埼玉でララミー牧場に入れこんでいた頃に、偏屈な深沢七郎は「盆栽老人とその周辺」を書いている。埼玉でも大宮近辺が盆栽の本場らしく、五年ほど前の今の時期に朝市で紅梅を買ったのだが、翌年はつぼみを付けぬので鉢から外植えに戻しても何の動きもない。だが突然に、今春に五年ぶりに芽吹いたのだ。死んだように見えて梅は生きていたとの感慨は深く、これなら他も何とかなるかと高麗でもらった小鉢に水をやっているが、まだ良き兆候はない。
思い返すと切花より植物自体に向かう私の関心は、思想や運動でも同様のようだ。どんな高邁な思想も人間の頭が生み出した以上は、容器としての人間の身体を通して生きる。ブント事務局長だった生田浩二が焼死した後に、新聞の記事を見て発行所の小長井法律事務所に「生田夫妻追悼記念文集」を買いに行ったのは1967年だった。生田は日共の所感派から国際派を経てブントに至るが、私が読んだのは政治に翻弄された高邁な精神だった。後で生田はSECT6議長の福地氏の兄の高校時代の同級生だったことを知り、だからSECTかああなったのと納得できた。
ブントに関わった後も、何でブントは火花のように散ったのかに大きな関心があった。どの観点から眺めても、ブントの学生中心幹部の清水丈夫や北小路敏やの革共同移行に理を見出せなかったからだ。だが輝ける安保全学連委員長の唐牛健太郎も一時は革共同に移り、ブント系による全学連乗っ取り策の共学同構想が露呈してわずか一年余で離脱している。唐牛はその後は、田中青玄の関連会社、堀江マリン、居酒屋石狩店主、与論島で土方、紋別で漁師、電算機会社、徳州会支援と仕事を転々とし、わずか47歳の若さでガンで没する。
84年の唐牛に続き、86年には松本礼二が57歳、2000年には島成郎が69歳で没する。70年前後の叛旗派関係者のほとんどは唐牛より長命であり、全共闘関係者の多くも松本礼二より長命なのだ。また60年安保世代の生き残りは島成郎の没年齢を超えており、まさに安保は遠くなりにけりである。こんな事情を勘案すると、世に社会矛盾が累積し不正がはびこるとも、各自が今または今後に何ができるかは年齢に応じた作業とならざるを得ない。
唐牛健太郎も、松本礼二も、島成郎も死後に追悼・遺稿集が出ているが、名実共にもっとも内容が充実しているのは唐牛健太郎追想集であろう。執筆者の多くは油の乗り切った40~50代の働き盛りだし、時はバブルへの高揚期で、まだ終身雇用制が残るなか、放浪児・唐牛健太郎へのマスコミの関心も高かった。我が身を別においての唐牛礼賛が乱出する中で、思想的に奥深いのは長崎浩の「抽象的な悼辞」だ。長崎は膨大な安保世代の誰もが納得する共通項こそ唐牛健太郎だったとし、だからこそロイヤルティを体現する彼は「ちゃんとした商売」に就くことを禁じられ「ぶらぶらして」いなくてはならなかったと書く。
さらに長崎は唐牛が死んで散在する安保世代は(革命的決起への)幻の召集令状の署名者を失ったのだと慨嘆し、自分は「これまで毎日、革命のカの字ぐらいについては考えてきた。しかしもうやめた」と結ぶ。長崎らは78年から79年に掛けて「遠方から」四人組として、極秘裏に政府と三里塚空港第二期工事凍結交渉に全力傾注し挫折した経緯がある。ブントから出て革共同に移り、内ゲバ路線を推進してきた清水丈夫の手法が日共型の党派優先主義の完成型であり、今の九条の会のマヌーバー的大衆組織の支持母体の主流が反清丈派である点を考えると、当時の長崎の射程は遠く目配りは広く覚悟は潔く見える。
私は前に安保世代と比較して、全共闘は何百人もの唐牛を生み出したと書いた。東大闘争では長谷川浩や山本義隆は大学教授職を望まず、独自の地歩を築いている。他方で時折はテレビに出る日大の秋田明大は因島の自動車工場主らしいが、楽しそうな様子は伝わってこない。他方で多くの定年近くの団塊世代が一言居士として浮上しているが、老後の自己納得と時間つぶしに見える。身近ではタイのサムイ島に住む上原などは代表格だろうし、定職を持たずに世をすねた形の私なども類似品だ。だが私らは何十年も自らの筋を通した結果が現在なので、どのように糧を得て恥じることなく生き延びるかは思想問題なのである。
だが唐牛自身は「ぶらぶら」をどう受け止めていたのだろうか。唐牛にもっとも近かった東原吉伸は、長崎浩と別の観察結果を述べる。唐牛を全学連のスターにしたのは清丈のオルグ力であり、スターにされたその後の唐牛の内心は焦燥と悲嘆と哀愁に充ちていたというのだ。私の内心にはそんな憤怒なぞなく、ストレスを少なくする非国家主義の立場からは召集令状なぞは無縁であり、「楽しいことをやっただけ」という点では唐牛の独言に近い。交友圏の広さが長命の秘訣だとするなら、死病に魅入られた者も含めてまだまだ生きるだろう。とすると生涯を貫き得る思想は、無数の人間の生死のうちに宿っている筈だ。
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