島書記長論

 更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5)年.1.5日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 60年安保闘争を指導した共産主義者同盟(ブント)の元書記長の島成郎(しま・しげお)氏は、2000.10.17日午前7時30分、多臓器不全のため沖縄県名護市の病院で逝去された。69歳だった。葬儀・告別式は未定。喪主は妻博子(ひろこ)さん。自宅は沖縄県本部町瀬底206の1。そのプロフィールは次の通りである。

 19歳で日本共産党に入党。東大入学後、レッドパージ反対闘争で無期停学。1958年、共産党を批判してブントを結成し、全学連主流派を指導した。60年安保闘争のあと医学部に再入学して精神科医になり地域医療に尽くしてきた。70年代に沖縄に移り住み、保健婦とともに患者を訪ね歩いて相談活動を続けるなど、地域での支援態勢づくりに努めた。

 その後、北海道で勤務医や東京の陽和病院長を務めるなどしたが、94年から沖縄に戻った。隔離・収容という観点の強かった従来の精神医療体制を人権尊重の立場から厳しく批判。「医者も患者とともに地域に住まなければ病気は治せない」との考えから「地域に開かれた病院」づくりをめざした。著書に「精神医療のひとつの試み」、「ブント私史」など」。

 「電脳ブント」がサイトを開設している。


【島成郎(シマシゲオ)の概要履歴】
 1931年、年東京で生まれる。旧制中学2年時に敗戦を迎える。都立高校を経て1950年、東大理科一類に入学。直ちに学生運動に参加し、教養学部自治会副委員長に選ばれる。6月、共産党に入党。「50年分裂」による所感派と国際派の対立の最中であり、東大教養学部が所属していた国際派に組み込まれる。50年分裂で除名される。レッドパージ反対闘争に取り組む。コミンフォルムの所感派支持により国際派が総崩れになり、自己批判し、所感派が主導権を握った党に、1951年、復党する。1954年、東京大学医学部進学。1955年、六全協を迎え、「六全協ショック」を経験する。党中央に君臨し始め宮顕の右翼的指導に反発し、学生運動の再建に乗り出す。虚脱状態に陥っていた学生党員に対し、森田らと共に懸命にオルグし始め、1956.6月、第9回全学連大会で「全学連の奇跡の再建」を為し遂げる。全学連中執、書記局に入り、学生運動の指導者として頭角を現す。

 砂川闘争、学費闘争、小選挙区闘争、勤評(教育三法)闘争、憲法擁護闘争、原水爆闘争、警職法闘争を貫徹し、赫々たる成果を上げつつ60年安保闘争に向かう。その他方で、宮顕が提起した日共の新綱領に反対し、理論闘争を開始する。1957年、共産党の東京都党委員に当選。1957年末、党内分派を形成し始め、1958.6.1日、「6.1事件」を経て、1958.7月、第7回日共党大会に於ける宮顕の強引な右翼的指導に接して最終的に幻滅し、公然たる分派闘争に向かう。同12.10日、共産主義者同盟(ブント)を結成し、初代書記長に就任する。生田浩二、佐伯秀光と共に党内フラクションを結成し「プロレタリア通信」を発信する。以降、「安保にブントの全てを賭ける」決意で類い稀なる指導ぶりを発揮していくことになった。(以下略)

 島ひろ子(シマヒロコ)

 1936年、東京で生まれる。1942年、京城国民学校入学(ソウル)。1957年、女子美術短期大学卒業。女子美大生協設立へ活動。1958年、島と結婚。1960年、安保闘争参加、生協退職、秋にひろ工房起業。1970年、沖縄にて染色修得。沖縄、赤坂、銀座資生堂ギャラリ−などで個展、グル−プ展などを開く。新制作展、モダンア−ト協会会友(後、退会)。

【諸氏の島論、島氏の史的位置づけ】
 そうした履歴を持つ島成郎の史的位置付けと評価をしておきたい。当然各論まちまちであるが、れんだいこが整理すると次のように云えるのではなかろうか。

 吉本隆明氏は、「擬制の終焉」所収の「現代学生論 ― 精神の闇屋の特権を」の中で次のように評している。
 「昨年の安保闘争では、学生たちとジグザグデモで「運動」(からだを動かすこと)したり、坐り込みでごろ寝したりして、精神衛生的にじつに愉快であった。わたしの肉体がまだまんざら衰えていないことを発見したのも、ひとつの収穫であった。やつはプチブル・ブランキストだとか、トロツキストだとかいうレッテルなぞは糞くらえである。

 また、わたしは、学生運動と思想的な共同戦緑をはって力をかたむけてパルタイを攻撃した文章をかいた。このほうは、あまり愉快な思い出はない。わたしがささやかな支援をした共産主義者同盟と無党派の学生新感覚派は、思想的にも組織的にも安保闘争敗北の打撃をうけ分裂し四散してしまった。そして、陰湿な政治屋たちの組織に、安保闘争事後の局面をゆだねることになった。裏切りやぺテンも体験したが、この種の体験はあとになるほど胸くそがわるくなるものである。もっとも、共産主義者同盟の書記長であった島成郎君のように、爽やかな後味をのこした人物も稀ににはいた。

 こんなことをいうと、おまえはたかが安保ぐらいで頭にきた政治の素人だ、などという政治的屑がいるかもしれないが、屑はなにをやつても屑だし、爽やかな人物は何をやつても爽やかだということは、知っておいたほうがいいと思う」。

