よど号赤軍派史 |
(最新見直し2008.9.11日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、よど号赤軍派史を確認しておく。 2008.1.28日 れんだいこ拝 |
【よど号ハイジャック事件の背景考】 |
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1970(昭和45)年3月31日、赤軍派9名による日航機よど号乗っ取り事件(ハイジャッ ク)が発生した。「フェニックス作戦」と名付けられたこの作戦は日本で初のハイジャック事件となった。犯人グループは出発時に次のように声明している。
ハイジャック犯は、当時の漫画「あしたのジョー」主人公の矢吹丈になぞらえ、「燃え尽きるまで闘う」ことを誓っていたことになる。「あしたのジョー」は、高森朝雄(梶原一騎)原作、ちばてつや画による「巨人の星」と並ぶ梶原の傑作作品である。その内容は、東京・浅草山谷のドヤ街に、ふらりと現われた矢吹丈(ジョー)と名乗る少年のボクシング活劇で、ジョーは、野菊島の東光特等少年院で終生のライバルとなる力石徹と宿命の出会いを経て本格的にボクシングの道へと足を踏み入れ、世界のボクサーとなる。カーロス・リベラ戦で燃え尽きたジョーはリングコーナーのイスに坐ったまま白い灰になるという結末で完となる。ここまでのサクセスストーリーと目標に向けて生命燃焼する姿が当時の読者を熱狂させていた。アニメ版「あしたのジョー」第一話の放送は1970.4.1日で、まさに事件の直後から始まった。この時代、白戸三平のカムイ伝、バロン吉本の柔侠伝と並んで劇画が大きな影響を与えていた。 もとへ。赤軍派のハイジャックは、同派の「国際根拠地−世界革命戦争論」に基くものであり、前段階蜂起路線の挫折を総括し、その教訓から次のような方針を提起していた。
赤軍派9名による日航機よど号乗っ取り事件(ハイジャッ ク)は、この指針の実践であった。この事件の裏意義は、赤軍派のこの動きが公安筋にキャッチされぬまま進行したことにある。赤軍派の動きがほぼ捕捉されている中にあって、田宮グループが秘密裡に敢行し得た意義は大きい。少なくともこれに関与したメンバー全員が公安筋とは無縁であったことを証左していることになる。 |
【よど号ハイジャック事件考】 | |||
よど号ハイジャック・メンバーは、田宮高麿(27才.大阪市大)、小西隆祐(25才.東大)、田中義三(21才.明大)、安部公博(22才.関西大)、吉田金太郎(20才.元工員)、岡本武(21才.京大)、若林盛亮(23歳.同志社大)、赤木志郎(22才.大阪市大)、柴田勝弘(16才.神戸市立須磨高校生)の9名で、羽田発福岡行きの日航機よど号をハイジャックして北朝鮮行きを要求した。事件の好奇性からマスコミは大々的に報道し、多くの視聴者が釘付けになった。 副操縦士だった江崎悌一氏の克明な記録によれば、午前7時35分頃、羽田発福岡行き日本航空ボーイング727「よど号」(:乗員7名、乗客131名)が富士山上空で乗っ取られ、田宮ら9名の赤軍派に日本刀、ピストル、爆弾で脅され、北朝鮮の平壌行きを指令された。彼らの当初の行き先は中国かキューバであった。しかし、中国は受け入れが微妙、キューバまで行くには遠過ぎることを判断し、一番近い北朝鮮を指示した。
福岡空港で給油。この時、病人、女性、子供などの乗員23名が解放された。爆発させると脅された石田機長は離陸を決断し、6時間半後の午後2時前離陸。朝鮮半島の東の海上を北上し、朝鮮を南北に分断する休戦ラインに沿って西に転じ、板門店の北西部まできてピョンヤンに近づいた。そこで国籍不明の2機の戦闘機が現れ、よど号は空港に誘導された。機長、犯人ともに、最初はそこがピョンヤンの空港であると思ったようであるが、実は偽装された韓国のソウル郊外の金浦空港であった。「4.よど号事件とその後」は次のように記している。
韓国側は、金浦空港で北朝鮮らしさを偽装していた。北朝鮮兵の服装とニセのプラカードを持った兵士がハイジャック機を歓迎するように迎えた。ところが準備時間が短かかったため間に合わず、空港にはノースウエスト機が停まっていたし、ラジオにはジャズが流れ、空港の近くをアメリカ車が走っていた。赤軍派は、ノースウエスト機には気がつかなかったが、ラジオ放送やアメリカ車に気がついて偽装を見破った。
