場面1 第一次ブント運動の誕生過程

 (最新見直し2007.6.18日)

(れんだいこのショートメッセージ)
 革共同、ブント両派の形成過程を検証する。革共同史については「トロツキズム運動の誕生過程、分裂過程考」に譲り、ここでは「第一次ブント運動の誕生過」を採り上げる。但し、全体の流れは「戦後学生運動考」の「(新左翼系=ブント・革共同)全学連の自立発展期」で考察しているので、ここではその補足をしておく。


【砂川闘争始まる】

 9.13日米軍立川基地の拡張工事の為砂川町の強制測量が開始され、地元反対派.労組.学生と警官が正面衝突した。砂川闘争の始まりである。

 9.14日再度衝突。一週間ほどのち、機動隊の小隊長、自殺。

 10.4日第二次測量開始。

 10.13日全学連と反対同盟らが警官隊と衝突し、流血事件が発生している。この様子を見て、当時の鳩山内閣は測量中止を発表することとなった。全学連と反対同盟側の勝利であった。


 9.14日共産党は、伊藤律を除名。

 9.19日原水協、結成。吉田嘉清が事務局長常任。 


 『六全協』後、日共国際派の勢力挽回とともに反戦学同も急速に勢力を盛り返し、1955.12月には第7回拡大全国委員会を開いて、政治闘争を通じて学生運動を盛り上げるとの方針を打ち出し、全学連にも着々と進出し、影響力を強めて行った。


 55年の暮れより56年の春にかけて、東大細胞の島成郎・森田実・中村光男・生田浩二・古賀康正らが中心になって全学連の再建に乗り出していくことになった。同じ思いで呼応したのが関西の星宮○生、早大の高野秀夫らであった。


(この時期の学生運動と日本共産との関係)

 この時期の党の青年運動組織への指導ぶりは次のようなものであった。この時期青年・学生運動は、急進主義派と穏和派に二分化しつつあった。主に穏和派の動きであると思われるが、民青団もまた全学連同様に「六全協」総括の煽りを受けて清算主義に陥り、自壊状況を現出していくことになった。マルクス・レーニン主義を学ぶことさえ放棄する傾向をも生みだし、解体寸前の状態に落ち込んでいくことになった。

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(1956年の動き)

 1.14日全学連、法政、中執委員会が停滞した活動を分析。この頃の早大全学協は、開店休業状態で、部室は隣の協組食堂の倉庫となる始末だった。


 1.23日東大教養学部で、授業料値上げ反対の代議員会が開かれ、低迷していた学生運動を突破する緒を開いた。後述する「層としての学生運動論」に基づく新たな活動の胎動であった。


 2.2日東大教養学部、教育大、御茶の水大などの学生4000名が、半年間の無風状態を破ってデモを行った。


 2月中野好夫氏が文芸春秋紙上で「もはや戦後ではない」と記し、実感をもって認知された。


ソ連共産党20回大会開催、スターリン批判行われる
 
2.14日 ソ連共産党20回大会が開かれ、両体制の平和共存、戦争の宿命的不可避性の否定、社会主義への平和的移行の可能性を発表した。このフルシチョフ・テーゼは概ね歓迎された。

 2.24日 フルシチョフ(ミコヤン?)がスターリン批判。上田耕一郎は、「すべてのマルクス主義者が例外なく信じている見解でさえ、まったくちがっていることがありうるということを、苦渋とともに悟らされた以上、私たちの進路をさぐるためにも、すでに歴史的判定のくだったものと思われるもろもろの過去の足跡の、いくつかの曲がり角について、捨て去った方向について、見えなかった道について、その隅々まで新しく自分の目で見直すことを、フルシチョフ報告は強いているともいえよう」と述べている。

 4.17日 コミンフォルムが運動における各民族の独自性を強調して解散。山辺健太郎氏らはスターリン礼賛。イタリア共産党は、スターリン批判を通じて社会主義へのイタリアの道=構造改革路線を打ち出す。

 全学連.〃学生運動では、1956年というのは、国際派ルネッサンスとでもいうべき年で、運動の形成の方法も、50年のレッドパージ反対闘争の復興の季節でした〃。


全学連第8回中委
 
4.4日全学連第8回中委が開かれた。後のブント運動の指導者島成郎が主導した。

 この「8中委」は、先の「7中委イズム」を、「学生運動を自然発生的運動に解消しようとすることであり、その合理化であった」、「学生の力量を過小評価した日常要求主義が学生運動を沈滞に陥れた」と批判する立場から、全学連の革命的伝統を回復し、当面する重要政治課題、平和擁護闘争を第一義的に掲げ全国一斉に行動を展開するという方針を採択した。こうしてこの「8中委」が全学連再建の基礎をつくることとなった。いわゆる 「8中委.9大会路線」と言う。

 「8中委」を契機として全学連と反戦学同は、政治闘争を志向する戦術再転換を行ない、急速に組織を立て直していくことになっ た。
当面の闘争を、核兵器実験禁止、小選挙区制反対、教育三法反対の三点に据えて、積極的な闘争方針を打ち出した。

 この時武井元委員長の主唱する「層としての学生運動論」が「7中委イズム」の批判の武器として影響を及ぼした。「層としての学生運動論」とは、

戦前の学生はブルジョア的で、社会的にも「学生さん」として特別扱いされていた。従って、大衆的学生運動の余地がなく、学生運動は一部の先進的学生による思想運動が主体となっていた。しかし戦後は、学生全体が「層として」、平和と民主主義の為に闘うようになった。全学生を包括する学生自治会とその総連合の組織は、このことを示しているし、また全学連の成立によって、「層としての」学生運動が保証されるようになった。
従って、学生の先進的.自覚的分子は学校の外へ出て活動するのではなく、層としての学生の戦うエネルギーを引き出し発展させることを、その主要な任務としなければならない。しかるに戦後の共産党の学生運動の指導は、この戦後学生運動の特徴を理解せず、戦前と同じように学生の先進分子を学生から引き離して、労働者、農民の中に入らせるという誤りをおかし、このため学生の闘うエネルギーを正しく発揮させることができなかった。
学生が「層として」闘争に決起するためには、世界平和とか民族の運命に関わるような問題を取り上げるべきである。このような問題でこそ学生はその正義感、知性、理想主義的精神と情熱を燃え立たせ、行動に決起し得るもので、労働者と違って、身の回りの経済要求で、全国的な闘争に立ち上がるものではない。
学生の闘争は、それ自体で直接反動勢力に打撃を与えるものではないが、学生が率先して、ゼネストなどの激烈な闘争に立ち上がることは、社会敵に大きな刺激を与え、人民大衆の戦列を鼓舞することになる。これが学生運動の戦略的任務である。
従って、全学連指導部は、国際.国内情勢を分析して、全学生を決起せしめるような当面の重要政治課題をいち早く取り上げ、討議資料を作り、一斉に全国の大学でクラス討論を組織し、学生の闘うエネルギーを燃え立たせ、全国的な政治的統一行動を適切に全学生の前に提起していく力量を持たなければならない。正しい状勢分析による正しい方針は必ず学生の総決起を促す。
従ってまた、学生の特徴である観念的な公式主義、急進主義的な傾向をプチブル的な動揺性とみるのではなく、学生運動の行動を引き起こす強力なばねとみなすべきである。
全学連指導部の方針で学生を全体として闘争に決起させるためには、全学連指導部の方針を理解し、周りの学生に宣伝し、組織する力量を持った活動家の集団が必要である。それは個人加入の同盟組織であるが、民主青年同盟のような労働者の青年を主体とした組織ではこの役割を果たすのに不適当であり、学生同盟をつくる必要がある、というようなものであった。

