場面3 | 第一次ブント運動の燃焼隆盛過程 |
(最新見直し2007.6.18日)
その7 | 第5期(58年)【(新左翼系)全学連の自立発展期 |
この時期ブントは、「安保が倒れるか、ブントが倒れるか」と公言しつつ安保闘争に組織的命運を賭けていくことになった。
この時の島氏の心境が次のように語られている。「再三の逡巡の末、私はこの安保闘争に生まれだばかりのブントの力を全てぶち込んで闘うことを心に決めた」、「闘いの中で争いを昇華させ、より高次の人間解放、社会変革の道を拓くかが前衛党の試金石になる」、概要「日本共産党には、『物言えば唇寒し』の党内状況があった。生き生きとした人間の生命感情を抑圧し陰鬱な影の中に押し込んでしまう本来的属性があった」、「政治組織とはいえ、所詮いろいろな人間の寄り合いである。一人一人顔が違うように、思想も考え方もまして性格などそれぞれ百人百様である。そんな人間が一つの組織を作るのは、共同の行動でより有効に自分の考え、目的を実現する為であろう。ならば、それは自分の生命力の可能性をより以上に開花するものでなければならぬ。様々な抑圧を解放して生きた感情の発露の上に行動がなされる、そんなカラリとした明るい色調が満ち満ちているような組織。『見ざる、聞かざる、言わざる』の一枚岩とは正反対の内外に拓かれた集まり、大衆運動の情況に応じて自在に変化できるアメーバの柔軟さ。戦後社会の平和と民主主義の擬制に疑いを持ち、同じ土俵の上で風化していった既成左翼にあきたらなかった新世代学生の共感を獲ち得た」(「戦後史の証言ブント」)。以上のような島氏の発想には、かなりアナーキーなものがあることがしれる。こうしたアナーキー精神の善し悪しは私には分からない。このアナーキー精神と整合精神(物事に見通しと順序を立てて合理的に処そうとする精神)は極限期になればなるほど分化する二つの傾向として立ち現れ、気質によってどちらかを二者択一せざるをえないことになる、未だ決着のつかない難題として存立しているように思う。
【全学連ら労.学2万数千名が国会突入】
11. 27日第8次統一行動。合化労連.炭労の24時間ストを中心に全国で数百万の大衆が行動に立ち上がった。東京には事前動員計画通リ8万名が結集した。この時の国会デモで、全学連5000名の学生らによる「国会乱入事件」が発生している。翌11.28日付けの新聞各紙の見出しは、一面トップで「デモ隊、国会構内へ乱入」(朝日)、「デモ隊、国会構内にナダレ込む」(読売)、「請願デモ、国会なだれ込み」(毎日)と報じていた。「新左翼二十年史」では、朝日新聞編集委員の高木正幸氏評で「11.27日国会突入は、ブント安保全学連が打ち立てた最初の金字塔」と讃辞している。
この国会突入は組織的計画的なものではなかったようである。地評の宣伝カーは、「請願の目的は果たされたから解散しよう」と繰り返し呼びかけていた。この時「国会へ突っ込もう」といわば自然発生的に湧き上がり、この日5000名の警官が動員されて装甲車、トラック等でデモ隊を規制していたが、全学連5000名は、都教組(港教組)を先頭とする労働者と共に、正門前を固める警官隊の警備を突き破って初めて国会構内に突入し、抗議集会を続行
した。全学連指導部は労働組合の宣伝カーに乗り込みアジった。構内はデモとシュプレヒコールで渦巻いた。
「夕闇迫る国会議事堂の前庭は林立する組合旗.自治会旗で埋まり、シュプレヒ.コールは国会議事堂を揺さぶった」(山中明「戦後学生運動史」)。「全学連の行動は確かに滅茶苦茶であった。しかし今まで大衆運動の先頭に立っていたのは常に全学連だった」(高桑末秀)。
この時、総評、社会党、共産党は制止し続けた。岩井総評事務局長.浅沼稲次郎社会党書記長が宣伝カーから「(構内から)とにかく出てくれ」との「流れ解散」を呼び掛ける。が約三万余の群衆は動かない。共産党議員(野坂.志賀.神山)も「挑発に乗らず退去し様」などと説得するが、全学連と一部の労働者はそれを拒否して6時過ぎまで座り込みを続けた。清水丈夫全学連書記長が車上に上がり発言待ちしたが、マイクが渡されず、遂にマイクを手にしたときは電源が切られた、とある。「両手を口に当てて話すしかなかった」(小野正春証言)。
「たまりかねた社会党と共産党の国会議員団が同5時40分頃、正面玄関前の階段にズラリと顔を揃え、浅沼書記長が『解散して貰いたい』とだみ声で叫んだが、全学連の学生の間からは『反対、反対』の声ばかり。浅沼さんの発声で『安保改定阻止バンザイ』をやったが、誰も唱和しない。議員団がスゴスゴと引き上げた後、6時頃から、腰を挙げて防衛庁へ向かった」とある。こうして約5時間にわたって国会玄関前広場がデモ隊によって占拠された。これがブント運動の最初の金字塔となった。
ブント書記長島氏は、この時の生田事務総長について、「この日、生田は人々共に、議事堂の正面階段で喜色満面、手を叩き躍り上がって興奮していたのだ」と記し、「(ブントの印刷所で初めて刷ったビラを現場で配ったことを指摘し、)この闘いと共にブントは大衆の面前に踊り出た」、「この日を期して同盟は安保闘争に組織を賭け突入した」、「このデモを可能にし、労働者の力を引き出したその先頭には、勇敢な全学連の学生がいたりだ。そして、この学生と一部労働者の先頭には、すでに一年前あらゆる既成政党と縁を切り、前衛の旗を掲げて進んできた、我が共産主義者同盟が立っていたのである。この日の闘いは、かくて既成指導部の総退却の場を見た労働者が、同時にこれに代わってこの闘いの先頭に立って闘う激しい前衛部隊、我がブントを公然と見出す最初の機会を創りだしたのである」と書き記している。
11.28日政府は緊急会議を開き、「国会の権威を汚す有史以来の暴挙である」と政府声明を発表し、全学連を批判すると同時に弾圧を指示した。全学連書記局の責任が問われ、清水書記長、糠谷・加藤副委員長、葉山岳夫らに逮捕状が出された。
検挙を免れた清水丈夫と葉山岳夫は、全学連書記局の大学の自治を楯にした「東大籠城」指示により、二人は駒場寮へ立てこもった。「警察が踏み込むかどうかでマスコミは連日報道し、寮内も騒然とした状態となった」(中垣行博)。
朝日新聞は「常軌を逸した行為」と非難し、読売新聞は「陳情に名を借りた暴力」とののしっている。
【「全学連の国会突入」に対する各界の反応】
11.28日付けのジャーナリスト緊急集会アピールは、次のように述べている。「今回の請願デモが政府の予想や、主催者の予想さえも上回る盛大な集会となったことは、日本国民の間に安保改定阻止の世論が急速に高まっていることを示すものであり、今回のデモの最大の意味もまさにそこにある、と我々は考えるものである。この事実の前には、多少のいわゆる『混乱』があったとしてもそれは主要な側面ではない。ところが現状は政府与党ばかりか民主勢力の一部までもこのデモが国会構内に突入したことを大げさに非難し、そこに重要な問題があるかのように論議されている。本末転倒もはなはだしい」等々。
11.28日国民会議は全学連に対して自己批判を要求している。30日に開かれた幹事会は、全学連の国民会議からの離脱を求めるという社共両党の申し入れを検討している。これまでとうり「統一行動に含めていく」ことを決定した。
12.3日総評の共闘会議、国民会議の幹事会、社会党の執行委員会が開かれている。国民会議では、共産党は社会党と共に、国会デモやるな論を執拗に主張している。
党中央は、翌日常任幹部会声明「挑発行動で統一行動の分裂をはかった極左・トロツキストたちの行動を粉砕せよ」を掲載し、ただちに事件を非難する声明を発した。突入デモ隊を非難し、これを専ら反共・極左冒険のトロツキストの挑発行動とみなしていた。アカハタ号外を出し全都にばらまいた。概要「全学連指導部は、トロツキストが多数を占めており、民主運動の中に潜り込んでいる陰謀的な挑発者集団であり」、「反共と極左冒険的行動を主張していたトロツキストたちは、右翼の暴行や警官の弾圧などによって緊張した状況を逆用して挑発的行動にいで、統一行為を乱す行為に出た」、「自民党、岸内閣は、あらかじめこのようなことを計算に入れていた、だから彼らはこの状況を逸早く利用して、一挙に反動的宣伝と弾圧の強化に乗り出してきた」等々と書かれていた。
以降連日「トロツキスト集団全学連」の挑発行動を攻撃していくこととなった。概要「トロツキストが挑発的な極左冒険主義をもって民主運動の統一行動の統制を破壊し、それによって反動勢力に対して民主運動全体に対する中傷と弾圧の口実を与えるようなことに対して断じてこう手傍観してはならない」、「共産主義者同盟とか社会主義学生同盟に巣食うトロツキスト集団に対しては、彼らが学生であると否とに関わらず、民主陣営からの追放のために闘わなくてはならない」と書かれていた。
