―前回はブントを再建した六六年九月の第六回大会の開催まででした。その結びで、それは「第二次ブントの暗い門出でした」と言ってますが、それはどういう心境だったのですか。
達成感の中における失望と悲観とでも言った心境でしょうか。確かにブントは再建できたという達成感はありました。しかし、六年間もかけて再建した弟二次ブントの政治路線が全くと言ってよいほど私の考えと違った路線になったという失望と悲観だったのです。煎じ詰めれば「お前は何をしてたのだ」という自責の念が私を暗い気持ちにしたのです。
―もっと具体的に話して下さい。
ブントが再建されたこと、それは嬉しいことでした。バラバラに分裂していた各派が、六年目にやっと統合できたのですから。孤立と分散を余儀無くされながらも「革共同だけには絶対にいかん」と踏ん張ってきた小グループや諸個人にとっては希望の道が開けたのです。続々と加盟と大会参加の報が伝わってきました。政治の大きな流れが一変したことを実感しました。第二次ブントに期待と幻想がよせられ、生まれたばかりの組織には勢いがありました。
このブント再建の勢いが、六六年十二月十七日の三派全学連(中核派マル学同とブント社学同と解放派反帝学評)結成を生み、創立大会には、全国三十五大学、七十一自治会、千八百人を結集して、民青全学連と革マル全学連に対抗する流れを創り出したのです。私は、その意味で弟二次ブントを組織的に再建したことは今でも正しかったと確信しています。リアルに表現すれば、ここで東京社学同統一派と社学同マル戦派と開西社学同の三つの組織が結合して第二次ブントの戦闘主力を形成できなかったならば、第二次ブントは、あの六七年の十・八羽田闘争を、中核派マル学同の戦闘主力と並び競って闘い抜き、大衆武装の一時代を切り開くことなど出来なかったと思っています。だから、外から見る限り、第二次ブントの政治的登場は、新左翼運動の流れと勢いを一変するものと映ったでしょう。
それにもかかわらず、統一過程とりわけマル戦派との大会議案作成過程の内側を知りつくし、岩田理論一色に染まった議案を大会で承認採決せざるを得ないところまで追い込まれた東京の統一派幹部の無責任さと体たらくと第一次ブントの崩壊以降も分裂を免れて分派闘争にも党派闘争にも免疫のない関西ブント幹部の鈍感さと対応の遅さを目の当たりにし、半ばあきれながら、己れもまた政治路線の自己主張をなしえなかった自責の念にかられ、私個人の心には「暗い門出」と映ったのです。
―ただ単に暗い気持ちになっただけなのですか。羽田闘争の後の分裂大会に至る第二次ブント内の党内闘争過程では、「さらぎがいちばん熱心に岩田理論を批判した」と言う人もいますよ。
挑発しないで下さい。マル戦派との理論闘争は第二次ブントの強化のために必要不可欠だったのか否か。その論争を組織の分裂にまで煮詰め追いつめた政治的な手法は果して正しかったのか。必然的な結果であったのか。それとも両派の路線的対立をゲバルトで組織的分裂へと目的意識的に煮詰めた学対の手法自体に誤りがあったのか。この学対の独走的突出に賛成するのか、反対して押さえるのか、ということに確固とした政治決断を下せない政治局の無能。分裂大会の後にとったマル戦派幹部に対するテロや個人的リンチなどは誤りではなかったのか。それが誤りであれば、その誤りを生み出した思想的な根拠はどこにあったのか、という根本問題に関しては、私自身、六回大会で政治局に選出された当事者としての政治責任において総括を述べます。しかし、ここでは先ず、統一再建のあり方、統一再建大会のための討論のあり方、大会議案作成過程における理論の違いを巡る論争と決着のつけ方について反省しなければならないと思います。
―統一再建大会の議案作成過程では、どのような路線論争が行われたのですか。前回では飛鳥浩次郎にまかせっぱなしで東京の統一派幹部も関西ブントの幹部も路線の確定に責任を果そうともせず、責任を負おうともしなかったので完敗したと言っていましたが。
