さらぎ徳二論(三)

 (最新見直し2005.10.31日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「さらぎ徳二論(三)」をものしておく。


 革命に生きる さらぎ徳二」を転載する。

 誤読み取りによる誤字・脱字並びに人名の誤りはご容赦ください。(阿波野竹男)

革命にいきる Ⅰ 情況1997年7月号
革命に生きる Ⅱ 情況1997年10月号
革命に生きる Ⅲ 情況1998年3月号
革命に生きる Ⅳ 情況1999年7月号

革命にいきる Ⅰ 情況1997年7月号
 ―六十七歳といいますと、お生まれは一九二九年ですね。
 そうですね。私は台湾の生まれなんです。親父が中国に出かけて、台湾で私が生まれた。最近、祖父右田力太郎(文久三年六月生)に関する古文書が出て父のことも判りました。

 一九九六年三月十一日付『読売』夕刊には一八八九年(明治二十八)九月十六日に右田力太郎が献体解剖を申請して執刀した事実が中津市の医学史研究家川嶋医師の発掘で明らかになった。順天堂大学の酒井教授も地方医師の執刀解剖は珍しく早期だと述べています。今も小さな病院蹟が大分の中津にありますが、跡継ぎのいない医師・右田力太郎に嘱望されて、養子になる条件として親父・梶原古人は帝太医学部を卒業しなければならなかったわけです。旧制高校はナンバースクールしかない時代ですから、だったら一高に行けとい言われて東京に下宿して受験勉強をし、翌年入学試験に受かって、そこから一高に通うのかと思っていたら、養子先の、私にとっては祖父から「お前の力はよくわかった。養子縁組は成立だから、ついては熊本第五高等学校に編入せよ」ということになって、九州に戻ったんですね。親父は一九〇五年(明治三十八)に五高を卒業して九大医学部に進み、一九一〇年(明治四十三年)に卒業、同年十二月に力太郎の娘シズエ(二十一歳)と結婚しています。さて親父が医者になってみると、日露戦争(一九〇四―五年)後の当時の日本帝国主義は大陸侵略で、中国には医療政策が必要だという。九大の路線に乗って親父も台湾高雄病院の院長となります。後に中国大陸福建省アモイのコロンスに「博愛病院」を興すが、一九一九年に中国五四運動が勃発、一九二三年に一家は中国大陸を去ります。親父の最後の赴任先が台湾の高雄。そこで私が世界大恐慌勃発の一九二九年の六月二十五日に生まれたわけです。親父は私が生まれた頃には高雄の官立病院を辞めて、開業医をやっていました。私はそういう時代に生まれましたので、プロレタリアの息子というようなカッコいい話ではなくて、中国侵略と台湾植民地支配の道具に使われた医者の息子、抑圧民族の、まあ小ブルの出身ですかね(笑)。日米開戦の翌春、旧制高雄第一中学に進んで、戦争を体験し、やっと戦争が終わって、引き揚げは四六年の春になります。それが中学四年の時でした。十七歳ですね。

 ―台湾でのお話しをもう少し。少年時の戦争体験を。
 台湾の高雄というところは、今もそうですが一大工業地帯で、貿易港でした。当時は軍港と要塞がありました。陸軍と海軍の航空基地もあって、真珠湾攻撃とほぼ同時にフィリピンのクラーク空軍基地とスービック軍港を奇襲攻撃した海軍岡山航空隊がやって来ました。こうしてクラーク空軍基地のB17爆撃機とP40E戦闘機あわせて約百機を奇襲で殲滅し、フィリピン全土の制空権を掌握して、高雄港から続々と軍艦と輸送船が南方に出航、小中学生や女学生は見送りに動員されました。

 奇襲効果が生み出した一九四二年(昭和十七)のかりそめの安らかな日々を中学一年生の私は勉強と剣道と水泳に没頭していました。明けて四三年(昭和十八)二月、大本営はガダルカナル撤退を発表。私が中学二年なった四月の十八日に、ラバウルを離陸した山本五十六連合艦隊司令長官の搭乗機が暗号を解読され、ロッキードP38戦闘機にブーゲンビル島上空で撃墜され、五月二十一日のラジオで発表された時には不吉な予感が私の頭をよぎりました。

 翌四四年(昭和十九)一月にマーシャル諸島が占領され、三月にトラックとマリアナが奪われると、米軍の戦略ルートが少年の私にまで見えてきました。四四年七月のサイパン失陥で、台湾、東京、北九州の工業地帯がB29の爆撃に曝されたからです。私が中学三年生の時です。

 B29は「空の要塞」の名前のとおり恐い奴でした。三万フィートを超える上空を飛び、日本軍の高射砲の破裂を遥か下に見て、陸軍の隼戦闘機や海軍の零戦が迎撃困難な上空から襲って来るのです。だから低空飛行に不可欠な迷彩もせず、銀色のアルミ地肌を太陽の光に輝かせながら太編隊で来襲する威容は一瞬、夢を見ているようでした。その一瞬の後、バラバラーァッと五百キロ大型爆弾と焼夷弾が雨霰のように降る。B29の絨毯爆撃の三波で、高雄工業地帯は全滅、高雄市街も灰と巨大な穴だらけになりました。翌年、私は伝令で下山した帰途、高雄山登□近くにある右田病院を見にゆきますと、巨大な穴に泥水がたまっているだけで一面焼野ヶ原でした。最早、涙も枯れて出なかったです。

 戦争に勝つとか負けるとかよりも、もう爆撃から逃げるのに精一杯でした。戦争に負けるのは、親父たちの世代でもわかっていたでしょう。天皇陛下が神様だというのは、私たちのような軍国少年でも信じてなかったんですから。

 ―さらぎさんも軍国少年だったんですか。
 うーん、私は優等生でしたからね(笑)。勉強もそうですが、剣道も得意で、中学校では学年で一、二を争う腕前だったんですよ。戦争が激しくなる段階で、高雄中学から伝令の少年兵が三人選抜されたんですけど、私もそのうちの一人です。警戒警報が鳴ったら、真っ暗な山道をサーッと高雄山の要塞司令部に駆け上がるんです。それはもう同期の中では精鋭部隊ですから、意気軒昂でしたね(笑)。

 こうした中学三年生の私は、四四年(昭和十九)十月十日から四日間にわたる台湾沖航空海戦を高雄要塞司令部で体験することになるのです。機動隊空母から発信した艦載機の大編隊がどんなものかを初めて知らされました。

 海の彼方から低いが地鳴りのような、内臓からゆり動かすような腹にこたえるウナり音だけがひびいて来る。初めはこれが何百何千機ものエンジン音の固まりだとは実感できなかった。先頭のP38が偵察にやって来て、うわーっ、来るなぁ、と思った時は、水平線の上に胡麻を散りばめたように、びっしりと黒いグラマンの群れが見える。それがだんだん大きくなってくるんです。向こうの空にグラマン戦闘機と編爆がずーっと大きく見えてきて、こっちはもう逃げるしかないんですょ。機銃掃射もやられましたし、イヤというほど爆弾が降ってくるんですから。日本軍の対空砲火は第一波の攻撃で沈黙です。こりゃ誰が何と言おうと勝っているわけがないと実感しました。当時の戦況は誰でもわかりました。

 たとえば、敵に沈められた艦船や輸送船から助かった兵隊が上陸してくると、彼らは何も食べてないわけですね。要塞司令部にも、食べるものは少ないけど、まだいくらかはあったわけです。そこに彼らがやって来て、飯揚げ中の兵を襲い奪って、もう餓鬼のように食らう。私たちが食べおえた残飯まで奪って皿や飯盒まで砥めるんです。その光景は文字通り地獄絵でしたよ。戦争の実態は凄惨です。

 ラジオの大本営発表は「台湾沖でハルゼー機動部隊を猛攻し過半の戦力を壊滅せり。戦果は、敵空母十一隻と戦艦二隻を轟撃沈」と告げ、日比谷公会堂で戦勝祝賀会が聞かれたと伝えました。私の実感は“やっと助かった”でした。

 ―敗戦までの話を。
 要塞司令部の伝令の時、身分は学生でした。台湾では、その後に正規の陸軍二等兵、少年兵として戦争に徴兵されているんです。ある日突然、上から紙が回ってきて、入隊は志願制のはずなのに、名前を書かされて兵隊にされたんですよ。志願という名の徴兵ですね。最前線で中学生が召集されたのは、大田知事が参加した沖縄の鉄血勤皇隊と台湾だけではないでしょうか。当時、「本土」の中学生は、海軍の予科練や海兵団などの志願兵以外は軍事工場での動労奉仕ですから、実質的な少年兵の徴兵制度は外地と沖縄だけのはずです。そのまま内務班に配属されて、星ひとつの二等兵の肩章をつけていました。そういうわけで、私は軍隊経験があるわけなんです。
 ―それは知らなかった……。
 なんでこんなことになったのか、当時は全く判りませんでした。志願させられた月日も正確には思い出せません。四五年(昭和二十)つまり敗戦の年に移っていたと思います。最近の『戦史』によると、大本営が「本土」決戦の準備の時間稼ぎのために、南千島、硫黄島、沖縄、台湾で玉砕戦を強行させる為に法律的根拠の無い「志願」形式で学徒少年兵を組織したとありますが……。

 要塞司令部の伝令時代に聞いた話では、マッカーサーが主導権を握ったならばフィリピンに上陸するだろうと考えられていた。マッカーサーはフィリピンを去るときに、I shall returnと言っておりましたからね。しかし海軍のニミッツが作戦の主導権を取ったら、空母機動部隊が台湾に来るだろうと考えられていた。それで、台湾沖航空戦の時は、海兵隊の上陸が始まるのではないかと思いました。最近の『戦史』では、台湾沖海戦はレイテ沖海戦のフェイント、つまり陽動的前哨戦だったと後知恵で解説しています。

 だが当時の人間には、レイテの次は台湾か沖縄か、敵がどっちに来るかわからない。米軍の上陸と玉砕戦に備えて私たち少年兵も機関銃の銃座を掘っていました。毎日、網の目のようにトンネル塹壕を掘る。掘っている最中に爆撃があるんですね。「来たぞーっ!」と叫んでいるうちに、ドカーン、ドカンとやられる。大きな穴があいて、そこに土がかぶさってしまう。永い時間をかけて土に埋まった仲間を掘り出してみると、人間は死ぬと灰色になるんですね。必死に顔に付いた土を払ってみると、さっきまで元気だった仲間がもう灰色になっているんです。暑い所ですから、すぐに腐ったように黒ずんでしまう。うわーっ、自分も明日死んだらこうなるんだな……、と思いました。

 ある時は、私の中学校時代の友達に乳兄弟がいて、つまりお母さんのお乳が出ないから一緒に授乳した幼な友達なんですが、彼のいる分隊が爆撃で埋まってしまった。あとで彼が言うには土に埋まってしまっているのに息ができる。「こいつは、どうやらどこかに空気穴が開いているんだな」と生きる意欲がわいてきたという。戦友たちは上から、みんなで必死に土を掘り返しているわけです。掘り返してみると、みんな生きていた。映画ではよく戦闘で生き残った戦友同士が涙を流して抱き合うシーンがありますよね。現実には粘土だらけの顔で帰ってきた姿を見て、「昭ちゃん」と一言だけ、声にはなりませんでした。少年ながらそういう体験をしました。死線を越えるというか、死がすぐ隣にある毎日だったですね。だから私の反帝反戦闘争は腰が座っているんですよ(笑)。

 “歴史に「if」は無い”と言われます。だがマッカーサーのゴリ押しが通らなかったならば、台湾地上戦で私は戦死し、天皇の命ごいの為の沖縄人民への強要は避けられ、九州が「本土」決戦の最前線になっていた可能性も残ります。それを思うと非常に私は気が重くなるのです。それで、この歳になるまで、こんな話をしたことはありません。ひたすら安保沖縄闘争に複雑な屈折した心情を凝縮しました。だから六九年四・二八安保・沖縄闘争で受けた破防法との闘いも、ブントが分裂しょうが、誰が脱落転向しょうが、たった一人でも担い続ける決意でいたのです。

 ―台湾での「志願徴兵」時代の体験が安保・沖縄闘争と破防法闘争にまで……
 時間的には短いが、少年から青年への最も感受性の敏感な時代に刻み込まれた強烈な体験は、心の深い底に沈澱していて、ある時突然噴きだすのだと思います。

 もう一つだけ、破防法被告にされた私と、自殺した軍医の兄(次男)との、所謂因縁噺を間いて下さい。軍医中尉の兄和人は、一九三九年(昭和十四)十二月十日に、将校会館(現九段会館)でピストル自殺しました。つまり、私が三十年後の一九六九年に共産同の政治集会で基調報告を演説して、破防法四十条の煽動罪を発動された場所なんです。兄が自殺した時、私は小学校四年生でしたが、遺書がなかったこと、父が息子の死ぬ程の胸のうちを察して悩みを間いてやれなかった己の俯甲斐無さを嘆き浄土真宗に没入していったこと、歯科医生の康人兄(四男)が遺品の手帖の中にドイツ語でich kannte nicht leben(私はもう生きてはゆけない)と書かれているのを発見したこと、憲兵が反戦自殺に違いないと聞き込みを行ったこと、従兄弟の高原太郎弁護士が哲学青年の自殺という論陣をはって一家滅亡の危機に立ち向ってくれたこと、等々の話を断片的におぼえています。当時は「非国民」の刻印を押された瞬間から生きては行けない時代でしたから。自殺の話はタブーにされ何時の間にか忘れていました。

 戦後、父の郷里に送られ仕舞いこまれた兄の遺品である将校行李の中から、労農派の大森義太郎著『唯物弁証法読本』(中央公論社刊・昭和八年発行)を発見しました。私は咄嵯に、兄貴はマルクス主義者だったのか、これじゃ憲兵隊が狙って聞き込みに来たわけだ、と思った。このことは今日までどの兄姉にも言わなかった。“しかし、マルクス主義思想を学んだからといって、戦争一般を否定して果して自殺するかな”という疑問は頭の隅に残りましたが、多忙な革命運動の日々の中で忘れていました。或る時、医学生の息子が森村誠一の『悪魔の飽食』を読んで、“軍医のオジサンの自殺も七三一部隊と関係があるんじゃないの?”と言ったとか言わなかったとか……親戚のオバサンが“七三一部隊が出来たのは昭和十六年だから、昭和十四年に死んだオジサンは関係ないよ”と言ったとか言わなかったとか……要領を得ない話が又聞きの又聞きで潜行中の私の耳に伝わってきました。既に『日本ファシズム論』を執筆発刊していた私はもう一度事実を洗い直して驚きました。

 細菌戦部隊の創設は一九三一年(昭和六)に石井四郎が提唱し統制派の総帥永田鉄山が後盾となって組織化され始めたこと。翌三二年の五・一五事件後の八月、陸軍軍医学校に防疫研究室が設置され、三三年には関乗軍防疫班をハルピンに創設し、加茂部隊と名のっていること。三五年の相沢中佐による永田鉄山軍務局長の斬殺にもかかわらず、翌三六年の二・二六事件後の八月には、防疫班が防疫部に昇格、三七年の中国侵略戦争開始をはさんで関東軍防疫部は拡大されたこと。そして兄貴が自殺した三九年(昭和十四)に東郷部隊と改称され、ノモンハン事件ではホロンバイル高原ハルハ河付近にて六月から十月まで細菌戦を実行していること。四〇年に中国中部や寧波で細菌戦を展開したこと。四一年(昭和十六)日米開戦の年に初めて関東軍細菌戦本部を「第七三一部隊」という暗号名で呼称するようになったこと。以上です。 以上申しましたことは事実資料で、これから述べるのは私の主観です。

 兄貴がピストルで自分の生命を絶った昭和十四年(三九年の暮)には、既に石井部隊が出来あがっており、医者である兄貴は細菌部隊への配属を命じられ、自殺するか、命令を拒否して銃殺されるかの道しか残されず、わざわざ将校たちの宿泊する軍の公の機関である九段会館を死に場所に選び、己の意志と決意を軍上層部と天皇に突き付けたと私は思いたいのです。兄姉の誰もが縁起でもないと怒り、一人として勝手な私の思い込みに頷く者はいません。それでも私は大森義太郎の“唯物弁証法”と“九段会館”が、兄貴と私を見えない「奇縁の糸」で繋いでいるように思えてなりません。

 ―終戦は、どこで聞かれました。
 敗戦は高雄山要塞で八月十五日に聞かされました。あの日は連日統いていた爆撃機が来なかったんです。スピーカーで聞かされた玉音放送は、何を言ってるかさっぱり分からなかったですけど、あとで上官から敗けたことを教えられました。
 ―内地に引き揚げたのはどこだったんですか。
 引き揚げ先は中津市です。福沢諭吉の生家が、私の家から二百五十メートルくらいですかね。現実に帰ってきて見ると、話に聞いていた福沢諭吉の家も見すぼらしいほど小さいし、町内には鋳掛け直しやら高下駄の高歯をすえ代える人や鼻緒を繕う人、草履を作っている人、傘の折れた骨を修理する人やなんかがいっぱい居て、少年の目にはこれが本当に日本人か、という驚きがあるわけです。腹を空かせた引揚者の私にカンコロ芋の餅をたべさせてくれた働く貧しいオバさんも、後に心ない人の陰口で被差別部落の人だったことが判りました。植民地台湾では日本人が土方や人力車夫や駅の弁当売りや線路工事なんかやっていなかった。

 子供の頃、魚釣りに行った高雄港の岸壁には、大きな貨物船が横づけされ、細く長い木の足場が急角度に架られ、その上を砂糖や米を詰めた大きなズタ袋を背負った中国人の苦力が巧みに腰をつかって登り降りしてました。苦力が積み荷を運ぶごとに竹棒の札を交換して、いくつ運んだかわかる仕組みになってるわけですね。日本人はそれを監督しておる、直接労働の上にいるわけです。敗戦は私の価値観をガタガタにしてましたからね、とにかく矛盾に驚くばかりでした。とくに植民地台湾や中国大陸にいた人たち、私らのように日本「本土」の実像を知らない世代にはびっくりさせられることが多かったんです。

 特に予科練帰りの死にそこないの若者が、目的を失い軌道をはずれ荒れすさむのを痛々しく感じました。私も要塞司令部の伝令で走り廻っている間に中学三年を終え、少年二等兵として蟻のように毎日穴ばかり掘っている間に中学四年の一学期と夏休みの時期(八月十五日)を迎えていたからです。今更勉強、何の為に? という、不貞腐れた気持を、どうしても心の底からぬぐい去ることが出来ませんでした。

 台湾時代にも日本人と台湾人という矛盾はあったけれど、日本人の内部に階級と差別がある複雑さに驚いた。日本人と在日朝鮮人、日本人のなかにもうひとつ部落差別があるのを知って驚きました。親父も日本帝国主義の手先で台湾に行ったんじゃないかと思うようになった。資本家と労働者、帝国主義と植民地問題なんかの理論は後で分かるようになるんですけど、資本主義、帝国主義の何たるかは、もう目で見るだけで実感できた。

 ―引き揚げてからは、中津ではどんなことを。
 中津中学に編入してからは、教師のつるし上げをやった(笑)。戦争中は偉そうに国のため天皇のためと言っていた教師が、こんどは民主主義だと言っている。私は同級生も戦争で死んでますから、これが許せなかった。そこで一人ひとり「お前は戦争中に何を言っていたか」という具合に問いただしていく。本当は高雄で自分を教えた教師をやればよかったんですが、目の前にいる連中をつるし上げていくんですね(笑)。学校の正門に立て看板を立てて、告発をやるわけです。そうすると学校側が壊しにくるから、こんどは看板の前に座り込んで誰が壊しに来るのか待っている。そのへんは軍国少年ですから根性がある。そんなことばかり続けていました。
 ―全共闘ですね。一人でですか。
 そうです。英語のReVOlutionという横題字でガリ版の新聞を自分で作って、カンパを取って撒いていました。面白いということで、学内からも学外からも見に来てました。やっているうちに、やはり台湾からの引揚者で製糖工場長の息子が一緒に加わってきた。引揚者が一番矛盾を感じていたようですね。陸軍幼年学校に行っていた人たちは、陸士、陸大へ進み、やがて幕僚となる道を選択した人達ですから、戦時中でも語学や数学をよく勉強している秀才ですね。だからすんなりと勉強の方に行ける。私たちは軍隊で身体を動かしてたばかり二等兵だから、腹が立つことの方に行くわけなんだ。単ゲバ肉体派型の活動家でした、私は。
 ―当時は、共産党はもう活動を始めていたんですか。
 中津にも党の事務所がありましたが、赤旗の看板だけ出していて、党の活動は少しばかりやっておるだけ。あまり活発にやっている様子ではなかった。青共の組織は無いので、一応、俺はこういうことをやっているぞと自己顕示し、名目的な担当者に、青共のバッジをもらいました。白と赤の稲光のマークのバッジでしたね。