この声明に対して、共産党港地区委員会は中央に抗議声明を発し、27日の全学連デモを支持した。都議員団はじめ多くの党組織から全学連事務所に激励のメッセージが寄せられた。国民会議・社会党・総評も、突入デモ隊を非難した。この時の共産党中央の凄まじさは、当時党中央の指導に服していた全学連反主流派の指導者黒羽純久をして、「これは何ものかが共産党の名入りでデッチあげた怪文書である」とさえ感じさせるものであったと伝えられている。中国人民世界平和保衛委員会は、「日本の安保阻止第8次統一行動は、日本人民の闘争のたかまりを示しており、日本軍国主義の復活に反対し、米日軍事同盟に反対する日本人民の意思を力強く表明している」(12.1日北京放送)。また、中華全国総工会も「第8次統一行動の中で示した勇敢な、そして団結の精神に対して敬意」の挨拶を総評に送っている。
この全学連主流派の「国会乱入事件」に関して、民青同は、次のように総括
している。「自民党は、この事件以降、絶好の反撃の口実を与えられ、ジャーナリズムを利用しながら国民会議の非難の大宣伝を開始した。総評・社会党の中には、統一行動そのものに消極的行動になる傾向すら生まれたのであ
る。運動が高揚期にあるだけに、一時的、局部的な敵味方の『力関係』だけで、戦術を決め、行動形態を決めることが、闘いの長期的見通しの中で、どういう結果を生むか、という深刻な教訓を残した」(川上徹「学生運動」)。これは、私にはおかしな総括の仕方であるように思われる。一つはブントに対する
「為にする批判」であるということと、一つは運動の経過には高揚期と沈静期が交差して行くものであり、全体としての関連無しにこの時点での一時的後退をのみ部分的総括していることに対する反動性である。事実、翌60年より安
保闘争がるつぼ化することを思えば、この時点での一時的沈静化を強調し抜
く姿勢はフェアではない。後一つは、それでは自分たちの運動が何をなしえたのかという主体的な内省のない態度である。この「60年安保闘争」後ブントは基本的には散った。つまり、国会乱入方針が深く挫折させられたことは事実である。ならば、どう闘いを組織し、どこに向かえば良かったのだろう。このような総括なしにブント的闘争を批判する精神は生産的でないと思われる。実際上述したように批判を行う川上氏らが民青同系学生運動を指導しつつ「70年安保闘争」を闘うことになったが、川上氏らはこの時のブントにまさる何かを創造しえたのだろうか。つつがなく70年安保が終えて、後は自身が査問されていく例の事件へ辿り着いただけではなかったのか。「恣意的な批判の愚」は慎まねばならない、いずれ自身に降りかかってきたとき自縛となる、と私は思う。
この時のブント系学生運動と日本共産党の指導する民青系の運動は、いわば気質的な差でもあったと思われる。ブントは、どんな闘争でも決定的な勝利を求めてトントンまで闘おうとし、民青は、あらゆる闘争を勢力拡大のチャンスとして利用し、玉砕を避けて勢力を蓄積しようとするとの違いとして受止められていた風がある。
なお、革共同の徳江和雄全学連中執ほか10名の中央執行委員は、12.6日「11.27闘争と今後の方針」という声明を出して、社共.総評の「議会主義」的見地からの批判を非難し、他方でブントの国会突入をも批判していた。
【全学連中央集会、日比谷野音に1万5000名結集、国会デモ中止】
12.10日国民会議の第9次統一行動は、国会デモを中止した。全学連は、1万5000名を結集し再度国会包囲デモを企画したが、社共両党・総評が戦術ダウンをし始めていたこともあって、今度は分厚い警官隊の壁の前に破れた。この時革共同も又「国会包囲.国会乱入戦術の反労働者的、欺瞞.犯罪的役割をバクロせよ」、「労働者と切り離された学生の国会乱入、極左戦術と闘え」として全学連のブント指導を批判していた。してみれば、全学連はまさに孤高の急進主義運動を担っていたことになる。
この日、11.27闘争の指導者として12.1日逮捕状が出され、当局の追及と闘い東大に孤城を続けていた清水全学連書記長、葉山都学連執行委員がデモの先頭に立ち、日比谷公園に向かうところを逮捕された。この後暫く安保闘争は鳴りを潜めることになった。
12.11日 三井三池、争議突入。
12.16日最高裁が伊達判決の破棄を言い渡した。アメリカの軍事基地に反対し、その闘争に参加する者を犯罪者とみなすという政治的裁判であった。
12.16日岸内閣は翌1.16日に安保調印の全権団派遣を閣議決定。
共産党.イタリア共産党8回大会に宮本を招待。宮本はトリアッテイ報告を修正主義とし二日目から市内見物。
12.23日党港地区委員会が党内闘争宣言。
12.25日安保国民会議全国代表者会議開催。翌年1.16日の岸首相の安保改定調印外交に対する取り組みを廻って、地評代表のいくつかは「調印阻止闘争無しに、安保闘争はありえない。ゼネストを基礎に羽田実力阻止」を主張したが、総評が強硬に反対し、共産党もこれを支持した。結局「羽田動員中止」方針が12.26日の幹事会で決められた。この時太田総評議長は「宮顕だけには話がついている」と語っている。
(1960年の動き)
詳細は、「戦後党史論の60年安保闘争」参照
60年の特徴は、ブント系全学連が「60年安保闘争」の檜舞台に踊り出てく
ることに認められる。その闘いぶりは世界中に「ゼンガクレン」として知られるこ
とになった。この渦中で、民青同系は遂にブント系全学連と袂を分かつことになった。こうして学生運動の二分裂化傾向がこの時より始まることになった。
6.15日の国会突入でブントの有能女性闘士樺美智子が死亡し、大きな衝撃が走った。この闘争の指導方針をめぐって全学連指導部と日本共産党が対立を更に深めていくことになった。日米安保条約が自然成立した後その総括をめ
ぐってブント内にも大混乱が発生することになった。
1.1日香村正雄氏が中心となってブント、機関紙「戦旗」創刊。編集長は大瀬振氏。
59年から60年に初頭にかけて日米安保条約の改定問題が、急速に政局浮上しつつあった。政府自民党は、このたびの安保改定を旧条約の対米従属的性格を改善する為の改定であると宣伝した。しかし事実は、新安保条約は、米軍の半永久的日本占領と基地の存在を容認した上、新たに日本に軍事力の増強と日米共同作戦の義務を負わせ、さらには経済面での対米協力まで義務づけるという点で、戦後社会の合意である憲法の前文精神と9条に違背する不当なものであった。
藤山外相とマッカーサー大使の間の日米安保条約改定交渉は1.6日に終了し、岸首相が渡米して調印するばかりとなった。東京共闘会議は羽田動員をあきらめず、1.12日に羽田抗議集会実行委員会を結成することを決めた。この決定は社会党の浅沼に伝えられたが、彼は、「党としては、国民会議の線をはずれることは出来ないが、議員個人が大衆と結びついて活動するのは当然だ。大いにやってくれ」と激励した。他方、この時野坂、宮本が金属執行部の党員を呼びつけて「総評が本気になって、第二地評をつくろうとしているから、跳ね上がるべきでない」と恫喝をかけており、金属協議会、地区共闘ががたがたにされた。
1.12日警視庁公安一課三井は、全学連書記局に赴き「実力阻止を思いとどまるように」と異例の説得に来ている。
1.14日安保阻止国民会議の全国代表者会議開催。岸訪米に対する態度を議論したがまとまらず、幹事会に預けられた。席上、「総評・社会党・共産党、特に共産党が断固反対を主張する。で幹事会ではまとまらんと。もう一度代表者会議を開くがやっぱり地方代表はいうことを聞かない」(56年東京地評書記局専従書記・竹内基浩証言)。
1.14日アカハタは「16日にはデモの形で羽田動員を行わないとする国民共闘会議の決定を、これを支持する我が党の方針は、多くの民主勢力によって受け入れられている」声明を発表している。
1.16日、岸全権団の渡米阻止のための大衆運動計画が立てられた。この時共産党の態度は曖昧であった。党中央は、信じられないことだけども、岸全権団の渡米にではなく、渡米阻止闘争に猛然と反対を唱えて、全都委員・地区委員を動員して、組合の切り崩しを
はかったという史実がある。「(岸首相の渡米出発に際しては)全民主勢力によって選出された代表団を秩序整然と羽田空港に送り、岸の出発まぎわまで人民の抗議の意志を彼らにたたきつけること」(アカハタ.60.1.13)という詭弁を労し、穏和な送り出し方針をいち早く打ち出している。総評も羽田闘争の取り組みの中止を機関決定した。革共同も社学同反対派の名で羽田動員に反対した。安保改定阻止国民会議は、いったんは「大規模なデモで岸以下の全権団の渡米を阻止する」方針を決めながら、二日前になって、社共両党.総評幹部などの判断でそれを取り消し、盛り上がる下部を押さえにかかった。昨年末の「11.27の国会乱入を再現しては困る」配慮からであった。これを「幹部の裏切り」と怒ることは出来ても、行動で示すことは出来なかった。
