学生運動活動家列伝、学生運動活動家のその後の履歴考その3

 

 更新日/2025(平成31.5.1栄和改元/栄和7)年4.5日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 本サイトで、「学生運動活動家列伝、学生運動活動家のその後の履歴考」をしておく。以下、全学連活動家史を記そうと思う。ところが、既成のものではない。ネット検索に出てこない。困難を極めるが、筆者が辿ってみる。アバウトになるのは致し方ない、ないよりはマシだろう。

 2007.10.20日 れんだいこ拝


 マイ・センチメンタル・ジャーニー 2
 2月9日、先輩の芝田勝茂さんの講演会に参加しました。昨年東京・神田に出来た児童書専門書店の小ホールで約30人ほどの方々が集まり盛況でした。司会の方は学生運動に関わったと聞き、私と垣沼さんを除いたら、若い女性が多く、同志社と違い学生運動などまるで別世界のことのようでした。芝田さんが使ったスライド、これが昨年同志社での講演で使ったものをそのまま使い、「これが〝キリン部隊〟(注;旗竿を数多く立てたらキリンのように見えるのでこう呼ぶ。別掲写真)です……」などとご説明、若いキャピキャピの児童文学のファンにわかるわけないじゃないですか(苦笑)。アウェイ感が強く、講演の後の懇親会は遠慮させていただきました。翌日、一昨年亡くなられた同志社の先輩2人の追悼集を作ってくれというので、名古屋で途中下車して打ち合わせ。最近亡くなる先輩や同級生も、まだ多くはないがボチボチ出てきました。こういう文集を頼まれたら、儲けなど関係なく、できるだけ引き受けるようにしています。「少しは利益を取ってくれよ」と言われても、こんなことで儲けるほど私...も落ちぶれてはいませんよ。
 それはともかく、打ち合わせが一服したところの雑談で一人の先輩が、「今、日経新聞の『私の履歴書』で『無印良品』の元会長が書かれていて、学生の頃『中核派』で逮捕されたということだよ」との話が出ました。早速新幹線に乗ったらスマホで検索、読ませていただきまし。無印の元会長の松井忠三氏は、1968年に教師を目指し東京教育大学(現・筑波大学)に入学、翌69年4・28沖縄闘争で逮捕され、教師の道を断念せざるをえなくなり、故・堤清二氏率いる「西友」に入社、その後、子会社の無印に転籍し、現在の規模にまで大きくされた人だということです。詳しくは同記事を読んでいただきたいですが、このように、学生運動経験者で、日本を代表するような企業の経営者も少なくありません。すぐに想起されるのは、東の「すき家」、西の「がんこ寿司」か。「すき家」は今やブラック企業の代表格のように言われていますが、かつて「タカラブネ」という洋菓子チエーンがあり、人の好い、学生運動のリーダーだった新開純也さんが社長に就いた数年後に倒産しました。締め付けを厳しくするとブラック企業と呼ばれ、人が好い経営者だと経営が傾く……難しいところです。
 鈴木敏文氏は、言うまでもなくセブン‐イレブンを今のように大きくした人ですが、若い頃鈴木氏は、学生時代は自治会活動に、卒業後は出版取次最大手・東販(東京出版販売。現・トーハン)に入社し組合活動に熱中し委員長だか書記長だったということです。退社の経緯は判りませんが、イトーヨーカ堂に転職してアメリカに視察に行かされコンビニが流行っていることを知り、日本にコンビニを持ち込みセブン‐イレブンを作りました。
 先の芝田さんの1年後輩(1969年入学)、私の1年先輩にU・Mという人がいます。芝田さんや私と2年ほど一緒に学生運動をやりました。U・Mさんは工学部自治会委員長として当時の運動の中心に在った人です、弁が立ち理論家でした。カッコよく、ちょっとキザでした(笑)。芝田さんが三里塚で逮捕された後、一緒に三里塚に行ったこともあり、71年~72年にかけての学費値上げ阻止闘争を共に闘いました。そのU・Mさんが、草創期のセブン‐イレブンの経営に関わり、セブン‐イレブン・ジャパンの常務取締役で退社されています。現在はコンサルティング会社を経営されているようです。セブン‐イレブン・ジャパンに入社されたのは1978年ということですが、大学を卒業されたのは73年、5年間がブランクになっています。この時期、彼のグループは、カツラの販売会社に入り、これが倒産したと風の便りに聞いていましたので、苦闘された時期だったようです。しかし、さすがにモノが違います。セブン‐イレブンを今のように大きくした立役者の一人ですからね。立場や職種は違っても、若い頃に共にあった人が成功しているのを見るのは嬉しいものです。芝田さんにしろU・Mさんにしろ、大変な苦労を経て今のようなポジションを獲得したものと思いますが、そうした先輩方が頑張り成功しているのを見ると、私も頑張らないと……と、あらためて気持ちを引き締めるものです。闘争勝利!
[写真]①「キリン部隊」 71年4・28日比谷野音で。②69年4・28沖縄デー(「私の履歴書」に使われているもの)