 そうしているうちに五年生になって、学校のほうからやめてくれるかどうか、ということになった。私と工場長の息子が親子で呼ばれたんです。私は親父を尊敬していましたから当然インチキ教師を一喝するものと思っていた。ところが親父は、息子の不始末は親の責任であるから、と頭を下げた。ついては謝罪するから、どうか首にだけはしないでくれ、とこう言うんです。私のほうは何を言ってるんだという気分です。お前ら戦争中に何を言ってたんだ、と総括を要求しているわけですから。しかし親父は敵に謝ってる。親父よ、何で自信なくしたんだよ! なんだ、親父というのはこんなに駄目になったのかと。がっかりした。

 台湾の高雄の薬局の息子で、この人は西南学院に進学して特攻隊で戦死しましたけど、私を可愛がってくれた人がいました。その人の勧めでゴーゴリーの『隊長ブーリバ』の映画を観にいって、すっかり感動したことがある。父親のコサック精神を継いだ息子が群衆の前で死刑になる最後のシーン。将に命つきんとする直前、「お父さん、この苦しみがわかりますか!」と叫ぶ息子に、敵の罠と知りつつも父親は「おおっ、わからいでか!」と応える。今もしっかり覚えていますが、そういうふうに親父というものは戦う男の子が一番苦しい時に戦ってくれるものと信じてたんですね。

 そうしたら、自分の親父が敵の前で何度も頭を下げている。親父としては何とか誤魔化して、私に勉強をさせて医者の跡継ぎにしようと思っていたんでしょうけど、私のほうはもうこんな親父と一緒に戦えるわけがないと思った。

 救いは、工場長の父親が立派なことを言ってくれたことです。「先生、あなた方は教育者でしょう。若いうちは右に行ったり左に行ったりするもんじゃないか。こんな勝気で将来性のある男を、あなたたちの手に余るからといって投げ出したら大きな損失だ。うちの息子はこの男について行っているだけだけど、こいつは大した人材じゃないか。この歳で自分の考えを出してるんだから、ものになるかも知れないじゃないか」というような演説をしてくれたわけです。

 そうだ、そうだっ! と、私は根が単純だから、この人の言うように俺はものになってやろう、と思ってしまう。もう道は決まった。俺は頑張ってみせると。今考えてみると、このあたりが出発点じやなかろうかと、そう思いますねえ。父は「あの工場長が、うちの単細胞に火をつけてしまった」と頭をかかえたそうですが……

 ―そういえば、廣松さんも中学生党員でした。あの当時は珍しくなかったんですか。
 いや、珍しいことです。廣松さんも根は九州(福岡)でしょ。あんまり理屈っぽい風土ではないですもんね。東京みたいにインテリゲンチャがたくさんいる土壌ではないから、要するにやるかやらないかで、うじゃうじゃ理屈をこねてやらない奴を嫌う風土だった。自然人であった頃の野生の血が騒ぎ知性をもまき込んで突っ走らせるようです。正の天草四郎と負の麻原彰晃。三池闘争の向坂逸郎と専制悪鬼の反革命フジモリ。青鞜と愛に突出した神近市子・伊藤野枝。女性史学の開拓を高群逸枝が、水俣病患者の苦悩を背負って石牟礼道子が、かって出る。チェストーの薩摩自源流。・

 臍曲りで最後まで意地を通す代表に、現代日本のマルクス哲学の第一人者廣松渉とシャンソン歌手丸山(美輪)明宏を挙げると御不満の方も多いでしょうが、意外に深層気質で通底している。丸山は、フランス民衆が生活の哀歓を語り歌ったシャンソンを有名歌手がお上品に洗練された歌にしたことに満足せず、庶民のシャンソンを追求、遂に「カーチャンの為ならエンヤコーリャ」まで行き着き大ヒットさせました。我が廣松先生も、日本の新左翼が『経哲草稿』の疎外論や労働本質論に依拠してスターリンの非人間性や機械的反映倫を批判し、スターリンの「論理=歴史説」の根源がエンゲルスの『資本論』第三巻への「補遺」にあると叫んでいる時に、『エンゲルス論』を世に問い、前期マルクスの『経哲』と後期マルクスの『資本論』との断絶を説き、現行版『ドイツ・イデオロギー』を「偽書にも等しい」と断じ、東独で原資料を発掘して廣松版『ド・イデ』を世界に突き付け、更に、『経哲』の疎外論から『ド・イデ』の物象化論への飛躍に唯物史観の視座設定を見て、物象化論成立の根拠を、自然生的な社会的分業に基礎づけられた協働関係の屈折と主張するなど、学術的業績の評価は専門家にゆずるとしても、余程の臍曲りか自信がなければ、時流におもねる小賢しい学者先生の成せる業ではありません。私は廣松さんの晦渋難解な文脈の紙背に「度胸千両の乱れ打ち」の響きを聞くのです。

 ―話をもどします。どうして党の常任に?
 理由は簡単明瞭。親父に私の人生に対する具体的な姿勢と根源的な思想を問われ、追い詰められ、完敗して家を飛び出し、自分で喰う生活を始めなくてはならなくなったからです。いっぱしの革命家気取りでいた私に、親父は“お前、自分の人生はどうするつもりだ、言ってみろ”と問い詰めた。恥ずかしながら、そんなものは無かったので毒づいた。「悪い事しても南無阿弥陀仏と言えば極楽に行けるんだろう。心配ないよ。親父こそ医者と坊主の二足の草鞄で絶対他力本願か」と。

 その時、親父は哀しそうな顔をして「ツマランやっちゃのうお前は、我が子ながら情けない。戦中戦後の食糧難と栄養失調で結核になった患者をこの手で何人殺したか。今の日本にも結核を治す薬は無い。進駐軍が闇で流すストレプトマイシンも庶民には余りにも高価で、特効薬の存在を知りながら、今日もムザムザと患者さんを死なせているのだ。極楽浄土があるか無いかは行った経験がないから父も知らない。しかし、薬を与えられずに生命がつきてゆく患者さんの最期を看取る時、父は、法然さん親鸞さん、もし本当に貴方たちが阿弥陀如来と浄土にいらっしゃるのなら、私がムザムザ死なせた患者の無念と悲しみを教ってやって下さいと願わざるを得ない気持ちにかられるのだ。唯物論には心は無いのか。

 なぜ法然と親鸞かだって? 奈良平安時代の仏教は、お前の言う様に鎮護国家仏教だった。平安末期から鎌倉初期の戦乱と飢饉と疫病の蔓延で京の都でさえ死人が続出し鴨川の河原に腐った死体の山が積まれたことぐらいお前も知っちょろうが。もう祈祷やオマジナイの貴族仏教では民衆の魂を教えんことがわかったんぢゃ。だから法然と親鸞は、民衆の魂を枚える新たな仏教をもとめて比叡山―今でいえば東大だーに登った。漢訳大蔵経(一切経)―お前の世界で言えばマルクス・エンゲルス・レーニン・スターリン・毛沢東全集だーを自力で読破し、“善人なおもて往生す。いわんや悪人においておや”の核心をつかんで御山を降りたのだ。

 しかも法然と親鸞は、お前の言う国家権力から銭をもらわなかったのみか、仏教界から弾圧追放され、托鉢で命をつなぎ雪の中に寝ながら、苦難に耐えぬいて、自力で絶対他力を民衆に説き続けたのだ。お前は仏教哲学の何たるかも知らん。日本語訳の『資本論』も読んでない。学校に行き直してドイツ語を勉強し、原語の『資本論』を自力で読んだら認めてやろう。お前は他力依存だ。親に飯を喰わしてもらい、親の金を持ち出して演説して廻っても、誰れも本気で聞いてはいない。皆んなお前を嘲っているのが判らんのか。このまま共産党を続けるつもりなら、自分で生活してからにしなさい」と。

 親父はブーリバではなかった。だが、やはり強く厳しかった。私には全く歯が立たなかった。私は家を飛び出し、土方になった。親父はやがて脳溢血で死に、右田病院もつぶれた。地下足袋にネジリ鉢巻姿の私を遠くから見た父が絶句したという話も後日聞かされた。兄姉親戚の誰れもが「このオッチョコチョイの親不孝者が、親の心も知らんと、父ちゃんを殺し、病院まで潰してしもうた」と非難した。この時私に勉強の目的が復活した。昼は土方、夜は河上肇訳『賃労働と資本』を読み、今でも諳んじている程勉強した。そして河上肇が京大の講義に使った『経済学大綱』へ進み『資本論』へ迫る頭脳の準備を自力で完了した。

 ―どのように革命的自己形成をしましたか。
 親父が死んだのが一九四九年三月五日で、この年は日本階級闘争の命運を分岐する時でした。四八年には中津中学に、私のように勉強しない活動家ではなく、秀才たちが青共に結集し、束大卒の若い国語の先生までが参加しました。この先生のパージの時、四八年から四九年にかけて、幾くつものクラスでストを打ち新制高校で初めての闘争を組織しました。党のオジサンには指導力量が無いので、青共の私が指導しました。そのため父の臨終にも帰れず、父の死に目にも立ち合えませんでした。

 土方の仕事は、トラックの荷台に大型シヤベルで土砂を人力で投げ積む仕事から習い、土砂がスコップの型のまま高く飛び、荷台の中心に落ちて小山となり、大山となって荷台を埋める仕事を先輩に叱られながらマスターしました。

 或る日、ミキサーと書いた高賃金の仕事にとびつきました。現場につくと大きな鉄板の上にセメントと砂と砂利が乗せられ、水を注ぐと一斉にエンヤ、コラサの掛声で三―四人が手順よくシャベルで混ぜ、コンクリの素が出来るのです。将に人力ミキサーの技能労働で、私に出来るはずがありません。まずい、と思った時は既に遅く、なぐられて吹っ飛んでいました。屈強な先輩は修練なくして技能は身につかぬこと。技能なき労働者は高日当をもらえぬこと。お前のために今日は一人たりないまま我々が労働を負担しなければならぬこと等々を、キツイー発をくらわせながら私に体で教えました。

 おかげで『資本論』の剰余価値を産む「社会的に必要な労働の水準」という言葉の意味も、成程、あれだったのだ、とすぐ納得できました。

 日雇の朝は早い。寒い冬も夜明け前から二合の米を飯盆に入れ二匹の目刺を中蓋にのせ胡麻塩の缶をもって毎日仕事に出た。河原に着くと川の水で米をとぎ、水かげんをすませてお茶当番の小母ちゃんに渡しておけば、昼には炊きたての飯を焼けた目刺で食べられた。オカズの不足は胡麻塩で誤魔化しだ。こうして仕事を覚えて職場闘争の先頭に立ち、働く仲間から認められ、指導者として期待されるまでになった。

 ―その時の国際国内階級動向はどのようでしたか?
 四八年の九月十二日―十一月二日、遼陽・瀋陽の大会戦で中国革命は天王山を越えた。この時から紅軍は頭数でも国民党軍を抜いたからです。統く四八年十一月―四九年一月の徐州大会戦で紅軍は国民党軍の戦闘主力を殲滅しました。北京が無血解放された時、中国革命の勝利は誰れの目にも明らかでした。十八歳の私の体の中を熱い血が駆け巡りました。ロシア革命の勝利と喜びを共に出来ませんでしたが、今、唯物史論が実証されている歴史の瞬間を共に生きているという感動が我が身を震わせたのです。この感動は、中国革命の今日的結末を見てしまった四十代以下の方には理解していただけないでしょう。

 こうした中国革命情勢に対応するかのようにマッカーサーは対日占領政策を転換してきました。四八年七月の政令二〇一号で官業労働者のスト権が奪われ、十二月の「経済安定九原則」で人員整理が始まります。占領軍の絶対的力を背負った国家権力と資本の攻撃計画は、戦闘主力の国鉄労組を全力で殲滅、次に全逓労組と官業労組を屈服させ、民間労組を潰すというもので事実その通り攻撃してきました。

 国鉄決戦の火蓋は四九年六月九日に切られました。所謂、六・九国電ストです。京浜東北・中央・総武の三大幹線が三日四十六時間に亘って停止し逆に人民電車が走りました。東京の闘争なので体験は語れないが、ただ国労本部の「自主的戦術転換」でストが中止されたことを付け加えておきます。

 六月三〇日、福島県の平市で党と人民が警察署を占拠する闘争、所謂『平事件』が勃発し、ソ連からの帰還兵の第一次第一船が敦賀港に到着します。ウラル山脈を越えて連行された康人兄(四男)も生存していれば帰って来るなと胸さわぎをおぼえたことを思い出します。平決起は、後に私が指導かつ組織した中津検査庁焚火包囲・同志奪還闘争、中津警察署長宅包囲闘争、中津警察署正面攻撃闘争のヒントになりました。

 七月四日、国鉄当局は三万七百人の第一次整理を通告し、マッカーサーも共産党の非合法化を示唆した。党中央は腰を抜かして順法闘争へ方針を転換するが、翌五日に国鉄総裁下山定則が常磐線で慄死体で発見された。十二日に五万人の第二次整理を通告、十五日には中央線の三鷹駅で無人電車が暴走する所謂「三鷹事件」が起き、八月十七日に松川事件が起ります。

 共産党中央の方針転換が、下山事件、三鷹事件、松川事件と統く占領軍と国家権力のフレームアップの前に屈伏を招き、国鉄決戦を革命的全国闘争として組織できぬまま敗北に導いたと私は考えています。しかし私の実感では、国鉄労働者の中には、党と国労の中央の制止を振り切って決起する力がありました。この階級的情熱が京阪神と東京の闘いに呼応して仙鉄管内の決起、門鉄管内とりわけ北九州の小倉と直方での激烈な戦闘を生み出したのです。当時既に党組織は一枚岩の統制を強制する力を失いかけていました。特に青共は今日の民青のようなロボット集団ではなく、青年の激情を噴出させる独自の活動をしてました。たとえば小倉と直方に部隊を結集させて外人部隊として乗り込み、民同の機関士や車掌をゲバルトで引きずり降ろして列車の運行を不可能にし、鳥栖、長崎、熊本、大分にまで民同の機関士を奪い合うゲバルト戦を追求しました。しかし、最強と思われた吹田操車場の労働者も職場放棄という戦術しかとれなかった。拠点を占拠して地域の労働者と共にマッセンストを打ち抜き、プチロフエ場の闘いのように働く婦人労働者をも結集する工場ソヴィエトや、オプロイテ地域でソヴィエトを構築したような闘いは、党の誤った方針の下では組めないと今日的には総括しています。この若き日の体験が、第二次ブント八回大会での私の路線、“中央権力闘争とマッセンストライキ”に結実されていったわけです。

 -国際派と所感派の対立の時は、九州ではどうだったんですか。五〇年には朝鮮戦争とレッドパージが始まりますが。
 徳田主流と志賀・宮本・春日(庄)、袴田、神山らとの「政治的」確執は、戦後共産党の再建時から存在していた。だが路線的には四五年十二月の弟四回党大会も、また野坂帰国直後の四六年二月の第五回党大会でも、彼等は天皇制打倒を掲げることとブルジョア民主主義革命を平和革命で完成するという点で全く一致していた。それは彼等の脳細胞の中には三二年テーゼと人民戦線路線しか無かったからです。綱領戦略を抜きにした確執が、コミンフォルムの野坂批判をキッカケとして所感派と国際派の対立へと顕在化したに過ぎなかったのです。彼等が特に総括すべきは、四八―九年のスト権剥奪と行政整理攻撃とりわけ国鉄決戦での大敗北を自らの責任において総括すれば、マッカーサーの占領政策の転換の意図も権力構造も、その攻撃の真の狙いが朝鮮戦争の勃発に備えた共産党の非合法化とレッドパージにあることも簡単に見抜けたはずです。四九年四月に紅軍が南京を解放し、十一月に人民政府の樹立を宣言した時、私のような十八歳の青年でさえ、このままでは済まないだろうと予感したから。

 私は、スターリンが金日成に韓国占領を命じて戦争の準備を始め、マッカーサーの足元で日共に武装闘争を展開させるために、五〇年一月のコミンフォルム批判を出したと思ってます。またマッカーサーもスターリンの軍事的意図を察知して四九年から国労を叩き、五〇年の六月六日に日共の全中央委員二十四人を公職追放、「アカハタ」を発禁停止、六月二十五日に朝鮮戦争が始まると七月二十八日から新聞社・通信社・放送協会でレッドパージの火蓋を切り、九月―十月に官公労と民間の活動家一万余名をパージしたと思います。

 四月に「徳田テーゼ」(五〇年テーゼ)がやっと出ます。中身は、三二年テーゼに民族解放闘争を乗せたものです。反対が続出し、八人の対案が提起され、党内公開討論をすることになり、九州の私の手元にも続々と論争資料が届きましたが、対案も、アメ帝の全一支配から日本民族を解放するという点で徳田案と大差はなく、この民族解放路線に、志賀が三一年テーゼの“民主主主義革命の任務をふくんだ社会主義革命”を加え、宮本が労農民主独裁論の“民主主義を完遂して社会主義革命の端緒を切り開く”を加え、神山も植民地革命論を称えたが民族解放を戦略の第一義的任務とする点で徳田と本質的に違いは無かった。

 しかも所感派中央は既に地下潜行し、党は実質的に分裂していたので、綱領戦略論争も断ち消え、朝鮮戦争の勃発と朝鮮人民軍の南下で九州の活動家が湧きかえる中で、私は武装闘争をやるという所感派を選びました。

 ―どんな闘いを? 五〇年が初逮捕でしたか?
 朝鮮戦争が始まる前に私は北九州筑豊炭坑に工作隊として派遣されていたと記憶します。レッドパージに備え、九州地方委員会の党学校という名目で全九州から若手の精鋭が抜擢され、八幡製鉄、若松港湾、日炭高松の三拠点に配置されました。入坑時のアジテーションとビラ配布。縫い針セットを持って炭住への戸別工作。仲良くなり、炭住のオバチャンにも信頼を得て泊めてもらい呑む焼酎の昧は格別でした。短い月日でしたが、私の心に残る「青春の門」でした。

 朝鮮戦争勃発後の中津では、戦争に協力する税金を納めるなと煽動し、税務署の正面で抗議集会を開き、お巡りの阻止線を一気に踏み潰して署内に乱入、税務の徴収に痛打を与えました。現行犯逮捕の出来なかった権力は税法違反のビラを貼ったという口実で地区党の幹部を十月に逮捕した。完全黙秘は私と子供連れの婦人だったらしく二人が起訴され、私だけが大分刑務所で年を越しました。私は『資本論』が入手できず、河上肇の『資本論入門』(5分冊)に没頭して越年したのです。

 武装闘争が初めて提起されたのは五〇年十月の『平和と独立』(同年八月創刊の非合法機関紙)の無署名論文であった。そして五一年二月の四全協で綱領なき武闘路線が決められ、非合法組織への転換を急ぎます。スターリンの筆になると言われた『新綱領』が出るのが五一年八月、これを採択した五全協が十月に開催されます。

 この間、五一年早春に保釈出獄した私は、中部地区党再建のために配属されます。五〇年末の全逓反レパ闘争で職場占拠した中部地区の党員が地区委員長以下全員逮捕されたからです。他地区他県から呼ばれた二人と私の三人は国鉄機関区の細胞再建に方針を絞り、機関車名『C55』を機関紙名とするガリ版刷日刊紙を創り、民同の妨害を突破してオルグを続けた。金欠と空腹と栄養失調と闘ったが遂に血痰をはいた。

 「自宅に帰れ」という前田啓太県委員長の無責任な命令が下った。私は父の死んだ家にも帰れず、兄(三男)に頭を下げた。兄は何とか私をやめさせようとする。申し訳ないけどそれは出来ないと私は言う。兄貴は「わかった」と行って、義姉が米を二升軍足に人れてくれました。訣別です。その時に兄貴が言った説教を覚えてます。

 「革命家になるためには、三つの条件がある。強靭な頭と、強靭な意思と、強靭な体力が必要だ」。それから、「中国の長征を見よ」とね。残る人は残るべくして残っておるだろうと。それから見ると「お前は頭が良くない。結核になるような身体では駄目だ」と言う。「お前の意思が強いといっても、所詮は医者のボンボン。そんな人間に労働者や農民の苦しみが理解できるはずがない」、と。当たってるんですねェ(笑)。

