第19章 70年代前半期の諸闘争(9期その2 1971−1975)
(この時期の政治動向)
(「これについて筆者は思う」としてコメントするところを「*」で代用する。紙数の関係上、「70年代以降の諸闘争、事件検証」で採り上げたカ所の記述は省くことにする。実際には、以下の流れに「70年代以降の諸闘争、事件検証」記述を加えれば、より立体化するであろう。なお「」で括りゴシック文字表記したところは別サイトで検証していることを意味している)
ここでは1971年−1975年までの流れを確認する。佐藤政権、田中政権、三木政権の時代となる。70年安保闘争後、日本政治は新たな局面に入った。長期化した佐藤政権が食傷され始め、自民党政権内で福田、田中、大平、三木、中曽根の各派閥領袖がポスト佐藤を窺い始めた。1972年7月、「三角大福代表選」の結果、田中角栄が第6代自民党総裁に選出され田中政権誕生が発足した。*注目すべきは、日本左派運動の空理空論抗争に比してこれこそ真の政治闘争であり素晴らしいドラマであったように思われる。日本左派運動各党派にはこういう党内政争はない、と云うかデキナイ規約にされている、と云うかそういう能力を有していない。社共系も新左翼系も、こういう権力闘争の素養を欠いているのではなかろうか。誰だ、民主集中制にはそういう党内権力闘争は有り得てならないなどとしたり顔してほざく者は。その論が子供の政治であり大人段階の政治になっていないことを赤面するべきところ、黄色い嘴で説教してくれるとは。
1974年8月5日、米国で、ニクソン大統領の盗聴指示にまつわる「ウオーターゲート事件」が発生。8月8日、ニクソンが辞任させられている。続く10月、雑誌「文芸春秋」11月号で、立花隆「田中角栄−その金脈と人脈」と児玉隆也の「寂しき越山会の女王」が掲載されたのを狼煙として内外与野党一致の金権政治批判が高まった。11月、田中首相が退陣表明し、田中政権は在任期間2年4ヶ月で終わった。椎名悦三郎副総裁の裁定で三木が後継指名され、12月、三木内閣が発足する。
*この時代の日本左派運動は通常思われている以上に考察価値がある。政権与党内のエネルギッシュな権力闘争に比して対照的な内向きな動きを見せたが、問題は何故にそうなったのかの原因を問うことにある。60年安保闘争の場合、結果的に四分五裂を深めたとはいえ、第一次ブントが華々しく総括論争を演じた。それに比して、70年安保闘争は、能く闘い得た60年安保闘争が挫折感を生みだしたのに比して、単なるスケジュール闘争に終始し実りのない結果に終わったのに相応しくかどうか総括そのものさえ生みだせなかった。この負のツケがその後の左派運動の質を規定したように思われる。つまり、日本左派運動は、60年安保闘争の有能さに比して70年安保闘争の無能さを晒すことにより、その後の質を規定したように思われる。
特徴として、新左翼系急進主義運動が定向進化した挙句と思われる連合赤軍的同志殺人事件、パレスチナに赴いた後の日本赤軍のゲリラ闘争、中核派対革マル派、社青同解放派対革マル派の党派間絶対戦争的ゲバルト事件、爆弾闘争という四大事件を突出化させ、そのいずれもが部分的な評価はともかく全体としては否定的影響を与えて行った。前書きで述べたが、この頃から各党派の情勢分析が時代を捉え損ない始めたことも確認せねばなるまい。2011年現在の失語症的傾向は、この定向進化現象のなれの果てではなかろうか。
その中で、筆者から見て、この時期の新左翼の最大党派である中核派の動きが注目される。同派は、不発に終わった70年安保闘争の決着をつけるかのように更に武装闘争を向自化させ、機動隊殲滅を呼号しながら局地的暴動戦に向かった。それは、赤軍派の塩見理論による軍事的武装闘争による権力奪取闘争とハーモニーする中核派らしい一揆型闘争であった感がある。あるいは、忌わしい海老原君虐殺事件を払拭せんとする対権力闘争への指導としては無責任な「のめり込み」であったかも知れない。
この闘争は1971年に満展開され、数次の沖縄闘争、三里塚闘争、10.21反戦闘争、11.14東京大暴動、11.19日比谷暴動と立て続けに暴動化させた。これにより10.21で280名、11.14で310名、11.19で1880名、都合2400名を超える逮捕者を出し壊滅的な打撃を受けた。結果的に国家権力の厚い壁の前に封殺されたが、同派がそれをどう総括したのか、しなかったのか、筆者は気にしている。
.この時期、革マル派が、偶然か故意か新左翼の二大党派である中核派と社青同解放派に対する激しい敵意で掃討戦を仕掛けている。中核派に対しては、1971年の第一次ブント魂的玉砕闘争路線に対してパラノイア呼ばわりしながら海老原君虐殺事件に対する報復戦を仕掛け襲撃し続けた。それは、機動隊権力との闘争に余念のなかった中核派に大きなダメージを与えた。怒り狂った中核派は革マル派を「権力―革マル一体のKK連合による民間反革命であり、もはや内ゲバではない党派間絶対戦争である」と位置づけ、本格的な党派間絶対戦争へと転じて行った。
*それには相応の理由と根拠があったと思う。だがしかし、「革マル派問題」とは別個に、急進主義運動が辿り着いた機動隊殲滅闘争に象徴される諸闘争に対する総括を為さねばならなかったかのではなかろうか。この点では、革マル派の「パラノイア呼ばわり」には一定の根拠があったのではなかろうか。ならば、どう闘うべきだったのか、これが問われていると思っている。
70年代前半期の新左翼運動は、こうして中核派対革マル派の党派間絶対戦争をベースに揺れ動くことになる。中核派による革マル派活動家・海老原君虐殺事件で負い目を持った中核派は当初、革マル派の一方的優勢な襲撃からの防御を余儀なくされた。この流れは1972年11月の革マル派による中核派シンパ川口君虐殺事件まで続く。歴史の摩訶不思議なところで、川口君虐殺事件が「海老原事件」以降劣勢一方であった中核派に反転攻勢の契機を与えることになる。この頃から中核派が本格的に対革マル派戦争を担う体制を整え、対峙段階へと移り、やがて反攻へと転ずる。
他方、革マル派はこの時期、社青同解放派との党派間戦争も仕掛けており、新左翼内の二大党派である中核派、社青同解放派の両派を手玉に取り続けることになる。三つ巴のテロル合戦が続く中、革マル派は、1975年3月、中核派の最高指導者・本多氏を殲滅する。中核派の怒りは凄まじく一切の手加減容赦のない「全面無制限復讐戦争」に突入する。
この流れとは別に第二次ブント系の動きがある。第二次ブント系は党派間絶対戦争には加わらなかったものの赤軍派後遺症とでも云うべき内紛が絶えず、相変わらずの分裂に忙しい季節となった。中共系諸派は中国の文化大革命の破産の対応に忙しく、こちらも内向き引きこもり化し始めた。その他諸潮流は総じて日共に典型的なように右傾化を深めて行った。これらの動きが70年代前半期の左派運動の特徴となる。以下、検証する。なお、太田龍がこの頃より学生運動的トロツキズム運動より転換し、アイヌ解放同盟運動に執心するようになる。