【元全学連委員長の藤本敏夫死去】
 2002.5.31日、元反帝全学連委員長で環境問題にも取り組んだ藤本敏夫氏が肺炎で死去した(享年58歳)。通夜・葬儀は親族のみで行う。「お別れ会」は18日午後1時から東京都港区南青山2の33の20の青山葬儀所で。喪主は妻で歌手の加藤登紀子さん。連絡先は渋谷区千駄ケ谷5の16の10の1001の「トキコ・プランニング」。

 68年、反帝全学連委員長として、防衛庁や国会に突入を図り、逮捕された。交際中の加藤さんは、その時の寂しさを「ひとり寝の子守唄(うた)」で歌った。2人は72年に「獄中結婚」し、話題を呼んだ。有機農業などに取り組み、92年の参院選に立候補したが落選した。加藤さんは「彼が必死の思いで残した未来への夢を受け継ぎ、やり遂げたい」とのコメントを発表した。 (朝日新聞21:58)


【元全共闘リーダー、民主参院議員の今井澄死去】
 2002.9.1日、民主党参院議員の今井澄(いまい・きよし)氏が胃がんのため長野県茅野市宮川11112の3の自宅で死去した(享年62歳)。葬儀は8日午後2時から同市仲町1の22の茅野市民会館で。喪主は長男拓(たく)氏。

 旧満州(中国東北部)のハルビン生まれで、東大医学部卒。学生時代に学生自治会中央委員会議長に選ばれ、全共闘リーダーとして東大闘争を指導。安田講堂事件では最後まで講堂に立てこもった。卒業後は医師となり、諏訪中央病院院長などを務めた。92年、参院長野選挙区から旧社会党公認で初当選。98年、参院比例区に転じ、民主党で当選、2期目だった。


【革マル派の最高指導者・黒田寛一逝去】
 2006年6月26日、日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派(革マル派)最高指導者の黒田寛一氏が肝不全のため逝去(享年78歳)。旧制東京高等学校中退後、出版社「こぶし書房」を自営。マルクス主義研究サークルである「弁証法研究会」(ミニコミ誌「探究」)を主宰し、その傍らマルクス主義の研究、著作を重ねた。太田龍らとともに日本トロツキスト連盟を結成。太田派の離脱(「第一次革共同分裂」)を経て、1957年12月、黒田は革命的共産主義者同盟(革共同)の議長に就任。1959年初頭、黒田自らが組織情報を警視庁に売ろうとしていた事件が発覚し、同年8月の革共同第一回大会で「スパイ行為という階級的裏切り」として除名される。この時、黒田とともに「革命的マルクス主義グループ」(RMG)の実務を担っていた本多延嘉は黒田を弁護し、本多は除名された黒田の後を追って革共同を離党し、黒田とともに革命的共産主義者同盟全国委員会を結成する(「革共同第二次分裂」)。1962年、第6回参議院議員通常選挙全国区に党公認で出馬するが落選。1963年2月、情勢認識や党建設方針をめぐって本多派と対立を深め、革共同全国委員会は本多らの「全国委員会」と黒田が率いる日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派(革マル派)に分裂する(「革共同第三次分裂」)。これにより、革命的共産主義者同盟は革共同、中核派、革マル派の3派に分裂した。1996年10月、黒田は健康上の問題を理由に議長を辞任するものの、死去するまで革マル派の最高指導者であり続けた。

