場面2 | 第一次ブント運動の結成前後の過程 |
(最新見直し2007.6.18日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
以降の流れに入る前に、ここで原理的な問いかけをしておこうと思う。これより後全学連主流派は、「国会へ国会へ」と向けて闘争を組織していくことになる。実際に今日では想像できない規模の「労・学」数十万人による国会包囲デモが連日行われ、全学連はその先鋒隊で国会突入を再度にわたって貫徹している。私は、「時代の雰囲気」がそう指針させたのだと了解している。が、果たして「国会突入」にどれほどの戦略的意味があるのだろうかという点につき考察に値する。というよりも、一体「国会」というのは何なんだろうと考えてみたい。恐らく、「国会突入」は「左」からの「国会の物神化」闘争であったものと思われる。後の全共闘的論理から言えば、「国会の解体」へと向かおうとした闘争であったということになるが、こういう運動は何となく空しい。私論によれば、
「国会」は各種法案の審議をするところであり、なぜその充実化(実質審議・少数政党の見解表明時間の拡充・議員能力の向上等々)のために闘わないのだろう。「国会」がブルジョアのそれであろうが、プロレタリアのそれであろうが、審議の充実化こそが生命なのではなかろうか。「国会」を昔からの「村方三役の寄合談義の延長の場」と考えれば、その民衆的利益の実質化をこそ目指すべきで、寄合談義がいらないと考えるのはオカシイのではなかろうか。審議拒否とか牛歩戦術とかの伝統的な社会党戦術は見せかけだけのマイナーな闘い方であり、闘うポーズの演出でしかないと思う。こうした裏取引方のええ格好しい運動を厳しく指弾していくことも必要であったのではなかろうか。 このことは、党運動の議員の頭数だけを増やそうとする議会主義に対しても批判が向けられることを意味する。これもまた右からの「国会の物神化」運動なのではなかろうか。一体、不破氏を始めいろんな論客が国会答弁の場に立ったが、その貴重な時間において他を圧倒せしめる名演説を暫く聞いたことがない。最近の党首会談での原子力論議なぞは、それが如何に重要な問題であろうとも、今言わねばならぬ事は、呻吟する労働者階級の怨嗟の声を叩きつけることではなかったのかと思われる。あるいはまた中小・零細企業の壊滅的事態の進行に対する無策を非難すべきではなかったのか。良く「道理」を説いてくれるので、いっそのこと 「日本道理党」とでも名称をつけて奮闘されるので有れば何も言うことはないが。 |
1958年のこの辺りから戦後学生運動の第5期に入ったと考えられる。この期の特徴は、再建された新左翼系の全学連が急進主義運動に傾斜しつつ支持を受けながら勇躍発展していったことに認められる。もはや公然と党に反旗を翻しつつ独自の学生運動路線の模索へと突き進んでいくことになった時期であり、全学連運動のターニングポイントになる。
(1958年の動き)
1月東大細胞総会(細胞キャップ生田)でプロレタリア世界革命をぶつ。第1回フラクション研究会、第二回フラクション研究会が開かれている。
2月第3回フラクション研究会が開かれている。
この頃の2.14日 産別会議が解散している。
3月東大細胞総会が開かれ、この頃においてはプロレタリア世界革命の見地が当然とされるようになっていた。
【「日本社会主義学生同盟(社学同)」】
4.1日全学連の推進体となっていた反戦学同は第4回全国大会を開催した。全学連大会に先立って開かれたこの大会で、組織の性格を従来の反戦平和を第一義的目標としたものから、社会主義の実現をめざして運動をより意識的、革命的に発展させるべきであるとの立場に改め、名称も「日本社会主義学生同盟(社学同)」と変え、反戦学同を発展的に解消させた。これが社学同の第一回大会となった。
今後の活動方針として、「平和と民主主義、民主的教育とよりよき学生生活を目指す学生の大衆的政治行動の先頭に立って闘う」と共に、「それを、より意識的に帝国主義ブルジョアジーの打倒、社会主義の実現を目指す労働者階級の解放闘争に結合させ、多くの学生を社会主義の意識で捉えていかなければならないと確信するに到った」としていた。
この時期民主青年同盟も、党指導からの自立を目指していた。この時杉田・鈴木理論との闘争があったとされているが詳細不明。
4.5日原水協が米大使館へデモ、4.19日原水協、地評、全学連共済の「エニヱ二トック核実験阻止国民会議」が開催された。
4.28日トルコで学生の反政府デモ。
4.25日全学連の「全国総決起第一波闘争」が始まり、全国37ヶ所で勤評反対の学生集会がもたれ、アメリカ大使館や領事館へのデモ、教員組合への激励を行った。京都ではこの時、警官の暴行によって10数名の学生が負傷している。
4.28日「全日本青年学生共闘会議」が、総評青婦協、全青婦、全学連、社会党青年部、全日農青年部、民青同の6団体で結成された。
5.15日全国一斉統一行動が行われた。東京では6000名。前年の5.17の2万5000名の大動員に比べると大きく減少していた。全学連小数派は、この減少を全学連の指導方針の誤りの結果であると批判した。前年の5.17の際にはその直前にイギリスのクリスマス島での核実験強行が憤激を呼んだという事情があり、この時の少数派の言い分は為にする批判であった。全学連内部の対立はこの頃になると極めて深刻になっており、遂に全学連中執は、「教育大自治会は全学連内で分裂策動を行っている」というビラを配布するような事態に陥った。
4月の党東大細胞総会は、宮本党中央の指導方向であった党章草案に対する批判を含んだ議案を採択し、近づきつつある第7回党大会に向けて理論闘争を強化することを宣言した。その論点は、@.反米帝方向重視の宮顕路線に対する反日帝(独占資本)方向重視、A.党章草案の右翼的偏向に対する社会主義の明確な提起、B.革命の平和移行論や構造改革派の改良主義方向に対する批判、C.官僚主義の助長傾向に対する批判にあった。但し、この時点ではあくまで党内闘争の枠の中で原則的な立場からおこなうものとしていた。むしろ、「無原則な、自由勝手な党内の状況を断じて許しはしないだろう」とあることからみて、脱党又は別組織を作るという考えには至っていない事が分かる。
【反戦学同(AC)、社会主義学生同盟と改称】
5.25日全学連の推進体となっていた反戦学同は第4回全国大会を開催した。全学連大会に先立って開かれたこの大会で、組織の性格を従来の反戦平和を第一義的目標としたものから、社会主義の実現をめざして運動をより意識的、革命的に発展させるべきであるとの立場に改め、名称も日本社会主義学生同盟(社学同)と変え、反戦学同を発展的に解消させた。これが社学同の第一回大会となった。
これは、反戦学同の反戦平和運動から社会主義革命の直接的志向へと針路を切り替えようとしていたという事情によった。この時社学同は、「日本独占資本が復活強化した」
との評価を前面に出し、反独占闘争を強調したため、アメリカ帝国主義への従属国家論を主張する党中央の「党章草案」と決定的に対立する路線へと踏み出していくことになった。この時杉田・鈴木理論との闘争があったとされているが詳細不明。
この時の人事で、清水丈夫が書記長になる。
全学連大会直前に森田実中執(東大)の代議員資格問題をめぐって多数派と少数派が対立した。主流派の森田は、58.3月に卒業するので全学連資格を失うところ、他大学への入学で引き続き執行部入りを予定していた。少数派はこれに異議を唱え、執拗に妨害した。こうした感情的対立が尾を引きつつ全学連大会へと突入することになる。
【全学連第11回大会】
続いて5.28−31日全学連第11回大会が294名の代議員と評議員、傍聴者など約1000名集めて開かれた。党中央に批判的な者と忠実な者との激突の場となった。大勢は党中央を批判する側が制し、党中央忠実派は「右翼反対派」として排斥された。「遂に二日目午後には早大の高野.小野両オブザーバーに、議長職権で退場が命じられた。これをめぐってまた小競り合いを行い、神戸大学の石井亮一君は胸部に負傷した(診断書によると全治三日間)」という「怒号と乱闘」を現出した。党中央に批判的な社学同派が、民青同派(早大・教育大・神戸大など)と乱闘を演じつつこれを圧倒、高野派は退散した。大会は紛糾し、大混乱に陥ったということであろう。
大会は、10回大会以来の闘争を一貫して正しかったと規定し、この執行部の議案は賛成271.反対19.保留1という圧倒的多数の支持を得て可決された。
人事は、委員長・香山健一(東大)、副委員長・小島弘(明大)、佐野茂樹(京大)、書記長・小野寺正臣(東大)を選出した。社学同派が新執行部30名の全員を独占して民青同派を右翼反対派として閉め出した。つまり、党中央に忠実な代議員ことごとくを排除し、革共同も含めた反代々木系だけで、指導部を構成したということになる。
この経過を社学同派から見れば、「この大会で日共は、党中央寄りの反主流派を援護しながら、全学連主流派の追い落とし工作に策動したが失敗」、「既に公然と全学連内反対派の立場に立った高野らは、党中央青年対策部とともに森田の失脚を狙う策謀をめぐらしていたが、大会で多数の賛意を得られない為に様々な議事妨害に出て大会を混乱させていた」、「党中央は、早稲田の高野秀夫らのグループを使って、公然たる分裂行動に出てきた」、「執行部提案を否決に追い込み、大会を混乱に導こうとしたこの高野等の行動云々」とある。なお、この流れには革共同の働きかけがあったようで、「全学連11回大会における平和主義者“高野派”との闘争は、わが同盟の組織戦術の最初の大衆的適用の場になった。“右をたたいて左によせろ”、これがわれわれのアイコトバであった。学生党員の多数を反中央に明白に組織しつつ、かれらの中核を日共のワクをつきやぶってわれわれの同盟に組織すべき任務は急をつげていた。拠点校を中心に、下からいかに反対派を組織するか、これがわれわれの課題であった」とある。
大会では、砂川、原水禁、勤評闘争などで積み上げてきた成果を基にして、反帝.平和擁護闘争の路線を決議した。その内容は、次のようなものであった。
1 | 10回大会で確認され、堅持されてきた、学生運動の基礎理念を再び確認し、今後一層堅持する。今なお、学生運動の発展をおし留めるものとして右翼日和見主義傾向があり、注意しなければならない。、 |
2 | 平和こそ学生のもっとも基本的要求であり、且つ現在の情勢の中で平和擁護こそ学生運動の第一の任務である。 |
3 | 岸反動政府と対決し、その反動攻勢と徹底的に闘う。 |
4 | 平和と独立を目差す諸国民の運動と国際的な青年学生戦線の統一の為に、国際的な視野を絶えず堅持して国際的な運動の成功の為に努力を払い、国際学連の中心的な役割を一層強化する。 |
5 | 学生運動を国民戦線の一翼として位置付けし、国民諸階層との連携を一層強化する。特に、学生運動と労働者階級との連携がもっとも重要である。 |
6 | 国内における学生戦線の統一を完成すること。 |
なお、この時期全学連主流派は、学生運動理論における「先駆性理論」を創造しているようである。「層としての学生運動」理論に「先駆性理論」が加えられることにより、学生運動の任務を、