 さすがに吉本隆明氏は簡にして明なる「将たる器の人」と評している。古賀康正氏は、「こんなにも意志的で繊細な快男児」と云う。東原吉伸氏はもう少し詳しく述べている。
 「島は、半世紀近くもの間、安保闘争の総てを独り背中に背負って歩いた人であり、これに関わった人々の精神的支柱でもあり続けた」。
 「人は安保の挫折をいうが、その後も島がこの重い荷物をその死まで、独り背中に背負いつづけた故に、闘争に参加した者の精神的支柱であり続けた。それを語るときはいつも、そこに島が無言で居合わせている事を感じるはずだ。『安保』という文字が歴史から消えるまで、彼が果たしたリーダーとしての役割、人柄、卓越した指導力は、決して消え去りはしないだろう」。

 60年安保との絡みでやや突っ込んだ評価としては、清水丈夫氏が次のようにコメントしている。
 「60年安保の前史には、55―56年における学生運動における戦闘的大衆運動への大転換があり、更には日本共産党との決別ということがあり、島さんは中心的指導者としてこの過程全体を主導されました」。

 58年都学連、全学連委員長・革共同系の塩川喜信―氏は、次のように評している。
 概要「砂川闘争から警職法闘争まで、学生運動が安保に向かって高揚していく過程での島さんの活躍。56年秋以降、私より4歳年上の彼は、党活動の先輩であり、見事な情勢分析と学生運動の主体的力量の判断の上に、大衆運動の方針を次々に提起する指導者であった」。
 「オルガナイザーとしても、政治的指導者としても稀有な能力を持ち、意見・立場を異にするものをも包み込む包容力を持った島成郎」。

 藤原慶久氏は、次のように愛惜している。
 「私は島さんの指導を受けて、島さんとともに60年安保闘争を闘ったことを今も誇りに思い、島さんに心から感謝しています」。

【諸氏の島論、島氏の人格的品評】
 島成郎の人品人柄に付き次のように評されている。史的位置付けと評価をしておきたい。当然各論まちまちであるが、れんだいこが整理すると次のように云えるのではなかろうか。

 武井昭夫氏は次のようなコメントを添えている。
 「島君は、特に友人達の信頼が厚く、仲間内のオルガナイザーとしてすぐれた活動をされていたように思うんですね。性格がすごく明るく、誰にでも好かれる方でしたね。シャイなところがあって、表立って目立つ活動は、どちらかというと他の同志にやって貰うというところがあったように思います」。
「島君はその面でも非常に大らかな人で、目立ちたがり屋ではないが、裏の陰謀家というところもなかった。大衆的な運動を作って行く仕事に、力を惜しみなく尽くすというタイプの人で、セクト的な意味で党建設といいますか、そういうタイプの人ではなかったように私は思うんですね」。

 小川登氏は、次のように評している。
 「青木昌彦(理論)、清水丈夫(実践)を体内で融合させ、その上に自然と立ったのが島さん(人格)であった」。

 西部氏は、「60年安保−センチメンタル・ジャーニー」(文芸春秋、1986年)の中で次のように評している。
 概略「理論家としても(現場の)大衆指導者としてもオルガナイザーとしても、彼以上の才能をもった人材が少なからずブント内にいたにも拘らず、なぜ島がブントのトップ・リーダーに選ばれたのか。それは、島の与える人格的信頼感がその最大の理由であった。西部自身の経験からも、『情熱、潔癖、覚悟』といった心理が島の表情にくっきり現われており、初めて会った人間にすら信頼感を抱かせるところにあった。当時まだ27歳であった島には、ブントの体質であった浪漫主義、理想主義の雰囲気がにじみでていた。しかも、彼は最左翼の立場を貫きながら、そうした極端に位置する人間にありがちなエキセントリックな感じというものがなかった」。

 当時の活動家は、「島記念文集」の中で次のように評している。
 概要「バイタリティーの塊のようでありながら、常に爽やかで、抱擁力が有り、自由で快活で軽やかな足取りと絶やさぬ微笑と率直さと思いやりとユーモアが彼の身上だった。人の悪口は云わなかったしろ、その人の良いところをいつも語ってくれた。これから面白くなるよと、確信と夢とをくれ、鼓舞してくれた」。

【吉本隆明氏の追悼文】
 吉本隆明氏の「追悼文『将たる器』の人  島成郎さんを悼む」 (「沖縄タイムズ」2000年10月22日)を転載しておく。
 初めて島成郎さんに会ったのは全学連主流派が主導した六○年安保闘争の初期だった。島さんたち「ブント」の幹部数人がいた と思うが、竹内好さん、鶴見俊輔さんはじめ、わたしたち文化人(!?)を招いて、島さんから自分たちの闘争に理解も持って見 守って頂きたい旨の要請が語られた。竹内さんなどから二、三の質問があって、島さんが答えていたとの記憶がある。確か本郷東大の向かいの喫茶店だった。

 わたしが鮮やかに覚えているのは、そんなことではない。その時、島さんは戦いは自分たちが主体で、あくまでやるから、文化人の方々は好意的に見守っていてくれればいい旨の発言をしたと記憶する。わたしは、こ の人は「将(指導者)たる器」があるなと感じた。戦いはいつもうまく運べば何も寄与しないが同伴していた文化人の手柄のように宣伝され、負ければ学生さんの乱暴な振る舞いのせいにされる。この社会の常識はそんな風にできている。わたしは島さんがそんな常識に釘を刺しておきたかったのだと思い、 同感を禁じ得なかった。

 わたしは学生さんの闘いのそばにくっついているだけだったが、心のなかでは「学生さんの戦いの前には出まい、でも学生さん のやることは何でもやろう」という原則を抱いて六〇年安保闘争に臨んだ。それでもこのわたしの原則は効力がなかったかもしれ ないが、わたしの方から破ったことはなかった。島さんはじめ「ブント」の人たちの心意気にわたしも心のなかで呼応しようと思ったのだ。文字通り現場にくっついていただけで、闘争に何の寄与もしなかった。