【太田龍逝去】
 2009年5月19日、太田龍(おおた りゅう、本名・栗原登一くりはらとういち)が腹膜炎のため逝去(享年)。 元日本革命的共産主義者同盟(第四インターナショナル日本支部)委員長。1970年代に入ってアイヌ解放運動、自然食運動の始祖桜沢如一の革命理論を取り込み環境保護論、反家畜制度論に至る。続いてフリーメーソン論、イルミナティ論による歴史的ユダヤの秘密結社論、国際金融資本論に向かう。

【初代全学連委員長・武井昭夫逝去】
 2010年9月2日、初代全学連委員長・武井昭夫(たけい・てるお、文芸評論家)氏が尿管がんのため川崎市の病院で死去(享年83歳)。東大在学中の1948年、全日本学生自治会総連合(全学連)を結成、初代全学連委員長となる。「層としての学生運動論」を著し、学生は階級闘争の主体足り得ると唱え、徳球系党中央の指導に反発し、1950~60年代の学生運動に大きな影響を与えた。1952年、当時「所感派」、「国際派」などに分裂していた日本共産党の東大支部において、当時「国際派」だった不破哲三らに対して、全学連武井グループは「警察のスパイ」の疑いで「査問」を行った。「査問」は実質的には激しいリンチとなり、武井自らが先頭きって暴行した、と安東仁兵衛は著書『戦後日本共産党私記』で証言している。不破はとりわけ激しく殴られ、顔が二倍に膨れ上がるほどだったという。その後、大西巨人らとともに新日本文学会の中心的な存在となる。

 1958年、第7回党大会での綱領論議のころから、当時の指導部と対立を深め、1960年の安保闘争のときに、党の政策に反対する声明「さしあたって、これだけは」を谷川雁たちとともに発表し、規律違反として除名されている。1964年、新日本文学会の第11回大会にあたって、会の事務局長をつとめていた彼は、事務局長の名で発表する幹事会報告に、部分的核実験禁止条約への肯定的評価を盛り込むなど、当時の文学運動内部にあった意見の相違をあえてクローズアップし、新日本文学会からの共産党の影響を排除しようとした。そして、大会で報告に反対の意見書を出した江口渙たちを大会後に除籍する先頭に立った。しかし、その後は、1970年には新日本文学会からも離れ、政治党派「活動家集団思想運動』」(機関紙:『思想運動』、機関誌:「社会評論」、発行:土曜美術社出版販売)を組織し言論活動を行っていた。政治党派「思想運動」は、ソ連、キューバ、北朝鮮などの「既成社会主義体制」の全面的支持に近い立場をとり続けている。2002年、北朝鮮金体制による「日本人拉致」を金正日が認めた際には、武井は機関紙上において「共和国は拉致しただけだが、日帝は朝鮮女性を拉致した上に強姦した」と述べている。主な著書に「層としての学生運動」、「武井昭夫批評集」、「武井昭夫状況論集」、吉本隆明氏との共著「文学者の戦争責任」などがある。

【連合赤軍事件の主犯・永田洋子(ひろこ)が逝去】
 2011.2.5日、法務省発表によるとこの日、1971年から72年にかけて大量リンチ殺人などを起こした連合赤軍事件の主犯として、死刑が確定していた元最高幹部の永田洋子(ひろこ)死刑囚(65)が、収容されていた東京・小菅の東京拘置所内で死亡したと2.6日、正式に発表した。死因は多臓器不全。永田死刑囚は脳萎縮、誤嚥(ごえん)性肺炎で治療中だったが、病状が悪化した。