【「6.17安保周年闘争」】 6月17日、全国で「6.17闘争」が繰り広げられた。東京では中核派.第四インターを中心とした約1万名が明治公園で、反帝学評、フロント、ML派など反中核派系約1万名が宮下公園で集会を開いた。両者とも乗用車、材木、看板などで街頭バリケードや線路上への座り込み機動隊への火炎ビン攻撃などを展開した。これに対して機動隊もガス銃などで応戦し、熾烈な攻防戦が展開された。集会後各派が街頭闘争に移り機動隊との熾烈な攻防戦が展開された。6月15日からこの17日までの3日間の闘争での逮捕者は
1061名にのぼった。
【赤軍派が機動隊を爆弾攻撃】 明治公園集会終了後の午後8時50分頃、赤軍派により鉄パイプ爆弾が投げつけられ原宿付近で機動隊員37名が負傷した。この事件の容疑者として、赤軍派中央軍の少年(17歳)ら二人が殺人未遂容疑などで逮捕されたが証拠不十分で処分保留となった。
【「外務省公電漏洩事件」】
6月18日、「外務省公電漏洩事件」が発生した。毎日新聞が、政治部の西山太一記者が署名記事で概要「沖縄返還に当たって、アメリカ側が支払うべき金額の一部を日本が肩代わりして支払うという日米密約があり、諸費用の請求処理にあいまいさが残る」とする「沖縄返還協定に関わるニクソン・佐藤政権の日米秘密合意」をスクープした。「外務省公電」には、「沖縄返還に際し、米国が支出すべき基地の復興費(返還土地の原状回復費)の一部として軍用地地主に支払われる400万ドルを表面上はアメリカが払うことにし、実は日本側が負担する経費の中から出すという肩代わり密約」が記されていた。これが「外務省公電漏洩事件」の始まりとなる。後に判明したところによると、西山記者は安川外務審議官付きの秘書・蓮見喜久子経由で沖縄返還交渉に伴う日米密約を記した「外務省公電」を入手していた。
西山記者が外務省の女性秘書と「情を通じて」ことが判明し物議を醸した。*この時代には政権恥部を暴くこうしたスクープが存在し、これが適宜に政治に於ける緊張関係を生み出していたのではなかろうか。この種のスクープがなくなることにより政治が弛緩し始め、今日的な政権−マスコミ連合による酔狂的な遊び人政治へと堕落しているのではなかろうか。そういう意味で、「西山スクープ」の持つ意義は大きいと考える。
【第9回参議院選挙】 7月3日、第9回参議院選挙が行われ、自民党63、社会党39、公明党10、民社党6、共産党6、無所属2となった。非改選を合わせると、自民党131、社会党66、公明党22、民社党13、共産党10、無所属7。
【中核派が秋季大決戦突入の号令】 8月4日、中核派が革共同政治集会を開催し、秋季大決戦突入を指令する。次のように述べている。「問題の一切は前衛党にかかっている。この内乱的死闘の中にまさに革命の現実性を見抜き、ためらうことなく革命の旗をかかげ、革命に勝利するまで連続的な内乱的死闘を貫き通す前衛こそが、いま最も求められている。革共闘はこの光栄ある任務を自ら引き受けることを8.4集会において全人民の前に宣言したのである」。
【「宮顕・チャウシェスク会談」】
8月19日、宮顕委員長を団長とするソ連、ルーマニア、イタリア、北ベトナムの4カ国訪問団が出発し、9月、ルーマニアのブカレストでチャウシェスク書記長との会談後、両党共同声明を発表し、自主独立路線を宣言した。注目される点は次のくだりである。「それぞれの党の国際的な第一義的責務は、どのような形態でも、他党の内部問題への干渉を許さないこと、他党の分派の存在と闘争を支持、育成しないことである」。
*声明のこの下りは、国家レベルでの内政干渉問題を党派レベルにまで持ち込み批判しているところに特徴がみられる。宮顕式日共理論は、一国一前衛論と他党の内部問題不干渉論を一対のものとして打ち出す理論を弄んでいるが反動的なのではなかろうか。それは、国家に対してであれ党派に対してであれ滅法、党中央への恭順を強いることにならないだろうか。本来の在り方は、政府批判同様に「兄弟党間の友誼的勧告」を盛んにするべきであり、党中央の指導ぶりが常時点検され合うべきではなかろうか。「どのような形態でも、他党の内部問題への干渉を許さない」は党中央にとっての手前勝手な理論であり、国際共産主義運動の本義に照らして邪道な言論閉塞をもたらすことになるのではなかろうか。この辺りは全て歴史弁証法に委ねるべきなのではなかろうか。と思うのだが、こう問う理論にお目にかかることがない。
【中国で林彪派失脚】 9月13日、文革中の中国で林彪派が粛正された。「クーデター失敗」として喧伝された。*事件の真相は今も分からない。はっきりしていることは林彪派の失脚により文化大革命は左バネを失い来るべき破産が決定づけられたことである。この後暫くは五人組が活躍するも、毛沢東主席死後の権力闘争に敗れ、華国鋒政権により一斉逮捕され、ケ小平らの走資派の復活へと向かうことになる。林彪事件がその転回点となった点で見逃せない。
【沖縄闘争】 9月25日、沖縄返還を迎え、新左翼系各派が様々な論理で闘争に取り組んだ。沖縄国会のヤマ場を前に、中核派らの沖縄青年委員会のメンバー4名が皇居内、宮内庁にレンタカーで乗りつけ、発煙筒、火炎ビンを投げつける事件を引き起こす。10月16日、沖縄国会開会のさなか、東京など全国各地で集会、デモが行われ、機動隊との衝突、交番への火炎ビン攻撃が為された。10月19日、「沖縄国会」の衆議院本会議での佐藤首相の所信表明演説中に、3階の傍聴席に居た沖縄青年委員会の「海邦派」が結成した沖縄青年同盟の行動隊(男性2名、女性1名)が突然爆竹を鳴らし、「沖縄返還協定粉砕」と叫びながらビラをまいた。
【国際反戦デー闘争】 10月21日、国際反戦デー。この時、破防法が適用され事前規制されている。特段に記録がないところを見ると、平穏に封殺されたのではなかろうか。
【爆弾闘争幕開け】 10.23日、黒ヘル、RG派が都内連続交番爆破闘争。代々木・清水橋、杉並・四面道、板橋・仲宿、同・養育院前、中野警察署、本郷・弥生町の交番が襲撃され、爆弾時代が幕開けする。
【中国が国連復帰】 10月25日、中国の国連復帰が可決され、中華民国(台湾)は逆に国連から脱退していくことになった。この時、日本の福田外相は、米日が共同提案国になり「逆重要事項指定決議案」(アルバニア決議案を重要問題指定し、3分の2以上の表決を必要とするというもの)と二重代表制決議案(北京と台北の両政権に国連議席を認めるというもの)を提出したが否決され、アルバニア決議案が「圧倒的多数」で可決された。これにより中華人民共和国の国連加盟が実現し、中華民国の代表は議場を去った。福田外相のロビー活動は裏目に出、日中関係悪化を招くことになった。
【続沖縄闘争】 11月10日、沖縄現地で、全軍労、県教組、官公労などによる、協定粉砕、批准阻止の空前といわれる島ぐるみのゼネストが行われ、「コザ暴動」で警官1人死亡した。これに呼応して本土でも各地で集会、デモ、機動隊との衝突がおこった。この日、中核派の松尾真・全学連委員長が破防法違反容疑で逮捕される。11月14日、国会で沖縄返還協定の強行採決のきざしがみえたこの日、全国32都度府県、80ヶ所に10万人が集まって阻止闘争が展開された。
