当時の学生活動家の処分と温情措置風聞

 更新日/2020(平成31→5.1栄和改元、栄和2)年.9.24日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 学生運動者に対する温情措置例を確認しておく。これをひねくれて解釈する必要はない。日本の統治構造上下社会の中に「義理人情の浪花節」があったことを確認すればよい。今この方面の絆と云うべきか誼(よしみ)と云うべきか、こういう温情が消されてしまっており、上に立つ者が権力如意棒を得意然として振り回すことを善としており、その分幼稚化している気がしてならない。


【多田靖氏の証言・島成郎記念文集刊行会編「60年安保とブントを読む」追加文】
 ◆「当時の学生活動家の処分と温情措置風聞」
 gakuseiundo/daiithijibundco/
syobuntoonjyosothi.htm
 次に処分と停学とについてまとめておきたいと思う。東大当局にはおそらく50年レッドパージ闘争処分に原型をもつ処分の一般方針がある。ストライキの提案者、採択者(議長)、執行者を退学処分とするというものである。医学部でも58年以後、この処分の壁をめぐるきわどい攻防が展開された。最初は、58年秋の警職法闘争である。石井保男の発案で処分を最小限に絞るために、執行部の中から一人を選びそのひとが議長と提案者とを兼任する。その一人に4年の高橋国太郎がなった。当時3年の野々村によると、なかなかの出来栄えであったという。見事スト可決。退学処分、ただし1年で救済された。
 ここにひとつのエピソードがある。当時の学部長の吉田富三に石井が「真の責任者は自分だ」と迫ったことである。これには吉田も困惑した。もともと不承不承にした処分である。だが掟は曲げられない。1年とは板挟みの中での救済たったのだろう。卒業の寸前石井はプラーグに出発している。もちろん国際学連副委員長就任のためである。石井としてみたら、島の要請もさることながら、高橋処分をはためにノホホンと卒業することは人として許されないことだとの思いもあったようだ。出発間際に石井は吉田を訪ねている。席上吉田は自らの秘話を話している。第一高等学校時代、寮の同室者に尾崎秀実がいたこと、自分もかなり左にゆれたことなど。吉田は1928年東大医卒だが、その前に国崎定洞(1919年卒)、小宮義孝(1926年卒)、曽田長栄 (1927年卒)の系譜が並ぶ。国崎(衛生学助教授)は1926年渡独、1927年KPD(ドイツ共産党日本人組織の責任者)、スターリン粛清。小宮(衛生学助手)は全協の4人の指導者の一人。治安維持法で逮捕。曽田は社医研の中心で卒業後労働科学研究所で逮捕。この会談は石井が革命運動にかける自らの決意を述べ、吉田もそれを激励するという感激の場面となった。石井と吉田の親密な関係は吉田の死まで続く。吉田は1968年定年退職しているが、その少し前、プラーグに石井を訪ねている(学会の機会を利用したか)。しかしこのとき復学の話はまったく出ていないという。国際舞台に活躍する石井の姿を見届けたかったのだろう。
 1960年、高橋の処分が解けるが、その数ヶ月後彼は事務の志村氏に呼び出しを受けている。石井と島が退学手続きをとってないが 、医学部の在学上限は8年であり、このままの状態が続けば入学8年後に除籍になり復学の可能性は消えるというのだ。自己都合退学の手続きをとりさえすればその時点で時間はストップするというのである。結局高橋が二人の手続きを代行したような気がするといっている。その際、島にも処分されているわけではないのだからこの手続きをとってあればいつでも復学できると説明したという。この志村氏の配慮が彼の個人的意志によるものかどうかはわからない。