【叛旗派の最高指導者であり続けた神津陽氏が逝去
 2025年4月14日午前4時20分、かねて病気療養中の叛旗派の最高指導者であり続けた神津陽氏が逝去した(享年80歳)。
 2008年 3月 2日、神津陽「生涯を貫き得る思想雑感」。
 埼玉でララミー牧場に入れこんでいた頃に、偏屈な深沢七郎は「盆栽老人とその周辺」を書いている。埼玉でも大宮近辺が盆栽の本場らしく、五年ほど前の今の時期に朝市で紅梅を買ったのだが、翌年はつぼみを付けぬので鉢から外植えに戻しても何の動きもない。だが突然に、今春に五年ぶりに芽吹いたのだ。死んだように見えて梅は生きていたとの感慨は深く、これなら他も何とかなるかと高麗でもらった小鉢に水をやっているが、まだ良き兆候はない。

 思い返すと切花より植物自体に向かう私の関心は、思想や運動でも同様のようだ。どんな高邁な思想も人間の頭が生み出した以上は、容器としての人間の身体を通して生きる。ブント事務局長だった生田浩二が焼死した後に、新聞の記事を見て発行所の小長井法律事務所に「生田夫妻追悼記念文集」を買いに行ったのは1967年だった。生田は日共の所感派から国際派を経てブントに至るが、私が読んだのは政治に翻弄された高邁な精神だった。後で生田はSECT6議長の福地氏の兄の高校時代の同級生だったことを知り、だからSECTかああなったのと納得できた。

 ブントに関わった後も、何でブントは火花のように散ったのかに大きな関心があった。どの観点から眺めても、ブントの学生中心幹部の清水丈夫や北小路敏やの革共同移行に理を見出せなかったからだ。だが輝ける安保全学連委員長の唐牛健太郎も一時は革共同に移り、ブント系による全学連乗っ取り策の共学同構想が露呈してわずか一年余で離脱している。唐牛はその後は、田中青玄の関連会社、堀江マリン、居酒屋石狩店主、与論島で土方、紋別で漁師、電算機会社、徳州会支援と仕事を転々とし、わずか47歳の若さでガンで没する。

 84年の唐牛に続き、86年には松本礼二が57歳、2000年には島成郎が69歳で没する。70年前後の叛旗派関係者のほとんどは唐牛より長命であり、全共闘関係者の多くも松本礼二より長命なのだ。また60年安保世代の生き残りは島成郎の没年齢を超えており、まさに安保は遠くなりにけりである。こんな事情を勘案すると、世に社会矛盾が累積し不正がはびこるとも、各自が今または今後に何ができるかは年齢に応じた作業とならざるを得ない。

 唐牛健太郎も、松本礼二も、島成郎も死後に追悼・遺稿集が出ているが、名実共にもっとも内容が充実しているのは唐牛健太郎追想集であろう。執筆者の多くは油の乗り切った40~50代の働き盛りだし、時はバブルへの高揚期で、まだ終身雇用制が残るなか、放浪児・唐牛健太郎へのマスコミの関心も高かった。我が身を別においての唐牛礼賛が乱出する中で、思想的に奥深いのは長崎浩の「抽象的な悼辞」だ。長崎は膨大な安保世代の誰もが納得する共通項こそ唐牛健太郎だったとし、だからこそロイヤルティを体現する彼は「ちゃんとした商売」に就くことを禁じられ「ぶらぶらして」いなくてはならなかったと書く。