【中核派の「渋谷大暴動」闘争】 中核派は宮下公園での集会を禁止され、「渋谷大暴動」を叫んで渋谷に進撃し各所で機動隊と衝突した。200名の中核派部隊の火炎ビン攻撃をうけた渋谷署神山交番では、警備にあたっていた警官が火炎ビンで火だるまになり病院で死亡した。午後2時頃、国電池袋駅で中核派の学生、労働者がもちこんだ火炎ビンが満員の山手線電車内で炎上、乗客らが重軽傷を負い、火炎ビンを浴びた中核派反戦青年委の女性教師が病院で死亡した。深夜まで7時間にわたって渋谷駅や繁華街でのゲリラ戦が続き、この日の衝突で313名が凶器準備集合罪などで逮捕された。
【中核派の渋谷大暴動考】
この時期、新左翼の最大党派である中核派の暴動路線について確認しておきたい。中核派の暴動路線は、1960年代後半の「激動の7か月」以来の武装闘争の向自化として必然的に生み出されたものであり、赤軍派の軍事的暴力革命闘争の中核派版とでも云えよう。赤軍派のそれが予行演習段階で封殺されたのに比して、中核派は一定の物質力でもって貫徹したことになる。この闘争は、革マル派との党派間ゲバルト闘争と並行的に遂行された。
*この時の暴動路線闘争は戦後急進主義運動の定向進化の帰結であった。筆者的見解によれば、暴動闘争は所詮、政権交代、体制打倒に結びつかない抵抗運動段階の過激闘争でしかなく、その到達点を見極めた上で、それに費消する莫大なエネルギーを相応しい戦闘に転戦活用する道を探る契機にすべきではなかったか。そうすれば、日本左派運動の新たな地平を切り拓くことができたのではなかろうか。つまり、ここで、70年安保闘争総括と合わせていわゆる暴力革命運動に対する理論的切開を為すべきであったのではないのか。
このことは暴動路線闘争の全否定を意味しない。日本左派運動急進主義派の定向進化の帰着点を捉え返し、その成果と限界を見定めて、何がしか有益な理論的総括を獲得し軌道転換を探る機会とすべきだったのではなかろうか。尤も、これは後付けで云えることである。かの時点では筆者も然りで猪突猛進しか持ち合わせていなかった。それが時代の空気であった。筆者は、その後獲得した「戦後日本=プレ社会主義論」を媒介させることにより、迷妄から抜け出すことができた。そういう意味では、この見立てを持ち得なかった中核派が暴動闘争失敗後の新展望創出に欠けたのも致し方ない。史実は、海老原君事件以降、防戦一方に追いやられた革マル派との党派間戦争にのめり込んで行くことになった。局面的には止むを得なかったとすべきであろうが、暴動路線闘争に代わって獲得すべき理論の貧困がついて回っていることには変わりない。
【沖縄返還協定の衆議院沖縄特別委強行採決】 11月17日、沖縄返還協定が衆議院沖縄特別委で強行採決された。これに反発して社会.共産両党と総評は国会請願デモで応戦した。しかしながら、社共の「反対デモ」は何に反対しているのかさっぱり要領を得ない反対で、つまりアリバイ闘争でしかなかった。以降の「社共式反対デモ」にはこの傾向が定着する。11月24日、沖縄返還協定法案が衆院本会議で強行採決され自然成立した。
【新左翼各派の街頭闘争】 11月19日、新左翼各派1万9000名が日比谷公園などに集まり、日比谷公園の各入り口に阻止戦を張って封鎖した機動隊と衝突。この時、中核派の犯行により公園内の松本楼が炎上する。さらに、国電有楽町駅周辺から銀座一帯、大手町のオフィス街などで火炎ビンを投げ、バリケードを築くなどのゲリラ戦が展開された。日比谷、丸の内周辺以外でも、各派によるバリケード市街戦が都内各地で行われ、この日の逮捕者は1886名の大量逮捕となった。1969年11.16、17日の佐藤首相訪米阻止闘争時の1985名に継ぐ大量逮捕となった。11月20日、中核派の集会デモに対し全面的な禁止措置が取られた。
【新左翼各派の沖縄闘争論考】
日本左派運動はこの時、様々な沖縄闘争論を唱えている。但し、沖縄返還拒否論は見当たらず、日米政府主導式の返還そのものを前提とした上で様々な理屈をつけて異議を唱えるという闘争のための闘争理論を弄んだ風がある。各派の理論的差異の検証は割愛する。*後付けで云えることであるが、沖縄返還は基本的には施政権の返還であった。これは素直に政府自民党の外交功績として認めて良かったのではなかろうか。なぜならば、沖縄住民には「本土復帰に対する反対の自由」があったところ特段の抵抗闘争は生まれなかったからして、沖縄住民は「本土復帰」を願っていたことになろう。この場合、問題は、沖縄住民の多数は何故に「本土復帰」を願ったのかということになる。日本左派運動は、この問題をまともに論じたことがあるのだろうか。これを解明するためには、歴史的な日本的統治の質を俎上に挙げねばならないことになる。これにはかなり高度な歴史検証を要する。この問題の解明に向かわず闇雲に批判闘争に耽れば理論がますます現実と齟齬することになろう。沖縄闘争はその好例ではなかろうか。
かの時点での沖縄闘争の位置づけは、沖縄住民が独立自治を求める運動展開が有り得たところ、この動きが弱かった以上、「返還のされ方」に向かうべきだったのではなかろうか。本来であれば、ここを徹底的に追求すれば良かろうに、オカシナことであるが、この方面の闘いはむしろネグレクトされた。「核付き、基地付き返還は沖縄の現実を本土に持ち込む危険性がある」とするのは煽り過ぎで「闘争のための闘争理論」ではなかったか。結果的には沖縄返還は施政権の返還であり、それ以上でも以下でもなかった。しかし、それ以上のものにせねばならなかった。
大東亜戦争で本土防衛の捨石にされた沖縄は戦後も人身御供に差し出された。沖縄の面積の約10,4%(沖縄本島では約18,8%)が米軍基地に占められており、沖縄が日本に返還されると日本全体の国土面積のわずか約0,6%に過ぎない沖縄に在日米軍専用施設面積の約74,7%が集中することになる。「米軍基地の過密異常性という沖縄負担」に対する外交交渉が為されるべきであった。同時に日本に合計134ケ所の在日米軍基地を抱え込むことになることを見据え日本からの米軍基地の撤退運動を展開すべきであった。これを為し得ず単に施政権の返還のみを交渉したのが佐藤政権式沖縄返還の限界であった。日本左派運動はこの限界を衝くべきであった。他の問題として「沖縄返還に伴う裏金密約問題」があった。そういう意味で、佐藤政権式沖縄返還に対する反戦平和の観点からの沖縄闘争の必要性はあった。
しかし、論をどう組み立てるべきであったか。重要なことは「何でも反対粉砕」ではなく、「施政権返還は是、在日米軍基地は非」とする立場からの沖縄闘争論の理論的創造にあったのではなかろうか。新左翼系各派の沖縄闘争論が、これを能く為し得ていたように思われない。この労を取らずに各派が各様の粗雑理論に酔いながらスケジュール闘争に堕してしまったのではなかろうか。その後の日本左派運動内に「この没理論主義的傾向が定式化する」と云う意味で、且つ国会包囲闘争が沖縄闘争をもって終焉したという意味でも沖縄闘争の後遺症は大きいものがあったように思われる。
【爆弾闘争幕開け】
12月12日、後に反日武装戦線となるグループが、熱海市伊豆山にある興亜観音像と殉国七士の碑を同時爆破する。興亜観音像は、戦後の国際軍事法廷で、南京攻略戦の際に大虐殺を指揮したとされて責任を問われA級戦犯として処刑された陸軍大将・松井石根の建立したものであり、殉国七士の碑は処刑されたA級戦犯を慰霊したものであった。12月24日、東京新宿三丁目の交番でクリスマスツリーに見せかけた時限爆弾が爆発し、警官.通行人ら7名が重軽傷を負った。