@ | 学生運動を青年運動一般に解消することなく、学生層の戦略的任務=先駆性を学生全体として発揮せしめる組織 |
A | 学生自治会を内部から強化し、執行部と学生一般の間隙を埋めるべき組織 |
B | 学生運動の基本的運動形態たる全国的統一闘争に適合する単一の中央指導部と各学校支部を持つ組織 |
(「日本の学生運動」)、と規定していた。という規定から、「学生運動が本質的に社会運動であり、政治闘争の任務を持つ」、「国会デモその他の高度の闘争形態を模索しつつ」、「労働運動の同盟軍」として労働者・農民・市民に対する「学生の先駆的役割」を強調し、「層としての学生運動論→労・学提携同盟軍規定論→先駆性理論、反帝闘争路線」の画期的方針を採択した。「平和こそ学生の基本的要求であり、平和擁護闘争は学生運動の第一義的任務である。岸反動内閣と対決し、その反動攻勢と徹底的に闘うこと。帝国主義の存在との対決と打倒。労働者階級との提携(同盟軍規定)」を明確にさせ、理論的にも共産党離れを一層推進
した。こうして全学連は、「先駆性理論」に基づいて、激しい反安保闘争を展開
していくことになった。「先駆性理論」とは、「学生が階級闘争の先陣となって
労働者、農民、市民らに危機の警鐘を乱打し、闘争の方向を指示する」というものであった。
ちなみに、革共同はこの「先駆性理論」とも違う「転換理論」に拠っていた。「転換理論」とは、概要「プロレタリアートと利害関係を同じくする学生の運動は、階級情勢の科学的分析のもとに、プロレタリアート同盟軍として階級闘争の方向に向かわざるを得ないことからして、学生は革命運動を通して自分自身を革命の主体に変革させていくことになる」というものであった。
どちらもよく似てはいるが、ブントはより感性的行動論的に、革共同はより思弁的組織論的に位置づけているという違いが認められる。こうした学生運動に対する位置づけは、追ってマルクーゼの「ステューデントパワー論」が打ち出されるに及び、その影響を受けて更に「学生こそ革命の主体」という考えにまで発展していくことになる。この背景にあった認識は、前衛不在論であり、「前衛不在という悲劇的な事態の中で、学生運動に自己を仮託させねばならなかった日本の革命的左翼」(新左翼20年史)とある。
党中央は、こうした急進主義的政治主義的方向に向かおうとする党員学生活動家に対して、「戦術的には政治カンパニア偏重の行き過ぎの誤りを犯すものであり、学生が労働者や農民を主導するかの主張は思い上がりである」と批判するところとなった。これに対し、全学連指導部は、「戦後10年を経て、
はじめて日本学生運動が、日本のインテリゲンチャが、そして日本の左翼が、主体的な日本革命を推進する試練に耐える思想を形成する偉大な一歩を踏み出しつつあることを、全学連大会は示しているのである」と自賛した。充分な理論的対応を為し得ている様を見て取ることが出来るであろう。ちなみに、この時中国共産党「中国青年報」は、「岸反動政府との徹底した対決の方向を打ち出した全学連第11回大会」といの見出しで好意的に論評している。「全学連第11回大会が帝国主義者の攻撃の甘い評価に反対し、平和を守るための帝国主義者との徹底した闘いの方向を打ち出し、右翼日和見主義者との闘いにおいて大勝利した」。
なお、この時期の全学連指導部は、およそ三派から成り立っていたようである。一つは、森田のグループで、これには全学連委員長の香山を含む中執のかなりのメンバーがいた。もう一つは、都学連と星宮ら関西の一部を中心とする革共同グループがいた。最後が圧倒的支持を得ていた島グループで、東大・早大グループが佐伯と生田を介して暗黙の提携関係にあったようである。
後の展開から見て、この大会で唐牛が中執委員に、灰谷・小林が中央委員に選出されており、北海道学連の進出が注目される。なお、こうした全学連執行部外に民青同高野グループがいたことになる。ただし、これを急進主義と穏和主義の別で見れば、穏和的平和運動的な方向に高野・森田グループ、急進主義ないしは革命運動的な方向に革共同と島グループというように二極化されつつあったようである。この時期の全学連運動には、既に押しとどめがたい亀裂が入っていたということでもある。
【党中央と学生党員が党本部で衝突「6.1事件」】
全学連第11回大会の成り行きを憂慮し事態を重視した党中央は締めつけに乗り出し、全学連大会終了の翌日の6.1日、同大会に出席した学生党員議員約130名を代々木の党本部に集めた。「全学連大会代議員.学生党員グループ会議」を開き、全学連を党指導の傘下に引き戻すべく直接指導に乗りだそうと
した。そういう思惑で党の幹部出席の上会議が開かれ、党中央が議長を務めての党中央主導の議事運営をなそうとしたが、既に党中央に批判的であった学生党員らが一斉に反発し、会議はその運営をめぐって冒頭から紛糾した。積年の憤懣と、直前の全学連大会で演じた党中央青対の指導による高野派の動きに不満が爆発したというのが実際であったように思われる。これを「全学連代々木事件」(または「6.1日共本部占拠事件」)
と言う。 共産党全学連グループ会議における多数派(森田、香山ら)と少数派(高野、牧ら)の砂川闘争の評価をめぐる乱闘事件であったとされているが、「6.1事件」はこうして全学連指導部の共産党に対する公然たる反乱となった。この瞬間より、党は全学連に対するヘゲモニーを失ったことになる。
こうして会議は冒頭から議長の選出を巡って大混乱となり、全学連主流派と党中央の間に殴り合いが発生した。この時党を代表して出席していた幹部は、紺野常任幹部会委員、鈴木市蔵大衆運動部長、高原、津島大衆運動部員であった。遂に党の学生対策部員であった津島薫大衆運動部員を吊し上げ、暴行を加える等暴力沙汰を起こした上、鈴木市蔵大衆運動部長の閉会宣言にもかかわらず、学生党員が議長となって紺野与次郎常任幹部会員らの退場を阻みながら議事を進め、「六全協以後党中央は学生運動に対し、指導を全く放棄してきたのみならず、学生運動の発展を妨害する役割すら果たしてきた。単に学生運動のみならず、労働運動、平和運動に対しても誤った指導をしてきている」、「日本革命運動と日本共産党の真の建設を進める上で、現在の党中央委員会はあまりにも無能力である」ゆえに「全学連大会代議員グループは、党第7回大会が現在の党中央委員会を不信任するよう要求する」及び全学連内の党中央派除名の決議(無能力.不信任決議)を採択した。最後に「学生党員は、全学連中執グループに結集せよ」と叫んで、党本部から退去した。
この間党中央を代表して出席していた紺野常任幹部会員はまともな応酬による何らの指導性を発することが出来ぬばかりか、会議を有効とする文書に署名させら
れるという不始末となった。なお、党本部内の出来事であったにも関わらず、
追求される中央青対を救出すると称してやって来たのは「あかつき印刷」の労働者たちだけであり、党側からは他には誰もやって来ずという醜態を見せるこ
とになった。この経過に対して、党中央は、真偽不明であるが〃わたしたちは、多数派の諸君に殴打されて負傷した津島氏(中央学生対策部)を近くの代々木病院に連れていったが、多数派の諸君は診療室にまで乱入して手当を受けている津島氏に暴行を加えようとした。ここに、現在の「学生運動」におけるゲバルトへの極端な傾斜の萌芽を見ることができる〃と声明している。
前代未聞の不祥事発生に仰天したか、党は、ここに至って、これら学生の説得をあきらめ、組織の統制・強化に乗り出していくことになった。鈴木議長の閉会宣言以降の会議を無効とし、「世界の共産党の歴史にない党規破壊の行為であり、彼らは中委の権威を傷つける『反党
反革命分子』である」とみなし、「一部悪質分子の挑発と反党的思想を粉砕し」それら学生党員の責任を追及していくこととなった。
これに対して、6.11日全学連書記局細胞は党中央委員会宛てに「上申書−6.1事件に関する我々の反省と要望」を提出している。文書は、党中央への恭順を示唆していた。他方で、党中央のアカハタ論文には多くの事実誤認が含まれており、その経過や原因について今後審議するべき点があるとしていた。これに構わず党中央は、〃未曾有の不祥事件〃、〃一部悪質分子による反党事件〃として調査・査問・処分に乗り出しすこととなった。
6.5日和歌山で勤評反対闘争が巻き起こった。和歌山県教組、高教組、県庁職組、部落解放同盟、県地評、和歌山大等による「勤評反対共闘闘争会議」が結成され、第一派実力行使闘争に入った。全学連はオルグ団を現地に派遣し、現地闘争本部を設営して闘いの先頭にたった。「和歌山における勝利は勤評闘争をして守勢から攻勢に転じさせる上での重要な契機をつくるだろう。和歌山における敗北は、全国的な闘いを展開しようとする日教組の後退を導き敵の弾圧を許し日本民主勢力の後退を誘うであろう」(6.16書記局通信)とある。
【党中央、全学連グループに対し除名処分】
7.7日党中央は、 「反党的挑発、規律違反」として規約に基づき香山健一全学連委員長・中執委星宮・森田実らを党規約違反として3名(1958年7/18「アカハタ(第2639号)では香山健一・森田実・野矢鉄夫)を除名、党員権全面制限一ヵ年として小野寺正臣・土屋源太郎・松田武彦・西信雄・金山秀一・保田幸の6名、党員権全面制限六ヶ月として和田耕造・松川泰弘・手石玲二・千葉一夫・星宮煥生・山村庄一・灰谷慶三の7名、合計13名を党員権制限の厳格処分に付した。その後各地方党機関でも6.1事件の関係者を年末までに72名処分した。(“一部学生党員の党規律違反にたいする処分について”)
全学連指導部の学生党員たちは、党のこうした処分攻勢を契機として遂に党と袂を分かつこととなった。紺野もその責任を問われて、常任幹部会員を解かれた。ちなみに紺野は徳田系の残存幹部であったことが注目される。党は、党内反対派の制圧の手段としてこれを徹底的に利用していくことになった。
ここまでの全学連の経過が次のように簡略にまとめられている。
「 『六全協』後、日共国際派の勢力挽回とともに反戦学同も急速に勢力を盛り返し、1955.12月には第7回拡大全国委員会を開いて、政治闘争を通じて学生運動を盛り上げるとの方針を打ち出し、全学連にも着々と進出し、影響力を強めて行った。1957.9月、日本共産党の党章草案(現行綱領の草案)が発表されるや、党章草案が日本独占資本との対決を軽視し、社会主義への道の明確な提起を欠いているなどと批判して、これに反対の態度を示し、更に1958.5月の第4回全国大会では、組織の性格を従来の反戦平和を第一義的目標としたものから、社会主義の実現をめざして運動をより意識的、革命的に発展させるべきであるとの立場に改め、名称も「社学同」(社会主義学生同盟)と変えた。