 この理論が、この頃の闘う学生に新たな明確な指針として受け入れられていくことになった。いわば、共産党の右から左へ、今また右へとぶれて一貫しない混迷の中にあった学生活動家のオアシス理論として歓迎されることとなった。これに果たした島成郎の功績を認めねばならない。


 折から国会に上程された56年前半の小選挙区制導入反対闘争が解体に瀕していた全学連の息を吹き返させていくこととなった。
 4.28日核実験の禁止、小選挙区制反対、教育三法反対の政治課題を掲げて全都学生決起大会が開かれ、3000名が参加した。

 この頃のことが、森田実氏により次のように明かされている。
清水幾太郎教授は、戦後日本の最も代表的な進歩的文化人であり、偉大な社会学者であったが、1956(昭和31)年4月末初めて個人的に話し合っている。その日、清水教授に指定された四谷の鰻屋に行ってみると、そこにいたのは清水教授、高野実前総評事務局長、青木市五郎砂川基地反対運動行動隊長の3氏だった。3氏とも明治生まれの気骨ある立派な人物だった。この3氏から「社会党、総評はいつ裏切るかわからない。全学連よ、立ち上がってくれ。砂川米軍基地拡張反対運動をわれわれと一緒にやってくれ」と熱心に説得され。私は清水、高野、青木3氏の真剣さに心を打たれ、「参加」を誓った。ここにおいて雲の上の存在だった清水教授と同志のような関係になった。


 5月スカルノが招請したアジア・アフリカ学生会議に学生新聞代表として香村正雄氏が参加。

 5.16日集会とデモ。4000名のデモで国会請願を行った。

 5.26日には日比谷音楽堂で1万の学生が結集し、全国40ケ所で集会・デモ、かなりの大学でストライキが打たれた。この闘争を通して解体状態になっていた地方学連が再開され、新しい自治会の全学連加盟も見られた。

 5.16、5.26の全国闘争によって7中委以来の沈滞が打ち破られ、学生運動が再び攻勢運動に転じる転換点になった。小選挙区制、教育三法は審議未了で廃案に追い込まれた。


全学連第9回大会

 全国的規模の闘争に取り組む過程で6.9−12日全学連第9回大会を開催した。「8中委路線」による運動の成功が承認され、当面する政治課題を掲げて全国一斉のゼネストをもって戦う方針が採択された。運動方針として、平和擁護闘争を中心に据え、原水爆禁止、軍事基地反対、日中日ソ国交回復、再軍備反対、憲法擁護の4点を軸とすることを確認した。「第二の全学連結成大会」とも云われる。

 同時に、「7中委イズム」的方針による身の回り的日常的闘争をも取り込まれており、左右の方針が散りばめられた大会となった。大会は、全学連第5回大会によって決議された「27名の国民戦線から追放する決議」、「反戦学生同盟の解散決議」を無効とする「日本反戦学生同盟との友好関係の回復並びに旧全学連中執27名追放決議を撤回する決議」を可決した。

 人事で、 委員長・香山健一(東大)、副委員長・星宮(立命館大)、・牧(東大)、書記長・高野秀夫(早大)らの四役を選出した。北大から 小野が中執となった。こうして、全学連は、急進主義的学生党員活動家の手により、党中央の指導を排して自力で再建されていくことになった。この時全学連中執委メンバーは19名中12名が党員であった。
(ところで、こうしてこの全学連大会で全学連が再建されたようにも思うが、次の10回大会で再建されたという記述がなされているのもありこの関係がよくはわからない)

 このいわば「左転換」に宮顕が指導し始めた日共党中央が「右」から介入し始め、全学連内部の主導権争いがこの後ずっと続いていくことになる。

 この大会では、この間の闘争を通じて「国会及び国民各層との連帯促進」、「総評・日教組・文化人らとの強力強化」、「自治会の蘇生」等がなされたと評価し、この方向での運動強化が確認された。教育三法反対闘争、56年秋の砂川闘争、 57年夏の第三次砂川闘争、57年後半の原水禁運動などに党の指導を離れた全学連運動として独自に取り組んでいくことになった。

 6月早大細胞の高野、全学連書記長が砂川闘争を指揮とある。


 6月ポーランド.ボズナニにおける官僚支配に対する労働者の反乱。


 8.9日長崎で第2回原水爆禁止世界大会が開かれ、5000名の日本代表と7カ国の代表が集まった。全学連も代表を送り、原水爆禁止運動を平和擁護闘争の統一的課題と評価した。

 8.26日プラハの国際学連大会。香村正雄氏が参加したが、中国全学連とソ連全学連が壇上で主導権争い、中ソ対立を目の当たりにした。


砂川基地反対闘争

 9.13日全学連は砂川基地反対の闘争宣言を発して現地闘争本部を設置し、10月になると学生はぞくぞく現地に乗り込み泊り込んだ。
学生隊列は3隊編成になり、第2隊は東大本郷+千代田ブロックで総指揮を生田が執り、これを佐竹(明大)、山下(中大)、服部(法政)が補佐した。佐伯が伝令役として、遠藤は医学連医療班を5班組織した。労働者部隊は、国労、都労連(都教組)が主力であった。

 砂川闘争では、全国から3000名を現地動員し、農民.労働者と共に泊り込むこととなった。強制測量が行われた10.12日には、反対同盟員、学生、労働者らが警官隊と衝突、多数の負傷者、逮捕者を出した。武装警官隊に襲われ、学生1000名重軽傷。


 
10.13日.砂川の激突で測量中止。

 10.14日鳩山内閣は遂に測量中止声明をせざるを得ないところとなった。

 「砂川基地反対闘争」は、全学連にとって、50年秋の反レッド.パージ闘争以来の勝利であり、学生運動史上歴史に残る輝かしい戦いとなった
その功績として、従来、軍事基地反対闘争は民族解放闘争や武装闘争の突破口的位置付けで取り組まれてきていたが、これを平和擁護闘争として取り組み、地元農民・市民・労組等々との提携による民主勢力の結集で闘うという貴重な経験となった。「この闘争の中でおびただしい活動家が育成された」(多田靖証言)とある。


砂川基地反対闘争をめぐる対立発生

 この時の砂川闘争では都委員会も全組織をあげてよく戦ったが、中央部のスターリン的干渉に悩まされた。このことが全学連中執の内部の現地指導部と留守指導部との間に、砂川闘争の評価をめぐって意見の対立を生じさせた。56年秋の砂川闘争後、学連内に内部対立が生じていた模様である。現地指導部が「現地動員主義の成功」評価で意気軒昂になったのに対して、留守指導部がその他の運動との結合との絡みでしか評価しないという対立であった。その後の経過からして、現地指導部を急進主義派、留守指導部を穏和主義派と見なすことができるように思われる。