 それから職安に行ってみたんですが、なかなか職もなくて、日雇い労働者にもどった。そこで朝鮮の人や部落の人たちと知り合って、助けられながらやっていった。身体のほうも彼らのおかげですこし回復しました。結核菌に冒された体で、行先もあても無い家出でしたが……。宿は、何年か前に日当未払と退職金がとれずに困っていたので私が怒鳴り込んで解決した銭湯の風呂炊き爺さんと偶然に出逢い、「それなら、窓にガラス戸は無いが二階の物置きが空いているから」ということで決った。

 五一年は所感派の武装闘争への移行期。日雇労働者も極道やポリと激突した。多くの仲間が逮捕された日、大衆は怒り警察署に押しかけたが話がつかんので検察庁を焚火で包囲する方針を出した。党に動揺も見えたが大衆は夜半まで引かなかった。火で包囲しているので検察官僚も帰宅できず、ポリ公も遠巻きにするだけで手は出せなかった。アジテーションとワルシャワ労慟歌がひびきわたり、炎炎と燃える焔が庁舎を昼のょうに照し、火の粉と煙が空を舞った。県委員会の労対がラジオを聞いて現場に来た。「全員逮捕にならんか」という心配が本音と私は察した。「大丈夫です。党のカードルには退いてもらう」「直接交渉は私がやります」と答え、私は単身、扉を突破し、階段をかけ登り、一番偉い奴を出せ」と叫んで決着をつけた。闘いは勝利した。

 党は私に「常任に戻ってくれ」と手前勝手な話をもってきた。何を今更と思った。だが階級闘争は党組織に結集すべきだという私の思想が「ウン」と言ってしまった。私は北部地区委員長になった。

 ―当時の所感派の党のシステムはどんな形だったのですか。
 政治局と書記局が地下から指導し、臨時中央指導部が公然面の窓口になっていた。地方委・県委・地区委は中央に順じて表裏の組織つくる。非合法―非公然組織は三人でビューローを創っていた。委員長が組織方針(政治軍事闘争方針)を指導する。機関紙係が非合法紙『平和と独立』と同誌『内外評論』の配布網を創り記事を中央に送る任務を担う。テク財政がビューローの地下アジト、非合法会議場、上級機関との連絡ポストの設定から三人の活動費の獲得を担う。原則として軍事委員会は党組織とは別個の系列で中央・地方・県・地区に委員長を措く。各段階で党のキャップは政治員として軍司委員長の戦闘を政治的に指導しかつ点検します。しかし、弱体な田舎の党では原則どうりにはいかんようでした。

 ―菅生事件というのがありましたね。

 本質的には、民族解放反封建民主革命という「新綱領」の戦略的誤謬が生んだ結果なんです。農村で反封建武装闘争をやれと言われても地主は農地改革でいないのですから、田舎の公番をやるしかない。そこを突かれたんです。現職警官が活動家に化けて潜入し、地区の軍事委員会の兵士を希望し、許可されるや左からダイナマイト闘争を「やろう」と突き上げる。県の軍事委員長が一度は止めたが、地区では押え切れず、遂に決行準備を始めた六月二日、牛泥棒という山村では珍しい事件が起きた。地区委員会の常任たちが菅生駐在所の前を走り過ぎようとした時、突然、駐在所に爆発が起り、警官に取り囲まれて「現行犯逮捕」されたんです。あの突き上げ男の姿だけが何処にも見えないんですよ。勿論、こいつが現職警官で警察権力が仕組んだということは、清源弁護士はじめ全国の人々の協力で判ったのですが……

 ―さらぎさんが指導した武装闘争はどんなものでしたか。

 非合法で遂行した武装闘争は、具体的なことを言ってはいけない、と思ってますので、公然と中津警察署を正面から攻撃した闘争を話しましょう。北部地区の戦闘主力は①在日朝鮮人②部落大衆③日雇労働者でした。この三隊が夕暮から樫の棒をもって結集しました。朝連の部隊は先頭がビラを打ち鳴らし、部落の部隊は手甲脚絆に血止めの向う鉢巻の青年を先頭に、日雇の部隊はシベリア帰りの軍服軍靴の筋金入りを先頭に続々と結集してきた。

 中津署の正面、門を挟んで、彼らの部隊は警察のライトに照し出され、激突直前の緊迫が続く。この緊迫を破ったのは朝鮮のオモニの一撃でした。部落大衆も日雇労働者も、いやという程の屈折した思いと国家権力への憎悪と怒りを抱えてきた。だから警官を打ちのめし警察署を叩き潰してやろうと結集した。しかし在日朝鮮入の胸の裡はもっと深く激しかったのです。戦前戦中に筑豊の炭掘りとしてケタ落ち坑に強制連行され、落盤やガス爆発で多くの仲間が命をおとし、敗戦で日本人が引揚げて坑夫が余るとクビになり、生きるために焼酎をつくれば密造で逮捕された。言葉ではいえない怒りが朝鮮戦争を機に爆発したのです。

 流血の白兵戦の口火を切ったのが、党員でも日本人でもなく、朝鮮のオバチャンだったという現実は、若き日の私の胸をグサリと刺した。しかしこの衝撃は何時しか心の深い底に沈殿し忘れていた。それがグイと頭をもたげたのは、第二次ブント分裂後、もっと具体的に言えば、ブント系武闘派として武装闘争を貫徹した結果、権力の報復弾圧で蜂起派が壊滅寸前まで追い込まれ、再起のために総括を始めた時です。如何なる階級に依拠して、如何なる党へと再建するのかと、自問自答している時、階級支配の最も底辺に組み敷かれた階級深部の怒りに依拠して闘う党を再建するのだ! という回答が若き日の体験と二重写しになって、湧き出てきたのです。

 ―五一年の日米単独講和つまり日米安保条約の成立と五二年破防法闘争についてお願いします。

 今日的に安保を把え返すと、中国革命の勝利と朝鮮戦争の真只中で日米安保が成立したという現実の中に、安保の政治的軍事的性格も、その総てが物語られると思います。言葉を代えて申しますと、冷戦構造が成立したが故に、国内の階級闘争と共産主義革命から国家権力と資本の支配を守り、アジアの民族解放・社会主義革命に対抗するために、日米が軍事同盟を必要不可欠としたのだと言えます。

 ところがスターリンは朝鮮戦争の米軍を背後から脅かす道具として日共の武装闘争を利用しょうとしただけなので、民族解放民主革命つまり反米反封建の『新綱領』を押しつけて反米武闘を命じたのです。この路線からは単独講和反対!全面講和要求という方針しか出せず、安保を日米の反革命軍事同盟として把えて、ここに武装闘争の打倒目標と打撃の方向を絞り込むことが出来なかったのです。

 もう一つの問題は、このサンフランシスコ講和が、沖縄全島の統治権を米帝に売り渡し、米軍政下におき、米軍の軍事基地にする代償として、日本が米軍の占領から解放されたということです。五一年の講和と安保の同条約は翌五二年の四月二十八日に発効しました。だから四・二八が沖縄デーとして闘われたことは御存知でしょう。当時、所感派であった私は、沖縄人民の怒りも苦しみも悲しみも知らず、武装闘争に明け暮れていたのです。

 五二年制定の破防法も、日本階級闘争と共産主義革命から安保を防衛することを第一義的な政治目的としつつ、国家権力の安全を政治的に犯そうとする者を事前に摘発する予防治安弾圧法であった。だから安保と破防法との闘いは、全人民的課題であると共に暴力革命を全階級の前にかくさぬ共産主義者こそ、先頭に立って担わなければならぬ任務であった。しかるに所感派は破防法闘争から逃げ、広範な人民の戦列から召還したのです。

 今日、六九年四・二八破防法被告である私は、制定時に闘えなかった痛恨の念を背負い、沖縄人民の怒りに応えるべく、頑張っているわけです。

 ―武闘路線の終息と転換を予感しましたか。

 ハイ。五一年六月にソ遠のヤコブ国連代表が総会で休戦を提唱した時から流れが変り、終息に向った。開戦から僅か満一年後ですよ。日共が五全協で『新綱領』を決定した頃には、朝鮮戦争は終りかけていました。スターリンにとっては既に日共の武装闘争は利用価値がなくなっていたのですね。五二年七月のコミンフォルム機関紙に『日共三十周年』を記念して徳田球一の署名論文が発表されると、党は八月に「大平和祭」を開催、平和運動と合法活動の重視を力説します。この日を境に、武装闘争の火は消えてゆきました。皇居前広場を人民広場にせよと決起した所謂「血のメーデー事件」は、徳田記念論文が出る直前の五月一日のことでした。だが可笑しなことにこの五月一日にアカハタが復刊されている。私は疑問を胸に秘め、五三年まで非合法を守り、県委員会も田んぼの中のラジオも無い堆肥小屋の天井裏で行ってました。会議も終り、一人が外に新聞を買いに走り、五三年三月五日のスターリンの死を知りました。

 武装闘争の火が消え去って、張り詰めた緊張感が崩れると同時に私は喀血した。左肺は上葉も下葉も既に侵食されつくしていた。党勢の沈滞と混乱の渦中で再び私は使い捨てられた。骨と皮だけの私を拾ってくれたのは彼差別部落の大衆と在日朝鮮人の同志でした。レバの刺身と貴重な鯉の生き血とオカラ御飯で生き返えりました。在日朝鮮人の同志は養豚小屋と焼酎密造所と共同便所の間に建つ掘立小屋に私を住まわした。息が詰まるほどの臭いのミックス。だがすぐにこの強臭が焼酎の匂いを消す生活の知恵だとわかった。彼らは度々「トンム、今夜はワンロースだよ」と声をかけてくれた。ワンとは犬、ロースとは犬肉のロースである。豚小屋の臭をかぎながら月を仰いで犬の焼肉とワンスープに舌鼓をうち、一口だけ、一杯だけと密造焼酎のコップをかたむける露天の宴は極楽浄土だった。もうここで死のう……。死んでもいいと思ったところが、消化吸収のよいワンロースは手術が出来るまでに私の身体を回復させました。(第一回終り)


革命に生きる Ⅱ 情況1997年10月号
 ー上京は肺葉切除の手術を受けるためでしたね。何年でしたか。

 上京は一九五四年です。栗の花の匂いが強い頃でした。結核菌に侵されて骨と皮だけになった私を朝鮮部落に拾っていただき、貴重な蛋白源であるワン(犬)ロースを食べさせていただいたおかげて体力が回復しかけたころ、東京の朝子姉(次女)から上京せよの声がかかった。台北帝大の桂内科で結核を専攻した義兄の上野隆泰が、東京で肺葉切除の手術を受ければ生命だけは助かると言うのです。私は友人知人から金をかき集め、中津市の福祉事務所の責任者に生活保護法適用の証明書を書かせ、朝鮮人のトンムたちと別れを惜しんで上京しました。この時、中野重治の詩が頭をよぎりました。記憶は定かでないが、「雨に煙る品川駅、金よさようなら、もう一人の金よさようなら、故国に帰りて、ひとびとの前楯となれ」というような詩だったと思います。

 上京してみると、既にストレプトマイシンが治療につかわれているではありませんか。父が生前、あれほど欲しがっていたストマイとはこれなんだ! と複雑な気持でしたね。その束京でも当時は肺葉切除手術の出来る病院は、清瀬と中野の国立結核療善所の二つだけでした。私は好運にも、肺葉切除の最先端を損う医師と義兄が親友だったので、中野療養所で手術を受けることが出来ました。

 この二回の手術で左肺を摘出し肋骨も四本切り取ったので文字どおり「片肺飛行」になりましたが、「これで生命をとりとめた! また階級闘争の戦場に立てるのだ!」という喜びで片肺のない胸はふくらんでいました。

 ―離党は上京以前でしたか。六全協はどこで知りましたか。その時の気持はどうだったでしょうか。

 病に倒れた常任活動家を使い捨てにするょうな党はダメだと身体で実感しましたよ。しかし怨みつらみで離党しようとは思いませんでした。手術が成功して生命をとりとめたら、その時に批判し論争して決着をつけようと思っていました。だから信任状を党本部にまわしてくれとたのんで上京したのです。

 マルクス主義者の日本共産党に対する精神的密度という点で、六全協の以前と以後とでは画然たる逮いがありました。今日の日共には戦前の非合法時代の面影も戦後武装闘争時代の戦闘性の名残もなく、そこには議会政党に変貌した選挙集団があるだけです。こんな暴力革命もプロ独も否定し破防法とも闘わぬ、弾圧も逮捕もない党には人ろうが出ようが何の感慨も湧かないのは当然です。それに比べて、治安維持法の弾圧下で天皇制打倒を掲げて闘い、拷問と虐殺に(多くの転向者も出しはしたが)耐え抜いて非転向を貫いた戦前の日共には、二七年テーゼも三二テーゼも間違っていたと、頭で批判はできても、それを越えて追ってくる実績の重みがあった。

 だから、敗戦直後のマルクス主義者が日共の路線に疑問を感じても日共から離れるには、深い内在的な苫痛を伴ったものです。その原因をスターリンの一国一党の原則に呪縛された結果だとも、戦後主体性論争の試練を経ていないからだとも言えましょうが、私にとっては、徳田と志賀の獄中十八年の井転向と、拷問に耐えながら虐殺されていった人々の無念が重かった。

 「お前は拷問に耐えて死ねるか? 獄中十八年を超える根性と思想と理論があるのか?」という問いが、自分の裡のもう一人の自分から突き付けられ続けました。

 というわけで、上京直後に代々木の党本部に信任状が届いているはずだと確認しに行ったが、門前払いでした。六全協直前の党本部は、両派の野合政治や所感派の開城準備などでごったがえし、田舎者の死にそこないの活動家のことなどにかかずりあっている暇はないんだという雰囲気でした。この時、「ヨシー 俺の方から党をバッサリと斬り捨ててやる」という踏ん切りがつきました。

 六全協(五五年七月二十八~二十九日)は中野療養所で知りました。前回に述べたように既に所感派の路線転換が始まり、合法活動と平和運動の重視が力説され、武装闘争の火が消え去っていたので、この日が来るのは察知できました。またスターリンの五三年三月の死を境にソ遠の動向と国際路線も急転回をとげました。五三年六月に朝鮮戦争が休戦。マレンコフからフルシチョフヘの政権交代に伴う平和共存路線への転換。五四年インドシナ休戦(ジュネーブ会議)。中国とインドの平和五原則宣言。五五年四月のバンドン会議。向年五月のソ遠とユーゴの国交回復……。ここまでくれば、六全協は時間の問題でした。だから私に驚きはなかった。二十五歳にもなれば政治の裏が読めるようになっていましたから。所感派と国際派の幹部が『新綱領』(五一年綱領)をどう扱うかが問題だと思いました。

 ―実践活動をやめようとは思いませんでしたか。

 私は革命家になるんだと言って家を飛び出し、結果的とはいえ親父を脳溢血で死なせていますからね。やめられません。それに、被差別部落と在日朝鮮人部落の人達に、死にかかっているところを助けられてます。どの面さげてやめられましょうか。また、地方の幹部ながら間違った『新綱領』を押しつけ引き廻したという貫任もありますからね。何をしたらよいのかは決まってませんが、患者自治会運動をやりながら、お茶大の学生Oや革同の活動家Nと一緒にガリ版の政治新聞を出していました。その頃は日共本部のお膝下の日患同盟でさえ党の指導が貫徹されない有り様でしたから。私自身、大衆の生活要求の中から何が運動になるのかを見極めて汲み上げ、大衆闘争を起こして先頭に立つという現場オルグの生活が身についていましたので……。

 しかし、私の心の底では、共産主義者としての自分をもう一度、再構築しなければならないという自己欲求が沸沸として湧きあがっていました。私の問題意識は、自分の実践した非合法と武装闘争の総括から始めることでした。

 六全協は、「家父長制」と「極左冒険主義」の誤りだったと称し、指導責任を二年前に死んでいた徳田球一に転嫁して野合する手打ち式でした。五五年三月(六全協の四ヶ月前)の人事で、既に、国際派の志賀と宮本が所感派の春日、米原と並んで新中央指導部に返り咲いていた。だから野坂は『前衛』十月号で「五一年綱領は全く正しかったが、その解釈を間違えた」と、ぬけぬけと白をきり、志賀、宮本も承認したのです。……これでは事の本質は解明できないという怒りから、私の問題意識の核心は、『新綱領』の権力規定と反米民族独立・反封建民主主義革命戦略の批判に絞られました。私は暴力革命の原則を守る以上、武装闘争は正しいと思う。問題は如何なる綱領と戦略を実現する為の武装闘争なのかという点にあるのです。綱領戦略から軍事方針だけを切り離して「総括」するという方法論それ自体が欺瞞で間違っていることも解りました。

 次に、敗戦と財閥解体があったとはいえ、帝国主義が後進農業国のように植民地支配下におかれるというようなことが起こり得るのかという疑問を抱きました。要するに事実はどうなんだということです。療養中の私には新聞を購読するお金がありません。そこで慶応から一流商社に入社した同室の御曹司に日経新聞を一目遅れで無料でもらうセコイ約束をとりつけ、スクラップして経済の実状を調べました。設備投資の動向を見れば、日帝は朝鮮特需で戦前の生産水準を回復し、既に独占資本の復活をとげ、高度経済成長へ向う準備を始めているではありませんか。不均等発展が超主観的な『新綱領』の文言を吹き飛ばしたのです。また、農地改革で地主が居なくなったのに反封建闘争で根拠地をつくれと言うのも事実を無視した誤りでした。『新綱領』の誤りは、事実を突き付けただけで崩れる程度の単純な誤りだったのです。やがて私の関心は「綱領と戦略」の構造へと向います。なぜならば『新綱領』の理論的な骨格が三二年テーゼの上に民族解放闘争を乗せたに過ぎないことを知ったからです。換言すると、日共の思考方法の根底には、講座派以来の「明治維新はブルジョア革命ではなく、天皇制権力を絶対王政として樹立した王政復古である」。故に、「日本革命戦略の第一義的任務は天皇制権力の階級基盤である地主を一掃する反封建民主主義革命となる」。そして「民主主義革命の完成の上に立って独占資本を打倒するプロレタリア社会主義革命に至る」という二段階革命戦略の固定観念があるということです。

 つまり明治維新以降、天皇制権力(絶対王政)も、その階級基盤である地主階級(封建勢力)も倒せぬまま、第二次大戦に負けて米帝に占領され植民地支配下におかれたという「認識」(曲解)の上に立って、民族解放民主主義革命戦略が導き出されているということなのです。

 ―戦前の講座派批判とスターリン批判の関連は?