 島さんの主導する全学連主流派の人たちは、孤立と孤独のうちに、世界に先駆けて独立左翼(ソ連派でも中共派でもない)の闘争を押し進めた。それが六〇年安保闘争の全学連主流派の戦いの世界史的な意味だと、わたしは思っている。闘争は敗北と言ってよく、ブントをはじめ主流となった諸派は解体の危機を体験した。しかし、独立左翼の戦いが成り立ちうることを世界に先駆けて明示した。この異議の深さは、無化されることはない。

 安保闘争の敗北の後、わたしは島さんを深く知るようになった。彼の「将たる器」を深く感ずるようになったからだ。わたしが 旧「ブント」のメンバーの誰彼を非難したり、悪たれを言ったりすると、島さんはいつも、それは誤解ですと言って、その得失と 人柄を説いて聞かせた。わたしは「将たる器」とはこういうものかと感嘆した。わたしなど、言わんでもいい悪口を商売にしてい るようなもので、島さんの一貫した仲間擁護の言説を知るほどに、たくさんのことを学んだような気がする。

 わたしの子供達は、豪放磊落(らいらく)な島成郎さんを「悪い島さん」と愛称して、よく遊んでもらったり、お風呂に入れて もらったりしていた。わたしとは別の意味で、幼い日を思い出すごとに、島さんの人なつこい人柄を思い出すに違いない。知っている範囲で谷川雁さんと武井昭夫さんとともに島成郎さんは「将たる器」を持った優れたオルガナイザーだと思ってきた 。臨床精神科医としての島さんの活動については、わたしは語る資格がない。だが、この人を失ってしまった悲しみは骨身にこた える。きっとたくさんの人がそう思っているに違いない。

【「島成郎君とのお別れ会」のご案内】
 「『島成郎君とのお別れ会』のご案内」を転載しておく。
 わたしたちの敬愛してやまぬ友人、島成郎君が去る10月17日、胃癌の69才で泣くなりました。実に口惜しい。なぜこんな にも爽やかな人間を、かつも早く神は奪うのか。わたしたちは、ただ茫然とするばかりです。

 島君は、1958年共産主義者同盟(ブント)を創設してその書記長となり、史上空前の60年安保闘争を組織しました。わた したちも島君と肩を並べてこれに参加し、あるいは支援しました。何百万という学生と労働者と市民とが意志を表示し行動したこ の闘争は、敗北に終わったと云われていますが、そんなことは問題ではないでしょう。日常些事に奔命にしているはずのわたした ちが、その気になればすべてを変革できる可能性をかいま見、それを体験し、こころの奥底にしっかりと根付かせたのですから。

 そしてこの歴史的体験の結晶の核が島成郎というひとりの男だったのです。「安保闘争もブントも島一人の仕事ではない」と人 は云うかもしれません。だが、それは違う。敢えて云いましょう。これは島ひとりがやった仕事だと。多くの優れた献身的な情熱 溢れる活動家・組織者・煽動家・理論家・思索者・参加者たちは、そしてわたしたちは、島成郎という存在があればこそ結集する ことができたのです。彼は、過飽和溶液に投げ込まれた一片の結晶であると同時に、それを奔流に仕立て上げたのです。ブント崩壊後、わたしたちの多くを含む浮薄な輩は彼に対して見当違いの批判をしましたが、彼は一切の弁明をしませんでした。

 歴史は、戦後の日本人の歩みの中に島成郎君の正当性とその巨大な業績をいずれ間違いなく特筆大書することになるでしょう。しかも、ことは日本などという矮小な地域に限られた問題ではないでしょう。謙虚で、己の利害を無視して徹底して考え抜き、 怖れを知らずに生きるたったひとりの人間が、驚くべき正確な世界認識に到達し、凄まじい破壊力で弥漫する欺瞞・擬制・詐欺・ 虚飾をなぎ倒すことができることを全世界の同世代に示したのです。もし、まだしばらくのあいだ人類文明が持ちこたえることが できるとすれば、この不屈の勇気と透徹した理性と人間としての優しさとを受け継ぐことこそが人類の遺産であり光明であり、生き延びる道であると云えるのではないでしょうか。

 わたしたちはまったく偶然にも、この類い稀な男と世代を共にし親しく交わらせてもらえるという光栄・幸運に浴しました。感 謝してもしきれません。わたしたちの多くは、島君の謦咳に接し、ブントの活動に従い、あるいはこれを支援することによって、 その後の生き方がまるで違ったものになりましたが、それを悔やむ者は少ないでしょう。

 彼の信念と行動は、晦渋な論理や煩瑣な証明に支えられていたのではなく、自由で快活で軽やかな足取りと絶やさぬ微笑と率直 さと思いやりとユーモアと彼を取り巻く爽快な空気の中にありました。だからこそわたしたちが心から彼に親しみ彼を敬愛したの です。咳いてきや信条を異にする者にさえ憎まれず信頼されていた希有の存在でした。

 この島君がいまここを去ります。彼が愛し慈しみ、その早世を嘆き悲しんだ次男の哲くんとまもなく会うでしょう。そこれ彼ら は何を話すでしょうか。それから樺美智子・生田浩二・唐牛健太郎・高橋昭八・高橋良彦・菱沢徳太郎・大島芳夫・陶山健一・富 岡倍雄・篠田邦雄・鬼塚雄丞・神保誠・香山健一・高野秀夫・宮田国男・永見堯などのかつての戦友たちとも。

 わたしたちも。いずれ島君の後を追うことになりますが、しばらくは彼の遺してくれた思い出に鼓舞されて生き続けるため、さ しあたりのお別れを告げようではありませんか。「お前さんのことはみんなよく覚えているよ」と最後に話かけてやりませんか。  そして遺された夫人の博子さん、娘のみやさん、息子の晃くんを元気ずけ、力になれることをしようではありませんか。                           (文責 古賀康正)   2000年10月   「島君とお別れ会」実行委員会 代表 古賀康正