こうして「社学同」は、「日本独占資本が復活強化した」との評価を前面に出し、反独占闘争を強調したため、『六全協』後も『51年綱領』の情勢分析は正しいとしてきた日共中央と対立することとなった。このため、全学連内部は、再び紛糾し、1958.5.28日から31日までの全学連第11回大会は、大混乱に陥ったあげく、日共中央派は、右翼反対派として斥けられ、反日共中央派が、大会を制するに至った。こうした事態を重視した日共中央は、全学連活動家のしめつけに乗り出し、大会終了の翌6.1日、代々木の党本部に全学連大会に出席していた党員代議員約130人を集めて、グループ会議を開いた。しかし、会議は、運営をめぐって、冒頭から日共中央と学生とが対立し、日共中央が、あくまで議長を務めるとしたことから、学生は一斉に反発、遂に日共中央学生対策担当の津島薫大衆運動部員に暴行を加えるとともに、鈴木市蔵大衆運動部長の閉会宣言にもかかわらず学生党員が議長となって紺野与次郎常任幹部会員らの退場を阻みながら議事を進め、日共中央委員全員の罷免要求及び「全学連」内の日共中央派除名の決議を採択した。
これに対して、日共中央は、それら学生党員の責任を追及し、同年七月、反党的挑発、規律違反として香山健一全学連委員長ら三人の除名を含む学生党員16人の処分を行った。その結果、全学連指導部は、完全に日共の統制を離れ、同年9月の全学連第12回臨時全国大会では、日本独占資本との対決を明確に宣言し、日共との訣別を理論的に確認するに至り、ここに日本共産党は、1948年以来、10年にわたって維持してきた「全学連」―学生運動の主導権を失うこととなった」。
7.5日全学連第17回中委が開かれ、この間の闘争の総括と第4回原水爆禁止世界大会への方針の検討を行った。共産党中央との組織的対立を不可避として、その後の方向の確認をすることに意義があった。「開始された前進の巨歩を一歩進めるかあるいは後退してしまうかを決定すべき任務をこの中央委員会に委ねている」として、全学連主流中央は並々ならぬ決意を示していた。この会議で、「政治スローガンをぼかし、幅広い統一戦線の名のもとに、運動それ自体を堕落させてしまう思想傾向」が運動の阻害要因であるとの認識を明確にさせた。左派化したということである。
【共産党第7回党大会開催】
7.23日共産党第7回党大会が開かれた。51年綱領を廃止し、新綱領は次の大会まで棚上げ、伊藤律除名を確認した。宮本は、「この党大会を経て、いろいろな理論問題を解明した」(宮本顕治談話-1991.9.26.赤旗)と豪語した。実際には、「アメリカ帝国主義+日本独占資本=二つの敵論」を主張する宮本、野坂、志賀らと「日本独占資本のみ=一つの敵論を主張する春日、内藤との間の論争に決着がつかず持ち越された。宮本は、「一つの敵論」を「アメリカ帝国主義との闘争を回避する路線」とみなして、「平和的手段による革命の道が無条件に保証されていると考える〃平和革命必然論〃をしりぞけ、平和的手段による革命の達成をあくまで追求しながら、暴力の道をとざそうとする敵の出方に必要な警戒をおこたらないという原則的な見地を明確にした」と云う。これに対して、春日らは、「一つの敵論」は「二つの敵との闘争の名に隠れて実際には反米に重点をおく戦略であり、自立しつつある日本独占資本との闘争を回避させている」と反論した。
大会での政治報告で、学生運動に対して次のように述べている。「学生運動は全学連を中心に平和、独立、民主主義を目指す人民の闘争の中で次第に重要な役割を果たしている。‐‐‐同時に、学の生活経験の浅いことからおこりがちな公式主義、一面性と独断、せっかちで持続性に乏しいという弱点を克服し、一層広範な学生を統一行動に組織するように指導しなければならない」。
【「革共同第一次分裂」】
この頃の58.7月に革共同が内部分裂を起こしている。これを「革共同第一次分裂」と言う。少数派であった太田竜氏らのグループが、関東トロツキスト連盟を結成して革共同から分離することとなった。太田派が全体討議を拒否したという事実経過があるようである。この時太田氏は、トロツキーを絶対化し、トロツキーを何から何まで信奉しそれを唯一の価値判断の基準にする「純粋なトロツキス
ト」(いわゆる「純トロ」)的対応をしていたようである。「パブロ修正主義」と呼ばれる理論を尊重し、ソ連を「労働者国家」とした上で、「反帝国主義、ソ連労働者国家無条件擁護」の戦略を採った。後にソ連の原水爆実験が行われたときこれを無条件に擁護することとなる。これに対し黒田氏は、「トロツキズムは批判的に摂取していくべき」との立場を見せており、そうした意見の食い違いとか第四インターの評価をめぐる対立とか大衆運動における基盤の有無とかをめぐっての争いとなり、これが原因で「革共同第一次分裂」へと向かうこととなったとされている。黒田派は、「反帝国主義、スターリニスト官僚(政府)打倒」の戦略を採った。後に「反帝.反スターリン主義」へと純化していくことになる。ソ連核実験の際には反対という立場に立った。
この時のトロツキー評価をめぐる太田派と黒田派の違いについて、黒田氏は次のように明らかにしている。「我々の反スターリン主義のバネは、確かにとトロツキズムの摂取と主体化によって形作られた。だが、我々は百%.トロツキストたりえなかった。それは我々が『サルトル的義憤』に『共鳴』した『実存主義者』であったからではない。左翼反対派の戦いの伝統が完全に欠如したわが国において、革命的共産主義運動を創造せんとする、我々のこの主体的な苦闘にとっては当然にも、既成のもの−例えトロツキズムであったとしても−への乗り移りは、スターリン主義者としての死滅への途と同様に唾棄すべきものでしかなかったからである。にもかかわらず、この主体的な構え方を、わが俗流トロツキストは『プチ.ブル的だ』と烙印した。こうした運動のそもそもの発端における、我々と自称トロツキストとのこの決定的な違いの根拠を哲学的次元にまで掘り下げて追及することが、さし迫った課題として浮かび上がってきた」(黒田寛一「革命的マルクス主義とは何か」)。
この分裂後黒田派が中央書記局を掌握することとなった。
「革命的マルクス主義の立脚点をあきらかにし、革命的指導部を確立するための闘争は、しかしけっして平坦なものではない。それはまず、トロツキズムをセクト的教条的に獲得しつつ、現実にはパブロ書記局の方針をうのみにしようとする太田竜に人格的表現をみる偏向との闘争として、すすめなければならなかった」、概要「太田竜派の活動における政治的力学の無知ないし無視からうまれるこうした組織戦術の誤謬の根底にあるトロツキー・ドグマチズムの誤謬こそは、トロツキーの歴史上の弱点のデフォルメでもあった。かくして太田は、
第四インターが世界的にも国内的にもいまだ十分に大衆を獲得していない事実を、『23年以後のロシア・スターリン主義者の反動の圧力の強さ』などに結びつけていく客観主義に転落する。世界革命の一環としての日本革命の実現、ここにこそわれわれのいっさいの価値判断の基準があることを明白にしつつ、われわれはトロツキズムを反スターリン主義→革命的マルクス主義の最尖端としてとらえかえし、マルクス主義を現代的に展開していくものでなければならないであろう」、
「こうした太田の教条的セクト的傾向は、ソ連論をめぐる内田の対馬的傾向との闘争において色こくあらわれた。第5回大会出席後、さらに極端となった太田は、日本における左翼反対派の活動をすべてパブロ分派とのみ直結させようとする陰謀となってあらわれた」、「我々革命的共産主義者は、このようなトロツキー教条主義、トロツキスト分派の教条主義と、明白に且つ公然と決裂することを宣言せざるを得ない。けだし我々は、トロツキー及びトロツキズムの成果と欠陥と誤謬をはっきり認識し、その上でそれらをマルクス主義の発展線上に正しく位置付けるとともに、それを生きた現実へ適用することを通して同時にそれをも超えてゆかねばならないとする実践的立場を拠点とするからに他ならない。わがトロツキストたちには、こういう主体的で実践的な立場が完全に欠如している」(「革命的マルクス主義とは何か」『探究』第3号参照)。ただし、9月になると、黒田氏は大衆闘争に対する無指導性が批判を浴び、党中央としての指導を放棄させられているようである。
太田派は関東トロツキスト連盟を結成していたが、9月に「日本トロツキスト同志会」へと改称し、翌59.1月国際主義共産党をつくり、8月に第四インター日本委員会へ歩みを進めていくことになる。革共同から分離した太田氏は日本社会党への「加入戦術」
を行い、学生運動民主化協議会(学民協)と言う組織を作り、当時の学生運動の中では右寄りな路線をとっていくことになった。その後、太田氏はアイヌ解放運動に身を投じていき、最近では「国際的陰謀組織フリーメーソン論」での活躍で知られている。
【学生党員グループ、全学連=社学同合同フラクを結成】
第7回党大会には、島・生田らが「全学連党」代議員として参加した。しかし、10日間もの間旅館に缶詰で外部と一切遮断したまま(家父長的と云われる徳田時代にはあり得なかったやり方である!)、次から次へと満場一致で宮顕方針が決議されていく大会運営を見て、却って党との決別を深く決意させたようである。「十年ぶりに開かれたこの大会が破廉恥な党官僚の居直りによって終わった時、そして、党内反対派が『党革新』の第一歩と幻想を抱いている時、六全協以来続いた党の混乱は終息した。この党の革命的再生はありえないことを確認し合い、その翌日、この党との決別を決意したのだ。決別は同時に私達の手による、革命的前衛の結成へ向かうことでもある」(島「生田夫妻追悼記念文集」)。
こうして党大会終了の翌々日の8.1日、島氏は全学連中執、都学連書記局、社学同、東大細胞党員の主要メンバーを集め、大会の顛末を報告すると共に、新しい組織を目指して全国フラクションを結成していくことを提案した。「日共第7回大会以後、島の動きは活発になり、活動も明確に『新党』へと流れていた」(星宮*生証言)。
【「勤評闘争」】
この間全学連は、58.8.16日和歌山で勤務評定阻止全国大会の盛り揚げに取り組んだことをはじめ9月頃「勤評闘争」に取り組んでいる。8.18日の勤評反対集会に右翼団体が殴りこみ、警官も襲い掛かり多数の負傷者を出している。全学連は40数名のオルグを送り込んでいた。9.15日 「勤評粉砕第一波全国総決起集会」に参加し、東京では約4000名(以下、東京での闘いを基準とする)が文部省を包囲デモ。
【学生党員グループ、「プロレタリア通信」創刊】
この後全学連主流派に結集する学生党員は、フラクションを結集し、9月頃機関紙「プロレタリヤ通信」を発刊して全国的組織化を進めていくことになった。第1号は山口一理、第2号は久慈二郎、3.4.5号は島成郎、第6号は姫岡怜治が執筆した。この時点で明確に共産党内における党内闘争に見切りをつけた全学連主流派のこの動きは、星宮をキャップとする革共同フラクションの動きと丁々発止で競り合いながら進行していた。革共同フラクションは、全学連人事に絡んで森田・香山を中央人事からはずせと主張していたようであり、こうした革共同の影響下で路線転換がなされた。
【全学連第12回臨時大会】
9.4日「全学連代々木事件」とそれに伴う党の処分の結果、全学連指導部は、完全に党の統制を離れることを決意した。「全学連代々木事件」で除名された学生党員らと島成郎ら20名程度が中心になって、全学連第12回臨時大会を開いた。代議員、評議員、オブザーバー450名が参加した。反代々木系を明確にさせた全学連執行部(全学連主流派)