 こうして「綱領と戦略」の骨格を形成する思考方法に踏み込んだ以上、コミンテルンの日本に関する総てのテーゼの構造とその構造を形成している思考方法を切開しなければならないと思い立ちました。それは戦前の講座派と労農派の日本資本主義論争を自分の頭で総括し、明治維新と天皇制権力の性格を確定する理論的な闘争であり、戦前版『日本資本主義発達史講座』(一九三二-三三年)を自力で総括することでもありました。早速、昔の悪友の頭脳と金の力を借りようと思い、知識と文献の支援を手紙で訴えました。彼らは旧制高校を経て九大と京大で経済学を専攻し、就職する頃でしたが、コメントを添えて、山田盛太郎の『日本資本主義分析』、平野義太郎の『日本資本主義社会の機構』、野呂螢太郎の『日本資本主義発達史』、小山弘健の『日本資本主義論争史』(戦前編)、服部之総の『明治維新論』などを贈呈してくれました。これらの文献は今も古色に燻んだカバーをつけて書斎の本棚に並んでいます。二十年間の非合法生活と獄中生活を終えて帰宅し、久々に対面する書籍は当時を彷彿とさせます。

 さて、戦前の講座派を総動員して書かれた『日本資本主義発達史講座』(一九三二-三年)は、戦後の『新綱領』と『日本資本主義講座』(一九五三-五年)のように事実を突き付けただけで崩れるほど単純なものではなかったので、悪戦苦闘でした。即ち①明治維新は王政復古などではなく、日本資本主義はここから始まった。しかし土地私有の下で地主・小作の搾取関係が生まれた。議会制民主主義も無く、欽定憲法と天皇制権力が生まれた。これをどう考えるのか。ブルジョア革命とは何を基準に規定される概念なのか。②天皇制権力は三権分立の基礎を持たぬが、日本資本主義を階級基盤とする立憲君主制型の国家権力である。では天皇制は如何なる王政であるのか。③この天皇制とその主要な階級基盤である資本主義(賃労働’資本関係)と封建的残滓(小作・地主関係)を一掃する革命戦略は如何に確定すべきか、という難問との格闘でした。この課題はこの時から私の主要な研究テーマになりました。

 結局、六〇年安保闘争の前には次の結論に達しました。野呂栄太郎の『日本資本主義発達史』(一九二七年脱稿)を止揚発展させ、『日本共産党政治テーゼ草案』(所謂三一テーゼ)を止揚発展させるという見解です。その理由は、①政治革命の質を決定する基準は、社会構成体を規定する生産関係の変革如何にあり、明治維新は日本の社会構成体を封建的生産関係から資本制的生産関係へ転換させる政治革命であったが故に、基本的にブルジョア革命であったと規定すべきだと考えるからです。②ブルジョアジーの未成熟と農民の政治闘争への参加の欠如を、下層武士家臣団による武装闘争が代行したため、民主主義革命と農民解放の不徹底性を招いたが、維新政府は成立の瞬間から資本制的生産関係を土台としなければ存続不可能な政治権力であるが故に、天皇制の統治形態をとっていてもブルジョア権力と規定すべきであると考えるからです。換言すれば、政治権力の歴史的範疇を決定する基準は、その政治権力が如何なる生産関係の利害を守り、如何なる社会構成体の上部構造として存立しているのかによって決まるからなのです。

 講座派は、日本の社会構成体が資本制的生産関係に変革されたという最も肝腎要な点を見失い、地主・小作制の存在を拡大解釈して維新後の日本社会を封建社会の延長とみる誤りを犯し平野義太郎の『機構』は、天皇制を封建再編の上に存在する「歴史的範疇としての絶対主義」と規定したのです。

 だが野呂は、二七年テーゼに屈服する以前の二七年三月までは①維新=王政復古説を否定し維新を資本家と資本家的地主を支配者につかせる社会変革と規定し②資本家的商品生産発達の礎石を築いた明治政府として天皇制権力を捉え③当時の情勢をプロレタリア革命の乱雲低迷期と指摘して、プロレタリア革命説をとっていました。三一年には、岩田義道らが二七年テーゼを否定して野呂の立場を復権し、「来るべき日本革命の性質は『ブルジョア民主主義的任務を広汎に抱擁するプロレタリア革命』である」と規定した三一年テーゼ草案を作成したが、これも翌年にはコミンテルンの三二テーゼに全面否定されます。私は、以上の検討から野呂と岩田の理論には止揚し発展させるに足る正しい内容があると判断したのです。

 この理論闘争は、直接的には戦前の日本に関するコミンテルンの全テーゼを批判するものですが、本質的には『新綱領』(五一年綱領)にまで貫かれたモスクワの戦略思想(今日的に言えばスターリン主義の二段階戦略)を根底から断ち、日本革命の戦略を確定する実践的任務に応える闘いでした。こうして六〇年安保を自立した日帝の対米対等要求と捉え、日帝打倒・社会主義革命の戦略を確定するに至ったわけです。

 ―実践(戦闘)的課題から戦略を考え、戦略批判からスターリン主義批判に向かうのは第一次ブントと似ていますが、哲学には踏み込まなかったのですか。

 はい。当時の日共には『経済学・哲学草稿』や『ドイツ・イデオロギー』を読む者は皆無でした。私が『資本論』を弁証法として読み返そうとしたのも六〇年安保闘争の後で、レーニンが『哲学ノート』に“マルクスはヘーゲルのように『論理学』を書かなかったが『資本論』を残した”と書いてあるのを読んでからです。

 哲学には苦い思い出があるんです。退所も近い頃に、S女史が話したいそうだよとの伝言を聞き、オルグでもできればと甘い考えで女子病棟にS女史を訪ねると、檀ふみさんがオカッパになったような人でした。涼しい瞳の笑顔で会釈するや、雑談ぬきでいきなり、「貴方。マルクス主義者だそうね。ではソガイという言葉を知ってるわね。ちょっとこの紙にドイツ語で書いてみてくださいな」ときた。恥ずかしながら当時の私に「疎外」と「阻害」を区別できる程の知的素養はなかった。ましてやドイツ語で書けるわけがない。ほうほうのていで逃げ帰り、ベッドにどたんと大の字に倒れ、「東京というのは恐ろしいところだなあ」と痛感させられました。私が上京した頃の九州にはインテリの精神風土などほとんどなく、特に門司、ハ幡、若松、筑豊は鉄と港湾と石炭の街で気の荒い労働者の土地柄でした。だが事態が困難に直面して「猫の首に鈴をつける」役目が求められると、必ず「そん役、おいが」と買って出る者が現れ、仲間達もオバサンも娘さんまで彼の勇気を「男の中の男たい」という言葉で讃えたものでした。それが精神風土の底に流れる価値観だったからです。しかし東京ではおだてに乗りやすいオッチョコチョイとしか思われないだろうなあと考え込みました。そして、苦もなく英仏独の三ヶ国語を読み書きできる女性がこんな身近にいる東京では、人間の評価基準が全くと言って良いほど違うことが、ぼんやりとわかってきました。

 しかし、今ではS女史も私にとって恩人のひとりだと思っています。それは、あの時にガツンと彼女の知的一撃をくらわなければ、私の哲学への関心も遅れたでしょうし、初期マルクスに『経済学・哲学草稿』という習作が存在することさえも知らず、即自的自己が自己疎外として生み出したる向目的自己を、より高い自己に自己止揚して発展させる、否定の否定の自己展開こそがヘーゲル弁証法の核心であること、学ぶ糸口をもつかめなかっただろうからです。のちに私がマルクス哲学者田中吉六と個人的な深交を深めて“哲学の道”を歩むことができたのも彼女の知的一撃の「後遺症」だと思い感謝しています。私は田中吉六の『主体的唯物論への途』を学んで、『経哲草稿』の核心中の核心が労働本質論であることを読みとり、スターリン哲学(機械的反映論)を撃ち砕く確信を固めたのです。

 ―フルシチョフの「スターリン批判」と、ハンガリア動乱は、どう受け止めましたか。

 フルシチョフが秘密報告でスターリンの個人的罪科を暴いたのは、五六年二月のソ連共産党二十回大会でしたね。その頃私は療養所から義兄(上野隆康)の勤務する結核専門病院に移って社会復帰の準備をしていました。スターリンとソ連に未だ幻想を抱き続けていた日共の人々にとっては晴天の霹靂だったでしょうが、二十五歳の私の心は醒めていましたから「やっぱり」という感じでした。スターリンは、ブハーリン、ジノヅィエフ、カーメネフを初め、あれ程の幹部と党員と人民を粛清・処刑・虐殺し、トロツキイ派を弾圧・追放・処刑したのですから隠し通すのは無理で、国際ジャーナリズムで報道されてきました。ただ、その都度クレムリンと代々木が否定しましたが……。しかし、敗戦過程で中国東北部に侵攻したソ連軍が日本の民間人や女性に略奪・強姦・殺人など暴虐の限りを尽くした現実は、ソ連への期待と幻想を完全に叩き潰しました。私の身内も死んでいます。

 ソ連人民の悲惨な生活と封じ込まれた言論についてはアンドレ・ジイドの『ソヴィエト紀行』(一九五〇年新潮社版)を読んでいましたので、ソ連が「社会主義社会」だという幻想は消えていました。ゴーリキイの死に際してソ連を訪れたジイドが、ソ連人民の悲惨な生活に直面して、一つまた一つ、心の中の期待と幻想が崩れ行く様を悲しみの筆にたくして綴った紀行文を読んだとき、私の心の中でも「ソ連社会主義」という「嘘の化けの皮」は剥げ落ちてゆきました。だから私は五六年六月にポズナニ暴動が勃発し、同年十月二十三日にハンガリア動乱が始まった時にも、これは単なる暴動や動乱ではなく、民衆の蜂起であり「革命だ」と直感しましたね。五六年の十月。私はすでに療養所時代のN先輩の紹介で産業労働調査会に、たしか月給五千円で就職していました。ハンガリア蜂起の翌日にソ連軍が介入し始め、十一月四日にソ連のジューコフ戦車軍団がブタペストを蹂躙した時、労働者人民に発砲するようなソ連はもう敵だと思い、弾圧に抗議しソ連を糾弾する私の拙劣な短文を『産労月報』誌に掲載していただいたのを覚えています。この短文は稚拙ではありますが、私がはじめてソ運批判の立場を公にした文章で、スターリン主義との対決に踏み出した始発点でした。私自身の本格的なソ連論の構築はここから始まったのです。

 “産労”の名を最近の活動家は知らないでしょう。「産労」は戦前に組織された日共の労働運動の拠点で、野呂栄太郎も所属し、井汲卓一がここで『日本資本主義発達史講座』を編纂しています。弾圧で潰され、戦後は信夫清三郎が再建しました。私は柵橋泰助が主幹の時、つまり、六全協以降、混迷する日共内部から反中央の諸派が生まれ、ソ共二十同大会以降、後に構造改革派と呼ばれる部分が未だバラバラな状態で割拠して党中央を攻撃し始めた時代に参加したのです。やがて私は「産労」を去り、柵橋も辞任し、後任にはグラムシ研究家で知られる片桐薫が就任したと聞きましたが定かではありません。

 ―日共のソ達共産党二十回大会とハンガリア動乱に体する対応をどう見ましたか。

 フルシチョフの秘密報告は、スターリン個人が如何に狂暴な専制独裁者で、史上類をみない粛清・処刑・虐殺を断行、秘密警察と密告制で恐怖政治を敷き、個人崇拝を強制し、歴史さえ偽造してきたことを暴き出しただけでした。そもそもフルシチョフをはじめ、これまでの党国家官僚白身がスターリンを「偉大なる教師にして、偉大なる無謬の指導者」に祭り上げ、個人崇拝を助長しつつ大粛清の先頭に立ち、出世コースを駆け登ってきた張本人だから、保身の立場からも当然の結果と言えましょう。

 私は、スターリン主義とは何であるのか、スターリン主義がどうして生まれたのか、スターリンは武力で専制を獲得したのではなく、会議の討論と採決を経て確立しているが、これを許したボルシェヴィキとは何であったのか、という疑問を抱きました。回答は出せないが問題の所在はここにあると思いましたネ。

 所感派と国際派が野合したばかりの日共中央がスターリン主義批判の核心を突けるはずはありません。ソ達共産党二十回大会(五六年二月)から一年間、日共の沈黙が続き、五七年二月の『前衛』にスターリン批判を進めようという大沢久明の論文が一回掲載され、後は尻切れトンボです。ハンガリア革命もダレスと通じてワルシヤワ条約を脱退する「反革命」で処理されました。

 この問題は、国際的には中ソ論争に発展し、国内的には、従属論なのか自立論なのか、敵の出方論なのか平和移行なのか、という対立に発展します。六全協(五五年七月)から一年後、日共の指導権を握った宮本顕治は、「社会主義への平和移行」を承認したソ連共産党二十回大会(五六年二月)に便乗して、「暴力移行しか考えられぬ」という『新綱領』の改訂を認め、党内の混乱を七回党大会で収拾すべく「党章草案」を五七年九月二十九日に発表し討論を呼びかけたが、後に構造改革派と呼ばれる多くの論客から①平和移行が原則で②暴力移行は例外③講和で日帝は主権を回復自立した④故に「新綱領」の民族独立革命は存続できないという意見が続出し、宮本の①半占領②事実上の従属③民族民主革命④敵の出方論を骨子とする「党章草案」は七回大会(五八年七月)での採択を断念します。

 私は、宮本の①半占領と②事実上の従属は六全協の“単独講和と占領制度の廃止は独立を達成しなかった”という所感派との妥協点を墨守し、④敵の出方論は『モスクワ宣言』(五七年十一月)の“社会主義への移行形態は各国まちまちで内戦なしの可能性が生まれたが、権力の抵抗と非平和的移行も考えるべきだ”という文言を追認しただけだと思いました。

 私の感想は、六〇年安保を前にして、まだこんなことを言っているのか。全然、総括もせず、民族的任務を戦略の第一義的任務においている。事実を見よ! 日帝独占は復活して資本輸出さえ始めている。米帝と軍事同盟を結びアジアの侵略反革命に乗り出そうとする日帝を撃つことが安保闘争の第一義的任務ではないか。またも反占領・反従属で闘いを潰すのは許せないと一人で怒っていました。

 ―この段階で、思想内容的には固まった、という感じでしょうか。

 とんでもない。ようやく六〇年安保闘争に挑む自分なりの考えがまとまりかけたかなあという段階でした。目帝打倒の任務と安保(日米軍事同盟)粉砕の任務との関係さえ、すっきり把捉できなかったので……。要するに不均等分展と体制問矛盾の関係を如何に把握するのかという問題です。ただ、小野義彦が五八年に「経済評論」(二月号)と「世界」(四月号)で展開した構造改革の可能的条件の理論、即ら、不均等発展による日帝の復活がもたらす日米間の矛盾の増大と「社会主義陣営の偉大な発展」と平和運動によって中立化政策が強まり、構造改革が可能になるという理論に対しては即座に批判することができました。小野理論は、復活した日帝独占を「買弁化」と言い張る日共の「事実上の従属論」を粉砕した点で一定の役割を果たしたが、不均等発展を絶対化して安保自動崩壊論と中立論の必然性を導き出そうとした点に決定的な誤りがあったのです。もう一つの誤りは、ソ遠を社会主義の偉大な勝利と手放しで礼賛する姿勢と思想性です。スターリン主義に対する批判と事実に基づくソ遠の政治経済機構の分析の欠如が招いた誤りだと思いました。

 ここから私は、第二次大戦後の現代帝国主義論の構築とスターリン主義の批判に立脚するソ連論の構築なくして私自身のマルクス主義者としての再構築はないということを深く痛感し、五九年には一応の私なりの結論に達することができたのです。即ち、日共の買弁独占資本=対米従属論と構改派のが不均等発展による日帝自立=安保自動崩壊=中立論とを二つながら粉砕する私なりの現代帝国主義論を構築し、同時に、ソ連=一国社会主義論とソ連=国家資本主義論を粉砕する私なりのソ連「官僚制=搾取国家」論の骨格を構築することがでさました。毛沢東主義に関しては未だ戦闘性と可能性に期待していました。

 ―なぜ、ブントと一緒に闘ったのですか。

 ここまでの私の理論闘争は、私自身を現代のマルクス主義者として再構築するための、孤独な闘いでした。それはまた、私出身を階級闘争の戦場に確信をもって登場させるための理論闘争でしだ。私は、もともと活動家で、現場の闘士として育ってきたので、仲間と一緒に階級闘争の修羅場に立たなければ理論の武器を磨く意味がないと思っていました。誰とともに闘うのか、これが私の次なる実践的課題でした。この段階では未だ党を建設するめども立たず全国党を創出する展望もなかったけれど、すでに、安保闘争は始まっていました。五九年三月二十八日に社会党・総評・原水協らが安保改訂阻止国民会議を結成(日共はオブザーバ)、全学連中央委員会も四月二日に安保改訂阻止青年学生共闘会議(青学共闘)の結成に参加して安保改訂阻止! 岸内閣打倒! を掲げました。国会周辺の静かな請願デモとは別に、これを「お焼香デモ」と罵倒しジグザグデモを貫徹する学生集団があった。一瞬、彼らは革命をやる気だと感じた。それは直感でした。それは六全協後に、否、上京後に初めて革命的情熱にふれた思いでした。学生の熱気は在日朝鮮人や炭鉱労働者の荒ぶる戦闘性とは違うが、若き日に私の気持をたぎらせたのと同じ戦闘精神でした。私はデモ隊のシッポについて、学生達から共産主義者同盟が五八年の十二月十日に結成されたことを知りました。この組織が日共の内部闘争を経て日共から完全に分離独立し別党コースを選択したこと、社共を越える革命党を建設する方針を聞いて更に気持が高ぶりました。

 国際学連の歌の大合唱に包まれながら共産主義者同盟と共に闘う気持が固まってゆくのを感じました。

 当時、現役の学生に人脈がない私には、五八年五月に反戦学同を社会主義学生同盟(社学同)に改組、中央の民主主義革命路線に社会主義革命路線を対置し、五月二十八日の全学連第十一回大会で反帝闘争路線を決定、六月一日に党本部で行われた代議員グループ会議で党中央に全面不信任案を突きつける所謂「六・一事件」が起こり、「六・一事件」で除名された党員グループの島成郎、生田浩二、富岡倍雄、山ロー里らが十二月十日に共産主義者同盟(ブント)を結成し佐久間元、小泉、倉田計成らが早大ブントを創出したという日共内部の党派闘争を知らぬまま五九年に至ったのです。

 こうして、全学連は六〇年安保改訂を、日本帝国主義の復活と捉え、日帝打倒の反帝闘争を第一義的任務とするブント系(中執)と、対米従属の強化と捉え、反米闘争を主軸におく日共系との対立を抱えながら、安保闘争を闘っていたこと、五九年六月五日に始まる全学連第十四回大会で唐牛建太郎が委員長となり、ブント系が主要ポストを獲得したことも判ってきました。私は、これまで独力で獲得してきた権力論・戦略論・安保闘争論が、ブントの理論と主張に極めて近いことを知り、孤独な闘いも決して無駄ではなかったと嬉しかった。九月二十六-七日の日共都委員会では、港地区委員会と千代田地区委員会が公然と党中央を批判し、日共内の反乱が労働者に拡大したことを白日の下にさらしました。

 ―六〇年安保闘争について、詳しくお願いします。

 六〇年安保闘争を爆発させ高揚させ大衆動員を飛躍的に拡大したのは、五九年十一月二十七日の全学連を先頭とする国会突入闘争でした。この日は国民会議の第八次統一行動の日でしたが、岸内閣は早朝、所謂「暁の国会」でベトナム賠償を強行採決したので抗議デモには八万人が参加した。全国学生二万人のゼネストを背景に全学連はチャペルセンター、人事院、特許庁の三方面から警官と激突しながら国会への突破口を切り開こうとした。まず特許庁方面から激突の末に阻止線を突破、統いてチャペルセンター横で突破口を切り開き、国会正門から雪崩をうって国会構内に突入。都教祖、都労連、国鉄、全逓、革同系の全金、全印総遠の労働者も、社会党・総評の制止を振り切って突入、二万数千名が院内デモと集会を強行しました。労働者の革命的怒りが爆発したのです。怒りこそ団結の力なんですねぇ。忘れられないのは、この日に初めて共産同の旗が学生・労働者の前に登場したことです。

 十一・二七国会突入闘争は、安保闘争を巡る政治関係をー変しました。岸内閣と自民党は、議会制民主主義の破壊と称し、マスコミを総動員して思想攻撃に転じ、闘争のヘゲモニーを奪われた社会党・総評は、この責任は全学連の極左行動にあるから、全学連を国民会議から排除すると言い、日共は、トロツキストの極左冒険主義による挑発と非難しました。しかし全学連は、安保闘争を闘ってきたプロレタリアート、特に社共の制止を振り切って国会に突入した労働者の仲間に熱い共感を得たのです。

 十二月二十三日、日共の東京都港地区委員会が「プロレタリア革命の勝利のために公然たる党内闘争を展開せよ」の声明を発しました。レーニンの「批判の自由と行動の統一」を掲げて日共のスターリン的一枚岩の党組織論を批判しつつ “党中央は安保闘争の主要な攻撃目標を米帝においているが、日本のように高度に発達した資本主義国では、主要打撃を国内の独占資本とその政治的代弁者たる岸政府に向けてのみ、安保改訂阻止闘争に勝利できる。我々は二・二七国会デモに関する中央委員会の総括に反対だ。全学連を始め労働者階級の革命的エネルギーを高く評価する〃と宣言しました。すでに九月に始まった港地区と党中央との激突は二 ・二七闘争を契機として決定的になっていました。港地区は国鉄品川、全電通本社支部を持つ公労協の拠点で、民間大経営もある重要地区なので注目されました。港区地区から、山崎衛、高橋良彦(=松本社二、故人)、田川和夫が共産同に加盟します。ブント崩壊後は、山崎がマル戦派を経て、高橋が統一委員会を経て第二次ブントに結集します。ここでニ人と私が出会うとは思いもよらぬことでした。

 国家権力は、十一・二七闘争の責任者として全学連書記長清水丈夫と東大法学部緑会委員長葉山岳夫に逮捕状を出した。清水は駒場に、葉山は本郷に立て篭った後に逮捕された。葉山岳夫は六九年四・二八安保沖縄闘争に発動された破防法と闘う私の破防法裁判の主任弁護人です。弁護人と被告の関係で四半世紀を越える年月を迷惑をかけながらお世話になっています。