 この意見の対立は、共に「層としての学生運動論」に依拠しつつも、この時期急進主義派が多数派を占め、「現地動員主義」を高く評価しその後の闘争的質の指針たらしめようとした。他方穏和主義派の方が少数派となり、「広範な学生の参加運動の志向」へと逆戻りさせようとした。こうして、全学連再建後の学生運動内部に早くも非和解的な二潮流が分岐していくことになった。この二つの潮流は激しく論争をしながらその後交わる事は無かった。

 以降、全学連内で主流と反主流の論争が表面化することとなった。砂川闘争を指導した東大出身の森田と学連書記長で早大出身の高野が対立した。「闘争勝利後の構造改革派=牧+高野と構改派反対・島との対立、森田実の背後に安東仁兵衛の奇怪な動き」とある。

 この時〃有名な孫悟空論議〃が為されている。「孫悟空論議」とは、砂川における学生の活動を、釈迦(世界情勢)の掌で踊った孫悟空に喩える高野の論で、運動における学生層の役割を過小評価するものとして非難された。石堂清倫氏は「学生がカタストロフ型の変革にあこがれ、長期の平和移行にあきたらないのは、よくある現象であった。しかしそうした外見的区別基準をもっていただけではない。それまでのスターリン型の思考が原型となっているところにスターリン主義が瓦解したのであるから、一時的な真空を何によって充たすかを十分に検討すべきであった。……いま一つ反省しなければならないのは、学生たちの中央軽蔑、一種の下克上現象の続出は、砂川闘争における中央部の無力、それに引きかえ学生は中央部なしに自分でやれるという自信をつけたことにあろうという片山さとしの説であるが、まさにそうである」と評している。

 もともと党の意向とも絡んだ組織運営をめぐっての対立であったようであるが、私立の雄早大と旧帝大の雄東大勢との反目も関連していたようでもある。高野派が党の意向を汲んでいたようで、この争いは闘いの戦術から政治路線、革命理論にまで及び果ては大衆的規模の対立までなった。
高野秀夫は、この後全学連反主流派の「構造改良派」の雄として50年代後半の学生運動を指導していくことになった。加えて、香山.森田の指導に対する物足りなさが次の流れへと向かうようである。


 原水禁運動では、ソ連の核実験の賛否をめぐって混乱が生じ、党がソ連の核実験を擁護していたことにより、原爆にもきれいなものとそうでないものがあるとか妙な弁明をせねばならないという事にもなったようである。その他授業料値上げ反対闘争にも取り組んだ。


 9月神山『スターリンの業績と害悪、個人崇拝の一般特殊的条件とその克服方法などの問題についてはもうだいたい知られている=率直な意見-トリアッティ提案を読んで←「世界」)』。党も神山もこの程度だった。


ハンガリー事件の衝撃

 10−11月ハンガリー事件が起こった。10.23日からハンガリーでは、政府の政策に不満を持つ人たちが集会やデモを始めた。次第にデモの参加者が増えていき、当初の平和的牧歌的なそれから暴動化へ転化していった。西側から相当数の撹乱分子が送り込まれ、扇動.挑発による共産党員への襲撃、殺害まで発生していった。遂にハンガリー政府はソ連軍に鎮圧要請した。ソ連軍が戦車と共に軍事介入して市民を弾圧する映像が流されてきた。党は、このソ連軍の行動を、「帝国主義勢力からの危険な干渉と闘う」としてハンガリーに対するソ連の武力介入を公然と支持した。このことが、学生たちの憤激を呼び党から離反させる強い契機となった。早大.一政委員会は抗議声明を出し、ソ連大使館に抗議文を手交している。この時早大細胞は沈黙している。但し、高野秀夫は、「ハンガリー出兵に対して、断固たる抗議行動が行えなかったのは、日本学生運動の恥辱である」とも述べている。

 こうした「衝撃、動揺、懐疑、憤激」を経て、全学連の幹部党員の間には、もはや共産党に見切りをつけて既成の権威の否定から新しいマルクス主義本来の立場に立った新しい運動組織を模索せしめていくことになった。この時既に先進的学生党員は一定の運動経験と理論能力を獲得していたということでもあろう。


 12.9日早大.松尾隆、自宅で心筋梗塞のため死亡.49歳。


 12月全学連10回中央医委員会の前日、代々木の日ソ学院で党員グループ会議が開かれ、席上「砂川闘争の評価」、「その後の不当弾圧に対する抗議運動の立ち遅れ」、「国鉄運賃値上げ反対」などにおける高野派の態度が批判された。この時、地方選出の中央執行委員と中央委員の圧倒的多数が高野派を批判している。因果関係がわからないが、副委員長・牧の罷免が為され、第10回大会での高野らの退任が決められた、とある(星宮*生証言)。


 12.23日 石橋内閣誕生(→翌年 2.23総辞職)。


(この時期の学生運動と日本共産との関係)

 この時期の党の青年運動組織への指導ぶりは次のようなものであった。こうした時期の56.11月に日本民主青年同盟(民青同)が発足している。民青同は、「マルクス・レーニン主義の原則に基づく階級的青年同盟の建設の方向を明らかにしていたが、進行しつつある反党的全学連再建派の流れと一線を画し、あくまで宮本式指導の下で青年運動を担おうとしたいわば穏健派傾向の党員学生活動家が組織されて行ったと見ることができる。いわば、愚鈍直なまでに戦前・戦後の党の歴史に信頼を寄せる立場から党の旗を護ろうと し、この時の党の指導にも従おうとした党員学生活動家が民青同に結集していくことになった、と思われる。

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(1957年)【新左翼(トロツキズム)の潮流発生】


トロツキズムの開封、反日共系左翼の誕生

 戦後学生運動の第4期の一コマとして、トロツキズム運動の誕生がある。このような背景から57年頃様々な反日共系左翼が誕生することとなった。これを一応新左翼と称することにする。新左翼が目指したのは、ほぼ共通してス ターリン主義によって汚染される以前の国際共産主義運動への回帰であり、 必然的にスターリンと対立し放逐されたトロツキーの再評価へと向かうことになった。この間の国際共産主義運動において、トロツキズムは鬼門筋として封印されていた。つまり一種禁断の木の実であった。

 スターリン政治の全的否定が相応しいのかどうか別にして、スターリンならではの影響として考えられることに、党内外の強権的支配と国際共産主義運動の「ソ連邦を共産主義の祖国とする防衛運動」へのねじ曲げが認められる。戦後の左翼運動のこの当時に於いて、スターリン主義のこの部分がにわかにクローズアップされてくることになった。 特に、スターリン流「祖国防衛運動」に対置されるトロツキーの「永久革命論」 (パーマネント・レボリューション)が脚光を浴び、席巻していくこととなった。

 
トロツキーを簡略に紹介すれば次のように云える。トロツキー(1879−1940年)は
当時レーニンに並ぶロシア革命の最大の指導者の一人であり、革命後のソビエト政権でも外務・軍事人民委員、軍事革命委員会議長などを歴任していた革命家である。が、レーニン死後前後の政争でスターリン勢力に破れ、1927年第15回大会で「反党分派活動」の理由で除名(ソ連共産党は分派活動を禁止していた)、1929年には強制的に国外追放された。