 青木昌彦.石井暎禧.今泉正臣.遠藤幸考.小川 登.奥田正一.片山迪夫.加藤登紀子.加藤 昇.加藤尚武.唐牛真喜子.小泉修吉.香村正雄.小島 弘.佐伯秀光.榊原勝昭.佐野茂樹.篠原浩一郎.常木守.長崎浩.中村光男.西部邁.糟谷秀剛.灰谷慶三.葉山岳夫.星宮昭生.星山保雄.前田知克.森田 実.吉本隆明

 「島君とお別れ会」実行委員会事務局(奧田正一) 101-0025 東京都千代田区神田佐久間町2−1
 電話 03−3862−2698  FAX03−3864−9577 日時 2000年11月11日(土)午後1時〜3時  会場 青山葬儀場

【武井昭夫氏による島氏追悼文】
 「武井昭夫氏による島氏追悼文」を転載しておく。

 島さんが亡くなられて、そちらの編集部からも頼まれていたし、追悼の文章を早く書かなきゃいけないと思っていたのですけど、ちょうど折悪しく締め切りの時期に十日間ばかり過労で寝込んでしまったので、ギリギリの時間で、お話をさせていただいて、追悼の文章に代えさせていただきたいと思います。

 島さんとは比較的古い付き合いで、太平洋戦争の最中に、私は、七年制の高等学校の高等科に入ったのですが、島さんもちょうどそのころ尋常科に入られて、ですから上級生・下級生の関係で戦争時を送りまして、一年半後ぐらいに敗戦を迎えて、三年で卒業するまでの期間、同じキャンパスで、勉強や生活を共にしました。

 戦時下の島さんは、――私ははっきり覚えてないんですけれども――生物学の研究部で、割合と地味な学生であったように、いくらかぼやっと記憶しています。私の弟が島さんの二年下にいまして、よく島さんの話をしていました。後でも、学生運動にいろいろ関係してくるんですけど、(弟の)一年上に高野秀夫君がいまして、高野君は安保闘争の頃、全自連を組織して、島君とは対立しましたが、それ以前は全学連の書記長として活躍し、学生運動の中では忘れられない一人だと思います。

 敗戦直後には、今と違いまして、旧制の大学・高専だけじ ゃなくて、今で言えば中学生に当たる人たちも社会的な関心が高く、理論的勉強もよくやりましたけれども、同時に社会的な実践にも積極的に乗り出す生徒もたくさん出てきて、私のいた高等学校の尋常科生も、活発で、島さんもその中で目立つ一人として私の記憶に鮮明に残っています。

 島さんとの直接的な接触は、私が大学へ行きまして、ご承知のように一九四八年に全学連ができてからの運動の中でです。当時のアメリカの占領政策は初期の民主改革の時代から、日本を反共の防波堤にしていこうという反動化の時代に転換していました。五〇年にかけて、国内では全職場でレッドパージがすすみ、外では朝鮮戦争も始まるという時代です。そういう時流に抵抗する運動ですが、第一次全学連の、ほぼ最後の時期にあたるところで、島さんも大学に入ってきて一緒に運動の戦列にいました。

 島さんは、体を悪くされたり、いろいろしまして、それに、医学部というところは、普通の学部に比べて修学期間が長いですから、第一次全学連の運動が潰れた後も、学生として大学に残っていた。第一次全学連の唯一の現役生き残りだ ったのです。

 ★第一次全学連運動というと、いつ頃と見ればいいのでしょうか。

 わたしの言う第一次というのは、1948年の9月に全学連が結成された、その結成される前後から、1950年のレッドパージ反対運動を経て、51年の全面講和運動の頃までの運動ですね。全学連の大会で言いますと、結成大会から第五回大会のしばらく前、一九五一年の末ぐらいまでです。第五回大会の前の中央委員会で中執――私らが中央執行委員会にいたのですけれども――の不信任がありましてね。つまり、共産党の主流派の活動家たちが、学生運動の多数派になって、それまでの指導部とその方針が否定されるという転換が起こったのです。

 それは、一口で言えば、1950年1月にコミンフォルムから日共指導部の野坂理論が日和見主義だといって批判されます。そこから日共内でいわゆる「主流派」といわゆる「国際派」との、対立・分裂が生じますね。ところが、51年の夏に二度目の国際派批判というのがある。それはどういうのかというと、国際派の方が反党分派であって、方針も誤っている。そのことを認めて自己批判し、いわゆる主流派の方へ統合せよという主旨です。両方とも――あとで判るんですけど――スターリンが直接に主導したと言われている。

 第一次全学連の運動の中執を中心としたイニシアチヴ・グループといいますか、これまでそれを支えて活動していた各校の党員たちのグループはほとんど国際派だったんです。自己批判して元に戻りなさいという決定になって、ほとんどが、当時コミンフォルムとスターリンは絶対的権威ですから、それに従って主流派のもとに戻っていった。

 私は頑固ですから「馬鹿にするな」と。我々の運動は我々が一番よく知っているんだ、そんなことはありえないということで頑張ったわけですけれど、頑張り切れる者はやっぱり、全国的には非常に少数でね。ですから、大衆運動としても、それまでの執行部が解任された。52年の春でしたか、第六回大会というのが京都でありまして、そこでそれが大会の決議として確認された。

 それ以後、学生運動の主導権はそれまでの反対派、つまり日共主流が握るのですが、運動は下降線を辿る。非常に困難な局面にぶつかる。というのは、日共主流派は当時はまだ、火炎瓶闘争といった、極左戦術が一方にあり、一方学園では世話役活動中心の右翼日和見方針が支配していって、学生運動は全体として行き詰まっていく。ご承知だと思いますけれど、共産党主流の方針がそれで五五年に転換されるんですね。その間に、北京で指導していた共産党主流の徳田球一さんも亡くなりスターリンも亡くなって。五 五年の六全協で大きな転換となる。

