ブント運動総論(一) | さらぎ徳二論 |
(最新見直し2005.10.31日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
第一次ブント運動をそこからの流れとしての第二次、三次まで含めて運動論として総括し得たものになかなか行き当たらない。そういう中で、蔵田計成氏が「電脳ブント」に寄せた「追悼・第二次共産主義者同盟議長・さらぎ徳二、『旧き友への手紙』」は真摯な自己批判を媒介にしている分為になる。これを以下検討してみたい。 |
【第二次共産主義者同盟議長/さらぎ徳二履歴】 |
1929年、台湾・高雄に生まれる。父親は開業医。本名右田昌人。 |
1945年、陸軍二等兵、少年兵として徴兵。 |
敗戦後、敗戦後大分県中津市に引き揚げ、日本青年共産同盟(民青の前身)を経て、日本共産党に入党。 |
共産党が分裂した「五〇年問題」では所感派を選択、所感派活動家として非公然活動に従事する。 |
1950年10月、税務署での抗議活動で逮捕・起訴。1951年春出獄、同年大分県北部地区委員長。 |
1954年、肺結核を発病、国立中野療養所で左肺切除。 |
1955.7月、六全協後に共産党を離党。 |
1956年、産業労働調査会に勤務。 |
1960年、安保闘争を共産主義者同盟(第一次ブント)と共に闘う。 |
1962年、千葉正健の社会主義青年運動(SM)に加入、第二次ブント再建に活躍。 |
1964年、共産主義者同盟(ML派・SM・電通労研)政治局員。 |
1965.6月、共産主義者同盟統一委員会の結成に参加。 |
1966.5月、第2回大会で政治局員 |
同年9月、共産主義者同盟(第二次ブント)再建第6回大会で政治局員。 |
1968年12月、第8回大会で議長に選出される。最年長で、武装闘争も含めて20年以上の闘争歴を持ち、理論的な重鎮だったさらぎさんが再建ブントの第三代議長に押し出されるのは当然の流れだったと思われる。 |
1969年4.27日、翌日の4.28安保・沖縄闘争を前に、中核派の本多延嘉・藤原慶久・青木忠、ブントの久保井拓三と共に破壊活動防止法を個人適用され指名手配され地下に潜行する。以後二〇年にわたり、非合法非公然活動を地下から指揮しつつも、公然活動として機関紙発行等を通して闘いを指導しつつ建軍建党を追求する。 |
同年7.6日、全都協議会(拡大中央委員会)開催時に、塩見孝也らブント関西派(後の赤軍派)に会場・明治大学和泉校舎で襲撃されて重傷を負い、逮捕・起訴される。この際、後の連合赤軍リーダー森恒夫は逃走している。 |
1970.6月、戦旗派内のフラクション「鉄の戦線派」(通称さらぎ派)を指導。 |
同年12月、戦旗派を除名される。 |
同年12.18日、烽火派、神奈川左派と三派連合(12・18ブント)を組む。 |
1971年、「鉄の戦線派」(通称さらぎ派)、烽火派、神奈川左派の三派連合(12.18ブント)が分裂する。 |
1972年、共産主義者同盟蜂起派(通称さらぎ派)を結成する。機関紙名「蜂起」。破防法公判闘争を戦いつつ議長として党を指導。(共産同分裂の過程で蜂起派を結成し、破防法公判闘争を闘いつつ指導する) |
1974年、破防法公判闘争の途中で地下に潜行、以後20年にわたり、非公然活動を地下から指導する。公然活動として機関紙発行等を通して、階級深部での戦いを指導し、建党建軍を追及。 |
1994年1月、肝硬変の悪化により倒れ、組織防衛措置の後、被逮捕・収監。治療保釈後も破防法闘争を闘いつつ、革命運動に献身する。 |
1998年、共産同蜂起派を離党。蜂起派の機関紙名は「赤星」(停刊中)に変更される。その後も第三次ブンド再建に執念を燃やす。 |
2002年6.21日、最高裁が破防法違反事件の上告審判決で上告を棄却し、懲役2年執行猶予3年の有罪が確定。 |
2003.4.13日、死去(享年73歳)。 |
2007年から『さらぎ徳二著作集』(全7巻を予定)が刊行中。刊行委員会の代表は蔵田計成、編集主幹は千葉正健(2011年死去) |
「我かく闘えり―破防法闘争三二年」 |
第二次ブントは再建からわずか3年で瓦解に至る。東京統一派には第一次ブント崩壊の確固たる総括がなかったとさらぎさんは語る。関西ブントには「政治過程論」という60年安保闘争の総括があり、これが関西派を組織的に団結させるイデオロギー支柱になっていた。東西ブントの統一はこの「政治過程論」を踏まえて路線的統一を図るものではなかったのだ、と。関西ブントは関西ブントで、危機に直面していた。 |
【追悼・第二次共産主義者同盟議長さらぎ徳二、寄稿「旧き友への手紙(蔵田計成)」】 |