ズバリ私の結論を言わせてもらえば、東京統一派の幹部と関所派の幹部が参加していても完敗していたと思います。私が完敗と結論づける第一の理由は、東京統一派には弟一次ブントの確乎たる総括がなかったということです。関西派には「政治過程論」という六〇年安保闘争の総括があり、これが関西派を組織的に団結させうるイデオロギー的支柱になっていたが、この「政治過程論」で東京統一派との路線的一致を獲得しえていたわけではないということです。だから議案作成過程に東西両派の幹部が出席しても岩田と服部からこの最弱の環を突かれれば、東西両派の違いが暴き出されて完敗するのは必至だったと私は思うのです。事実、この弱点は飛鳥浩次郎が岩田弘との論争過程を経てマル戦にオルグされて寝返るという最悪の結果となって顕在化したではありませんか。前回で、これは飛鳥個人の問題ではなかったと私が言ったのも、こういう意昧だったのです。
―組織的統一には、徹底した討論による政治路線上の一致がなければならない。言葉を変えていえば、分裂した各分派やグループが連合すること自体が悪いのではなく、連合の内実、路線の基本的な一致、相違を克服する組織運営上の相互の信頼感がなければならない、ということなのでしょう。
党幹部つまり党組織の政治的指導を担う者は、提起する政治路線について、政治路線を現実に担って闘うその闘争の結末について、全責任を負い総括を行なう義務があるということです。(この問題は連赤の総括でも問われます) 精神主義のように受けとめる人もいるようですが、党組織の命運が問われ、最終的に政治的決断と組織的決断を下すことが求められた時に、一歩も退かず、全責任を背負って決断を下せる人物、そして総括の責任を回避しない人物でなければ、党組織の政治指導者とは言えません。
この当然の基準に照して、当時の東京統一派の幹部に、党組織の政治的指導者としての資格があったと言えるでしょうか。私の結論は否です。政治指導者として名を連ねた以上、合同する相手党派との路線的一致を獲得するための論争に責任を持ち、議案作成の場に自分から進んで挑むべきなのです。私流に表現させてもらえば、彼等は「論争のリング」にかけ登り、自分の血を流しながら闘うべきだったのです。石井暎禧のごとき人間は、自分が傷つき血まみれになってノックアウトされることを恐れ、観客席で鼻をヒクヒクさせて岩田理論の欠点をあげつらい嘲笑するだけだった。
そこで血まみれになって撃ち合い傷つく勇気と責任感があれば、政治指導者としての己れの力量を知り、己れを鍛え直し、次の機会を待って再挑戦することができるでしょう。また組織のメンバーも、その指導者の政治姿勢に納得するでしょう。常任にもならず、体も張らず、命もかけず、腰を退いて、敵に背中を見せて逃げるような人間にどうして組織の活動家が信頼を寄せましょうか!
これは単なる私だけの主観的感情的な印象でしょうか?相手はどう見ていたのでしょう。分裂大会時に高校生だったマル戦派の学生が、「整除された体系性を持つマル戦派に対して……当時の統一委の指導部にシリアスな論争をする気などまるでなかった」と言ってます。
―党組織の指導と総括に責任を負う党幹部、政治指導部の資質と義務、政治責任のとりかたについては分かりましたが、三派の政治路線の理論内容はどうだったのですか。
前回も述べたように、関西派の理論的立脚点は、山本勝也の執筆した「政治過程論」です。この論文の狙いは、六〇年安保闘争を運動論の視点から総括することにあった。とりわけ、政治闘争過程を、一旦、下部構造(経済的土台)から切り離して独自の運動法則を見つけ出し、政治闘争の理論を確立することです。
ここから論文は、政治闘争を「広さ」と「深さ」の二つの視点から洞察する方法論を提起する。つまり、どれだけの諸階級を闘いに巻き込めたのかという基準で「広さ」を規定し、闘争主体がどれだけ大衆の政治意識をプロレタリア的な階級意識に自己変革させることができたのか、換言すれば、どれだけ国家権力の大衆に対する政治的集約性を喪失せしめたのかという基準で「深さ」を規定する。
こうして論文は革通派の「情勢分析における客観主義、方針における主観主義」を克服できると結論づけるのです。
「政治過程論」が関西ブント活動家の意識をとらえ、さらに関西から上京した学対に早大の社学同がオルグされたのも、あの六〇年安保闘争の巨大な高揚と国会包囲デモの波が、下部構造における大不況や大恐慌によって呼び出されたのではなく、高度経済成長に突入しだばかりの好景気の真只中で、労働者、学生、学者、作家、市民などの政治的意識性によって生み出されたという新たな現実、つまり、これまでの左翼の常識を根底から覆した新たな事態に、鋭く反応して、いちはやく問題の核心に迫ろうとした問題意識の鋭さと解明の早さにあったのだと私は思います。