 この方針転換で運動がもとにもどって再建されるかというとそうではなくて、逆に、今まで頑張っていた人たちもみんなガクッときましてね。非常に大きな混乱が起こりまして、運動は潰滅状態、学生運動がほとんど絶えた状態になってしまったんですね。

 その頃、島君が久しぶりに森田実君(後に全学連の再建で中心になりました)を連れて、私の自宅に訪ねてきた。「運動が本当に沈滞してしまってどうにもならない。これを再建しようと思うんだけど、武井さんたちがやっていた頃の運動から積極的なものを学んで、この状況を打開していく方法を考えたい」ということで訪ねてきたわけです。二ヶ月ぐらいかな、ほとんど連日のように、島君、森田君を中心に何人かが来まして、学生運動を大衆的に起こすのにはどうしていったらいいか、という問題から考え直していくような学習と討論をやりましたね。

 島さんとは、52年から55年にかけて数年間会ってはいなかったんですけれども、昔からの付き合いということがあって、気心も知れているので、第二次の全学連の再建、いわゆる安保全学連の形成を、島君たちが中心になってやるのを、私も助けました。当時、私はまだ共産党からは除名されたままだったわけですが、島君たちも私もそんなことは二の次でした。六全協の後に私はもう一度党へ復帰して、非常勤で中央学生運動対策部の仕事も手伝うようになり、共産党も役員が、選挙によって大きく入れ替わるという時期だったので、第一回東京都党員会議で都委員に選ばれ、都委員会の中で常任委員に選ばれて、平和運動対策部とか青年学生対策部というのを担当しましたから、そういう側面からも、学生運動の再建・再興を島君らと一緒にやったということが共通の経験としてあるわけです。

 その時とくに強調したことが二つありましてね。一つは、学生運動はできるだけ大衆的にやるということです。全共闘のころに、誰も彼も含めての全体的な自治会なんていうのはあれはポツダム自治会で、意味がないんだ、意味がないだけじゃなくて有害なんだ、という論もありましたし、事実、やり方を間違えればそうなる側面もあると思うんですけど、そうではなくて自治会というのは 全体の学生をまとめていく民主的な自治の器なのであって、内容が空洞化しないように運用していくのが一番大事だという考えが私個人にもありましたし、第一次全学連を作って運営してきた者たちの共通の考えでした。むろん実際の運用や戦術的にはいろんな間違いもたくさんありますけれ ども全体としてはそういう方向をめざしたのだったですね。

 その考えの基礎には、それが可能だというのは、戦前からの、社研やマルクス主義文献の読書会を中心とする、あるいは共青とか共産党関係の先進的な学生組織を中心とする学生運動の考え方は、学生の中の進歩的な部分が労働者と結び付いて、労働運動のオルグなどの面で積極的な役割を果たす、というもので、この考え方が、戦後も党の指導機関ではそのまま引き継がれてきていた。私の考えはそうではなくて、あの第二次大戦を経験してきた学生層は、出身階級とは関係なく――個別例外はいっぱいありますけれども――、軍国体制の下でひどい経験をしてきているから、全体として平和の擁護と民主主義の確立に層として共通の目標にして協働しうるというものでした。むろん、放ってもそうおいてなるというのじゃないですけど、ディスカッションを積み重ねさえすれば、それが成り立ち得ると。だから学生層は全体として、労働者とともに、日本の民主化や社会改革、さらに革命運動にまで同盟者として参加していく可能性があると。

 ★そういう考え方だったんですね。本で読むとなかなかわかりにくい。

 そうでしょうね。つまり、マルクス主義的な学生だけが、社会的に有用な活動をできるという戦前の考え方じゃなくて、学生層全体としての運動の中にそういう資質がある、と。それは、繰返しますと、三つの要素、一つは青年であること、したがって行動的で正義感が強い。第二にインテリゲンチャの卵であって、知識と真理について忠実たらんという精神がある。第三に戦争体験、この三つを正しく繋げていけば、層として学生は、進歩と平和の側に立てるのだと。そしてそれは社会変革の活動にまで、まとまって参加することが可能なんだという考え方ですね。これが一つです。

 もう一つは、学生は直接に生産過程に入っているわけじゃないから、運動によって何をするかと言えば、社会に対してアピールする、問題を呼びかけて警告を発する、そういう社会的アピール活動が基本だということ。直接、生産を止めて資本家に対して打撃を与えるという力はないんだから、政治的・社会的アピール活動というのが非常に重要なんだから、時には先鋭な行動も積極的にやらなきゃいけないという意見です。行動は,耳目聳動的であれ,≠ニいうやつです。それを拡大解釈しますとね、行動形態はラディカルであればあるほどいいという意見にもなりかねないところがありましてね(笑)。いろいろ難しい問題もあ ったんですけれども。

 右はたてまえですが大切なことで、その上でさらにそれを実践に移していくためには、自治会組織だけでは足りないのであって、活動家の統一組織――民主学生同盟とか反戦学同とか、いろいろ名前は変わりましたけど、そういうもの――の必要性の問題、それと様々な、文化的・学問的なサークル活動をどう組み合わせて重層化し、層としての運動を組み立てていくかというような問題、言ってみれば戦術といいますか、テクニックというか、そういうことまで含めていろんな学習活動をやったりもしました。

 その上で決定的に大事な要素は、全国的にも共通する政治的・社会的問題を取り上げて、大胆に政治的闘いに立ち上がること。特に政府の政策への批判活動が非常に重要だということを強調した。一足飛びになりますけど、島君や森田君はそれらを見事に自家薬籠中のものにして、勤評反対闘争とか、砂川基地拡張反対に取り組んでいくなかで運動の大きな立ち直りをなしとげました。それは非常に運動の大きな立ち直り、立ち直りどころか、第一次全学連の時代よりももっと幅広く、大きな大衆的な運動へ発展させていった。私の知る限りでは、委員長は香山健一君でしたが、森田君の活躍が大きかったように思います。