は、「学生を労働者の同盟軍とする階級闘争の見地に立つ学生運動」、「全人民、そして日本プロレタリアートの運動の視点にはっきり立ったことにおいて画期的前進を遂げた」と評価し、左展開を宣言した。「かかる右翼日和見主義が、現実の闘争の過程で理論的にも実践的にも完全に破産したことが、圧倒的多数の代議員によって確認された」とある。こうして、日本独占資本との対決を明確に宣言する等宮本執行部の押し進めようとする党の綱領路線との訣別を理論的にも鮮明にした。ここに日本共産党は、48年の全学連結成以来10年にわたって維持してきた全学連運動に対する指導権を失うこととなった。
この大会で、先の第11回大会での路線がより明確になった。「平和擁護運動ではなく、戦争の根源である帝国主義を打倒することである。このためにはブロレタリアートの断固たる決起を促さなければならない」、「その中でただ一つ徹底的に闘いつつある日教組の勤評闘争を激発させ、ここに革命の突破口を開かねばならない」、「階級決戦としての勤評闘争」という基本方針を定めた。「非妥協的大衆阻止闘争、実力闘争が基本である」、「闘いが激化し泥沼の様相を帯びることを恐れてはならない」、「クラスから他クラスへ、一校から全市へ、全県へ、全国へ闘いをひろげよ」、「試験ボイコット、無期限ストライキによって闘いを続行させよ」云々のアジが為されたといわれている。
9.15日全学連は、勤評粉砕全国統一行動に呼応して第一波全国闘争を全国各地で展開した。
9.25日統一行動で、東京.日比谷公園の参加者は千数百名、デモ参加者は500名。停滞を見せている。
【「警職法反対闘争」】
こうして、10.4日警職法改正法案が突如発表され、10.7日国会に上程されてきた。改正案は、現場警察官の判断次第で、国民の身柄の拘束や身体検査、住居立ち入りが認められるようにされていた。それは、戦後憲法が保障していた集会、結社、表現、通信、労働者の団結権、団体交渉権その他の権利等々、国民の基本的人権を大幅に狭めるものであった。
これを受けて、共産党、社会党、総評などの諸団体が一斉に反対闘争に立ち上がった。「こわい警察はごめんだ」、「オイコラ警察復活反対」が合言葉になった。この時、社会党・
総評など65団体による「警職法改悪反対国民会議」が生まれ、全国40近い府県で共闘組織が結成された。
全学連はたちまち呼応し、勤評反対闘争と並んで10−11闘争の最重要課題と位置付け、非常事態を宣言、最大限の闘いを呼び掛けた。「ためらうことなくストライキに!国会への波状的大動員を、東京地評はゼネストを決定す、事態は一刻の猶予も許さない、主力を警職法阻止に集中せよ」と檄を飛ばした。全学連も「警職法改悪反対国民会議」のメンバーに入った。この時の学生運動は、全学連中央の指揮と共産党中央の指揮という二元化で共通の闘いを目指していたことに特徴があった。以降学生運動内にこの二元化が常態となる。
10.9日岸首相はアメリカの新聞記者に、「日本は台湾と南朝鮮が共産主義者に征服されるのを防ぐため、できるかぎりの準備をしなければならない。最大限の日米協力ができるような安保条約の改定を行う用意をしている。現在のままでは軍隊の海外派遣はできないから、憲法は改正されなければならない」と語った。
10.28日「警職法阻止全国学生総決起集会」に取り組み、労・学4万5000名が結集しデモ。11.4日政府自民党は会期を延長して警職法の通過を狙った。11.5日警職法阻止闘争は全国ゼネストに発展し、450万人の労働者学生が決起した。全学連4000名が国会前に座り込み、1万余の学生と、労働者が国会を包囲した。驚くほどの速度で盛り上がった大衆運動によって、自民党は一ヶ月後に法案採決強行を断念した。この闘争過程は、この時の経験が以降 「国会へ国会へ」と向かわせる闘争の流れをつくった点で大きな意味を持つことになった。
【宮顕党中央の変調指導】
付言すれば、この時島氏は、宮顕党中央の変調を鋭く指摘している。「警職法提出の10.7日、社会党、総評、全学連らがこぞって反対声明を発し戦いの態勢を整えているそのときに『アカハタの滞納金の一掃』を訴え、一日遅れて漸く声明を出した」、「反動勢力が全学連の指導する学生運動の革命的影響が勤評闘争.研修会ボイコット闘争などにおいて労働者階級に波及するのを恐れて、この攻撃に集中しているその最中、全労、新産別らのブルジョアジーの手先の部分の攻撃と期を一にするかの如く、代々木の中央は、『全学連退治』に乗り出し、この革命的部分を敵に売り渡すのに一役買っている」、「何時も後からのこのこついて来て、『諸君の闘争を支持する』とかよわく叫ぶだけだ」、概要「戦いの高揚期にきまって、『一部のセクト的動機がある』だの、『闘争を分裂させるものであって強化するものではない』などといい、全労.新産別らの自民党の手先に呼応している」。
共産党は、この頃よりこれらの全学連指導部を跳ね上がりの「トロツキスト」と罵倒していくことになった。10.21日「学生運動における極左的傾向と学生党員の思想問題」を発表して、一連の学生党員の動きと思想を批判している。この論文でかどうかは不明であるが、(恐らく宮顕の)「跳ね上がり」者に対する次のような発言が残されている。「今日の大衆の生活感情や意識などを無視して、自分では正しいと判断して活動しているが、実際には自分の好みで、いい気になって党活動をすること、大衆の動向や社会状態
を見るのに、自分の都合のいい面だけを見て、都合の悪い否定的な面を見ず一面的な判断で党活動をすること、こうした傾向は大衆から嫌われ、軽蔑され、善意な大衆にはとてもついていけないという気持ちをもたせることになる」。
(ボソボソ)云おうとしていることは判るが、自己を超然とした高みに置いた宮本らしい品の無い論法であろう。「自分の好み」の運動の連動こそ自然でパワーになるのではないのかなぁ。誰しも「自分の好み」から逃れること
が出来ないように思うけど。それと、相手を「一面的な判断」呼ばわりするには、己が「全面的な判断」を為し得る者である事を立証せねばならぬのではないのか。それに、「善意な大衆」という物言いは何なんだ。そういう言い方でのエリート臭が嫌らしく鼻持ちならない。
11.3日党は、アカハタに「学生運動にもぐりこんだ挑発者と闘え」を発表している。この論文で批判されていた法政大学第一細胞は、次のような見解を表明している。「殊に、日本共産党が1950年の分派闘争以来、常に反対派を抹殺し、組織的に排除される為に使われてきた『トロッキスト』という言葉が、我々に対しても又も投げつけられていることには驚きと悲しみ以外の感情を以って対することしか出来ない」、「日本共産党に徴して見る限り、トロツキストなる言葉が使われた場合、その言葉を投げかけた側がその相手と意見を異にしており、そして相手を憎悪しており、その相手を組織的に排除せんとしているということを意味する以外の何物でもなく、1905年、1917年ロシア第一.第二革命の際にペテログラード.ソビエト議長として革命を闘い、10年後には追放されたレオン.トロツキーの思想とは何ら関係なく使用されているようである」。
11.5日自民党は会期延長を強行し、警職法法案の成立を図ろうとしてきた。全学連はこれに抗議し、5000名が国会議事堂チャベル・センター前にも座り込み、労働者が後方から国会議事堂を包囲するようにして連なった。この「歴史的闘争」は岸内閣に危機感を深めさせ、11.22日遂に審議未了の廃案にさせた。
秋頃、早大で高野秀夫派との抗争で、反高野統一戦線が組まれ、小泉修吉―片山*夫(佐久間元)ラインが多数派となる。後の革共同全国委系となる本多派との連携であった。但し、その後は複雑な抗争史を刻んでいくことになる。
【共産主義者同盟(ブント)結成】
12.10日先に除名された全学連指導部の学生党員たちの全国のフラク・メ
ンバー約45名(全学連主流派)が中心になって、55年以降続けてきた党内の闘いに終止符を打ち、新しい革命前衛党を建設するとして日本共産主義者同盟(共産同またはブントとも云う)を結成した。関西から参加したのは奈良女子大だけであった。
ここに、先行した「純」トロツキスト系革共同と並んで、「準」トロツキスト系ブントという反代々木系左翼の二大潮流が揃い踏みすることになった。この流れが新左翼又は極左・過激派と言われることになる源流である。この両「純」・
「準」トロツキスト系は、反日共系左翼を標榜することでは共通していたが、それだけに反日共系の本流をめぐって激しい主導権争いしていくことになった。
その学生組織として社会主義学生同盟(社学同)の結成も確認されたようである。古賀(東大卒)と小泉(早大)の議長の下で議事が進行していき、島成郎(東大医学部3年生・共産党東京都委員でもあった)氏がブント書記長に選ばれ、書記局員には、島・森田・古賀・片山・青木の5名が選出された。島氏は、翌日開かれた全学連大会で学連指導部から退き、ブントの組織創成に専念することになった。学生党員たちに党から分離してブントへ結集していくよう強く促していくことになった。他に門松暁鐘、富岡倍雄、山口一理、佐久間元、常木守、今も中核派指導部にいる北小路敏、清水丈夫らがいることが注目される。北海道からも灰谷・唐牛ら5名が参加している。理論的支柱は、姫岡玲治のペンネームで活躍していた青木昌彦氏であった。
なお、この後療養中であった生田浩二(東大経済学部4年生・共産党文京地区委員でもあった)が戦線に復帰してくることになり、ブン
トは島書記長−生田事務局長指導部の下で担われていくことになる。このことの意味は次のことにある。通常ブン
トはかっての国際派系譜で誕生したと見なされているが、数の問題ではそうであっても執行部という質の面においてはそういう見方は正確ではないということになる。生田は所感派の流れを汲むバリバリの党組織派学生党員であり、もと東大自治会中央委議長であった。その生田を裏方として表に島が立ち、その他有能闘士が取り巻きうごめいていたということになる。してみればブントとは、所感派と国際派の急進主義部分のエッセンス的な結合として誕生していたとみなさねばならないということになるであろう。なお、いかにもブント的であるが、この時革共同メンバーも参加している。
ちなみに、歴史的な意味でのブント(=BUND)とは、「共産主義者同盟」(=Bund der Kommunisten
)の略称、通称であり、非公然の国際的な労働者組織(革命政党)の名称であった。1847年(弘化4年)
から1852年(嘉永5年)まで続いた共産主義者の最初の組織で、その濫觴(もののはじまり)は、183
4年(天保5年)パリに亡命していたドイツ人亡命者がつくった追放者同盟である。1847年(弘化4年)
には科学的社会主義を受け入れ、同年夏、ロンドンで開かれた「義人同盟」の大会で「共産主義者同盟」と改
称する。共産主義者の目的は”既存の全社会組織を暴力的に転覆することによってのみ達成できる”と宣言し、
”支配階級をして共産主義革命のまえに戦慄せしめよ!万国のプロレタリア団結せよ!”の呼び掛けで有名な
あの「共産党宣言」は、このブントの綱領であり、1848年(嘉永元年)マルクスとエンゲルスが起草した
ものである。
この経過の「定説」は次のように言われている。ブント(BUNT)とは ドイツ語で同盟の意味であり、代々木系日共運動と決別する強い意志を込めて党=パルタイに対する反語としての気持ちが込められていた。「組織の前に綱領を!行動の前に綱領!