当時、私なりに感じたことを普遍化して言えば、どんな大恐慌が勃発しても、労働者大衆の決起がなく、これを国家権力の打倒へと組織する革命党派の基盤がない限り、革命は起こせないということ。これは正しい。しかし、だからと言って、革命党派の恣意的判断と主観的決断でいつでも権力奪取が可能だなどと思ってはならないということです。
つまり、経済決定論の根底的止揚が不可避であるが、万年革命情勢論(下部構造に関係なく常に政治闘争で権力奪取を可能にする条件が存在するという考え方)を生む危険性をはらんでいるということですね。
政治闘争過程の判断は「広さ」と「深さ」を基準にすれば誤った主観的暴走を防止できると思いますが、なぜ、世界恐慌や帝国主義戦争を抜きに大衆的政治高揚が生まれたのか、という根拠が明らかにされなければ、万年革命情勢論を生む危険性を防止できないと言っているのです。
後に塩見が、「攻防の弁証法」から前段階蜂起を称えて権力奪取へと暴走せんと夢想したとき、それを可能とさせる客観的条件として、中ソ社会主義国の成立と存在をあげ、中ソを背景として攻撃型階級闘争(論)の根拠を主張しています。
「政治過程論」は、マルクスが世界恐慌、レーニンが帝国主義戦争としてあげた政治的革命情勢を生み出す客観的な戦略確定要因を度外視して、六〇年安保闘争の大衆的政治高揚を(上部構造論として)分析した。しかし、闘争主体を決起せしめた客観的条件と主体的意識形成の根拠を解明することができなかった。関西ブントを主要基盤とする赤軍派の前段階蜂起路線は、まさに「政治過程論」のこの欠落部分から生まれたものであったと思います。
―東京統一派の革命路線をどう思いますか。
私を除いて、東京統一派の主流は、廣松渉が執筆した『現代資本主義の一視角』(東大現代思想研究会刊)に依拠していました。
その骨子は、現代資本主義が国家独占資本主義となって経済恐慌への対応力を持ったので、戦後の革命戦略は世界恐慌の到来を待望して立てるべきではなく、反帝反独占の政治経済闘争を革命主体が創り出して国家権力を獲得すべきであるという主張で貫かれていました。
しかし私には、『一視角』の紙背に大内力の国独資論と構造改革路線が敷かれ、暴力革命にアプローチする課題、つまり、実力闘争から大衆武装への飛躍を指導する党形成の任務が射程外に措かれているという感をぬぐい去ることができなかった。
大内国独資論は、それ自体、構造改革論を導出する理論ではない。『国家独占資本主義論ノート』(一九六二年八月)によると、(一)国独資は、帝国主義段階の発展それ自体の必然的産物ではない。(二)国独資とは、第一次世界大戦を契機とするロシア革命に惹起された全般的危機が、一九二九年の世界恐慌を通して激化したために、資本主義が本来それ自身のうちに持っている恐慌や不況からの自力にょる「自動回復」を待つ余裕を喪失した状況に対応して登場した。(三)自国独資の本質は、金本位制度の撤廃と管理通貨制度の採用により、国家が資本と賃労働の間の価値関係に介入する点にある。
換言すれば、資本主義の生産力と生産関係の矛盾を恐慌によって集中的に爆発させるのではなく、国家の介入で長期に分散させた形態で解決するということです。即ち、資本主義が資本主義である限り、恐慌からの自動回復力は依然として内包しているが、全般的危機の時代には、激震的恐慌の爆発を傍観していられるだけの余裕がなくなったので、国家の経済への介入が不可避になったということです。
以上のように、大内力の国独資論は、決して構造改革論を導出するものでも、構改路線と直結するものでもありません。しかし、独占資本にも、階級動向にも、国家の介入を必要としないで済ませる余裕がなくなっているのなら、国家の独占救済政策を大衆運動で阻止すれば国独資の経済と社会は崩れると主張する構造改革派が次々と登場し潰れました。私の国独資アレルギーの根はここにあるのです。
私が国独資論に根強い危惧を抱き続けてきたもう一つの理出は、日共系構改派学者・小野義彦が、日帝自立論の根拠として日米帝国主義の対立による日米安保軍事同盟の自動解消論をあげ、国独資における構造改革の可能的根拠にソ連社会主義経済の発展と日ソ平和共存と経済交流による相互発展をあげたので、この小野構改論批判に没頭したことです。
当時、構改派を合めた大ブント構想の噂が本郷・駒場・神田・お茶の水の巷に流れ始めていたので私は反発を強めました。
―岩田弘の国家独占資本主義論の規定は?