 島君は、とくに友人たちの信頼があつく、仲間内のオルガナイザーとしてすぐれた活動をされていたように思うんですね。性格がすごく明るく誰にでも好かれる方でしたね。シャイなところがあって、表だって目立つ活動は、どちらかというと他の同志にやってもらうというところがあったように思います。

 その時期、共産党の方では、私は二期、都委員に選ばれていて、三期目には宮本顕治氏を中心とする中央の統制がどんどん厳しくなって、六全協後、党の民主化のために頑張ってきた人たちが、いろんな難癖をつけられて、役員選挙に立候補する資格審査で落とされるという形になってきた。都委員会では、もう、党民主化を進めながら運動を担 っていくことは不可能だということで、全員次の役選には出ないことになり、私も辞めましたけどね。その辞める前の期には、島さんも都委員に当選して、都委員会で一定期間、一緒に仕事をしました。島さんは、青年学生対策部の東京都の担当もされましたし、私も机を並べて仕事をしたんですね。この間、こんなこともありました。全学連の中執を、第四インターのメンバーが独占的に握るということが。一種のクーデターみたいなのがあったんですよ。今まで香山君や森田君を中心でやっていた全学連の中執が、がらっと変わ っちゃったんですね。変だなと思って聞いてみたら、第四インターができていて、これは革共同を名乗っていた。京都に大屋史朗さんという人がいまして、私もよく知っていた方で、この人が第四インターに入りましてね。彼は党の京都府委員会の学生対策部長だったですから、京都の学 生党員の中核部分を第四インターに組織して、それを全学連に送り込んで、東京にいた塩川喜信君らと協力して、島君や森田君が知らない間に、バッと中執を取っちゃったらしいんですね。

 そんなことがあって、島君が、対抗組織を学生の中でちゃんと作っていかなきゃいけないと考えた。そういうことも一つ、ブント結成のモチーフの中にあったと、後になって島君から聞いたことがあります。

 この例は、島君たちが出し抜かれた例で、私は出し抜く奴より出し抜かれる人の方が好きですね。島君はその面でも非常に大らかな人で、目立ちたがり屋ではないが、裏の陰謀家というところもなかった。大衆的な運動を作っていく仕事に力を惜しみなく尽くすというタイプの人で、セクト的な意味で党建設といいますか、そういうタイプの人ではなか ったように私は思うんですね。直接前面に出たのは、香山君の後は安保闘争なんかで唐牛健太郎君、そういう人たちですが、彼等を前面に盛り立てて大衆的な運動を徹底的に展開する方針を大胆にやる。島君はそういうタイプのリ ーダーだったと思いますね。

 だから、陰湿な形での党派闘争に備えて、セクトとしての組織建設を主としてやっていくというタイプではなかった。だから、大衆運動の前面に立っている人たちと、担っている任務はちょっと違うところにいたんだけれども、陰に篭もったような確執ということがほとんどなかったんじ ゃないかと。私は、中 にはいませんけれども、外から見ていてもそう思う。またそういう島君の指向というか志向が安保闘争後、島君たちが組織していた共産主義者同盟が分解して、闘争後、革共同に吸収される因ともなったかもしれないけれど、あの闘いをやりぬいたことは立派なことだったと私は思うのです。

 ブントの解体後、島君が医者となって、医師として社会的な活動を始められてからもね、医学の分野の民主化のために闘ったり、医療活動の面でも沖縄に行ったり北海道に行ったり、いろいろな地域を歩かれましたけれど、地域の医療の改善など、民衆的なものから離れないで、ずっと一生を通して貫徹された。そのことはとても貴重なことだと思 う。そういう人はなかなかいないのですね。その生き方に、私は敬意を払っています。

 学生運動の側面でも、党活動の面でも、ある程度個人的にも継続しながら長い付き合いでしたけど、その間、政治的な意見は一致していたわけでもないんですよね。例えば、ブントを作られるときに――そうだ、その話をするのを忘れていた(笑)――島君はある時期から都委員会に出てこなくなってしまったんですよ、都委員なのにね。都委員会は一つにまとまっていたわけではない。宮本さん中心の官僚統制がどんどん強まっている時期で、都委員会の中にはそれと闘っているでしょう。それを支持し迎合している連中が半分近くいる。「島はどうしているんだ」と追及され る。私は何回も島君の家に行って、出てきてくれと言う と、体の調子が悪いなんて言う。それはそうであってもね、全然出てこないんじゃ困るからといって、随分頼んだりしたんだけどGGどうもその頃ブントを一所懸命組織していたようなんですね。後で島君がそう言ってましたよ。武井さんには言えなかったんだけど、実はやっていたんですよと(笑)。

 だから、ブントができた頃や、その後暫く経っても、私も一緒にブント作りをやっていたんじゃないかと疑われた(笑)。疑いというか、党の方からはそう見られたようで、島君もとても辛そうでしたけれど、そのことは言わないで頑張っていたんですね。島君も辛かったんでしょうね。

 思い出というと、そんなところが主ですね。話の中で落としたことを思い出しました。高等学校の頃、寮で小林勝君から影響を受けていろいろ啓蒙された、と『ブント私史』で書いてますね。小林勝君は、私と年は同じなんですけどね。あの人は大邱で生まれて、大邱中学の二年から幼年学校に行きまして、陸軍士官学校に在学中に戦争が終ったん です。それで私たちがいた高等学校へ転入してきた。軍関係がたくさん転入してきて、定員を戦争中はうんと減らしていましたから、生徒数は倍ぐらいになりましたけど一年下で入ってきた。小林君を社研活動に引っぱり込み、やがて共産党に誘って、活動家にしたのは、私なんですよね。ところが、その小林君が尋常科の島君と北寮へ入 ったんです。それで小林君と一緒に生活したりして、いろいろ影響を与えたわけで、島君は私の孫弟子みたいなことになります(笑)。