*爆弾グループが、興亜観音像、殉国七士の碑の爆破闘争を敢行した理論的裏付けはどのようなものであったのであろうか。松井石根に限って評すれば、南京大虐殺事件の主犯として戦後の極東国際裁判に付され、A級戦犯として絞首刑執行された人物である。但し、その論の真実性を廻って議論の多いところの人物である。松井石根に関係の深い興亜観音像、殉国七士の碑の爆破闘争を敢行するならば、当然その前に左派的な対応理論を得ていなければならないところのものである。これに対する見解表明なき爆破闘争の裏には何やら得体の知れない胡散臭い臭いがしてならない。誰か、この認識を共有せんか。
【米中共同声明発表】 2月21日、ニクソンが訪中して毛沢東首席と会談。2月27日、米中共同声明を発表。日本の頭越し米中外交となり二度目の「ニクソンショック」といわれる。
【ベトナム戦争で南ベトナム解放軍が攻勢局面を迎える】 3月30日、南ベトナム解放軍が1968年以来の大攻勢を開始する。4月6日、アメリカが大規模な限定北爆を再開する。4月16日、アメリカ軍がハノイ、ハイフォンへの爆撃を再開する。5月1日、北ベトナム軍・南ベトナム解放戦線が、南ベトナムの要所のクアンチを占領する。5月4日、ベトナムで臨時革命人民委員会が成立する。5月8日、ニクソン米大統領が北ベトナムの全港湾機雷封鎖を発表する。5月10日、北ベトナムがアメリカの北爆強化と機雷封鎖に抗議する民主共和国声明を発表する。同日、南ベトナムのチュー大統領が全土に非常事態宣言を発する。この頃からベトナム戦争の戦局が不可逆的に南ベトナム解放軍優勢に進展し始めたことになる。
【第二次ブント戦旗派が「御茶の水解放区闘争」】 5月13日、第二次ブント戦旗派約600名が、神田周辺で、「御茶の水解放区闘争」と云われる火炎瓶闘争を敢行した。128名が逮捕され、これを契機として戦旗派内に闘争の指導責任をめぐっての内紛が激化していくことになる。
【角栄が「日本列島改造論」を世に問う】
6月11日、通産大臣の田中角栄が「日本列島改造論」を発表する。これが来る総裁選出馬に当たってのマニュフェストとなる。「日本列島改造論」は付け刃で出したものではなかった。1966年に幹事長を辞任した翌年の1967年、角栄の能力を惜しんだ議員仲間の懇請により就任した自民党都市政策委員長時代に、国家百年の計から日本の産業、経済構造を研究し、1968年5月に「都市政策大綱」(議論の取りまとめは、麓(ふもと)邦明氏)として発表していた延長線上のものであり、東京一極集中からいかにしてバランスの良い総合的国土活用ができるかの視点で産業の適正配置と分散、高速道路網の整備、地方単位の快適生活環境都市づくり等を提言していた。
*角栄の総裁選出馬に当たってのマニュフェスト呈示は高く評価されるべき政治姿勢ではなかろうか。「日本列島改造論」の内容的価値も高い。2011年現在閉塞する日本は、「日本列島改造論」の指針とは逆方向の政治に耽っているからであり、それを思えば今からでも遅くない「日本列島改造論」をバイブルにし直すべきであろう。日本の救済策はここにカギがあるのではなかろうか。
【田中政権】
6月17日、佐藤首相が引退声明し自民党内の後継争いが始まった。7月5日、自民党臨時党大会が日比谷公会堂で開催され、「三角大福」戦争の結果、決選投票で田中282票、福田190票、無効4票となり、田中角栄が第6代自民党総裁に選出された。*こうして、戦後ハト派系の真の総帥とも評すべき田中角栄が奪権闘争に勝利した。7月6日、臨時国会で田中が首班に指名され組閣に着手した。7月7日、第一次田中内閣が発足した。角栄が首相になった意義として、戦後歴代首相の帝大卒(石橋湛山のみ私大早稲田卒)の不文律を打ち破ったことがある。且つ史上最年少の首相の誕生且つ戦前の一兵卒出自の首相誕生でもあった。田中首相はメインスローガンに「決断と実行」を掲げ、「コンピューター付きブルドーザー」と云われる通りの馬車馬の如くの立ち働きをして行くことになる。外交で日中国交回復、内治での引き続きの高度経済成長政策を掲げ政治に邁進した。
【太田龍がアイヌ解放同盟運動に転換】 8月25−26日、札幌医大に於ける日本民族学会・日本人類学会第26回連合大会総合シンポジウムが、「北方圏の人類学と民族学−その現状と展望」と題して開催された。席上、アイヌ解放同盟(太田龍、アイヌ解放同盟代表・北海道ウタリ協会理事・結城庄司、北方民族研究所代表・新谷行ら)が公開質問状を読み上げ演壇を占拠し続ける挙に出た。主催者側が「後で必ず発言させる」と約束した為、演壇を降り騒動を終息させた。
【日中国交回復交渉】 9月25日、田中首相と大平外相一行が中国へ出向き、七転八倒の難交渉を積み重ねた。日米安保条約、戦時中の賠償、中華民国(台湾)政府との国交断絶、尖閣諸島国境問題等々難題を抱えていたが、日中両国政府の有能な取り計らいで妥結に漕ぎつけた。*この時、「日中首脳秘密会談」が為されており、日中同盟百年の計論議が交わされた形跡がある。これが後に田中角栄失脚の伏線となった真因ではなかろうかと思われるが歴史の闇である。詳細は「毛沢東―角栄会談秘話、角栄の悲劇性予見」に記す。
(kakuei/sisosiseico/motakutokaidan.htm)
【日中国交回復共同声明調印】
9月29日、日中両国政府は、「不正常な状態(戦争状態)の終了、中国が唯一の合法的政府であることを認める」など共同声明に調印し日中国交回復の道を切り開いた。これに反発した若手タカ派が青嵐会を結成した。この政治能力が先に日本の頭越し外交を仕掛けていたニクソン−キッシンジャー外交をうならせた。*ここで確認すべきは、この時までの首相公約には概ね裏表がなかったことであろう。「政治に於ける信」が担保されており有言実行的であった。これは、2009年政権交代後の民主党連合の鳩山政権、菅政権の空約束マニュフェストと比較する時一層際立つ。
*「日中国交回復」の持つ歴史的意義は、文化大革命で内戦的危機に遭遇し経済政策でも失政していた中共・毛沢東政権への支援にあったように思われる。これを、自民党政権与党内のハト派系譜である田中派と大平派が「鉄の同盟」的連携で政界を束ね、日米同盟のクビキ下ながら敢行したことに意味がある。そういう意味で、田中政権の親社会主義性を嗅ぎ取るべきであろう。かく捉える歴史評論はないが、この観点からの歴史見直しが興趣を注がれる課題となっている。そういう性格を持つ日中国交回復交渉に対して日本左派運動はどう対応したのだろうか。資料がないので分らない。「何でも反対粉砕」に従い何らかのケチつけ批判を試みたのだろうか、それとも評価歓迎したのだろうか。既に沖縄闘争論でも見られているが、日本左派運動は「戦後保守ハト派系の善政政策に対する失語症」を特徴としている。この頃から日本左派運動の情勢分析が空回りし始めたのではなかろうか。
【太田龍&アイヌ解放同盟が祖父江孝男明大教授を詰問】