日韓政府とハイジャック犯の駆け引きが続いた。韓国側はあくまでも強行突入に拘ったが、日本側の強い意向により、山村新治郎運輸政務次官が乗客の身代わりに乗り込むことにより「乗客解放と目的地着陸保証」で合意が取り付けられた。4月3日、乗客全員が開放された。同日午後6時4分、よど号はまだ日本と国交のない北朝鮮のピョンヤンに向って夕闇の中を、有視界飛行により正確な地図ももたずに飛び立った。事件発生から83時間後のことであった。よど号は北朝鮮に受け入れられ、午後7時20分、平壌の美林(ミリム)飛行場に到着した。 |
【事件余話】 | |||
よど号赤軍派は、乗客を解放する際に「お別れパーティ」を設けた。歌をうたった乗客もいたそうである。また首謀者の田宮高麿は詩吟を披露したという。1970年6月号文藝春愁は、事件を特集してハイジャックに巻き込まれた乗客の声を拾っている。
4月5日午前4時10分、日航機「よど」が平壌を発った、同9時10分羽田空港に到着した。事件発生から6日目、122時間ぶり、身代わり人質の山村運輸政務次官と乗員3人を乗せての帰還だった。山村次官は、帰国後ただちに羽田のホテルで記者会見し、いきさつを語った。それによると、北朝鮮側の取り調べは30分で終了した。不法入国者として重い処分を覚悟していたが、人道的な処置をしてもらい感謝しているとも述べた。 機内では、学生は最初次官を縛り上げ、おまえ呼ばわりをしていたが、次第に態度は軟化、最後には「先生」と呼ぶようになったといっている。革命家にしては、なんだか甘い感じがする。北朝鮮側の取調べに対して学生たちはとうとうと革命理論を述べ立てたが、取調官に「もういい」と制止されたらしい。山村次官の印象では、北朝鮮と学生のあいだに関係はまったくないようであったと印象を語っている。 |
【よど号赤軍派のその後と思想改造】 | |
犯人学生9人は北朝鮮に身柄を拘束された。よど号赤軍派のその後は定かではないが判明する様子は次の通りである。よど号赤軍派は当初破格の待遇を受け、1970年当時最も格式が高かった平壌ホテルで数週間過ごし、労働党の招待所に移った。その後高級アパートに住み、彼らの事務所のためにビルまで建ててもらう厚遇ぶりであった。経済が破綻し食糧難が進行する中でも生活は労働党幹部よりも恵まれ、ベンツに乗り、一般には口に入らないコメや肉があてがわれる日々を過ごしたと云う。
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【「自主革命党」の結成、結婚、その後の学習活動】 | |
1971.8月頃、よど号赤軍派は田宮の主導の下で集団討議と自己批判を通じて、正式に「過渡期世界論、世界同時革命論」のスローガンを下ろし、新理論の開拓に向かうことを申し合わせる。田宮氏は、「わが思想の革命」の中で次のように述べている。
1972年5.1日、金日成がよど号グループに初めて「接見」し、主体思想に基づく日本革命に向かうよう「教示」(命令)した。よど号グループはピョンヤンで記者会見を開き、赤軍派路線の総括と新たな出発を宣言した。 |
【海外活動の開始】 |
70年代後半以降、グループは田宮の口を通して海外での任務を与えられる。その際、グループの男性は全員国際指名手配されていたために海外での活動は偽造旅券を使わねばならなかったので、真正旅券を持っている妻たちが表に立って活動する役割を積極的に引き受け、日本の公権力の手が及ばないヨーロッパに照準を合わせる。オーストリア、フランス、スペイン、イタリア、ギリシャ、イギリス、ポルトガル、カナダ、メキシコなど各国にグループが派遣され、日本人を見つけだして接触し、北朝鮮行きをオルグした。 1980年、田宮が、「祖国を離れて十年」を発表する。これが、初めての日本国内向け通信の発表となった。田宮の妻、森順子ら「よど号の妻」がスペインなどヨーロッパ留学中の日本人学生石岡亨さん(当時22歳)と松木薫さん(当時26歳)を拉致したという報道が93−94年相次いだ。有本さんと石岡さんは、1985年、結婚したとされている。 1981年、季刊機関紙「日本を考える」を発行、日本国内に送り届けている。1988年の24号まで続く。1月、「日本を考える三つの視点」(「日本を考える編集委員会」)発表。 |