はじめに この後の「旧き友へ 40年目の手紙」は、多くの知友人に向けて書いた私自身の私信ですが、その宛先の中には、当然ながら故人の生前の病床も含まれていました。そればかりか、生前の故人にこの手紙を届けることは、私にとって特殊な意味を持っていました。その理由は、この私の手紙を書き上げる作業の完成を一区切りにして、「ブント総括、党派闘争・内ゲバ・粛清論」に向けて故人との共同総括作業に取り組む予定にしていたからです。事実、すでに過去において私達はこの総括に向けた共同作業に先立つ最初のプロローグを共有していました。それは「我がかく闘えり」(さらぎ徳二編著、情況出版社)への私の寄稿文でした。この私の寄稿文(ブント主義=倍々ゲーム論の陥穽と教訓)に関して、故人は同書の中で次のように添え書きを結んでいます。 「以上の内容について蔵田さんと早くから電話で話し合ったが、細部では異論を残しつつも初めから大筋で一致した。かくて第一次ブントの総括の執筆を当時、都学連副委員長として指導的実践者であった蔵田計成さんに依頼したのである。」(蔵田論文に寄せて、ブントの総括と破防法闘争の総括は不可分) この最初の第一次ブント総括を足がかりにして、第二次ブント総括、連合赤軍問題や内ゲバ問題の共同討論と総括作業を進めていくはずでした。その後一年以上の歳月が経過しました。この間、私は個人的にはブント総括・党派闘争論を煮詰める共に、幾人かの人達と「内ゲバ問題研究会」に参加し、共編著者として「検証 内ゲバ」(社会批評社)を上梓しました。これに平行させて、「内ゲバ弾劾声明」の賛同人にもなりました。私の賛同理由は、1,これ以上の内ゲバ加害を重ねさせてはいけない。2,3人目の犠牲者を出してもいけない。この決断に際しては、私への数名がかりの長時間の説得を含めた、私自身の熟慮が必要でした。ところがごく最近になって、その内ゲバ問題の研究活動の中で、当初の目的と意図に反した事態と運動の方向性を経験することになりました。例えば「内ゲバをやる連中はどんどん警察に突き出せばいい」という主張と同席を強いられたり、周辺の私以外の人達は「すべての暴力、内ゲバ、テロに反対」「内ゲバは断罪の対象であり、相互止揚の対象とすべきではない」という主張を掲げる反内ゲバ主義的な政治潮流であることを思い知るに至りました。おまけに、私が「反動的な内ゲバ擁護主義論」者にされるに及んでは、最早、そこにとどまる政治的実践的意味がなくなったと判断し、一連の活動からは訣別・召還することにしました。 結局、私自身は「火中の危険な栗」を拾うことはできないままに、独自に「新左翼の総括/何故、内ゲバに反対すべきなのか。党派闘争論、内ゲバ・粛清の根拠、廃絶と止揚に向けた本質論的解明」のための作業に専念する、という出発時点への回帰を決意したばかりでした。故人の訃報に接したのも、そうした不本意な事態が推移する渦中でした。故人は他の誰よりもブントの根底的総括の必要性を悲痛な思いを込めて叫び続け、「階級闘争の冬の時代」(故人)をもたらした内ゲバや粛清問題の歴史的解明の責任と決意を、そして、その総括が未だ十全でないことの無念さを死の瞬間まで抱き続けたはずです。 その点に関しては、故人と私は過去の歴史の誤りを未来へ向けて断ち切ることへの“こだわり”の重要性については、早い時期から多くの点で認識を共有していました。すでに70年代半ばには、連合赤軍の敗北の総括として、第三世界人民との連帯を可能にする帝国主義本国階級闘争における階級的普遍性の質が、本国の矛盾の最深部における闘争の質にある点を、いち早く相互に確認しました。また、私達は総括の政治的内容に関しては、上の故人の引用にあるように「初めから大筋で一致」していました。だが、結局はこの先に討論すべきはずの重要課題を積み残す羽目になってしまいました。 また、故人と私は総括の政治的意味内容に関しては、上の引用にあるように「初めから大筋で一致」していたし、この先も、さまざまな討論を経て共通認識に到達すべき重要課題も積み残していました。だから、この私の手紙の仕上がりを一区切りにして、私達の共同総括作業は本格的な最終討論の段階に入る予定でした。それも能わず、いまはただ痛恨の極みあるのみ。生涯を革命に捧げた偉大な革命家を亡くした底深い喪失感と、語りかけても決して返ってこない山びこの非在感と慟哭がこみ上げてくるだけです。心から冥福を祈ります。以下の手紙を霊前に捧げます。 |
