】

【序文】
【執筆観点】
【れんだいこの戦後学生運動区分論】

 章  区分     期間            概要
 1章  1期      終戦直後−1949   全学連結成とその発展
 2章  2期その1  1950          共産党の「50年分裂」
 3章  2期その2  1951−1953     「50年分裂」期の学生運動
 4章  3期      1954−1955    六全協期の学生運動
 5章  4期その1  1956          反日共系全学連の登場
 6章  4期その2  1957          革共同登場
 7章  5期その1  1958          ブント登場
 8章  5期その2  1959          新左翼系全学連の発展
 9章  5期その3  1960          60年安保闘争
 10章 6期その1  60年安保闘争直後  ブントの大混乱
 11章 6期その2  1961          マル学同全学連の確立
 12章 6期その3  1962−1963    全学連の三方向分裂固定化
 13章 6期その4  1964          新三派連合結成
 14章 7期その1  1965−1966    全学連の転回点到来
 15章 7期その2  1967          激動の7ヶ月
 16章 8期その1  1968          全共闘運動の盛り上がり
 17章 8期その2  1969          全国全共闘結成
 18章 9期その1  1970          70年安保闘争とその後
 別章 【戦後学生運動補足、余話寸評】
 別章 【れんだいこの日本左派運動に対する提言】
 インターネットサイト
 参考文献
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【戦後学生運動史下目次】

 章   区分    期間          概要
 19章   9期その2 1971−1975  1970年代前半期の諸闘争
 20章   9期その3 1976−1979  1970年代後半期の諸闘争
 21章  10期その1 19780年代   1980年代の諸闘争
 22章  10期その2 1990年代    1990年代の諸闘争
 23章  10期その3 2000年代    2000年代の諸闘争
 別章1 【連合赤軍考概略】
 別章2 【党派間ゲバルト考概略】
 別章3 【よど号赤軍派考概略】
 別章4 【日本赤軍考概略】
 別章5 【三里塚闘争概略】
 別章6 【新日和見主義事件考】
 別章7 【ロッキード事件考】
 インターネットサイト
 参考文献

 【序文、日本左派運動内のもつれた糸を紐解く為に】  

 思い起こせば筆者体験であるが、全共闘学生運動の華やかりし頃、70年安保闘争を控え、検挙に継ぐ検挙をものともせず、60年安保闘争に負けじとばかりの闘いの炎が猛り狂っていた。この頃の伝聞である。新参で入獄して来た活動家に対して獄中の活動家が放った言葉が、「革命はなったか」であった。云った本人は至極マジであった。これが面白おかしく伝えられていた。こういう逸話は捜すまでもなくゴマンとある。かの時代が終わったのは確かである。

 「きみまろ」ではないが「あれから30年」。余りにも情況が悪くなった。我が国の政治権力者の能力が格段に落ちている。大和民族史上未曾有の存亡危機であるというのに、与野党の政治運動全体が漫談化している。にも拘らず日本左派運動の先頭に立ってきた学生運動の灯がほぼ潰えている。仄聞するところ、中核派系の学生による法政大での闘争が聞こえる程度である。 なぜこのようなことになってしまったのだろうか。政治運動のみならず政治評論さえ消えている。久しくまともな言及に出会ったためしがない。筆者は、「饒舌無内容、失語症時代」と規定している。この状況を打開する為に何をすれば良いのだろうか。かっての活動家なら均しく憂いているであろう。  

 こういう問題意識は時空を飛ぶ。漸くかの時代の再検証の動きが始まっている。若松孝二監督が「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」を制作し各地で上映されている。藤山顕一郎監督が、今日時点に於ける新旧学生運動家の結節組織である「9条改憲阻止の会」の面々の闘いを「We命尽きるまで」に編集し、これが大阪市淀川区の第7芸術劇場で上映されている。筆者は、この動きを奨励したい。できることならこれを契機に、学生運動史上の名場面を採掘したシリーズものを望みたい。特に採り上げるシーンは、戦後直後の勃興期の学生運動、1951年の血のメーデー、その直後からの山岳武装闘争、1955年以来の砂川闘争、警職法闘争、勤評闘争、原水禁運動、60年安保闘争、1967年の激動の7ヶ月の諸闘争、全共闘運動、その頂点としての東大安田砦攻防戦、よど号赤軍派事件、70年安保闘争、連合赤軍派事件、アラブ赤軍派事件、中核派対革マル派、社青同解放派対革マル派の党派間武装闘争、川口君虐殺糾弾早大闘争、三里塚闘争等々と続くフィルムを見てみたい。

 筆者は永らく待望している。風邪を引いたときのカンフル剤、気が滅入った時の元気剤として重用したいと思っている。しかし、これをどう描くかが肝腎であろう。筆者は、無条件的讃美も批判も相応しくないと思っている。願うらくは、過去そういう運動があったと云う実存的史実の確認と、今日時点でこれをどう評するべきかで生産的な議論を呼ぶような構成にして貰いたい。何なら筆者を雇って貰いたい。  

 書籍では、この間それなりの回顧物が出版されてはいる。但し、今日時点に於いてはいずれも、それらの分析観点は既にステロタイプなものでしかない。失礼を顧みず云わせていただくなら、筆者の学生運動論が現われるまでの意義しか持ち合わせていないように思われる。筆者の学生運動論が公開されて以降は、これを塗り替えるものでなくては意義が減じよう。筆者には、そういう自負がある。これを契機に、関心者が共同テーブルに就くことを願う。互いに寿命の有る身だからわだかまり無くそうしたいと思う。  

 そういう折の2008年元旦、社会批評社の小西さんとネットメールで年賀挨拶を交わした。この時、「対話物語り学生運動史」の上宰を着想し、お盆の頃までに書き上げる旨表明した。小西さんは「期待する。でき上がったら原稿を送ってください」とエールしてくれた。さて、どう纏めるかということになった。筆者は既にネット上に「戦後学生運動考」をサイトアップしている。これを原資料として、要点整理のような形で纏めることもできる。これなら割合早くできる。しかし、既に書き上げているものを単にブック化するより、今までの書き付けを踏まえての新たな学生運動論を著してみたいと思った。そういう形でもう一汗掻きたいと思った。当初は盆の頃までにはできると思っていたが、大幅に遅れて今ようやくでき上がった。何せ難しいんだ実際にやるとなると。  

 筆者は、学生運動論になぜ拘るのか。それは、僅かな期間といえども青春時代に掛け値なしの感性で没頭した生命が宿され、今も息づいているからであると思う。あの時、マルクス主義的な観点を得た。これは貴重であった。他方逆に、そのステンドグラス的メガネを掛けたことにより却って曇った面、失った面もあるような気がしている。マルクス主義的観点を受容したことにより社会に妙な拘りを持ち、停滞的ながらも日本社会が伝統的に愛育してきている善良なしきたりに盲目となり、それがその後の筆者の人生を妙に屈折ないしは半身構えにさせたかも知れないと思っている。  

 その汚れを落としながら、必要なものは継承しつつ新たな観点を模索し続けているのが現在の筆者である。今もその途上にある。そういう風に形成されつつある筆者の思想観念、歴史観念を仮に「れんだいこ史観」と命名する。これによれば、既成の学生運動論もマルクス主義解説本も殆ど役に立たない。史実検証的なところは学ばせていただくことができるが、著者の評価的なくだりはバッサリ切り捨てるしかない。「れんだいこ史観」と市井の評者のそれはそれほど隔たっている。  

 そういう新たな視点に基づく学生運動論を提起したいと思う。その成果として、端的に現在の日本左派運動の余りにもな逼塞情況に打開の道筋を生み出したい。筆者が見立てるところ、日本左派運動はもつれにもつれた糸で身動きできなくされており、筆者以外には誰も解けない気がする。これが本書執筆の理由となっている。大言壮語かどうか、それは読んでみてからのお楽しみにして欲しい。  

 ところで、2009年の本書発刊現在、学生運動ないしは学生運動論という項目でネット検索してみても、できの良いのは筆者のそれが出て来るぐらいで、散発的なものはあるものの通史として読み取れるものはない。これは至って貧困な現象ではなかろうか。歴史を疎かにするのは滅びの道である。組織なり運動なり、これができているところは成長し逆は衰亡する。歴史が教える法理であろう。  

 そういう意味で、筆者は、あくまで試論としてのそれであるが本格的なものの市場提供を志した。結果的に新たな観点を随所に提示することになった。既にインターネット上にサイトアップしてきているのだが、大幅に書き換えた。これまでのところ反響が少ない。筆者の試論が論評に値しないのだろうか、「れんだいこ史観」に立ち向かってくる試論がない。それは許せるのだが、この間、筆者が既に理論的に総括済みしている諸問題に対して、左派圏内では相変わらずの千年一日的な政治的立場を保守し続けている。これが許せない。ここに生産性は微塵も見られない。こういう閉塞現象をこそ打破すべきが左派ではないのか。と云っても馬の面に念仏かも知れない。日本左派運動はそれほど病膏肓に陥っているのではなかろうか。  

 ならば、嫌味を言わせて貰おう。願うことは、左派圏諸君は、どうせその程度の知力、実践力しかないのなら、万ずに於いて小難しく語ってくれるな。これが云いたい。筆者はその仕掛けに随分悩まされてきた。今はっきり断言できることは、それは皆ペテンの小道具でしかないと云う思いである。小難しく語る者を警戒せよ、筆者のこたびの試論と対話せよ。これを、後に続く者への餞(はなむけ)の言葉としたい。 

 れんだいこの学生運動論は、去る日の1999.12.1日より2000.2.5日にわたっての「さざなみ通信」(http://www.geocities.jp/sazanami_tsushin/)での以下の投稿文より始まった。  
 「戦後学生運動1、60年安保闘争まで」  (marxismco/marxshuginogendaitekikadai1_4.htm)
 「戦後学生運動2、60年安保闘争以降」  (marxismco/marxshuginogendaitekikadai1_5.htm)
 「戦後学生運動3、余話」  (gakuseiundo/history/3_yowa.htm)  

 これは、「新日和見主義事件」解析の前提としての作業であった。その後、学生運動そのものを更に検証する為に「詳論戦後学生運動史論」を書き上げた。それが余りに長大資料的になり過ぎたので「概論戦後学生運動史論」を書き上げた。どちらも時系列的に検証している。これで良しとしたかったのだが満足できなかった。時期を相前後させてでもその時代の枢要な動きを纏め、当時の政治運動全体の流れと純粋学生運動の動きに分けてコメントする方法も有益ではないかと気づいた。この観点から三部作目として「物語り戦後学生運動論」を書き上げることにした。その際、事件性よりも思想性を重視して流れを掴むように心掛けた。こうして、筆者の戦後学生運動史論三部作が完了した。これにより左派運動の再生方途を処方箋したつもりである。後は、読者の反響を期待するばかりである。

 こたび書物として発刊する為「物語り戦後学生運動史」を更に練った。でき上がってみると、本書で簡略に理解し、「物語り戦後学生運動論」でもう少し詳しく確認し、次に「概論戦後学生運動史論」で肉付けし、更に「詳論戦後学生運動史論」へと読み進めばより博識になろう。

 【執筆観点】

 【「物語り戦後学生運動論」の執筆観点その1】  

 本書の執筆観点を明らかにしておく。筆者は、政治情況が革命を欲しているにも拘らず、日本左派運動史の負の遺産がのしかかり、何を信じてどう闘えば良いのか、確信と展望を失っていることが遠因で低迷していると考えている。その為にも、時代が、かって存在した学生運動の正確な理解を求めたがっているのではないかと窺う。本書は、これに応えるものである。

 しかし、これを「中立公正」に書き上げるとなると難しい。そこで、まずは真紅の熱血が確かに在って、理論はともかくも本能的に正しく実践したと評価できる運動の流れを中心に史実検証し、これを芯としてその他の潮流も確認してみようと思う。そういう意味での「中立公正」に書き上げるよう苦心した。 既成のものは随分あるが物足りない。日共系のものも新左翼系のものも、明らかに筆者と観点の違う記述が罷り通っており、この種のものをいくら学んでも為にならない。そのような観点からのものを更に追加しても、屋上屋を重ねることにしかならない。何事も見立てが難しい。その見立てを正しくして最低限伝えねばならない動きを記しながら、筆者自身が得心できるような新たな学生運動論を纏め、世に問いたいと思う。

 本書は、巻末に記した「インターネットサイト」、「参考文献」の各情報を咀嚼しながら纏めた。最終として、高沢、高木、蔵田共著の「新左翼二十年史」(新泉社、1981.8.16日初版)と対話した。第1次ブント運動史の正の部分を受け継ぐことから展望するのが良書となると信ずるからである。更に云えば、第1次ブント理論を極限化させ総破産した赤軍派の軌跡から何を学ぶべきか、と云う観点も保持したいと思っている。これはかなり難事ではあるが挑みたい。  

 なぜ適正な学生運動テキストが必要かと云うと、これがないと盲目運動に堕してしまうからである。日本左派運動の弊害ないしは幼稚性として、穏和系にせよ急進系にせよ、どういう訳か史実を刻まず、伝承しようとしない作風がある。僅かの史実も自派に都合の良いように書き換えして憚らない作風がある。史書の重要性を顧慮しないこういう運動が首尾よく進展しないのは自明であろう。

 ネット上で読めるものを出版本にする必要があるのかと問うこともできるが、私が読者なら、本書の値打ち次第であろう。良書に値するものなら書棚に置きたいと思う。手軽に持ち運びでき、自在に蛍光線引ける出版本を手にしたいと思う。そう考えて出版することにした。ネット本と出版本のこの関係のさせ方は、今後の出版本の在り方のモデルになるのではなかろうかと自負している。

 具体的に戦後学生運動論をどう書くか、ここで視点を明らかにしておきたい。一つは、当時の時点に立ち戻り、当時の感覚に立ち入り内在的に書くのも一法である。肯定的に継承する場合にはこの方法が良い。だが、これから追々記すように半ば肯定、半ば否定的に記す場合には、姿形が見えて来た今日の視点より過去を論評的に書く方が適切ではなかろうか。その後の学生運動の衰微を知る今となっては当時の正義を語るより、今日から見た当時の理論及び実践上の欠陥を指摘しつつその後の衰微の事由を検証して行く方が説得的ではなかろうか。 

 実は、ここに拘る事由がある。というのは、筆者自身も関わった世界であるから余りに否定的に書くのは辛いが、筆者は今、戦後学生運動のみならず近年から現代に至る左派運動総体がどうやらその正体が怪しいと気づいている。当然、全否定するようなものではない。肯定的に受け止めるべき流れと、それに纏いついた不正の流れの両面があり、その両面を考察せねばなるまい。こういう気づきを得ているので、当時の感覚に深のめりして書くより、肯定面のそれと否定面のそれを分離させつつ評論しようと思う。その方が却って適切なのではなかろうかと考えている。

 以上、思わせぶりに述べたが、正体をはっきりさせておく。戦後学生運動のみならず近年から現代に至る左派運動総体の正の面とは、国家権力の暴政に対する抗議及び抵抗と人民大衆の民生向上及び福利、国際平和協調、反戦へ向けての闘いにあった。これは今も正しいし、今後も目指すべきであろう。では、負の面とは何であろうか。これを明らかにするのに、筆者の苦節30有余年の内省格闘があった。見えて来たことは次のことである。戦後学生運動のみならず近年から現代に至る左派運動総体のうち、穏和主義者の場合は相当早くよりマルクス主義の革命性を骨抜きにしてきたという経緯が認められる。しかもかなり体制投降主義的に変節せしめている。この連中と論を交わすのは時間の無駄であるので無視を原則としたい。

 問題は急進主義者の方である。彼らは、マルクス主義を北斗七星の如く金科玉条としてきた。それにしてはマルクス主義を深めようとしてない気がするが、一応それは良しとしよう。問題は、連中が、マルクス主義の基盤の危うさを知らずに、これを鵜呑みにしてきた経緯である。なお且つマルクス主義にも認められる正の面と負の面の両面のうち負の面を拝戴してきたという経緯である。これは一種の捩れであるが、この捩れが当時も今も続いているように思われる。本書の意義は、このことを鋭く指摘し、マルクス主義者のマルクス主義研究をひとたび初手に戻し、マルクス主義の正の面と負の面を遠心分離させ、正の面の継承及び発展に立ち返らせたいということにある。大言壮語かもしれないがマジでかく述べたいと思う。