 さらに長崎は唐牛が死んで散在する安保世代は(革命的決起への)幻の召集令状の署名者を失ったのだと慨嘆し、自分は「これまで毎日、革命のカの字ぐらいについては考えてきた。しかしもうやめた」と結ぶ。長崎らは78年から79年に掛けて「遠方から」四人組として、極秘裏に政府と三里塚空港第二期工事凍結交渉に全力傾注し挫折した経緯がある。ブントから出て革共同に移り、内ゲバ路線を推進してきた清水丈夫の手法が日共型の党派優先主義の完成型であり、今の九条の会のマヌーバー的大衆組織の支持母体の主流が反清丈派である点を考えると、当時の長崎の射程は遠く目配りは広く覚悟は潔く見える。

 私は前に安保世代と比較して、全共闘は何百人もの唐牛を生み出したと書いた。東大闘争では長谷川浩や山本義隆は大学教授職を望まず、独自の地歩を築いている。他方で時折はテレビに出る日大の秋田明大は因島の自動車工場主らしいが、楽しそうな様子は伝わってこない。他方で多くの定年近くの団塊世代が一言居士として浮上しているが、老後の自己納得と時間つぶしに見える。身近ではタイのサムイ島に住む上原などは代表格だろうし、定職を持たずに世をすねた形の私なども類似品だ。だが私らは何十年も自らの筋を通した結果が現在なので、どのように糧を得て恥じることなく生き延びるかは思想問題なのである。

 だが唐牛自身は「ぶらぶら」をどう受け止めていたのだろうか。唐牛にもっとも近かった東原吉伸は、長崎浩と別の観察結果を述べる。唐牛を全学連のスターにしたのは清丈のオルグ力であり、スターにされたその後の唐牛の内心は焦燥と悲嘆と哀愁に充ちていたというのだ。私の内心にはそんな憤怒なぞなく、ストレスを少なくする非国家主義の立場からは召集令状なぞは無縁であり、「楽しいことをやっただけ」という点では唐牛の独言に近い。交友圏の広さが長命の秘訣だとするなら、死病に魅入られた者も含めてまだまだ生きるだろう。とすると生涯を貫き得る思想は、無数の人間の生死のうちに宿っている筈だ。

 2008年04月19日神津陽 「かくも無惨な青春!「実録・連合赤軍」映画評」。
1、
 エロや暴力に着眼し一世を風靡してきた若松孝二の、執念を込めた映画「実録・連合赤軍」を縁があって観た。若松はかつて映画の盟友の足立正生を71年に訪ね「赤軍―PFLP 世界戦争宣言」を作り、その縁からか赤軍関係にことのほか関心が深い。赤軍派や末路の連合赤軍を冷静に描かんとの意欲も彼なりの落とし前のつけ方もよく分かる大作だが、遠山美枝子らへの森恒夫や永田洋子のイジメと査問と執拗な殺害劇が時代への鎮魂になり得るか疑問だ。私は連合赤軍を論評する気はないが、無惨な青春劇にあえて一言しておく。

  若松孝二に連合赤軍を称揚する意図はなく、むしろ連合赤軍を契機に新左翼は失速したとの認識を持っている。だが他方で若松は連赤が新左翼に危機をもたらしたのだとしても、彼らはなぜそこまで追い込まれたのかを考えろと迫り、死ぬ覚悟もない連中が森恒夫批判などできまいと殺し文句を付す。この観点から若松は60年安保を起点とする新左翼の歩みの単線的帰結として連合赤軍を押さえ、映画の副題を「あさま山荘への道程」と名付ける。この手法では観客は、逸脱した連合赤軍がまるで新左翼の末路だったと考える迷妄に陥る。

2、
  映画は時系列に沿い目配り広く60年安保以来の新左翼運動史を実写フィルムで押さえ、原田芳雄のナレーションでつなぎ、中国文化大革命を下敷きに処刑された遠山美恵子とアラブに飛んだ重信房子が出会う明大学費闘争に絞る。そこから10・8羽田、佐世保エンプラ、ベトナム反戦、パリ五月革命とニュースを流し、政治運動との差異や比較もなく日大全共闘の登場、68年10・21、69年安田講堂攻防戦を並べてゆく。彼はここで立ち止まらず、連合赤軍に近づくための党派主導の新左翼史の歴史的序章部と扱う。