「旧き友へ、40年ぶりの手紙」 1,久しぶりです 本当に長いご無沙汰でした。如何お過ごしでしょうか。意義ある日々へのご健闘に心から敬意を表したいと思います。当方は、過去15年間にわたる塾家業に終止符を打ち、ささやかな社会的活動を再開し、すでに3年近くが経過して現在に至っています。いまでは、ひたすら残された日々を懸命に“生き急ぐ心境”で「ブント総括」「反原発市民運動」「アソシエ21」「地元市民運動」「各種研究会、シンポジュウム」等の活動に参加しています。 さて、いま私は長い歳月にわたる空白を経て、久しぶりに「旧友への手紙」を書いています。信じ難いことですが、このたった一通の手紙を差し出すために、結果的には、実に40年間(正確には43年!)もの長い歳月を費やす羽目になってしてしまいました。これほど途方もない時間的経過を必要とした理由は、至極簡単です。それは60年安保闘争の直後に余儀なくされた深い底無しの「挫折」に直接起因しています。後述するように、当事の私はあの果てしない地下水道の迷路の中でもがきながら明日への出路を模索し、その混沌から抜け出すための試行錯誤を余儀なくされる日々でした。その中で60年安保闘争の総括、新左翼の歴史総括、自己の原体験を重ね合わせたブント党派闘争総括作業等を経て、これを媒介にした論理的思考回路を模索してきたのでした。そして、この難題に対して自分自身の納得可能な位相において結論を引き出し、脱出可能な出口を見出すためには、それも止むを得ない歳月であったようです。 だから、私が歩んできたこの自己史は、人格的評価を排した単なる政治ロジックの外形的枠組みに限定すれば、60年安保全学連のかっての幾人かの仲間達が演じたあの“華麗なる転身”とは、ちょうどその対極に位置しており、最も愚直かつ昂然と自らを演じた好個な見本といえるかも知れません。別言すれば、幾人かの仲間達がたどった彼岸への道は、単なる存在としてのザインの世界への先祖帰りともいうべき逆視への自己回帰とすれば、私においては、その自己回帰の道を峻拒して、あるべき存在としてのゾルレンの世界に自己措定する価値観に固執し続けた、新左翼創成への絶えざる原点回帰であったわけです。そして、この原点回帰を規定づけたものは明日の闘いへの衝動ではなくて、過去を跡づける総括への衝動や、後で触れるような個的原体験でした。 いずれにしても、私はいまようやく「60年安保闘争と新左翼政治総括」「新左翼党派闘争・内ゲバ・粛清論の歴史総括」に関しては、自分自身に納得がいく範囲内で、その骨格=彫塑らしきものを仕上げ、一区切りを付けることが出来たのではないかと、自分に言い聞かせているところです。その内容は最近の著述や今後の論文を参考にして欲しいのですが、現時点では、取り敢えずこの「旧き友への手紙」と、「新左翼創成と歴史過程にみる、党派闘争・内ゲバ・粛清論の視座」をもって補稿とします。 「今更、60年ブントでもないだろうに…!」という声もちらほら届きます。確かに、結果的にはこの総括作業を成し終えるには、半生もの長い歳月を要したわけですから、このような嘆息が漏れるのは蓋し当然だと思います。しかし、いまの私はある種の達成感がもたらす、晴々れとした気分を実感しているところです。それはちょうどあの巣鴨拘置所から久しぶりに保釈されて外門をくぐり、思わず青空を見上げたときの心情と気分にも似ています。私が、このような晴れた心情に至る背景には、60年安保闘争における歴史の原体験が根在していることは言うまでもありません。 ご承知の通り、私たち60年安保闘争世代は「未知への挑戦」という未来への限りない夢、希望、期待感に満ちあふれた世代でした。その闘いは、一切の既成のイデオロギー、価値観、理論、政治路線さえも否定の対象としながら、体制内化を深める既成左翼=社共に代わる、輝かしい未来社会を創出するための真の前衛党の建設を目指す闘いでした。そして、「人知れず、我れ微笑まん」(樺美智子)の表題のように、心の片隅では孤絶の闘いを誇りにさえ思いながら、純白の歴史に己を染め抜く栄光に自己の青春を賭け、6・15闘争に体現されたように空前絶後の大闘争を実現しました。ところがこの大闘争の直後から、三つ巴の同盟内分派闘争が始まり、第一次共産主義者同盟(ブント)は朽ちた巨木が倒壊するかのごとく、厳しい党内闘争を経て半年後に自壊しました。やがて、私たちは闇のような深い挫折感に襲われて、運動から離脱し、地下の迷路に入り込んでしまいました。 |
2,果てしない迷路 本来ならばこの「旧き友への手紙」の類も、とうの昔に届けるべき性質の書状でした。少なくとも唐牛健太郎、島成郎が永逝する遙か以前の、70年代か80年代に差し上げるべきでした。でも、それは能わざることでした。傍目には無為に過ぎ去ったと思しき長い歳月も、私にとっては止むを得ない日々の積み重ねでした。やはり、己が通過した個々の時代史への区切りをつける作業を経ない限り、一歩も前に進めないような受苦の日々が続き、あるときには肺腑をえぐられるような命がけの余興の一コマを経験したことも、今は遠い昔の物語です。 たしかに、かっての「戦友」達の幾人かは40年間未だに階級闘争の現役であり続けています。活動の政治的評価は敢えて別にするとして、その強靱な精神力や決意性の深さには頭が下がる思いがしています。また、その他の多くの過去の仲間達は多様な道を選択し、決断の日々を逞しく生き抜いてきました。