  【「物語り戦後学生運動論」の執筆観点その2】  

 では、マルクス主義の負の面とは何であろうか。当然、関心はそのように向かう。筆者はかく述べる。マルクスは、初期の「共産主義者の宣言」から晩年の不朽の名作「資本論」に至るまで一貫して、社会発展の歴史的発展必然行程として封建制から資本制への転換を認め、資本制の次に待ち受ける段階として社会主義、共産主義への歩みを展望させた。これにより、プロレタリアートに対し、資本制からの解放と救済を主眼とする歴史的使命と闘う武器としての理論を与えた。これが、マルクス主義の功績である。

 ところで、マルクスが、資本制下に苦吟するプロレタリアートに闘いの根拠と正義を与えたのは良いとして、人類社会の歴史的行程として封建制から資本制への転換をいとも容易く歴史的必然として容認したのはいかがなものであろうか。筆者は今、眉唾すべきではなかったかと考えている。ここには明らかに理論の飛躍と詐術が認められるように思うというのがれんだいこ史観である。本来の歴史的発達は、幾ら科学と産業が発達したとしても、その後の歴史に立ち現れたような資本制には必然的には移行し難いのではなかろうか。資本制に移行したのは、歴史的必然としてではなく明らかに人為的なものなのではなかろうか。その推進者及び推進主体無しには為し得なかったのではなかろうか。この推進者及び推進主体こそが資本制の産みの親であり、体制の黒幕なのではなかろうか。かく認識し直したい。

 当然次のようになる。それが人為的なものであるなら、我々が闘うべき対象は、徒な体制批判としての資本制ではなくむしろ資本制を生み出した黒幕に対してではなかったか。そして、資本制が具象化している個々の労働現場で、資本制に代わるあるべき在り方を廻る闘いが肝要だったのではなかろうか。この両面を政治運動化すべきなのではなかろうか。筆者は、そのように思い始めている。

 マルクスは、「資本論」及びその数々の前著で、この黒幕に対して意識的に言及を避けており、むしろその著作は却って煙幕的役割を果たしている気配がある。個々の労働現場でのあるべき在り方を廻る闘いを放棄させ、革命還元主義的な煽り方をしているようにも思える。それらはいずれも、黒幕にとっては痛くも痒くもないむしろ彼らにとっても有利な革命理論となっているように思われる。これが意図的故意か偶然かまでは判然としないが、マルクスと黒幕との通謀的証拠が遺されているからして没交渉であったとは云い難い。

 では、資本制の黒幕とは何及び誰であろうか。当然、関心はそのように向かう。筆者はかく述べる。マルクス時代も、我々の戦後学生運動時代にも定かには見えなかったが、今日段階ではっきりしているのは、近代から現代へ至る歴史に於いて真なる創造者は、近現代史上裏モンスター的に登場し世界を席捲支配している国際金融資本であり、これが資本制帝国主義の黒幕ではないのか。これについては、「提言2、ネオ・シオニズムに対するそもそもの無知から出藍せよ」で更に言及する。

  【「物語り戦後学生運動論」の執筆観点その3】

 戦後学生運動は、否日本及び世界のマルクス主義的左派運動が、このカラクリを見抜けぬまま、マルクス主義を金科玉条視し、憧憬し純朴に仕えてきた歴史があるのではなかろうか。左派の国際主義はその空疎性にも拘らず今なお左派精神を規制しているが、そろそろその不毛、恐さを顧みるべきではなかろうか。マルクス主義者の伝統的宿アは批判に長けるが、こうしたことを内省するのに弱い面があるように思われる。その精神は極めて安逸と罵られるべきではなかろうか。

 我々はこうして、史上の真の敵に向かわず、在地の国家権力打倒に勤しむことにより、むしろ真の敵に利用されてきたのではなかろうか。人民大衆が一定シンパシーするもそれ以上接近しなかったことの裏にはこういう事情が有るのではなかろうか。これを批判的に総括せずんば学生運動論を称賛的に書き上げても意味がない。 筆者はこのように認識しているので、戦後学生運動及び左派運動総体のこの盲目性を見ないままの運動史を単に字面で叙述することができない。このことを言い添えておきたかった。漸く結論になった。そういう訳で、以上の観点からの学生運動論を書き上げることにする。

 これが、筆者の学生運動論上宰事由である。長年腑に落ちなかったものが今次第に溶けつつある。これを如何に暴くか。ここに筆者の能力が掛かっている。願わくば、筆者共々多くの人士が叩き台にしてくれんことを。そして、得心いったなら、今からでも遅くない、日本左派運動の軌道をあるべき方向に据え直してくれんことを。

 本書は、このような観点から戦後左派運動、ここでは戦後学生運動を解析する。この観点からの叙述は本邦初であり、大方の者には奇異に受け止められるのも止むを得ない。しかし、この観点が打ち出された以上は検証されるべきであり、これを否定するに足る見解が出されない限りは学ばねばならないであろう。そうならずんば真の学問とはならないであろう。筆者の自負するところ、れんだいこ式学生運動論総括が登場したことにより、従前の研究本は「れんだいこ式観点」を持たない分それだけ意義と生彩を失うことは止むを得ない。こう俯瞰しながら以下、戦後学生運動史を検証する。

 【れんだいこの戦後学生運動区分論】  

 筆者は、戦後学生運動史を独特の手法で跡付けていくことにする。「独特の手法」とは、ヘーゲル論理学で学問的に科学された矛盾式弁証法にして、マルクスがそれを更に生き生きとさせ社会科学にまで高めた認識法のことを云う。筆者は、マルクス主義の真の功績は矛盾式弁証法を学問の世界に樹立したことにあると考えている。その認識法、分析法、総合法にあると考えている。残念ながらその後の学問は必ずしも、マルクス主義の水準を生かしていないように見受けられる。それは脳を鍛えないであろう。  

 筆者は、マルクス主義の矛盾式弁証法を継承しながら更にこれより出藍しようとしている。そういう意味で、矛盾式弁証法を筆者なりに改変している。マルクス自身の著作でさえ、進化された矛盾式弁証法から総洗いされねばならないと考えている。マルクス主義のそれは現状否定絶対主義へ傾斜し過ぎているように思われる。この点でのマルクス主義の矛盾式弁証法は、ヘーゲルのそれに及ばない。ヘーゲルの矛盾式弁証法には「現実的なものは合理的であり、合理的なものは全て現実的である」的弁えがあった。筆者は、ヘーゲル的洞察を炯眼とすべきであると考えている。

 即ち、現状とは、肯定的にも変革的にも同時的に理解できるような諸勢力拮抗の上に成り立つ均衡の姿であり、肯定的なものの内には改変不可能な摂理的な面が宿っているとみなしている。その摂理的な面を体制側が権力的に歪めて悪用し叉は抑圧している。この権力的肯定性の保守的なものが改変されるべきなのではなかろうか。いかもそれは目下は均衡的に存在しているが、この均衡をどう合理的に改変して行くべきが問われており、これに有能に処方して行くのが正当な手法ではないかと思っている。これを仮に「れんだいこ矛盾式弁証法」と命名する。  

 それによれば、事象は全て、即自的有から対自を経て向自的有に向けて定向的に発展する。ヘーゲルが苦心惨憺した「無から有への転換」は採らない。この理論は、西欧的ユダヤ−キリスト教神学の要請するものであり、我々は無視して良かろう。即自的有から向自的有への移行は、量から質への無限連鎖過程を辿る。矛盾のとある一点でそれまでの質から出藍(アウヘーベン、止揚、揚棄)し新質へ向う。自然科学の場合には自然変異により、社会科学の場合には革命によって。その新質段階で又新たな即自から向自への定向的階梯を上り始め転変を繰り返す。こうして事象は全て螺旋(らせん)的に発展する。

 但し、衰亡する場合も有る。この定向的発展階梯が合理的必然性を内包し得なくなった時に桎梏と成る。腐敗が始まり衰退過程に陥る。その際には、路線替えとしての革命が要求される。これに首尾よく成功すれば新たな発展段階に入る。失敗すれば停滞と腐敗の衰退過程に陥り続ける。万事がこのような条件の中で生成転化しており、その変化の中にあるとするのが本来の矛盾式弁証法であり、この内に貫通する合理的摂理的筋道が法則と云えるものであり、人類史も例外ではないとするのが革命的弁証法の極意ではなかろうか。 筆者は、ヘーゲル−マルクスが初期的に発見した矛盾式弁証法の学問的能力を継承し、戦後学生運動興亡史をこの観点から説いてみようと思う。どこまで為し得るかが難しいが、忽ちは試論として提供する。

 これに従い、筆者の学生運動論は、戦後学生運動を次のように質的識別する。但し、これを客観記述することはそもそも無理であろう。同じものでも見る角度、視点により風景が異なるのが当たり前であるからである。とはいえ主観は極力客観に近いのが望ましい。この客観に迫る努力をしようと思う。そういうことを踏まえ、客観風に語りながら主観に陥るよりも、主観風に語りながら客観に迫る方法として、敢えて筆者の主観によるコメントを重視し「対話物語り」とすることにした。  

 第1期は、戦後直後の1945.8.15日から1949年末までの期間とする。仮に「全学連結成とその発展」と命名する。以下同様に本質規定で命名することにする。この時期、待望の全学連が創出され、官大の東の東大−西の京大、私大の東の早大−西の同大が主導し、武井系が指導する。戦後ルネサンスの息吹が感じられる正成長の時期である。  

 第2期を1950年から1953年末までの期間とする。共産党中央の分裂により全学連も叉分裂する時代となる。これを2期に分け、その1を1950年とする。「50年分裂、国際派に従う全学連」と命名する。共産党が「50年分裂」し、全学連内は宮顕系国際派と徳球系所感派に分かれ反目する事態に陥る。所感派は徳球−伊藤律派、野坂派、志田派。国際派は宮顕派、志賀派、春日(庄)派、国際共産主義者団、神山派、中西派、福本派に分かれる。国際派が所感派の党中央に対抗する。これに応じて全学連内も色分けされる事態に陥った。全学連中央の武井派は宮顕派の指導に服した。

 その2を1951−1953年とする。「50年分裂期の二元運動」と命名する。この時期、所感派が武装闘争を打ち出す。全学連中央は反戦平和闘争に向かい呼応しなかった。これを批判する部分が全学連中央の奪還に向かい玉井系を創出し武装闘争に向かう。但し、武装闘争が破産するに及び瓦解を余儀なくされる。  

 第3期を1954年から1955年とする。「六全協の衝撃、全学連の崩壊」と命名する。1954年は武井派、玉井派双方の動きが音沙汰なく、共産党主導の学生運動がほぼ壊滅した時期となる。1955年、共産党の六全協が開催され、「50年分裂」事態が統一されたが、これにより党中央が徳球系から宮顕系へと転換した。この宮廷革命が是とされ今日まで至っている。全学連は新党中央として君臨し始めた宮顕系の統制下に置かれたが、有り得べからざる右派系運動に転換させられることになった。ここまではいずれも、共産党員が全学連を主導しているところに特徴が認められる。  

 第4期を1956年から1957年末までの期間とする。右傾化する日共運動に批判的な新たな左派運動が胎動する。これを2期に分け、その1を1956年とする。「反日共系全学連の誕生」と命名する。闘う全学連の再建期であり、この流れが後にブントを創出していくことになる。これを指導したのが不世出のコンビ「島−生田同盟」であり、日共化に叛旗を翻していくことになる。これより、共産党を日共と表記することにする。

 第4期その2を1957年とする。「革共同登場」と命名する。戦後左派運動に於いて最初に登場した「共産党に代わる前衛党」が革共同であった。革共同は、それまでの日共運動をスターリニズムとして批判し、返す刀でトロツキズムの称揚に向かった。但し、太田龍を代表とするトロツキズムの全面評価国際主義派と黒寛を代表とする相対評価自律主義派、これとも対立する関西派という三派対立が続いていくことになる。  

 第5期を1958年から1960年安保闘争までとする。全学連が日共支配のクビキから離れ、60年安保闘争を牽引する。これを3期に分け、その1を1958年とする。「ブント登場」と命名する。全学連急進主義派の一部は革共同に流れ、その他の多くはブントを自己形成していった。穏和系は日共との歴史的な?がりを重視し、引き続き党の旗の下に参集した。この流れが民青同となる。この時期の全学連は、日共内反党派のブント、日共内恭順派の民青同、革共同の三者鼎立となった。全学連運動は以降、ブントが崩壊するまでこの定式が確立することになる。

 その2を1959年とする。「新左翼系全学連の発展」と命名する。ブントと革共同の流れを新左翼、この時代のブントを後のブントと識別する為に第1次ブントと称することにする。第1次ブントは、六全協後の宮顕系党中央に反発し、且つ革共同にも向かわなかったいわば自律自存の急進主義派であり、この第1次ブントと革共同の反日共同盟が全学連の執行部をが掌握する。全学連運動は以降、反日共系が牛耳る定式が確立することになる。但し、60年安保闘争へ向かう過程でブントが純化を目指し激しい主導権争いを演じる。ブントは、これを勝利的に押し進めながら運動全体を牽引する。

 その3を1960年安保闘争までとする。「60年安保闘争、ブント系全学連の満展開」と命名する。安保闘争が昂揚し、岸政権打倒へと追い込む。この間、革共同は関西派(西派)と全国委派(黒寛派)に分裂し、全国委派が次第に勢力を増す。民青同派が全学連の統制に服さなくなる。  

 第6期を1960年の安保闘争直後から1964年までとする。全学連が分裂し、一挙に多様化し始める。これを4期に分け、その1を1960年後半とする。「安保闘争総括を廻るブントの大混乱」と命名する。この時期、第一次ブントが60年安保闘争の総括を廻って大混乱の末分裂する。この間、社会党系の社青同が誕生する。日共系民青同派は全自連を結成し、自前の全学連結成に向かい始める。

 (れんだいこのショートメッセージ)  

 ここで、60年安保闘争直後の学生運動史を概略する。これを「6期その1、ブントの大混乱」と命名する。安保闘争後、新たな動きが始まることになった。日共系民青同は逸早く体制を建て直すが、宮顕指導への反発から構造改革派が分離する。革共同全国委は押せ押せに入り、第1次ブントに対し理論闘争を仕掛け呑み込もうとする。60年安保闘争で岸政権を退陣に追い込んだ第1次ブントはその成果を確認できず、60年安保闘争の総括を廻り三分裂、四分裂する。あろうことか、「黒寛・大川スパイ事件」で知る人ぞ知る凶状持ちの黒寛の指導する革共同全国委に雪崩れこむという痴態を見せ分解する。革共同全国委bQの本多氏の革命的情熱に魅せられた面が強かったと云う事情があったようであるが、今から思うに痛恨の極みであった。島・氏のブント再建の動きが垣間見られるが、もはや如何ともし難かった。

 その2を1961年とする。「マル学同系全学連の確立と対抗的新潮流の発生」と命名する。 分裂したブントの多くが革共同全国委派に吸収される。これにより、第一次ブントを吸収した革共同全国委が全学連の執行部を掌握しマル学同全学連化する。日共系から構造改革派が造反する。ブント再建派の動きも強まり、年末、社青同と構造改革派とブント再建派が三派同盟を立ち上げる。

 その3を1962年から1963年とする。「全学連の三方向分裂固定化」と命名する。この時期、革共同全国委が革マル派(黒寛派)と中核派(本多派)に分裂し、全学連旗は革マル派に引き継がれる。  その4を1964年とする。「新三派同盟結成、民青系全学連の誕生」と命名する。三派同盟から構造改革派が抜け、代わりに中核派が入り込み、新三派同盟が形成される。日共派は、独自に民青同系全学連を立ち上げる。