時期的には、第一次大戦以降の時期、「戦争と革命の時代」「全般的危機の時期」です。
「国家独占資本主義とは、世界戦争と世界革命の時代に対応する資本主義国家権力の特有なあり方以外の何物でもない。それは単なる国家と独占資本の融合でも……独占資本への国家の全面的従属でも……国家自身の独占資本への転化でもない。国家はそれ自体としては権力機構……にほかならないが、『戦争と革命』の危機は、そうした国家に、資本主義の経済過程に……支配と統制をあたえざるを得ない」(『世界有本主義ソ二六頁)と、岩田自身が述べています。
降旗節雄は、これではスターリンの全般的危機論の変形で、社会科学的に意味がないと『解体する宇野学派』で批判しています。
―マル戦派が依拠した岩田の「世界資本主義」に紋って要点を簡潔に。
岩田弘は宇野学派の俊英とも鬼子とも言われています。俊英と呼ばれるのは、宇野派に属しながら、宇野弘蔵の原理論・段階論・現状分析という三段階論体系を批判し、岩田弘の原理論・世界資本主義分析・各国資本主義分析という固有の三段階論の定式に再編した点にあります。しかし、学派内部から体系にかかわる「造反」を起こしたということは、師説に背く鬼子と呼ばれても仕方がないでしょう。
鈴木鴻一郎と岩田弘は、宇野弘蔵の「形態が実態を把握する」という思考方法の枠内で造反したのです。宇野は十九世紀中葉のイギリス資本主義が内向純化の傾向をもっていたと称し、この純化傾向に基づいて「純粋資本主義」を想定し、ここから理想的平均としての原理論を構築するという方法論を確立します。岩田はこの宇野の方法論(つまり純化論)を否定したのです。
岩田は、資本主義は成立当初から商品形態が生産実態を把捉してゆく世界市場過程として存在し、常に不純な非資本主義的生産要素を抱えながら、これを商品経済が包み込む商品世界市場の世界史的過程として発展してきたという。要は、この商品形態が生産実態を包み込んでゆく歴史過程が岩田の世界資本主義なのです。
岩田の世界資本主義は一個の有機体であって資本主義国の結合関係の総和ではないという点に主張の特徴がありますが、帝国主義間の矛盾や戦争の原因との関係をどうとらえるのか、という点に関しては必ずしも明確でありません。要は、この「世界資本主義」の「全般的危機」(国独資)から岩田の危機論型戦略と政治路線が導き出されるのです。
要約します。(一)IMF通貨体制の崩壊で始まる世界危機が目前に迫っている。(二)弱い日帝と日本独占は内的矛盾を侵略に外化できず(三)対米対応ダンピングで外貨獲得に没頭せざるを得ないので日帝の攻撃は国内に集中される。(四)従って、生活権利の実力防衛が革命闘争の中心課題となり、(五)総評の杜民幹部も賃上げの号令を発せざるを得なくなるので、この号令を逆手にとって経済要求を突きつけ(六)統一戦線を形成してソヴィエト権力に高める。(七)労働力が商品化する昼の職場では労働者は資本家に従属しているが、勤務時間を過ぎた夜には労働者も資本家も同じ価格のビールを飲み、流通過程の中では平等な市民になる。従って職場の経済闘争こそが階級形成の場となる。(八)こうして突破口を切り開いた日本革命はァジァ革命から世界革命へと三段階ロケット型に飛び火する。
これが岩田=マル戦派の過渡的綱領つまり戦略戦術であり、六回大会の議案の骨格です。
―関西派と東京統一派を代表する飛鳥浩次郎が岩田弘にオルグされてマル戦派に寝返るという結果になったので、関西・東京の統一委員会は、全くマル戦派と討論しないまま、六回大会で岩田理論そのものである議案を承認採択するはめになったのですね。
第六回大会で完敗した関西・東京の統一委は第二次ブントの野党になりました。議案に反対すれば党大会は分裂し、念願の再建統一は破産するからです。私は機会を待って勝負を挑もうと思い、私が路線を構築し次の大会の議案を書こうと意を決しました。
―明大学費闘争での「ニ・ニ協定」にどうかかわりましたか。
寝耳に水で驚いたというのが実感でした。次の瞬間これは他党派から袋叩きにあうぞと思いました。続いてブントはあいかわらず学生党だなあと痛感しました。学対や学生指導部が勝手に方針を出して事をはこび、政治局が遅れてこれを追認するというパターンが定着していたからです。
また、拠点大学が党内で独立王国の位置を占め、政治局員のある個人だけが相談役をつとめ政治局とのパイプ役になるという手工業性が問題の背後にあり、これが政治局に諮ることなく、古賀暹政治局員と斉藤克彦全学連委員長の独断で、大内義男明大中執委員長に大学理事会代表の武田孟と「二・二協定」を結ばせる決定的な誤りを犯させた。斉藤克彦の失脚追放で杜学同は三派全学連の委員長のポストを中核派マル学同の秋山に奪われた。こうして「二・二協定」は、やっと結成した三派全学連を割る端緒となった。以降、塩見・村田学対の党の浄化を助長していった。