 安保闘争では60年卒の野々村禎昭(彼は都立西高時代から著名な活動家で高校1年でメーデー事件に参加している。医学部でも組織には属さなかったが全学連主流派の立場で同級生をまとめていた)も、4年のとき高橋国太郎と同様(4年生、一人3役)でスト提案を行い、必ずスト採択の票読みだったが、級友が彼の処分回避のため反対に回ったため実現できなかったという際どい闘いがあった。このときの学部長も吉田。62年大管法闘争では2年の今井澄が医学部自治委員長として一人3役をこなし、ストを実現させ、退学処分を受けた。当時の医学部長は薬理の熊谷洋教授。吉田以上の学生運動の理解者。今井の身柄を当時大学院生の野々村に預け、1年で処分を解いている。ちなみに時計台前集会で野々村は大学院自治会代表で連帯の演説をおこない、譴責処分を受けている。東大の大学院生として最初にして最後の処分だと誇りにしている。
 このようななかで島の復学問題がおきている。吉田は自らの定年を前に島の状況を見極めようという心配りがあったのだろう。なにしろ学部長の時代の出来事だから。島本人がその気になれば学則からなんら障害はないのだから、本人の判断が焦点になったはずだ。塾で生計を立てるやり方は一時的には有効でもそれがためには旧同志の献身が要求されるし、到底抜本的解決にはなりえないものだ。私は結局島自身の判断でこの吉田による「いきな計らい」の場を利用し復学の意志を伝えたものと思っている。学部長は熊谷である。スムースに運んだに違いない。矢内原の学則の壁は厚く、吉田自身が高橋処分で自ら味わったところであり、定年間近の一介の教授でしかなかったのだから。「超法規的処置」など問題外である。またその必要もなかった。石井保男の復学はさらに遅れて73年になる。当時の学部長は解剖の中井準之助教授。復学の意志を伝える石井に、中井はひとこと 「ああいいよ」で終わったという。
 「超法規的処置」が唯一なされたのは東大闘争である。68年1月登録医制度反対自主カリキュラムを要求する青医連と医学部学生の運動に対し、「上田内科春見医局長糾弾」を言いがかりに学生退学4人、停学2人、譴責6人、研修医5人追放の、医学部史上例を見ない大量処分の攻撃をかけてきた。これが1年有余に及ぶ東大医学部さらに全学闘争の発端てある。68年卒と69年卒の卒業を賭けた闘いになった。とくに69年卒の示した団結は感動的なものがある。68年3月には卒業試験ボイコットについてこれなかった学生57人(1学年略100人)が卒業している。69年3月にはスト破り日共系17名が卒業。闘争の本体は69年9月に45名が卒業している 。安田砦の攻防には、今井澄が行動隊長に、69年組のまとめ人として人望を集めていた無党派の外山攻他1名が衛生班として参加している。外山攻他1名は執行猶予がつき、今井のみ実刑となる。当時今井は64年組→69年組になっていたが、卒業はさらに遅れて70年になる。外山は昨年の今井の葬儀に参加しているが、山本義隆が弔辞を読んだという。
 外山によると、当局は、以前は卒業試験を受けさせるか否かを切り崩しの武器に使っていたのに、闘争後は卒業試験免除、はやく出ていってくれ、卒業証書も交付するという態度にでてきている。春見闘争の処分は完全にふっとび、闘争突入後は一切処分なし。「超法規」の言葉もふさわしくない。完全にマケマシタ、早く出ていってくださいのギブアップぶりとなった。外山は「卒業証書をとりに いった者はひとりもいないだろう。それでも国家試験は支障なく受験できた」と語っている。東大医学部同窓会の鉄門クラブが近年東大医学部史上の重大事件のアンケート調査を行った結果をみたことがあるが、68-69年の東大医学部闘争が堂々第一位となっている。