  この時代の学生運動の枢要事を眺望しておく。1962年時点より全学連の再統一の道が閉ざされ、それぞれの党派が競合的に自力発展していくことになる。この期の特徴は、正統全学連執行部をマル学同が占め、民青同は別途に全自連→平民学連経由で全学連を再建させる。これに対して、反マル学同で一致した社学同再建派、社青同、構造改革派が三派連合しつつ全学連の統一を模索していくも、マル学同との間に折り合いがつかず逆に緊張が高まるばかりとなる。1963年、革共同全国委が中核派と革マル派に分裂する。中核派が構造改革派の代わりに第二次ブント創出派、社青同派との共同戦線に向かい、新三派連合を結成する。この間、民青同派が平民学連を経て自前の全学連を結成し、全学連は、革マル系、民青同系、新三派連合系の三つ巴で競合し始める。

 第7期を1965年から1967年までとする。多党分立化し始めた学生運動諸派がそれぞれに定向進化し始める。これを2期に分け、その1を1965年から1966年とする。「全学連の転回点到来」と命名する。1965年の動きとして、社青同から社青同解放派が造反する。べ平連が生まれ、反戦青年委員会が創出される。1966年の動きとして、早大闘争が始まり、東大でインターン制廃止闘争が始まる。「三里塚・芝山連合新東京国際空港反対同盟」が結成され、第二次ブントが再建される。これに合流しなかったМL派、その他諸党派が創出される。中国で文化大革命が始まり、革命の波が押し寄せ始める。明大、中大闘争が始まる。

 その2を1967年とする。「激動の7ヶ月」と命名する。三派系全学連委員長に中核派の秋山氏が就任し、以降更に激烈化していく。日中共産党の対立を象徴する「善隣学生会館事件」が発生している。新左翼系全学連が武装し始め、「激動の7ヶ月」と云われる三派全学連の市街戦が開始される。これらの動きに革マル派、民青同が屹立する。  

 第8期を1968年から1969年とする。全共闘運動が始まり、日本版紅衛兵として造反有裡運動に向かう。これを2期に分け、その1を1968年とする。「全共闘運動の盛り上がり」と命名する。全共闘運動が一世風靡し始め、ベトナム反戦闘争、東大闘争、日大闘争が激化する。三派から中核派が抜け出し中核派全学連が誕生する。三派の残存勢力が反帝全学連を創出する。年末、東大が開校以来初の入試中止を発表する。

 その2を1969年とする。「東大闘争クライマックス、全国全共闘結成」と命名する。東大闘争が盛り上がり安田講堂攻防戦へと至る。第二次ブント系の社学同派全学連が発足する。4.28闘争で中核派に破防法が適用される。「大学の運営に関する臨時措置法案」が施行され、この頃常態化していたキャンパスのバリケード封鎖が解除されていく。当然、これに抵抗する闘いが展開される。赤軍派が結成される。8派連合による全国全共闘が創出され、70年安保闘争を闘い抜く主体が確立する。この頃から革マル派の社青同解放派、中核派に対する公然ゲバルトが始まり、大きく全共闘運動を混乱させることになる。第二次ブントの内部抗争が起こり、第二次ブントと赤軍派のゲバルトが始まり、70年安保闘争を控えた盛り上がりの中で瓦解の危機をも迎える。  

 第9期を1970年代通期とする。層としての学生運動の最後の時期となる。これを3期に分け、その1を1970年とする。「70年安保闘争」と命名する。70年安保闘争はカンパニア闘争に終始し、佐藤政権に打撃さえ与えることができなかった。

 その2を1971年から75年までとする。「70年代前半期の諸闘争」と命名する。70年安保闘争を終え、代わりにやってきたのが内ゲバと党派間ゲバと連合赤軍派の同志テロであった。1972年、連合赤軍による あさま山荘事件が発生し、その後12名に及ぶ同志殺人が明らかとなり衝撃を与えた。同年、日共系民青同に新日和見主義事件と云われる粛清劇が起こり、川上氏らの主要幹部が処分された。1975年、中核派最高指導者・本多氏が革マル派にテロられ死亡している。

 その3を1976年から79年までとする。「70年代後半期の諸闘争」と命名する。中核派対革マル派、社青同解放派対革マル派の党派抗争は更に凄まじくなる。1977年、社青同解放派最高指導者・中原氏が革マル派にテロられ死亡している。革マル派は、甚大な被害を出しながらも敵対党派の最高指導者をそれぞれ葬ったことになる。  

 第10期を1980年代から現在までとする。学生運動としては見る影もなく凋落する。これを3期に分け、それぞれ「80年代の学生運動」、「90年代の学生運動」、「2000年代の学生運動」と命名する。  

 以上の区分が一般的に通用するのかどうかは分からない。が、筆者の分析によれば、かく区分した方が分かり易い。参考になればと思う。以下、この区分けに従い検証していくことにする。

 1章 1期 終戦直後−1949  全学連結成とその発展

 (ショートメッセージ)  

 以下、学生運動史の予備知識として知っておく必要がある局面、事件を採り上げ解析する。且つ紙数に限りがあるので、2009年時点で政治的意味を持つ事件を重点的に採り上げることにする。前半に「この時期の全体としての政治運動」、後半で「この時期の学生運動の動き」を記す。本稿は学生運動論であるので、前半の政治運動の項は必要最小限の記述にとどめた。その際、思案を要する内容の場合【】で、重要史実であるが単に確認すれば良いものは○で書き分けした。より詳しくは別稿の「概論」、更に詳しくは「詳論」、「戦後政治し」に記す。

 戦後学生運動1期を戦後直後から1949年までの歩みとする。これを「全学連結成とその発展概略」と命名する。学生運動が戦後革命の随伴運動として勃興し連動していく様を窺うことができよう。この時期は万事の「打ったて」になるので総合俯瞰式に詳論していかざるを得ない。
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 【この時期の全体としての政治運動】
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 【日本敗戦の歴史的意味考】

 1945(昭和20).8.15日、日本天皇制帝国主義はポツダム宣言を受け入れ無条件降伏した。日本の戦後史はこれより始まる。敗戦により日本はどのように変容させられたのか、日本国民はどのように適応して行ったのか、何が課題となりのど仏に詰まっているのか、どう切開すべきなのか、これらが問われている。こういう関心を持ちながら、以下検証して行くことにする。

 第二次世界大戦は連合国勝利、枢軸国敗北と云う形で終結した。この戦争は果たして如何なる戦争であったのか。表向きは、自由主義陣営対ファシズム陣営と云う形での世界戦争と喧伝された。マルクス主義的には新旧帝国主義間の市場争奪覇権戦争と規定されている。これについて筆者は思う。真相は、国際金融資本ネオシオニズム派と反ネオシオニズム派の二度にわたる世界大戦であったのではなかろうか。国際金融資本派がこれに勝利することにより、戦後はワンサイドゲーム化したことになる。この間新たにソ連邦を盟主とする社会主義圏が登場し、戦後はこの二大陣営が拮抗する冷戦構造となった。しかし、両者は根底的なところで国際金融資本派の双頭の鷲であった。これが冷戦構造の裏の仕掛けだと思われる。  

 しかし、日本左派運動はそのようには理解せず、「作られた抗争としての資本主義対社会主義」に幻惑させられ、資本主義体制打倒運動に挺身して行くことになる。あるいは社会主義の変質に抗して反スターリニズム運動を呼号して行くことになる。2009年現在で見えて来ることだけれども、近現代世界を牛耳る真の権力体である国際金融資本派との闘争に向かわないこれらの運動は一知半解運動だったのではなかろうか。ならば、改めるに如かずではなかろうか。  

 筆者は、レーニン式帝国主義論も胡散臭いと思っている。レーニンは、同書により資本主義の最高の発達段階としての帝国主義規定論を生み出し、近代に於ける西欧列強の帝国主義間抗争の実態検証と来るべき社会主義革命の必然性を説いた。が、そういう国ごとの分析にいかほどの意味があるのだろうか。むしろ、西欧列強の背後で蠢く近現代世界を牛耳る真の権力体である国際金融資本派の世界戦略こそ解明すべきだったのではなかろうか。この観点は、太田龍・氏が登場するまで、日本左派運動の見識にならず今日まで至っている。否、太田龍見解が市井提供されているにも拘らず牢としてレーニン主義的帝国主義論の枠内での見方が続いている。  

 もとへ。敗戦国日本は連合国軍支配下に置かれ、戦後日本の争奪戦が演ぜられた。日本取り込みは、それほど重要な世界史的関心であった。当初は米ソ両陣営による分割支配の動きもあったが、米軍の太平洋方面陸軍総司令官マッカーサーが連合国軍最高司令官となり、GHQ(連合国軍総司令部)を指揮したことからも明らかなように、日本占領は米国のイニシアチブ下で進行した。ソ連の日本列島分割支配論による巻き返しはならず、最終的に戦後日本は1951年のサンフランシスコ講和条約、同時に締結された日米安全保障条約で米国の単独支配下に置かれることになった。ソ連の対日支配政策は粗暴であり米国のそれは緻密であり、これが明暗を分けた。

 これについて筆者は思う。残念ながら、日本左派運動には、戦後日本をこのように客観化させて捉える視点はない。それはともかく今日判明するところ、戦後日本が米国統治下に取り込まれたことは、日本人民大衆的にはその方がまだしも良かった。粗暴なソ連統治下に置かれた場合には、プロレタリアート独裁の名の下にソルジェ二ツィンの暴露した如くな政治犯に対する情け容赦のない銃殺ないしは収容所送りが常態化していた危険性があったと考えられる。国有化理論で市場統制されることにより戦後日本の復興は大きく停滞させられた可能性がある。ひとまずはこう受け止めるべきだろう。

 ところで、GHQの初期対日政策は初期と後期で大きく変わる。日本が米国側に取り込まれるまでの初期政策は、戦前的天皇制絶対主義権力の徹底的解体に向かい、その為の諸政策例えば治安維持法撤廃、労働運動の容認、左派運動の合法化、財閥解体、農地解放等々を矢継ぎ早に打ち出し、その限りに於いて日本人民大衆的にはこれは僥倖であった。つまり、GHQの初期対日政策は概ね善政であったと云うことになる。

 但し、留意を要するのは、この間GHQの報道管制が敷かれており、近現代世界を支配する国際金融資本に不利益な思想ないしはイデオロギーが徹底壊滅されたことである。戦前の満鉄調査部の「ユダヤ問題時事報」、続く国際政経学会の月刊「ユダヤ研究」、不定期刊「国際秘密力の研究」等々による「シオン長老の議定書」派即ち「ネオ・シオニズムの国際秘密力に対する研究と警鐘運動」が存在さえしていなかったほどに痕跡さえ消された。これについて筆者は思う。これにより、戦前日本に獲得しつつあった国際情勢論が葬られた。残念ながら、日本左派運動にはこう捉える視点はない。筆者は、太田龍・氏の精力的な研究からこれを学んだことを感謝する。ここを踏まえないと世界史の動きが見えてこないであろう。

 【獄中政治犯の釈放による戦後共産党の再建】

 GHQの初期対日政策を日本左派運動史上の枢要事に限定して確認すると、共産主義者の利用と憲法改正が最も重要なものであったと思われる。まず、共産主義者の利用について確認しておく。敗戦より2ヵ月後の10.4日、GHQ指令「政治犯を10月10日までに釈放せよ」が発令され、戦前の治安維持法違反政治犯が釈放された。共産党員が殆どで天理教分派のほんみち派も居た。釈放された党員は直ちに共産党を再建した。これを主導的に指導したのが府中刑務所派の徳田球一(以下、「徳球」と略称する)、志賀らであり、これにより戦後共産党は徳球−志賀体制で始発することになる。

 後の絡みで言及しておけば、宮本顕治(以下、「宮顕」と略称する)の動きが既に怪しい。10.10日の一斉釈放より一日早い10.9日に釈放されている。宮顕は、戦前の「小畑中央委員査問致死事件」と云う刑事事件に絡んで併合犯であった為、政治犯のみを対象とするGHQ指令では釈放されぬところ、「生命危篤に基づく特例措置という超法規的措置」により違法出所している。この時なぜ宮顕が釈放されたのかの経緯そのものが依然として未解決問題となっている。宮顕は後に涙ぐましい努力で復権証明書を手に入れ、これにより解決済みと居直り続け墓場まで持って行ってしまった。日本左派運動は、未だ新旧左翼ともこれを訝らない。

 その宮顕が、戦後初の党大会となった12月の第4回党大会で、徳球−志賀体制に異議を申し立てしている。その理由は、概要「戦前共産党の旧中央委員で指導部を構成すべし。さすれば我こそが戦前最後の党中央委員であるからして、戦後の党の再建は宮顕・袴田の二人が中心になるべし」と云うものであった。しかし、戦後共産党再建に何ら貢献せず、「小畑中央委員査問致死事件」のイカガワシイ履歴を持つ宮顕の弁は相手にされず却下されている。

 これについて筆者は思う。ここで、これらのことに触れるのは、宮顕のイカガワシサと徳球派と宮顕派の対立が既にこの時から始まっていると云う「生涯の天敵関係」を踏まえたい為である。それと、宮顕が何故に執拗に日本左派運動の分裂を策動するのか、その裏使命を確認したい為である。通説本は、このことに触れていない。触れたとしても、「徳球最悪、宮顕まだしも論」的観点から言及するのが通例である。驚くことに、新左翼でさえこの見解に位置している。これでは戦後共産党運動史の真の座標軸が定まらず、抗争の真実が見えてこないであろう。

 ○徳球−志賀体制はその後、翌1946年に野坂が延安から鳴り物入りで帰国するに伴い、同2月の第5回党大会で徳球−野坂−志賀体制となり、1947.12月の第6回党大会で徳球−伊藤律−野坂−志賀体制へと変遷していくことになる。留意すべきは、志賀の相対的地位低下と伊藤律の登用である。志賀は次第に反徳球化して行き、宮顕と手を結ぶようになる。六全協後の宮顕独裁化過程で、これに反発し党を放逐されて始めて、こんなことなら徳球時代の方がまだましだったと恨み節をこぼすことになる。

 【「2.1ゼネスト」前夜の状況】

 この間の党中央は脱兎の如く戦後革命に向かう。今日的アリバイ闘争的左派運動の地平では考えられない、ズバリの政権取り運動に向かっている。当時、極東アジアでは、日本、朝鮮、支那がロシア革命に続くアジア革命の先鞭を争っていた。この時代の左派運動には、そういう熱気がある。これに対し、1947(昭和22).1.1日、吉田首相は、年頭の辞をNHKラジオで放送中、労働運動の指導者を「不逞の輩」と呼んで物議を醸した。これを、「不逞の輩放送」と云う。 「不逞発言」が燃え上がろうとしていた労働運動の火に油を注ぐことになったことは云うまでもない。

 1947.1月、党は、第2回全国協議会を開催し、徳球書記長が「ポツダム宣言の線に沿う民主人民政権樹立」を指針させ、次のように檄を飛ばしている。「ゼネストを敢行せんとする全官公労働大衆諸君の闘争こそは、恐るべき民族的危機をますます深めた吉田亡国内閣を倒し、民主人民政権を樹立する全人民闘争への口火である」。 この頃、労働運動部の長谷川浩は次のように演説している。「現在のスト運動を全人民層の闘争に拡大し、政権に対する闘争に高めねばならない。すわわち人民政権樹立のために議会外大衆と議会内闘争を結合し、倒閣運動から、さらに進んで、真の人民の代表を中央地方の議会に送り込む大衆的な選挙闘争へ発展せしめねばならぬ」。

 【社交ダンス論争】  

 「2.1ゼネスト」前夜、「社交ダンス問題」が論争になっている。たかがダンスという勿れ、興味深い内容なので言及しておく。徳球書記長は、「社交ダンス活用論」を次のように述べている。概要「あらゆる平和闘争手段を動員すること。特にこれまで弱体であった文化闘争を重視して、特に大衆活動に適する音楽と舞踊(社交ダンスを含む)を我が党の指導においてこれを奨励すること、これが重要である。文化活動とは何か? 文学、評論は現在の状態においては、これを見ても理解する能力を失っているほどに、日本では封建的な力によって、ものの表現力さえも失われておったのである。また、現在の紙のキキンのために、段々力が弱くなってきたのである。しかるに生理的自然の要求からの躍動が声になっては音楽になり、動作となっては舞踊.ダンスになる。これは大衆的な大きい躍動である。これが実際の生理的要求から音楽となるのである。(中略)既に敵はこれを運用して、現状では闘争を滅却せしめるために音楽を与え、舞踊を与えつつあるのである。これに対し、我が党内がこれを管理し、我が党の影響下にある大衆の管理によってこれを革命的な方向に運用しなければならないのである。文化的な闘争が階級闘争において大きな武器であることを我々は忘れてはならないと思う云々」。

