島よ、とうとう逝ってしまったね。
星山保雄から、君が食道、胃、十二指腸をとる大手術をして、その後の経過が思わしくないという知らせを受けて、10月7日、古賀康正と一緒に沖縄へ駆け付けた。医者の話では癌の転移が残っている、もうホスピスの段階だという。だが、面会した君は案外元気で、話もちゃんとした。10月8日、再度面会し、「どう、東京に戻って来るかい?」という我々の問いに対して、「めんどくさい。調子がよくなったら、ここで、ものでも書くさ」という。別れの握手は意外と強かった。一縷の望みをもって、「じゃ、また」と別れた。それが、最後の別れとなった。ものを書く君には、もう会えない。
君とはお互いの第一の人生、学生運動の時代、革命運動の時代を、つかず離れず、共にした。君の言、「世界が自分を中心に回っている」時代だ。その始めと終わりに、よく付き合った。
私が駒場に入ったのが1952年。君が1950年のレッドパージ反対闘争の処分が解けて、復学したのが1953年だったかな。共に日本共産党の元国際派で、所感派支配の党に復帰したが、冷や飯を食わされた。外では火炎瓶と中核自衛隊、内では査問と自己批判の時代だ。絶えざる締め付けで、パルタイ生活は暗かった。でも、我々は真面目なコミュニストだった。スターリンの死の知らせに、真夜中、駒場の自治会室で、私は生田浩二と二人だけで、弔いのインターを歌ったことを覚えている。君はやがて本郷へ。お互い存在は意識していたが、「元分派」同士、余計な接触は避けた。
1955年の六全協で、パルタイは解体の危機に瀕した。地下に潜っていた連中が次々に姿をあらわし、「私の青春を返してくれ」という。おかしいではないか。ビラ貼り、ガリ切りも、パルタイに入ったのも、自分の責任。人に頼まれて、学生運動をやり、革命運動をやっていたわけではない。自分の頭で考えようぜと議論しているところに、国立大学の授業料値上げが降ってわいた。やる気のある奴だけで反対闘争を始めたら、手ごたえあり。駒場から、久方ぶりに、文部省へ千人単位のデモが出た。島が本郷から飛んできた。「その調子でやれ」という。
廣松渉(門松曉鐘)、伴野文夫の三人で『日本の学生運動』(新興出版)を書いた。国際派学生運動論の復活だ。島がまた本郷から、飛んで来た。「いいけど、ヤバい」という。党内闘争で浮かされるぞ、と警告する。
ともあれ、1956年の新学期から学生運動は一気に再建に向かった。沖縄、砂川、勤評、警職法、安保へと、疾風怒濤の展開だった。大衆運動の昂揚の裏には熾烈な党内闘争があった。東京都委員会の武井昭夫さんの掩護が嬉しか
った。だが、パルタイの存在を自己目的化する旧国際派の党官僚に全く失望した。分派から独自政党への決意が次第に固まっていった。一九五八年、六・一事件で党中央と
学生運動指導部との対立は一挙に顕在化、不可逆となった。全学連書記局、東大本郷、社学同書記局の細胞は文京地区委員会の乗っ取りへ。森田実、生田浩二、それに私などが地区委員になった。だが、やがて我々全員、「トロツキスト反党分子」として除名された。本物の革命をやるんだと佐伯秀光、青木昌彦の世界革命論で武装して、震えながら共産主義者同盟=ブントの結成へ。
1960年6月15日の夜、我々は深い淵に立った。犠牲は自分の死を含めて覚悟していたが、現実に、あの樺さんとは。島と催涙ガスで泣きながら三宅坂を下った。6月18日、国会周辺を埋め尽くした抗議デモ、座り込みの中で、空転以外、何もできない。生田の言「ブントもダメだ」が腹の底に沁みる。すべてを乗り越えて来た末、乗り越えられない自分、飛び越せない深淵に直面する。越えようにも、飛ぼうにも方向が見えない。確かに、権力に揺さぶりを掛け、情勢展開の主導権を握った感触はあった。だがそれは一瞬で、チャンスは後ろ髪を捕まえさせずに、飛び去
っていった。6月23日、安保条約改訂自然発効。世界は自分を中心に回っていることを止めた。岸内閣総辞職。だが、底なしの無力感に襲われる。
私は7月、全学連大会後、三池闘争の支援に行って、現地で捕まり起訴され、秋口まで福岡の拘置所。東京に帰ってしばらく、古賀泉、福地茂樹、山崎修太らと社学同再建をやるが、派閥闘争は苦手で旨く行かない。やがて、何もしない、何も言わない島の所に身を寄せる。酒だ。ほとんど毎晩、歌舞伎町の酒場で女の子、春ちゃん、夏ちゃんたちと陽気に飲んで、騒いだ。第一の人生、革命運動との別離の儀式だった。
この間、島はいろんな人と会っていた。政界、財界、文壇、論壇の大御所たちが島に眼をつけた。政治家への道の誘惑もあったに違いない。だが、島は結局、高井戸の都営住宅で博子さんとつましい新婚生活の再開、学習塾で食い繋ぐ道を選んだ。図々しくも私は其処にしばらく居候した。生田が時々現れて、マルクス主義離れを説いた。
島は医者になるための勉強を猛然と始めた。社会復帰の道だ。彼の第二の人生、医者への転身だった。逆は多い。医者から革命家の道だ。郭沫若、ゲバラなど。だが島は本物の医者になった。転身を見事やり遂げた。その後の三十余年、専門外でよくわからぬが、精神科の医者としての仕事には瞠目すべきものがあったようだ。『精神医療の一つの試み』(批評社)を読んでみると、島が患者一人一人の命と心を限り無く貴重なものとして、付き合っていることがひしひしと感じられる。地域への執着も、他で置き換えることのできない直接性の集合体ゆえだろう。しかも、病気と地域を、二十世紀末の高度資本主義社会がひき起こす変化の物凄さの文脈の中で捉えようとする視角に、地に着いたグローカルな発想の先取りが見られる。
島の第三の人生、「ものでも書くか」は余りにも短かった。確かに『ブント私史』(批評社)は残してくれた。高沢皓司さんの献身的な努力で、『ブント資料集』も出た。でも、もうちょっと長い第三の人生で、第一と第二の人生を繋げて総括してほしかった。革命家が本物の医者になるということは、どういうことか、書いて欲しかった。
人は島を赤穂浪士の大石蔵之助に見立てていたかも知れない。主君の仇討ちならぬ世界革命の達成のために、同志ともども市井の徒に身を窶し、お上と世間を欺き、やがての決起を準備していたのだと。でも、違う。旧同志の大半がそうであったように、転身は本物だった。みな、自分の中
のブントを抱えながら、きっぱりと転向したのだ。島のヴァージョンはどうだったのか、じっくり、教えて欲しか
った。でも、君は逝ってしまった。総括は、各自、自分でやれということだろう。確かなことは、もう、大石蔵之助はいない。ブント浪士の討ち入りはないということだ。残された者は、「われらの内なるブント」を反芻するしかない。
中間総括。楽しかったよ、島。あリがとう。合掌。
(筆者紹介―1933年生まれ。1950―61年、学生運動活動家。東京大学教養学部学生自治会副委員長、全学連中央執行委員、再建反戦学生同盟[AG=アージェー]委員長、社会主義学生同盟初代委員長、ブント創立メンバーの一人。千葉大学名誉教授。)
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