全学連指導部は唯一その怒りを引き受け、実際行動で示そうとした。この時ブントは必死になって情勢を読み、見通しを論じた。戦術如何では全学連内に分裂傾向が深まることもあり得た。しかし、ブントは決断した。「社共の裏切りが大衆的な怒りを呼び起こしている現状では、何をやっても『浮き上がる』恐れはない。最高の闘争形態をとるべきだ。ブントが全員逮捕されても、それは安保闘争を進めることになっても。停滞させることにはならない」と結論した。この時のことを島氏は、後年「全国各地から同盟員を集め、殆ど組織を裸のままぶつけたこの闘い」、「それは従来の常識からすれば冒険主義と非難されるに値するものであったろう」、「左翼公式戦術から見るなら邪道そのものであった」とも述懐しているが、この時のブントはまなじりを決したのである。
【岸訪米阻止羽田闘争で、全学連が空港ロビーに突入】
全学連は、社共の見送り方針を一顧だにせず、岸渡米阻止羽田闘争を独自行動として取り組んでいくことを決定し、跳ね上がりを押さえようとする共産党の動きをはねのけて都内各自治会に緊急動員指令を発し、15日夕から全学連先発隊約700人が羽田空港ロビーを占拠、座り込みを開始するという「羽田デモ事件」を起こした。警備側との動員競争でもあった。7時過ぎには、空港ロビーに「共産主義者同盟東大細胞」などの旗がなびき、デモが渦巻いた。後続部隊も続々と羽田へ羽
田へと向かった。「春闘には絶望あるのみ、一切の展望は1.16の羽田から切り開かれる」という決意の下になだれこんでいった。これに対し、午前3時2000名の機動隊が突撃した。
「唐牛健太郎全学連委員長がホイッスルを首から下げ、機動隊との対決でもそれを吹き鳴らし堂々と対決した」(小野正春証言)。
「あれほど慎重で思慮深く、10年間党指導者としていつも大衆を扇動しながら一度も逮捕されたことのない生田が、羽田闘争では『絶対にパクられるな』との指導部の決定もどこへやら、いい気になってデモ隊に加わり、挙げ句はジュズつなぎになって生まれて初めて豚箱に入る破目になったのも、偶然とは思えない。それまでの彼の思慮を踏みにじってしまうような熱気が、自分の中に涌いてくるのを抑えることが出来なかったのであろう」(「生田夫妻追悼記念文集」)朝5時半、更に増えた学生と労働者は約2000名となり、振り出した雨の中を第一京浜国道で激しくデモを展開した。これに機動隊が突っ込み夜明けの乱闘となった。多数の負傷者が出た。この間岸首相は裏側通用門から空港に入り飛び立った。以上が概略である。この羽田闘争こそが、その後の全学連の行動類型を定めることになった、つまりヒナ型になったという点で見逃すことが出来ない。
この闘争で唐牛委員長、青木ら学連執行部、生田・片山・古賀らブント系全学連指導下の77名が検挙された。樺美智子も逮捕されてい
る。学連書記局に残ったのは、田中学、山田恭*、神保誠、加藤幹雄(社学同、一橋大)、須藤(社学同、早大)くらいであった。
たちまちにして「世論」はこの全学連の闘いを袋たたきにした。良識左翼人は「赤い雷族」と批判した。マスコミからも「ハネ上がりども」(毎日新聞)、「革命気違いども」(読売新聞)、「赤い暴れん坊」(日経新聞)、「ヤクザ学生運動家」(朝日新聞)、「政治的カミナリ集団」(習慣朝日)、「角帽革命の参謀本部」(習慣読売)等々と酷評された。社会党・総評は、統一行動を乱す者として安保共闘会議から全学連排除を正式に決定した。羽田事件後、党は、再び全学連を「トロッキストの挑発行動・反革命挑発者・民主勢力の中に送り込まれた敵の手先」として大々的に非難した。革共同も、「一揆主義・冒険主義・街頭主義・ブランキズム」などと非難している。他方、一部の知識人からは、全学連を突出させざるを得なかった既成組織の指導性の無さに目を遣る指摘も為されていた。中でも清水幾太郎氏は、全学連を安保闘争の「不幸な主役」と命名し、「全学連のおかげです」と発言して熱烈なエールを送った。
しかし、島氏は、「我々だけが日和見的な日共と国民会議を乗り越えて戦い、岸渡米に打撃を与えた」、「全く新しい大衆闘争の現出だった。明らかに私たちブントの闘いによって、政治にとって、安保闘争にとって、人民運動にとって流動する状況が生まれたという確信である。長らく社・共によって抑圧されていた労働者大衆が、これをうち破った全学連の行動を通して、新しい政治勢力としてのブントの像をはっきり見たに違いないという実感である」、「私達は、政治というものが、決して政治家の予測するような漸進的な仕方で動くものではないことを知っていた。政治が流動化するとき、常々は保守的な大衆がいったん動き出した時、それはいかなるものをも乗り越えて進むものだと云うことを確信していた。この機会を逃すような政治組織、自らの勢力拡張の為にのみ闘いを利用し、それを押し止めたり、おののいたりするような既成政党−まさにこのようなものに反逆すして私達の組織をつくったのだ。だからこそ、大衆の流れがまさにせきをきって迸(ほとばし)らんとするとき、私達は賭けたのだ。これに堪えられぬ組織は、それだけで死に値するものなのである」と言いなしている。
知識人によって羽田事件の逮捕者の救援運動が始められるや、党中央は、逮捕された学生の救済を拒否し、弁護士の支援活動を制約した。発起人に名を連ねている党員の切り崩しをはかり、関根・竹内・大西・山田・渋谷
などの人々が発起人を取り下げざるをえなくされた。これらの知識人は後々党中央に対する激しい批判者となった。
1.19日新安保条約がワシントンにおいて、岸首相とアイゼンハワー大統領との間で調印された。かくてこれ以降の安保闘争は、調印阻止から批准阻止へと、その目標をシフト替えしていくことに
なった。1.22−26日党は、「第8中総」を開催し、「当面の安保闘争と組織拡大について」の決議を採択。「安保改定に反対して、アメリカ政府、岸内閣に抗議し、国会に請願する署名運動を積極的に全国的な運動として展開」することを決定した。
1.23日アカハタは、「トロツキストの挑発と破防法による弾圧企図について」という長文論文を発表し、概要「羽田におけるトロツキストの挑発行動は、破防法を政府が改めて持ち出し、民主勢力を弾圧する道具に使う口実を与えた」として全学連を攻撃した。1.24日人民中国外交部は、「軍事同盟条約の調印は、日本軍国主義が既に復活したことのしるしであり、日本が既にアメリカの侵略的な軍事ブロックに公然と参加したことのしるしである」と論評した。
この頃革共同全国委員会派は、全学連主流派の有力幹部たちをも包含しつつ勢力を扶植しつつあった。2月に革共同全国委員会は責任者黒田のもとに機関紙「前進」を発行。「一切の既成の指導部は、階級闘争の苛酷な現実の前にその醜悪な姿を自己暴露した。安保闘争、三池闘争のなかで社共指導の裏切りを眼のあたりにみてきた」、「(労働者階級は)独立や中立や構造改革ではなしに、明確に日本帝国主義打倒の旗をかかげ、労働者階級の一つの闘争をこうした方向にむかって組織していくことなしには、労働者階級はつねに資本の専制と搾取のもとに呻吟しなくてはならない」、「一切の公認の指導部から独立した革命的プロレタリア党をもつことなしには、日本帝国主義を打倒し、労働者国家を樹立し、世界革命の突破口をきりひらくという自己の歴史的任務を遂行することはできない」、「こうした闘争の一環としてマルクス主
義的な青年労働者の全国的な単一の青年同盟を結成した」と檄を飛ばした。
この頃党内では、党の安保闘争の指導ぶりをめぐって論議が巻き起こり、党中央批判が展開された。1−2月共同印刷・鋼管川鉄と並んで三大拠点細胞
とされていた三菱長崎造船所細胞の大多数が離党した。その中心分子は、共産党は今や理論的にも実践的にも革命政党としての能力を失いつつあると宣言。自ら2.22日「長崎造船社会主義研究会」なる自立組織をつくり、ブントへの結集の動きを見せ始めた。こうした現象は中央から地方に、インテリ党員から労働者党員へと急速に広がり、学生細胞・全国有力大学の学者党員・官公労民間経営から離党・脱党が相次いだ。
この頃の動きは次の通りである。1.24日岸全権団が帰国。自民党が1万5000名で歓迎集会を開いている。この日社会党右派の西尾末広らが社会党を離党し、新党として民主社会党(民社党)が結成されている。委員長に西尾末広を選出。「資本主義と左右の全体主義と対決する」という綱領を掲げた。こういう政治的エポック期を前にしての社会党の分裂化は自然な流れと言うよりも、当局の差し金により計画的に作り出された社会党のひいては安保反対闘争の弱体化政策であった。
1.25日三井鉱山が三池炭鉱にロックアウト、三池労組は無期限全面ストに突入。
2.2日に「安保国会」が幕をあけた。野党側が鋭く政府を追及した。これに呼応して国民会議も統一行動を盛り上げていくことになった。
「ブントの主要メンバーが羽田闘争で不在となったための体制建て直しの一環として、社学同のメンバーも交代することになり、篠原委員長、藤原書記長、そして私(山田恭*)が副委員長として大瀬振さんから引き継ぐことが決まった」(山田恭*・東大駒場細胞)
【全学連22中委開催、革共同関西派中執一掃】