全くの小ブルジョアイデオロギーにすぎない。日々生起する階級闘争の課題にこたえつつ闘争を組織し、その実践の火の試練の中で真実の綱領を作り上げねばなら
ぬ」(新左翼の20年史)と宣言し、新左翼党派結成を目指すことになった。
「『ブント』は、『革共同』と同 じく日本共産党の『六全協』、ソ連共産党の『スターリン批判』などによる共産主義運動の混迷の中から形成された。『革共同』がトロツキズムを信奉する元日共党員らを中心に組織されたのに対し、『ブント』は、旧『国際派』系の急進主義的活動家を中心として、トロツキズムを部分的には評価しながらも、全体としては受け入れず、そのため『革共同』に参加する潮流とは別個の独自の組織をつくった。日本共産党を批判する立場から、同党を離脱した『全学連』の幹部活動家が中心になって組織されたところに特徴がある」。ちなみに、「共産同(ブント)」と名乗ったことについて、島氏は後年「あまりたいした意味はないが、まだ当時、綱領、規約もなく、党という感じではなく、それかといって名がないのも困るので捜したら、エンゲルスの『共産同』というのがあり、これがいちばんよさそうだということできめてしまった」と述べている(1971.1.29
付朝日ジャーナル「激動の大学・戦後の証言」)。
党の公式的見解からすれば、このブント系もトロツキストであり、あたかも党
とは何らの関係も無いかのように十派一からげにされているが、それは宮顕流の御都合主義的な歪曲であり、史実は違って上述の通りであるということが知られねばならない。私には、宮顕の反動的な党運営が絡んで、党内急進派がブント系として止むに止まれず巣立ちしていった面もあったと見る。
(私論.私観)ブント結党をどう観るか
このブントの党史を巨視的に見れば、戦後の党運動における徳球系と宮顕系その他との抗争にとことん巻き込まれた結果の反省から、党からの自立的な新左翼運動(主として学生運動)を担おうとした気概から生まれた経緯を持つように思われる。理論的には、国際共産主義運動のスターリン的歪曲から自立させ、驚くべき事に自ら達が新国際共産主義運動の正統の流れを立て直そうと意気込みつつ悪戦苦闘して行った流れが見えてくる。もっとも、その認識の仕方と行動的手法において際限なく分裂化していくことになり、結果ブント系諸派を生み出していくこととなった。
ブント発生を近視的に見れば、「50年問題について」の総括後の当時の党が宮顕式路線に純化しつつあった状況とその指導に対する強い反発にあった様が伺える。宮顕式路線の本質が運動を作り出す方向に作用するのではなく、運動を押さえ込み右派的統制主義の枠内に押
し留めようとすることに重点機能していることを見据え、これに反発した学生党員の「内からの反乱」としてブントが結成されたという経過が踏まえられねばな
らないと思う。このセンテンスからすれば、元来党とブントは近い関係にあり、
ブントとはいわば急進的な潮流の党からの出奔とみなした方が的確と言えることになる。
(私論.私観)【ブントと革共同の違いについて】
こうした党内急進主義者たちのブント化の背景にあったもう一つの情勢的要因は、先行する革共同系の動きにあった。つまり、ブントは、一方で代々木と対立しつつ他方で革共同とも競り合った。この時のブントと革共同の理論的な相違について、島氏は次のように解説している。対立の第一点は、トロツキーの創設した第4インターの評価である。この時点の革共同は、トロツキー及び
第4インターを支持するかどうかが革命的基準であるとしていた。これに対し、
ブントは、第4インターにそれほどの価値を認めず、「世界組織が必要なら自前で新しいインターナショナルを創設すれば良い」としたようである。第二に、ソ連に対する態度に違いが見られた。この時点の革共同は、「反帝・反スタ」主義確立前であり、「帝国主義の攻撃に対する労働者国家無条件擁護」によるソ同盟の防衛に固執していた。これに対し、ブントは、「革命後50年近くも経過して強大な権力の官僚・
軍事独裁国家となり、労働者大衆を抑圧し、しかも世界革命運動をこの権力の道具に従属させ続けてきたソ連国家はもはや打倒すべき対象でしかない」
とした。付言すれば、こうしたブントの政治理論が革共同に影響を与え、「反帝・反スタ理論」を生み出していくこととなった風がある。理論の切磋琢磨の好例として私は着目している。
更に、島氏は、私が最も嫌悪したのは革共同の「加入戦術」であったと言う。「自分たちの組織はまだ小さいから既成の、可能性のある社会党などに加入してその中で組織化を行おう」という姿勢に対して、これをスケベ根性とみなした。「私たちは既成の如何なる組織・思考とも決別し、自らの力で誰にも頼らず新しい党を創ろうとし、ここに意義を見いだしていた」という。その他セクト主義・労働運動至上論等々の意見の相違を見て、ブントは翌59.4月頃には革共同派との決別を決意していた。古賀氏は後になって、「陽気で野放図で少しおめでたいようなブントに対し、革共同は深遠な哲学的原理を奉ずる陰気な秘密結社のようだった」と当時を回想している。案外とこういう気質面の差が大きな役割を占めているのかも知れぬ。
(私論.私観)【ブントとトロツキズムの関係について】
生田浩二氏は次のように述べていたと明らかにされている。「私はトロツキストではないが、トロツキーをスターリン主義との闘いの最先端と捉え返すならば、『トロツキスト』と呼ばれることを誇りに思う」(「60年安保とブントを読む」大瀬振氏の証言)
このブント結成にいたる経過について分かりやすく纏めた一文があるのでここに掲載する。(社労党機関紙「海つばめ」第783号.
町田勝)
一九五八年一二月、「革命的左翼の政治的結集」を掲げて、共産主義者同盟(ブント)が誕生した。ここに初めて公認のスターリニスト共産党に代わる新たな革命的労働者政党をめざす闘いが公然と開始された。これは日本社会主義運動史上に時代を画する大きな歴史的な出来事であった。
すでに見たように、これに先立つ三年前の一九五五年七月、日本共産党は六全協で分裂状態に終止符を打ち、組織の統一を回復した。しかし、旧主流派・所感派と新主流派・国際派との野合による党中央指導部のその後の動きは党の革命的再生をめざす誠実な党員たちの期待を全く踏みにじるものであった。
翌五六年のソ連共産党第二〇回大会におけるフルシチョフによるスターリン批判、またこれを契機にしたポーランド、ハンガリーにおけるスターリニスト共産党の支配に反対する民衆の決起は、日本のスターリニストたちにも自分たちの思想と理論、組織と運動に根底からの深刻な総括と反省を迫るものであった。しかし、宮本顕治らは何一つ真剣に自己切開のメスを加えようとはしなかった。
それどころか彼らは、ハンガリー民衆の蜂起を帝国主義の陰謀とののしり、ソ連の戦車による反乱鎮圧を「プロレタリア国際主義の現れ」と賛美するとともに、スターリン批判を「個人崇拝」や「家父長的指導」などに矮小化し、これらはすでに自分たちにとっては六全協で一足先に解決済みと居直り、あまつさえ党内問題を党外に持ち出したハンガリー党の無規律が帝国主義者の反革命的介入を許す一因となったとの口実の下に党内の官僚的統制の一層の強化に乗り出す始末であった。
そして、翌五七年九月に発表された「党章草案」は五一年綱領を手直ししたに過ぎない「対米従属」論と「二段階革命」論のドグマに基づく「民族民主革命」という典型的なスターリニズムの民族主義的綱領であった。
こうした中で、俄然、スターリン批判やハンガリー事件、新綱領路線をめぐって激しい論争が巻き起こった。党中央批判の一方の火の手は構造改革派からあげられ、他方ではこれとは全く別の観点から東大などの学生細胞に所属する党員たちからあげられた。
五八年一月、東大細胞機関誌『マルクス・レーニン主義』の山口一理論文でのろしをあげた学生党員たちは、五月には反戦学生同盟を社会主義学生同盟(社学同)に改称、続く全学連第一一回大会では党中央派を押し切って主導権を確立、大会翌日に党本部で開かれた全学連大会党員グループ会議では「第七回大会では、現在の党中央委員会を不信任するよう要求する」との決議を採択した(六・一事件)。一方、これに対して、宮本らは卑劣にも大量の除名処分をもって答えた。
ここに至って、学生党員らは公然たる分派闘争と新組織結成への動きを強めていく。九月には機関紙『プロレタリア通信』が創刊され、その第一号は現在の共産主義者の任務は「何よりも革命的前衛党のための粘りづよい努力を展開すること」にあると宣言した。そして、全学連もまたその闘いの一翼を担った勤評闘争、警職法闘争の大衆的な高揚を背景に、彼らは同年一二月、共産主義者同盟(ブント)を結成したのである。
翌五九年一月に創刊された機関誌『共産主義』第一号の、ブント結成宣言とも言うべき巻頭論文「全世界を獲得するために――プロレタリアートの焦眉の課題」は「社会主義革命の成功を導く能力を持つ革命的前衛を結集せよ」と高らかに呼びかけた。
「このような一九五九年の現代についての検討から導かれる結論はなにか?