 六〇年一月六日、安保改訂交渉は妥結したが、全学連は連日、「残された日を羽田動員のために死力をつくせ」と書記局名で訴えた。全学連は、一月十六日に渡米し調印する全権団を羽田で実力阻止する戦術を立て、前日の夕方から七百を越す部隊で空港を急襲、国際線ロビーを占拠し、ここで機動隊と激突、唐牛委員長以下七十六名が逮捕されます。こうして六〇年改訂安保は一月十九日に調印され、闘いは次の批准阻止へと展開していったのです。しかし一・一六闘争は、日共の長崎造船細胞が、西村卓司の指導下に社研を結成し、共産同と共に闘うという決定的な成果を生み出しました。

 共産同と全学連は、安保闘争が批準阻止に移った段階で、新たな局面を切り開くために四・二六実力闘争を組織します。

 四月二十六日、韓国の学生十万人が李承晩独裁打倒闘争に決起し、翌二十七日辞任に追い込みました。すでに二十六日に独自のゼネストを決めていた全学連は、全国の八十二大学で決起集合を戦取し、首都の部隊約一万余で国会議事堂正門への正面突破闘争を貫徹しました。所謂四・二六チャペルセンター前闘争です。機動隊は装甲車、輸送車で阻止線を築き、その後で迎撃体制をとっていました。部隊の先頭には全学連と共産同の旗が立ち、後尾には全逓や公労協の旗を持った幾つもの小集団がスクラムを組んでインターを歌っている。私達もそこにいたが、先頭の学生が装甲車に登り始めたので、私もおくれまじと輸送車を足場に登ると、身重になっていた連れあいも登ってきました。指導者が俺に続けというアジテーションを終えると同時に三メートル以上もある輸送車の上から機動隊の隊列に飛び込み、次の指導者が俺も突っ込むと叫ぶや、学生は一斉に飛び降りました。後日、その指導者が故陶山健一と藤原慶久であることを知りました。後者は破防法裁判の相被告人です。

 五月十九日、自民党が機動隊を院内に導入して衆議院本会議を開き、会期延長を決議し、二十日未明に改訂安保条約批准を強行採決したため、大衆の怒りは一挙的に爆発、全学連には数万の学生が結集し、安保闘争の最大動員となりました。国会が連日デモの波で埋まったと言われる状態が生まれ、国民会議も強行採決に抗議するポーズをとらざるを得なくなります。二十一日には都立大の竹内好教授が、三十日には束工大の鶴見俊輔教授が、抗議の辞職を声明しました。戦後民主主義の危機を叫ぶ広範な抗議行動がおこり、教授達が教室で「強行採決に抗議しよう」と訴えデモの先頭に立つ状況が生まれ、六月四日に全国で五百六十万人が行動しました。

 しかし、議会制民主主義を守れという運動は、安保改訂攻撃と真っ向から闘うという闘争の本筋を忘れ、手続き上の問題に大衆の怒りをそらす役割をも果たしました。運動のダイナミズム、生き物としての運動という言葉が、この時ほど痛感されたことはありません。革命的な指導者が全体を規定し得る一定の部隊をもって、方針を部隊の物理的な力で示さなければ、何十万、何百万という大衆運動の流れを正しい戦略的な方向へ誘導できないということです。

 全学連は六月三日、安保闘争の政治目的を鮮明にさせ、打倒目標を明確に指し示すために六千の部隊で首相官邸を襲撃し、二時間の攻防のすえ約五百人が官邸に突入しました。

 こうした中で六月十日にハガチー闘争が起こります。アイゼンハワー大統領訪日の準備に秘書のハガチーが羽田に到着したのを迎撃した闘争です。この闘争は日共内反主流(構造改革)派の方針で都自連(東京都学生自治会連合会議)が、党中央宮本主流の意向に背いて初めて行った実力闘争でした。(この闘争の判断は次回に行う) 安保闘争は遂に大詰めをむかえました。六月十五日は、国民会議の第十八次統一行動日、総評の第二次ゼネストの日でした。共産同と全学連はこの日に国会に突入し集会を戦取する戦術を立て、国会南通用門周辺で二時間に亘る機動隊との激突攻防のすえ、午後五時頃、阻止線を突破して構内になだれ込んだ。「国会構内抗議集会は我々の権利だ」と叫び集会を戦取した。

 これに対し、機動隊は攻撃態勢を立て直し、夕刻の七時、一斉に襲い掛かり、素手の学生に警棒の雨を降らせた。頭を割られたり、血を流す学生の数は一千名を越え、この激突で樺美智子(二十二歳)の若き生命が奪われた。この悲報に接した学生や労働者が馳せ参じ、三度に亘り再突入、再々突入の攻防が繰り返され、百七十四名が逮捕された。あたりは重傷者を病院に運ぶ救急車のサイレンが鳴りひびき、騒然たる状態が続いた。東大医学部委員長の黒岩卓夫も重傷で飯田橋の病院に運ばれた。後日、私は小仏山荘での初めてのブント再建会議で黒岩・北大路のカップルと出逢います。

 この闘いでアイゼンハワーの訪日は中止されたが、安保闘争は事実上この日で終わった。安保自動承認(成立)の六月十八日に四万の学生、労働者、市民が国会周辺で抗議の意志を示したが、共産同と全学連には、国会再突入を敢行する内的意志統一ができず、正門前に林立する全学連傘下のスクールカラーの旗の波が心なしかむなしさを感じさせました。私は正門の鉄の扉に手をかけ、くやしさでゆすぶって見たが意外にも軽くカタンカタンという小さな音が歌声の中でひびいただけでした。

 共産主義者同盟(第一次ブント)は、誕生と同時に安保闘争を牽引するという重責を担いました。しかし、革命党として己れを組織する意識と余裕をもてないまま突っ走り、安保闘争の終焉と共に運動の党としての自己を見失い、自己解体せざるを得なかったものと思います。第一次ブントが残した遺産の評価と継承、その分解過程にみる総括、第二次ブントの再建過程については次回で述べたいと思います。(第2回終わり)


革命に生きる Ⅲ 情況1998年3月号

 ―前回は六〇年安保闘争の展開過程と闘いへの関わりまででしたが、今回はブント結成のころのお話をお願いします。

 古い中国の諺に“井戸の水を飲む人は、その井戸を初めに掘った人の苦労を考えて飲まねばならぬ”という教えがあります。後から来たものが先行者のあら探しをするのは簡単なことです。しかし、そのような態度では、共産主義者とりわけ革命の実践家としての総括はできないと私は思います。

 共産主義者同盟を、日共から分離した、新たな前衛党として建設しようとしたこと、そのこと自体に決定的な意義があると言いたい。なぜ決定的なのか、とよく聞かれますが、私はトロツキィさえできなかったんだよと答えます。トロツキィはあれほどの粛清をスターリンから受けながら、また、ボルシエヴィキの幹部やカードルまでが雪崩をうってスターリン専制の前に拝跪していった現実を直視しながらも、国外追放になるまでトロツキスト分派を「ボルシェヴィキの誤謬を正す左翼反対派」としてしか位置づけられず、別党コースを決断できなかったではないかと。

 共産主義者同盟の結成を担った島成郎に内在的な苦悩と葛藤を私は直接尋ねてみました。島は快く応えてくれ、『ブント私史』と題する論文まで贈ってくれたので引用します。

 「五三年三月『偉大な同志スターリンの死に際し誓う』という一文を日記に記していた私にとってもスターリン批判は避けて通ることはできない道であった。」日共の誤りを「歴史的戦前にまでさかのぼって追求する作業から、源のコミンテルン・ソ連共産党そのものの見直しを進めていた。」「亡命先での暗殺の直前まで書き続けられていたトロッキーのスターリン告発の厖大な革命論は私にとって大きな衝撃を与えた。一枚一枚眼の鱗が落ちる思いであった。」「私が分派禁止の党内タブーをおかしてフラクション(分派)結成に向うことに踏みきってから翌年暮のブント創立にまで至る道筋は....一つ一つの過程が予測と思惑を逢かに超えながら進み、そのどの段階でも困惑し、たじろぎ、迷い抜いた揚げ句の賭けの連続であった。

 戦後の民主教育の氾濫のなかで育った「彼らの『入党』には私が体験したような入信意識はなく、党の絶対性や国際的権威への拝跪はすでに見られなかった。彼らにあっては共産党は歴史的に存在する一つの政党でしかなかった。」

 「当初の私の目標は第七回大会での決着にあった。そのための党内反対派。すなわち一方ではあくまで現存する党に固執するすでに体臭にまでなっている感覚から自由ではなかった。と同時に新しい現実からエネルギーを汲みあげることの出来ない組織は未来がないとの思いももはや抑えることが出来ないほど強いものになっていた。」「フラクを公然と宣言するにはこの謎から脱出するインパクトが必要であった。」日共に代る「新しい党をつくるという考えには私白身はなかなか至らなかった。この点では六全協以後入党してきた学生党員と私たちの感覚の差は歴然としている」と島は素直に胸の裡を語っています。

 島の迷いを吹き飛ばしたインパクトは、日共七回大会直前の所謂「六・一事件」、すなわち「前代未聞の共産党本部での学生党員の叛乱、蜂起であった。」

 共産主義者同盟の歴史的意義は、第三次綱領草案にとどまったとはいえ、一国革命には世界革命、一国社会主義には世界社会主義、民族主義には国際主義、平和革命には暴力革命、議会主義にはプロレタリア独裁を対置し、マルクス・レーニン主義の原則を復権したことにあり、実践的にも日本革命運動史上、初めてプロレタリア社会主義革命(一段階革命)戦略を公然と掲げ、安保闘争を日帝打倒闘争として領導した点にあると私は考えています。この一点の輝きを決して過小評価すべきではないと。

 ―第二次ブントでは方針や戦術を巡って指導部内の論争が絶えなかったと聞きますが、第一次ブントではどうだったのでしょうか。

 革命党派である限り、ボルシェヴィキでさえ、情勢が煮詰まり、闘いが緊迫すれば、組織内の矛盾が外化し意見の対立が顕在化します。第一次ブントの場合、六〇年の四月段階から矛盾が外化し対立が顕在化しています。あのチャペルセンター前の四・二六闘争の準備段階からです。前号の記述は簡略化したために正確さを欠く表現もあるので、その点にも考慮して島の文章を引用しましょう。

 ブントは国会再包囲デモ・国会構内集会の方針を出した。「ところが闘いが間際に近づくにつれて思わぬ陥し穴が内部にあらわれた。学連指導部や中心になっていた東大・東大Cのブントがこの『国会突入』戦術に二の足を踏んだのだ。...しかしこの四月の行動が五月六月と続く大衆闘争爆発の帰趨をきめるだろうと判断した私は困難な情況は知りつつも敢えて強行方針を貫くことを決めた。……さらばいかにこれを乗りこえるか。……ブント内の意見が一致していない以上、現場で直接大衆に訴える以外にない、街頭アジ演説の名手を揃えようということになり、唐牛、篠原浩一郎(九大・社学同委員長)、陶山、常木、藤原慶久(中央大)らの順番まできめ……失敗したら運動はおろかブントも壊れかねないだろうとの不安は激しく私の中でおこった。」「祈るような気持で夜明けの別れを告げ、四月二十六日を迎えた。その日の午後、国会正門前に集った万余の学生」。唐牛らに続いて「つぎからつぎへとバリケードによじのぼる何千名の学生・労働者の姿を見て感動の余り私は涙がでてくるのを禁じ得なかった」と島は思い出を噛みしめている。その現場はこうでした 当日現場に結集した万余の学生大衆に向かって装甲車の上から、志水達雄が司会をし、唐牛、篠原、陶山のアジテーションの迫力で、数千の学生大衆が前後六列の装甲車のバリケードを続々と乗り越え、唐牛を先頭に、国会の正門に向かって一斉に突撃しました。四・二六闘争は五―六月闘争の高揚を切り開く決定的な位置を占める闘いとなりました。この四・二六闘争で唐牛健太郎(全学連委員長)陶山健一 (共産主義者同盟政治局員)篠原浩一郎(杜学同委員長)志水達雄(全学連国際部長)糠谷秀剛(都学連委員長)藤原慶久(杜学同書記長)が逮捕・起訴されます。この後、安保条約の衆院可決に抗議して闘われた五・一九首相官邸突入闘争で清水丈夫(全学連書記長)が逮捕され、全学連の指導的幹部を失ったブントは北小路敏(京大)を上京させました。

 ―第一次ブントは、あれ程の闘いを領導しながら、なぜ分裂、というより分解自滅したのでしょう。

 “安保ブント”の呼び名が体を表わしていた。「安保を潰すか、ブントが潰れるか」と叫んで突撃したブントは大衆運動の党だった。

 日本階級闘争史に例を見ないほど沢山の学生・労働者・学者・市民が街頭に出て国会を包囲し抗議の行動をとった六〇年安保闘争の巨大なうねりの真只中で、弟一次ブントが全学連の部隊力をもって切り開いた一つ一つの戦術は実に的確ですぐれていたと思う。特に大衆の巨大なエネルギーを反米民族運動へと捻じ曲げてお焼香デモヘ流す日共と対決、日帝打倒・安保粉砕の戦略を国会突入と首相官邸突入の戦術に凝縮して、物理的な権力との激突をもって闘争の局面を切り開いた戦術の駆使は学ぶべきでしょう。

 ズバリ、五九年の十一・二七全学連国会突入がなければ二万数千の組織労働者の国会内集会はなく、六〇年一・一六羽田闘争と四・二六で装甲車を乗り越える闘いがなければ五月-六月の高揚も六・一五の国会再突入もなかったでしょう。蛇足ながら、日共構改派のハガチー事件にも素早く対決しなければ大衆が反米に流される危険をはらんでいたし、五・一九の首相官邸突入で日帝の安保攻撃に実力対決する構図を鮮明にしなければ、学者先生や文化人の強行採決に民主主義的な国会手続きを対置して安保との対決を忘れる方向へ大衆運動は流されていたのです。

 このように第一次ブントの運動の党としての軌跡を評価した上で、その運動の党としての組織性格が、安保闘争の終息によって逆に組織としての自己を見失わせ、深い挫折感の中で分解自滅という形態をとって消えてゆかざるを得なかったのだと私は思っている。第一次ブントの崩壊は、権力の組織壊滅を狙う弾圧の結果ではない。六・一九国会再突入をやるべきだったと言う革通派も本気で出来ると思った訳ではなくプロ通派への突き上げでした。事の成り行きは、六〇年七月末のブント五回大会で総括が出せず、対立三派、東大細胞の服部信司や早大の蔵田計成らの革通派、全学連書記局の清水や姫岡らのプロ通派、労対部の田川和夫らの戦旗派への分裂形態をとったが、どの派もブントとして存続できなかったということです。六一年初頭には戦旗派とプロ通派の多くが革共同に流れ吸収されました。どの派も勇敢な革命家を揃えながら、いかに少数であろうとブントの綱領を掲げて生き抜くだけの政治的信念と理論的確信と組織的執念がなかったのです。だから私は、運動の党、大衆運動の波頭の先端に立って戦術的に運動のダイナミズムをつくり出し、情勢を闘いで切り開き、その大衆運動の中(だけ)で党組織を鍛え上げるという党そのものの組織性格が、安保闘争の敗北で大衆の波が消え去った時、深い挫折感となって第一次ブントの同盟員の心を空洞化させ明晰であった幹部の思考力を一挙に停止せしめたのだと言うのです。

 この考えは、決して後から来た者の思い上った「後知恵」で客観主義的に言っているのではなく、第二次ブントの分裂を防ぎ得なかった議長としての責任と痛苦な総括の上に立って“我が事”として発言しているのです。

 ―第一次ブントの分裂で消耗しましたか。

 ガクッとはきました。しかしマルクスの共産主義者同盟も第一インターも挫折してるし、ロシア社会民主党も結成大会と同時にボルシェビキとメンシェビキに分裂している。それにブントの幹部は若すぎた。「ブントの死は私の政治的死であった。二十九才の時である」と結ぶ島書記長の言葉には素直な感性的リアリティを感じる。無いものねだりはしまいと思い直した。こうして私は、第三次綱領草案と一段階革命戦略を引き継ぐことを決意しつつも、日本資本主義は自動的回復力を喪失して国家の経済政策に依存する国家独占資本主義に転換したが故に、国家の政策を大衆闘争で阻止すれば独占の経済基盤は揺らぎ労働者も決起するという政策阻止革命論を導くような国独資論と対決する現代帝国主義論の構築に没頭し、同時にトロツキィ、トニー・クリフ、対馬忠行を超えるソ連論を書き、学生、青年労働者の集る所へ出かけオルグを始めました。

 ―第二次ブントの再建に直接参加するきっかけはなんですか。

 干葉正健という青年革命家に偶然出会ったのがきっかけです。それは六一年五月一日、総評労組の行列が立ち去った後のメーデー会場でした。外苑の絵画館前に黒旗をかついだ日本アナキスト連盟や赤旗をもった学生の小集団が到着しては、それぞれが集会を開き、次々に笛の音を響かせながらジグザグデモで立ち去っていった。六〇年安保闘争の波が消え去ってブントが分裂した直後の情況をリアルに反映してました。そこには共産主義者同盟の旗は無かったが、「社会主義青年運動」の旗と「スターリン主義打倒・毛沢東支持」のプラカードを掲げた若い男女の集団があった。スターリン主義打倒を原則的に貫きながら、闘いの中で毛沢東主義を革命的に止揚すると言うリーダーの論理的で流暢な演説を聞いて「よし! オルグしよう」と思った。この若きりーダーが、私を第二次ブントの再建に引き込んだ千葉正健でした。

 彼等は都立駒場高校の出身者が多く、家庭の都合や自分の意志で大学進学を断念し、昼間は働きながら夜は浅田光輝先生の労働学院でマルクス経済学やロシア革命史を学んでいたので、出来の悪い大学生よりは、みな利発で理解力もよかった。私は、千葉正健の「革共同に与みするのではなく、ブントを全国党として再建すべきだ」という主張に共鳴し、社会主義青年運動(略称・SM)の一員として第二次ブントの再建に参加し、その再分裂まで組織と闘争の指導責任を担うことになるのです。

 千葉はその後、私とは歩む道こそ異にしたが、国家権力に立ち向かう思想は固く、一九七二年二月十五日、新宿において鋲うち銃で警官を襲いピストルを奪取する闘いに単独決起し、八年九ヶ月の実刑にも非転向で貫き通した革命烈士です。九七年四月二十七日の私を励ます会で久々に再開した千葉は「私が彼をブントに引き込まなければ、彼もこんな大変な人生を歩まなくてすんだでしょう」と満面に笑みをたたえて演説していました。

 ―ブント再建過程の党派関係について

 六〇年安保闘争が全学連によって担われたという現実を反映して、第二次ブントの再建過程も革共同中核派の成立過程も、大きくは学生運動の再編過程と直接的に連動しながら進行しました。

 東京社学同内から最初に登場したグループは「社学同全国事務局」でした。メンバーは東大駒場、早稲田、中央大学の社学同の一部活動家です。彼等は安保敗北の総括を巡って、ブント戦旗派が「前衛党の不在」に根因を求めて、現状では「前衛党建設の理論的、思想的、組織活動を強化すべきだ」と主張したのに対して、最も早く反革共同的アンチ・テーゼを突き付け、六一年十二月に機関誌『希望』を『SECT NO,6』に代えて創刊しました。

 彼等は、安保闘争を「大衆の反権力の自律的、無定形の急進的エネルギーの抑圧の契機としての『前衛』意識と、『前衛組織』との崩壊の過程を形成したことをもって歴史を画する闘争となった」と総括して、「前衛諸組織から訣別した意識的大衆の自立組織・工作者集団=社学同を再建せよ」と主張した。彼等の前衛的思想性と革命的党組織に対する嫌悪態と憎悪は、革共同だけに向けられたのではなく、共産主義者同盟それ自体にも向けられたのです。「僕たちは、旧社学同・共産主義者同盟の一切の残り滓に訣別する。……革命の旧意識よ! 前衛主義よ! レーニン主義者たちよさらば」と。彼等はまもなく消えていったが、あの前衛意識と党派性に対する根深い嫌悪感と大衆の自律的運動に主体的革命性の夢を託す思想は、党組織とプロ独を拒否するサンジカリズムにも近く、一部は谷川雁の大正行動隊(九州田川の大正炭坑)へ流れ、六〇年代後半の全共闘時代には中大社学同の昧岡修の古本隆明への傾倒や東大全共闘の最首悟の自己否定と直接民主主義と自主管理の思想などの姿をとって再現された(と私は見ている)。