【石井 保男/考】
 「石井 保男」(いしい・やすお1933~ )。
 last update:20101020
 http://www.shahyo.com/mokuroku/consciousnes/shakaisyugi/
ISBN978-4-7845-1479-3.php
より

1933年8月2日 東京生まれ
1953年4月 東大教養学部理科2類入学
1955年4月 東大医学部進・入学
1959年2月25日 (3月31日卒業予定直前)
羽田空港よりプラハに向け出発
1959年3月’67年 国際学生連合(IUS)副委員長
’68年9月まで引き続き日本全学連代表としてIUS本部書記局に常駐
1968年9月’68年9月 ベルリン自由大学東洋研究所講師
1969年10月 帰国
1961年 東大医学部依頼退学
1972年4月 同学部復学
1973年3月 同学部卒業
1973年2008年 医療法人一陽会 陽和病院 勤務
副院長、附属高等看護学校校長を歴任
2004年4月’08年1月 老健「練馬ゆめの木」施設長
2008年2月現在 医療法人尚寿会 大生病院 勤務

■著書

◆石井 保男 20100703 『わが青春の国際学連――プラハ1959‐1968』,社会評論社,190p. ISBN-10: 4784514791 ISBN-13: 978-4784514793 2100 [amazon][kinokuniya] ※

◆市田 良彦・石井 暎禧 20101025 『聞書き〈ブント〉一代』,世界書院,388p. ISBN-10: 4792721083 ISBN-13: 978-4792721084 2940 [amazon][kinokuniya] ※

 1958 「当時、医学連の左翼の親玉は石井保男という男(10)で、彼は医学連の書記長でもあった。」(市田・石井[2010:23])

 註10 「卒業を待たずにプラハの国際学連に副委員長として出向(五九年)。そのまま退学し、全学連分裂後も「全日本自治会総連合」代表のまま六八年まで同地に滞在した。ベルリン自由大学講師を経て帰国。七三年に復学した。その後精神科医として練馬区陽和病院に勤務。最近、回想録を出版した(『わが青春の国際学連かに、二〇一〇年、社会評論社」)(市田・石井[2010:40])

 1959 「石井保男、あいつ無責任にぜんぶほっぽりだして国際学連に行ったんだよ。翌年の医学連大会がもう大変。会計報告とかできないんだもん。なんにもなしで、なんにも分かんない。僕はもう居直って、石井のせいにして、なにも報告できませんけどとにかく予算案承認してくれってお願いしてさ。承認されましたけど、冷や汗もんでしたねえ。そのときの委員長が、僕より<0023<たしか二年上の池澤康郎(13)です。現、日本病院副会長で、当時は東京医科歯科大学生です。なお彼は、血のメーデー事件(一九五二年五月)の時にピストルで足を撃たれて、入院した経歴をもってる。事件当時は大学二年生だったはずだよ。」(市田・石井[2010:23])

◆立岩 真也 2011/02/01 「社会派の行き先・4――連載 63」,『現代思想』39-2(2011-2):
 資料

◆立岩 真也 2013/12/10 『造反有理――精神医療現代史へ』,青土社,433p. ISBN-10: 4791767446 ISBN-13: 978-4791767441 2800+ [amazon][kinokuniya] ※ m.

 2020.12.12日、フェイスブックコメント「Toshiyasu Matsuoka」。
 ところで、私が若い頃にお世話になった海藤壽夫弁護士(京都弁護士会)にも毎年送っています。海藤弁護士には、先生が弁護士になった2年目に、私が学費値上げ阻止闘争で逮捕‐起訴された事件(1972年2月1日)で弁護人になっていただきました。被告人10人の内、1人が無罪を勝ち取り、残りの9名も「春秋に富む若者であるからには」(判決文)微罪で済みました。海藤弁護士は、かの「日本のレーニン」塩見孝也さん(故人)と京大の同期で、一時期、共に生協活動に携わっていたそうで、総代会で日本共産党に敗れてから、先生は弁護士を目指し、塩見さんは革命家を目指されたそうです。なので、京都での塩見さんの追悼会でも壇上で挨拶されました。塩見さんも生前海藤弁護士を「無二の親友」と仰ってました。その海藤弁護士からお礼のメッセージが届きましたので紹介しておきます。

「逮捕」「起訴」の青春 国立大名誉教授が回想

東大駒場全共闘 エリートたちの回転木馬

 全共闘運動の高揚から約半世紀。また新しい全共闘本が出た。大野正道・筑波大名誉教授による『東大駒場全共闘 エリートたちの回転木馬』だ。

 類書と異なるのは、「東大駒場」に絞り込んだこと、著者の肩書が「国立大名誉教授」であること、そしてなによりも「エリートたちの動静」が生々しく記されていることだ。

「何を思い、どう闘ったのか」

 大野氏は『中小企業法研究』『中小企業のための事業承継の法務と税務』など、中小企業の法務について多数の著作がある。本人によれば、「学士院会員」(学者としての最高の栄誉)も視野に入っているという。日本の中小企業の抱える諸問題の権威。関係の団体でもアドバイザーとして活躍し、学者として業績を残している大野氏が、いったいなぜ今ごろ「全共闘本」を出したのか。