 小林君は、大学は早稲田の露文に行きましてね。党の分裂のときは主流派の方にいて、火炎瓶闘争の先頭に立って、新宿の岩の坂事件という交番襲撃事件で逮捕されちゃう。彼はその頃、中核自衛隊の一員だから、ピストルを持っていましてね。捕まって下獄して、その経験から、『檻』という戯曲やいくつかの小説を書きました。植民地朝鮮で育 ったから、死ぬまで朝鮮問題を自分のテーマとして書いていた作家でした。火炎瓶闘争をやっている時期は、私は会う機会がなかったけれども――こっちは除名されていますしね――。六全協後にまた、文学運動の中で再会して、以後彼が死ぬまで、一緒に仕事をしました。

 ★小林さんはいつ頃亡くなられたんですか。

 もう20年くらいになりますか。飲兵衛なものですからね、体を壊しましてGG。生活も大変だったし、飲むといろいろなことがあって、難しい問題にも巻き込まれたりしたようです。結局体を壊して早死にした。惜しかったです。才能があって、とてもきっぷのいい男だったんですけどね。

 いま島君に先立たれて、追悼者の側に置かれた私として言いたいことは、島君とかれの作ったブントの考え、つまりその世界変革の論理構造と私の考えとでは、ずいぶん違いがあったと思いますけど、そういうことを超えて、学生運動の大衆的な展開を大胆に展開することに懸けるという島君の大らかな資質が大切なものと私は思うのです。形態としては相当激しいですよね、安保闘争のときの国会突入戦術とか。そういうことを大胆にやれるという、そういうところが島さんにはあったですね。そういう性質は亡くなるまで失わなかったんじゃないかと思いますね。

 また、あの人は、自分の経歴を体制側の中で使うことがなかった。さらに言えば体制の階を上っていく生き方を終生しなかった。一生、とにかく民衆の側にいたという点で私は島君をとても敬愛しています。私より四つぐらい若いんじ ゃないかと思うんですが、亡くなられて非常に残念に思 っています。島君の生き方のうちのこの二つの面が、いろんな形で広く友人たちや後輩の方々に受け継がれていってほしいと願います。まあ、私があとどのぐらい生きるか分かりませんけど、私も自分の生き方の中に受け継いでいきたいと思っています。


【小川登氏による島氏回想文】
 「存在自体がカリスマ:一つの島成郎論 - CORE」。
 なぜだがコピーできないようにされている残念無念。必須文ではないけれども幾つもの面白いエピソードが語られており、回し読みされるに値すると思う。それをさせない仕掛けにしている意図と意味がアイドントノー。

【中村光夫氏による島氏追悼文】
 「中村光夫氏による島氏追悼文」を転載しておく。
 島よ、とうとう逝ってしまったね。

 星山保雄から、君が食道、胃、十二指腸をとる大手術をして、その後の経過が思わしくないという知らせを受けて、10月7日、古賀康正と一緒に沖縄へ駆け付けた。医者の話では癌の転移が残っている、もうホスピスの段階だという。だが、面会した君は案外元気で、話もちゃんとした。10月8日、再度面会し、「どう、東京に戻って来るかい?」という我々の問いに対して、「めんどくさい。調子がよくなったら、ここで、ものでも書くさ」という。別れの握手は意外と強かった。一縷の望みをもって、「じゃ、また」と別れた。それが、最後の別れとなった。ものを書く君には、もう会えない。

 君とはお互いの第一の人生、学生運動の時代、革命運動の時代を、つかず離れず、共にした。君の言、「世界が自分を中心に回っている」時代だ。その始めと終わりに、よく付き合った。

 私が駒場に入ったのが1952年。君が1950年のレッドパージ反対闘争の処分が解けて、復学したのが1953年だったかな。共に日本共産党の元国際派で、所感派支配の党に復帰したが、冷や飯を食わされた。外では火炎瓶と中核自衛隊、内では査問と自己批判の時代だ。絶えざる締め付けで、パルタイ生活は暗かった。でも、我々は真面目なコミュニストだった。スターリンの死の知らせに、真夜中、駒場の自治会室で、私は生田浩二と二人だけで、弔いのインターを歌ったことを覚えている。君はやがて本郷へ。お互い存在は意識していたが、「元分派」同士、余計な接触は避けた。

 1955年の六全協で、パルタイは解体の危機に瀕した。地下に潜っていた連中が次々に姿をあらわし、「私の青春を返してくれ」という。おかしいではないか。ビラ貼り、ガリ切りも、パルタイに入ったのも、自分の責任。人に頼まれて、学生運動をやり、革命運動をやっていたわけではない。自分の頭で考えようぜと議論しているところに、国立大学の授業料値上げが降ってわいた。やる気のある奴だけで反対闘争を始めたら、手ごたえあり。駒場から、久方ぶりに、文部省へ千人単位のデモが出た。島が本郷から飛んできた。「その調子でやれ」という。

 廣松渉(門松曉鐘)、伴野文夫の三人で『日本の学生運動』(新興出版)を書いた。国際派学生運動論の復活だ。島がまた本郷から、飛んで来た。「いいけど、ヤバい」という。党内闘争で浮かされるぞ、と警告する。