それ自体がもつ価値を否定してもいないが、あえて相対化しているわけでもありません。いまに及んでは、私自身も結果的に固有の一つの選択をしたに過ぎないという心境です。 その私は長い年月にわたって60年安保闘争の総括にこだわり続け、果てしない堂々巡りの日々を送ってきました。一時的例外の時期もあったとはいえ、総じて、かっての仲間達と歴史や時代を熱っぽく論じ合ったり、互いに自己を開示し合うことも困難でした。そればかりか、過去40余年間、今日に至るまで実に多くの知友人達から書状を頂きながら、形式主義の嫌いな私などは「意味のある一行が記せない」という、たったそれだけの理由によって、1枚の年賀状や一行の返信さえもネグレクトし、敢えて関係性の断絶を厭わないままに、遣り過ごしてしまう有り様でした。 それは疑いもなく挫折の後遺症という虚な時空の歳月でした。60年安保闘争の総括→革通派結成→ブント崩壊へ至る歴史過程の政治総括に関しては、論理的基軸が見つからず、無意味な試行を繰り返すだけでした。まるで時計の針が止まったかのような思考停止状態に陥り、いたずらに過去への“こだわり”だけが、ズームアップされてしまうのでした。 このような“こだわり”の感情の湧出要因は、おそらく私が新左翼運動の歴史記述に深く関わりはじめた私的役柄と、密接不可分に結びついていたことは言うまでもありませんが、もう一つの大きな要因は、歴史世代論的言説の中に見出すことができるのではないかと思います。 すなわち、60年代後期から始まり、70年安保・沖縄・全共闘運動へと高揚した「熱い政治の季節」は、ヴェトナム植民地革命戦争との世界的連帯を目指した反戦闘争と、自己の根底的な存在の根拠を問う自己否定を媒介にして、支配、抑圧、欺瞞の社会的構造や存在の日常性の根底に迫るすぐれた闘いでした。しかも、この闘争形態と規模はヘルメットやゲバ棒という大衆的武装による対国家権力との「正規戦」としては日本階級闘争史上最高の到達地平を切り開きました。さらに、70年安保・沖縄闘・全共闘運動は、その後70年代階級闘争へと継起し、三里塚空港阻止闘争を初めとした、差別と抑圧、階級最深部の矛盾の構造をえぐり出す闘争など、歴史を画する闘いへと受け継がれていきました。 これらの闘いこそは、深い挫折感を身にまといながら、60年代を通過しつつあった当時の私にとっては、一時的とはいえ過去からの離脱と未来への予感を確かめるに十分な“希望を託する闘争”でした。つまり、当事の私は現実の階級闘争の最先端に一定の関わりをもちながらも、特定の政治党派を選択し得ないままに、ある種の距離を保ちながら運動に関わり続けてきました。 そのような私にとって、当事の新左翼諸党派が担った一連の闘争は、かって「未知への希望」を体験した60年安保世代に対して深い共感と希望をもたらすと共に、70年代の未来へ向けて確実につながる「既知への期待感」を予兆させる飛翔と転進を意味していたのでした。 |
3,内ゲバと粛清 ところが、新左翼諸党派は一方でこのような巨大な歴史的役割を果たしておきながら、他方で内ゲバを常態化させるという不本意な変貌・変質を遂げるとともに、あの連合赤軍は悲劇的事態を引き起こしてしまいました。勿論、内ゲバと粛清の両者を一蓮托生に論じることは全く無意味であり、位相を異にします。厳密に区別と同一性において論じるべきは当然ですが、少なくともそれは新左翼諸党派が内包する思想的未成熟、過失、誤謬、退廃がもたらした共通した外化現象であることは確かです。その意味で内ゲバと粛清が共通にもたらした悲劇的事態による衝撃は「既知への期待感」を粉々にうち砕くに十分でした。 新左翼諸党派が演じた一連の悲劇的事態をどう受け止め、どのように解釈したらよいのか。何を、どのように総括し、その歴史の深い闇の中から何を取り出せばよいのか。それは果てしない暗闇の日々でした。その衝撃と暗闇の世界から抜け出すためには、あらためて新左翼創成の初端に立ち返り、それを基点にして、過去、現在をつなぐ“ほつれた歴史の糸”をたぐり寄せ、その糸を紡いで未来への希望を編み出す他はないと決意し、その重い歴史命題に取り組んでいきました。その歴史命題とは新左翼創成と新左翼主義(ブント主義、革共同主義)が果たしてきた歴史功罪の根底的総括です。その概括はいずれ別途「補稿」で添付するとして、ここでは三項目を示しておきます。 1,「新左翼創成→60年安保闘争→第一次・第二次ブント崩壊の意味」 2,「ブント主義と連合赤軍粛清事件総括」 3,「革共同主義における党派闘争・内ゲバ論」 この三つの通史的総括作業を媒介にして、いまようやく長い地下トンネルから抜け出すことが出来たような気がします。