 徳球の弁は、蔵原−宮顕の文化政策に対する批判的意義を持っていた。これに対し、宮顕は、アカハタに「文化運動の前進」論文を発表し、次のように反論している。概要「音楽やダンスなど大衆向けの文化活動は、卑俗趣味への無批判的な追随である。(中略)日本人民大衆の教養と文化向上に永久に限界をおくのは正しくない。映画.演劇.文学.スポーツ.ダンス.音楽のいずれにせよ、そのうちどれだけが『最も大衆的』と決め付けてしまうことも根拠がない。最も遅れた大衆の面白がることさえやっていれば、民主的文化の創造なんかは、やがて自然に解決できるものと考えることは、文化革命の重要な任務の一つを事実上捨てることになる。退廃的な既成のダンスをプロレタリア的なものにしなければならない」。

 これに対して、徳球は真っ赤になって宮顕見解に反論した。次のように述べたと伝えられている。「社交ダンスに階級性などない、プロレタリア的な社交ダンスがあるなら宮本自身が踊ってみせろ」。これについて筆者は思う。こういうところにも、徳球と宮顕の暗闘の火花が散っていた。社交ダンスを廻ってさえ徳球と宮顕の観点はこれほど食い違っている。一見、宮顕の「退廃的な既成のダンスをプロレタリア的なものにしなければならない」言辞の方が左派的に見える。凡庸な青年は、この手のロジックに騙される。しかし、「プロレタリア的な社交ダンスがあるなら宮本自身が踊ってみせろ」と迫る徳球の批判こそ瞠目すべきではなかろうか。

 徳球は、何でも階級的と冠詞すれば革命的であるかのように云い、後にそれが民主的と冠詞することになる宮顕詭弁のウソに立ち向かっている。実に徳球という人は本質を鋭く見抜き、ツボを得た批判をする。日本左派運動に立ち現れた開放型と統制型の姿勢のこの違い、戦後日共運動の指導者のこの鮮やかな対比。筆者は、日本左派運動は、こういうところを万事において切開していかなければならないと考えている。興味深いことは、新左翼理論がこの時の宮顕見解を踏襲している気配が窺えることである。ならば、「プロレタリア的な社交ダンス」を踊って見せねばなるまい。ここでは社交ダンスが問われているが、これに止まるものではない。文化運動論一切に関わるのは当然、組織論、運動論にも繋がる話だと思う故に採り上げた。

 【「2.1ゼネスト」の不発経緯】

 1946年末から1947年初頭にかけて、日本左派運動は総力を挙げて「2.1ゼネスト」に向かった。「2.1ゼネスト」は、それまでの「飯食わせ」的経済的条件闘争から民主人民政府の樹立という明らかに革命的政治闘争へと転化していた。GHQが猛烈に干渉を開始したが、共産党と労働組合のスクラムが崩れず、2.1日午前0時を期してのゼネストが必死の情勢となった。その前日の1.31日午後5時頃、共闘議長・伊井弥四郎はGHQに身柄を拘束され、マーカット経済科学局長他の最終的強制的説諭を受けた。伊井はゼネスト中止のラジオ放送を強制された。9時21分、伊井は、NHK放送を通じて概要「一歩退却、二歩前進。労働者、農民万歳、我々は団結せねばならない!」の言葉を残しながらゼネスト回避を指示した。

 伊井は、この後手錠をかけられ刑務所に入獄させられ、政令325号(占領目的阻害行為処罰令)違反により2年余の刑を受けている。徳球率いる共産党も捲土重来を期しGHQ権力の壁に屈した。これにより「2.1ゼネスト」は流産させられることとなった。しかしながら、「2.1ゼネスト」が、日本の戦後革命史上最も政権の至近距離に迫った事件として刻まれた史実は遺された以降、徳球党中央は、社共合同運動を通じて粘り強く左派政権創出に向かうことになる。これにつき、伊藤律派が精力的に活動する。党内の反党中央派が右から左からこれを誹謗すると云う党内状況となる。

 これについて筆者は思う。この時の2.1ゼネストの不発を徳球−伊藤律系党中央の平和革命理論と指導の在り方に非を認める批判見解が為されている。これに関連して党綱領の「GHQに対する解放軍規定」が槍玉に挙げられている。果たしてこれは正論だろうか。筆者は、為にする批判と受け止めている。「GHQの対日初期政策=解放軍規定」はさほど重要な間違いではないと思っている。GHQの対日政策の初期には許される規定であったが、その後の政策転換時にも同規定を維持したことが間違いであるとする見立てこそが必要ではないかと思っている。問題は、2.1ゼネストで政権を最も近く手繰り寄せた時の「革命に対する責任能力と革命青写真の無さ」こそ真因ではなかったか。今日、日共不破は「革命青写真不要論」を堂々と説いているが、反動的無茶苦茶理論と云うべきではなかろうか。これに相槌を打つ党員頭脳の貧困が問題ではなかろうか。新左翼各党派も然りで同じ病気に罹っているのではなかろうか。

 【戦後日本国憲法考】

 もう一つの流れとして戦後憲法の創出がある。この間、マッカーサー指令により帝国憲法に代わる新憲法制定が要請され、官民挙げて草案作りに向かった。但し、どれも大同小異で、戦前的天皇制の温存のうえに目先を民主主義化させていた類いの旧態然としたものでしかなかった。故に、GHQ内のニューディーラー派主導による憲法原案がひながたとして策定され、若干の変更を加えて採択されることになった。1946.11.3日公布、1947.5.3日、施行された。

 これについて筆者は思う。この戦後憲法をどう読み取るべきだろうか。日本左派運動は、大きく道を過ったのではなかろうか。筆者の見なすところ、戦後日本国憲法は、本国アメリカはもとより資本主義圏のどの憲法に比しても、ソ連邦の社会主義憲法よりもなお進んだ民主主義憲法としての諸規定を網羅している。更に、「非武装中立、国際平和共存協調」を規定した憲法9条及び前文に象徴される国際協調及び平和憲法ぶりが白眉となっている。更に、国債発行禁止の健全予算主義、地方分権制、最低限の市民的生活保障も採り入れている。戦後憲法が字文通りに履行されるならば、戦後日本は世にも稀な蓮華国家になっていたはずである。そういう出来映えの出色の憲法であった。

 これを素直に読み取れば、戦後憲法は、マルクス主義的には垂涎のプレ社会主義憲法と規定されるべきであった。こう位置づけることで、日本左派運動は本来これを護持受肉化せねばならないものであった。だがしかし、日本左派運動はこの時、教条ステロタイプ的な理論を振りかざしブルジョア憲法として規定し、急進派はダマサレルナ理論を振り翳して本質暴露論に興じた。穏健左翼は護憲運動に向かった点で新左翼よりはマシではあったが、反戦平和主義的且つ民主主義を護れ的な護憲運動でしかなかった。これにより、ブルジョア憲法と貶しながらその実憲法を護れと云うケッタイな二枚舌運動にのめり込んでいくことになった。しかしてそれは両者とも理論の貧困そのものを示してはいないだろうか。頭脳が半分だけ賢いとこういうことが起こるという見本であろう。

 その点、日本人民大衆は、歓呼の声で戦後憲法を歓迎した。戦後憲法の持つ本質的にプレ社会主義性を見抜いていたからであった。戦後憲法の受容の仕方一つ見ても、「賢き大衆、愚昧な左派運動」と云う戦後の型が見えて来るのが興味深い。

 【教育基本法考】

 憲法に続いて教育基本法.学校教育法が公布施行された。これにより、義務教育期間が「6.3式9年制」とされた。歴史科は社会科に吸収され、「くにのあゆみ」は消滅した。文部省が学習指導要領の試案を纏めた。教育基本法は、1890年制定の教育勅語に代わり、戦後憲法の精神に即した教育制度や施策の基本的在り方を示す教育界の憲法となった。

 教育基本法は、前文と11条項からなり、前文では「民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献する」との理念を掲げ、「個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成」と、「普遍的にしてしかも個性豊かな文化の創造をめざす」教育の徹底を明示している。教育の目的や方針、教育の機会均等、義務教育、男女共学、国公立学校における宗教的活動の禁止などを規定している。同条10条は「教育は不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるものである」とあり、第2項で、「教育行政は、この自覚の元に、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標」と記している。以上が教育基本法の功の面であるが、愛民族、愛国心的ナショナリズムや伝統の尊重が盛り込まれておらず、憲法同様GHQ主導で制定されたいきさつも含め、右派勢力から法改正すべきだとの意見が繰り返されることになった。

 これについて筆者は思う。憲法−教育基本法を貫く精神及び原理はルネサンス以降の西欧史の正統嫡出子的な面を貫通させている。確かに愛民族、愛国心的ナショナリズムや伝統継承につき触れられていない。本来これは接合し得るもので、そうであるところ意図的に遮断しているところに憲法−教育基本法の癖があると云えば云えるであろう。つまり、右派の指摘は尤もな面があるということになる。この負の面が戦後学生運動にも現われ、無国籍型のコスモポリタン的革命家を輩出させていったようにも思われるので付言しておく。

 思うに、「愛民族、愛国心的ナショナリズムや伝統の尊重」は、特段に憲法及び教育基本法に盛り込まずとも、自生的に生み出すべく運動展開すれば良いのではなかろうか。これらは本来、法的強制に拠るものではなく、自主的に自生させるものとする観点を創造すれば良いだけの話ではなかろうか。この点で、日本左派運動が、レーニン主義的な「愛国愛民族運動=排外主義」論で「愛民族、愛国心的ナショナリズムや伝統の尊重」を否定していったところに間違いがあるのではなかろうか。徒に混乱を招くだけのことでしかなかろうと思う。この手の左派が多過ぎて困る。

 それは単なる半身構えでしかないのではなかろうか。「愛民族、愛国心的ナショナリズムや伝統の尊重」をダンス論争と同じく左派的に取り込むのが必要なのであり、そういう運動が求められているのではなかろうか。機械的に反発して右翼の専売特許にさせるのは作られた構図でしかないのではなかろうか。更に云えば、これは、「日の丸国旗、君が代国歌問題」にも繋がる。「日の丸、君が代」を左派的に取り込む闘いを組織する必要があるのではなかろうか。入学式、卒業式には国旗掲揚、国歌斉唱が有ったとして、それほど目クジラするには及ばない。問題は、行事の至るところで「日の丸、君が代」を押し付け、排外主義的な愛国愛民族意識形成に利用しようとしているのをサセナイ闘いを組織する方がよほど大事ではなかろうか。筆者には、こちらの闘いを疎かにする方がよほど重罪に思える。

 【戦後日本プレ社会主義論考】

 こうした「上からの戦後革命」とこれに伴う社会情勢的変化の下で、官民上げての戦後復興が着々と進められて行った。この時、戦前の大東亜戦争過程で構築された護送船団方式の官僚権限集中制が大きく力を発揮した。これに戦後政治家の有能なる指導が加わることで戦後日本は世界史上奇跡の復興を遂げていく。戦前的統制秩序から解放された人民大衆の喜びに満ちた勤労も大きく貢献した。これを、「日本型社会主義」と云う者もある。

 これについて筆者はかく思う。「戦後日本=日本型社会主義」は案外、的を射ているのではなかろうか。今からでも遅くない、我々がなぜ護憲するのかにつき「プレ・ミ会主義論」で理論武装すべきではなかろうか。この理論を生まずして為す日本左派運動各派の護憲理論には理論サボタージュが認められるのではなかろうか。

 【GHQの対日政策の転換による日本の反共の砦化始まる】

 ところで、1948年頃より国際情勢の変化を受けて、GHQの対日政策は初期の概ね善政政策から後期の反共の砦政策へと転換する。ここを識別せねばならない。1948.11.12日、極東国際軍事裁判が結審しA級戦犯25名に判決が下され、12.23日、絞首刑組7名が東京・巣鴨拘置所で執行された。残りのA級戦犯容疑者は釈放され、岸信介、児玉誉士夫ら19名が巣鴨拘置所から出獄している。この過程で、正力松太郎、岸信介、児玉誉士夫は国際金融資本の秘密エージェント契約している形跡が有り、それぞれが戦後タカ派のドンとして政財官界に影響を与えていくことになる。

 日本左派運動は、「正力松太郎、岸信介、児玉誉士夫」即ち国際金融資本の秘密エージェントの動きに対して分析力を持たぬまま運動展開していくことになる。それは児戯的でさえある。その癖、彼らが教本とするマルクス主義理論をますます難解にして行き、労働者大衆の読み物と掛け離れ手が届かないものに仕上げていくことになる。そういう「粉飾知」者を崇め奉り始める。どちらも似合いであろうが、これを訝るべきではなかろうか。

 【徳球の9月革命呼号】

 1949年、紆余曲折を辿りながら戦後革命の総決算を迎える時期に至った。1.23日、第24回衆議院選挙が行われ、吉田民主自由党が264(←解散時152)で大幅躍進、単独過半数を獲得した。戦後の保守政権の基盤が確立し始めたことが分かろう。他方、民主党69(←90)、社会党48(←111)、国協党14(←29)、労働者農民党7(←12)が凋落した。共産党が35(←4)と躍進した。マッカーサー元帥は、選挙の結果に対して次のように満足の意を表している。  「今回の選挙は、アジアの歴史上の一危機において、日本国民は政治の保守的な考え方に対し、明確なしかも決定的な委任を与えた」。

 共産党は、そのようには受け止めなかった。「35議席、得票数約300万票、得票率9.8%(←3.7%)」の成果を得て、人民政権近しの見通しを生み、1.25日、次のような声明を発表している。「人民の戦線が革命的に統一されるなら、民自党のごときは、国会に多数を占めるとはいえ、結局、革命の波にゆられてたちまち沈む泥舟にすぎないであろう」。こうして「2.1ゼネスト」以来の革命的機運が醸成された。

 2月、第14回拡大中央委員会で、伊藤律は、「社共合同闘争と党のボリシェヴィキ化に関する報告」を行い、社共合同運動の成果を報告した。「民族資本家までも含めての党の拡大強化方針」を決定し、次のように指針させている。概要「広範な大衆の中に、なお根強く残っている社会民主主義者の影響を大きく克服して100万のボルシェヴィキ党を拵えていく一大攻勢が社共合同闘争であり、合同闘争は権力闘争であり、地域闘争の発展に他ならない」。この時徳球は、一般報告の中で次のように述べている。  「反動中の反動、民自党が過半数を占めたことは、決して我々が勝利に酔っ払っておるときではなく、更に緊張し、一層の奮闘をしなければ為らないときであることを教えている」。  

 6月、第15回拡大中央委員会が開催され、徳球書記長は「9月革命」を呼号し意思統一を図った。「9月までに吉田内閣を打倒する」と強調し、次のように述べている。概要「大衆の革命化に対する立ち遅れを急速にとりかえし、結論として吉田内閣打倒はま近いが、その後にできる民主勢力の連立政権に対しては、我が党も参加できるし、また参加せねばならない。階級的決戦が近づきつつあり、労働者の闘争は革命を目指す政治性をあらわにしてきた。人民の要求は身の回りの日常闘争から、非常な速度をもって吉田内閣の打倒、民主人民政権の樹立に発展しつつある。民主自由党を9月までに倒さねばならぬという我々の主張は、かかる条件にもとづいている」。

 党内に「9月には人民政権が成立するのだ」という合意が普及し、新聞各紙も「9月革命説」として喧伝された。6.27日、この時期に符節を合わせるかのようにソ連シベリアからの引揚げが再開され、共産主義教育を受けた兵士が帰還し集団入党式を行っている。しかし、シベリア兵の引き揚げは目論み通りにはならなかった。次第に強制労働の実態を知らすことになり、引揚者の集団入党にも関わらず却って共産党の人気を悪くした。国会で引き揚げ問題が議題に上り、「コラッ共産党、シベリアの捕虜をどうしてくれる」と野次られることになった。