 この時の論争は多岐にわたるが、最大争点は、「トロツキー派はレーニン死後の『一国社会主義論争』で、西欧で革命が成功しない限りソ連での社会主義建設は不可能との立場から『永続的世界革命』を主張し、これに対しスターリン派は成立間もない社会主義国家ソ連の一国的防衛的擁護こそ優先されねばならないと反論し、両派が非和解的に対立した」ことにあった。結局、枢要権力機関を掌握していたスターリン派が多数派となり、トロツキー派は敗れた。トロツキーはその後国外での活動を余儀なくされたが、これを支持する勢力も根強く、1938年には「第4インターナショナル」を結成する等国際共産主義運動のもう一つの司令部を生み出し、スターリン指導のもとのコミンテルンに対抗することとなった。こうした最中の
1940年亡命先のメキシコでスターリンの刺客に暗殺された。この間のトロツキー及び「第4インターナショナル」運動を「トロツキズム」と云う。当時の国際共産主義運動で「トロツキズム」は、スターリンの指導する「正統」共産主義陣営から反革命的とされ、『トロツキスト』は反革命分子呼ばわりされ封印され続けてきていた。

 ところで、スターリンとトロツキーの評価に関係するレーニンの遺書は次のよ うに記されている。この遺書は、クループスカヤ夫人が1924年5月の第13回ソ連共産党大会の際に中央委員会書記局に提出した文書とのことである。 「同志スターリンは、書記長として恐るべき権力をその手中に集めているが、 予は、彼が、その権力を、必要な慎重さで使うことを知っているかどうか疑う… 。一方、同志トロツキーは、ずばぬけて賢い。彼は確かに中央委員中で最も賢い男だ。さらに彼は、自己の価値を知っており、また国家経済の行政的方面に関して完全に理解している。委員会におけるこの二人の重要な指導者の紛争は、突然に不測の分裂を来すかも知れない」(1922.12.25)、「スターリンは、あまりに粗暴である。この欠点は、我々共産党員の間では、全く差し支えないものであるが、書記長の任務を果たす上では、許容しがたい欠陥である。それゆえ、私は、スターリンを、この地位から除いて、もっと忍耐強く、 もっと忠実な、もっと洗練され、同志に対してもっと親切で、むら気の少ない、 彼よりもより優れた他の人物を、書記長の地位に充てることを提案する。これは些細なことのように思われるかも知れないが、分裂を防止する見地からいって、かつ、既に述べているスターリンとトロツキーの関係からいって些細なことではない。将来、決定的意義を持つことになるかもしれない」(1923.1.4)。その他「同志スターリンが党書記長として慎重に広大な権力を行使できるかどうか、私には確信が持てない」。不幸にしてレーニンのこの心配は的中することとなった。

 レーニンの死後、この二人(スターリンとトロツキー)の対立が激化した結果、遂にトロツキーが敗北し、スターリンが権力を握ることとなった。勝利したスターリン派は、トロツキー派を「帝国主義の手先」として排撃していくこととなった。こうしてその後の国際共産主義運動は、スターリンの指導により担われていくことになった。スターリン政治の全的否定が相応しいのかどうか別にして、スターリンならではの影響として考えられることに、党内外の強権的支配と国際共産主義運動の「ソ連邦を共産主義の祖国とする防衛運動」へのねじ曲げが認められる。戦後の左翼運動のこの当時に於いて、スターリン主義のこの部分がにわかにクローズアップされてくることになった。 特に、スターリン流「祖国防衛運動」に対置されるトロツキーの「永久革命論」 (パーマネント・レボリューション)が脚光を浴び、席巻していくこととなった。こうして、この時期宮顕が領導し始めた日本共産党批判の急進主義的潮流がこぞってトロツキズムの開封へと向かうことになった。

 この時期の「第4インターナショナル」は、パブロ、ジェルマン(マンデル)を中心とした「国際書記局多数派(IS派)」とアメリカのSWPを中心とした「国際委員会派(キャノン派.IC派)」とに分裂していた。この経過は次の通り。「第4インターナショナル」は、51年に開かれた第3回世界大会において、ユーゴと中国革命によって大きく切り開かれた大戦後の、プロレタリアートに有利な新しい世界情勢の転換を評価するテーゼを採択したが、その起草任にあたったのがパブロであった。この時パブロは、「第四インターナショナルを全体として政治的に再武装し統一させるとともに、組織戦術としての『長期加入戦術』をうち出した」。

 だが後にこのテーゼの欠陥を含めて内部に意見の対立が発生し、分裂を発生させた。最初はフランス支部の共産党への加入戦術をめぐって、IS派とフランスのランベール派との間に対立が発生した(52年)。やがて53年春から夏頃にはアメリカのSWP内部にも対立が発生し、この経過で秋頃「第4インターナショナル」そのもののが分裂する。この分裂の絡みに関係して、我が国のトロツキズム運動は当初より紆余曲折していくことになる。


  この時期日本共産党批判の潮流がこぞってトロツキズムの開封へと向かうことになった。このような動きの発生の前後を極力解明してみたい。これを表にして整理すると次のようになる。

山西英一らの三多摩グルー プ 

戦前より  日本で最初にトロツキストとしての活動を開始したのが山西英一であり、その組織として三多摩グルー プが生まれていた。

対馬忠行

 対馬忠行を中心として「反スターリン的マルクス・レーニン主義誌」の表題をつけた「先駆者」を刊行し、56.6月には「クレムリンの神話」を発刊し、現代ソ連国家をトロツキーの云う「堕落した労働者国家」から「官僚制国家資本主義」に変質したものと断定していた。
太田竜(栗原登一) 52年頃より  太田竜が「トロツキー主義によるレーニン主義の継承と発展をめざす」理論研究運動を開始していった。太田は山西英一と対馬忠行の影響下に、52年頃からトロツキストとして活動を開始している。
内田英世・富雄兄弟  
黒田グループ
西京司・岡谷進の関西グループ

 上記が日本トロツキズム運動に流れ込んでいくグループであるが、これ以外にも以下の反日共運動の研究団体が生み出され、「清新な理論研究」が相次いで生まれた。

思想の広場同人の編集になる「現代思潮」

東大自然弁証法研究会「科学と方法」
福本らの「農民懇話会」
京都の現代史研究会の「現代史研究」
愛知の「人民」
「現状分析研究会」 2月頃  浦和付近の青年たちによっ てが誕生し、その機関誌「現状分析」が発刊された。 「現状分析」は、「指導的な論理は、運動の最高指導者や一部の理論家だけによって生み出されるものではない。そこでは、名もない一人の声声が積み重なって、指導者や理論家の側に投影されるものでなければならない」という立場から左翼理論の見直しを発信させていた。
東大細胞による機関誌「マルクス・レーニン主義」 3月頃  大池文雄を中心に少数の同志たちで「批評」が 発行された。


(1957年の動き)

 
1.19日全学連第10中委が開かれた。多数派は、アメリカのアイゼンハワー大統領の年頭教書に反発して、沖縄の永久原爆基地化反対、日本本土の原爆基地化反対の闘争などアメリカの原水爆戦争政策即ちアイク.ドクトリンに反対して闘うことこそ全学連の第一義的任務であるという運動方針を決定した。少数派は国鉄運賃値上げ反対など、学生生活の擁護や民主主義教育擁護等の課題を主張した。