 六二年の「SECT NO,6」との対決を通して再建された弟三次社学同(佐竹茂、望月彰、古賀暹ら後にML、マル戦、独立派の三派を形成することになる東京のブント系活動家の大半が含まれていた)は、政治路線の確立が不可欠な任務となります。彼等は、革共同の黒田理論との違いを鮮明にして、あくまでも大衆闘争の戦闘的展開を媒介にした党建設のための理論を再構築しようとしていました。そのメルクマールとなったのが、六三年四月の政治理論機関紙『理論戦線』の復刊です。すでに杜学同マルクス主義戦線派を結成していた旧革通派の服部信司(水沢史郎)は、この復刊第一号に論文「日本資本主義の現状分析」を掲載し、同じく社学同マルクス・レーニン主義派を結成していた佐竹茂(渚雪彦)も本号に論文を寄稿し、マル戦派とML派の党派論争が開始されることになるのです。

 服部は、安保闘争の挫折後、一旦、東大をやめて会杜動めをしますが、革命運動への政治的情念を断ち難く、一念発起して東大に再入学し、マルクス主義戦線委員会をつくって党派結成に備えます。服部の盟友である東大理学部の矢沢国光(杉村宗二)が、宇野学派の鬼子と呼ばれる岩田弘の論文に接して、この岩田『世界資本主義論』で旧プロ通派の姫岡玲治の『日本国家独占資本主義の成立』を粉砕して戦略を導き出せると確信し、マル戦派の結成へ踏み出したのです。ここから、服部、矢沢国光、成島(道官)の東大グループによる岩田理論の全面導入と全面依存が始まったのです。

 一方、宇野学派の鈴木鴻一郎の門下生を自称する佐竹は、安保闘争の終焉過程で消耗して里帰りしていたが、第一次ブント崩壊後に活動を再開した。ひとたび活動を始めるや、持ち前の頭の回転の良さと迫力ある弁説で、あっという間にML派を結成、六三年に『マルクス・レーニン主義』を創刊、マル戦派の理論を批判した。佐竹の路線は六四年二月に発表した論文「帝国主義列強の抗争の現局面-日韓闘争と革命闘争の勝利のために」に凝縮されています。

 このマル戦派とML派の対抗とは別個に、古賀暹、味岡修を指導者とする社学同独立派が形成されます。独立派は廣松渉を中心とする現代イデオロギー研究会と連絡をとっていました。廣松が「社会主義研究会」の名前で発刊した『現代資本主義の一視角』が彼等の現状分析で、ML、マル戦らの危機論的傾向にアンチテーゼを提出したものでした。

 以上が東京社学同三派ですが、これに無傷で残った関西ブント(正式には関西共産主義者同盟)が、ブント再建に大きくかかわってきます。六〇年安保後の関西ブントの理論的結集軸は、やはり「政治過程論」でしょう。これには二つあるが、いずれも六一年七月の日付になっており、如何に関西ブントが安保闘争挫折後の早い時期から安保の総括作業を始めたのかを物語っています。人材を見ても関西ブントは北小路敏ほか二名を失った程度で、イデオローグと多くのカードルを温存できたので、関西の新左翼で主流となり、東京の再建に乗り出すことが可能だったのです。

 ―マル戦派、ML派、独立派、関西派の対抗関係は、どのような展開をとげながらブント統一へと向うのですか。

 千葉正健の率いる青年労働者の組織は、学生運動を中心とするブント再建の展開からは無視された小さな存在だった。にも拘らず、千葉はブント再建に参加する政治的な手掛かりをつかもうと奮闘し、電通労研(五九年二 ・二七国会突入を支持して日共と訣別した港地区委員会のブント同盟員で、ブント分裂後、田川和夫ら戦旗派が革共同に移籍した時もブントに残った労働者)の高橋(松本社二)や櫻井と共に、ML派への参加を選択した。千葉グループの論客であった私も、佐竹、高橋、千葉の三者代表会議に参加した。既に、関西から新開(ハ木沢)が統一へのコンタクトをとりに度々上京してきたが、東京段階での結合を完了した後に関西との具体的な統一への準備作業を進めることを決めました。

 こうして私は、小仏山荘でのMLブント集会に参加し、第二次ブント再建への一歩を踏み出すのです。狭い部屋の正面に佐竹が座り、はったりの効いた語り口で全国党再建への展望を吹きまくった。背後の押し入れの上段には今井澄が陣どり、鼻音のバイブレーションの実によく効いた響く声で浪々と演説した。東大闘争の突破口となる医学遠の第一次安田講堂突入占拠闘争(初めて機動隊が東大構内に導入される)を執行委員として指導した今井澄の若き日の姿であった。今井はその後、社会党副委員長となり、現在は民主党議員になったという。狭い会場の熱気の中に口数少なく清閑な瞳の澄んだ細面の学生が私の目をひいた。“あれが豊浦です。いつもデモの隊列の先頭に立つ。東大の地球物理だそうです〃と千葉が耳打ちしてくれた。このいかにも世渡りの下手そうな青年、現在は今井議員の秘書だという。永い歳月の中で多くの学生活動家が辿った「生々流転」のひとこまである。昼休みに小山の急斜面を笑いこけて登る若き女性と下から笑顔で見守る青年がいた。新潟雪国で不登校児に自宅を開放して大地塾を主宰する北大路秩子と黒岩の若き日である。二人は六〇年一・一六羽田闘争で出会い結婚したと聞く。

 小仏は私にとって印象の強い会合でした。しかし、このML派も原潜・日韓闘争の路線論争を巡って分裂する残念な結末を迎えます。

 簡単に言えば、所謂「渚帝国主義論」は不均等発展を絶対視して、日米両帝国主義の矛盾と対立から現状を規定する構造になっていた。この思考パターンから導かれる結論は、韓国を巡る日米の市場分割戦の勝負が日帝の命運を左右するということになる。だから日韓闘争で日韓会談を粉砕すれば日帝は命脈を断たれる。従って日韓闘争は我々と総資本のいずれにとっても階級決戦になる。かくも鋭い対立を顕在化した日帝が米帝の原潜寄港を容認するわけがない。革命的左翼たるもの、全力を日韓階級決戦に集中すべきである。-これが佐竹の方針だったのです。当然、すんなり受け入れられるわけはなく、破産は必至でした。事態を複雑にしたのが、独立派との合同問題で、結果は、佐竹、豊浦、今井など東大グループのほかに中大などのカードルも離れた。彼らは当初MLを名乗ったが、やがて毛沢東主義に傾斜し、六八年に日本ML同盟を結成した。そこに、あの能弁な佐竹の姿はなかった。

 六五年三月ML多数派と独立派が統一して社学同統一派を結成、五月三日に労働者も参加して共産同統一推進フラクを形成した。ここで私は初めて廣松渉(門松暁鐘)と会い、極めて政治好きな一面を知りました。

 ―これで東京段階では、マル戦派を除き、ブント統一再編への準備が整ったのですね。

 確かに、バラバラになった各派のりーダー間の「ボス交」ではそう言えますが、統一再編を可能にしたのは、困難な活動現場でコツコツと部隊をつくってきたカードルの頑張りの結果なんです。第一次ブントが分裂解体して、経験を積んだ全学連の幹部や学園現場で学生大衆をオルグし動員してきたカードルのほとんどが革共同に流れるという悲惨な結末を突きつけられながらも、革共同にはいかず、革共同と競り合いながら孤軍奮闘してきた現場活動家の根性と意地がなければ、ここまではこれなかったでしょう。

 ―具体的には状況はどうでしたか。

 中央大学では、佐竹に近い野田が、そして川口宜久、横田幸雄(弁護士・故人)、久保井(破防法被告)、高橋茂夫らのML派活動家が頑張ったので、拠点を守ることができたのです。おくれて、吉本隆明に傾倒した昧岡らのイデオロギッシュな活動家が加わり、例の「渚帝国主義論」と日韓階級決戦論を巡る分裂で佐竹を支持した野田らを失うが、六〇年代後半におけるブントの最大拠点となっていくのです。横田は弁護士となり、同輩久保井祐三の四・二八破防法裁判の弁護を担当した。その縁で私もお世話になり続けたことを記し、故人に献げたい。

 専修大学でも、ML派の活動家が拠点への突破口を切り開いた。今はなき東学館(東京学生会館)という木造の半ば崩れかけた建物に、中井、渡辺(保谷市会議員)らの活動家が巣喰っていた。そこに、佐竹、豊浦らが出入りして、まず渡辺をオルグし、日大の活動家も参加して会議がおこなわれていた。私も、床板がギシギシと軋む薄暗い部屋へ、千葉に何回かつれていかれた。佐竹と豊浦が去った後も、中井が専大ML社学同のパイオニアとなって、前沢昇、石川達磨、杉浦英夫が社研サークルを結成し、組織の核を形成した。これに雄弁会の荘らが加わり、さらに田中正弘、岩崎司郎の登場により専大社学同の拡大の展望が開け、雪山ゼミを母体に加盟者が増え、後に専大一部自治会執行部を握るのです。専大二部は夜間高校四年を修了して進学した佐藤秋雄が二部社学同形成の原動力となり、二部自治会を押え夜学連委員長となって活動基盤を広げます。当時の二部学生は昼間慟いて夜間に学ぶ労働者が多かった。というわけで南部工業地帯の工場労働者を組織して束京ブント労対の基礎を構築した私と佐藤は結合した。佐藤との出会いが私に学生組織と運動への関わりへ道を開きました。後に佐藤は反戦青年委員会と党のカードルになります。

 明大では事情が違う。独立派がオルグに着手した時、六三年二月の革共同の第三次分裂で中核派が生まれ、かつて第一次ブントの拠点であった明大にも中核派はオルグを派遣し明大の運動に介入しようとしていた。古賀(束大)は、マル学同中核派から派遣されたカードルに対しては明治の学生であるかのように通学して、斎藤克彦とともに社学同独立派へのオルグに成功した。これが明大社学同の出発点です。この後、若山、鬼塚らが加わり、中沢が中執委員長のポストをとり、小森らが中執で支え、池原、小栗、両川敏雄、米田隆介と続きます。明治には有能な活動家が多いが、咄嵯に思い出すのは以上で、重信房子(日本赤軍)、遠山美枝子(連赤・故人)、川口紀子の登場はまだ後です。

 早大は、雄弁会の村田(蝮)、菅野、花園、荒、佐脇、大下、本多ら後に社学同の中軸となる人材が登場します。彼らは関西派が六〇年安保を総括した『政治過程論』に共感し、塩見のオルグを受け、後に荒が赤軍派を結成した塩見に訣別宣言を出すまで、塩見孝也、八木健彦の影響下に育ちます。

 医学運内部では、社学同「系」の活動家が、医科歯科の岡野、山下これとは別に浦部、村田(恒有)、東大の斎藤(芳雄)など、東京杜学同とは相対的別個に早くから登場したが、ブントに合流するのは遅れます。

 ―関西との統一は六五年六月ですね。関西ブントとはどんな集団でしたか。なぜ統一の道を選択したのですか。

 関西のブント・社学同は、ブント崩壊で革共同に移った主要な活動家は北小路ぐらいで、ほとんど無傷の状態で人材が温存されました。関西ブント・杜学同は、関西で独自の単一分派を保ち、関西学生運動を守り、動員力でも六〇年安保闘争の水準を維持し続けている。更に関西ブントは社学同を巣立った活動家を労働戦線に投入、日共と訣別した大阪中電細胞を拠点として労働運動を形成していました。人材も分厚かった。

 佐藤浩一 (花井正・飛鳥浩次郎)、佐野茂樹、浅田、中島(田原・故人)、柳田、浦野、渥美、清田、新開(ハ木沢)、竹内(榎原)、藤本(旭)、ハ木、田中(正治)、塩見、高幣、田宮高磨(故人)、森恒夫(連赤・故人)、前田(裕吾)、藤本(敏)、望月上史(故人)、・……そして坂井輿直(高見沢)は九七年十月十一日に帰らぬ人となってしまった。思い出すままに書いてもこれだけの多オな人材がいたのです。

 彼等は、六〇年安保闘争で主役を努めることはなかった

 東京では、ブントの中央を島成郎と生田浩二と青本昌彦が握っていた。実働部隊の指揮は、唐牛、清水、陶山らの学連書記局グループがとっていた。ほとんど東大卒のメンバーで京大、市大、同志杜はいなかった。だが、第一次ブントが崩壊し、政治局を担った者が去り、部隊を動かした現場の活動家のほとんどが革共同に流れた今、第二次ブントを再建して革共同の組織力に対抗するには関西ブントを抜きにしては考えられなかった。

 こうして関西は東京で生き残った部分と統一し、さらに人材を東京におくり出して統一のヘゲモニーを握り、第二次ブントの再建に乗り出す方針を決めたのです。

 ―理論的にはどうだったのですか。結集軸は「政治過程論」だそうですが。

 関西ブントの理論的な対応は早かった。六〇年七月末のブント五回大会で総括が出せないまま、東京で三派への分解が始まっていた頃には、関西ブントで六〇年安保闘争の総括作業が進んでいたのです。六一年七月には山本勝也の執筆と言われる「政治過程論〈安保闘争の政治理論としての総括〉」が提起されている。山本勝也は私達との統一段階ではすでに運動から離れていたようですが、「政治過程論」の論文それ自体としての生命力は関西ブントの中で生き続け、連赤に至るまで持続されたと言われているので、論文のポイントだけ紹介しておきます。

 この論文の最も大きな特徴は、経済決定論を止揚して、政治過程の独自の運動法則をとらえようとした点にあります。この視点は第一次ブントに欠落していたものであったので斬新なインパクトを与えたのです。

 これまでの理論は、「政治は経済の集中的表現である」という原理的命題をドグマ化して、経済不況→労働者の生活状態の悪化→労働者階級の高揚という経済決定論で律してきたが、これでは高度経済成長期に高揚した安保闘争をとらえることができなかったと批判し、それは日本のマルクス主義が、政治理論として確立していないので、政治過程の独自の運動法則をとらえられない結果だと、上部構造の政治運動を洞察する方法論的な欠如を暴いてみせる。そして、そこから第一次ブントの「情勢分析における客観主義、方針における主観主義」の乖離が発生し、革通派的な「万年決戦論」が生まれると指摘する。では、政治理論とは何かと問い、政治理論とは現存する階級闘争の総括、眼前で実践かつ展開されている歴史的運動の総括だと言い、この視点で、現代日本の最大の政治闘争であった安保闘争を総括するのです。

 この方法的視点から政治闘争の「広さ」と「深さ」を洞察する。「安保闘争は『革命情勢』と錯覚する者が現れるほどの大闘争であった。けれども、一体どの程度に「大闘争」だったのか、また何を基準にそういいうるのか」と問う。安保闘争は国家の本質=「支配階級の意志」に対決して、国家権力=「最も高度に組織された暴力」に一歩一歩と肉薄していった。議会の幻想性が暴露され、同時に既成左翼の幻想も暴露された。安保闘争は、権力との衝突を部分的に含みながら、萌芽的高揚を生みながらも、権力との全面的、直接的対決としての、レーニンの言う「革命的高揚」を生み出すことなく敗北した。これを如何なる基準でどう見るのか。

 政治闘争の「広さ」は、その闘争がどれだけの諸階級を巻き込んで展開されたかという基準で規定され、政治闘争の「深さ」は、被支配階級の意志が国家幻想をどこまで暴露し暴き出したかによって決まる。具体的に言うと、「深さ」は闘争主体がプチブル政治意識からプロレタリア政治意識へとどこまで転化(自己変革)されたのかという点と、革命の打倒対象である支配階級と国家の政治的支配能力がどれだけ動揺したのか、言いかえると、国家の政治的集約性の喪失がどこまで深まったのか、という基準に基づいて決まるということになる。

 安保闘争の洞察と政治闘争過程を法則的に解明する基準の確定にょって「政治過程論」は大戦術(戦略)と小戦術(運動戦術)の重要性を説く。即ち、政治闘争の広さと深さに応じた戦術から権力奪取に直接迫る革命的戦術までを、政治闘争過程に則して位置づける重要性を説いて「政治過程論」は完結する。

 今日的に見て、欠陥をあげつらうことはできようし、「政治過程論」には組織論がないという指摘が最も多い批判だが、六一年という第一次ブントの崩壊期に、即ち「安保をつぶすか、ブントがつぶれるか」と自分で呼んだ呪文に呪縛されたかのように突進して、安保闘争の敗北と同時にブントが運動の党としての自分を見失ったときに、その運動それ自体の法則をこれだけ冷静な総括の視座を確定できたという一点だけでも評価に値すると私は言いたい。

 ―関西ブントの党組織論を聞きたいのですが、第二次ブントの総括で詳細に論じてもらうので、ここでは骨子概要にとどめ、共産同統一委員会段階で第三期論がどう関わったのかという点を簡単に触れてください。

 私の知る限りでは、浦野論文「革命的政治闘争とは何か」が党組織論の欠落を補完しようとしたようです。詳しくは後に述べますが、「党とは過程の意識であり、不断に党たることを証明するものである」という点に、党組織論の立脚点があると思う。だから「党は大衆の革命過程の総体と有機的に結びついた意識的活動」であり「新しい価値体系を作り出すよう目指す」意識的な組織である。それゆえに、政治過程論によって獲得される「理論は組織論を媒介としてのみ実践に転化される。」という結論が導かれる。浦野の組織論つまり“過程の意識”という思想には、六〇年安保が「極めて短時日に前衛(日共)の正体を暴き、大衆の自然発生的成長は既成左翼(社共)を乗り越えたが、パリ・コンミユーンの如く国家を乗り越えようとはしなかった。そして、闘争が終わると家庭と職場に帰った」。という生々しい現実が焼き付いていたのです。これは、常に大衆運動のダイナミズムの中で物事を考え運動体として組織をとらえる思考方法が生み出した一つの結論なのです。

 もう一つ関西ブントの組織論の考え方に大きな影を落とした論文があります。東京の論客佐久間元との論争で提起された芳村三郎論文「労働者階級の自己権力と党について」です。詳しくは後に述べますが、その要点は、アプリオリな「前衛党」概念を保持したまま、レーこーンの革命精神と理論を裏切った党指導上の誤りの結果としてのみスターリンの党官僚組織がとらえられるため、裏切ったスターリンの虚構の「前衛党」に対して、レーニンの真の「前衛党」を対置し、「前衛党」を創造すれば、問題は一挙に解決するといったシェーマの枠内で党組織を論じても真の解決にはならない、という点にあります。「かくて、現代革命の組織論は、本質的には労働者階級の自己権力として解明されなければならない。党組織論は、その一構成部分として、労働者階級の自己権力を形成する一契機として把え返されることにょって、そのつつましい意義を明らかにされる」と主張する。即ち、コンミューンの四原則も、マルクスが発明したのでも党が決めたものでもなく、労働者大衆の自発的創意によって創造されたもので、ロシア革命のソヴィエトも労働者・農民・兵士が自己権力の萌芽として創造したと述べ、スターリンの革命の簒奪は、労働者・農民・兵士の自己権力の打倒によって貫徹されている。この点を深めなければ、現代の党組織論は構築できないと論文は主張するのです。

 私が接触した関西ブントの活動家の思想は、芳村論文の内容に近いという印象が強かった。

 共産同統一委員に関西の佐藤、浦野、渥美の三人が在京参加し、六六年五月の第二回大会で次の指導部を決めた。議長は高橋良彦(松本社二)、政治局には佐藤浩一 (飛鳥浩次郎)、浦野、渥美、石井、黒岩、古賀、そして私です。国内階級情勢を渥美が報告した。それは「第三期論」そのものでした。三期論は、戦後階級闘争の政治過程を、第一期=生産管理闘争を中心とした昂揚、第二期=市民的政治闘争の時代-六〇年安保まで、第三期=反帝闘争という区分でのとらえかたを言います。渥美はさらに各期を前期と後期に二分し、二期の後期を六〇年―六四年とし、しのびよる支配と反体制運動の空洞化ととらえ、三期を六四年以降、日韓条約を転換点とする日帝の帝国主義的膨張の開始としてとらえます。

 この大会が開催された六六年五月は、日韓闘争の敗北で新左翼総体が痛打をこうむっていた。一時は四千の動員に達したが、一大学もストは打てなかった。乱立セクトの分裂抗争に学生大衆の心は離れたのです。こうしてマル戦との統一、第二次ブントの再建が急がれました。