【帰国活動】 | |
1985年春、柴田泰弘が、最高幹部の田宮高麿から革命のために日本で人と金を集める命令を受けて極秘帰国。他人になりすまして潜伏活動する。
その後も、北朝鮮を訪問した日本人団体代表との面談や、国内支援関係者への書簡などで「逮捕、投獄という事態を覚悟しても」帰国する意思の有ることを表明し続けている。憲法尊重の尊憲運動を展開するという新たな考え方を表明している。 この事件は日本初のハイジャックであり、教訓として同年6月に「航空機の強取等の処罰に関する法律」(ハイジャック防止法)が制定された。ただし、憲法39条の遡及処罰禁止規定により、犯人グループが帰国した場合、この法律は適用されない。機体を財物とする強盗罪や、乗員乗客に対する略取・誘拐罪に問われる。なお、国外逃亡により刑事訴訟法第255条に該当する為、公訴時効は停止している。その後、犯人グループは合意による無罪帰国を求めているが、ハイジャックという犯罪行為を犯した犯人グループの無罪帰国を日本政府は認めていない。 |
【吉田金太郎逝去、柴田勝弘と八尾恵が密航帰国】 |
同9月、吉田金太郎が肝臓病の為逝去する(享年35歳)。10月、母親らが遺骨を受け取りに北朝鮮に赴いている。 |
【よど号赤軍派の日本革命論】 |
1988年、尊憲運動を提唱する。 |
【岡本武逝去】 |
1988年、テルアビブ空港乱射事件を起こした岡本公三の兄である岡本武が死亡。岡本は、1980年代初頭にリーダーの田宮高麿と方針をめぐって対立していたとも伝えられている。岡本武夫妻は土砂崩れによって事故死したと発表されているが、未確認ながら、1980年代末に漁船を奪取して北朝鮮から脱出を図ったものの捉えられ、強制収容所に送られ収容所内で死亡したとの情報もある。なお日本の公安警察は岡本の死を確認していない為、現在でも岡本武は日本国警察の指名手配の対象者になっている。よど号メンバー柴田泰弘の妻だった八尾恵は著書で「私の知る限りでは、岡本さんと福留さんは、亡命後のよど号グループの主体思想に従う考え方に異を唱えたので矯正のため隔離され、そして、その果てに死が待っていた」と記述している。 |
【最高指導者・田宮の急死】 |
1989.9月、田宮が「わが思想の革命」(新泉社)を刊行する。 |
【田中義三がカンボジアで拘束される、2007年逝去】 |
1996年3月、田中義三が、カンボジアにおいて二人の北朝鮮大使館員とともに北朝鮮大使館の公用車に乗ってベトナムの陸路国境に向かうが、カンボジアの警官に停止命令を受ける。北朝鮮大使館員らは外交特権を振りかざし、検査を拒否。篭城の末に国境を突破を図るが、カンボジアの警官は射撃態勢を取って身柄を拘束する。移送されたタイにおいて、自ら田中義三であることを認めた。タイでは、タイのリゾート地パタヤで発見された大量の偽ドル札を偽造容疑で起訴された。この事件では無罪が確定したが、起訴された当時は北朝鮮による米ドルの偽札に関与していたとして注目された。送還直前のテレビ取材に対しては「服役後はもう一度大学で勉強しなおしたい」と話していた。 |
【よど号赤軍派と拉致事件の関わり】 |
2002年3月、八尾が、東京地裁で開かれた赤木恵美子(赤木志郎の妻)の公判に検察側証人として出廷し、ハイジャック犯のリーダー田宮の指示で「1983年、ロンドンに留学中だった有本恵子さん(当時23)を騙して北朝鮮に連れ出した」と証言。 |
赤軍派とよど号 共産主義者同盟赤軍派は1969年に結成された日本の最左派党派の一つ。同年11月、山梨県の山中で同派の53人が凶器準備集合容疑で逮捕された「大菩薩峠事件」を起こした。70年3月には、北朝鮮(ママ)で軍事訓練を受けて帰国後に武装蜂起しようとしたメンバー9人が「よど号ハイジャック事件」を起こし、北朝鮮(ママ)に亡命した。一部は日本人拉致事件に関与したとして国際指名手配されている。9人のうち5人は死亡。リーダー小西隆裕容疑者ら4人と、メンバーの妻2人が北朝鮮(ママ)に残っている。 |
(私論.私見)