【「日本トロッキスト連盟」結成準備会】
 
この主流がわが国における最初となった日本トロツキスト運動を生み出すこととなった。まず、この当時思想的に近接していた黒田寛一や内田英世・富雄兄弟と太田竜らの3グループで1.17日「日本トロツキスト連盟」結成準備会がもたれ、1.27日「日本トロツキスト連盟」が発足した。内田らの「反逆者」が連盟機関紙となった。山西らの三多摩グループは時期尚早として結集してこなかった。西京司・岡谷進らの関西グループが参加してくるのは、翌年57年の3三月以降である。

 「日本トロツキスト連盟」は、第4インターナショナル日本支部を結成する準備会として位置付けられていた。当初は思想同人的サークル集団として発足した。日本トロツキスト連盟は、国際共産主義運動の歪曲の主原因をスターリニズムに求め、 スターリンが駆逐したトロツキー路線の方に共産主義運動の正当性を見いだそうとしていた。これが後の展開から見て新左翼の先駆的な流れとなった。その主張を見るに、「既成のあらゆる理論や思想は、我々にとっては盲従や跪拝の対象ではなく、まさに批判され摂取されるべき対象である。それらは、 我々のあくことなき探求の過程で、あるいは破棄され、あるいは血肉化されて、新しい思想創造の基礎となり、革命的実践として現実化されねばならない」(探求)という自覚を論拠としていたようである。つまり、早くも「60年安保闘争」の三年より前のこの時点で日本共産党的運動に見切りを付け、これに決別して日本共産党に替わる新党運動を創造することが始められていたと言える。


 この根底にあったものを「日本における革命的学生の政治的ラジカリズムと、プチブル的観念主義が極限化して発現したもの」とみなす見方があるが、 そういう見方の是非は別として、この潮流も始発は戦後の党運動から始まっており、党的運動の限界と疑問からいち早く発生しているということが踏まえられねばならないであろう。宮顕理論に拠れば、一貫してトロツキズムをして異星人の如くいかがわしさで吹聴しつつ党内教育を徹底し、トロツキストを「政府自民党の泳がせ政策」の手に乗る反党(ここは当たっている…私の注)反 共(ここが詐術である…私の注)主義者の如く罵倒していくことになるが、私はそうした感性が共有できない。前述した「党的運動の限界と疑問からの発生」という視点で見つめる必要がある。

【「スターリン批判」についての考察】

 ところで、今日の時点では漸く党も含め左翼人の常識として「スターリン批判」に同意するようになっているが、私には不十分なように見受けられる。なぜなら、「スターリン批判」は「トロツキー評価」と表裏の関係にあることを思えば、「トロツキー評価」に向かわない「スターリン批判」とは一体何なんだろう。 もっとも、党の場合、その替わりにかどうか「科学的社会主義」が言われるよう になってきた。「科学的社会主義」的言い回しの中で一応の「トロツキー評価」も組み込んでいるつもりかもしれない。が、あれほどトロツキズムを批判し続けてきた史実を持つ公党としての責任の取り方としてはオカシイのではなかろうか。スターリンとトロツキーに関して、それこそお得意の「自主独立的自前の」史的総括をしておくべしというのが筋なのではなかろうか。「自主独立精神」の真価はこういう面においてこそ率先して発揮されるべきではないのか、と思われるが如何でしょう。

 ちなみに、私は、我々の運動において一番肝心なスターリンとトロツキーとレーニンの大きな相違について次のように考えています。この二人の相違は、 党運動の中での見解とか指針の相違を「最大限統制しようとするのか」対「最大限認めようとするのか」をめぐっての気質のような違いとしての好例ではないかと。レーニンはややスターリン的に具体的な状況に応じてその両方を使い分ける「人治主義」的傾向を持っていたのではなかったのか。そういう手法はレーニンには可能であったが、スターリンには凶暴な如意棒に転化しやすい危険な主義であった。晩年のレーニンはこれに臍を噛みつつ既になす術を持たなかったのではなかったのか。スターリン手法とトロツキー手法の差は、どちらが正しいとかをめぐっての「絶対性真理」論議とは関係ないことのように思わ れる。運動論における気質の差ではなかろうか。「真理」の押しつけは、統制好きな気質を持つスターリン手法の専売であって、統制嫌いな気質を持つトロツキー手法にあっては煙たいものである。運動目的とその流れで一致しているのなら「いろいろやってみなはれ」と思う訳だから。ただし、トロツキー手法の場合「いざ鎌倉」の際の組織論・運動論を補完しておく必要があるとは思われるが。

 ついでにここで言っておくと、今日の風潮として、自己の主張の正しさを「強く主張する」のがスターリン主義であり、ソフトに主張するのが「科学的社会主義」者の態度のような踏まえ方から、強く意見を主張する者に対して安易にスターリニスト呼ばわりする傾向があるように見受けられる。これはオカシイ。強 くとかソフトとかはスターリン主義とは何の関係もない。主張における強弱の付 け方はその人の気質のようなものであり、どちらであろうとも、要は交叉する意見・異見・見解の相違をギリギリの摺り合わせまで公平に行うのか、はしょっ て権力的に又は暴力的な解決の手法で押さえつけつつ反対派を閉め出していくのかどうかが、スターリニストかどうかの分岐点ではなかろうか。スターリ ニズムとトロツキズムの原理的な面での相違はそのようなところにあると考えるのが私見です。こう考えると、宮本イズムは典型的なスターリニズムであり、不破氏のソフトスマイルは現象をアレンジしただけのスターリニズムであり、同時に日本のトロツキズムの排他性も随分いい加減なトロツキズムであるように思われる。


【「トロツキズムの影響」についての考察】

 さて、話が脱線したが、こうしてわが国にも登場することになったトロツキスト運動は、運動の当初より主導権をめぐって、あるいはまたトロツキー路線の評価をめぐって、あるいは既成左翼に対する対応の仕方とか党運動論をめぐって ゴタゴタした対立を見せていくことになり、日本共産主義労働者党→第4インター日本支部準備会→日本トロツキスト連盟→12.1日日本革命的共産主義者同盟(革共同)へと系譜していくことになる。新左翼運動をもしトロツキスト呼ばわりするとならば、日本トロツキスト連盟を看板に掲げたこの潮流がそれに値し、後に誕生するブントと区別する必要がある。そう言う意味において、日本トロツキスト連盟の系譜を「純」トロツキスト系と呼び、これに対しブント系譜を「準」トロツキスト系とみなすことを今はやりの「定説」としたい。日本トロツキスト連盟の系譜から後に新左翼最大の中核派と革マル派という二大セクトが生まれてお り、特に中核派の方にブントの合流がなされていくことになるので一定の混同が生じても致し方ない面もあるが。

 この時期全学連内の急進主義的学生党員活動家の一部はこの潮流に呼応し、急速にトロツキズムに傾いていくことになった。ただし、日本トロツキスト連盟の運動方針として「加盟戦術」による社会党・共産党の内部からの切り崩しを狙ったヤドカリ的手法を採用していたためか、自前の運動として左翼内の一勢力として立ち現れてくるようになるのはこの後のことになる。「加入戦術」と は、対象となる組織に加入し、内側から組織の切り崩しを行う戦術である。このグループの特長として理論闘争を重視するということと、セクト間の対立に陰謀的手法で解決をしていくことを意に介しない面と、暴力的手法による他党派排除を常用する癖があるように思われる。