2.9日社学同第5回全国大会。2.28−29日全学連第22中委が開かれている。羽田1.16闘争の評価を基礎に今後の安保闘争の展望をめぐって論争が為され、全学連ブント指導部は、「羽田闘争は支配階級の徹底した弾圧を受けたが、このことは一層強力な実力的大衆行動のみが、支配の攻撃を粉砕できることを明らかにした」と総括し、「批准阻止闘争と4月ゼネスト準備」を呼びかけた。革共同派は、羽田闘争を一揆主義的盲動主義と批判し、生産点における労働者の決起を対置した対案を提出し、論争となった。民青同派は、全学連の極左的戦術方針が秩序ある行動の盛り上げにマイナスになっていると批判し、この観点から羽田闘争の意義を否定した。
この時、1.16日の羽田闘争のボイコットに対する責任追及として、革共同関西派中執の8名(徳江ら)を罷免する動議が突如出され、61対38で可決された。こうして革共同関西派が暴力的に罷免され、中執はブントによって制圧された。この時点での全学連内部の勢力比は、ブント72、民青同22、革共同関西派16、その他革共同全国委・学民協とされる。
【党中央が、「民主青年同盟の拡大強化のために」の決議を採択】
党の動き。2.6日旧所感派で中央主流に批判的な長谷川浩を学生対策部長から引き下げ袴田がこれに替わった。
3.2−3日「第7回党大会第9回中委総」が開かれ、「民主青年同盟の拡大強化のために」の決議を採択した。こ
の決議の採択経過は分からないが、民青同中央が穏健路線からの脱皮を模索しようとしていた風がある。民青同の良質部分の動きと捉えた方が判りやすい。この「9中委総決議」は、「それまでの宮本−袴田等の『市民的民主主義』
論や西沢隆二らの『歌え、踊れのサークル化傾向』を打破し、同盟の新しい組織論・運動論を確立する基礎を築き、民青同の拡大強化のための新しい方針を決定し飛躍的発展を助けることになった」とされている。
しかし、この民青同中央が作成したよびかけと規約をめぐって、またしても宮本書記長が介入するこ
ととなった。一体全体この御仁は、戦前戦後今日まで何をするために党に鎮座
しているんだろう、と私は思う。こういう御仁が「無謬神話」されているトリックこそ早急に解明すべきと思われる。宮本は、民青同に対して、@.社会主義を目指して闘うことを強調するのは間違いである。「民族解放」の課題を強調すべきであるとし、「階級的矛盾は民族的矛盾に従属する」と強弁してはばからなかった。A.「マルクス・レーニン主義を学ぶ」という項目は、党の独自活動でやるべきで、同盟自身の性格にすればはばが狭くなるから掲げない。B.民青同中央が、「党の導きを受ける」と党と同盟の関係を明らかにした上で、同盟の自主性を強調したのに対し、それでは事実上共産青年同盟化するからとそれに反対した。事実、宮本書記長自ら「第6回大会」の方針に自ら筆を入れ、
青年同盟を「階級的立場の同盟ではなく、市民的民主主義を追求する民主的組織」とし、同盟の性格を「人民の民主主義的課題のために闘う」とあったのを
「労働者階級を中心とする人民の民主主義の立場に立つ」と玉虫色とした。
【全学連第15回臨時大会。代議員資格をめぐり主流派と反主流派対立。反主流派の日共系学生、革共同関西派は大会をボイコット】
3.16−18日「全学連第15回臨時大会」が品川公会堂で開かれている。先の羽田闘争での逮捕からの保釈を待って開催された。大会はのっけから、全学連主流派と民青同系、革共同関西派系との間の深刻な対立で始まった。代議員の色分けは、主流派が約270名、反主流派が約230名だったと言われている。いわば真っ二つに割れる拮抗関係になっていた。全学連中執は、民青同系の東京教育大、早大文学部などの代議員に「加盟費未納」を理由に資格を取り消し、入場を実力阻止した。これに抗議した民青同系、これに革共同関西派も加わり衝突が引き起こされた。こうして開会前から会場外で乱闘が始まった。
こうして、民青同系と革共同関西派の反主流派の代議員231名(川上徹「学生運動」では代議員234名)を会場外に閉め出した中で、大会を強行した。会場内の中の主流派代議員261名(〃代議員は181名)であったという。
結果、「全学連第15回臨時大会」は、全学連におけるブントの主導権を固め、「国会突入、羽田闘争を中心とした全学連の行動はまったく正しい」と評価し、「安保批准阻止闘争の勝利をめざして4月労学ゼネストを断乎成功させよう、岸帝国主義内閣を打倒しよう」と宣言した。かくて、「全学連主流派の全国的規模での安保改定阻止・岸内閣打倒の最後の意思統一としての決起大会」となった。
人事は、委員長・唐牛(北大)を再選し、副委員長・加藤昇(早大)、糠谷秀剛(東大)、書記長・清水丈夫(東大)を選出した。大会は、「左翼的拠点を固めよ」と呼号し、当面のスケジュールを国民会議の第14次.15次統一行動にあわせ、4.15日に国会請願デモ、20日に全国ストライキ、「4.26日に全国ゼネストと国会デモ」等の方針を決定した。特に4.26日を「全学連の運命をかけて闘う」と決定した。この時島氏が挨拶に立ち、渾身の力を込めてブントの安保闘争への決意を表明した。
この大会開催に先立っての会場付近での主流派対反主流派の衝突は、反主流派の代議員231名をして大会ボイコット→独自集会を結果させ、後の全学連分裂を準備させることになった。
してみれば、この大会は学生運動至上汚点を残したことになる。意見の違いを暴力で解決することと、少数派が多数派を閉め出したことにおいて、悪しき先例を作った訳である。この時点では、全学連主流ブント派は、明日は我が身になるなどとは夢にも思っていなかったと思われる。私見であるが、左翼運動の内部規律問題として、本来この辺りをもっと究明すべきとも思うが、こういう肝心な点について考察されたものに出会ったことがない。
「60年安保とブントを読む」の中で、星宮*生氏が次のように指摘している。「全学連という学生大衆組織において、各自治会組織の代表である代議員、評議員の大会出席を排除したのは決定的な誤りであったと思う」、「組織内に『自由と民主主義』が小さくなっていくと、その組織は必ず知的閉塞をきたし衰弱してゆくものである。大衆組織の私物化とセクト化は、必然的に運動の衰退と消滅をもたらす」。
この頃の動きは次の通りである。
3.10日アカハタ主張で、アイゼンハワーの来日反対闘争を提起。
3.17日 三池労組が分裂し、第二組合作られる。
3.23−24日社会党臨時大会。委員長に浅沼稲次郎を選出。
3.28日三井鉱山生産再開、第一組合と流血の激突。
3.29日三池闘争、第一組合員久保清が暴力団員に刺殺される。
3月下旬ブント第4回臨時大会。
ブントが事務所を神田神保町に移る。1階は香村正雄氏経営のリベラシオン社。香村正雄氏の斡旋による。
4.10日党港地区委員会がブントに結集。常木ら労対グループのオルグ活動の成果であった。
4.3日アカハタ日曜日も発行、完全日刊化、同日曜版10ページ建てとなる。
4.5−9日党の「第10回中総」が開かれ、「三井三池労働者の英雄的闘争の勝利のために全民主勢力の奮起を訴える」を採択。全国の党組織に三池闘争への取り組みを指示し、延べ数千の活動家を現地に派遣して、大量支援の体制を作った。この頃「三池の闘いは安保闘争を支え、安保闘争に包まれて三池の闘いは進む」といわれる事態がうまれつつあった。
4.17日党主催で、日比谷野外音楽堂で「新安保条約批准阻止総決起大会」を開いている。注意すべきは、歴年党員の語り草に水を差すようであるが、党の「60年安保闘争」
はこの時点から号令一下本格的に稼働したとみなすべきで、総評・社会党・
全学連による運動の盛り上がりを見て「バスに乗り遅れじ」とばかり参入したというのが史実であることを確認しておきたい。党の取り組みの遅れは、それまでの党中央の方針と指導にあったようである。この時期の党中央の方針と指導は、安保闘争全体を民族闘争の枠に限定付けており、これを国内支配権力である日本独占資本との階級闘争との絡みで岸政府打倒をターゲットとするという政治闘争としての位置づけを避けていた風がある。この結果、安保闘争を労働者のヘゲモニーのもとに政治的危機に盛り上げていくような基本方向が棚上げされ、綱領路線に基づく反米闘争的位置づけで安保破棄を掲げ、
しかも当面は安保破棄を直接の目標にせず、むしろ「民族民主革命」に向けた
「民族民主統一戦線」を形成させることを地道に目標とすべきだとしていた。そ
ういう位置づけからして、できるだけ広範な人民層の参加をうるためにという口実で統一戦線の基準を幅広主義で結集させ、闘争戦術も学生や青年労働者
の全てを最低次元の統一行動に規制していこうとする整然たる行動方式を指針させた。つまり、安保闘争を何とかして通常のスケジュール闘争の枠内に治めようとしていた観があり、国会突入を視野に入れるブント的指導との両極端にあったというのが実際のようである。
とはいえ、党がひとたび動き始めると行動力も果敢で、この時期より全国1700共闘組織の64パーセントまで正式加入してたちまち指導権を強めていくこ