つまり、この総括を通じて新左翼の遠い過去と現在を貫く歴史の赤い糸を紡ぎ、歴史命題へのアプローチの手がかりを掴むことが可能だし、新左翼創成とそれが内に胚胎する党派闘争、内ゲバ、粛清の原基を析出し、新左翼諸党派や連合赤軍が演じた、信じがたいほどの惨劇と愚行を止揚・廃絶する論理的回路への糸口を見出すことが可能だという結論に至りました。 勿論、これはあくまでも私自身の主観的結論であることは言うまでもありません。私は自分なりの結論に到達できたことによって、混迷からの出路を見い出すことが出来たし、新しい日常の中で多弁を取り戻すことが出来たことも事実です。そして、現在の歴史情況への自己発信も可能になり、その延長線上で、このお便りを差し上げることも可能になったという次第です。あらためて、これまで長い間返信しなかった過去の非礼と不様を深くお詫びすると共に、これからは旧を倍する交誼を重ねたいと心から念じる次第です。 |
4,鎮魂と悼辞 さて、この一連の総括の試みは、他方ではあの夥しい墓標への鎮魂の弔鐘となるのではないかと思います。内ゲバや粛清がもたらした愛する者との永劫の離別、その離別がもたらした慟哭と悲嘆は、私たち第三者の想像を絶したはずです。その渦中のご遺族の悲しみと困惑は極に達したのではないかと思います。一体何が起きたのか。何故、あのような不条理が正義と革命の名において演じられたのか。その歴史の背理をどう受容すればよいのか……。そもそも、あの惨劇の主役を演じてしまった彼・彼女達は、主観的に革命を演じつつ、結果的に反革命を演じ、かつ演じることを強いられたに過ぎなかったはずです。この歴史のパラドックスの中にこそ悲劇の真実が潜んでいる限り、内ゲバや粛清の当事者達がその根拠を、「ファシスト」「反革命」「階級敵」「内通予防」「敗北死」に求めたとしても、その言語の概念規定さえも余りにも空虚に過ぎます。また、ありきたりの世間的常識に照らし合わせて理解を試みようとしても、それは決して得心のいく論拠を探し当てたことにはなり得ないばかりか、「何かが、どこかで間違っていたのだ!」という疑念をぬぐい去ることは出来ません。 また、この内ゲバや粛清という行為を己の政治党派とは無関係な出来事であると装い、これを「反革命」「犯罪的行為」「政治的罪悪」として、彼岸の彼方から断罪したり、憎悪をかき立てて社会的情動の中にそれを封印してしまうような立場も無意味です。何故かといえば、このような政治的責任の隻欠落した対応は、先の世間的常識が抱く「何かが間違っている…」という疑念に対しては如何なる説得力も持ちません。そればかりか、何よりも亡き墓標の「無念」「悲痛」の叫びに対して、語り得べき片言隻句も持ち合わせていないはずです。 かって、私はこの重い設問に対しては沈黙する他はありませんでした。このような党派闘争・内ゲバ・粛清論に関して一寸たりとも論理を前に展開することが出来ないときの無力感たるや想像を超えるものでした。また、出口なき思考の袋小路に在るときの虚脱感たるや慚愧の極みでした。それはちょうど、闘争や運動のなかで挫折に直面した者が、まるで「失語症」に陥ってしまったかの如く、明日の闘争方針とその意義について、一言も言葉を発することができないような、あの「沈黙の闇」を余儀なくされた絶望感を彷彿させるものでした。 だが私自身は、いまようやく「内なる閉塞状態」から解放され、このようにして語り得る言葉(総括の手応え)を掴むことが出来ました。この間に執筆した関係諸論文を、死者の霊前に捧げると共に、かって、共に闘いのスクラムを組んだ過ぎし日の仲間=戦友の一人として、ご遺族への悼辞にしようと考えています。そして、この総括はたんに無念の死を遂げた多くの墓標への追善に止まりません。故人がこよなく愛した妻や子供達、ご両親や兄弟姉妹などの肉親の方々が、いま述べたように心の奥深くに仕舞い込んでおられるであろう遣り場のない想い、新左翼政治諸党派への不信、疑問、痛憤、憎悪、革命への猜疑など、様々な錯綜した心理的情調や論理などを少しでも整序していく上で、お役に立てばと考えます。 いうまでもなく過去の歴史を総括することは、いつ、どこで、何が、何故起こり、どのように推移したのか、その歴史過程における事実、意味、真実を明らかにしていくための作業を意味します。この難題に対して、真っ正面から総括しきることはとても不可能ですが、その論理的枠組みを提起することは可能です。現在に至ってようやく自分なりの回答が、否、歴史認識と判断の基準・視座とでも言える「総括レジュメ」が、ようやく用意できたと思います。 |