 私が拘ることは以下の点である。上述したようにトロツキズムとは、レーニンによって批判され続けられたほどに 幅広の英明な運動論を基調とした左翼運動を目指していたことに特徴が認められる、と思われる。ところが、わが国で始まったトロツキズムは、その理論の鋭さやマルクス主義の斬新な見直しという功の面を評価することにやぶさかではないが、この後の運動展開の追跡で露わになると思われるが、意見の相違を平気で暴力的に解決する風潮を左翼運動内に持ち込んだ罪の面があるようにも思われる。この弊害は党のスターリニズム体質と好一対のものであり、日本の左翼運動の再生のために見据えておかねばならない重要な負の面であることも併せて指摘しておきたい。

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(1957年)反党派ブント系全学連の誕生期

 以降の流れに入る前に、ここで原理的な問いかけをしておこうと思う。この時期に潮流形成される全学連再建急進主義派が、学生運動を通じて「革命運動」に向かおうとしていたことの是非についてである。その際「ポツダム自治会」は二面で機能することになった。一つは培養基盤であるという正の面であ り、一つは革命的左翼運動にあっては手かせ足かせになるという負の面であった。党の青年・学生運動の指針は、この培養基盤という正の面を重視させる方向に働き、全学連再建急進主義派は、負の面である手かせ足かせを乗り越えようとして突出していくことになる。その両方を機能的に弁証法的に高めることが出来たら理想ではあろうが、実際にはそのようにはならない。

 ここで考えたいことがある。全学連再建急進主義派が押し進めた「学生自治会を足場にしながらの究極革命運動への邁進」はさすがに行き過ぎだったのだろうか、 いやそんなことはない、中国における五四運動を見よ、わが国での幕末の志士 たちの運動を見よ、皆うら若き二十歳前後の青年達の立派な政変闘争ではなかったか、という観点もまたあらためて検討されるに値するように思われる。

 この間一貫して今日まで党の指導は、こうした連中の「思い上がり」を、ある時には急進主義者、ある時には挑発者、ある時にはトロツキストと呼んで、むしろ積極的にこの動きを潰しにかかったという史実がある。事は難しそうだから解答までは必要とされないが、特に昨今の大衆運動の没化状況を考えた場合考究の余地は大いにあると思われる。「新日和見主義事件」考察の前提になる部分でもあるが、「新日和見主義事者」達は、これから見ていく流れに対し、一貫して党の方針に忠実一途で敵対していくことになる。そして、ほとぼりが冷めた頃自ら等もまた無用にされてしまった。そして25年の月日を沈黙させた。なぜ、闘わなかったんだろう、戦えなかったのだろう。トロツキストが政府に泳がせられていたとするなら、「新日和見主義事者」達もまた党に泳がせられていたのではないのか。この深い暗流に対して解析を試みようと思う。

【全学連第10中委】

 1.19日全学連第10中委が開かれた。多数派は、アメリカのアイゼンハワー大統領の年頭教書に反発して、沖縄の永久原爆基地化反対、日本本土の原爆基地化反対の闘争などアメリカの原水爆戦争政策即ちアイク.ドクトリンに反対して闘うことこそ全学連の第一義的任務であるという運動方針を決定した。少数派は国鉄運賃値上げ反対など、学生生活の擁護や民主主義教育擁護等の課題を主張した。

 2.1日全学連は、沖縄永久基地化反対、民主主義擁護全国学生決起大会を開いた。1500名の学生が結集してデモに移り、アメリカ大使館に抗議を行った。


 2月 共産党の大沢氏が「前衛」に初のスターリン批判。


 2.5日イギリス議会に対してクリスマス島の原爆実験中止の申し入れ決議を行った。


 2.23日沖縄返還要求大会が開かれ、全国6000名結集、学生は2000名参加。


 3.1日国民各層代表3000名が「クリスマス島水爆実験反対中央大会」を開き、英国大使館へ抗議デモ。


 春頃、反戦学生同盟(AG)大会が開かれ、中村光男が委員長、多田靖が書記長、中大の鈴木*也が副委員長になる。執行委員として、文学部の鈴木啓一、教育大の等々力孝一、東工大の小野田猛史、東大教養部(C)の清水丈夫、文学部の吉沢、東学大の大西ら。その他今日学者として知られている見田宗介(社会学)、山下、米子(中国革命史)らも関わっていた。この頃、次々に全国的にAG組織が作られていった。


第2回東京都党会議の混乱

 
3月注目されるべき事件が発生している。約400名の代議員を集めて開かれた第2回東京都党会議は、「六全協」以後の党中央の指導ぶりに対する批判と追求の場となり大混乱に陥った。増田・武井・安東・片山・野田・芝・ 高山・西尾・山本・志摩らの急進主義者らと各地区委員会から選出されていた革新派らが、党中央の責任を明確にせよと迫り、このため党中央を代表して出席していた野坂・宮本・春日正一らが壇上で立ち往生させられたのである。この時の都委員会の選挙では、宮本の介入を排して、元全学連委員長武井らの批判派が都委員に19名中10名、さらに芝寛を都書記に選ぶことになった。この時の東京都党会議の決議案は、党指導部への批判や官僚主義への反対などを強く打ち出した。宮本は「中央の認めない決議は無効だ」として居直ったようである。宮本氏の「民主集中制」論の体質は、こういう危機の場合にその本質が露呈する。「中央の認めない決議が無効だ」とすれば、党内民主主義も何もあったものではない。党中央へのイエスしか出来ないということになる。こういう史実を踏まえて、現下党中央の「民主集中制」論の是非を問わねばならないのではなかろうか。

 この経過を見て注目されるべきことがある。かっての全学連結成期の指導者であった武井・安東らが、この時点で東京都党委員になっており、批判派として立ち現れてきていることである。武井・安東らは、この間一貫して宮本グループの傘下に位置しつつ相呼応して徳田系執行部の指導に異議を唱え、党内分裂期にもひたすら国際派として宮本グループと歩調を共にしてきていたことを考えると、この頃蜜月時代が終わったということであろう。この時若手の武井・安東らは、徳田系にも宮本系にも党内反対派として位置していた野田グループと協調しつつ、「六全協」・「第7回党大会」の経過で進行しつつある宮本グループ系の宮廷革命の動きに対して反逆し始めていたことが知れる。理論的にも、宮本が中心となって起草していた「党章草案」の現状規定とか革命展望に対して意見を異にしていった様が見えてくる。