10月4日、太田龍、アイヌ解放同盟代表・結城庄司、北方民族研究所代表・新谷行の3名が、東京の明治大学大学院で講義を始めようとしていた祖父江孝男明大教授(8.25日の札幌医大に於ける日本民族学会・日本人類学会第26回連合大会総合シンポジウムの座長)に対し、1時間にわたり質問と公開討論を敢行した。祖父江教授は、9.1日付け北海道新聞紙上での「彼らの云うことにも一理はあるが、そのやり方はいささか小児的」と記したこと、本多勝一・朝日新聞記者の「あの言葉はむしろ太田竜氏に対して自分が云った言葉であって、解放同盟全体に対して向けられたものではない」発言に対して釈明の詫び状を差し出させている。
*日本トロツキズム運動の草分けの一人たる太田龍・氏がこの頃よりマルクス主義的運動から転換し始め、「日本的なるもの」を拠点とする革命理論の模索に向かい始めている。それは、トロツキズム的国際主義の裏返しとして獲得されたものであり、この時点で到達したのがアイヌ革命論であったと云うことであろう。その後の太田氏は、「日本的なるもの」から逆照射させ「植民地的なるもの」への批判に向かい、やがて国際金融資本帝国主義批判へと向かうことになる。日本左派運動は、この辺りの精神的彷徨を追検証せねばならないのではなかろうか。なぜなら、太田氏の歴史批判は今日現在でも現状分析に欠かせない貴重な理論であると思うから。
【第4次防衛力整備計画】 10月9日、第4次防衛力整備計画が正式決定される。これが後の肥大化の走りとなる。*これは田中政権任期中の取り決めであるがタカ派政策である。但し、既にお膳立てができており田中政権としても受け入れざるを得なかったのではないかと思われる。
【10.21国際反戦デー闘争】 10月21日、例年化した国際反戦デー闘争のこの日、全国数百ヵ所でデモが行われる。*既に動員力を確認するだけで、情況打開的なものは見られなくなっていた。
【第二次ブントの分裂】 1966年に再建された第二次ブントは、70年安保闘争過程及びその後に於いて60年安保闘争後四分五裂した第一次ブントの二の舞を演じる。既に1969年、さらぎ徳二を議長とする党中央に対して塩見を代表とする赤軍派が分裂し、赤軍派の掲げる武闘軍事路線の評価を廻って液状化し始めていたが、三上治(味岡修)と神津陽(薬師神忠昭)を代表とする軍事路線反対派の叛旗派、古賀暹を代表とする雑誌「情況」に依拠する情況派(後に遠方派と遊撃派に分裂)、赤軍派と軍事の主導権をめぐり党派闘争を開始した荒岱介を代表とする戦旗派(戦旗日向派、戦旗荒派とも云う)らが分派する。10月、さらぎを代表とする鉄の戦線派が蜂火派に改称する。12月18日、戦旗派が第二次ブント内の内部闘争を制し、第二次ブント事務局を掌握する。戦旗派は赤軍派とも違うもう一つの軍事闘争を目指して行くことになる。以降、第二次ブントは最終的に17、8派にまで細分化してしまう。
【第33回衆議院選挙】 12月10日、第33回衆議院議員選挙(田中首相、橋本登美三郎幹事長)が行われ、自民党271、社会党118、共産党38、公明党29、民社党19、諸派2、無所属14となった。自民党は解散時297議席から271議席へと11議席減となり敗北した。この議席数は、昭和31年に自民党が結党以来の最低議席数であった。民社党は10議席減、公明党は18議席減の中、共産党は24議席増、革新共同、沖縄人民党を入れると40議席になるという躍進で野党第2党になった。得票数は550万。
【インフレの進行】 外交に勝利した田中政権に待ち受けていたのは国内のインフレの進行であった。それは、池田政権以来の高度経済成長策の皺寄せとして、この頃矛盾が飽和点に達しつつあったことによる。田中政権は、日本経済の底堅さを見据え更なる積極財政で乗り切ろうと快刀乱麻の立ち働きをして行く。
【ベトナム戦争終結。米帝が敗北し撤退】 1月8日、パリのベトナム和平交渉が再開される。1月15日、ニクソン大統領が北爆中止命令を出す。1月27日、米、南.北ベトナム、臨時革命政府の4代表がベトナム和平協定と議定書に調印。1月28日、ベトナムの停戦が発効する。3月29日、アメリカ軍が、南ベトナムからの撤退を完了する。
【国労、動労の強力遵法闘争】
3月13日、国鉄労働組合(国労)と国鉄動力車労働組合(動労)が遵法闘争を始める。国鉄高崎線上尾駅(埼玉県上尾市)で、順法闘争に怒った乗客が暴動化し、約1万名が騒擾化する。この暴動は同じ高崎線の桶川駅、北本駅、鴻巣駅、熊谷駅と東北本線の埼玉県内各駅にも飛び火し、これら地域一帯で一時的に治安が悪化した。宮原駅では乗客らが駅助役を拉致し、約4km先の大宮駅まで無理やり歩かせた(この時、大宮駅でも暴動が発生していた)。これにより上尾駅周辺は約11時間に渡り運休となり、運行再開するも正常なダイヤでの運行はできず代行バスで対応するものの終日ダイヤが混乱した。これを「上尾(あげお)事件」と云う。
*この頃の国鉄闘争は「鬼の動労」の面目活如の時期となった。問題は、「鬼の動労」が最も果敢に闘争したのが戦後ハト派政権の絶頂期の田中政権下であり、「鬼の動労」が最も果敢に闘争すべき時期の戦後タカ派派政権の絶頂期となる中曽根政権下では国鉄民営化の走狗になったという経緯にある。このチグハグぶりは偶然なのだろうか。筆者以外にかく問うものが居ないように思われる。
【米国でウォーターゲート事件発覚】 4月27日、ウォーターゲート事件が政治スキャンダルに発展、ニクソン政権の命取りとなる。*ウォーターゲート事件騒動は長らく米国マスコミのジャーナル精神の賜物として称揚されてきたが、その後の語るところ、「キッシンジャー派によるニクソン追い落としの為の米国マスコミの政治主義的加担」でしかなかったことが判明している。この時の米国マスコミの物真似が、この後に起きるロッキード事件での「角栄追い落としの為の日本マスコミの政治主義的加担」に繋がることを思えば軽視できない。
【日共が、原水禁運動の路線転換図る】 7月5日、日共が、「ソ連と中国の核実験にも反対する」と表明する。この問題は、日本原水禁運動に於ける「如何なる核実験にも反対する」社会党系原水禁と、「帝国主義の核独占の対抗バランスとしてソ連、中国の核実験を支持する」日共系原水協の長年の対立に対して、日共が路線転換したことになる。宮顕は、「共産党は、社会主義国の核実験には賛成しないが余儀なくされたもの、防衛的という見方をしてきた。しかし、この数年間のうちに重要な変化が起こった」として、従来の運動方針に固執しないと言明した。*日共の路線転換自体は評価されるべきであろうが、それまでの「如何なる核実験にも反対に対する反対運動」による原水協指導、それによりもたらされた日本原水禁運動の不幸な分裂事態に対して真摯な反省なしで済ませられることであろうか。もう一つ、こたびの転換がその後の日本原水禁運動の再構築に有益に資することになったであろうか。これが肝心であるが答えはノーである。
【金大中拉致事件発生】 8月8日、韓国の政治家キム・デジュン(金大中)氏が白昼(午後1時半頃)、東京・飯田橋のホテルグランドパレス)から拉致される(「金大中事件」)。8月13日、誘拐されていた金大中氏がソウルで発見される。9月5日、金大中事件で、日本政府が容疑者として金東雲・駐日韓国大使館1等書記官の出頭を申し入れるも韓国側は拒否する。
【第4次中東戦争が勃発】