5,その理由と動機 これまで長い間、私は自分自身に或るテーマを課してきました。それは言うまでもなく、新左翼の歴史総括でした。この総括にこだわり続けてきた理由と動機は二つあります。第一は、創成期新左翼は、第一次ブント(共産主義者同盟)がそれを象徴的に体現したように、その出自の未成熟故に、自壊すべき必然的な内的要因を孕んでいたし、一つの歴史的流れの必然的結果という側面を内在させていました。そしてあの自壊から、10年、20年、30年の歴史が後景に流れ去って久しく、実に40余年の歳月が経過しました.。このように長い時空を経ているにもかかわらず、過去から現在に至るまでの総ての局面において、常に“過去を総括する”という特殊普遍的歴史課題が積み残されてきたことが事実であるとすれば、その積み残しは当然片づけるべきです。 では、その“積み残し”とは何か。それは60年安中派世代が、その後の60年代安後派世代へと伝承すべきはずの、必要最小限の有為な総括をなし得なかった、という不本意な歴史の事実に他なりません。そしてこの痛恨の結果が、一方では第二次連合ブント再建に始まり、幾多の闘争試練と組織再編を経て、最終局面では蜂起戦争派形成→共産同赤軍派登場→連合赤軍結成と粛清であり、他方では新左翼諸党派による内ゲバであったと考えます。そうだとすれば、この総括を成し遂げるべき一半の責任の所在は明白です。従って、第一次ブント=安中派世代としては、この一点において歴史上の政治的責任を引き受け、それを果たすべきであると考えています。そのためのささやかな試みの一つがこの総括であり、同時に、この総括が過去の歴史に対する自分自身へのけじめでもある、と考えます。 第二の動機は、現在の政治社会状況に対する危機意識と重なります。ご承知の通り、20世紀末期の東欧社会主義の崩壊を契機にしてグローバリズムという現代の妖怪が本格的に地球の津々浦々にまで席巻し始めました。多国籍企業のヘゲモニーによる資本主義商品経済は、固定された20世紀型国民国家の境界線を破壊し、新しい労働市場を飲み込み、新たに生み出される富の偏在はその規模を益々増大させ、ドラスチックなポスト帝国主義的、ポスト植民地主義的再編過程に全世界を叩き込もうとしています。アメリカはこの中で恥ずべき主役を演じています。アフガニスタン侵攻、湾岸戦争に続くイラク侵攻がより直接的には「中央アジア、中東の石油支配」を狙っていることは、いまや公然の事実ですが、世界史的にはそのアメリカ・ブッシュ政権は新保守主義を掲げながら自国の物質力を背景にした一極主義的世界支配への露骨な野望を隠そうともしません。このような歴史の危機に対してアメリカやヨーロッパでは数百万人、数十万人規模、全世界では何千万人規模の史上空前の反戦闘争が巻き起こり、自国の政府に対して確実な政治的圧力を加えています。このような闘争の高揚の中に世界史的胎動を感じ取ることができます。 それに比べて、我が国の反戦闘争は桁違いの惨状を呈しています。この惨状こそは、まさに日本新左翼諸党派の負の遺産であり、人々の反戦意識の高揚を押しとどめ、結集を妨げ、参加をためらわせる「重し」になっていることは確かだと思います。このような政治的認識と判断の一つの根拠は、地方自治における無党派層のパワーの拡大と胎動です。このような変革へのマグマが、地方政治のレベルに押しとどめられて、政治的全面化を妨げられているという無念な事実があります。この社会的政治的アンバランスと無機的アパシー現象に関して、無意味な歴史の仮定法を敢えて持ち出せば、その有力な敗因の一つは既成左翼に代わる新左翼諸党派の非在性にあるはずです。本来ならば、くだんの新左翼諸党派連合は「第三の系」として、反戦の一点において総ての垣根を越えた民衆の潜在的マグマの全面的発現に向けて運動を組織化すべきでした。だが、いまではそれに遠く及ばないどころか、呼びかけるべき対象すら見出し難い痛恨な事態をもたらしています。このような惨状から抜け出すための必要不可欠な試みの一つとして、党派闘争・内ゲバ・粛清問題の根底的総括と廃絶への真剣な模索があると確信するに至ったわけです。 第三の動機は、「60年安保とブントを読む」(島成郎記念文集、情況出版)で詳論したことですが、私自身の邪悪な個人的野心を動機にして、ブント崩壊の引き金に直接手を掛けてしまい、その結果、「左翼反対派」にとどまるはずの革通派を明確な「政治分派」として立ち上げるという不明を演じ、不毛な分派闘争を誘発させるという初端の契機を作ったことへの自責です。この点に、過去を容易に精算できない理由があったことは確かです。さらに、もう一つ別種な動機を補足すれば、最近、私が反原発やその他の取り組みを開始したことに係わります。私がこの種の活動を再開したのは、実に10数年ぶりのことです。この活動再開に至る動機は三つあります。 第一は、過去へのけじめを付けるための「総括の基軸」がようやく見つかったこと。そのためにこの総括を基軸にして明日への活動の第一歩を踏み出すことが容易に可能になり、ひいては、反原発市民運動の実践を活動再開の契機にして、新たな模索を開始しようと考えたこと。 第二は、 冒頭にも触れたように残された貴重な時間を“生き急ぐ心境”の中から生まれたこと。時代の激動と逆動が音を立てて進んでいるなかで、これを座視することは未来への暗黒を黙認するというだけではなくて、現在の自己と、過去の自己史の全否定につながること。どこまでも自分であり続けようと固く決意したこと。 第三は、塾家業への区切りが付いたこと。大手塾のマスプロ商業主義に対して、人間主義と個的集合主義の立場から「集団」における「個」の意味を問い続け、合理的かつ効率的な増学力・高学力を実現して、日本一過密な町田市の駅前大手塾を圧倒して度ながら頂点を実現できたという、ありきたりの意地と達成感。それに加えて、この期に及んだとはいえ、生活上のしがらみと生業にようやく落とし前をつけることが出来たこと等々、いくつかの個人的事情が複合しています。 |