それは世界資本主義の危機の成熟であり、この危機を逃れでる道、世界プロレタリア革命と共産主義の勝利の客観的諸前提の成熟であり、そして、この前提の存在にもかかわらず国際共産主義運動の勝利を阻害しているプロレタリアの指導部の危機による人類の歴史的危機である。
そしてこの指導部の危機の克服の道は、ただ一つ――一切の公認の共産主義運動の指導部に対するあらゆる幻想からプロレタリアートを解き放ち、真の革命的マルクス主義の再生にもとづいた革命的左翼を独立させ、このもとに革命的労働者を結集させることによってのみなされるという結論である」
ブントの歴史的な意義――それは、数十年にわたって世界と日本の労働者階級の運動を支配してきたスターリン主義の呪縛からの解放を公然と宣言し、「社共に代わる新たな革命政党の結成」を提起したこと、そして結成と同時に直面した安保闘争を「帝国主義的自立への第一歩を踏み出した独占資本に対する労働者の階級的闘い」と位置づけ、実践的にもこの闘いを領導することによって共産党の醜悪な民族主義の反動性を徹底的に告発し、長年の「前衛党神話」を打ち砕いたこと、まさにここにこそあった。 ブントのこの歴史的功績はどんなに強調しても強調しすぎることはないであろう。
(私論・私観)ブントの系譜を国際派系とすることについて
ブントの系譜を、1971.1.29 付朝日ジャーナル「激動の大学・戦後の証言」にあるように、「ブントは、旧『国際派』系の急進主義的活動家を中心として」結成されたという観点は正確であろうか。既に記したが、「数の問題ではそうであっても執行部という質の面においてはそういう見方は正確ではない」とすべきではなかろうか。れんだいこ的には、「時の急進主義学生のうちもっとも早熟な部分が革共同に向かい、向かわなかったというか取り残された急進主義派がブント結成へ向かった。この頃既に国際派、所感派という対立は引きずっておらず、この時代における急進主義派学生が自前で結成した金字塔的党派としてみなすべきではなかろうか。仮に『旧国際派系の急進主義的活動家を中心として結成された』と評されるなら、そうではない、『国際派(島)と所感派(生田)の見事な結合として結成された』とみなすべきであろう」。
これについて、「日本共産党史<私の証言>」(日本出版センター昭和45年刊、第三章全学連六・一事件、島成郎)に、「いわゆる国際派がでてきたのは、ぼくとか、高野とか、そのぐらいのものです。むしろ、所感派のゴリゴリだった奴が中心になったという感じですね。森田にしても、死んだ生田にしても、所感派だったわけですからね。それに、50年分裂を知っている六全協後の全学連の活動家と言うのはぼくぐらいまでです」(121P)、「当時は・・中国派という言葉はありませんけれども、今考えてみると中国派みたいな主張が全学連のなかにあったと思います。だから高野なんかが『あの頃の全学連主流派は中国派だ』と非難した。そういう意味ではむしろ、頑固派スターリン主義というかたちでいわれたことがあった」(119P)とあるようである。【インターネットサイト「四トロ同窓会二次会」での「所感派と第1次ブントの補足」投稿者・すえいどん、投稿日・1月15日(火)15時03分12秒】
【全学連第13回大会】
12.13−15日全学連第13回大会が開かれた。こうして58年は一年に3回も全学連大会が開かれることになった。この大会で、学生運動の性格を「学生運動は労働者階級の同盟軍として、いかにして労働者階級を革命闘争に決起させるかという観点から運動方針を立てるべきであって、その結果中間層である学生の間に分化が起こるのは当然であって、これに動揺して統一しようとしてはならない」と規定し直した。共産党から訣別し、「真の前衛党の組織化」が決意された。
人事が最後まで難航したが、委員長・塩川喜信(東大、革共同関西派)、副委員長・小島弘(明大)、加藤昇(早大)、書記長・土屋源太郎(革共同関西派)、清水書記次長、青木情宣部長を選出した。革共同系とブント系が指導部を争った結果、革共同系が委員長と書記長の中枢を押さえ、革共同の指導権が確立された大会であったとされている。ブントには革共同系の学生が多数組織的に潜入していたということであるが、こうして、この時革共同が委員長、副委員長、書記長などの三役を独占した(氏名が今一つ不明)。当時、革共同メンバーは同時にブントにも参加していたということでもあった。このことは、革共同の全学連への影響力が強まり、この時点で指導部を掌握するまでに至ったことを意味している。そのため、全学連指導部の内部で「純ブント」
と「革共同」の対立という新たな派閥抗争が発生することとなった。
その後も革共同系とブント系は運動論や革命路線論をめぐっての対立を発生させ、指導権を争っていくことになった。が、その後の史実から見て、多くの学生はブントを支持し流れていったようである。事実は、ブントが革共同系の追い出しを図ったということでもあると思われる。なお、この時の議案は、革共同のかねてからの主張であった「安保改定=
日本帝国主義の地位の確立→海外市場への割り込み、激化→必然的に国内の合理化の進行」という把握による「反合理化=反安保」で安保闘争を位置づけていたとのことである。ただし、こうした革共同理論に基づく長たらしい「反合理化闘争的安保闘争論」は、この当時の急進主義的学生活動家の気分にフィットせず、むしろ、安保そのもので闘おうとするブントの主張の方に共感が生まれ受け入れられていくことになったようである。ブントは、革共同的安保の捉え方を「経済主義」、「反合理化闘争への一面化」とみなし、「安保粉砕、日本帝国主義打倒」を正面からの政治闘争として位置づけていくことを主張していた。
「ブント−社学同」の思想の背景にあったものは、日本共産党が日本の革命的政治を担うことができないと断じ、これに代わる「労働者階級の新しい真の前衛組織」の創出であった。こういう観点から、学生運動を労働運動との先駆的同盟軍として位置づけることになった。党の「民族解放民主革命の理論」
(アメリカ帝国主義からの日本民族の解放をしてから社会主義革命という二段
階革命論)に基づく「民主主義革命路線」に対して、明確に「社会主義革命路線」を掲げていた。代々木官僚に反旗を翻しただけでなく、本家のソ連・中国
共産党をスターリン主義と断罪、その打倒を掲げ、「全世界を獲得せよ」と宣言していた。革共同の思想的影響の取り込みが見られる。これを図式化すれば
次のようになり、党の綱領路線とことごとく対立していたことが判る。平和共存・一国社会主義→世界永続革命、二段階革命→一段階社会主義革命、議会主義→プロレタリア独裁、平和革命→暴力革命、スターリン主義→レーニン主義の復権。
この頃ブントを率いる島氏の回りに次第に人材が寄ってくることになった。香村正雄(東大経済卒、現公認会計士)、古賀康正(東大農卒、現農学者)、鈴木啓一(東大文卒、現森茂)、樺美智子(東大文、安保闘争で死亡)、倉石庸、
少し後から多田靖・常木守等が常駐化したようである。2.15日機関紙「共産主義」が創刊された。論客として、佐伯(東大卒、山口一理論文執筆他)、青木昌彦(東大卒、現経済学者、姫岡論文執筆)、片山○夫(早大卒、現会社
役員)、生田浩二、大瀬振、陶山健一。
この時期の党の青年運動組織への指導ぶりは次のようなものであった。全学連のブント化の動きに対して12.25日党は幹部会を開催し、幹部会声明で「学生運動内に巣くう極左日和見主義反党分派を粉砕せよ」と全学連指導部の極左主義とトロツキズムの打倒を公言した。ブント結成後旬日も経たないうちの12.25.27日付け「アカハタ」
紙上の一面トップ全段抜きでこの幹部会声明を掲載した。この時「島他7名の除名について」
も合わせて報ぜられた。こうして党は、社学同を排撃し、一方で党中央委員会の査問を開始し、正月と共に全国の学生細胞に直接中央委員などをさし向け、一斉弾圧を策した。他方で、民青同学生班を強化育成していくこととなった。
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6.15.:1960年安保40周年、ロフトプラス1で回顧座談
前回の最後に、日本共産党本部での1960年安保闘争に溯る偶然の対話を記した。以下、その経過の記述を一部省略、一部増補して、再録する。原文は、そのままになっているので、まだの方は、お読み頂きたい。
…………………………………………………………………………………………
私の学生時代の文学部の同窓生で1960年安保闘争の死者、樺美智子は、当時の東大学生細胞がハンガリー動乱におけるソ連の武力干渉を批判した経過の中で、日本共産党から除名されたグループの一員だった。この経過が、今なお続く全学連の分裂につながる。その後、日本共産党中央委員会の方が、歯切れは悪いが、ともかく、スターリン批判に転じ、ハンガリー動乱におけるソ連の武力干渉についての当時の見解を修正した。その時に初めて、当時は「ノンポリ」の私は、樺美智子らの除名の政治的経過を知ったのである。
上記のチャウシェスク問題の最終段階で、ふと、この「除名の政治的経過」を聞いたところ、同席していた中央委員の一人が、私の質問に答えて、樺美智子らが属していた東大細胞の一団が代々木本部に来て、揉めた時のことを言い出した。簡単に言えば「ここで暴力を振るった」というのだが、私が、「若いのが怒れば手ぐらい出るだろ。誰が手を出したのか。誰か怪我でもしたのか」と聞くと、それには返事がない。まるで具体的ではない。誰かが手を出したから、しめたとばかりに、まるごと除名処分して片付けたという感じだった。いずれにしても、警察に届けたわけではないから、何の公式記録もない。ともかく、些細な衝突を根拠に、その後の経過から見れば、当時は正しい主張をしていた方の若者のグループが、まるごと日本共産党から排除され、しかも、以後どころか、私も直接その姿を見ている樺美智子の場合には、国会の構内で警察官の軍靴と同様の固い靴で蹴り殺され、車の下に蹴り込まれていたというのに、死後にも「トロッキスト」呼ばわりされ続けているのである。