 前書きで大野氏はこう記す。

 「私の語り得る限りの記録を残すことで、全共闘運動とは何かと言う疑問に対する、私なりの返答として書いたものです」

 「我々は東大闘争においては、駒場のクラス四三LⅠⅡ9Bを中心に行動しました。その多くの友人は今や企業や役所を退職、退官し、年金暮らしをしています」

 「日本の片田舎に育った若者たちが全共闘に集い、何を思い、どう闘ったのかを正確に、できるだけ自らを客体化し、淡々と記すことに集中しました」

 タイトルに「回転木馬」とあるように、人生の浮沈を体験し、原点に戻った今だからこそ「駒場時代」を忌憚なく語ることができる。そんな心境が執筆の動機のようだ。

「あんた、逃亡兵だね」

 1968年春、富山市の有名進学校、富山中部高校で「大野の前に大野なし」と言われた大秀才の大野氏は、現役で東大に合格する。まもなく医学部で紛争が拡大、機動隊が導入され、全学集会にはクラスの半数が参加した。そして駒場もストライキに突入、全共闘運動が始まる――「東大紛争とは何かといえば、地方の県立高校で生徒会活動なんかをやっていて東大に入った優秀で真面目な学生たちの、しかも現役かせいぜい一浪組の・・・正義感の発露だった」。

 ちょうどベトナム戦争が激しさを増していた。「ベトナム戦争に反対し、戦争反対の支援闘争に加わり、同時に学園紛争を闘う。それが日常になっていく」。

 ノンポリに近かった大野氏はやがてクラスのML派の活動家に引っ張られ、同派の学生組織「学生解放戦線」に属すようになる。そして逮捕。2度目となった69年6月のASPAC(アジア太平洋圏閣僚会議)粉砕闘争では起訴される。

 闘争で起訴までされたのはクラスで大野氏1人だけ、このまま職業的活動家になるのか、戦線から離脱するか――同9月、「もういい、やめた」と後者を選ぶ。それでもなお、大野氏に復帰を呼びかけるゲバルト・ローザ(有名な女性活動家)の最後の言葉は、「あんた、逃亡兵だね」。

「私にできることは何か」

 「我々は力及ばずして負けた。負けは負けで、一から再起を図るしかない」。本郷に進んだ大野氏は「勉強した」。大半が「優」という抜群の成績。そのまま「助手」になる資格を得たが、裁判中の身。大学院に進む「しか」選択肢がなかった。72年8月、執行猶予の判決。そしてアカデミズムの世界に36年間。「臥薪嘗胆」「社会における信用を勝ちうるために」、がんばってきたと振り返る。

 本書では当時のクラスメートの動向が、実名でポンポン出てくる。革マルの勉強会に出ていたMは三菱商事。同じくYは東京海上、のち専務。「学生解放戦線」のヘルメットをかぶっていたIは逮捕歴がなかったことが幸いして役人になり、航空局長から海保庁の長官に。Tは田舎に帰り非日共系の生協に勤める。シンパだったHは後に東大学長。無党派のKは朝日新聞常務。スト反対派のWは大蔵省に入り財務官。ただ一人の民青だったFは東大駒場の教養学部長。そのほか、のちの警視総監も。(いずれも本書内では実名)

 四三の9B組の級友で、気になる男が1人いる。大野氏を活動に引き込んだML派の活動家A氏だ。職業的活動家の道を選んだと思われるが、「今や彼の消息はわからない。生きていて欲しいと思う」。

 ハチャメチャな青春期を送った大野氏たち。「私たちにはマトモでない部分がある」と自認する。一方で、「私たちのような経験をしてきた者は折に触れ、思想や考え方が様々に違っている人の中でもなんとかそれを治めてきた」とも。そして今もなお、残りの人生で「私にできることは何か」を自問し続けている。




(私論.私見)