6,結語 言うまでもないことですが、長い思考遍歴の過去に一区切りを付け、未来につながる回路を見いだせたという意味では、重くて長い過去ではありながら、決して長くはなかったという思いが心の片隅にあります。それに加えて、今は明鏡止水の境地と言うべきか、如何なる政治的・党派的野心、偽善、物欲、虚飾を語る意図を持たない心情たるや、実に爽快至極です。たとえ、その政治的主張や問題提起の内容が「自己満足」「独善」であったとしても、「無責任」のそしりさえ甘受すれば、己がじし我が人生は実に爽快そのものです。 また、この間の一連の駄文や総括文は、いわば40年ぶりに届ける「旧友への手紙」という意味合いを込めた久しぶりの便りであり、初めての便りです。これまでも幾度となく友人達との旧懐を暖める機会もありましたが、既述したように、挫折→離別の後は、互いに心底から語り合うことはなく、ささやかな問題意識や動静を確かめ合う程度の対話に終わってしまいました。ここにあらためて、我が半生の対話の空隙を埋める意味合いを込めて、これまで決して語ることもなかった遠い過去の経歴や、近況報告を兼ねた活動再開以後の著述の一覧等を末尾に付記して、結語とします。 |
◆【追悼・第二次共産主義者同盟議長さらぎ徳二、寄稿「旧き友への手紙(蔵田計成)」】 gakuseiundo/daiithijibundco/saragico.htm 〈故人は他の誰よりもブントの根底的総括の必要性を悲痛な思いを込めて叫び続け、「階級闘争の冬の時代」(故人)をもたらした内ゲバや粛清問題の歴史的解明の責任と決意を、そして、その総括が未だ十全でないことの無念さを死の瞬間まで抱き続けたはずです〉。蜂起派のさらぎさんは党派テロリズムについて自己批判したが、昨年51年振りに公然登場した革共同の清水丈夫議長はどうお考えだろうか。「前進チャンネル」にでも出演して全学連の若者たちと討論したり、人々の批判や質問に誠実に答える義務があるのではないか。権力と対決していくうえで暴力は避けられないと私は考える。しかし革命にとって暴力が必然なら倫理もまた不可避なのだ。過去を隠蔽し偽るものは、未来への扉を開くことはできない。現代日本においては、革命的暴力の復権のためには、まずは労働者階級のストライキの復権から始めなければならないと私は考える。労働者大衆の信と期待に応えられなければ、現在の社民路線さえ貫徹できまい。 |
補稿/新左翼創成と歴史歴史過程にみる、党派闘争、内ゲバ、粛清論の視座(抜粋) 1,新左翼創成期におけるブント主義は、新左翼主義としての革命求心主義であり、それを歴史的に体現した「6.15国会突入闘争」は、ブント主義(=新左翼主義)の「極限志向における勝利」であると同時に、その革命求心主義が本来的に限界性をもつ限りにおいて「極限志向における敗退」として闘われた。しかし、第一次ブントはこのブント・新左翼主義がもつ『勝利と敗退の正負二面性、階級闘争の公理がもつパラドックスを厳密かつ正当に総括し得ないままに自壊した。つまり、一方では自己が果たした役割と成果を正当に評価することが出来ず、他方では、巨大なカベという限界性を正当に直視・総括できないままに、そのまま党内分派闘争に突入し、そのまま自壊への急坂を転がり落ちていったのである。』を厳密かつ正当に総括し得ないままに自壊した。 2,この第一次ブントの崩壊不全性は、結果的には、革共同第三次分裂による中核派 とその後の第二次ブント再建によって、新左翼主義=革命求心主義を継承する二党派 を派生させることになり、それを右から批判する革マル派を加えた新左翼三極構造の大枠が出来上がった。なお、新左翼党派は第四インター、社青同、構改派、ML派など最大時には5流20数派を数えることもあった。 3,第二次ブントの最大の問題点は、綱領問題の不十分性は当然として、結果的には、第一次ブントの革命求心主義の「極限志向における正負二面性」の厳密な総括をなし得ないままに、一個二重の極限志向、つまり、革命への求心主義という「理念的極限志向」と、「闘うための党建設」「戦略・戦術の党」を体現する闘争形態上の「実践的極限志向」を目指して、戦略・戦術の「幾何級数的拡大路線」「行け行けどんどん路線」を自己純化させながら、結局は「ブント主義の栄辱」の中で極限を演じるという戦略路線上の軌跡自体にあった。