とになった。党は、中央段階ではオブザーバーではあったが、地方の共闘組織では社会党と並んで中心的位置を占め指導的役割を果たしていくことになった。しかし、善し悪しは別にして、党の前述した統一戦線型の幅広行動主義
によるカンパニア主義と整然デモ行動方式が、戦闘的な学生・青年・労働者の行動と次第に対立を激化させた。党の指導するこうした「国会請願デモ」に対して、全学連指導部により「お焼香デモ」・「葬式デモ」の痛罵が浴びせられることになった。
4月からは全国の地域安保共闘組織を総動員して、波状的な「国会請願デモ」が開始されていた。この頃清水幾太郎らの呼びかけがなされている。清水氏寄稿「世界5月号『今こそ国会へ−請願のすすめ』」は、概要「今こそ国会へ行こう。北は北海道から、南は九州から、手に一枚の請願書を携えた日本人の群が東京へ集まって、国会議事堂を幾重にも取り巻いたら、また、その行列が尽きることを知らなかったら、そこに、何ものにも抗し得ない政治的実力が生まれてくる。それは新安保条約の批准を阻止し、日本の議会政治を政道に立ち戻らせるで有ろう」と檄を飛ばしていた。
4.15日安保改定阻止第15次統一行動。全学連約1500名が地下鉄議事堂前駅から請願デモに移ったが、機動隊に阻まれ、特許庁下まで押し返されている。
【革共同系「マル学同」結成される】
4.16日革共同全国委は、ブントの学生組織の社学同に対抗する形で自前の学生組織として「マルクス主義学生同盟(マル学同)」を組織した。機関紙「スパルタクス」を発刊した。この発足当時5百余の同盟員だったと言われている。マル学同は、民青同を「右翼的」とし、ブントを「左翼空論主義的傾向」、「街頭極左主義」として批判しつつ学生を中心に組織を拡大していった。
4.19日南朝鮮ソウルで、「李承晩政府打倒」を要求する人民蜂起が起こっている。戦いの火蓋を切ったのは学生たちであったが、蜂起は燎原の火のように全土に広がった。
4.20日全学連反主流派13自治会が声明を出し、全学連中執の単独国会デモ闘争を非難し、国民会議・青年学生共闘会議の下に行動するよう呼びかけ、組織的な対抗を行った。
【ブント第4回大会開催、安保闘争総力戦宣言】 この大会に労働者グループが参加し始めていることが注目される。党の港地区委員会が臨時地区党会議を開き、ブントとの合流を正式に決定、地区委員会の解散を決議している。この流れをリードした山崎衛委員長・田川和夫副委員長の両地区委員はこれより早く党から除名されている(「アカハタ」59.12.16)。他に、三菱長崎造船、大阪中電の元及び現役党員らが少数ながら参加していた。 |
【民青同系全学連反主流派が「都自連」発足】 4.25日民青同系全学連反主流派は、まず東京都において「東京都学生自治会連絡会議」(都自連)を発足させている。以降民青同系は、「60年安保闘争」を「都自連」の指導により運動を起こすようになり、安保改定阻止国民会議の方針に従い、統一戦線を守ることを宣言し、全学連指導部を挑発的と批判し、「単独国会デモ」に反対していくことになった。
この経過は民青同系指導部の独自の判断であったのだろうか、党の指示に拠ったものなのであろうか。答えは明瞭であり、宮顕の指示によったものと推定できる。この時全学連運動内部の亀裂は深い訳だから、非和解的な運動スタイルの違いを原因とするのならもっと早く自前の運動を起こすべきであったかであろう。最もいけないことは、60年安保闘争がピークに向かうこの時の分裂策動であろう。我々はこういうことをこそ総括しておく必要があると思われる。 |
この頃の動きは次の通りである。4.20日東大教授ら353名、安保反対の声明。
4.25日新宿の寿司屋で夜明けまで島、藤原慶久らが過ごしている。「島さんの話には、誰が反対しようとどんな反対があろうと自分の方針を貫くという強烈な意思がみなぎっていて、この闘争にかけた島さんの執念を感じた。ここでやらなかったら安保闘争は終わるという危機感があった。その場にいたみんなも同じ考えであり、島さんを中心にして、みんなの気持ちが一つにまとまった。自分達の力で明日の闘争を成功させよう、後のことは島さんに任せるという雰囲気だった。島さんに対する信頼が全員の中にあった。みんな格別気負うことも無く淡々とした気持ちで語り明かして島さんと別れた」(藤原慶久証言) |
【第15次安保阻止全国統一行動、共産党による秩序整然デモ規制】 4.26日第15次安保阻止全国統一行動。10万人の国会請願運動が行なわれた。この時国民会議は700名の警備隊を繰り出して、デモ隊から赤旗.旗ざお.プラッカードなどを取り上げ、整然秩序たった請願デモを行った。4.27日のアカハタは、「国民会議の方針に従った統一行動には一指も触れることが出来なかった」と持ち上げている。 |
【全学連主流派がチャベルセンター前で警官隊と衝突】 |
注目すべきは、この時より全学連反主流派民青同系学生1万1千余は別行動で国民会議と共に国会請願運動を展開していることである。つまり、全学連の「行動の分裂」がこの時より始まった事になる。 |
【韓国で、李承晩政権が打倒される】 |
この頃中ソ論争始まる。 |
4.28日沖縄県祖国復帰協議会結成。
4.29日全学連第23回中執が開かれ、4.26闘争までの総括を行い、「もはやカンパ二アになることは許されない。既成指導部の日和見性をくっきり浮き彫りにした」と分析し、「5.13日安保衆院通過絶対阻止、岸内閣打倒のゼネストと首都における国会構内大講義集会に決起し、それ以後の1週間もそれを継続する」行動方針を決めた。
4.30日総評は緊急評議員会を開き、社会党の方針に添って「連日5000名以上の請願行動」及び5.12日の各単産一斉の時限ストを決定した。しかしこのあとまたがたがたして方針がぶれている。
5.1日第31回メーデー。安保粉砕、国会解散、岸内閣退陣の要求を掲げ
て500万の戦後最高の大デモが全国各地で行われた。
5.5日ソ連政府は、領空に進入 したアメリカのスパイ機2機の撃墜を発表。5.9日北京で「日米軍事同盟に反対する日本国民支援」の100万人集会。
この頃のことと思われるが、4.26闘争以後、学生戦線の中に対立が生じている。島は次の言葉を残している。「主力東大細胞がいつもガンになる。会議を招集して方針を確認しておきながら、数日後にこれをひっくり返してしまう」。
「島は、学生戦線の中心的カードル(幹部)として唐牛、清水、藤原、北小路らを位置付け、最大の信頼を寄せていた(同時に島の見るところ、学生大衆の支持もこれらの人に集まっていた)。しかし、4.26で持ち駒のほとんどを使って局面打開を図った結果、唐牛、藤原、篠原、糖谷らを一挙に失っている。5.20の闘争では清水を失っている。各学校のカードルの損害も次第に増えている。学生大衆の高揚とカードルの力は、負の相関をなしていた。島の方針は、4.26のようには貫徹できない状況があった。特に清水書記長の逮捕が大きな痛手であった」(「60年安保とブントを読む」多田靖証言)。
「この頃は、既に青木昌彦は学連書記局には姿を現さなかった。書記局は全て清水丈夫を中心に動いていた」(蔵田計成証言)。
5.12日第16次全国統一行動。460万の参加。ストライキ、職場集会、デモ、請願書名運動が展開された。この
頃連日数万の国会請願デモ続く。三池炭鉱でスト中の第一組合員に警官隊が襲撃し、5度目の大流血事件が発生している。180名が重軽傷。読売新聞は「石は飛び警棒うなる」と伝えている。
5.13日全学連2000名が結集、昼夜をかけて国会デモ。
5.14日民青同系が清水谷公園で6000名の学生を結集して集会。
5.15日党主催で、日比谷野外音楽堂で「新安保条約批准阻止総決起大会」開く。衆議院での安保条約承認採決を阻止しようとして連日のように数万の国会デモが続いた。
5.15日全学連第24回中執が開かれ、「5.20闘争を、決戦的な組織を挙げた闘争として設定し、労働者、学生のゼネストと国会包囲デモで安保闘争の勝利を決する分岐点(会期の大幅延長阻止)に起つ事」を決議した。他方、学生戦線の組織問題に触れて、@・都自連を解散し、自己批判を行うこと、A・規約を守り、全学連に対する分裂行動を一切停止すること、B・会費を上納する、などの警告を為した。
5.17日米ソ巨頭会談、U2型機のスパイ問題で不成功。自民党、安保成立のため会期延長と衆院の早期通過の方針決める。
5.18日衆院の情勢を警戒して社会党が非常態勢をとる。
【自民党、安保強行採決。全学連”非常事態宣言”を発し、労・学二万人が国会包囲デモ】
5.19日政府と自民党は、安保自然成立を狙って、清瀬一郎衆院議長の指揮で警官隊を導入して本会議を開き、会期延長を議決。社会党議員をゴボウ抜きにして、深夜から20日未明過ぎにかけて新条約を強行採決した。採決に加わった自民党議員は233名、過半数をわずか5名上回る数で、本会議に於ける審議は14分という自民党のファッショ的暴挙であった。この採決には、社会・民社・共産各党が加わっておらず、与党の三派(石橋、三木、河野)も加わっていない中で行われた。この時自民党は警官隊の他松葉会などの暴力団を院内に導入していた。