 その後はニュースと調査した史実復元の手法で視野をブント関係に絞り、ブント内での赤軍派形成と分派闘争、大菩薩峠での福ちゃん荘での赤軍派大量逮捕、69年秋期決戦敗北、関西派のさらぎ氏拉致事件で日和って逃げた森恒夫復帰、赤軍派塩見孝也議長逮捕へと続く。更に70年3月の田宮らの北朝鮮へのよど号ハイジャック、反動としての警察の全面的弾圧による赤軍派逮捕増大、70年安保闘争の壮大なるゼロとしての終了までが、本映画の第1部だがブント系活動家は誰でも知っている内容だ。

 次に本編に入り70年末の京浜安保共闘の上赤塚交番襲撃失敗、追われる赤軍派との合同会議。更に安保共闘の銃確保、赤軍派の郵便局や銀行強盗のM作戦、銃撃戦の基本目標の近い双方の銃と現金の交換までの準備期を、全体の第2部として押さえてよい。戦前の日共には弾圧に抗しての、銀行ギャングやピストル使用の前歴がある。連合赤軍の銃撃戦路線も弾圧の結果としての山岳根拠地への退却であり、窮地からの戦争怒号に普遍的意味はない。

 この先に71年7月の赤軍と京浜安保の残党合同化、山岳根拠地への転戦。連合赤軍としての一緒の団子生活、査問と惨殺が次から次へと続く。山岳ベースでの処刑劇を不可避だったと言う当事者もいるが、私は森恒夫と永田洋子を頂点とする上命下服の党組織こそ解体対象だったと考える。その後の72年2月末の浅間山荘銃撃戦は勇猛果敢だが、14名の処刑への贖罪としての徹底抗戦の趣旨が明確なので、トータルに映画本編としての第3部と見た方がよい。

3、
  この映画の基本的失敗は、新左翼党派史に全共闘や三里塚を組み込み、その帰結を連合赤軍とした構成だ。赤軍派議長の塩見孝也は映画完成を正当な歴史記述と歓迎しつつ、赤軍と同志殺しの連合赤軍は別物だと強調する。冗談じゃない、全共闘や三里塚の先駆性を皆目分からず、前衛党による国家権力奪取を主張した赤軍的思考こそ連合赤軍の母なのだ。赤軍も連合赤軍も自らのガンが国家主義=前衛主義だと、いまだに気付かない。国家論=組織論だとの認識の欠如は、内ゲバの果ての中核や解放や革マルも同様だ。私は出所したばかりの塩見に四国88箇所巡礼を勧めたがビョーキは治らず、年長の若松もこの病に冒されているようなのだ。

 連合赤軍は密室の山小屋での無惨な粛清劇を、銃撃戦による権力奪取を担う主体的共産主義化として正当化した。だが当時も今も先進国に銃撃戦的現実はなく、自分らの銃強奪や銀行強盗への弾圧への反撃を一般化はできない。また主体的共産主義化は黒田寛一のプロレタリア的人間形成の論理と酷似する、古典的観念的人間観だ。戦略と主体の結合軸は、国家権力奪取に向けた前衛党形成論で、モデルなき共産主義的主体形成論が党幹部独裁を支えた。かつてのアラブや今のイラクやミャンマーやチベットに感情移入する手法を外すと、現実無視の革命戦争論は無意味で、内部粛清や内ゲバを正当化する前衛党に外部の一般大衆が同調する訳がない。

 若松は新左翼の帰結としての連合赤軍を末路まで追ったが、その塩見流の手法は新左翼50年を単線化する党派や党派活動家の回顧談や自己正当化の根拠となっている。だがこの若松の新左翼主導的手法では、逆に同時代に起きた前衛党による国家権力奪取との革命観を超えうる可能性を読み切れない。そこで新左翼指導に注目すればするほど、世界レベルの<68年革命>の日本での推進力だった全共闘運動やその深化・展開を理解できぬこととなる。