その10 | 第5期(59年)【ブント執行部の確立と全学連運動の突出化】 |
以降の流れに入る前に、ここで原理的な問いかけをしておこうと思う。学生運動内における暴力の発生とそうしたゲバルト路線の定式化に関する是非について考察してみたい。既に「全学連第11回大会」における全学連主流派による反主流派(党中央派)の高野グループ派の暴力的な追いだしに触れたが、これより後左翼運動内にこの暴力主義的傾向が次第にエスカレートして いく過程を見ていくことになる。最初は、反代々木派による代々木派への暴力であったが、この勢いは追って反代々木派諸派内にも無制限に進行していくこ とになる。恐らく「暴力革命論」上の社会機構の改変的暴力性を、左翼運動内の理論闘争の決着の着け方の手法にまで安易に横滑りさせていったのではないかと思われるが、如何なものであろうか。 「オウム」にはポア理論という結構なものがあるが、それに類似した理論を創造しないまま暴力を無規制に持ち込むのはマルクス主義的知性の頽廃なのではなかろうか。あるいはまた警官隊→機動隊との衝突を通じて暴力意識を醸成していった結果暴力性の一人歩きを許してしまったのかもしれない。私は、オカシイと思うし、ここを解決しない限り左翼運動の再生はありえないとも思う。「党内反対派の処遇基準と非暴力的解決基準の確立」に対する左翼の能力が問われているように思う。 「意見・見解の相違→分派→分党」が当たり前なら星の数ほど党派が生まれざるをえず、暴力で解決するのなら国家権力こそが最大党派ということになる。その国家権力でさえ、「一応」議会・法律という手続きに基づいて意思を貫徹せざるをえないというタガがはめられていることを前提として機能しているのが近代以降の特徴であることを思えば、左翼陣営内の暴力性は左翼が近代以前の世界の中で蠢いているということになりはしないか。暴力性の最大党 派国家権力が暴力性を恣意的に行使せず、その恩恵の枠内で弱小党派が恣意的に暴力を行使しうるとすれば、それは「掌中」のことであり、どこか怪しい 「甘え」の臭いがする、と私は思っている。 ついでにもう一つ触れておくと、この時期全学連は当然のごとくに立ちはだかる眼前の敵警官隊→機動隊にぶつかっていくことになるが、彼らこそその多 くは高卒の青年であり労働者階級もしくは農民層の子弟であった。大学生の エリートがその壁を敵視して彼らに挑まねばならなかった不条理にこそ思い至 るべきではなかろうか。街頭ゲバルト主義化には時の勢いというものもあるのであろうが、ここで酔うことは許されない限定性のものであるべきだとも思う。 頭脳戦において左翼は体制側のそれにうまくあやされているのではなかろう か。この観点は、戦前の党運動に対する特高側の狡知に党が頭脳戦においても敗北していたという見方とも通じている。それはそれとしてそれにしても、この時期ブントの動きは日本大衆闘争史上例のない闘いを切り開いていくことになる。 |
(1959年の動き)
59年の特徴は、再建された全学連の指導部をブント系が掌握し、急進主義運動を担いつつ「60年安保闘争」を主導的にリードしていったことに認められる。ブントは見る見る組織を拡大し、当時は革共同が主導権を握っていた全学連の主導権を奪い返すに至った。こうして少数派に甘んじることを余儀なくされた革共同系は、ブント系の指導下でこの時期共に全学連運動を急進主義的に突出させていくことになった。この間民青同系は、こうした全学連の政治闘争主義化にたじろぎつつも指導に服していたようである。
1.1日全学連意見書「日本共産党の危機と学生運動」が発表されている。香山健一全学連委員長が責任者として作成されたが、全学連中央の統一見解としては採択されなかった。「現在の危機のうちで、何よりも深刻な点は、日和見主義.ブルジョア民族主義.官僚主義が共産党の公認の指導部の大多数を支配してしまったことにある」という前書きから始まり、「反スターリン主義の理論として喧伝されている“人民戦線戦術”“長期的平和共存”“革命の平和的移行”“各国の社会主義への道”“構造的改良”というフルシチョフ路線こそ、まさに、『一国社会主義論の絶対化』と『世界革命の放棄』によって、世界プロレタリアート解放の事業を裏切り続けてきたスターリン主義の現代版に外ならない修正主義であることを知ったのである。そして、われわれが実践のなかで痛感してきた党中央の右翼日和見主義、平和擁護運動における没階級的理論、民族主義、革命における二段階革命論が、まさにソ連共産党を先頭としたスターリン主義的指導部の理論よりの必然的結果であることを知った。……党中央は自らの頭脳で自主的に思考する能力を完全に失っていた。それは共産主義者としての最も基本的、初歩的な能力の喪失を意味する」としたうえ、「我々はまずマルクス・レーニン主義の原点に立ち帰り、スターリン主義的な平和共存路線と訣別し、世界革命の一環として日本革命を闘い取ろう」と主張していた。
1.1日 キューバ革命が勝利した。
1月末、社学同の書記局員香村正雄氏が、本郷元町に「世界労働運動研究所」を設立し、ここがブントの本拠となった。
2月岸内閣は安保改定に公然と乗り出した。この時革共同派が執行部を握った全学連は、「合理化粉砕の春闘を如何に闘うべきか、これこそまさに革命の当面の中心課題である」とし、「労働運動理論」を長々と述べる理論活動に傾斜しつつあった。ブント派はこれを思弁主義として退け、安保闘争を一直線の政治課題として捉える運動を指針させていった。
2.15日香村正雄氏が中心となってブント機関誌「共産主義」創刊。2月ブント第2回大会。
3.28日全学連第18回中委が開かれ、ブント−革共同−民青同の激しい主導権争いが為された。
3.28日「安保条約改定阻止国民会議」が結成された。これには総評・社会党・全日農・原水協など13団体が中央幹事団体となり、共産党はオブザーバーとしての参加が認められた。以降「国民会議」は二十数波にわたる統一行動を組織していくことになった。しかも、この共闘組織は、中央段階のみならず、都道府県・地区・地域など日本の隅々にまでつくられ、その数は2千を越えていくことになる。3.30日東京地裁が「米軍駐留は違憲」とする判決を出した。伊達判決と云われる。
陶山卒業で就職。
4月 「現代の理論」が創刊されたが党の圧力で廃刊に追い込まれることになる。井汲門下の上田、不破と安東の別れとなる。「あの兄弟は本質的には構造改革派」とする安東の意見が為されている。〃安東の診断はなかなか当たらないようになってきた〃とも云われた。
4.15日国民会議の第一次統一行動。約7000名が参加した。全学連は約600名で盛り上がりに欠けた。
4.28日全学連は、「安保改定阻止、岸内閣打倒」をスロ ーガンに第一波統一行動を起こしている、約1000名結集。
5.15日国民会議の第二次統一行動、全学連もこれに呼応して第二波闘争として約5000名を集めて闘った。だが、全国的にも主要拠点校だけの闘争に終わり、低調となった。
社学同は、大瀬委員長の一時期を挟んで、定期大会で篠原浩一郎―藤原慶久コンビとなる。
【全学連第14回大会開催され、ブントが指導権確立】
6.5−8日全学連第14回大会が開かれた。約1000名参加。この大会は、ブント・民青同・革共同の三つどもえの激しい争いとなり、先の大会以来革共同に抑えられていた全学連の中央執行部の主導権をブント系が再び奪い返して決着した。この大会では、執行部の議案が賛成217、反対157、保留8となり、反主流派(民青系)が急追してきていたが、執行部中央執行委員会の過半数をブントが占め、一部革共同を含めて反日共系で独占した。
人事は、唐牛健太郎(北大)が委員長として選出され、清水丈夫書記長、副委員長には加藤昇(早大)と糠谷秀剛(東大法)、青木昌彦、奥田正一(早大)が新執行部とな
った。中執委員数内訳は、ブントが17、革共同13、民青同0、中央委員数は、ブント52、革共同28、民青同30。
こうして、ブントは、「ブント―社学同―全学連」を一本化した組織体制で、革共同派と連立しつつ「60年安保闘争」に突入していくことになった。唐牛新委員長下の全学連は、以下見ていくように「安保改定阻止、岸内閣打倒」のスローガンを掲げ、闘争の中心勢力としてむしろ主役を演じながら、再度にわたる「国会突入闘争」や「岸渡米阻止羽田闘争」などに精力的に取り組んでいくことになった。この当時のブントは約1800名で学生が8割を占めていたと言われている。この時期ブントは、「安保が倒れるか、ブントが倒れるか」と公言しつつ安保闘争に組織的命運を賭けていくことになった。
この経過は、「この共産同には、革共同系の学生が多数組織的に潜入し、共産同結成の際は、委員長、副委員長、書記長などの三役を独占しました。そのため、全学連指導部の内部で「純共産同」と「革共同」の対立という新たな派閥抗争が発生しました。純共産同系は、革共同系の追い出しを図り、昭和三四年〔1959年〕六月の全学連第一四回大会では、純共産同系が中央執行委員会の過半数を獲得し、革共同から全学連の主導権を奪回しました。こうして、共産同は、「共産同―社学同(共産同の学生組織)―全学連」を一本化した組織体制で、六〇年安保闘争に突入しました」と簡潔にまとめられている。
この時の島氏の心境が次のように語られている。「再三の逡巡の末、私はこの安保闘争に生まれだばかりのブントの力を全てぶち込んで闘うことを心に決めた」、「闘いの中で争いを昇華させ、より高次の人間解放、社会変革の道を拓くかが前衛党の試金石になる」、概要「日本共産党には、『物言えば唇寒
し』の党内状況があった。生き生きとした人間の生命感情を抑圧し陰鬱な影の中に押し込んでしまう本来的属性があった」、「政治組織とはいえ、所詮いろいろな人間の寄り合いである。一人一人顔が違うように、思想も考え方もまして性格などそれぞれ百人百様である。そんな人間が一つの組織を作るのは、共同の行動でより有効に自分の考え、目的を実現する為であろう。ならば、それは自分の生命力の可能性をより以上に開花するものでなければならぬ。