そして一番大切なことは、学生運動にとって学園闘争とは何か、学費値上げ反対闘争において何を獲得するのか、学生の物質的経済的利害と意識変革は、いかにして獲得できるのか、学園の様々な要求を通して学生に自立的意識と階級的政治思想をいかに獲得させるのか、を鮮明にすることでした。しかし、「二・二協定」がさらけ出した問題の根を掘り下げる思想性はブントの政治局にもなかった。ただ、他党派からの批判と攻撃をかわして難局を乗り越えるための関係者の処分で終息しました。
当時、労対に属して東交の首切り合理化反対闘争に専念していた私にとって寝耳に水だったという現実は、東京統一派の中で私が排除された存在だったことを物語っています。
問題の本質は掘り下げられないまま、明大に社学同とブントの組織を創り育て、明大を東京続一派の最大拠点にまでした古賀を追い落とし、明大に在京関西派系の学対の足場を築こうとする政治的な動きが始まっていました。
ここで塩見と村田(蝮)が提起した路線が所謂「革命的敗北主義」なのです。要するに、大学当局の案を絶対に認めずに拒否し続けて機動隊の弾圧を呼び出すという基本方針を確定して社学同に押しつけたのです。機動隊の弾圧で敗北するまで闘えば、他党派から絶対に文句を言われずに済むからです。この革命的敗北主義は塩見配下の早大社学同(村田・花園・荒・佐脇など)のように全く学内に足場も大衆的基盤も持たない政治集団にとっては「観念的ロマン」として受け入れられますが、明大や中大のようにクラス討論の積み重ねで学生大衆の支持を得て足場を固めてきた社学同にとっては、とうてい受け入れられない方針でした。
革命的敗北主義の破産は、中大闘争で学生大衆の拒否という悲惨な形で検証されました。中大学生の団結の前に学校当局が全面的に屈服し、全中闘の勝利が鮮明になった段階で、学対が乗り込んできて、「この闘いは敗北だ。敗北の総括を始める。バリケードは絶対に解くな」という方針を押しつけた。中大細胞と社学同は「それなら学対のお偉いさんでやって見せてくれ」と引き下がった。学対がバリケードを守ろうとした時、中大学生の大群が「ブント帰れ」の大合唱で学対の命令を拒否した。学生が「革マル帰れ」「民青帰れ」と叫んだことはあったが、仲間と思われ指導力を認められたと思っていた学生からブント社学同が、「ブント帰れ」と叫ばれたのは初めてでした。
当時、中大学生であったが学対活動に専念していた久保井拓三(故人)は、再開さらぎ破防法裁判に証人として出廷し、検事が「神田周辺で教祖的存在であったさらぎ被告人は弁舌で学生を四・二八闘争に駆り立てた」と述べた時、中天闘争で学対が「ブント帰れ」の大合唱の前に挫折した事実を語り、学生大衆は、各人の主体的意思決定によって己れの行動を決めるもので、決して党の号令や扇動で引き回せるものではないと語りました。
革命的敗北主義の学対路線に一人で反対した学生がいた。早大社学同の菅野である。被は、「二・二協定」を生み出さざるをえなかったその根底には政治過程論に基づく無理な指導があったと主張した。時と場所と条件を度外視して、どこまでもやれと押しつけられれば、党の利害を賭けた方針と学生大衆の意識のズレの間で切羽詰まって協定へと落ちざるを得ないではないか! と。菅野の意見は聞き入れられず、彼も姿を消しました。私が事実を知ったのは後日です。未だ痛恨の思いです……。
一10・8羽田闘争に向けてはどのような過程がありましたか。
九月某日、旧統一委員会(旧マル戦を除く)系の政治局と学対が中大学生会館の和室で、佐藤訪越阻止闘争を組織の総力を挙げて闘うことを決定しました。政治局員といっても、さらぎ、渥美、浦野、高橋、塩見の五人で、組織の命運をかけた大闘争の決定時に石井は出たことはありません。ここで学対の村田(蝮)が立ち、「この一戦をもって七〇年安保闘争の幕を切って落とします」と決意表明を述べ、七〇年安保闘争への突入を決定するこの会議の目的を現実的にしました。
―この時から分裂を射程にいれて政治局のフラクを組んだのですか。
いや、そうではありません。「二・二協定」での苦い教訓を踏まえ、一枚岩の旧マル戦派に対抗するには、先ず、関西と東京の旧統一委の意志統一がなくては、ということから、現実対応的にフラクが組まれたのです。
―政治局がそんな状態で、学生は団結して闘えたのですか。