この時、社会党、共産党、国民会議は、国会周辺を取り巻く万余のデモ隊に知らせていない。5.20日零時30分過ぎデモ隊は三度第一議員会館前に終結したが、デモ隊の中から「会期は延長されたし、新安保も通ったというのに、なぜ知らせないのだ」と非難の声があがっている。暫く後社会党書記長江田、委員長鈴木、共産党の野坂らがやってきて、民主政治の大切さ、安保条約の通過を認めないなど分けのわかりにくい説明をし始め、「明日からの闘争に備えての解散」を呼びかけている。デモ隊はこれを聞かず午前3時30分まで国会前に座り込み、最後まで残った労学5000名余は国会周辺で警官隊と小競り合いしながらジグザグ.デモを繰り返した。
この経過が報ぜられるに連れて「岸のやり方はひどい」、「採決は無効だ」、「国会を解散せよ」という一般大衆にまで及ぶ憤激を呼び、この機を境にそれまでデモに参加したことのない者までが一挙に隊列に加わり始めた。パチンコしていた連中までが打ち止めてデモに参加したとも言われている。「岸内閣打倒」、「国会解散」のスローガンが急速に大衆化した。夕刻から労・学2万人国会包囲デモ。「18日の夕方から文字通りハチ切れそうに膨れ上がった国会周辺の人波、シュプレヒコールの交錯、その向こうに黒潮のように延々と連なる座り込みの学生達」(丸山眞男寄稿中央公論『8.15と5.19』)と、当日の様子が伝えられている。
この日を皮切りに、これより1ヶ月間デモ隊が連日国会を取り囲み、「新安保条約批准阻止・内閣退陣・国会解散」のためのみぞうの全国的な国民闘争が展開していくことになった。こうした流れにつ
いて、ブントも読み誤ったようである。川上氏「学生運動」に拠れば、全学連中執は、5.19日の晩の新安保条約批准の報を知るや「安保敗北宣言」を出しているとのことである。早稲田大学新聞5.25日号一面トップの見出しは、「新安保、何が通過を許したか」、「安保闘争の挫折と国民会議の歩んだ道」、「挫折は戦後労働運動指導の集大成」、「今こそ指導層の告発を」となっており、「敗北」感が色濃く打ち出されている。こうした首都東京の「敗北の早さ」に対して、「いつも半年から一年遅れて力を出すが、みじめに失敗する」(大島渚の談)京都では引き続きの闘争をアピールしていた。ここで付言すれば、安保闘争後の総括も追ってみることになるが、敗北感に沈み込む東京と、粘り強さを見せる京都とが違いを見せることになる。
ところが、まさにこの時より事態は大きく流動化し、「労働運動指導部が、民主主義擁護と国会解散を掲げて、大きくプロレタリア大衆を動かし出した」のである。ブントにとっても「事態の後に追いついていくのが精一杯」という意想外のうねりをもたらしていたようである。5.6月に入るや知識人・学者・文化人らの動きも注目された。5.20日九大の教授、助教授86名が政府与党の強行採決に反対して国会解散要求声明を発表した。大学教授団によるこの種の声明が全国各地で相次いだ。竹内好・鶴見俊輔らは政府に抗議して大学教授を辞任した。これらの知識人の呼応は「民主主義」を守る立場からのものであり、全学連主流派の呼号する「安保粉砕.日帝打倒」とは趣の違うものであったが、こうして闘争が相乗する流動局面が生まれて行くことになった。
【全学連の一部約300名が首相官邸に突入】
5.20日全学連、全国スト闘争、国会包囲デモに2万人結集。抗議集会後渦巻きデモに移った。7000名の学生デモ隊の一部約300名が首相官邸に突入。「全学連の清水書記長が首相官邸と自民党へ果敢なデモを行おう」と提案し、歓呼の声をあげながら「そのまま、駆け足で首相官邸へ向かった。アワをくった警官隊が門を閉めようとしたが、300人ほどが中庭に入り込んだ」。武装警官隊の排除が始ったが、この時の乱闘で8名の学生が逮捕され、26名が病院に担ぎ込まれ、40名が負傷している。これが官邸襲撃事件といわれるものである。しかし、この果敢な闘争が全学連主流派の志気を高めることにはならなかったようである。この頃既に全学連主流派内に分裂が起こっており、統一的な戦術指導がなしえていなかったようである。「5.20安保強行採決を境に、日本の政治は戦後最大の山場にさしかかった。潮が上げ、出来合いのあらゆる潮流を越え、押し寄せる時、この既成潮流を叩き潰すためにこそ誕生したブントも、潮そのもののなかで辛うじて大衆と共に浮沈する存在でしかなくなっていた。統一など既になかった」(島「文集」)。全自連も1万3000名を集めデモ。
5.21日地方代表約1万名が首相官邸包囲デモ。全学連1万名、都自連1万5000名がそれぞれデモ。
5.26日安保改定阻止国民会議第16次抗議デモ、17万余が国会包囲デモ、空前の国会包囲デモとなる。全国で200万の大衆が一斉に行動を起している。国会包囲デモは、「デモ隊は果てしなく続き、林立する赤旗、プラカードの数は刻々と増えていった。‐‐‐どの道も身動きできない」(朝日新聞)有様であった。全学連デモ隊は激しくジグザグ.デモを繰り返す中で、社共の議員や幹部は閲兵将軍のように高いところから「アリガトウゴザイマス、ゴクローサンデス」と繰り返していた。この夜、NHKはデモの実況とともに、共産党書記長宮本の「今のところデモは整然と遣っているけれども、行き過ぎの行動の起こる恐れがあるので、そういうことのないように努力している。デモは恐らく整然と終わるだろう」を放送している。
こうした最中5.31日党の常任幹部会は、「国会を解散し、選挙は岸一派を除く全議会勢力の選挙管理内閣で行え」声明を発表、何とかして議会闘争の枠内に引き戻そうとさえ努力している形跡がある。6.1日社会党代議士が
議員総辞職の方針を決定、同時に第一次公認候補者を発表した。吉本隆明らは6月行動委員会を組織、全学連・ブントと行動を共にした。日高六郎.丸山真男らも立ち上がった。「アンポ ハン
タイ」の声は子供達の遊びの中でも叫ばれるようになった。他方、児玉誉士夫らは急ごしらえの右翼暴力組織をつくり、別働隊として全学連を襲う計画で軍事教練を行ない始めた。ブントは、あらゆる手段を用いて国会突入を目指し、
無期限の座り込みを勝ち取る方針のもと、大衆的には北小路敏全学連委員長代理をデモの総指揮にあて、他方ブント精鋭隊は特別行動隊を結成した。
他国会突入のための技術準備も秘かに進めた。
【全学連約9000名が首相官邸突入闘争】
6.3日全学連9000名が首相官邸に突入。学生たちはロープで鉄の門を引き倒して官邸の中に入り、装甲車を引きずり出した。警官隊がトラックで襲ってくるや全面ガラスに丸太を突っ込んで警官隊を遁走させている。乱闘は6時過ぎまで繰り返され、13名の学生が逮捕、16名が救急車送りとなった。警官隊の負傷93名と発表された。
6.4日第17次統一行動は国鉄労働者を中心に全国で560万人が参加
し、安保改定阻止の政治ストライキを打った。総評は、全国的に1時間の政治ゼネストを決行した。全学連3500名が国会デモ。
この頃共産党は、いち早く来日予定のアイク訪日阻止の旗印を鮮明にした。同党の講和後も「日本は半植民地、従属国」規定からする反米独立闘争の重視であった。社会党臨時大会、総評幹事会も抗議闘争に取り組むことを決めた。6.6日都自連も、もしアイクが来るなら羽田デモを敢行することを決定した。ただし、この時ブ
ントも革共同も大統領秘書官ハガチー・アイク訪日阻止を取り組んでいない風がある。これには政治的見解の相違があるようで、「アイク訪日阻止は、反岸安保闘争の反米闘争への歪曲」としていたようである。恐らく新左翼は、帝国主義自立論により国内の政治権力に対する闘争「復活した日本独占資本主義の打倒」を第一義としており、これに対して党は、アメリカ帝国主義下の従属国家論により、こうした反米的な闘いこそ眼目となるとしていたようである。このことは、後日田中清玄のインタビューでも知れることでもある。田中氏は、「共産党は安保闘争を反米闘争にもっていこうと
した。全学連の諸君は、これを反安保、反岸という闘争に持っていこうとした。
ここに二つの分かれ目がある訳です」(63.2.26.TBSインタビュー)と的確に指摘している。
【「ハガチー闘争」】
こうした中6.10日安保改定阻止第18次統一行動。全学連5000名国会包囲デモ。国民会議が国会周辺で20数万人デモ。この時ハガチー(大統領新聞係り秘書)は、羽田空港で労働者・学生の数万のデモ隊の抗議に出迎えられた。ハガチーの乗った車は、どういうわけか警備側申し入れ通りに動かず、デモ隊の隊列の中に突っ込み「事件」となった。米軍ヘリコプターと警官の救援でやっと羽田を脱出、裏口からアメリカ大使館に入るという珍事態
(「ハガチー事件」)が発生した。この「ハガチー事件」は、「60年安保闘争」で見せた党及び民青同の唯一といって良い戦闘的行動であった。「60年安保闘争」に関する歴年党員の語りは、もっぱらこの時のことに関連している。これ以外の面での語りは、党の指導とは関係なく「大衆的に盛り上がった」当時の雰囲気を共有するデカ