 9月革命を迎え撃つGHQ−吉田政権は団体等規制令の公布で公務員の労働争議規制等を強め反動攻勢を本格化させた。こうした時期、7.6日の下山事件、7.15日の三鷹事件、8.17日の松川事件と云う国鉄関係の相次ぐ謀略事件が発生する。その慌しさの中で戦後革命の最後の綱引きが演ぜられた。他方、 10.1日、毛沢東を主席とする中華人民共和国が成立した。毛沢東が天安門上で世界に向けて新生中国の建国を宣言した。支那はこうして百余年にわたる帝国主義の侵略と支配を脱して社会主義中国の道に踏み出すことになった。中国建国は、国際共産主義に与える影響大なるものがあり、日本共産党を奮い立たせた。10.7日、ドイツ民主共和国(東ドイツ)が成立。いわゆるソ連邦を中心とする東風が吹いた。

 【戦後革命流産】

 この頃既にアメリカは資本主義陣営の盟主として、共産主義封じ込め政策を強硬に展開し始めていた。この戦略から日本をアジアの反共の防波堤と位置づけ取り込みを図った。これに対し、そうはさせじとして「日・ソ・中共産党連携での革命工作」が始まり、12.16日付で「革命闘争指令1号」が発令されたが不発に終わる。これらの諸要因により日本の戦後革命が最終的に流産した。
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  【この時期の学生運動の動き】
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 【戦後ルネサンスの息吹】

 こうした構図下で、共産党の指導下で戦後学生運動が再建され、以降向自的発展を遂げる。1945−46年は戦後学生運動の端緒期であり、戦後民主主義時代のスタートに立って薫風香る自治会活動を基盤として運動展開されていった。戦後の学制は、格別「大学の自治」を尊重した。戦前の軍部の介入に対する苦い経験を反省して獲得したとも云えようが、特別闘い取ったと云う訳ではないので、初期GHQの対日政策の一環としてもたらされた措置であったと見なすべきだろう。

 戦後の学制は、学生に対して、当時の米国教育学の権威であるジョン・デューイ(John Dewey)的理念ないしは建国理念に基くと思われる「学生に対する民主的且つ社会性の育成」、「学生生活の向上や課外活動の充実をはかる」という大学教育の一環として学生自治会を用意していた。この時点でのアメリカは、相対的ではあるが今日の時点から思えばよほど民主主義的且つ健全で、いわゆるアメリカン民主主義が罷り通るに値するものを保持していた。そのアメリカはその後ネオ・シオニズムに深く汚染される度合いに応じて病んで行き、2009年現在今日あるが如くある。但し、第二次世界大戦直後のこの時代に於いてはまだしも「民主主義の盟主」的度量があった。こう考える必要があるように思われる。

 そのはるけき良き時代のルネサンス気風を継承したアメリカン民主主義の理念が戦後日本に移植され、戦後憲法に結実したと思えばよい。こうして各大学とも、学校側が各種の便宜を与えて、学生全員を自治会に加入させ、自治会費を徴収し、その運営につき学生に自主的運営に任すこととなった。しかしそれはつまり、学生全員加入制による前納徴収会費が自治会執行部に任されることになったことを意味する。これはこういって良ければ一種の利権であり、この後今日まで各党派が血眼になって各大学の自治会執行部を押さえるのかを廻って対立していくことと関連することになる。

 戦後当初の学生運動は、この新憲法秩序の下で、「戦後民主主義の称揚と既得権化」を目指して学園内外の民主主義的諸改革と学生の基本的権利をめぐっての諸要求運動を担っていくことになった。歌声、フォークダンス、スポーツ、レクリェーションなど学生生活エンジョイ的な趣味的活動から、生活と権利の要求や学習活動、平和と民主主義に関する政治的活動まで取り込んだ幅広い活動が生まれた。しかし、こうした運動は後に「ポツダム自治会運動」として揶揄されていくことになる。

 これについて筆者は思う。政治的意識の培養が一朝一夕には為されずステップ・バイ・ステップで高められていくことを思えば、こうした運動自体は否定されるべきことではなく、契機づくりとしては必要必然なプロセスではないかと思われるがいかがなものであろうか。急進派には物足りなくても片目をつぶれが良いのではなかろうか。問題は、傲慢不遜に否定するものではなく、そこから弁証法的に出藍していくのが望まれているのであり、「戦後民主主義の称揚と既得権化運動」はその際の培養土のようなものとして重視されるべきではなかろうか。史実はそう向かわず、急進派は次第に「戦後民主主義の称揚と既得権化運動に対する否定的革命主義運動」に向かって行くことになる。しかしそれは培養土を否定する分それだけ先細りの急進主義運動に陥る危険性がある。こういう観点はいかがだろうか。

 【戦後直後の学生運動】

 戦後直後の学生運動の功績として、学生課や寮の舎監制が廃止され、大学新聞の発行、生活協同組合、セツルメント、文化サークル活動などが再建されていったことが認められる。この気運が、1・戦犯教授、学長の追放、2・戦時化諸組織の解体、3・民主的自治組織の建設、4・進歩的教授の復帰、5・学生協同組合、文化団体、研究会、政治組織の結成等々に向かっていくことになった。いわば、学生の生活権訴求、これに関わる範囲での政治活動と云う即自的段階の学生運動であった。

 その内面的心情には、「戦前の悲劇を二度と繰り返させまい」とする決意もあったように思われる。敗戦と同時に戦場に職場に学徒動員されていた学生がキャンパスに戻ってきたが、「私達は生き残った。あの激しい戦争の中をとにかく生き残った。私達はこの『生き残った』という真の意味を決して忘れてはならない」という思いが、軍国主義的残滓の一掃を経て次第に日本革命を夢見る活動家へと転身させて行くことになる。労働運動も政治活動もその自由が保証された時代的風潮の中で、戦前の治安維持法体制下で抑圧されていたマルクス.レーニン主義の研究が風靡していくことになった。それに伴い、共産党に入党する学生党員が増えていった。関東では官立の東大、私立の早大、関西では官立の京大、私立の同大の四校が戦後学生運動の機関車となり、全国に連絡網を広げていった。

 【東大新人会運動】  

 1947.9月、東大で、戦前の新人会の「再建」活動が始められた。これを推進したのが通称ナベツネ(後の読売新聞社長・渡辺恒雄)派であった。ナベツネらの動きは、労働戦線での右派的新潮流、後の社会党系総評につながる民主化同盟の動きと連動していた。青年共産同盟(現在の民主青年同盟の前身)の強化を呼びかける党中央の方針に反対し穏和系運動の創出を図った。ナベツネは、その活動資金5千円を戦前の転向組にして戦後は反党活動を職業にしていたことで有名な三田村四郎から受け取っていた。 ナベツネらの活動は、当時各分野で巻き起こりつつあった「モダニズム」と関連していた。「モダニズム」は文学の領域で狼煙が上げられ、哲学の分野に飛び火し、論壇を席捲していった。この当時の経済理論における大塚史学、文学理論での近代主義、哲学戦線での主体性論などがこれに当たる。「マルクス主義の硬直的理解からの解放」と位置づけられる。  

 党中央は、「モダニズム」理論の中身の精査に向かう能力を持たず、その社民化的政治性を問題にし排斥していった。12.7日、党中央は、「主体性論」をマルクス.レーニン主義に反する小ブル思想であるとして批判を強めた。東大学生細胞に影響力を見せていたことから、これを解散処分に附し、12.16日、党中央系共産党東京地方委員会は、「東大細胞の解散、全員の再登録を決定」し、東大細胞に通告した。これにより、新人会活動は掣肘された。  

 1948.1.30日、細胞総会が開かれた。2.7日付けアカハタ報道の「日本共産党決定・報告集」によると、細胞総会には約80名が出席して、会の今後の方針を協議した。席・縺Aナベツネらの行為が「重大な規律違反であるということはほとんど満場一致で認められた」ものの、除名処分に関しては「賛成27、反対26、棄権3」であった。今日的に見て「主体性論争」はマルクス主義理論の見直しの契機(「反省の矢」)として重要な意義を持っていたと思われるが、そもそもの狙いが反共運動的臭いを持っていた故に封殺された。それはともかく、ナベツネの履歴に於ける「元共産党理論家」とはこの程度のものであることが確認されねばならない。

 【全学連結成】  

 1948.9.18日、念願の全学連が結成された。東大を頂点とする国立大学系の学生運動と早稲田大学を中心とする私学系が合体し、各大学の自治会を基盤にこれを連合させて形成されたところに特徴が認められる。全学連は、自治会数268校、員数22万人を傘下とした。事務局本部は東大に置かれ、初代委員長・武井昭夫(東京大学)、副委員長・高橋佐介(早稲田大学)、書記長・高橋英典(東京大学)、中執に安東仁兵衛、力石定、沖浦和光らが選出された。全学連は、これより以降50年あたりまで武井委員長の指導の下で一致団結して各種闘争に取り組んでいくことになった。  

 これについて筆者は思う。奇妙なことに、この時の指導者がなべてその後党の出世階段を昇ることがなかった。この時点ではポジションさえ定かでない上田・不破兄弟が登用されていくことになる。こういう人事を意図的にやったのが宮顕であるが、この変調さを指摘する者も少ない。  

 この期以降、学生運動が次第にマルクス主義化し、究極の「社会の根源に対する闘い」へと運動を向自化させていくことになった。 この間全学連は、何回かの全国的闘争を経て全国主要大学の隅々まで組織化していくことに成功し、この経過で東の東大、早大、西の京大、同志社、立命らを拠点とする学生党員グループがその指導権を確立していった。全学連はその後、次第に青年運動特有の急進化運動を押し進めることになった。しかし、急進化すればするほど、曲がりなりにも真紅の革命派であった徳球党中央への反発と批判を高めていくことになった。

 【共産党の指導】

 この時期の学生運動指導部は自然と共産党党員活動家が担っていくことになったことが顧みられる必要がある。この当時の日本共産党(以下、暫くの間単に「党」と記す。宮顕系共産党化した時点より「日共」と記すことにする)が、他のどの政党にも増して青年運動の重要性を認識していたということでもあろう。受け止める側の方も、党をいくつかの政治諸党派の最左翼という位置にとどまらず、戦前来の不屈の抵抗運動を繰り広げた実績を崇敬し、最も信が置け頼り甲斐の有る「革命の唯一の前衛」という象徴的権威で認めていたということでもあった。

 ちなみに、ここで触れておくと、共産党の青年運動の指導にも指導者の質によって大いなる違いがある。レーニンは、青年を「未来の主人公」と位置づけ、「青年は完全な自立なしには、すぐれた社会主義者となること・焉A社会主義を前進させる準備をすることもできないであろう」とする観点から、青年運動の自由、自主、自発性を重んじ、トレーニング的な意義をも持たせた創意工夫性のある実践活動を奨励していた如くである。レーニンは、「青年インターナショナルについての覚書」の中で次のように述べている。「青年は何か新しいものだから『先輩とは違った道を通り、違った形で、違った条件のもとで』社会主義に近づくということを忘れてはならない」。ところが、その後を受け継いだスターリンとなるとガラリと変わる。スターリンは青年運動に指針を与えたが、レーニンのそれとは違って「何よりも党の要請、党の必要に向けて、如何に青年を動員するか」を重視することとなった。青年運動の自発性、自主性、創意工夫性の部分がスッポリと抜け落ちてしまったことになる。今日ではロシア10月革命の実態も判明しており、ソ連邦の解体を目にしており、ロシア10月革命の意義が色褪せてしまっている。が、この当時に於いてはレーニン、スターリンは社会主義革命の偉大な指導者として聖像視されていた。その両者に於いても、指導方法がかくも異なっていたということを知らねばならない。  

 これについて筆者は思う。今日では、そのレーニン的指導の胡散臭さも暴露されつつある。これについては、宮地健一氏が「共産党問題、社会主義問題を考える」の「20世紀社会主義を問う」で一連の検証をしている。そればかりかロシア10月革命の偉業が、ロスチャイルド派国際金融資本帝国主義の支援によるロマノフ王朝解体事業の一環でしかなかったという実態が明らかにされつつあり、ロシア10月革命を手放しで礼賛し学ぶ時代は終わったということになる。  付言しておけば、そういう目線で見れば、マルクス主義そのもののネオ・シオニズムとの通底、両者の相似と差異についても再検証せねばならないことになる。但し、この当時に於いてはそういう裏舞台が見えておらず、純粋無垢にマルクス主義とロシア10月革命史が崇敬されていたという事情がある。この息吹を踏まえなければ、この時代の青年学生運動の熱情が捉えられない。

 問題は、日本左派運動が継承したのはレーニズムよりもなお統制的なスターリニズムの方であると云うことである。トロツキズムは視野にさえ入らなかった。日本左派運動は、レーニズムとスターリニズムの識別さえできぬままスターリニズムを継承し、これを定式化させ、伝統とさせていくことになった。それを社会主義的正義と勘違いしたまま受け入れて行くことになった。その結果、「似ても似つかぬ左派運動」に辿り着くと云う負の影響を及ぼしていくことになったことにある。この汚染が今も続いていると心得るべきであろう。筆者が断ずるところ、1955年の六全協で宮顕の党中央再登壇を許して以来の日共は「似ても似つかぬ左派運動」を共産党という党名で押し付けて行くようになった。以来、日共のトンデモ指導が常態化しており、ケッタイナ指針であるにも拘らず日共の権威を信奉する者が詮議のないままにこれを受け入れ、これにより通用せしめられており、本来の共産党的指針は面影しか認められない。萌芽的ではあるが本来左派的なものが難癖を付けられ誹謗されている。そういう倒錯が常態化している。この状況を痛苦に受け止めない限り日本左派運動の再生はなかろう。

 2章 2期その1 1950  共産党の50年分裂

 (れんだいこのショートメッセージ)

 戦後学生運動2期その1を1950の歩みとする。これを仮に「戦後学生運動2期、50年分裂期の学生運動」と命名する。
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  【この時期の全体としての政治運動】
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 【「スターリン論評」の激震】

 1950(昭和25).1.6日、ブカレスト発UP電が、コミンフォルム(欧州共産党労働者党情報局)機関誌「恒久平和と民主主義のために、1950.第1号」の発表した「日本の情勢について」というオブザーバー署名の論評を伝えた。論評は、日本の戦後革命流産を認め、徳球系党中央が採用していた野坂式平和革命路線を鋭く批判していた。しかし、その発表のされ方そのものが異常であった。公党間の友誼的原則に則った勧告ではなく、いきなり外電と云う形で知らされた。寝耳に水の党中央は当初「党かく乱のデマ論評」視したほどであった。追って「スターリン論評」であることが判明した。

 これについて筆者は思う。こうした外電形式は、国際的陰謀が働いている場合の常套手段であり、その政治的狙いを勘ぐるべきであろう。してみれば、これに踊る者を臭いと思うべきであろう。ちなみにロッキード事件勃発もこの例である。  

 この論評が党内に大激震を走らせることになった。党内は大混乱し、野坂を抱え込む形での延命を図る徳球−伊藤律系党中央を支持する所感派と、「スターリン論評」の諫言に従うべしとして反党中央を旗幟鮮明にした国際派に分裂する。これを「50年分裂」と云う。

  1.11日、政治局会議が開かれたが、「スターリン論評」の受け入れを廻って会議が大混乱した。この時の模様は次のようであったと伝えられている。徳球書記長は、真っ赤になってテーブルを叩きながら次のように述べている。 概要「我々は、これまで直接、国際的な指導を受けたことはない。自主独立の立場でやってきた。日本としては、日本の事情がある。今のコミンフォルムは、ユーゴ非難しかやっておらん。そんなものの云うことを、まともに聞けるか!。我々は赤旗に、コミンフォルム論文の攻撃を掲載し、堂々と渡り合うべきだ」。