そこがブントなんですよ。眼前に国家権力が現れたら、仲間内のゴチャゴチャは棚上げして一緒に突き連むのですよ。その点では旧マル戦も旧関西も旧東京統一派も同じブント魂で団結できるのですね。
―戦闘の総指揮者も戦術の具体的な検討も団結してやれたのですか。
そうです。当初、総指揮は最大拠点の中大を基盤とし、戦闘現場における判断の正確さと決断の早さ、そして勇猛果敢な戦闘精神において抜群の久保井祐三にしようと決めていた。しかし旧マル戦派学生との団結を重視して、久保井を下ろし、石田寿一にゆずったのです。
こうして、社学同は解放派系学生らも含めて、石田を中心に戦術が練られました。
―具体的には。
戦術会議の詰めは中大学館の和室です。即ち、京浜急行で大森海岸駅までゆき、柵を乗り越えて鈴ヶ森ランプヘ進撃、機動隊の守備隊を叩き潰し、一気に羽田空港へ進撃突人する戦術が決まったのです。戦術の決定は必ず事前に激突予定現場を踏んで確認するのが原則です。例えば千人の部隊が大森海岸駅で下車して鈴ヶ森ランプまで、何分で走り抜けられるのか、等々です。
当日は、成島道官が現地に立って「行ける」と最終判断を下し、連絡所に前夜から詰めていた山崎順一が道官の判断を電話で受け、これを成島忠夫に伝え、成忠から石田寿一へ、ゴー・サインが流され、部隊が動いたのです。
―鈴ヶ森ランプの闘争について。
何度か羽田空港に向けた闘争があった。とても穴守橋からジグザグデモで機動隊の壁を突破することはできぬことを体験していたので鈴ヶ森ランプから高速道路を走り抜けて空港内に突入しようとしたんです。
戦闘は最先端の決死隊の強さで決まるので、旧マル戦系、中大・明大・専大の中から選抜された最強の部隊がヘルメット・ゲバ棒で武装し機動隊を文字通り殲滅しながら走り抜けたのです。医科歯科大の村田恒有は、決死隊の最後尾から傷つき倒れた学生を救助せよと言われて鈴ヶ森ランプを部隊と共に駈け登ったが、ゴロゴロ倒れているのは機動隊ばかりだったと言っています。
しかし、部隊がかなり進撃したところで石田寿一は脳震漫で倒れている。学生部隊も決して外傷ではなく、機動隊を倒して走った段階で、最初の激突で受けた打撲が効いてきて倒れたのでしょう。
―高速道路を誤って左折し反対方向に走ってしまいましたね。
今更、原因を掘り返しても意味はなく、この闘いの日本階級闘争史に占める重さは変わりません。しかし、ここまで激突の地とすべき場所を事前調査しても、戦闘の修羅場と化した真只中では、人間の理性的判断など完璧ではあり得ないということです。それゆえ、どの当事者に聞いても確答は出ません。代表的なものに荒説と岩崎説があります。
戦闘集団のひとりが「どっちだ」と聞いたので、それを機動隊が逃げた方向を聞いたのだと勘違いして「左だ」と答えた者がいたために間違えた、という荒説。前夜の学対会議で成忠が間違えて「左だ」と喋ったのが原因ではないかという岩崎説。私は二説を検証すべく七日深夜から八日早暁まで中大学館の和室にいた学生(当時)たちに聞いてみたが、何分昔のことなのでほとんどが思い出せず、答を引き出せませんでした。
―ゲバ棒はどうして登場したのですか。
七日に、ハ日の闘争について最終的打ち合わせのため解放派の高橋幸吉ら全学連書記局員が法政大学に来たところ、中核派が彼等を拉致しリンチを加えた。中大に結集していた社学同他三派は、救出のため法大に押しかけようとしたが、法大の中核派が棒を持っているとの情報を得て、中大講堂の長椅子をばらして棒をつくり、武装して法大に押しかけ目的を達成した。八日、これを国家権力に向けたゲバ棒としたという‥しかし、この話には疑問が残ります。たしかに長椅子をばらしたことも、棒で武装して法大に押しかけたことも事実です。しかし、ハ日に鈴ヶ森ランプを駈け登る部隊全員がゲバ棒で武装している。機関が事前に準備し、ドッキングして部隊に渡しだからか。当日の戦闘にゲバ棒で武装し登場することは部隊で意志統一ができていた。ただ「ゲバ棒で機動隊を襲え」とは言っていないだけである。戦闘の試練を経た人なら、どんなことだったのか、簡単に飲み込めるでしょう。
―闘争現場はどんなふうでしたか。
鈴ヶ森ランプの緒戦で大勝した全学連の四派は高速道路から穴守備へ進撃し、荻中公園から来た全国反戦と合流しました。三叉路もあろうかと思われる橋の上に装甲車を並べ、機動隊が阻止線を張っていた。社学同、解放派、第四インター、ML派の学生は機動隊に襲いかかった。機動隊は部隊を退き、離れて対峙した。真っ先に装甲車の屋根によじ登る二人がいた。中大のカリスマ的イデオローグと言われた昧岡修と早大の花園紀雄である。二人は大声で「石を運べ」と部隊に命じ、装甲車の屋根に立ち上がって防石網に身を隠して引き下がる機動隊に投石し続けた。花園は鹿児島出身の勇敢なゲバルターたった。明治維新のころ、「薩摩の男を知りたければ桐野に会え」と言われた桐野利秋に性格も似ていた。花園は後日、赤軍派を結成して昧岡の叛旗派と鋭く対立した。そして六九年の七・六事件では花園が私に真っ先に襲いかかった。「あんたとほ一緒にやれると思っていたのに」と叫びながら。