 4.1日全学連第11回中央委員会が開かれ、4月の新学年を迎えての核実験.核戦争体制反対闘争が指令された。

 4.24日成立した岸内閣を買弁内閣であると規定し、その外交政策転換闘争も決めた。

 4.27日第一次統一行動(東京2300、札幌1500、京都1100、その他全国各地)。

 5.1日メーデー参加。

 5.3日全学連中執の5.17闘争宣言。

 5.11日国鉄の処分反対闘争支援。

 5.15日イギリス政府はクリスマス島で原爆実験を強行した。

 5.16日全国の大学で抗議集会がもたれ、5.17日全学連は大統一行動を組織し全国60の都市で抗議集会を開いた。東京では2万5000名が参加し、最高の動員数となった。夜は夜学生6000名のちょうちんデモ、その他の各地でも京都の4000名をはじめ、かってない規模で集会が持たれた。この5.17統一行動の組織の仕方は、全学連の8中委、9大会で形成され、砂川闘争以後内部での闘争を通して再確認された、「学生運動の全国一斉統一行動方式」の典型的実践であり、その後この経験は、学生運動の模範として定式化されることになった。


 5.21日 共産党の志田重男が除名。


 この時期、書記局内で森田らと高野派との対立が激化していた。互いに主導権の取り合いを廻っての抗争であったが、この時島成郎の動きは中間派であった。「人間と人間とのぶつかり合いに対して、一歩退いた形で見ていた。彼の持っている気質には合わなかったのかも知れない。57年の全学連第10回大会までの間、この対立と論争に彼はほとかど参加しなかった。高野との個人的な関係もあって、どうしても感情的に立ち入れなかったのではないかと思う」(星宮*生)とある。


全学連10回大会

 6.3日全学連10回大会が開かれ、270名の代議員が参加した。全学連はこの大会で「軌跡の再建」を遂げたと言われている。大会は9回大会路線の意義を再確認し、一層政治主義的傾向を強めた。

 大会は、「ストライキをやる目的は良いが、激しい形態をとるべきではない。その手段によって分裂を生む。それよりも集会程度の形態をとって、大勢の学生を集めて決議を行ったほうが効果がある」とする右翼反対派の主張を、「運動における無原則的な幅広理論であり、主体的条件を変える努力を怠る理論である」と規定して退け、「我々が強力な形態をとればとるほど対決する勢力との矛盾は鋭くなるが、我々の周りに結集する勢力も大きくなる」と闘争の意義を確認し、学生運動が独自に国際国内情勢を分析する能力を持ち、方針を立てていくという自律化を志向した。この頃になると、学生細胞の大部分は、共産党の方針は正しくないとして地区委員会の指導を受けようとせず、全学連の方針こそ正しいとみなしていた。当時東大学生細胞は細胞機関紙「マルクス=レーニン主義」を発行していたが、この機関紙の理論展開の方に共感していた。


 
人事で、委員長・香山健一(東大)、副委員長・小島弘(明大)、桜田健介(立命館大)、書記長・小野田正臣(東大)が選出され、その他森田実・島成郎・牧衰らが全学連中執、書記局に入り、以後全国学生運動の指導にあたることとなった。この頃、後の「60年安保闘争」を担う人士が続々と全学連に寄り集うことになり、新しい活動家が輩出していった。

 この大会で党の指示に従う高野派が敗退し、高野は書記長を辞め、その後は早大を拠点として全学連反主流派のまとめ役となっていくようである。日本共産党第7回党大会前の頃の動きであるが、全学連中央部から排除された高野派は、日共党中央と連携して、全学連中央に対する公然とした反対運動を展開し始めることになる。

 この経過を見てみると次のように言えるのではなかろうか。この当時のポスト武井時代の党員学生活動家のうちの急進主義的部分は、二つの側面からの闘いへと向かおうとしていた。一つは宮顕系宮廷革命の進行過程に対するアンチの立場の確立であり、後一つは先行して結成された日本トロツキスト連盟の戦闘的学生活動家取込みを通じた全学連への浸透に対する危機感であった。全学連再建派は、これらへの対応ということも要因としつつ懸命に全学連運動の再構築を模索し始めていったようである。

 こうして、この時期の党員学生活動家には、全学連再建急進主義派と日本トロッキスト連盟派と民青同派という三方向分離が見られていたことになる。
「新左翼運動40年の光と影25P」では、「確か1957年の夏に当時中野にあった私の自宅で確認したのだが、そのときの出席者は学連.東大から島成郎と私(塩川喜信)、早大から本多延嘉、小泉修一の4名で、やがてブントと革共同へと別れていくメンバーの呉越同舟であった」と明かされている。そういう産みの苦しみ.喜びの時期であったと思われる。

 ところで、宮顕系党中央は、この後この全学連急進主義グループをトロツキスト呼ばわりしていくことになるが、ならば、この時期党中央が全学連再建に向けて何ら有効に対処しえなかったこと、党の意向を汲んで動いていたと思われる高野派が敗退したことについての指導的責任を自らに問うというのが普通の感性だろうとは思う。が、この御仁からはそういう主体的な反省は聞こえてこない。むしろ、右翼的指導で全学連再建をリードしようとして失敗したという史実だけが残っている。


 6.15日岸首相ら渡米。6.21日日米共同宣言発表。


 6.21日全学連は沖縄の永久基地化に抗議して数百名の学生が警視庁前にテントをはって座り込んだ。


 7.8日再び砂川基地拡張の強制測量が行われ、夏休み中であったが学生は労働者と共にかけつけ、警官隊と対峙した。この時数十名の学生が、有刺鉄線を切り倒して基地内に突入した。「米軍基地内に初めて日本人が公然と突入した」と気勢をあげた。


 7月「日本トロツキスト連盟」を結成した中心人物の3名のうち、内田英世は太田との対立で組織を離脱。


 8.6日第3回原水爆禁止世界大会が開かれた。全学連は第一回原水禁世界大会以来、常にこの運動の先頭になって取り組んできたが、今回も精力的に活動を強めた。400名の学生が参加した。この時党中央は、統一行動の一致点を求めるためという名目での幅広主義による穏和化指導をなそうとした。全学連はこれに反発するアジ演説を為し、「無原則的な幅広論、単なるカンパ二ア主義に反対し筋を通さなければならない」と主張した。


 8.28日ソ連が大陸間弾道弾(ICBM)の実験に成功。


共産党の「日本共産党党章草案」が発表される

 この後9月に正式に「日本共産党党章草案」が発表された。宮顕草案であり現行の日共綱領の草案となっているものであるが、骨格として徳球草案の「51年綱領」にあった二段階革命論を継承していた。徳球草案にあった社会主義革命への強行的転化の戦略が後退させられていた。

 
党内で討論が開始され、東京都委員会はまっさきに反対決議を出している。「党章草案」が日本独占資本との対決を軽視し、社会主義への道の明確な提起を欠いているなどと批判し、草案に反対の態度を示した。ただし、この時の文面から見ると、構造改革論に近い見地から批判しているようである。同時に「党章草案」の中に含まれている規約草案 に対しても、これは「党内民主主義の拡大ではなくて縮小」であり、「中央、特に中央常任委員会の一方的な権限の拡大」であると批判した。

 こうした動きはこの時全国各地の党委員会に伝播しており、その様子を感じ取ってか、党は、翌58.1月の第17回拡大中委で一ヶ月後に予定していた第7回党大会を選挙への取り組みを口実に急遽延期することを決定している。


 綱領論争は、学生戦線でもっとも鋭く問われた。なぜなら、学生運動が党中央指導によって激しく打撃を受けてきたからであった。


 こうして「社学同」は、「日本独占資本が復活強化した」との評価を前面に出し、反独占闘争を強調したため、『六全協』後も『51年綱領』の情勢分析は正しいとしてきた日共中央と対立することとなった。このため、全学連内部は、再び紛糾し、