 ともあれ、1956年の新学期から学生運動は一気に再建に向かった。沖縄、砂川、勤評、警職法、安保へと、疾風怒濤の展開だった。大衆運動の昂揚の裏には熾烈な党内闘争があった。東京都委員会の武井昭夫さんの掩護が嬉しか った。だが、パルタイの存在を自己目的化する旧国際派の党官僚に全く失望した。分派から独自政党への決意が次第に固まっていった。一九五八年、六・一事件で党中央と 学生運動指導部との対立は一挙に顕在化、不可逆となった。全学連書記局、東大本郷、社学同書記局の細胞は文京地区委員会の乗っ取りへ。森田実、生田浩二、それに私などが地区委員になった。だが、やがて我々全員、「トロツキスト反党分子」として除名された。本物の革命をやるんだと佐伯秀光、青木昌彦の世界革命論で武装して、震えながら共産主義者同盟=ブントの結成へ。

 1960年6月15日の夜、我々は深い淵に立った。犠牲は自分の死を含めて覚悟していたが、現実に、あの樺さんとは。島と催涙ガスで泣きながら三宅坂を下った。6月18日、国会周辺を埋め尽くした抗議デモ、座り込みの中で、空転以外、何もできない。生田の言「ブントもダメだ」が腹の底に沁みる。すべてを乗り越えて来た末、乗り越えられない自分、飛び越せない深淵に直面する。越えようにも、飛ぼうにも方向が見えない。確かに、権力に揺さぶりを掛け、情勢展開の主導権を握った感触はあった。だがそれは一瞬で、チャンスは後ろ髪を捕まえさせずに、飛び去 っていった。6月23日、安保条約改訂自然発効。世界は自分を中心に回っていることを止めた。岸内閣総辞職。だが、底なしの無力感に襲われる。

 私は7月、全学連大会後、三池闘争の支援に行って、現地で捕まり起訴され、秋口まで福岡の拘置所。東京に帰ってしばらく、古賀泉、福地茂樹、山崎修太らと社学同再建をやるが、派閥闘争は苦手で旨く行かない。やがて、何もしない、何も言わない島の所に身を寄せる。酒だ。ほとんど毎晩、歌舞伎町の酒場で女の子、春ちゃん、夏ちゃんたちと陽気に飲んで、騒いだ。第一の人生、革命運動との別離の儀式だった。

 この間、島はいろんな人と会っていた。政界、財界、文壇、論壇の大御所たちが島に眼をつけた。政治家への道の誘惑もあったに違いない。だが、島は結局、高井戸の都営住宅で博子さんとつましい新婚生活の再開、学習塾で食い繋ぐ道を選んだ。図々しくも私は其処にしばらく居候した。生田が時々現れて、マルクス主義離れを説いた。

 島は医者になるための勉強を猛然と始めた。社会復帰の道だ。彼の第二の人生、医者への転身だった。逆は多い。医者から革命家の道だ。郭沫若、ゲバラなど。だが島は本物の医者になった。転身を見事やり遂げた。その後の三十余年、専門外でよくわからぬが、精神科の医者としての仕事には瞠目すべきものがあったようだ。『精神医療の一つの試み』(批評社)を読んでみると、島が患者一人一人の命と心を限り無く貴重なものとして、付き合っていることがひしひしと感じられる。地域への執着も、他で置き換えることのできない直接性の集合体ゆえだろう。しかも、病気と地域を、二十世紀末の高度資本主義社会がひき起こす変化の物凄さの文脈の中で捉えようとする視角に、地に着いたグローカルな発想の先取りが見られる。

 島の第三の人生、「ものでも書くか」は余りにも短かった。確かに『ブント私史』(批評社)は残してくれた。高沢皓司さんの献身的な努力で、『ブント資料集』も出た。でも、もうちょっと長い第三の人生で、第一と第二の人生を繋げて総括してほしかった。革命家が本物の医者になるということは、どういうことか、書いて欲しかった。

 人は島を赤穂浪士の大石蔵之助に見立てていたかも知れない。主君の仇討ちならぬ世界革命の達成のために、同志ともども市井の徒に身を窶し、お上と世間を欺き、やがての決起を準備していたのだと。でも、違う。旧同志の大半がそうであったように、転身は本物だった。みな、自分の中 のブントを抱えながら、きっぱりと転向したのだ。島のヴァージョンはどうだったのか、じっくり、教えて欲しか った。でも、君は逝ってしまった。総括は、各自、自分でやれということだろう。確かなことは、もう、大石蔵之助はいない。ブント浪士の討ち入りはないということだ。残された者は、「われらの内なるブント」を反芻するしかない。

 中間総括。楽しかったよ、島。あリがとう。合掌。

 (筆者紹介―1933年生まれ。1950―61年、学生運動活動家。東京大学教養学部学生自治会副委員長、全学連中央執行委員、再建反戦学生同盟[AG=アージェー]委員長、社会主義学生同盟初代委員長、ブント創立メンバーの一人。千葉大学名誉教授。)


【森田実の「戦後左翼の秘密」が記す島とのノイローゼ問答】
 森田実の「戦後左翼の秘密」が次のような島とのノイローゼ問答を記している。
 「精神神経科の医者になってわかったことだが、学生運動の中には治療の必要な人間が何人もいたな。普通の社会にも異常者はいるが、学生運動の中は異常者の比率が非常に高い。これは学生運動の中では異常行動が異常行動にみえず、時には英雄的行動として高い評価をうける。異常者にとっては学生運動は住みよい社会なんだ。あいつも治療が必要だったな。そうあいつもそうだ。そしてあいつも……」。私はこの話を聞いておどろきました。彼があげなかった名前は、極く少数だったからです。彼は異常と思われるほど優秀な人間でしたから、ヤブ医者のいうこととは思えません。そこで私はおそるおそる聞いたものです。「オレはどうなのか」。彼の答は私を安心させるものでしたが、同時に少なからずガッカリさせられました。「精神神経病には分裂症、そううつ病、ノイローゼなどがあるが、現代社会では真面目でマトモな人がノイローゼになりやすい。しかし、君はノイローゼにもならない、というよりなれないタイプの人間だ。大丈夫だよ」。





(私論.私見)