 徳球のこの発言こそ日本左派運動の自主独立気概の嚆矢と云えよう。これに対し、志賀.宮顕の二人が無条件受け入れを主張した。宮顕は次のように批判している。概要「ソ同盟は我々の最良の教師であり、我々は教えを受けなくてはならぬ。ソ同盟は頭脳であり司令塔である。共産党は、国際的な組織であることに値打ちがある。コミンフォルムの批判を友党の批判として無条件に容認すべきだ」。

 これについて筆者は思う。宮顕はこの時、ソ同盟を無条件の司令塔とする立場から自・蜩ニ立を志向する党中央を批判していたことになる。補足しておけば、その後宮顕はソ共、中共との対立を契機に自主独立路線を言い始めるが、この時の宮顕は真反対の立場に位置していた。そういう意味で、宮顕の自主独立路線は自己批判抜きにできるものではなかった。これを、いとも容易くぬけぬけと転じているところにらしさが窺えよう。

  1.18−20日、党中央は第18回拡大中央委員会を開催し、総勢約200名による「スターリン論評」の処理を集団討議に付した。いかに党中央が重視した会議であったか、同時に、徳球の公明正大な党運営の仕方が分かる。会議は激しく紛糾し、延々5時間余の激論が続いた。所感を支持したのは党中央主流派で、非主流派7名(志賀、宮顕、神山、袴田、春日(庄)、蔵原、亀山)が非とした。この連中を国際派と云う。国際派の底流には徳球派の官僚主義に対する反発、最も若い伊藤律登用への批判が渦巻いていた。結局、人民日報社説の友誼的勧告「日本人民解放の道」が決め手となって、「論評」の積極的意義を認める全面承服決議「コミンフォルム機関誌の論評に関する決議」が満場一致で採択された。

 これについて筆者はかく思う。第18回拡大中央委員会の史的意義は、議論内容もさることながら議論内容の歴史的開示にこそ認められるべきではなかろうか。今、筆者がかく明るみにできるのも、この時の会議の模様が公開されているお陰である。徳球時代の党中央の議論内容はかなり公開されているのに比して、宮顕時代になると全くと云って良いほど伝わらない。少なくとも議事録は作成されていると思われるが案外それも怪しい。つまり、全く秘密のヴェールに包まれている。こういう体質こそ非民主的運営と云うのではなかろうか。

 ○1.26日、徳球系党中央は、統制委員会議長兼政治局員・宮顕を九州地方党組織の福岡に左遷した。党中央批判者グループの頭目であり陰謀の巣であることに対する措置であった。且つ党中央は宮顕の関与しない別の党機関を九州につくった。つまり、地方党機関としての九州には宮顕の関与する正式な党機関外に徳球派ルートがつくられたということになる。これは機関運営上問題となるが、徳球が宮顕のスパイ性を疑っており、時局柄止むを得・ク取った変則であった。
 【徳球が「50年テーゼ草案」提起】

 徳球は、党内の混乱と党非合法化の危険をはらむ緊迫した情勢の中、「当面する革命における日本共産党の基本的任務について」を党内に配布した。これが「戦略戦術に関するテーゼ」(50年テーゼ草案又は徳球草案)と称される重要文書となる。この草案は書記長名の論文という形式をとっており、徳球執行部の渾身の力を込めた闘争戦略見直し提案であり、党内問題の様々な分野に言及した長文であった。徳球は、これを基礎に全的討議を呼びかけた。これが踏み絵として党内に配布された。徳球は、綱領草案を提出するに当たり、次のように確約していた。概要「この秋に党大会を開く予定であり、これは秋の大会に提出する草案の、そのまた草案であり、この草案の根本問題に対する中央委員の反対意見がある場合は、どんな少数の反対であっても、これを公表する。各党機関並びに、各党員の意見も、重要と認められる場合は、アカハタ、前衛その他の方法で発表する」。  

 これについて筆者は思う。草案を全党討論に付すという措置は、これまでにない事例となった。その背景にどのような事情があったにせよ、このこと自体は党内民主主義の大革新であり前進であった。戦前では、綱領的なテーゼは全てコミンテルン執行委員会において作成されており、戦後になって初めて第5回大会宣言と6回大会提出の綱領草案が党自身の力で打ち出されていた。これらはまだ正式綱領となっていなかった。この意味から、今度のテーゼ草案は、党創立以来初めて党自らの手で作り出し、これをもとに決定的な綱領を打ちだそうとした点、その為に中央での反対意見の提出から全党の自由な討議を許そうとした点でまさに画期的であった。宮顕時代になって、徳球家父長制批判がかまびすしくなり、徳球の民主的開放的公正明朗な党運営の実際が隠匿されてしまっている。我々は、この史実を正しく学べねばならないのではなかろうか。

 【第19回中央委員会総会で、党内が「50年分裂」】

 4.28−30日、第19回中央委員会総会がひらかれた。この総会の眼目は、党の分裂の危機にどう対処すべきかにあった。反対派は、徳球草案が先の第6回党大会で決定された綱領起草委員会を経由しないで提出された書記長私案であるとして、内容以前の形式においてこれを攻撃した。これについて筆者は思う。徳球草案はなるほど党及び中央委員会の民主的集団的運営の原則に照らして変則であったが、それほどまでに対立が激化していた事情に鑑み内容如何が問われるべきではなかろうか。これを形式で責めるのは宮顕的狡知であろう。

 総会は、「全政治局員をはじめ全党員が一致団結して戦い、分派主義者、党かく乱者に対する闘争によって、党の戦列をかためる」ことを強調した決議を満場一致で採択した。テーゼ草案の方は審議未了として、秋に予定されている党大会まで一般討論の討議に付すことに決められた。以後徳球派は反対派を強行処分する傾向を強めていくこととなった。志賀.宮顕、神山、蔵原、亀山幸三、袴田、春日庄次郎、遠坂良一等はテーゼ反対を表明して排除された。こうして中央委員会は事実上分裂した。これを「50年分裂」と云う。 「50年分裂」により、党内には次の派閥が形成されることになった。1・党中央所感派(徳球派、伊藤律派、志田派、野坂派)、2・国際派志賀G(志賀派、野田派)、国際派宮顕G(宮顕派、春日(庄)派)、中西功派、神山茂夫派、福本和夫らの統一協議会G。

 【共産党が再度非合法化され、徳球党中央派が地下に潜る】

 6.6日、GHQ指令により共産党が再度非合法化された。徳球派幹部は国内に椎野悦郎を議長とする8名からなる「臨時中央指導部」(臨中)を残置した上、国際派の面々には無通知のまま地下に潜った。徳球は、日本を去る直前に開かれた政治局会議で次のように申し付けている。1・今後の政治方針の基本は徳球が向こうで立てる。2・組織指導は国内に一任する。志田、椎野、伊藤律の三者合議を中心にやっていくこと。3・野坂は国内に留まるといっているが、徳球の所へ送るよう説得する。4・分派に対しては統一の努力をあくまで続ける。国際派幹部個人はどうでもよい、宮顕は党に戻らせない方が良い。彼らに追随している活動家、党員、大衆を呼び戻し団結することが肝要である。 徳球らの地下潜行とは逆に、宮顕は九州から帰還した。これは組織違反であろうが、これについて問われることがないまま今日に至っている。

  ○6.24日、朝鮮動乱が勃発する。当時どちらが先に仕掛けたかという点で謎とされた。双方が相手を侵略者と呼んで一歩も譲らなかった。今日では北朝鮮側の方から仕掛けた祖国統一戦であったことが判明している。

 ○7.18日、マッカーサーは、共産党国会議員の追放、アカハタの1ヶ月停刊の指令に引き続き、無期限発刊停止処分を指令した。同時に後継同類紙も同様に発行停止された。以降、共産党の機関紙活動も非合法になった。7.24日、新聞協会代表にレッドパージを勧告。これを皮切りに各分野にわたってレッド.パージの嵐が見舞うことになった。占領政策違反の名により数千名が逮捕され、集会デモが禁止された。追って9.1日、吉田政権は閣議で、公務員などのレッドパージ方針を決定した。これにより、重要経営と労働組合からの万を越える共産党員と支持者の追放(レッドパージ)などの弾圧が見舞った。9月から11.10日までの間に民間主要産業342社9524名と各官庁公務員1177名合わせて1万701名がパージされた。この時大衆的な抵抗はほとんど組織し得なかった。党は活動基盤を根こそぎ失った。 

 【徳球が北京機関創設、武装闘争路線を指針する】  

 8月末、徳球が北京に渡った。地下指導部「北京機関」を作り「臨中」を遠隔操作し始めた。中国共産党は、「武装した人民対武装した反革命は中国だけの特質ではない」という認識から日本革命の道筋を明らかにし、日本革命はロシア.中国.東欧の三つの革命の特徴を大なり小なり持っており、これら革命の諸経験を摂取して独自の進路を見いだすべきとした。現実の革命コースとしては、ロシアの都市労働者の武装蜂起と中国の農村遊撃隊の組織との結合を予想し、同時に軍事的知識の習得を要請した。徳球指導部は、朝鮮動乱勃発と云う国際情勢の変化を受け、従来の平和革命式議会主義から一転して武装闘争路線へと転換せしめることになった。建国革命に勝利した中国共産党の経験を学び、中国革命方式による人民革命軍とその根拠地づくりを我が国に適用しようと図り、後に極左冒険主義と総括される武装闘争の道を指し示した。こうして、突如「北京機関指令」として武力革命方針が提起された。

 【宮顕の執拗な反党中央活動】

 8.31日、排除された国際派の7名の中央委員は、宮顕を首魁として党の統一を回復する為と称しながら公然機関として「全国統一委員会」(「全統委」)をつくった。全統委は分派別党コースを目指さず、徳球執行部に替わる別の執行部という立場をとった。ここに党の分裂が明白となり、実質上中央から地方に至る二つの党組織が存在することになった。全統委には、全学連中央グループ、主だった各大学の細胞、日本帰還者同盟の中央グループ、新協劇団細胞などが参加した。但し、志賀系「国際主義者団」、中西らの「団結派」、神山茂夫グループ、福本和夫の率いる「日本共産党統一協議会」などは排除され更に分立するという様相を示した。こうして日本共産党内の「50年分裂」は、全党的規模で公然化し、抜き差しならない抗争へと激化していくことになった。

 10.10日、ソ連.中国両共産党の支持を得ることに成功した臨中派は、「10.10日5周年にさいし全党の同志諸君に訴える」で「悪質分子を孤立させよ」と呼号した。こうなると、全統委派の情勢利あらず内部の足並みが乱れ始め、10.30日、「党の統一促進のためにわれわれは進んで原則に返る−全国統一委員会の解消に際して−」声明を発し、全統委を解消した。全統委は結成後2ヶ月に満たない歴史となった。  

 12月頃、宮顕を策源地とする全統委派は、先の全統委解散が時期尚早であったことを確認していくことになった。こうして再び全国的な統一組織をつくろうとする筋書きが纏まり、年末にかけて宮顕、蔵原、春日(庄)、袴田、亀山、遠坂、原田らの旧全統委の指導分子が中心となり、新たに全国的機関としてビューローを設けること、機関誌「解放戦線」、理論誌「理論戦線」、「党活動」などを発行することなどを取り決めた。志賀、神山は除かれていた。 これについて筆者は思う。宮顕のこの執拗な党中央分裂策動をどう評すべきか。且つこの時の潤沢な資金はどこから出ていたのであろうか。誰も問わぬまま今日に至っている。

 ○この年、日本経済は、日本左派運動の混迷をよそに朝鮮動乱を奇果とする戦争特需景気に沸いた。ドッジ.プランのデフレ政策に苦しんでいたに時ならぬ利益をもたらすことになった。後方兵站基地として機能した日本に米軍発注の特殊需要が創出され、この年だけで1億8200万ドル、1950.6月からの1年間で3億4千万ドル(1200億円)に達し、動乱発生前の滞貨推定額1千億円を上回った。以後1955.6月までの5年間の累計は16億2千万ドルに達した、と云われている。日本経済は思わぬ恩恵を受けることとなり、金偏、糸偏景気といわれた動乱ブームに沸いた。開戦後一年間で、鉱工業生産は46%増え、輸出が60%以上増加し、国際収支も50年下半期より輸出超過に転じた。まさに起死回生の「干天の慈雨」となった。以降日本の独占資本は、戦争が生んだ特需景気に活路を見いだしていくことになった。
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 【この時期の学生運動の動き】
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 【全学連中央の宮顕派化】  

 この「50年分裂」時、結成以来、全学連を指導していた武井系主流派は宮顕派に与した。これについて筆者は思う。武井系主流派が宮顕派に与したのは、宮顕をして「戦前来不屈の唯一無二の非転向指導者」として聖像視し、帰依していたことによるものと思われる。現在、宮顕論については、宮地健一氏が「共産党問題、社会主義問題を考える」の「共産党の組織体質=3人の体質、粛清システム」で一連の検証をしている。これに続き、筆者も参戦し「宮顕論」で検証している。これらの研究によれば、宮顕の正体は怪しく、「戦前来不屈の唯一非転向指導者」などとは噴飯ものの逆評価でしかないということになる。しかし、この事実が明らかになるのは1970年代に於ける諸資料の漏洩を通じててあり、この時点では致し方なかった面もあるので、武井系の責任を追及するには及ばぬ。この時点では、そういう宮顕のイカガワシサが判明せず、逆に聖像視されていたという、いわゆる「時代の壁」があり、武井系が見抜けなかったということである。  

 問題は、こうした検証が為されているにも拘らずその成果を議論せず、相変わらずの「宮顕を英明な指導者として讃美する」傾向があることである。こうなると、よほど頑迷な迷信に取り付かれていることになろう。科学的社会主義者を自称する者の学問精神がこれだからして、「科学的社会主義」なるものがいかに杜撰な得手勝手な云い得云い勝ちなものであるかが分かろう。  

 補足しておけば、筆者が、マルクス主義系の理論を渉猟して、その難解さに辟易する事がある。現在では、その難解さがマルクス主義そのものの難解さではなく、論評者が己の没知性を隠す為に煙幕的に難解にしているに過ぎないと確信している。なぜなら、難解に述べる連中が揃いも揃って筆者が述べるような宮顕論に至らず、相も変わらず「戦前来不屈の唯一非転向指導者」視したままの不見識に耽っているからである。そういう凡庸な手合いが、いくら難しく理論をこねてもたかが知れていると云わざるを得まい。

 ○1950.3月、宮顕に操られた全学連中央グループは、長文の意見書を党中央に提出し、徳球系執行部のこれまでの学生運動に対する指導の誤りを痛撃した。東大や早大の学生細胞からも相次いで意見書が本部に提出され、党批判を強めていった。

 ○ この時、武井委員長が「層としての学生運動論」理論を提起している。それまでの党の指導理論は、「学生は階級的浮動分子であり、プロレタリアに指導されてはじめて階級闘争に寄与する付随運動に過ぎない」というのが公式見解であった。武井委員長は、意見書の中で、「学生は層として労働者階級の同盟軍となって闘う部隊である」と規定し、学生運動を「層」としてみなすことにより社会的影響力を持つ独自の一勢力として認識するよう主張していた。その後の全学連運動は、この「層としての学生運動論」を継承していくことで左派運動のヘラルド的地位を獲得していくことになる。武井委員長の理論的功績であったと評価されている。

 【全学連の反イールズ闘争、レッドパージ反対闘争】  

 1950.5.2日、全学連は、反イールズ闘争に立ち上がった。CIE教育顧問のイールズは、各地でアメリカン民主主義を賞賛しつつ共産主義教授の追放を説いて回っていた。5.2日、東北大で、イールズの講演を学生約千名が公開を要求して中止させ、学生大会にきりかえた。東北大学は彼の28回目の講演であったが、ここで初めて激しい攻撃を受ける事になった。この経過は、全学連中央に「『イ』ゲキタイ。ハンテイバンザイ」と電信された。5.16日、北大でもイールズ講演会を中止させた。

 8.30日、全学連は緊急中央執行委員会を開いて「レッドパージ反対闘争」を決議し、各大学自治会に指示を発した。同10.5日、東京大学構内で全都のレッドパージ粉砕総決起大会が開かれた。都学連11大学2千名が参加。これが契機となり全国の大学に闘争が波及する。イールズ講演会を最終的に中止に追い込む。 