 9.22日砂川闘争時の基地突入者が逮捕され、全学連小野寺書記長、土屋都学連委員長等9名の学生、労働者14名が逮捕され起訴された。この事件は、後に東京地裁の判決(伊達判決)で、「米軍基地の存在そのものが憲法違反であり、基地への侵入は無罪である」という「伊達判決」が下されたことで画期的な意味を持つことになった。

 9.28日不当弾圧抗議が組織され、広汎な抗議闘争が組まれた。


 10.4日ソ連が世界最初の人工衛星スプートニク1号を軌道に乗せることに成功。


「ジグザグ.デモかバレードか」の対立発生

 11.1日第3回原水爆禁止世界大会の決議に基づく国際共同行動デーとして、日本全国各地100ヶ所で集会.デモが行われ、その参加者は約80万と言われたが、全学連は81大学181自治会で十数万の学生が参加した。この時、全学連中執内で対立が発生した。全学連多数派のジグザグ.デモ指揮に対して、一部の学生自治会はこれを拒否した。全学連中執は、「階級的裏切り行為」、「分裂行動」であるとしてこれを激しく非難した。責任追及は2名の中執(早大.神戸大)に及び罷免した。

 この頃、全学連指導部内には、「現在の情勢はアメリカ帝国主義の核戦争体制が一層強化され国際緊張は激化しつつある。従って、これに対しては激烈な形態で闘争しなければならない」という多数派と、「社会主義勢力の強化によって国際緊張は緩和しつつあり、従って大衆運動は幅広くしなければならない」という少数派の対立が発生していた。

 こうした認識の違いが行動方針にも反映し、「ジグザグ.デモかバレードか」、「ストライキか授業放棄か」という対立まで引き起こしていた。この穏和化路線を共産党が指導していた。


 11.13日全学連第14回拡大中委が開かれ、11.1行動を中心とする核実験反対闘争を総括するとともに、「右翼反対派」の中執委員2名を解任した。当時の「右翼反対派」は、「ストではなく授業放棄を」、「ジグザグデモではなくパレードを」と主張し、執拗に内部対立を煽っていたのが原因であった。


 11月モスクワで社会主義革命40周年祝典。志賀,蔵原.初の国際会議出席。


「日本革命的共産主義者同盟(革共同)」の誕生

 12月日本トロツキスト連盟は、日本革命的共産主義者同盟(革共同) と改称した。この流れには西京司(京大)氏の合流が関係している。日本トロツキスト連盟の「加入戦術」が巧を奏してか、かなりの影響力を持っていた日本共産党京都府委員の西京司氏が57.4月頃に「連盟」に加入してくることになり、その勢いを得てあらためて黒田寛一、太田竜、西京司、岡谷らを中心にした革共同の結成へと向かうことになった訳である。この時点から日本トロツキスト運動の本格的開始がなされたと考えられる。この流れで58年前後、 全学連の急進主義的活動家に対してフラク活動がかなり強力に進められていくことになった。

 ただし、革共同内は、同盟結成後も引き続きゴタゴタが続いていくことになった。善意で見れば、それほど理論闘争が重視されていたという ことかも知れぬ。


 12.4日「勤評反対・民主教育擁護」闘争が行われ、全国の教育系学生5万が各地で集会を開催し、東京の中央集会では1000名の学生が参加した。


「ブント」の夜明け

 自主的に再建された全学連はこの頃党派性を強めていくことになった。57.12月島・生田・佐伯の三名は、横浜の佐伯の家で新党旗揚げのためのフラクション結成を決意している。党内分派禁止規律に対する自覚した違反を敢えてなそうとしていたことになる。この僅か3名のスタートが翌年のブント結成の萌芽となった。

 
この時のことを島氏は後年次のように追想している。「既に、『スターリン主義』が単なる一思想ではなくソ連という強大な国家意思の実現と、その物質化されたものとの認識に到達した限り、『スターリン主義』日共は最早変え得る存在ではなく、打倒すべき対象であり、欲するところは、これに代わる新しき前衛の創設である。この立場に立った生田は、密かに、しかし容易ならぬ決意を持って『新しき前衛』の準備に着手した。1957年の暮れの或る日、この合議のため生田と私、そしてSが会した場所こそ、9年後、生田の灰を迎えねばならなかったあの横浜の寺の一隅であった。

 一方、党人としての生田は、この党の行方を見届けねばならぬ故に、六全協後の党内闘争の目標であった日共第7回大会に向け細心の組織化を行い、最も年少の代議員の一人になったのだ」(「生田夫妻追悼記念文集」の島氏の追悼文)。


 
彼らは、日本トロツキスト連盟派のオルグに応じなかったグループということにもなるが、この頃トロツキー及びトロツキズムとは何ものであるのかについて懸命に調査を開始していったようである。ご多分に漏れず、彼らもまたこの時まで党のスターリン主義的な思想教育の影響を受けてトロツキズムについては封印状態であった。この時、対馬忠行・太田竜らの著作の助けを借りながら禁断の書トロツキー著作本が貪るように読まれて いくことになった。「一枚一枚眼のうろこが落ちる思いであった。決して過去になったものではない。現代の世界に迫りうる思想とも感じた」(戦後史の証言ブ ント、島)とある。

 東大細胞の生田浩二・佐伯秀光・冨岡倍雄・青木昌彦、早大の片山○夫、小泉修一ら、関西の星宮らがレーニン・トロツキー路線による国際共産主義運動の見直しに取りかかり、理論展開し始めた。


 
山口一理の論文 「10月革命の道とわれわれの道−国際共産主義運動の歴史的教訓」(後に結成されるブントの原典となったと言われている)と「プロレタリア世界革命万才!」を掲載した日本共産党東大細胞機関紙「マルクス・レーニン主義」第9号が刷り上がったのが57.12月の大晦日の夜であった。この「山口一理論文」は、かなり長大な文面で、国際共産主義運動と日本共産党の運動を系統的に批判的総括しており、全学連急進主義者たちに衝撃的な影響を与えていくことになった。特に当時の日本共産党に対する「『敵は優勢、味方は劣勢』という空虚なスローガンによってズブズブの大衆追随主義に革命部隊を封じ込め、抽象的な『平和と民主主義』のスローガンによって、プロレタリアートの前衛的部隊を武装解除させてしまったのであった」という認識は、宮顕主導の右翼的党運動に対する鋭角的なアンチの観点となった。

 
この「山口一理論文」が理論的な武器になり、主に日本共産党東大細胞たちを中心として、その影響下にあった学生達が中心となって後述するブント結成へむかうことになる。論文が全学連急進主義者たちに「晴天の霹靂」的な衝撃的な影響を与えていくことになった。この、主に日本共産党東大細胞たちを中心として、その影響下にあった学生達が中心となって後述するブント結成へむかうことになる。

 この衝撃を常木守氏は次のように表現している。「もう一つの戦慄は、重く立ち込めていた分厚い雲間が切れて、澄み切った青空が微(かす)かに姿を現したような強い解放感だった。これだったのだ。全世界と対峙すべき革命思想の理念がここに眠り込み、閉ざされていたのだ」。 

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(私論.私見)