 ―マル戦派との統一交渉はどうでしたか。その頃の雰囲気は。

 マル戦派の組織性格については前で述べたように、旧革通派の服部を軸にイデオローグの矢沢(東大理学部)と部隊を掌握する望月彰(学芸大)の三人がトップを握り、これに成島道官、成島忠夫、山崎順一、石田の東大グループが学対を形成し、三崎、松井の早大グループと静大系が学生組織を動かしていました。労働戦線は望月と吉川駿を順に山崎寿一、西影勲が反戦青年委員会に関わり、六〇年安保闘争挫折以降の東京ではブント系で最も充実した人材を集め、理論的にも岩田理論で武装した一枚岩の小党派でした。

 マル戦派が理論的に一枚岩であった理由は二つ有ります。第一は岩田理論への信奉です。岩田弘が『経済評論』(六三年六月)に投稿した「現代資本主義と国家独占資本主義論」に矢沢が着眼し、服部と岩田理論体系を検討した結果、これで旧プロ通派・姫岡玲治の『日本国家独占資本主義の成立』(発刊は六〇年九月)を乗り越えられると確信し、岩田が「世界資本主義論」から導き出す“経済危機から日本革命へ”のシェーマを信奉してマル戦派の政治路線(戦略綱領)として確定したことです。第二は服部のカリスマ然とした風貌で口説くオルグの力ですね。彼は私達との統一の直前に、かつての日共港地区委員長であった山崎衛を一晩で口説き落としてマル戦派ヘオルグした。しかも、ある出版物に現状では革共同革マル派の主張や路線が一番正しいと思うという主旨を書いたばかりの山崎衛をですよ。ここでは山崎の「無理論や変身」を語るよりも、そのころの服部の「空気の入り様」に注目したい。ついでにエピソードを一つ付け加えましょう。第一次ブントの分裂過程で、「我々の派の名を革命の通達派にしよう」と言い出したのは服部でした。彼こそ「革通派」の名付け親だったのです。

 とはいえ、一枚岩は強い。我が方はバラバラだから。六五年六月に統一した時から東西の路線が煮詰められて一致したわけではない。前に紹介した関西の「政治過程論」や党組織論に関東が同意したわけでもない。残念ながら東京の第一次ブントの生存者の政治的理論的レベルは関西やマル戦派と比べて勝れているとは言えなかった。七月に「統一委員会政治局」の名で発刊した『共産主義』復刊準備号の内容を見れば歴然としている。岩田の国独資に経済学の方法から批判したのは渥美だけだった。岩田危機論に疑問を提起したのは党外の論客下条寿郎。岩田の「経済危機から日本革命へ」のシェーマに対して、国独資のもとでの革命の条件は、破局的恐慌や帝国主義戦争ではなく、大衆闘争による社会的危機の創出であることを対置したのも学者門松暁鐘(廣松渉)。共に寄稿であった。このような状態で、飛鳥浩次郎が一人で大会議案成作討論の重任を負わされれば、敗北するのは見えていた。相手は知識の豊富な理屈のプロである。相手が学者を前面に立てるなら、我が方の学者も矢面に立つべきだった。宇野経済学に免疫のない飛鳥が幾日も岩田宅で討論を続ければ「政治過程論」の確信が揺らぐのは当然の帰結であった。そして遂にその時が来た。誰が飛鳥を非難できよう。我々の団結の質が問われたのだ。

 党的組織実践は活字や理論では終わりません。大会議案となって自分を縛ってきます。思いもよらぬ路線となって実践を追ってくる。大会の当日、関西と東京の多くの活動家が議案に反対する意見を述べた。しかし、それは反対している活動家たちの代表が参加して決めた議案なのである。さらに、部分に反対しても、岩田理論の体系から構築された理論の骨格を土台と背骨から崩さない限り相手は倒れない。我々に対案がない限り大会は完敗であった。これが六六年十月にブントを再建した第六回大会、第二次ブントの暗い門出でした。(第3回終わり)


革命に生きる Ⅳ 情況1999年7月号
 ―前回はブントを再建した六六年九月の第六回大会の開催まででした。その結びで、それは「第二次ブントの暗い門出でした」と言ってますが、それはどういう心境だったのですか。

 達成感の中における失望と悲観とでも言った心境でしょうか。確かにブントは再建できたという達成感はありました。しかし、六年間もかけて再建した弟二次ブントの政治路線が全くと言ってよいほど私の考えと違った路線になったという失望と悲観だったのです。煎じ詰めれば「お前は何をしてたのだ」という自責の念が私を暗い気持ちにしたのです。

 ―もっと具体的に話して下さい。

 ブントが再建されたこと、それは嬉しいことでした。バラバラに分裂していた各派が、六年目にやっと統合できたのですから。孤立と分散を余儀無くされながらも「革共同だけには絶対にいかん」と踏ん張ってきた小グループや諸個人にとっては希望の道が開けたのです。続々と加盟と大会参加の報が伝わってきました。政治の大きな流れが一変したことを実感しました。第二次ブントに期待と幻想がよせられ、生まれたばかりの組織には勢いがありました。

 このブント再建の勢いが、六六年十二月十七日の三派全学連(中核派マル学同とブント社学同と解放派反帝学評)結成を生み、創立大会には、全国三十五大学、七十一自治会、千八百人を結集して、民青全学連と革マル全学連に対抗する流れを創り出したのです。私は、その意味で弟二次ブントを組織的に再建したことは今でも正しかったと確信しています。リアルに表現すれば、ここで東京社学同統一派と社学同マル戦派と開西社学同の三つの組織が結合して第二次ブントの戦闘主力を形成できなかったならば、第二次ブントは、あの六七年の十・八羽田闘争を、中核派マル学同の戦闘主力と並び競って闘い抜き、大衆武装の一時代を切り開くことなど出来なかったと思っています。だから、外から見る限り、第二次ブントの政治的登場は、新左翼運動の流れと勢いを一変するものと映ったでしょう。

 それにもかかわらず、統一過程とりわけマル戦派との大会議案作成過程の内側を知りつくし、岩田理論一色に染まった議案を大会で承認採決せざるを得ないところまで追い込まれた東京の統一派幹部の無責任さと体たらくと第一次ブントの崩壊以降も分裂を免れて分派闘争にも党派闘争にも免疫のない関西ブント幹部の鈍感さと対応の遅さを目の当たりにし、半ばあきれながら、己れもまた政治路線の自己主張をなしえなかった自責の念にかられ、私個人の心には「暗い門出」と映ったのです。

 ―ただ単に暗い気持ちになっただけなのですか。羽田闘争の後の分裂大会に至る第二次ブント内の党内闘争過程では、「さらぎがいちばん熱心に岩田理論を批判した」と言う人もいますよ。

 挑発しないで下さい。マル戦派との理論闘争は第二次ブントの強化のために必要不可欠だったのか否か。その論争を組織の分裂にまで煮詰め追いつめた政治的な手法は果して正しかったのか。必然的な結果であったのか。それとも両派の路線的対立をゲバルトで組織的分裂へと目的意識的に煮詰めた学対の手法自体に誤りがあったのか。この学対の独走的突出に賛成するのか、反対して押さえるのか、ということに確固とした政治決断を下せない政治局の無能。分裂大会の後にとったマル戦派幹部に対するテロや個人的リンチなどは誤りではなかったのか。それが誤りであれば、その誤りを生み出した思想的な根拠はどこにあったのか、という根本問題に関しては、私自身、六回大会で政治局に選出された当事者としての政治責任において総括を述べます。しかし、ここでは先ず、統一再建のあり方、統一再建大会のための討論のあり方、大会議案作成過程における理論の違いを巡る論争と決着のつけ方について反省しなければならないと思います。

 ―統一再建大会の議案作成過程では、どのような路線論争が行われたのですか。前回では飛鳥浩次郎にまかせっぱなしで東京の統一派幹部も関西ブントの幹部も路線の確定に責任を果そうともせず、責任を負おうともしなかったので完敗したと言っていましたが。

 ズバリ私の結論を言わせてもらえば、東京統一派の幹部と関所派の幹部が参加していても完敗していたと思います。私が完敗と結論づける第一の理由は、東京統一派には弟一次ブントの確乎たる総括がなかったということです。関西派には「政治過程論」という六〇年安保闘争の総括があり、これが関西派を組織的に団結させうるイデオロギー的支柱になっていたが、この「政治過程論」で東京統一派との路線的一致を獲得しえていたわけではないということです。だから議案作成過程に東西両派の幹部が出席しても岩田と服部からこの最弱の環を突かれれば、東西両派の違いが暴き出されて完敗するのは必至だったと私は思うのです。事実、この弱点は飛鳥浩次郎が岩田弘との論争過程を経てマル戦にオルグされて寝返るという最悪の結果となって顕在化したではありませんか。前回で、これは飛鳥個人の問題ではなかったと私が言ったのも、こういう意昧だったのです。

 ―組織的統一には、徹底した討論による政治路線上の一致がなければならない。言葉を変えていえば、分裂した各分派やグループが連合すること自体が悪いのではなく、連合の内実、路線の基本的な一致、相違を克服する組織運営上の相互の信頼感がなければならない、ということなのでしょう。

 党幹部つまり党組織の政治的指導を担う者は、提起する政治路線について、政治路線を現実に担って闘うその闘争の結末について、全責任を負い総括を行なう義務があるということです。(この問題は連赤の総括でも問われます) 精神主義のように受けとめる人もいるようですが、党組織の命運が問われ、最終的に政治的決断と組織的決断を下すことが求められた時に、一歩も退かず、全責任を背負って決断を下せる人物、そして総括の責任を回避しない人物でなければ、党組織の政治指導者とは言えません。

 この当然の基準に照して、当時の東京統一派の幹部に、党組織の政治的指導者としての資格があったと言えるでしょうか。私の結論は否です。政治指導者として名を連ねた以上、合同する相手党派との路線的一致を獲得するための論争に責任を持ち、議案作成の場に自分から進んで挑むべきなのです。私流に表現させてもらえば、彼等は「論争のリング」にかけ登り、自分の血を流しながら闘うべきだったのです。石井暎禧のごとき人間は、自分が傷つき血まみれになってノックアウトされることを恐れ、観客席で鼻をヒクヒクさせて岩田理論の欠点をあげつらい嘲笑するだけだった。

 そこで血まみれになって撃ち合い傷つく勇気と責任感があれば、政治指導者としての己れの力量を知り、己れを鍛え直し、次の機会を待って再挑戦することができるでしょう。また組織のメンバーも、その指導者の政治姿勢に納得するでしょう。常任にもならず、体も張らず、命もかけず、腰を退いて、敵に背中を見せて逃げるような人間にどうして組織の活動家が信頼を寄せましょうか!

 これは単なる私だけの主観的感情的な印象でしょうか?相手はどう見ていたのでしょう。分裂大会時に高校生だったマル戦派の学生が、「整除された体系性を持つマル戦派に対して……当時の統一委の指導部にシリアスな論争をする気などまるでなかった」と言ってます。

 ―党組織の指導と総括に責任を負う党幹部、政治指導部の資質と義務、政治責任のとりかたについては分かりましたが、三派の政治路線の理論内容はどうだったのですか。

 前回も述べたように、関西派の理論的立脚点は、山本勝也の執筆した「政治過程論」です。この論文の狙いは、六〇年安保闘争を運動論の視点から総括することにあった。とりわけ、政治闘争過程を、一旦、下部構造(経済的土台)から切り離して独自の運動法則を見つけ出し、政治闘争の理論を確立することです。

 ここから論文は、政治闘争を「広さ」と「深さ」の二つの視点から洞察する方法論を提起する。つまり、どれだけの諸階級を闘いに巻き込めたのかという基準で「広さ」を規定し、闘争主体がどれだけ大衆の政治意識をプロレタリア的な階級意識に自己変革させることができたのか、換言すれば、どれだけ国家権力の大衆に対する政治的集約性を喪失せしめたのかという基準で「深さ」を規定する。

 こうして論文は革通派の「情勢分析における客観主義、方針における主観主義」を克服できると結論づけるのです。

 「政治過程論」が関西ブント活動家の意識をとらえ、さらに関西から上京した学対に早大の社学同がオルグされたのも、あの六〇年安保闘争の巨大な高揚と国会包囲デモの波が、下部構造における大不況や大恐慌によって呼び出されたのではなく、高度経済成長に突入しだばかりの好景気の真只中で、労働者、学生、学者、作家、市民などの政治的意識性によって生み出されたという新たな現実、つまり、これまでの左翼の常識を根底から覆した新たな事態に、鋭く反応して、いちはやく問題の核心に迫ろうとした問題意識の鋭さと解明の早さにあったのだと私は思います。

 当時、私なりに感じたことを普遍化して言えば、どんな大恐慌が勃発しても、労働者大衆の決起がなく、これを国家権力の打倒へと組織する革命党派の基盤がない限り、革命は起こせないということ。これは正しい。しかし、だからと言って、革命党派の恣意的判断と主観的決断でいつでも権力奪取が可能だなどと思ってはならないということです。

 つまり、経済決定論の根底的止揚が不可避であるが、万年革命情勢論(下部構造に関係なく常に政治闘争で権力奪取を可能にする条件が存在するという考え方)を生む危険性をはらんでいるということですね。

 政治闘争過程の判断は「広さ」と「深さ」を基準にすれば誤った主観的暴走を防止できると思いますが、なぜ、世界恐慌や帝国主義戦争を抜きに大衆的政治高揚が生まれたのか、という根拠が明らかにされなければ、万年革命情勢論を生む危険性を防止できないと言っているのです。

 後に塩見が、「攻防の弁証法」から前段階蜂起を称えて権力奪取へと暴走せんと夢想したとき、それを可能とさせる客観的条件として、中ソ社会主義国の成立と存在をあげ、中ソを背景として攻撃型階級闘争(論)の根拠を主張しています。

 「政治過程論」は、マルクスが世界恐慌、レーニンが帝国主義戦争としてあげた政治的革命情勢を生み出す客観的な戦略確定要因を度外視して、六〇年安保闘争の大衆的政治高揚を(上部構造論として)分析した。しかし、闘争主体を決起せしめた客観的条件と主体的意識形成の根拠を解明することができなかった。関西ブントを主要基盤とする赤軍派の前段階蜂起路線は、まさに「政治過程論」のこの欠落部分から生まれたものであったと思います。

 ―東京統一派の革命路線をどう思いますか。

 私を除いて、東京統一派の主流は、廣松渉が執筆した『現代資本主義の一視角』(東大現代思想研究会刊)に依拠していました。

 その骨子は、現代資本主義が国家独占資本主義となって経済恐慌への対応力を持ったので、戦後の革命戦略は世界恐慌の到来を待望して立てるべきではなく、反帝反独占の政治経済闘争を革命主体が創り出して国家権力を獲得すべきであるという主張で貫かれていました。

 しかし私には、『一視角』の紙背に大内力の国独資論と構造改革路線が敷かれ、暴力革命にアプローチする課題、つまり、実力闘争から大衆武装への飛躍を指導する党形成の任務が射程外に措かれているという感をぬぐい去ることができなかった。

 大内国独資論は、それ自体、構造改革論を導出する理論ではない。『国家独占資本主義論ノート』(一九六二年八月)によると、(一)国独資は、帝国主義段階の発展それ自体の必然的産物ではない。(二)国独資とは、第一次世界大戦を契機とするロシア革命に惹起された全般的危機が、一九二九年の世界恐慌を通して激化したために、資本主義が本来それ自身のうちに持っている恐慌や不況からの自力にょる「自動回復」を待つ余裕を喪失した状況に対応して登場した。(三)自国独資の本質は、金本位制度の撤廃と管理通貨制度の採用により、国家が資本と賃労働の間の価値関係に介入する点にある。

 換言すれば、資本主義の生産力と生産関係の矛盾を恐慌によって集中的に爆発させるのではなく、国家の介入で長期に分散させた形態で解決するということです。即ち、資本主義が資本主義である限り、恐慌からの自動回復力は依然として内包しているが、全般的危機の時代には、激震的恐慌の爆発を傍観していられるだけの余裕がなくなったので、国家の経済への介入が不可避になったということです。

 以上のように、大内力の国独資論は、決して構造改革論を導出するものでも、構改路線と直結するものでもありません。しかし、独占資本にも、階級動向にも、国家の介入を必要としないで済ませる余裕がなくなっているのなら、国家の独占救済政策を大衆運動で阻止すれば国独資の経済と社会は崩れると主張する構造改革派が次々と登場し潰れました。私の国独資アレルギーの根はここにあるのです。

 私が国独資論に根強い危惧を抱き続けてきたもう一つの理出は、日共系構改派学者・小野義彦が、日帝自立論の根拠として日米帝国主義の対立による日米安保軍事同盟の自動解消論をあげ、国独資における構造改革の可能的根拠にソ連社会主義経済の発展と日ソ平和共存と経済交流による相互発展をあげたので、この小野構改論批判に没頭したことです。

 当時、構改派を合めた大ブント構想の噂が本郷・駒場・神田・お茶の水の巷に流れ始めていたので私は反発を強めました。

 ―岩田弘の国家独占資本主義論の規定は?

 時期的には、第一次大戦以降の時期、「戦争と革命の時代」「全般的危機の時期」です。

 「国家独占資本主義とは、世界戦争と世界革命の時代に対応する資本主義国家権力の特有なあり方以外の何物でもない。それは単なる国家と独占資本の融合でも……独占資本への国家の全面的従属でも……国家自身の独占資本への転化でもない。国家はそれ自体としては権力機構……にほかならないが、『戦争と革命』の危機は、そうした国家に、資本主義の経済過程に……支配と統制をあたえざるを得ない」(『世界有本主義ソ二六頁)と、岩田自身が述べています。

 降旗節雄は、これではスターリンの全般的危機論の変形で、社会科学的に意味がないと『解体する宇野学派』で批判しています。

 ―マル戦派が依拠した岩田の「世界資本主義」に紋って要点を簡潔に。

 岩田弘は宇野学派の俊英とも鬼子とも言われています。俊英と呼ばれるのは、宇野派に属しながら、宇野弘蔵の原理論・段階論・現状分析という三段階論体系を批判し、岩田弘の原理論・世界資本主義分析・各国資本主義分析という固有の三段階論の定式に再編した点にあります。しかし、学派内部から体系にかかわる「造反」を起こしたということは、師説に背く鬼子と呼ばれても仕方がないでしょう。

 鈴木鴻一郎と岩田弘は、宇野弘蔵の「形態が実態を把握する」という思考方法の枠内で造反したのです。宇野は十九世紀中葉のイギリス資本主義が内向純化の傾向をもっていたと称し、この純化傾向に基づいて「純粋資本主義」を想定し、ここから理想的平均としての原理論を構築するという方法論を確立します。岩田はこの宇野の方法論(つまり純化論)を否定したのです。

 岩田は、資本主義は成立当初から商品形態が生産実態を把捉してゆく世界市場過程として存在し、常に不純な非資本主義的生産要素を抱えながら、これを商品経済が包み込む商品世界市場の世界史的過程として発展してきたという。要は、この商品形態が生産実態を包み込んでゆく歴史過程が岩田の世界資本主義なのです。

 岩田の世界資本主義は一個の有機体であって資本主義国の結合関係の総和ではないという点に主張の特徴がありますが、帝国主義間の矛盾や戦争の原因との関係をどうとらえるのか、という点に関しては必ずしも明確でありません。要は、この「世界資本主義」の「全般的危機」(国独資)から岩田の危機論型戦略と政治路線が導き出されるのです。

 要約します。(一)IMF通貨体制の崩壊で始まる世界危機が目前に迫っている。(二)弱い日帝と日本独占は内的矛盾を侵略に外化できず(三)対米対応ダンピングで外貨獲得に没頭せざるを得ないので日帝の攻撃は国内に集中される。(四)従って、生活権利の実力防衛が革命闘争の中心課題となり、(五)総評の杜民幹部も賃上げの号令を発せざるを得なくなるので、この号令を逆手にとって経済要求を突きつけ(六)統一戦線を形成してソヴィエト権力に高める。(七)労働力が商品化する昼の職場では労働者は資本家に従属しているが、勤務時間を過ぎた夜には労働者も資本家も同じ価格のビールを飲み、流通過程の中では平等な市民になる。従って職場の経済闘争こそが階級形成の場となる。(八)こうして突破口を切り開いた日本革命はァジァ革命から世界革命へと三段階ロケット型に飛び火する。

 これが岩田=マル戦派の過渡的綱領つまり戦略戦術であり、六回大会の議案の骨格です。

 ―関西派と東京統一派を代表する飛鳥浩次郎が岩田弘にオルグされてマル戦派に寝返るという結果になったので、関西・東京の統一委員会は、全くマル戦派と討論しないまま、六回大会で岩田理論そのものである議案を承認採択するはめになったのですね。