 3章 2期その2 1951−1953  「50年分裂」期の学生運動

 (れんだいこのショートメッセージ)  

 戦後学生運動2期その2を1951(昭和26)−1953(昭和28)年までの歩みとする。これを「戦後学生運動2期その2、50年分裂期の学生運動」と命名する。この当時の全学連運動を担う主体は皆「夢見る革命家」達であった。しかし、この革命家達が党中央の政争に翻弄され、所感派と国際派に分かれて互いに深く傷ついていくことになる。この事象は姿を変えてその後も発生するが、「50年問題」期の活動家達が蒙った心痛には及ばない。それほど厳しい苦しい経緯が見て取れる。その苦しさのせいか当時の人たちの多くは未だに口を閉ざしているように見える。
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 【この時期の全体としての政治運動】
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 【「四全協」で武装闘争へ向けての体制作り】  

 1951(昭和26).2.23−27日、第四回全国協議会(「四全協」)が開催され、「日本共産党の当面の基本的闘争方針」(いわゆる「51年綱領」)が採択され、党結党以来初めての軍事方針を打ち出した。これに基き山村根拠地建設が目指され、山村工作隊、中核自衛隊等が組織され、各地で火炎ビン闘争を発生させることを目論むことになった。武装闘争支援文書「栄養分析法」、「球根栽培法」等が配布された。同書にはゲリラ戦、爆弾製造の方法も書かれていた。党は青年運動組織への指導を大きく転換させ、5.5日、日本民主青年団(民青団)を発足させた。  

 今日、日共は次のように総括している。 「中国の人民戦争の経験の機械的適用であった」、「民族解放革命を目標として、街頭的冒険主義に陥り、セクト化を強め一面サークル主義になった」(「日本共産党の65年」)。 これについて筆者は思う。そう批判するのは勝手だが、ならば当時の国際情勢にどう対峙すべきだったのか、手前達の運動がいかほどのものを創造したのかということと突き合わせて云うのが筋だろう。何事も云い得云い勝の愚を避けるのが嗜みであろう。

 ○4.23−30日、全国にわたって第2回一斉地方選挙が行われたが、この選挙戦で党の分裂が深刻な様相を見せた。大衆の面前で主流の臨中派と反主流の統一会議派との抗争が展開された。主流派は社共統一候補として社会党候補者を推薦するという選挙方針をとった。東京都知事に加藤勘十を、大阪府知事に杉山元治郎を推した。統一会議派は、これを無原則的と批判し、独自候補の擁立を策し、東京都知事に哲学者の出隆、大阪府知事に関西地方統一委員会議長の山田六左衛門を出馬させた。宮顕と云うのは、こういうことを平気でやる感性を持っている。こうして両派による泥試合が展開された。戦前戦後通じて初めて「二つの共産党が別々の候補を立てて選挙戦を戦う」という珍事態が現出した。党外大衆の困惑は不信と失望へと向かった。投票結果はそれぞれ惨敗となった。

 ○8.12日前後、モスクワで日本共産党の分裂問題が討議された。スターリンは、国際派の統一会議を分派と裁定し、党内団結を指示した。これを「スターリン裁定」と云う。これにより、党中央主流派が是とされ、国際派は総崩れとなった。

 【サンフランシスコ講和会議と日米安全保障条約の締結】  

 9.8日、吉田首相はサンフランシスコ講和会議へ臨み、講和平和条約が締結された。この条約の締結によって日本は占領統治体制から脱却し主権を回復することになった。 この条約の調印の5時間後、日米安全保障条約が締結された。「平和条約の効力発生と同時にアメリカ合衆国の陸軍、空軍及び海軍を日本国内に配備する権利を日本国は許与し、アメリカ合衆国はこれを受諾する」と記されていた。安保条約により日本の国際的立場はアメリカを盟主とする資本主義国家陣営入りすることが明確にされた。吉田首相は、「この条約は評判が良くないから、後の政治活動に影響があってはならない」として、彼一人が署名した。アメリカ側は、アチソン国務長官、ダレス顧問ら4名が署名した。署名前吉田は次のように声明している。 「日本は独立と自由を回復した後、自分の力でこの独立と自由を保持する責任をとらねばならない。しかし不幸にして、未だ自衛の用意ができていない。で、米国が日本の安全は太平洋及び世界の安全を意味することを理解されて、平和条約後も暫く軍隊を日本に留めて共産主義者の侵略を阻止してくれることを欣幸とする。新たに独立した日本は、極東の集団安全保障に対する応分の責任を負うであろう」。

 これについて筆者は思う。それは、表見的には戦後日本のアメリカ陣営組み込みであったが、真実は、第二次世界大戦後の国際金融資本即ち国際ネオ・シオニズム裏政府の国際戦略に戦後日本を委ねることを意味していた。吉田首相は、このことを承知のうえで戦後日本の独立を優先させた気配がある。日米安保条約と云う火中の栗を拾わせられることになったが、その行く末は後世の政治に委ねたのではなかろうか。だがしかし、国際ネオ・シオニズム裏政府は容易く御せられる相手ではない。その後の日本は養豚政策で育てられ、やがて骨の髄までしゃぶられ捨てられて行く運命に入った。2009年現在、その仕上げの終盤過程に入っているとみなせよう。


 ○10月、統一会議指導部は「党の団結のために」を発表し、「自分らの主観的意図にも関わらず、日米反動に利する結果になったことを認め、ここに我々の組織を解散するものである」と宣言した。こうして、春日(庄)派、宮顕派、関西や中国その他の統一会議系地方組織、国際主義者団、団結派、神山グループなど、いずれもが組織の解散を行った。臨中指導部は、彼らの復帰に対して、新綱領と4全協規約の承認、分派活動の自己批判を容赦なく要求した。

 【「五全協」で軍事路線意思統一】  

 10.16−17日、「臨中」指導下の党は秘密裡に第五回全国協議会(「五全協」)を開いた。分派闘争の終結後の19中総以来初めての一本化された指導部の下での大会となった。会議の眼目は、新綱領(「51年綱領」)の採択や軍事方針の具体化、党規約の改正など党の前途を決定する重要な問題を討議することにあった。会議は主流派の強引な手法でリードされ、反対意見は全て分派主義者のレッテルを貼られて圧殺されると云う「臨中官軍方式」で進行した。五全協は、臨中議長に小松雄一郎、軍事委員長に志田重男を据えた。志田重男はこの大会で伊藤律に替わる軍事責任者として台頭した。伊藤律は宣伝担当からも外され、党中央権限を奪われた。

 ところで、現在の宮顕派の手になる党史は、四全協.五全協の存在そのものを認めようとしない態度を取っている。「徳田らは(四全協につづいて)10月には五全協を開いた。この会議も四全協と同じく党の分裂状態のもとでの会議であり、統一した党の正規の会議ではなかった」として抹殺している。 これについて神山茂夫は次のように云っている。「この「四全協」.「五全協」について、宮本君などは、それがあったことさえも認めない。その理由は、「六全協」で従来の文書は破棄するという決定をしたから、『四全協』.『五全協』も認めないと云うのだ。これでは極端ないい方をすれば、文書によって、党の歴史上から過去の文書を消し去り、実際にあったことさえ消してしまうことになる。それは出来ない相談である」(神山茂夫「日本共産党とは何であるか」)。

  ○1952(昭和27).5.1日、第23回統一メーデーが全国470カ所で約138万名を集めて行われた。東京中央メーデーは流血メーデーとなり、「血のメーデー事件」として全世界に報道され衝撃が走った。法政大学学生含む2名が射殺され5人が死亡し、3百名以上が重傷を負い、千人をこえる負傷者がでた。当局は、事件関係者としてその後1230名(学生97名)を逮捕した。

 ○7.4日、これが最後の徳球書記長論文となる「日本共産党創立30周年に際して」がコミンテルンフォルム機関誌「恒久平和と人民民主主義の為に」に掲載された。文中で徳球は、ストやデモに没頭して選挙の問題を軽視する一部の幹部の傾向を批判し、党員は「公然行動と非公然行動との統一に習熟する必要が有る」と警告を発した。これを受け、「臨中」スポークスマンは、今後選挙運動、平和運動などの合法活動を推進することを強調した。
 【志田派式武装闘争の失敗】   

 党内に台頭してきたのは徳球派系の志田派であった。志田派は武装闘争の推進派として立ち現われ、徳球の片腕として君臨していた伊藤律派を駆逐しながら次第に党中央を簒奪する。その志田派が指導する武装闘争が始まる。5月から7月上旬にかけて、火炎瓶闘争を含めた武力行動がいたるところで展開された。こうして武装闘争が実際に試みられたがことごとく鎮圧された。これについて筆者は思う。志田派の指揮する武装闘争は元々アリバイ的闘争、デッチアゲもあり、総じて戯画的なそれでしかなかった。それは方針の誤りなのか、日本的社会における武装闘争そのものの限界なのか、指導の問題なのか未だ考察されていない。今日、志田派の素性が胡散臭いことも判明している。

 他方、志田派は、徳球論文にも関わらず武装闘争を仕掛け、悉く失敗に帰した。秋になると、軍事方針や中核自衛隊の活動が大衆の志向や要求から浮き上がっていることが明白となった。 6月頃、志田派は、党の軍事方針や非公然体制を再検討する方向に向かわず、党内粛正に血道をあげ始めた。戦前の宮顕式スパイ摘発運動的第一次総点検運動を展開し、伊藤律派、神山派の一掃に狂奔した。志田派指導部は、全国の専従党員、幹部を三色に識別し、赤(志田を積極的に支持する者)、桃色(志田系)、白(反志田系)に色分けし、白派の追い出しに向かった。これにより、伊藤律派の長谷川、保坂、小松、木村三郎らが徹底追求され、機関から放逐され自己批判を迫られていった。


 これにつき筆者は思う。この時の総点検運動の地下で志田が宮顕と通じていたとするなら、総点検運動の性格が見えてくる。筆者は左様なものとして認識している。この頃志田は頻繁に料亭に繰り出している。後にこの時の様子が槍玉に挙げられるが、主として誰と談合していたのか肝心なことは漏洩されていない。しかるに一挙手一動作が的確に把握されている。

 ○10.14日、徳球が北京で客死する(享年59歳)。bQの伊藤律は野坂の手引きで幽閉された。野坂が、「もう一年も中連部に厄介をかけたし、今から別のところへ移ってもらう」と宣告し、鄭所長と公安職員が律を拉致し監獄へ収容した。「これは日本共産党の委託によることで、中共としてはプロレタリア国際主義の義務なので、問題を日本共産党が解決するまで致し方ない」と因果を言い含められたと述べた、と後に伊藤自身が明らかにしている。40歳前後の伊藤律は以来27年間を幽閉され、1980.9月、奇跡的な生還を遂げることになる。

 ○徳球−伊藤律の両指導者が不在となった隙に党中央に再登壇してきたのが戦前のリンチ致死事件仲間の宮顕−袴田であり、この極悪同盟が野坂派、志田派と結託し始める。この辺りの史実は市井本には出てこない。検証すれば、こういうことが透けて見えて来るということである。12月上旬、志田系党中央は全国組織防衛会議を開き、第二次総点検運動を開始した。ここまで主として伊藤律派が次々に査問されていたが、引き続き神山派、反宮顕系國際派の連中約1200名が処分された。これが翌年の六全協の地ならしとなる。
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 【この時期の学生運動の動き】
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 ○1951(昭和26)年、党中央が武装闘争を呼号し始めると、宮顕派の全学連主流派は、それまでの先鋭的な党中央批判理論に似合わず、穏和主義的な反戦平和運動に日和見し始める。これに業を煮やした全学連反主流派は堪らず、党中央の武装闘争の呼号に応じて党の軍事方針の下で工作隊となり、山岳闘争、街頭闘争に入る。東京周辺の学生たちは、「栄養分析法」、「球根栽培法」等の諸本を手にしながら三多摩の山奥にもぐり込んだ。結果的にこの時期の党の武装闘争路線は破綻していくことになり、民青団も大きな犠牲を払うことになった。他方、11月、国際派が反戦学生同盟(反戦学同)を結成する。

 【「不破査問事件」】  

 1951.2.14日、東大の国際派東大細胞内で査問・リンチ事件が発生している(これを仮に「国際派東大細胞内査問・リンチ事件」、略称「不破査問事件」と云うことにする)。この事件は、国際派の東大細胞内における指導的メンバーの一員であった戸塚秀夫、不破哲三、高沢寅男(都学連委員長)の3名が「スパイ容疑」で監禁され、以降2ヶ月間という長期の査問が続けられ、「特に戸塚、不破には酷烈、残忍なるテロが加えられた」と云われている事件である。これについては、「東大国際派内査問事件」で別途考察する。  

 この事件を考察する意味は、1・これが戦後学生運動の初のリンチ事件となったということ。2・この時査問された不破らの容疑がスパイであり、その不破がその後日共の最高指導者として登場するに至ったということ。3・この時事件に介入してきた宮顕の胡散臭さが垣間見え、宮顕と不破の特殊関係を見て取ることができる、という三点で興味深い事件となっているところにある。ちなみに不破は最近「私の戦後60年」を執筆しているが、この事件に触れず口を閉ざしている。
(私論.私見) 「東大国際派内査問事件」の発生日について

 ネット検索で「松下清雄を語る会について」に出くわした。それによると、「スパイ.リンチ査問事件の年次」で、て.「1052年2月14日」は間違いで正しくは.「1051年2月14日」であるとの指摘が為されている。れんだいこの「検証学生運動」(社会批評社、2009年)にも言及下さっている。これにより、れんだいこテキストの方も訂正しておく。これにより、「東大ポポロ座事件」と同時期のものと考えての「なぜ両事件の関わりが検証されていないが不自然なことである」と記していた下りが不要となった。判明したことは、「不自然なこと」ではなく「発生年次が丁度1年違っていた」と云うことになる。

 2010.4.29日 れんだいこ拝


 ○1952.20日、東大でポポロ座事件が発生した。劇団「ポポロ座」の演劇発表会に警視庁本富士警察署の私服警官数名が潜入していることが判明、事件となった。多数の学生が取り囲み一部暴力もふるわれ、警察手帳を奪った。押収した警察手帳には学生・教職員・学内団体の思想動向と活動に対する内偵の内容が記されていた。手帳押収に際して暴行があったとして学生が起訴された。この事件に対して、「大学の自治」を強調して「不法に入場した警官にも責任がある」とする見解と、「いかに学内であっても、暴行を受ければ警察権を行使するのは当然だ」とする田中栄一警視総監談話を廻って各方面に論争が繰り広げられることに鳴った。そういう意味で問題となった事件であった。これについて筆者は思う。ポポロ座事件は、「国際派東大細胞内査問・リンチ事件」中に発生している。両事件の関わりが検証されていないが不自然なことである。
  【所感派が国際派追放大会開催、武井系が総辞任させられる】  

 3.3日、全学連の拡大中執が東大農学部で開かれ、所感派による国際派追放大会が開催された。高沢、家坂、力石らの「君子豹変」が伝えられている。土本、安東、柴山、二瓶、下村らが非難追放され、新しい中執が選出された。これにより、1948年の全学連結成以来日本学生運動の反帝・平和の伝統を担ってきた武井指導部は辞任することとなった。武井派は、「学生戦線統一の観点から辞任することとなった」と総括している。指導権を握った所感派は、中核自衛隊の編成に着手し、山村工作隊を組織した。早大、東大、お茶大らに軍事組織が結成され、火炎瓶闘争を実践していくことになる。    

 これについて筆者は思う。この経緯を「反帝・平和の伝統を担ってきた武井指導部の引き摺り下ろし」とみなして、この時の政変を疑惑する史論が為されているが愚昧ではなかろうか。この頃、武井指導部は宮顕論理に汚染され、既に闘う全学連運動を指揮し得なくなっていたのであり、歴史弁証法からすれば当然の経過であったと拝察したい。