日中に続く日ソとの平和交渉に乗り出しての外遊のさ中の1973年10月に第4次中東戦争が発生し、「第一次オイルショック」に見舞われることになった。諸物価狂乱事態に遭遇し、田中政権の経済成長政策に危険信号が点滅し始めた。11月23日、愛知揆一蔵相が急逝。11月25日、第二次田中改造内閣が発足し、田中内閣発足から1年4ヵ月後、福田赳夫氏が大蔵大臣に就任し、緊縮財政へ転換させられることとなった。
10月6日、田中首相がヨーロッパ・ソ連訪問外交の最中、エジプト、シリア両軍が、イスラエルに対する攻撃を開始し第4次中東戦争が勃発する。10月7日、アラブ諸国が産油量を5%引き下げると発表する。*日本左派運動は、戦後世界の矛盾の集約地であるパレスチナ紛争、中東情勢に対して全く無知無関心である。その理由として、マルクス主義的教条で解けない民族的紛争事案であるということが考えられるが、この場合、マルクス主義的教条の歪みの方を手直しすべきではなかろうか。
【田中政権下での日ソ首脳会談】 10月8日、田中首相とコスイギン首相の日ソ首脳会談が17年ぶりに行われシベリア開発を話し合う。10月10日、領土問題の未解決が確認され、日ソ共同声明が発表される。
【OPECがオイル戦略発動により石油危機発生】 10月17日、石油輸出国機構(OPEC)機構が、石油の公示価格を1バーレルあたり3.01ドルから5.11ドルへと70%引き上げ(「原油価格21%引き上げを発表」)、いわゆる第一次石油危機が発生した。OPEC10ヵ国などがアメリカなどイスラエル支持国向けの石油生産削減を決定する。10月23日、第一次石油危機により石油元売りメジャー各社が原油価格30%アップを通告。これにより、トイレットペーパ買い付け騒動が発生する等、物不足バニックが日本列島を席巻(せっけん)する。卸売物価が狂乱状態に陥る。10月25日、国際石油資本5社が原油の供給削減を発表し、石油危機が深刻化する。日本は当時既に世界最大の原油輸入国であり、石油の99.7%を輸入に依存し、うち88%を中東に依存していた。第一次石油危機は日本経済に深刻な打撃を与えた。11月11日、停戦協定締結。アラブ産油国の湾岸六カ国は、12月23日に原油公示価格を11.65ドルへの引上げを74年1月1日から実施することを決めた。僅か2ヶ月余りで約4倍、72年末に比べると4.7倍になった。
【日共が第12回党大会開催】
11月、日共が第12回党大会を開き、宮顕委員長が、「民主連合政府はこれまでの宣伝のスローガンから実践のスローガンに変わった」と宣言、「民主連合政府綱領」の決定と、綱領の一部改正により合法主義を純化させ、議会専一主義、反暴力主義の観点からの「国民的合意」を重視した党運動化を指針させた。天皇制に対する新見解として「自然に熟し落ちるような形で解決することが望ましい」を打ち出した。他にも、61年綱領が三点修正された。1・「ソ連を先頭とする社会主義陣営、全世界の共産主義者、全ての人民大衆が、人類の進歩のために行っている闘争をあくまで支持する」のうち「ソ連を先頭とする」の削除、2・「国会を反動支配の道具から人民に奉仕する道具に変え」の「道具」を「機関」に改める。3・「独裁」は全て「執権」に改める。
党規約改正が行われ、岡正芳の「日本共産党規約の一部改正についての報告」に基づき党規約が変更された。既に第10回党大会で統制委員会を中央委員会の下に置いたが、第12回党大会で中央監査委員会をも中央委員会の下に置くことになった。*これは規約改悪以外の何ものでもなく常軌を逸している。日共の場合、民主集中制の名の下にこういうことが平気で罷り通る。党内をかく反動化させる他方で党外に向けては民主主義を守れと正義ぶる感性が信じられない。これに疑問を湧かさない知性が信じられない。
【田中政権が中東新政策発表】 11月22日、田中内閣が、中東政策を親アラブへ政策転換する。新政策の骨子は1・武力による領土の獲得及び占領反対。2・1967年戦争の全占領地からのイスラエル兵力の撤退。3・同域内の全ての国の安全保障措置。4・パレスチナ人の正当な権利の承認と尊重。*田中政権の中東新政策は画期的な反戦平和政策であり後にも先にもない。筆者史観によるプリズムを通して見れば、この新政策も又ネオシオニズム勢力の怒りを買いロッキード事件の伏線になったと思われる。この観点からの考察は未だ為されていない。
【第二次ブント戦旗派の分裂】 この年、第二次ブント戦旗・荒派(日向派)内で、地下軍事組織による爆弾闘争(黒ヘルグループが冤罪で逮捕された)の総括をめぐって対立が発生し、アダチ派(俗称:戦旗西田派)が分派する。党建設を重視したのが荒派で、西田派は武装闘争路線に反対し「総評青婦協への加入路線」を掲げたとも武装闘争を重視したとも云われるが定かでない。
【日本労働党結成】 1月、大隅鉄二らの「日本共産党革命左派」が「日本労働党」を結成するに至った。この経緯を見ておく。1968年に「日共左派」から除名された大隈鉄二は、翌1969年6月、「日共革命左派」を結成し、日中国交回復運動を柱として組織活動を開始した。その頃、「日共(革命左派)神奈川県委員会」の土屋三男グループが武闘派に転じた川島壕と袂を分って組織に合流し、10月に「関西地方委」、1972年3月には「関東地方委」を組織した。その後、大隅鉄二らの「日本共産党革命左派」、原田長司グループ、及び安斎庫治グループの三者によって「前衛党をめざすマルクス・レーニン主義全国協議会」を結成し、組織の大同団結を目指した。が、各派の思惑違いもあり組織統一に失敗し、大隈派が単独で「日本労働党」(代表・大隅鉄二、機関紙・労働新聞、機関誌・労働党)を創出する。
【教師聖職者論争】
この頃、教師聖職論を廻る論争が発生している。これを確認する。4月11日、日教組が結成以来初めての全日ストを打つ。文部大臣奥野誠亮は処分に乗り出す。この状況下で、4月16日、日共は、赤旗に「教師は労働者であるが教育の専門家として『聖職性』の側面を持つ」論文、4月17日、「教師=聖職論をめぐって」主張を発表し「教師聖職論」を展開する。5月5日、社会党が「教師労働者論」の立場から批判する。以降、教師聖職論争が展開される。日共は、この論争を通じて「教師の労働基本権や組合活動、政治活動の制限是認」を明確にした。これが自民党に歓迎され、これをきっかけにして公明党も「使命職論」を、民社党が「勤労者の性格を持った聖職論」を発表していくことになった。社会党は反発し機関紙の社会新報で批判していくことになった。当然日教組大会の争点となってくことになった。当時、日共は部落解放同盟との対立の際にも「教育の中立性論」を云い始めており、このたびの教師聖職論と教育の中立論が両輪となってその後の運動の性格を規定させていくこととなった。
*スコラ的には教師聖職論は成り立つ。問題は、日共がどういう思惑で教師聖職論を打ち出したかであろう。その政治的狙いは教師の政治活動抑制に向けられており、宮顕のらしさが立ち現れていることを確認すべきであろう。問題は、社会党が宮顕及び日共の正体を見抜けぬまま、つまり共産党と云う権威を認めたまま機械的な反発で対応して行ったことにもあろう。