様々な抑圧を解放して生きた感情の発露の上に行動がなされる、そんなカラ
リとした明るい色調が満ち満ちているような組織。『見ざる、聞かざる、言わざる』の一枚岩とは正反対の内外に拓かれた集まり、大衆運動の情況に応じて自在に変化できるアメーバの柔軟さ。戦後社会の平和と民主主義の擬制に疑
いを持ち、同じ土俵の上で風化していった既成左翼にあきたらなかった新世代学生の共感を獲ち得た」(「戦後史の証言ブント」)。以上のような島氏の発想には、かなりアナーキーなものがあることがしれる。こうしたアナーキー精神の善し悪しは私には分からない。このアナーキー精神と整合精神(物事に見通しと順序を立てて合理的に処そうとする精神)は極限期になればなるほど分化する二つの傾向として立ち現れ、気質によってどちらかを二者択一せざるをえないことになる、未だ決着のつかない難題として存立しているように思う。
なお、唐牛氏が委員長に目を付けられた背景として、「唐牛を呼んだ方がいいで。最近、カミソリの刃のようなのばっかりが東京におるけども、あれはいかぬ。まさかりのなたが一番いいんや、こういうときは。動転したらえらいことやし、バーンと決断して、腹をくくらすというのはね、太っ腹なやつじゃなきゃだめだ。多少あか抜けせんでも、スマートじゃなくても、そういうのが間違いないんや」(「戦後史の証言ブント」、星宮)ということになり、島氏が北海道まで説得に行ったと言われている。
この時の学生運動の諸潮流について次のように整理できるようである。@.ブント社学同系、A.共産党党中央派系、B共産党構造改革派系、C革共同関西派系、D革共同黒田系、E国際主義共産党(太田竜派)系。
この頃、不破哲三は、前衛6月号紙上で「マルクス主義と現代イデオロギー」を発表し、「現代トロツキズム」批判を繰り広げている。「山口一理論文」、「姫岡怜治論文」を槍玉に挙げ、総論的な批判を加えている。今日これを読み直すとき、とても正視できない無内容な饒舌であることが判明する。まさに、当時の急進主義者の動きに水を浴びせ砂をかけることのみが目的であったことが分かる。「もはや理論的批判の必要はない」、「この反革命的反社会主義的本質を徹底敵に暴露して、政治思想的に粉砕し尽くすことだけが残っている」と本音がどこにあるかを露にして締めくくっている。
6月頃ブントのイデオローグ姫岡玲治が、通称「姫岡国家独占資本主義論」と言われる論文を機関紙「共産主義3号」に発表
している。これがブント結成直後から崩壊に至るまでのブントの綱領的文献となった。この頃、全学連四役を含む幹部7名が党から除名処分にされている。6.25日国民会議の第三次統一行動、労・学2万6000名、全学連は約1000名結集。7.3−5日「全学連第19中委」が開かれ、「10月ゼネスト」の方針を打ち出す。7.4‐5日都学連第11回大会が開催されたが、流会となった。ブント系執行委員会原案に対して、革共同系の徳江書記長から修正案が出され、激論となった。両案とも過半数を取ることが出来ず、3日目の大会では革共同系が大会ボイコットし、ブント系と共産党系の討論となったが意見の一致を見ず、4日系水統計理由回となった。
6.25日安保改定阻止第3次統一行動。約3万名が参加した。全学連は約1万名を結集させた。
7月共産党は第6回中央委員会総会を開き、党員倍加運動に乗り出した。春日、内藤の反対。安保闘争への基本方針の策定。
7.25日第4次統一行動。
8.1‐7日第5回原水禁世界大会。
8.6日第5次統一行動。
【革共同の第二次分裂】
8.26日革共同は重大な岐路に立っていた。第二次分裂が発生している。革共同創立メンバーの一人西京司氏はこの間関西派を作り上げ、この関西派が中央書記局を制し革共同内の主導権を獲得していたようである。この経過にブントの結成が影響していた。ブントが結成されたことにより、それまで革共同周辺に結集しつつあった急進主義的活動家の多くがブントに流れ込み革共同中央書記局に危機を発生させた。その再編成過程で革共同中央書記局が関西に移され、関西派が革共同を代表するようになった。直後、西氏はこの頃「西テーゼ」を作成し、同盟の綱領として採択を図ろうとしたようであるが、この過程で黒田氏の影響下にある探求派と対立し、結局政治局員であった黒田氏を解任した。(この時黒田氏は「スパイ問題によって除名される」とある。概要「革共同創立の中心メンバーだった黒田はその翌年に『同盟にかくれて陰謀を弄び、敵権力との驚くべき取引を計画し、組織の防衛に対して全く不誠実な行動をとったことが暴露され』除名される」とあるが、「敵権力との驚くべき取引」内容までは分からない)
そこで黒田氏は本多延嘉氏と共に革共同全国委員会(革共同全国委)を作り、西氏の関西派と分離する。これがいわゆる革共同第二次分裂である。この経過に付き、黒田氏は、「わが革命的共産主義運動の約3ヵ年は、トロツキズム運動の伝統がまったく欠如していた我が国において、公認共産主義運動と敵対した運動を創造するという苦難に満ちた闘いであった。‐‐‐しかも、この闘いは、スターリンに虐殺されたトロッキーの革命理論と第4インターナショナルの運動を土着化させると同時に、それをも乗り越え発展させて行く、という革命的マルクス主義の立場において実現された」(黒田「日本の反スターリン主義運動」)と総括している。
革共同分裂の底流には、西氏らは第4インター参加に向かい、
黒田氏らは不参加を主張していたこと等に関する見解的な相違とか運動論をめぐっての確執が原因となっていたようである。この過程で革共同全国委派は、関西派を「純トロッキスト第4インター教条主義」と批判して、「反帝.反スタ主義」を基本テーゼとしたようである。詳細は不明であるが、西京司は、探求派を空論的非実践主義として批判し、討論を封殺し、無批判的支持を要求するカンパニアを組織した。これに対し、探求派は、「全国的な組織討議をいささかも組織することなしに、しかも綱領的反対派の欠席のもとで『決定』されたこの西テーゼは関西派の分派綱領以外のなにものでもない」、「綱領的反対派締出しの陰謀は、いよいよ魔女狩りの様相をおびつつある。関西派の書記局通達第三号(9.10日付)は明らかにかれらがわが同盟を関西派分派の徒党と化そうとする決意のもとに、すべての俗物的統制をおし進めつつあることを露骨に表現している」とある。
両派は、ソ連論をめぐっても対立していたようである。革共同関西派は「労働者国家無条件擁護、スターリニスト官僚打倒」と主張し、革共同全国委派はこれを修正主義と批判しつつ「反帝反スタ」を基本テーゼとする立場から反論したようである。「スターリニスト官僚打倒を通じて新しい革命党を結成し、これを実体的基礎としたプロレタリア世界革命を実現する。それゆえに、このたたかいは、反帝反スターリニズムであり、その根底的立脚点=革命的立脚点は革命的マルキシズムにある」(組織論序説)、「(関西派は)パブロ=太田修正主義への後退を準備している」とある。当時争議化しつつあった三井・三池鉱山闘争に関連して、「炭鉱の国営国管問題」についても対立をもたらしたようである。全学連運動に対しても、関西派が国会突入方針に反対し、羽田闘争を反労働者的と非難したのに対し、これを関西派の堕落ときめつけた。なお、関西派がほかならぬ関西において学生戦線のヘゲモニーを民青同派に奪われたという状況も関連していたようである。「中央書記局のお膝元で招来したこの無残な敗北から教訓をみちびきだしえぬ客観主義者のみが、よく『探究派』退治に血の道をあげうるのである」とある。革共同全国委は、ブントとの違いも強調していた。全学連の「日中の労働者、学生は日本帝国主義の復活を粉砕せよ」スローガンに対して、左翼スターリン主義と規定し、こうした傾向を粉砕するために闘うとしていた。
これにより、全学連内は、@.ブント系、A.日本共産党系、B.革共同関西派系、C.革共同全国委系の四グループの対立が進行していくことになる。
【ブント第3回党大会開催】
8.29−31日ブント第3回全国大会。1・綱領の決定、2・全国的大衆政治新聞の発行、3・中央・地方の同盟機関の確定、4・人事の4項目に就いて協議し、1、2の方針化と3、4の決定を行った。
綱領草案は、ブント事務所(文京区元町の世界労働運動研究所)で生田、片山、青木らを中心にして論議をしていくことになる。第一次草案を生田が執筆し、第二次、三次草案と訂正されていった。(結局草案のまま終わる)との伝もあるが、この時の党大会で「第三次草案と規約」が採択されたとの伝もある。
そこでは、「同盟の目的は、ブルジョアジーの打倒、プロレタリアートの支配、階級対立に基づくブルジョア社会の止揚及び階級と私的所有の無い新しい社会を建設することにある。同盟は、一国の社会主義建設の強行と平和共存政策によって世界革命を裏切る日和見主義の組織に堕落した公認の共産主義指導部(スターリン主義官僚)と理論的、組織的に自らをはっきりと区別し、それとの非妥協的な闘争を行い、新しいインターナショナルを全世界に組織するために努力し、世界革命の一環としての日本プロレタリアート革命の勝利の為に闘う。同盟は、民主集中制の組織原理に貫かれる日本労働者階級の新しい前衛組織である」と謳われており、日共との決別宣言ともなっている。
9.5日全学連が第19回中委。
9.18日全学連は、清水谷での安保改定阻止統一行動に約1500名結集。
9.26日党都会議で、港、千代田地区委が党中央攻撃。
10月社会党から西尾末弘一派が脱党した。この頃までの安保闘争は、低調であった。
10.20日第7次統一行動。
10.26日全学連、安保改定阻止・炭労合理化反対・秋闘中央総決起集会に学生1000名結集。
10.30日安保改定阻止統一行動、全学連はゼネストの形で闘おうと呼びかけ、全国スト90校、121自治会、行動参加者全国30万名、都内約1万5000名で雨の中を比谷野音で集会.デモ。夜は、夜間部学生2000名が「公安条例後、始めて認められた」夜間デモを行った。「10.30の学生の全国ゼネスト闘争は、沈滞していた安保闘争に再び火を点じた」。
(私論.私見)