 第六回大会で完敗した関西・東京の統一委は第二次ブントの野党になりました。議案に反対すれば党大会は分裂し、念願の再建統一は破産するからです。私は機会を待って勝負を挑もうと思い、私が路線を構築し次の大会の議案を書こうと意を決しました。

―明大学費闘争での「ニ・ニ協定」にどうかかわりましたか。

 寝耳に水で驚いたというのが実感でした。次の瞬間これは他党派から袋叩きにあうぞと思いました。続いてブントはあいかわらず学生党だなあと痛感しました。学対や学生指導部が勝手に方針を出して事をはこび、政治局が遅れてこれを追認するというパターンが定着していたからです。

 また、拠点大学が党内で独立王国の位置を占め、政治局員のある個人だけが相談役をつとめ政治局とのパイプ役になるという手工業性が問題の背後にあり、これが政治局に諮ることなく、古賀暹政治局員と斉藤克彦全学連委員長の独断で、大内義男明大中執委員長に大学理事会代表の武田孟と「二・二協定」を結ばせる決定的な誤りを犯させた。斉藤克彦の失脚追放で杜学同は三派全学連の委員長のポストを中核派マル学同の秋山に奪われた。こうして「二・二協定」は、やっと結成した三派全学連を割る端緒となった。以降、塩見・村田学対の党の浄化を助長していった。

 そして一番大切なことは、学生運動にとって学園闘争とは何か、学費値上げ反対闘争において何を獲得するのか、学生の物質的経済的利害と意識変革は、いかにして獲得できるのか、学園の様々な要求を通して学生に自立的意識と階級的政治思想をいかに獲得させるのか、を鮮明にすることでした。しかし、「二・二協定」がさらけ出した問題の根を掘り下げる思想性はブントの政治局にもなかった。ただ、他党派からの批判と攻撃をかわして難局を乗り越えるための関係者の処分で終息しました。

 当時、労対に属して東交の首切り合理化反対闘争に専念していた私にとって寝耳に水だったという現実は、東京統一派の中で私が排除された存在だったことを物語っています。

 問題の本質は掘り下げられないまま、明大に社学同とブントの組織を創り育て、明大を東京続一派の最大拠点にまでした古賀を追い落とし、明大に在京関西派系の学対の足場を築こうとする政治的な動きが始まっていました。

 ここで塩見と村田(蝮)が提起した路線が所謂「革命的敗北主義」なのです。要するに、大学当局の案を絶対に認めずに拒否し続けて機動隊の弾圧を呼び出すという基本方針を確定して社学同に押しつけたのです。機動隊の弾圧で敗北するまで闘えば、他党派から絶対に文句を言われずに済むからです。この革命的敗北主義は塩見配下の早大社学同(村田・花園・荒・佐脇など)のように全く学内に足場も大衆的基盤も持たない政治集団にとっては「観念的ロマン」として受け入れられますが、明大や中大のようにクラス討論の積み重ねで学生大衆の支持を得て足場を固めてきた社学同にとっては、とうてい受け入れられない方針でした。

 革命的敗北主義の破産は、中大闘争で学生大衆の拒否という悲惨な形で検証されました。中大学生の団結の前に学校当局が全面的に屈服し、全中闘の勝利が鮮明になった段階で、学対が乗り込んできて、「この闘いは敗北だ。敗北の総括を始める。バリケードは絶対に解くな」という方針を押しつけた。中大細胞と社学同は「それなら学対のお偉いさんでやって見せてくれ」と引き下がった。学対がバリケードを守ろうとした時、中大学生の大群が「ブント帰れ」の大合唱で学対の命令を拒否した。学生が「革マル帰れ」「民青帰れ」と叫んだことはあったが、仲間と思われ指導力を認められたと思っていた学生からブント社学同が、「ブント帰れ」と叫ばれたのは初めてでした。

 当時、中大学生であったが学対活動に専念していた久保井拓三(故人)は、再開さらぎ破防法裁判に証人として出廷し、検事が「神田周辺で教祖的存在であったさらぎ被告人は弁舌で学生を四・二八闘争に駆り立てた」と述べた時、中天闘争で学対が「ブント帰れ」の大合唱の前に挫折した事実を語り、学生大衆は、各人の主体的意思決定によって己れの行動を決めるもので、決して党の号令や扇動で引き回せるものではないと語りました。

 革命的敗北主義の学対路線に一人で反対した学生がいた。早大社学同の菅野である。被は、「二・二協定」を生み出さざるをえなかったその根底には政治過程論に基づく無理な指導があったと主張した。時と場所と条件を度外視して、どこまでもやれと押しつけられれば、党の利害を賭けた方針と学生大衆の意識のズレの間で切羽詰まって協定へと落ちざるを得ないではないか! と。菅野の意見は聞き入れられず、彼も姿を消しました。私が事実を知ったのは後日です。未だ痛恨の思いです……。

 一10・8羽田闘争に向けてはどのような過程がありましたか。

 九月某日、旧統一委員会(旧マル戦を除く)系の政治局と学対が中大学生会館の和室で、佐藤訪越阻止闘争を組織の総力を挙げて闘うことを決定しました。政治局員といっても、さらぎ、渥美、浦野、高橋、塩見の五人で、組織の命運をかけた大闘争の決定時に石井は出たことはありません。ここで学対の村田(蝮)が立ち、「この一戦をもって七〇年安保闘争の幕を切って落とします」と決意表明を述べ、七〇年安保闘争への突入を決定するこの会議の目的を現実的にしました。

 ―この時から分裂を射程にいれて政治局のフラクを組んだのですか。

 いや、そうではありません。「二・二協定」での苦い教訓を踏まえ、一枚岩の旧マル戦派に対抗するには、先ず、関西と東京の旧統一委の意志統一がなくては、ということから、現実対応的にフラクが組まれたのです。

 ―政治局がそんな状態で、学生は団結して闘えたのですか。

 そこがブントなんですよ。眼前に国家権力が現れたら、仲間内のゴチャゴチャは棚上げして一緒に突き連むのですよ。その点では旧マル戦も旧関西も旧東京統一派も同じブント魂で団結できるのですね。

 ―戦闘の総指揮者も戦術の具体的な検討も団結してやれたのですか。

 そうです。当初、総指揮は最大拠点の中大を基盤とし、戦闘現場における判断の正確さと決断の早さ、そして勇猛果敢な戦闘精神において抜群の久保井祐三にしようと決めていた。しかし旧マル戦派学生との団結を重視して、久保井を下ろし、石田寿一にゆずったのです。

 こうして、社学同は解放派系学生らも含めて、石田を中心に戦術が練られました。

 ―具体的には。

 戦術会議の詰めは中大学館の和室です。即ち、京浜急行で大森海岸駅までゆき、柵を乗り越えて鈴ヶ森ランプヘ進撃、機動隊の守備隊を叩き潰し、一気に羽田空港へ進撃突人する戦術が決まったのです。戦術の決定は必ず事前に激突予定現場を踏んで確認するのが原則です。例えば千人の部隊が大森海岸駅で下車して鈴ヶ森ランプまで、何分で走り抜けられるのか、等々です。

 当日は、成島道官が現地に立って「行ける」と最終判断を下し、連絡所に前夜から詰めていた山崎順一が道官の判断を電話で受け、これを成島忠夫に伝え、成忠から石田寿一へ、ゴー・サインが流され、部隊が動いたのです。

 ―鈴ヶ森ランプの闘争について。

 何度か羽田空港に向けた闘争があった。とても穴守橋からジグザグデモで機動隊の壁を突破することはできぬことを体験していたので鈴ヶ森ランプから高速道路を走り抜けて空港内に突入しようとしたんです。

 戦闘は最先端の決死隊の強さで決まるので、旧マル戦系、中大・明大・専大の中から選抜された最強の部隊がヘルメット・ゲバ棒で武装し機動隊を文字通り殲滅しながら走り抜けたのです。医科歯科大の村田恒有は、決死隊の最後尾から傷つき倒れた学生を救助せよと言われて鈴ヶ森ランプを部隊と共に駈け登ったが、ゴロゴロ倒れているのは機動隊ばかりだったと言っています。

 しかし、部隊がかなり進撃したところで石田寿一は脳震漫で倒れている。学生部隊も決して外傷ではなく、機動隊を倒して走った段階で、最初の激突で受けた打撲が効いてきて倒れたのでしょう。

 ―高速道路を誤って左折し反対方向に走ってしまいましたね。

 今更、原因を掘り返しても意味はなく、この闘いの日本階級闘争史に占める重さは変わりません。しかし、ここまで激突の地とすべき場所を事前調査しても、戦闘の修羅場と化した真只中では、人間の理性的判断など完璧ではあり得ないということです。それゆえ、どの当事者に聞いても確答は出ません。代表的なものに荒説と岩崎説があります。

 戦闘集団のひとりが「どっちだ」と聞いたので、それを機動隊が逃げた方向を聞いたのだと勘違いして「左だ」と答えた者がいたために間違えた、という荒説。前夜の学対会議で成忠が間違えて「左だ」と喋ったのが原因ではないかという岩崎説。私は二説を検証すべく七日深夜から八日早暁まで中大学館の和室にいた学生(当時)たちに聞いてみたが、何分昔のことなのでほとんどが思い出せず、答を引き出せませんでした。

 ―ゲバ棒はどうして登場したのですか。

 七日に、ハ日の闘争について最終的打ち合わせのため解放派の高橋幸吉ら全学連書記局員が法政大学に来たところ、中核派が彼等を拉致しリンチを加えた。中大に結集していた社学同他三派は、救出のため法大に押しかけようとしたが、法大の中核派が棒を持っているとの情報を得て、中大講堂の長椅子をばらして棒をつくり、武装して法大に押しかけ目的を達成した。八日、これを国家権力に向けたゲバ棒としたという‥しかし、この話には疑問が残ります。たしかに長椅子をばらしたことも、棒で武装して法大に押しかけたことも事実です。しかし、ハ日に鈴ヶ森ランプを駈け登る部隊全員がゲバ棒で武装している。機関が事前に準備し、ドッキングして部隊に渡しだからか。当日の戦闘にゲバ棒で武装し登場することは部隊で意志統一ができていた。ただ「ゲバ棒で機動隊を襲え」とは言っていないだけである。戦闘の試練を経た人なら、どんなことだったのか、簡単に飲み込めるでしょう。

 ―闘争現場はどんなふうでしたか。

 鈴ヶ森ランプの緒戦で大勝した全学連の四派は高速道路から穴守備へ進撃し、荻中公園から来た全国反戦と合流しました。三叉路もあろうかと思われる橋の上に装甲車を並べ、機動隊が阻止線を張っていた。社学同、解放派、第四インター、ML派の学生は機動隊に襲いかかった。機動隊は部隊を退き、離れて対峙した。真っ先に装甲車の屋根によじ登る二人がいた。中大のカリスマ的イデオローグと言われた昧岡修と早大の花園紀雄である。二人は大声で「石を運べ」と部隊に命じ、装甲車の屋根に立ち上がって防石網に身を隠して引き下がる機動隊に投石し続けた。花園は鹿児島出身の勇敢なゲバルターたった。明治維新のころ、「薩摩の男を知りたければ桐野に会え」と言われた桐野利秋に性格も似ていた。花園は後日、赤軍派を結成して昧岡の叛旗派と鋭く対立した。そして六九年の七・六事件では花園が私に真っ先に襲いかかった。「あんたとほ一緒にやれると思っていたのに」と叫びながら。

 昧岡に「装甲車の上で何を話していたのか」と聞くと、丸い顔をくしゃくしゃにして「今日は天気が良くてよかった。徹底的にやろうぜ」と仲良く投石していたのよと答えた。 私が全体の状態を掌握しようと弁天橋方面に向ったとき、中核派マル学同の部隊が梯子を担ぎ血の引いた形相で突進していた。今日は徹底してやる気だと一目でわかった。狭い弁天橋では装甲車一台が通るのに精一杯で、両脇を守る機動隊がマル学同のゲバ棒の下に打ちすえられ逃げ出した。味方に見放された装甲車の運転手は恐怖のあまり鍵を忘れて逃亡した。学生が飛び乗って車を占拠、猛スピードでバック、無人の装甲車にぶち当て空港への血路を開こうとした。機動隊も隊伍を整え何度も突撃してきた。そのたびに学生と機動隊員が橋から川に転落した。この激突の真只中で京大生の山崎博昭が殺害された。

 ―総括はどんなものでしたか。

 八日夜、部隊の帰還を待って本郷の私の友人宅で、統一委の政治局と学対の合同総括会議を行なった。そこで、破防法や騒乱罪が発動されても今日の闘いの水準を守り抜いて十一・一二羽田闘争を貫徹することを決めた。学対を代表し藤本敏夫が、社学同と全学連は、十・八羽田闘争の質を堅持する旨、決意表明を述べた。こうして二つの羽田を闘った我々は大衆武装の一時代を切り開いたのです。

 ―分裂を招いた七回大会への過程をどう総括していますか。

 私は党大会が党建設にとって占める位置と重要性を十分に理解できず、学生運動における三派全学連大会のように、党派間の利害で簡単に連合したり分裂したりできる軽いものと考えていたことが、分裂に至らしめた根本原因だと総括しています。

 この考えの浅さが「党の純化・党の浄化」の名のもとに己を絶対化して、己と意見や体質の異なる部分を討論の名のもとに追いつめてゆく手法を生み出していったのだと思います。

 ずばり言えば、ほとんど学生党であった統一委員会(東西)の政治局が、学生の暴走や感情的な問題処理を押さえて、革命党を組織的に強くする指導理論を持つことも、説得する力もなく、逆に、学生の突き上げに乗って己の政治局における発言力と位置を高めようとする姿勢が、大会に至る過程を無政府的ゲバルト状態にしたと考えています。

 ―岩田批判は正しいが、分裂させた結果は正しくなかった、ということでしょうか。

 私が言うのは、そう単純ではありません。十・八から十一・一二を其に闘った旧マル戦派の学生と労働者を説得しようという姿勢も内容も度量もなく、各級会議ごとにゲバルト状態を意識的に創り出させ、昨日までの同志を消耗させて大会で勝利しようとした過程と発想が誤っていたということと、そういう無政府的ゲバルト状態を止めさせることもできず、否、黙認して助長させた旧統一委員会の政治局の政治思想の弱さにこそ、旧マル戦派を分裂に追い込んだ根本原因がある、と私は言っているのです。

 同志に対する批判には、批判する側の思想性や個性を通して、批判する側の憎悪や私的怨念が「革命的に見える言葉」の裏側から溶み出るものです。だから相互信頼が崩れた地平での討論と相互批判は難しいのです。

 ―さらぎさんは大会開催推進派だったと聞いていますが。

 私が大会を開こうと言い出しだのは、十・八から十一・一二を闘えた原因がベトナム反戦にあったということ、つまり、旧マル戦派の学生も反戦青年委員会の青年労働者も、現実には「生活と権利の防衛」のために決起したのではなく、米帝のベトナム侵略反革命に反対し、これに加担する日帝佐藤政府と闘うために決起したということです。

 極論すれば、旧マル戦派の活動家は、その実践において、すでに岩田の過渡的綱領を否定し、それとは異なる路線で闘ったのです。だから今、大会を開けば勝てると読んだのですよ。いやむしろ、大会を開催すべきだと主張したのです。関西と東京の統一委の政治的ドジと理論の低さゆえに、マル戦派を頭数で上回る同盟員を抱えながら、自業自得だとはいえ六回大会以後、党内野党に甘んじてきたのですから、今度こそは勝とうと思うのは当然でしょう。

 ―大会を開けば割れるとは思わなかったのですか。開催反対派はいましたか。

 渥美は慎重な活動家だから割れることを心配していたと記憶しています。私は割り切りと決断が早い人間です。だから「大会には、シャンシャン大会か分裂大会の二つしかない」と言われてきたことも知っています。レーニンでさえロシア社会民主党の二回大会(実質的な創立大会)をボルシェビキとメンシェビキに割っています。だから大会を開催する以上は、割れるという結果も十分に覚悟したうえで、強行しなければならない、と慎重な人達には答えてきました。旭凡太郎も考え抜くのに時間がかかる人で、塩見から「旭凡は中間派だ」と言われ、旭凡自身「さらぎさんも俺を中間派と思っているでしょう」という人ですから、彼にマル戦派を追い出す気などなかったのは本当だと思う。後日、塩見はマル戦派の人に「追い出そうとは考えていなかった」と語ったそうだが、マル戦派の人達が「我々を追い出そうと本気で考えていたのは一部の在京関西派(塩見直系の縦の村田や荒たち)だけだった」と言っていることを私は信じたい。

 ―旧マル戦への攻撃はいつから始まりましたか。

 一九六七年十二月七日に豊島公会堂で開催された「羽田闘争報告集会(共産主義者同盟大講演集会)」における吉川都委員長に対する激烈な野次がシグナルとなりました。以後、各級機関の会議で旧マル戦派へのゲバルトが常態化し、大会の直前、早大細胞総会に、関西系の早大細胞八名が角材で武装し、素手の旧マル戦派五名をたたき出すところまでエスカレートしたのです。この動向を冷静に追えば、私とは別個に旧マル戦の追放を目的とした「党浄化主義者」がいたことは否定できないでしょう。

 ―望月彰に対する拉致とリンチをどう思っていますか。

 陰惨なリンチを初めてブントに持ち込んだという点では、ブント史を汚す最初にして最大の汚点だと総括しています。私の記憶では佐藤秋雄が望月と会っているところを学生部隊が襲って明大に連れ込み、関西の上京組の三人が中心となって手足を縛って抵抗できない望月に殴る蹴るの暴力をふるった。私自身も素手で殴った下手人の一人です。やがて意識を失った望月を岩田弘宅の門前に放置するということまでやってしまったのです。私は下手人たちの氏名をあえて申しませんが、望月に直接謝罪し、同志にリンチを加えた己の行為と思想性を総括し、公表してもらいたいと思っています。長い革命運動の途上では何度も誤りを犯すものですが、共産主義者になれるか否かの問題は総括できるか否かにかかっているからです。

 私は労対の責任者として、大会まで部長だった山崎衛をテロる役目を果すために、気のすすまぬ高橋良彦に呼び出し役をやってもらい捕捉せんとしたが山崎も遅刻し失敗した。

 私が言いたいのは、大会開催に同意賛成した関西と東京の統一委員会の政治局と学対には、旧マル戦派を追い出す結果を招いたことに対して責任を負わなければならないということです。色々な雑誌に「私はまさか割れるとは思わなかった」「追い出すつもりなど全くなかった」などと無責任な発言をしている当時の幹部がいるが、素人ではあるまいし、プロの実践家なら、大会開催に賛成した以上、その結果がどうあれ、政治責任を負わなければならないのです。

 それと同じように、旧マル戦派の幹部に対するテロとリンチについても体を張って阻止せず、黙認した以上、政治局員と幹部には、直接に手を下したものと同じ責任があるのです。ブント史上に最初にして最大の汚点を残したという事実においてです。

 このリンチという手法は、次に赤軍派が、破防法で権力から追われる私に行使した七・六事件へとエスカレートし、その思想的総括がないままついに連合赤軍による十二名の同志殺害に至ったと私は思っています。私に暴力を集中した田宮は既にピョンヤンで死亡し、高原は愛妻の遠山さんを永田に総括され殺害されました。生と死の境を彷徨して生還した私なればこそ総括が不可欠なのです。

 ―望月彰には再会しましたか。

 二十年の地下潜行生活と東拘の生活を終え、古い同志友人に「さらぎ徳二を励ます会」をやっていただいたときに再会できました。そこではお詫びだけし、アソシエの呼びかけ人会議の後で私のリンチに関する総括の視点と骨格を述べ、革命党派間の内ゲバについても意見を交しました。ゲバルトでの他党派殲滅や暴力による拠点防衛と党勢拡大を不可欠な手段とする党派が存在する以上、暴力を否定すればガンジー主義でゆくしかないが、本音を聞かせてくださいと尋ねました。彼は即座に「私はガンジー主義で行こうと思っています」と答えた。私は「現実政治の中で、そうは割り切れない」と素直に意見を述べた。

 連合赤軍のリンチによる同志殺害や、これとは異質であるが、中核・革マル戦争が、学生や労働者の新左翼に対する心を遠ざけたことも現実的に認めざるを得ないでしょう。私の総括はまだまだ終わりそうにありません。

   未完のまま終了

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 LAST UPDATE 2008/09/15




(私論.私見)