 5.8日、早大で第2次早大事件が発生した。神楽坂署私服・山本昭三巡査を文学部校舎に監禁。救援の警官隊と座り込み学生1500名が10時間にわたる対峙となった。9日午前1時過ぎ、武力行使。未明、吉田嘉清ら多くの活動家たちの再結集.都下大学の学生をま・カえ数千人の抗議集会。党は、「座り込み」を「消極的で敗北主義的な戦術」と批判。メーデー参加者逮捕にきた刑事を監禁、奪還にきた警察と衝突、学生に多数の負傷者がでた。

 5.9日、午前1時すぎ武力行使。未明、吉田嘉清ら多くの活動家たちが再結集し、都下大学の学生をまじえ数千人の抗議集会を開いた。「臨中」党中央は、「座り込み」を「消極的で敗北主義的な戦術」と批判している。メーデー参加者を逮捕にきた刑事を監禁、奪還にきた警察と衝突し、学生が負傷している。

 【全学連第5回大会、所感派が全学連中央奪還】  

 6.25−27日、2年ぶりに全学連第5回大会が開催され、徳球系執行部を支持する所感派学生党員が、宮顕派の走狗と成り下がった武井系執行部を追放し主導権を握った。新執行部は、党の武闘路線の呼びかけと「農村部でのゲリラ戦こそ最も重要な闘い」とした新綱領にもとづき、農村に出向く等武装闘争に突き進んでいくことになった。こうして戦闘的な学生達は大学を離れ、農村に移住していった。 

 全学連第5回大会の最中、全学連による「立命館地下室リンチ事件」が発生している。徳球系日共京都府委員会の指導する学生党員(「人民警察」)による、反戦学同員に対する3日2晩にわたるリンチ査問事件となり、被害学生は関大、立命館、名大、東京学芸大、教育大、津田塾の反戦学生同盟員ら延べ11名に及んだ。注意すべきは、この時、「宮本顕治、春日庄次郎、神山茂夫スパイ説に基くCICスパイ系図」に基く査問が行われた。これについて筆者は思う。この時の系図はその後幻となっているが公開されるべきであろう。貴重と思う故に敢えて言及しておく。

 【全学連第6回大会】  

 1953(昭和28).6.11日、全学連第6回大会開催。70大学140自治会の代議員165名とオブザーバー500名が参加した。この頃、武装闘争が完全に収束し、基地反対闘争が中心課題となっていた。委員長に阿部康時(立命館大)、副委員長・大橋伝(横浜国大)、松本登久男(東大)、書記長・斎藤文治(東大)が選出された。  大会は、基地反対闘争を中心として「反吉田反再軍備統一政府の樹立」を闘いとることを宣言し、「学生は民族解放の宣伝者になろう」が強調された。この大会決議に基づいて、大会後全学連は、進歩派教授と協力して憲法改悪反対の講演会を開き、夏休みには一斉に「帰郷運動」で農村に入った。武装闘争の季節が終わったと云うことになる。 

 4章 3期 1954−1955  六全協期の学生運動  

 (れんだいこのショートメッセージ)   

 戦後学生運動3期を1954(昭和29)年から1955(昭和30)年までの歩みとする。これを「六全協期の学生運動、学生運動崩壊」と命名する。1954年の学生運動は、所感派の武装闘争も行き詰まり、国際派の平和闘争も特段のものが見られない。両者とも死に体であったということになろう。この状況の中で、宮顕式穏和路線が台頭し始める。1955年の六全協総括を境に、旧党中央の徳球系が賊軍、新党中央の宮顕系が官軍となり立場が入れ替わる。これにより、武装闘争に呼応した民青団、全学連は清算主義に陥り、自壊状況を現出していくことになった。マルクス・レーニン主義を学ぶことさえ放棄する傾向をも生みだし、解体寸前の状態に落ち込んでいくことになった。 他方、砂川闘争に取り組む過程で急進派が生まれて行った。こうして、この時期の学生運動は、「急進派と穏和派に二分化」しつつあった。これが歴史の弁証法であろう。戦後学生運動の第1期、2期、3期はこういう紆余曲折を経る。後の展開から見て留意すべきは、いずれにせよ全学連運動が共産党指導下に展開されていたところに特徴が認められるということである。
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 【この時期の全体としての政治運動】
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  ○3.1日、アメリカがビキニで第1回水爆実験。死の灰が福竜丸の乗組員に降りかかり被爆した。これを「3・1ビキニ事件」と云う。広島、長崎に続く三度目の被爆に怒った日本国民は大きなショックを受け抗議運動を開始した。全国から3200万人を超える原水爆禁止の署名が集まる等我が国の反戦平和運動の盛り上がりの契機となった。以来、日本の原水爆禁止運動は、「核戦争阻止、核兵器廃絶、被爆者援護・連帯」の三つの基本目標を掲げ前進させて行くことになった。早大全学連のリーダー吉田嘉清がこの頃より原水爆禁止運動に参加するようになる。

 ○4.6日、宮顕が警視庁2階にある七社会(記者クラブ)へ現れて記者会見している。鈴木卓郎の「共産党取材30年」は、「団規令による潜行幹部の捜査は不当だ、と警視庁へ抗議にきた際のことだと思う」とあるが、党が非合法にされているこの時期に宮顕が警視庁に出入りしていることを裏付けており非常に貴重な証言となっている。 

  ○6.2日、鳩山内閣は、参議院本会議で、次のような「自衛隊の海外出動禁止決議」をしている。  「自衛隊の海外出動を為さざることに関する決議。本院は、自衛隊の創設に際し、現行憲法の条項と、わが国民の熾烈なる平和愛好精神に照し、海外出動は、これを行わないことを、茲に更めて確認する。右決議する 」。これについて筆者はかく思う。これが自衛隊創設時の誓約であった。の時の決議が2009年現在何と遠くまで隔たってきていることか。

 ○7.1日、陸海空の自衛隊発足。当時の米軍事顧問団幕僚長・フランク・コワルスキーは、著書「日本再軍備」の中で次のようの述べている。 「国際情勢のためとはいえ、理想主義的憲法を踏みにじり、国民がきっぱり放棄した戦力を再建せねばならなくなったのは悲しい」。 

 ○8.8日、全国的な原水爆禁止運動の高まりの中で、「原水爆禁止全国協議会(原水協)」が結成された。全国から400名が集まり、法大教授・安井郁氏が事務局長に就任した。日本の平和擁護運動に新しい流れが生まれた。翌1955年、第一回の原水爆禁止世界大会が開催されることになる。

 【六全協】  

 7.27日、六全協が開か・黶A徳球に疎まれ続けられた宮顕が党中央に返り咲き、戦前来の共産党解体同盟である宮顕−野坂、これに徳球系反伊藤律派の頭目・志田を加えたトロイカ体制が党中央を壟断する事態が生まれた。ここに、六全協の史的意味がある。これについて筆者はかく思う。日本左派運動は、それまで徳球系党中央を批判し続けてきた経緯からこの「宮廷革命」を是として受け入れ、このスタンスが今日まで続いている。筆者は、この卑大なる間違いを質さねばならないと考えている。今日の日共のテイタラクはこの時より始まる。「宮顕とは何者か」につき、「提言16、日共のネオ・シオニズム奴隷的本質こそ疑惑せよ」で触れることにする。  

 宮顕は党中央に返り咲くや否や、それまでの急進主義的衣装を脱ぎ捨て、露骨なまでの統制主義と右翼的穏和主義指導に手のひらを返した。日本左派運動の牙を抜き始め、戦後日本左派運動総体を投降主義的な方向へ構造改革し始めた。筆者は、これより以降の党を宮顕の意向を挺している場合には日共、選挙等他党との比較で一般表記が適切な場合のみ共産党と呼称して使い分けすることにする。  

 六全協により、徳球体制下で冷や飯を食わされてきた連中が我が世の春を向かえ、勝てば官軍、負ければ賊軍の地を行く党内政争が演じられて行くことになった。敗者側には暫くの間「六全協ショック」、「六全協ノイローゼ」、「六全協ボケ」と呼ばれる状態が続くことになった。  

 これについて筆者はかく思う。かくして、多々欠点を抱えつつも曲がりなりにも左翼運動を担っていた本来の共産党員たちが追放され、偽装左派とも云うべき宮顕−野坂連合が党内を支配することになった。ここで注意を要するのは、この時期の日本左派運動に明らかな質的転換がもたらされたことを正確に確認することである。この確認ができないと、この後の革共同、ブントの誕生の流れが見えてこないことになる。筆者の判ずるところ、戦後左派運動の第一期は曲がりなりにも、徳球−伊藤律系の指導により政権奪取に向かっていた。その夢は叶えられなかったが、宮顕−野坂系指導による第二期となると端から政権奪取運動を放棄し、日本左派運動総体を体制内化的な単なる批判運動即ち穏健主義に閉じ込めることになる。  

 この期以降は、そういう運動として発展していく転換点となった。れんだいこ史観によれば、この定式化がはるけき今日まで及んでいる。してみれば、体制側から見て、日本左派運動を穏和にせしめた宮顕の功績は大なるものがあると云うべきだろう。もし、我々が、日本左派運動を総括せんとするならば、転回点となったこの六全協に於ける質的転換まで立ち戻らねばならないだろう。この重要性が認識されていないところに理論の貧困があると考えている。 しかし、革命運動の修繕運動化はいずれ先細りの道になるであろう。日本左派運動の今日的低迷は、これに起因していると思われる。唯一の例外は、1960年代後半から70年代半ばまで日共が社共連合的民主連合政権を展望したことであろう。これを掲げた時期、日共は大きく発展した。しかし、その内実がいかようなものであったかは「新日和見事件考」で解析することにする。今日の日共が唱える「確かな野党論」は六全協路線の必然的帰結である。かく弁える必要があるのに、日本左派運動には未だにこういう見立てが生まれない寒さがある。

 ○この年、政治状況総体に大きな変化が見られた。共産党の合同に続いて10.13日、社会党の左右社会党の統一大会が開催され、右派の浅沼稲次郎と左派の鈴木茂三郎が書記長と委員長を分け合い、150議席を保つ社会党が発足した。左派社会党の新綱領が採択され統一綱領となった。綱領は次のように述べている。  概要「共産主義は事実上民主主義を蹂躙し、人間の個性、自由、尊厳を否定して、民主主義による社会主義とは、相容れない存在となった。我々は共産主義を克服して、民主的平和のうちに社会主義革命を遂行する」。

 ○11.15日、「占領制度の是正と自主独立」をスローガンに反目し合っていた鳩山系日本民主党と吉田−緒方系日本自由党が合同し自由民主党が誕生した。こうして保守合同も為された。これにより国会議員は衆議院299名、参議院118名となり衆議院では圧倒的過半数を確保するこになった。  これにより、自由民主党が政権与党、社会党が野党第一党となる自社二大政党制によるいわゆ「55年体制」構図が定着した。ここからが「55年体制」のスタートとなった。ここに「保守・革新」の二大政党が実現して、イギリス流議会政治ともてはやされる時期を迎えることになった。

 ○11.22日、第三次鳩山内閣で、先の衆院選で初当選した読売新聞社主・正力松太郎(鳩山派)が北海道開発長官に抜擢されている。正力は当選後直ちに原子力行政の推進に力を入れ、1956.5.19日、科学技術庁を創設し初代長官に就任する。これによりその後の原子力行政及び事業の土台を築く。正力は、1957(昭和32)年の岸内閣の第一次改造で、国家公安委員長と科学技術庁長官・原子力委員長を兼任で就任する。その後首相を目指し、中曽根康弘らを従え派閥「風見鶏」を作るが「吉田学校生」に対抗できず野望は実現しないままプロ野球初代コミッショナーに就任する等転身することになる。

 これについて筆者は思う。正力派の野望を挫いたのは「吉田学校生」内の池田、田中、大平系譜であった。そういう意味で、戦後の政争は政権与党派内のハト派対タカ派の政争こそ凄まじかったと云うことになる。この辺りはもっと着目されるべきではなかろうか。
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 【この時期の学生運動の流れ】
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 【全学連第7回大会】  

 1954.6.13日、全学連第7回大会が開かれた。大会は、「生活と平和の為に」を打ち出し、政治運動とか大衆運動から召還し、一転代わって没政治主義方針確立した。学科別のゼミナール運動を行う方針が決められた。また、サマーキャンプ、大学祭、歌声運動などの運動が強められるようになった。後の自治会サービス機関論を生み出すことになった原点であり、後に「学生運動としては完全に体を失い、俗悪化した大衆追随主義に転落した」と批判されている。人事で、委員長・松本登久男(東大)、書記長・子田耕作(大阪市大)を選出した。

 これについて筆者は思う。全学連のこの急激な穏和化の背景に何があったのか。筆者には容易に透けて見えてくる。この頃既に、宮顕と志田の裏交渉が始まっており、宮顕が事実上復権し始めていたと云うことになる。宮顕の指導するところ必ず穏和化になる。かっての武井全学連との蜜月時代の左派的言辞は、徳球執行部に対する揺さぶりのためであり、いわばマヌーバーでしかなかった。このことも判明しよう。

 【全学連第8回大会】  

 1955.6.10日、全学連第8回大会が開かれた。89自治会237名の代議員とオブザーバー800名が参加した。大会では、基地反対闘争と原水爆禁止運動に取り組むこと、文化サークル活動の全国的.地域的交流、世界青年学生平和友好祭に参加することによる国際的交流、芸術家の合同公演を大学当局側と協力して行うなどを決めた。大会は、カンパにア的なものに終始し議論らしい議論も為されず、運動方針も「話し合い路線」とするという一般学生の自然成長性に依拠させた穏和化を明確にさせ、日常要求主義とサークル主義という没政治主義に陥ることになった。

 【「7中委イズム」】  

 六全協で、この間の徳球系執行部の軍事方針は「極左冒険主義であった」と批判されたことにより、この間徳球系執行部の指導下に戻っていた全学連もこの煽りを受けて自壊状況を現出していくことになった。9月、全学連第7回中央委員会が開かれ、宮顕式路線に従って、この間の党の極左冒険主義と全学連指導部の動きを批判することとなった。いわゆる「歌ってマルクス、踊ってレーニンというレクリエーション路線」として揶揄される穏和化方向へ振り子の針を後戻りさせることとなった。これを「7中委イズム」と言い表すことになるが、自治会を「サービス機関」と定義し、一転して日常要求路線へと全学連運動を向かわせることになった。  

 「自治会=サービス機関論」をここで定義しておくと次のように云える。概要「自治会の役割を『学生の日常要求に応えるサービス機関』とする理論で、自治会が政治主義に陥ることを戒め、学生運動如きが情勢分析や政治方針の提起を行うべきでないとした。学生運動は、学生の本分に基き勉強のこと、恋愛のこと、就職や将来のこと、我々の苦しみや希望を深く話し合うこと等々学生の身近な要求を取り上げて、それをサービスしていくべきであるとした。これにより、トイレに石けんを付けるというサービス運動を開始することになった」。  

 これについて筆者は思う。いわゆるその後の民青同的運動のはしりであるが、六全協で党中央に再登壇した宮顕は、手前が党中央を盗るまでは急進主義的反党中央批判を指針させ、ひとたび党中央を掌握したとなると一転して、極めつきの穏和主義的右翼主義的な運動を指針させていくことになった。これが、宮顕運動の元来の本質であり、それまでの急進主義は党中央を奪還する為に付けていた仮衣装に過ぎなかったと窺うべきであろう。

 【砂川戦争】  

 当然ながら、当時の学生運動家の昂揚する意識が、「7中委イズム」で押し込められることはなかった。むしろ苦々しく反発し、所感派、国際派の別を問わず急進主義派の学生たちが「平和と民主主義」の根幹に関わる政治闘争に向かい、「基地反対闘争の中での天目山の闘い」として砂川闘争に取り組んで行くこととなった。

 9.13日、米軍立川吉の拡張工事の為砂川町の強制測量が開始され、労組−学生同盟と警官隊が正面衝突した。こうして砂川闘争が始まった。10.4日、第二次測量開始。10.13日、全学連と反対同盟らが警官隊と衝突し、流血事件が発生している。この様子を見て、当時の鳩山内閣は測量中止を発表することとなった。全学連と反対同盟側の勝利であった。体制側の警備力も弱く、左派の戦闘的意思と抵抗力がそれほど強かったということであろう。