【第10回参議院選挙】 7月7日、第10回参議院選挙が行われ、自民党62、社会党28、公明党14、共産党13、民社党5、無所属8となった。非改選を合わせると、自民党126、社会党62、公明党24、共産党18、民社党10無所属10。
【米国でニクソン辞任、ロックフェラー副大統領が後継する】 8月5日、「ウオーターゲート事件」でニクソン大統領が辞任する。8月9日、ジェラルド.フォードが第38代大統領に就任。副大統領はロックフェラーが指名された。太田龍・氏の「ユダヤ世界帝国の日本侵攻戦略」は次のように記している。「ニクソンの共和党側が民主党の本部に盗聴器を仕掛けたという、はなはだ胡散臭いウォーターゲート事件の大騒動でニクソンは大統領を辞任するのだが、ここでフォード副大統領が昇格するという不思議なことが起る。副大統領が大統領の辞任に伴って昇格するのがなぜ不思議かといえば、実はニクソンの辞任の前に副大統領も辞めさせているからだ。そうして代えておいたフォードがまた大統領に交代する。更に、フォードが自分の後釜として任命したのがロックフェラーなのである。つまり、正副大統領のどちらも選挙されていないのだ。アメリカ政治史上未曾有の珍事態となってこの騒ぎは終結するが、あまりにも見え透いたロックフェラーとキッシンジャーの、つまりはヤダヤの政治謀略というほかはない」。
【大阪で「日共糾弾共闘会議」が結成される】 8月10日、大阪で、「日共糾弾共闘会議」(「日本共産党の労働組合支配介入糾弾共闘会議」)が結成される。会議は、田口全逓大阪地本委員長の司会で、林動力車労組大阪地本委員長を議長に選出し、林氏が経過報告も行った。次のように述べている。「本格的に堕落した日共の体質とその政策を暴露し、とりわけその労働政策については徹底的に糾弾する体制を大衆に依拠して確立し、日共弾劾運動を一挙に盛り上げることを確認した。その背景として、毎年の春闘を牽引し、戦前・戦後を通じて常に先進的な役割を果たしてきた大阪の労働運動の前に、独占と対決して闘う関西の労働者の前に敵の露払いとして『日共』という名の妨害者がのさばり出てきていることが、当面の情勢の特徴の一つである。労働組合は、闘争すれば共通してこの『妨害物』にぶっつかる云々」。労働時事通信は次のように報じている。「主要組合が機関決定を踏まえて公然と共闘会議を結成し、『日共糾弾』を唯一の闘争目標にすえ運動化を決意したことは、日本の労働運動史にも例がなく、今後の動向は国内はもとより国際的にも注目されると思われる」。*共産党が労働組合からかように攻撃されると云う有り得ない事態が発生していることになる。この場合、「日共糾弾共闘会議」がやり過ぎなのか、日共に非があるのか、筆者には自明である。
【「韓国大統領狙撃事件(文世光事件)」発生】 8月15日、ソウルの国立劇場で「光復節」(日本の敗戦により植民地から解放された記念日)の祝典で、在日韓国人2世の文世光が、演説をしていた朴大統領を狙撃。大統領は無事だったが、夫人の陸英修さんらが流れ弾に当たり死亡した。これを「文世光事件」と云う。文世光はその場で逮捕され、10月7日、ソウル地裁で初公判。10月19日、死刑判決。12月17日、上告棄却で死刑確定。12月20日、死刑執行。*大法院(最高裁)の判決から死刑執行までの期間があまりに早すぎ、様々な憶測を呼んだ。死人に口なしで、事件の真相は謎のまま今日に至っている。
【「爆弾テロ事件」相次ぐ】 この頃、爆弾テロ事件が相次いでいる。一括して概略確認しておく。8月30日、東アジア反日武装戦線"狼"が、東京丸の内の三菱重工を爆破、死者8名、負傷者385名。以降この種の爆弾テロが続く。10月14日、東アジア反日武装戦線が、東京・西新橋の三井物産爆破。11月25日、東京・日野市の帝人中央研究所爆破。12月19日、東京・銀座の大成建設ビル爆破。12月23日、東京江東区の鹿島建設資材置き場爆破。翌1975年2月28日、東アジア反日武装戦線が、東京・北青山の間組本社爆破。4月19日、東京銀座の韓国産業研究所、兵庫県尼崎市のオリエンタル・メタル爆破。4月28日、千葉県市川市の間組作業所爆破。5月4日、間組江戸川橋工事現場爆破。*この爆弾闘争は何を企図していたのだろうか。爆弾闘争と標的とされた企業との因果関係が不明であり、何やら胡散臭い。
【「八鹿事件」発生】 11月18日、兵庫県養父郡八鹿で「八鹿事件」が発生した。八鹿高校での同和教育を発端としていた。この事件は、八鹿高校に於ける部落解放研究会の活動を廻って、これを支持する部落解放同盟と反対する日共が抜き差しならない対立へと発展して行ったことにある。例によって日共は、デマゴギーを振りまきつつ独善的正義論を展開している。詳細は「八鹿高校解放研事件考」に記す。
(marxismco/nihon/burakukaifoundo/yokakokokaihokenzikenco.html)
【三木政権】 11月18日、東京.迎賓館で田中.フォード会談。11月26日、田中退陣表明。在任期間2年4ヶ月で終わった。金脈追求で行き詰まる。河野洋平らが離党して新自由クラブを結党。後継総裁選びが難航した。「三角大福」と云われていた福田、大平、三木、中曽根が予想された。副総裁の椎名悦三郎の裁定で三木が指名された。12月9日、三木内閣が発足する。
【日共が統一労組懇結成】 12月、日共は、日共系の労組団体の20単産(組織人員約150万人)で全国47都道府県に跨る統一労組懇を結成させた。「総評を民主的、革新的に強化する」という党の方針に基づいて総評内の日共系労組の横断連絡組織として結成された。*この時期、日共は、学生運動の鎮圧に続いて労働運動、部落解放運動、原水禁運動等々戦闘的諸運動に対して「右」からの分裂策動を仕掛けていることになる。この背後にある邪悪な意図を詮索せねばなるまい。
【日共が狭山闘争からの離脱を宣言する】 1月10日、赤旗は、「冤罪事件として確信のない事件を軽々に政治運動化することは無責任であり、狭山事件は無罪が確定していない」(「一般『刑事事件』と民主的救援運動」)と述べ、狭山闘争からの離脱を鮮明にした。日共系弁護士は、2月23日、弁護人を辞めた。党中央のこの見解は司法・検察側と全く同一の論理であって、それまで冤罪事件として一定の弁護・支援活動をしてきた行動を否定したことになる。明らかな弁護方針の転換となった。詳細は「狭山事件、裁判考」に記す。
(marxismco/nihon/burakukaifoundo/sayamazikenco/sayamazikenco.htm)
【中核派最高指導者本多延嘉書記長革マル派に虐殺される】 3.14日未明、中核派最高指導者本多延嘉書記長革マル派にテロられ死亡。革マル派は、「解放」(3.24日付)で次のように宣言、犯行を認めた。
「わが全学連の革命戦士は、反革命スパイ集団・ブクロ=中核派の頭目、書記長本多延嘉を、川口市内の隠れ家において捕捉し、これにプロレタリアートの怒りをこめた階級的鉄槌を振り下ろした」、「我々の同志難波力が襲撃されたことへの報復であり、権力と癒着している中核へのみせしめ」、「殺害を目的としたものではなかった。わが戦士の燃えたぎる怒りが激しくて、結果として死亡ということになった」。 |
