義民/作兵衛

 更新日/2017(平成29).11.2日

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 (れんだいこのショートメッセージ)
 本サイトで、「別章【義民運動史考】」を確認しておく。

 2016.1.10日  れんだいこ拝


義民/作兵衛
 2017(平成29).11.2日付デイリースポーツ22面「“義民”作兵衛の信念」参照。
 江戸時代中期、1688(元禄元)年、作兵衛が伊予松山藩の筒井村(現在の伊予郡松前町)に生まれる。43歳のときに妻を亡くす。1732(享保17)年、享保の大飢饉が日本を襲った。長雨が続き、大量のウンカが発生し穀物を食い荒らした。これにより全国で1万2千人が餓死した。

 伊予松山藩の被害が特に大きく、5千7百人が餓死したという。伊予松山藩の年貢は特に厳しかった。当時、全国的には40-60%の年貢が課せられていたが、伊予松山藩では90%。農民の主食は米ではなく麦だった。作兵衛も野良仕事の途中に倒れ、隣人の助けにより家まで運び込まれた。作兵衛の家には一ト(18リットル)の麦種の蓄えがあった。それを食べるように勧められた。が作兵衛は食べることを拒んだ。「農は国の本、種子は農の本、自分の命より尊い。一粒の種子は来年に百粒、千粒になる。身を犠牲にして幾百人の命を救うことができれば本望」と諭し続けた。9.23日、餓死した。

 作兵衛の死に遭い、松山藩は年貢の軽減、免除に踏み切った。その後も、作兵衛の覚悟が人々の心を動かした。死から44年後の1776(安永5)年、伊予松山藩藩主の松平定静は、作兵衛を『義農』と称え碑の建立を指示し、翌年に完成させた。

 1881(明治14)年、愛媛県伊予郡松前町に義農神社が建てられた。「義農之墓」と彫られた大きな墓石。伊予鉄道の松前駅下車。県道326号に沿って北へ徒歩5分。

 1990年4月、歌手の水前寺清子が、星野哲郎作詞の「義農作兵衛」をシングル盤で発表。義農神社に歌詞の碑文が建てられている。

 1990年8月、俳優の高倉健が、地元の実業家の坪内寿夫の招きに応じ義農神社を訪れ、松前兆民が見守る中で社殿と作兵衛の像の間に桜の木を植樹している。




(私論.私見)