昧岡に「装甲車の上で何を話していたのか」と聞くと、丸い顔をくしゃくしゃにして「今日は天気が良くてよかった。徹底的にやろうぜ」と仲良く投石していたのよと答えた。 私が全体の状態を掌握しようと弁天橋方面に向ったとき、中核派マル学同の部隊が梯子を担ぎ血の引いた形相で突進していた。今日は徹底してやる気だと一目でわかった。狭い弁天橋では装甲車一台が通るのに精一杯で、両脇を守る機動隊がマル学同のゲバ棒の下に打ちすえられ逃げ出した。味方に見放された装甲車の運転手は恐怖のあまり鍵を忘れて逃亡した。学生が飛び乗って車を占拠、猛スピードでバック、無人の装甲車にぶち当て空港への血路を開こうとした。機動隊も隊伍を整え何度も突撃してきた。そのたびに学生と機動隊員が橋から川に転落した。この激突の真只中で京大生の山崎博昭が殺害された。
―総括はどんなものでしたか。
八日夜、部隊の帰還を待って本郷の私の友人宅で、統一委の政治局と学対の合同総括会議を行なった。そこで、破防法や騒乱罪が発動されても今日の闘いの水準を守り抜いて十一・一二羽田闘争を貫徹することを決めた。学対を代表し藤本敏夫が、社学同と全学連は、十・八羽田闘争の質を堅持する旨、決意表明を述べた。こうして二つの羽田を闘った我々は大衆武装の一時代を切り開いたのです。
―分裂を招いた七回大会への過程をどう総括していますか。
私は党大会が党建設にとって占める位置と重要性を十分に理解できず、学生運動における三派全学連大会のように、党派間の利害で簡単に連合したり分裂したりできる軽いものと考えていたことが、分裂に至らしめた根本原因だと総括しています。
この考えの浅さが「党の純化・党の浄化」の名のもとに己を絶対化して、己と意見や体質の異なる部分を討論の名のもとに追いつめてゆく手法を生み出していったのだと思います。
ずばり言えば、ほとんど学生党であった統一委員会(東西)の政治局が、学生の暴走や感情的な問題処理を押さえて、革命党を組織的に強くする指導理論を持つことも、説得する力もなく、逆に、学生の突き上げに乗って己の政治局における発言力と位置を高めようとする姿勢が、大会に至る過程を無政府的ゲバルト状態にしたと考えています。
―岩田批判は正しいが、分裂させた結果は正しくなかった、ということでしょうか。
私が言うのは、そう単純ではありません。十・八から十一・一二を其に闘った旧マル戦派の学生と労働者を説得しようという姿勢も内容も度量もなく、各級会議ごとにゲバルト状態を意識的に創り出させ、昨日までの同志を消耗させて大会で勝利しようとした過程と発想が誤っていたということと、そういう無政府的ゲバルト状態を止めさせることもできず、否、黙認して助長させた旧統一委員会の政治局の政治思想の弱さにこそ、旧マル戦派を分裂に追い込んだ根本原因がある、と私は言っているのです。
同志に対する批判には、批判する側の思想性や個性を通して、批判する側の憎悪や私的怨念が「革命的に見える言葉」の裏側から溶み出るものです。だから相互信頼が崩れた地平での討論と相互批判は難しいのです。
―さらぎさんは大会開催推進派だったと聞いていますが。
私が大会を開こうと言い出しだのは、十・八から十一・一二を闘えた原因がベトナム反戦にあったということ、つまり、旧マル戦派の学生も反戦青年委員会の青年労働者も、現実には「生活と権利の防衛」のために決起したのではなく、米帝のベトナム侵略反革命に反対し、これに加担する日帝佐藤政府と闘うために決起したということです。
極論すれば、旧マル戦派の活動家は、その実践において、すでに岩田の過渡的綱領を否定し、それとは異なる路線で闘ったのです。だから今、大会を開けば勝てると読んだのですよ。いやむしろ、大会を開催すべきだと主張したのです。関西と東京の統一委の政治的ドジと理論の低さゆえに、マル戦派を頭数で上回る同盟員を抱えながら、自業自得だとはいえ六回大会以後、党内野党に甘んじてきたのですから、今度こそは勝とうと思うのは当然でしょう。
―大会を開けば割れるとは思わなかったのですか。開催反対派はいましたか。