中核派の怒りは凄まじく、「革マル派一人残らずの完全殲滅、復讐の全面戦争への突入」を宣言した。警視庁は19日に専従員配置を決定したが、報復は続いた。革マル派は「一方的テロ停止宣言」。しかし内ゲバを完全にやめたわけではなく、また中核派側の攻撃はおさまらず、死者は増えていくばかりとなる。この年だけで15人もの革マル派活動家が殺害された。(本件につき「中核派党史1、結党から本多虐殺まで」で別途考察)
【ベトナム戦争終結】 4月30日、解放戦線がサイゴンに無血入城し、南ベトナム・サイゴン政権のドン・バン・ミン大統領が無条件降伏してベトナム戦争(インドシナ30年戦争)終結。米軍の援助を失った南ヴェトナム軍は総崩れし、当初2年はかかると見られていた、南の制圧を驚異的な速度で進め、4月には首都サイゴンに迫った。市内はパニックになり、米軍を支援していた関係者は粛正を恐れアメリカ大使館や空港に殺到した。アメリカもサイゴンからの撤退を開始する。米大使グラハム・マーチンをはじめとするアメリカ人関係者、及び南ヴェトナム政府要人はヘリコプターで第七艦隊空母などへ脱出した。アメリカの戦死者.事故者約6万人、戦費1389億7400万ドルと発表された。ベトナム側犠牲者は200万人を超えた。
【新左翼各派が皇太子訪沖阻止闘争】 7月17日、新左翼各派が皇太子訪沖阻止闘争。電蒲田駅周辺で集会・デモを行なっていた革マル派、中核派の約200名が新橋駅山手線内回りホームで衝突。この衝突で1人が死亡、44名が重軽傷。136名が暴力行為の現行犯で逮捕されている。
【日共と公明党が「十年協定」発表】 7月27日、「創価学会と日本共産党との合意についての協定」文書(「相互不干渉・共存の十年協定」)が創価学会、日本共産党の双方から発表された。この協定は、前年の12月28日に調印されていた。後日判明したところによると、両者を取りもったのは作家の松本清張氏で1974年10月、同氏の立ち会いのもとで共産党側から上田耕一郎・党任幹部会委員、創価学会側から野崎勲総務・男子部長らが松本氏宅で会談。5回の会談を経て「日本共産党と創価学会との合意についての協定」が締結され、翌29日には松本氏宅で宮本委員長と池田会長が懇談した、と云う。協定内容の要旨は、共産党と創価学会の相互理解努力の申し合わせによる良好な関係作りを目指し、「この協定は向こう10年を期間とする。10年後は協議する」と゜云うものであった。
これにより犬猿の仲であった共産党と創価学会が歴史的に和解し、「今後、創価学会は共産主義を敵視する態度をとらない。共産党は布教の自由・信教の自由を無条件で擁護する」とする立場から政治的に共同戦線を取る可能性まで確認した。この間、共産党と創価学会は激しい支持者獲得争いが続けてきており、70年の創価学会言論弾圧問題では共産党が反創価学会キャンペーンを張り打撃を与えていただけに衝撃となった。
但し、この運命がどうなるか。この協定が発表されるや共産党はこれをあたかも「共同闘争」のように扱い宣伝攻勢を掛けた。公明党の竹入委員長、矢野書記長らには秘せられ「頭越し」であったことが判明し、このことが創価学会(秋谷.青木副会長)と公明党間に亀裂を走らせることになった。公明党が猛反発し、野崎総務は「共存の可能性を探ったものにすぎず組織的共闘は約束していない」と言明する。これに共産党が反発し、協定はすぐに形骸化した。8月、宮顕委員長が池田会長に協定順守の会見を申し込むが学会側はこれを拒否。「10年協定」は1年後には崩壊し何ら実を結ばないまま破綻することになった。
【日共が「救国.革新の国民的合意への道宣言」発表】 7月30日、日共の委員長・宮顕は、代々木の党本部で記者会見を行い、「救国.革新の国民的合意への道を寛容と相互理解にたってー今日の政治的、経済的、道徳的危機から抜け出し、日本民族の進路を民主的に確立するために」を発表した。宮顕は、記者会見の席上、この提案を基礎に「一握りの反民族的反動勢力を除く善意ある保守主義者も含め99%の圧倒的多数の国民的合意」を訴えた。*「善意ある保守主義者も含める」の是非は別として、従来の民主連合政府構想の際の統一戦線基準から勝手に抜け出した「新種新型の統一戦線論」を打ち出したことになるが、その真意はどの辺にあるのだろう。要するに右傾化方向へ更に舵を切ったということでしかなく、理論的解明はいかほども為されていないことを見ても臭い話でしかない。
【日本赤軍によるクアラルンプール事件】 8.4日、日本赤軍によるクアラルンプール事件発生。和光.奥平.日高と他の3名の6名でマレーシア・クアラルンプールの米、スウェーデン両大使館を占拠、アメリカ領事などを人質にし、同年3月スェーデンのストックホルムで逮捕され、日本に強制送還された西川純ら2人と他の獄中赤軍メンバーの釈放を要求、政府は超法規的に5人を釈放、クアラルンプルに送る。の釈放を要求した。日本政府はこれに応じ「超法規的措置」で獄中7名の釈放が決められた。西川.戸平.元赤軍派坂東国男.松田久.東アジア反日武装戦線佐々木則夫らが釈放され、リビア入りした。
【天皇訪米阻止闘争】 9月30日、天皇訪米阻止闘争。羽田周辺でデモ。*日本左派運動は、確たる理論としての天皇制論を持っていない。情緒的反天皇制論のままに情念的な運動をしてみても何の役にも立つまい。天皇制論は、戦前来からの日本左派運動に課せられた宿題であり、今なお早急な理論構築が望まれている。日共的なネオシオニズム・テキストに沿うだけの反天皇制論に代わる新左翼的な論が待ち望まれているのではなかろうか。戦後憲法プレ社会主義論に立つ筆者史観によれば天皇制論は一筋縄では理論化できない。当面は憲法第一章の天皇規定の枠内の活動であれば是認し、これを超える政治的利用を弾劾する姿勢を確立すべきではなかろうか。のべつくまなき反対闘争は有益ではないと思う。
【公労協のスト権スト不発】 11月26日、国鉄総裁の藤井松太郎が国鉄当局の見解として条件つきでスト権付与を認る考えを明らかにし、労組側はこれを好機と捉えて三公社五現業の総評系9組合全てが参加した公共企業体等労働組合協議会(公労協)がスト権奪還ストに突入した。ところが足並みそろわず気勢上がらず失速する。12月1日、三木首相が「ストに屈しない」との声明を発表した。国労と動労はただちにスト中止に動き、12月3日までの8日間でストは収束した。この頃より、1960年後半から70年代前半にかけてマル生粉砕闘争、アジ電車等で名を高めた「鬼の動労」の実質的な最高指導者(当時は東京地方本部委員長、1985年に動労中央本部委員長に就任する)にして革マル派最高幹部bQの松崎明が、「職場と仕事と生活を守ろう」、「驕る平家は久しからず。イデオロギーで飯が食えるか」と云い始め、労使協調路線に転換する契機となる。これにより、松崎は「資本の軍門に下った」、「当局の下女」、「鉄労以下」と批判を浴び始める。
【戦旗派(西田派)が沖縄訪問の皇太子夫妻に火炎ビン攻撃】 12月17日、戦旗派(西田派)が、沖縄訪問の皇太子夫妻に「ひめゆりの塔」で火炎ビンを投擲する事件を引き起こす。*「皇太子夫妻への火炎ビン投擲」に何らかの正義があるだろうか。小児的対応のような気がしてならない。天皇訪米阻止闘争の項でも述べたが天皇制論なしの闘争は闇雲な闘いであり、左派運動の採るべき態度ではなかろう。