4、
  新左翼主軸の回顧史は党指導の流れへの注目となり、本映画では赤軍・連合赤軍関係者の著書や談話がシナリオのベースとなっている。若松の今回の大作は史実に基づき実名主義を採っているが、そのベース故の歪みが本映画の欠陥を生んでいる。タイトルが連合赤軍のため革命左派は23名。旧赤軍派は17人も実名で登場するのはよい。だが情報が赤軍塩見系に偏っているだめに、少数派の赤軍がブント議長をリンチして墓穴を掘るに至る恥ずべき分派形成史を正当化し、あまつさえ内部抗争では人名を含めてウソばかりの羅列となっている。

  映画では69・7・6明大和泉校舎を襲撃した赤軍派塩見が自分らが傷つけたブント議長さらぎ氏を病院に連れて行くよう関東派幹部の高橋に頼み、高橋は側の重信に「こんなの革命じゃない」と激怒。次に関東派が報復に東京医科歯科大に押しかけ塩見ら幹部を拉致し、残された重信は私も赤軍派だから拉致せよと高橋に迫るが、高橋は「重信はここに残れ」と説得。更に関東派はバリケード封鎖中の中大内に塩見・花園・物江・望月を連行し、高橋は塩者の指をつぶし「これでゲバ棒は持てないぞ」と恫喝する。だがブント内に関東派などなく、塩見をいさめるさらぎ徳二や松本礼二は右翼反対派だとされる。また当時の中大に高橋はいたが、全国全共闘書記局員に出る合法的役割だ。赤軍正当化のエピソードのことごとくはウソなのだ。

 確認できる事実を列挙しよう。赤軍派は破防法で手配されていたさらぎ氏を7・6にリンチし警察に渡す暴挙を引き起こした。急遽連絡を受けた中大社学同は医学連幹部を案内役に医科歯科大に押しかけた。全国動員の赤軍派精鋭部隊は半数30名の中大社学同に30分で粉砕され、塩見は直ちにさらぎ襲撃や叛旗派右派規定を自己批判した。建前はブント防衛だが、中大社学同には前年の学費闘争完全勝利への学対部長塩見の妨害への怒りもあった、赤軍派全員を聖橋からニコライ堂沿いに連行途中に、田宮は恥知らずにも御茶ノ水交番に逃げ込む。中大に着いて首実験をし塩見ら幹部4名を残し他は釈放した。拘束20日後にバリケード維持の方が重要なので明日に解放方針を伝えると、面子丸つぶれを恐れてかその夜に塩見らは窓のカーテンを結んで逃げた。体力不足の望月はそこで落下したが、関西派は望月は関東派に殺されたとホラを吹いた。もし拉致時に中大社学同が党派主義だったら半殺しだったよと、99年の京大11月祭の対談で私は塩見に説明したが彼は都合の悪いことはすぐ忘れるようだ。

 これらの赤軍派形成の情けない事実が若松に正確に伝わっていたら、シナリオも変わっていた筈だ。塩見も全国動員の赤軍派が個別中大社学同部隊に簡単に粉砕された事実を直視すれば、後からウソを綴る恥を重ねずに済んだだろう。大冊の「実録・連合赤軍」映画パンフを見ると、高橋だけ名がなく、23名もの特別寄稿は革命運動の暗部を描いた若松孝二や連合赤軍の悲劇への同情に満ちている。三上治は親鸞の機縁論を引くが、機縁があれば自分も同じになり得るとの宗教論だ。人民を指導する革命党派の傲慢が連合赤軍を生んだと指摘し得たのは、元日大全共闘の橋本克彦だけだ。この若松映画が古い新左翼優位観へ逆転することを危惧し、68年以降の反権力運動の母体たる全共闘とその後を描く映画はできぬものかと願う次第だ。






(私論.私見)