渥美は慎重な活動家だから割れることを心配していたと記憶しています。私は割り切りと決断が早い人間です。だから「大会には、シャンシャン大会か分裂大会の二つしかない」と言われてきたことも知っています。レーニンでさえロシア社会民主党の二回大会(実質的な創立大会)をボルシェビキとメンシェビキに割っています。だから大会を開催する以上は、割れるという結果も十分に覚悟したうえで、強行しなければならない、と慎重な人達には答えてきました。旭凡太郎も考え抜くのに時間がかかる人で、塩見から「旭凡は中間派だ」と言われ、旭凡自身「さらぎさんも俺を中間派と思っているでしょう」という人ですから、彼にマル戦派を追い出す気などなかったのは本当だと思う。後日、塩見はマル戦派の人に「追い出そうとは考えていなかった」と語ったそうだが、マル戦派の人達が「我々を追い出そうと本気で考えていたのは一部の在京関西派(塩見直系の縦の村田や荒たち)だけだった」と言っていることを私は信じたい。
―旧マル戦への攻撃はいつから始まりましたか。
一九六七年十二月七日に豊島公会堂で開催された「羽田闘争報告集会(共産主義者同盟大講演集会)」における吉川都委員長に対する激烈な野次がシグナルとなりました。以後、各級機関の会議で旧マル戦派へのゲバルトが常態化し、大会の直前、早大細胞総会に、関西系の早大細胞八名が角材で武装し、素手の旧マル戦派五名をたたき出すところまでエスカレートしたのです。この動向を冷静に追えば、私とは別個に旧マル戦の追放を目的とした「党浄化主義者」がいたことは否定できないでしょう。
―望月彰に対する拉致とリンチをどう思っていますか。
陰惨なリンチを初めてブントに持ち込んだという点では、ブント史を汚す最初にして最大の汚点だと総括しています。私の記憶では佐藤秋雄が望月と会っているところを学生部隊が襲って明大に連れ込み、関西の上京組の三人が中心となって手足を縛って抵抗できない望月に殴る蹴るの暴力をふるった。私自身も素手で殴った下手人の一人です。やがて意識を失った望月を岩田弘宅の門前に放置するということまでやってしまったのです。私は下手人たちの氏名をあえて申しませんが、望月に直接謝罪し、同志にリンチを加えた己の行為と思想性を総括し、公表してもらいたいと思っています。長い革命運動の途上では何度も誤りを犯すものですが、共産主義者になれるか否かの問題は総括できるか否かにかかっているからです。
私は労対の責任者として、大会まで部長だった山崎衛をテロる役目を果すために、気のすすまぬ高橋良彦に呼び出し役をやってもらい捕捉せんとしたが山崎も遅刻し失敗した。
私が言いたいのは、大会開催に同意賛成した関西と東京の統一委員会の政治局と学対には、旧マル戦派を追い出す結果を招いたことに対して責任を負わなければならないということです。色々な雑誌に「私はまさか割れるとは思わなかった」「追い出すつもりなど全くなかった」などと無責任な発言をしている当時の幹部がいるが、素人ではあるまいし、プロの実践家なら、大会開催に賛成した以上、その結果がどうあれ、政治責任を負わなければならないのです。
それと同じように、旧マル戦派の幹部に対するテロとリンチについても体を張って阻止せず、黙認した以上、政治局員と幹部には、直接に手を下したものと同じ責任があるのです。ブント史上に最初にして最大の汚点を残したという事実においてです。
このリンチという手法は、次に赤軍派が、破防法で権力から追われる私に行使した七・六事件へとエスカレートし、その思想的総括がないままついに連合赤軍による十二名の同志殺害に至ったと私は思っています。私に暴力を集中した田宮は既にピョンヤンで死亡し、高原は愛妻の遠山さんを永田に総括され殺害されました。生と死の境を彷徨して生還した私なればこそ総括が不可欠なのです。
―望月彰には再会しましたか。
二十年の地下潜行生活と東拘の生活を終え、古い同志友人に「さらぎ徳二を励ます会」をやっていただいたときに再会できました。そこではお詫びだけし、アソシエの呼びかけ人会議の後で私のリンチに関する総括の視点と骨格を述べ、革命党派間の内ゲバについても意見を交しました。ゲバルトでの他党派殲滅や暴力による拠点防衛と党勢拡大を不可欠な手段とする党派が存在する以上、暴力を否定すればガンジー主義でゆくしかないが、本音を聞かせてくださいと尋ねました。彼は即座に「私はガンジー主義で行こうと思っています」と答えた。私は「現実政治の中で、そうは割り切れない」と素直に意見を述べた。
連合赤軍のリンチによる同志殺害や、これとは異質であるが、中核・革マル戦争が、学生や労働者の新左翼に対する心を遠ざけたことも現実的に認めざるを得ないでしょう。私の総括はまだまだ終わりそうにありません。
未完のまま終了
LAST UPDATE 2008/09/15 |