ダンスでしかない、といったらお叱りを受けるでしょうか。なお、この時の党系戦闘的学生部隊の主力は、この後の構造改革派分離騒動の過程で党から飛び出していくことになる構造改革派系、もう一つ社青同や毛沢東派の源流になる部分であった。
共産党主導による「ハガチー事件」が、ブン ト系全学連を大いに刺激した風があり、以降一段と闘争のエポック.メイキングに向かっていくこととなった。「6.10ハガチー闘争の衝撃的な高揚を目の前にして誰よりも党派的危機感と戦慄を覚えたのはブント同盟員であった」(蔵田計成証言)とある。
同じく6.10日全都学細代が開かれ、全学連指導部は、「労働者のストはダラ幹によって小規模なものにされている。共産党は安保闘争を反米闘争にそらし、国民会議も右翼的なダラクした状態の中で自然成立をはばむ道は国会突入以外にない」とアジった。4.26以降初めて、完全な意思統一がなった。6.15日に照準を合わせて国会突入と無期限の座り込み、総指揮は北小路、技術的装備を生田が担当することを取り決めた。
この頃警備側のトップ三井警視庁公安第一課長が、ブントの事務局を訪れている。「アイク訪日に対して全学連はどう動くか」の直接事情聴取であった。「『ブントは別に何もやらない。しかし、大衆の怒りがどう爆発するかは、分からない。統制ある指導をしたいと思っても、4.26以来、ブントの幹部はほとんどパクられているじゃないか。連中を早く返せ』といってやった。そのせいかどうかは知らないが、つかまっていた連中のうち、唐牛と篠原以外は、全員が保釈になった」(島氏談)と伝えられている。まさに丁丁発止の駆け引きであった。
6.11日23万5千人が国会、米大使館へ抗議デモ。
【全学連の先頭部隊国会南通用門に突入、機動隊と衝突。樺美智子虐殺される】
6.15日国民会議の第18次統一行動、安保改定阻止の第二次全国ストが遂行された。この日未明から、国労.動労がストライキに入った。総評は、111単産全国580万の労働者が闘争になだれ込んだと発表した。東京では、15万人の国会デモがかけられた。大衆は、整然たるデモを呼びかける共産党を蔑視し始めており、社会党にも愛想を尽かしていた。
ブント系全学連は「国会突入方針」を打ち出し、学生たちを中心に数千人の国会突入が為された。この時右翼が、国会周辺でデモ隊を襲撃した。午後5時過ぎ、国会裏を通行中のデモ隊に、自称「維新行動隊」名の右翼が棍棒をふるって襲い掛かり、約80名が負傷した。これに刺激されたような形になり、先頭部隊が国会南通用門に突入突破した。京都から呼び寄せていた中執の北大路敏氏が総指揮を執り、宣伝カーに乗りアジった。明大.東大.中大の学生が主力であった。当時のデモ隊は全く素手の集団だった。あるものはスクラムだけだった。午後7時過ぎ、警視庁第4機動隊が実力排除を開始した。全学連部隊に警棒の雨が振り下ろされた。この警官隊との衝突最中にブント女性活動家東大文学部3年生であった樺美智子が死亡する事件が起こった。
午後8時頃、3000名の学生は再び国会構内に入り、警官隊の包囲の中で抗議集会を開いた。北小路が「女子学生の死に警官は恥を知れ。脱帽せよ」と激しく糾弾し、黙祷を行っている。南通用門付近は異常な興奮と緊張が高まっていた。午後十時過ぎ、再度の実力排除が行われ、都内の救急車が総動員された。この日の犠牲者は死者1名、重軽傷712名、被逮捕者167名。この時都自連に結集した1万5000名の学生デモ隊は国民会議の統制のもとで国会請願を行っていた。夜11時過ぎ早大、中央大、法政大、東大などの教授たち1000名が教え子を心配して駆けつけたが、警視庁第4機動隊はここにも襲撃を加えている。現場の報道関係者も多数負傷している。社会党議員は動揺し、共産党某幹部は、5名が死亡したことを聞き、「たった5人か」とうそぶいている。
この時のことを島氏はこう記している。 「最後の土壇場となったあの闘いで、ブントは革命的学生と共に国会に突入した。そしてブント創立以来の同士樺美智子さんを喪った。勇敢な捨て身の闘いにも関わらず、叩き出され、押し出されたデモ隊は、もはや指揮官を持たなかった。夜空を焦がして炎上する装甲車を前に、なお隊伍を整えようとする学生の間にあって、生田は顔面を紅潮させ、怒鳴りながら右往左往する群集の一人でしかなかった。やがて催涙弾が投げられ、襲い掛かる警官隊に追われ、散り散りバラバラになったデモ隊が敗走していくとき、彼はこれとともに駆け逃げていく一人の市民でしかなかった。警官隊に対峙したまま常にデモの先頭でスクラムを組み、一歩もさがらず陣頭指揮をとっていた生田の姿は、ここでは見るべくも無い。そりはただに生田だけの姿ではなかった。あの闘いのブントの姿そのものであったのだ。そして、また、1960年の日本の革命的大衆の、さらには日本の左翼運動の凝縮した図ではなかったか」(「文集」)。
【樺美智子虐殺に抗議し安保改定を阻止しようとする労・学五万人国会包囲デモ】
樺美智子の死は瞬く間に伝わり、多くの人々の心をうった。特に東大では教授も学生も一斉に抗議行動に立ち上がり、教室は空っぽになった。6.16日樺美智子虐殺に抗議し、労・学5万人が国会包囲デモが行われた。国会南門通用門は樺さんの死を悼む献花と焼香の煙りで埋められた。
ブントが機関紙「戦旗」の号外を組み、追悼号を出している。一面の追悼文は生田氏が書いている。
【「6.15樺美智子虐殺事件」に関する社共の態度】
共産党は、6.15日の闘争と樺美智子の死をめぐって、一片の哀悼の意をも示さず、「トロッキストの挑発行為、学生を弾圧の罠にさらした全学連幹部、アメリカ帝国主義のスパイ」に責任があるという非難を行った。「我が党は、かねてから岸内閣と警察の挑発と凶暴な弾圧を予想して、このような全学連指導部の冒険主義を繰り返し批判してきたが、今回の貴重な犠牲者が出たことに鑑みても、全学連指導部がこのような国民会議の決定に反する分裂と冒険主義を繰り返すことを、民主勢力は黙過すべきでない」。
社会党は、樺美智子氏の死に対して党としての指導力量不足であるとする見解を述べている。「社会党はかかる事態を防止するため数回、学生側及び警察側に制止のための努力をした。しかし力だ足らずに青年の血を流させたことは国民諸君に対し、深く責任を感じ申し訳ないと思う」。
【政府が臨時閣議で、アイク米大統領らの訪日中止決定】
政府は、6.16日午前零時過ぎから急遽臨時閣議を開いた。宮沢の進言により池田通産相が開催を要求したとされている。閣議で、「樺美智子事件」の衝撃で不測の事態発生を憂慮することとなり、アイゼンハワー米大統領の訪日延期要請を決定した。佐藤栄作蔵相.池田隼人通産相らの強硬論と藤山愛一郎外相.石原国家公安委員長らの政治的収拾論が錯綜する中で、アイク米大統領らの訪日中止要請が決まったと伝えられている。
6.17日「暴力排除と民主主義擁護に関する決議」を自民党単独で可決した。
【マスコミが「暴力を排し、議会主義を守れ」という共同宣言を声明】
6.17日在京7社の大手新聞社(朝日、読売、毎日、日経、産経、東京、東京タイムズ)は、紙面に「暴力を排し、議会主義を守れ」という共同宣言を発表、翌日には地方紙も同調して、同じ宣言を掲載している。「6.15日夜の国会内外における流血事件は、その事の依ってきたる所以を別として、議会主義を危機に陥れる痛恨事であった」とし、政府だけでなく、野党各党に対しても「この際、これまでの争点をしばらく投げ捨て、率先して国会に帰り、その正常化による事態の収拾に協力すること」を求めていた。
6.17日経団連など財界四団体も、「暴力排除と議会主義擁護」の声明を発表している。
自然承認の日は目前に迫りつつあった。
国会デモはその後も空前の動員数を示した。全国の各大学は自然発生的
に無期限ストに突入した。
6.17日社会党顧問川上丈太郎が右翼に刺され負傷。
【安保条約自然成立。労働者・学生・市民33万人が徹夜で国会包囲デモ】
6.18日樺美智子女史の東大合同慰霊祭が行われた。国民会議は、「岸内閣打倒.国会解散要求.安保採決不承認.不当弾圧抗議」の根こそぎ国会デモを訴えた。30万人が徹夜で国会包囲デモをした。ありとあらゆる階層の老若男女が黙然と座り込んだ。この時共産党の野坂は、宣伝カーの上から「12時までは安保改定反対闘争だが、12時以降は、安保条約破棄の闘争である」と馬鹿げた演説をしている。こうしているうちにも時計の針は回り、12時を越すと共に新安保条約は自然成立した。
概要「大デモの隊列が津波のように国会へ押し寄せ取り巻いた。何かが起こるはずだったが、何も起きなかった。ざわめきが遠ざかり、何十万の人々の巨大な群れが沈黙の中に沈んだ」(常木守)。「6.18で何十万人の大衆の結集が実現されながら、何ら為すことなく6.19の新安保条約の自然成立を迎えざるをえなくなったということは、かなり必然的なことだったといえます。6.18がブントの限界の露呈―破産の日であったということははっきりしていると思います」(清水丈夫)。
翌早朝、夜の帳が白々と明けていった時、群集が重い腰を上げ、散乱したプラカードや紙屑やゴミを集め、捜し出してきた箒まで持ち出して、まるで町内会の清掃作業ででもあるかのように清掃が始まった。そしてそれを燃やし始めた。
この時のことを島氏はこう記している。「1960年6.18日、日米新安保条約自然承認の時が刻一刻と近づいていたあの夜、私は国会を取り巻いた数万の学生.市民とともに首相官邸の前にいた。ジグザグ行進で官邸の周囲を走るデモ隊を前に、そしてまた動かずにただ座っている学生の間で、私は、どうすることも出来ずに、空っぽの胃から絞り出すようにヘドを刷いてずくまっていた。その時、その横で、『共産主義者同盟』の旗の近くにいた生田が、怒ったような顔つきで、腕を振り回しながら『畜生、畜生、このエネルギーが!このエネルギーが、どうにも出来ない!ブントも駄目だ!』と誰にいうでもなく、吐き出すように叫んでいた。この怒りとも自嘲ともいえぬつぶやきを口にした生田−」(「文集」)。6.19日午前零時新安保条約
が自然成立。この時4万人以上のデモ隊が国会周辺を取り囲んでいた。
6.22日第19次統一行動。総評.中立労連が政治ゼネスト第3波600万人、国会請願デモ10万人。党は、党組織を大挙動員する。都自連に結集した学生は8000名。6.23日新安保条約の批准書交換、岸首相が 退陣の意思を表明。新安保条約は国会で自然承認され、発効した。イタリアの「ラ.ナチオー紙」記者コラド.ピッツネりは「カクメイ、ミアタラヌ」と打電している。毎日新聞に「こんな静かなデモは初めてだ。デモに東洋的礼節を発見した」とコメントつけている。
【樺美智子全学連追悼集会】
6.23日樺美智子国民葬。参加者約1万名、共産党は不参加。その夜、全学連主流派学生250人が、「樺美智子(共産主義者同盟の指導分子)の死は、官憲の虐殺という側面とトロツキスト樺への批判を混同してはいけない。樺の死には全学連主流派の冒険主義にも責任がある」としたアカハタ記事に憤激して、党本部に抗議デモをかけた。党は、これをトロツキストの襲撃として公表し、6.25日アカハタに党声明として「百数十人のトロツキスト学生が小島弘、糠谷秀剛(全学連中執)、香山健一(元全学連委員長)、社学同書記長藤原らに率いられて党本部にデモを行い、『宮本顕治出て来い』、『香典泥棒』、『アカハタ記事を取り消せ』などと叫んだが、党員労働者によって排除された」云々と顛末を報じている。ちなみに、6.25日「人民日報」は、「安保闘争における樺美智子を『日本の民族的英雄』と称えた」毛沢東の談話を掲載している。
6.25日から7.2日にかけて第20次統一行動。しかし、自然承認後、安保闘争は急速に衰えていくことになった。
安保闘争は、南朝鮮の李承晩政府打倒の闘争と共に国際的にも高く評価された。国民会議が結成され、17次にわたる統一行動を組織し、社共統一戦線を作り出し、総評他の諸組織をこれに結合させていた。安保は改訂されたが、アイゼンハワー大統領の来日を阻止し、岸内閣を打倒させた。政治的な偉大な経験と訓練を生み出した。この時代の青少年にも大きく影響を与え、政治的自覚を促した。この時から幾年か後、再び学生運動の新しい昂揚を向かえるが、この時蒔かれた種が結実していったともみなせれるであろう。
党は、この一連の経過で一貫して「挑発に乗るな」とか「冒険主義批判」をし続け、戦闘化した大衆から「前衛失格」・「前衛不在」の罵声を浴びることになっ
た。こうして安保闘争は、戦後反体制運動の画期的事件となった。「乗り越えられた前衛」は革新ジャーナリズムの流行語となった。党員の参加する多くの新聞雑誌・出版物からも、鋭い党中央派批判を発生させた。「戦前派の指導する擬制前衛達が、十数万の労働者・学生・市民の眼の前で、遂に自ら闘い得ないこと、自ら闘いを方向づける能力の無いことを、完膚無きまでに明らかにした」(「擬制の終焉」60.9月)が実感を持って受けとめられた。この後まもなくデモ参加者も急速に潮を引いていくことになり、この辺りで「60年安保闘争」は基本的に終焉し、後は闘争の総括へ向かっていくことになる。
森田実氏は、この頃のこととして次のように回想している。「1956年の砂川闘争から1960年の安保闘争、その後の共産主義批判のなかで、私は清水教授とより深く接し、多くのことを学んだ。60年安保闘争の直後に清水教授から直接聞いた一つの言葉を私は忘れることはできない。
『人間は自分自身の経験からは絶対に離れられない。それがどんなに惨めなものであっても捨てることは不可能だ。いかなる体験であろうとも生涯背負っていかなければならないのだ』。それから40年。清水教授のこの言葉は、私にとって一つの大切な人生の指針となった。
その2、3年前まで私はマルクス主義の信奉者だった。共産党のなかでは、自らの体験を重視する姿勢は『個人主義・経験主義』として厳しく批判された。党員個人の体験にもとづく創造的な提案はマルクス、エンゲルス、レーニンの言葉よりも下に見られ軽視された。
私はこの共産党内の観念過剰の空気に同化することができなかった。私は1955年夏の六全協以後、党中央への厳しい内部批判活動を行い、中央本部と激しく対立し、ついに1958年に中央委員会決議により除名された。共産党から離れて自由にものを考えるようになった頃、清水教授から直接話を聞く機会が増え、清水教授の経験重視の思考から大きな刺激を受けた。清水教授の墓石には、自筆の次の言葉が刻まれている――『経験、この人間的なるもの』、『経験』が清水教授の生涯を通じての思索活動の中心におかれていたことが、この言葉に示されている。
体験の重要性
「体験」と「経験」は個人生活のレベルでは同じ意味である。『広辞苑』(岩波書店)は「体験」を「自分が身をもって経験すること、また、その経験」と定義している。しかし、哲学の世界では少し違いがある。『岩波哲学・思想事典』によると、その差は次のようなものである(丸山高司氏執筆)
。「〈体験〉概念は、多くの点で〈経験〉概念と重なり合うが、それとの相違点をあえて強調するなら、直接性や生々しさ、強い感情の彩り、体験者に対する強力で深甚な影響、非日常性、素材性、などのニュアンスをもっている」
。「体験」は私の人生を動かしてきた決定的な要素なのである。故清水幾太郎教授の教えのとおり、自分自身の体験はいかなる偉人の体験よりもずっと大切で価値の高いものである。しかも、たとえ自分自身の体験がどんなに醜く恥すべきものであったとしても、それから逃れることはできない。己の体験をしっかりと受け止め、これと共存する以外に道はないのである。この認識と強い自覚を持てば、人それぞれに前向きで個性ある人生を送ることが可能になるだろう。
以降の流れに入る前に、ここで原理的な問いかけをしておこうと思う。我々は、そろそろ左翼運動における益になる面と害になる面の識別を獲得すべきではなかろうか。「何を育み、何をしてはいけないか」という考察ということになるが、この辺りを明確にしないままに進められている現下の左翼運動は不毛ではないか、本当に革命主体になろうとする意思があるのかとも思う。例えば左翼サミットのような共同会議で史実に基づいた大討議を「民主的運営で」やって見るということなぞが有益ではなかろうか。これが出来ないとしたら、させなくする論理者の物言いをこそ凝視する必要がある。そもそも議会というものは、意見・見解・方針の違いを前提にして与党と野党が論戦をしていくた めの機関なのではなかろうか。これがなされないのなら、議会は不要であろ う。左翼サミットの場も同様であり、最大党派の民主的運営において少なくと も「国会」よりは充実した運営をなす能力が問われているのではなかろうか。理想論かも知れないが、そういうことが出来ないままの左翼運動が万一政権 を執ったとしたら、一体どういう政治になるのだろう。現下の自民党政治以下のものしか生まれないことは自明ではなかろうか。だから、本気で政権を取ろうともしていないと私は見ている。どうしてこういうことを言うかというと、平たく言って、人は理論によって動く面 が半分と気質によって動く面が半分であり、どうしても同化できない部分があるのが当然であり、そのことを認めた上での関係づくり論の構築が急がれているように思われるからである。これが「大人」の考え方だと思う。マルクス主義的認識論は、このようなセンテンスにおいて再構築されねばならないと考えている。マルクス主義誕生以降百五十余年、反対派の処遇一つが合理的に対応できないままの左翼戦線に対して、今私が青年なら身を投じようとは思わない。党派の囲い込みの檻の中に入るだけのように思うから。むしろ、こういうイ ンターネット通信の方が自由かつ有益なる交流が出来るようにも思われたりする。却って垣根を取り外していけるかもしれない、とフト思った。 |
(私論.私見)