とりわけ、政治指導部は左からの突き上げを受けてギリギリの妥協的選択を重ねつつも、階級攻防の極限的対峙状態に直面するに及んで、それに耐えきれずに自己破綻し、解体していったのであった。ブント内の内ゲバもこの過程で起きた。 4,ブント解体後に起きた悲劇的結末が連合赤軍の粛清事件であった。この粛清事件は「銃による殲滅戦」という戦術的極限志向における政治路線上の誤りと、その極限過程で派生する内部矛盾の止揚に際して問われる「思想の極限的深化」、という二つの極限化において生じた両者間のズレ=跛行現象の中で発生した「思想性の未成熟」「哲学の貧困」故に演じた修羅であった。つまり、連合赤軍は、山岳アジトという政治的、軍事的、社会的重囲という階級攻防戦の中で必然的に発生する組織内部の矛盾と、その矛盾を止揚して高度な団結の質を獲得するための媒介項として「一挙的共産主義化論」という超主観主義的観念論、主体・階級形成論を創り出し、それを実行に移した。そして、闘かわなければ決して犯すことのない過失(党内粛清)という致命的誤りを犯し、「軽井沢銃撃戦」を経て自滅した。 5,70年安保・沖縄・全共闘運動の激闘における闘争形態は、大衆的街頭実力闘争から大衆的街頭武装叛乱、カルチェラタン型武装占拠、武装解放区、さらには、主観的ながら蜂起戦争形態をたぐり寄せた。このような軍事的闘争形態の高揚と時代志向を背景にして、新左翼諸党派が常態化させてしまったのが、対権力闘争の激闘に媒介された階級内矛盾の否定的外化形態としての内ゲバであった。 6,この内ゲバ全盛期において、ブント系諸党派はゲバルト行使に際しては相手の肉体的抹殺を回避した。その論理的根拠は第一次ブントの「闘うための前衛党建設論」にあった。この前衛党論は「何が真の前衛党か?」を巡るせめぎ合い=党派闘争論を基底にしているという意味で、「自己相対化の論理」を前提にした前衛党論であった。また、その限りで党派闘争を政治党派の正当性を競う限定的手段として自己規定したブント流党派闘争論でもあった。このブント前衛党論や党派闘争論がもつ論理構造の特徴は、党派闘争における正当性を必ずしも「自己の正当性」を越える絶対的党派性としては定位していない点にある。そればかりか、逆に、自己対象化を可能にする「内ゲバ否定」と止揚への「内在的契機」を内包しているのである。 7,これに対して、相手の肉体的抹殺を自己目的化してゲバルトを行使したのは、革共同革マル派、中核派、革労協派の三派であり、ブント系諸党派とは対極をなしている。そのうち革マル派前衛党論は初期革共同の「党のための闘い論」に渕源をもっている。この革マル派の前衛党論や党派闘争論では、党派闘争自体は自己主張の手段というよりも、むしろ自己目的的に手段化されている。そればかりか、その論理構造は自己の存在性(=党性)と自己の正当性(=党派性)を大前提にした「他者否定」の構造をもっており、内ゲバの否定と報復の連鎖を断ち切る内在的契機を持ち得ていない。さらに、革マル派黒田理論によれば、未来社会において実現すべき理念を「永遠の今」として、それを現在的に体現しているのが自己の党であり、その自己の党の無謬性を前提にして、「他党派解体」「お仕置き党派闘争論」を公然と主張する。この特異な「組織戦術論」と称する党派闘争論が、70年安保闘争を準備した60年代の闘争過程において、新左翼諸党派内で展開された主要な内ゲバでは、ことごとく重要な震源地の一極を占めていた。また、後にも触れるように対中核派との「革共同戦争」において直接の引き金になった。 8,60年安保闘争と第一次ブントの総敗北の経験から有益な教訓を引き出したのは中核派であった。70年安保・沖縄・全共闘運動の激闘においては、大衆的街頭叛乱、大衆暴動路線へと戦術的に自己限定することに成功した、といっても過言ではない。この点で中核派はブント流の軍事力学主義的拡大路線を排した自己制動を十全に機能させ、政治党派としては飛躍的な成果を勝ち取ったのであった。 ところが、中核派は4桁の大量逮捕者を出し、破防法適用という困難な事態を強いられた。革マル派はこの間隙をぬって解体攻撃を開始した。中核派は予期しない背腹の攻勢の前に相次ぐ敗北を喫し、長期の対峙戦を余儀なくされた。しかも、最初の犠牲者は革マル派活動家であった。中核派はこれを「過失死」として総括しないで、完全な沈黙を選んだ。また、「強いられた内ゲバ」として革マル派の党派闘争論を真っ正面から批判したり、内ゲバ収束に向けて努力する用意があることを内外に向けて宣明することは一切しなかった。さらにまた、「反革命的」「ファッシスト的」という形容詞的用法と限定的な規定付けを峻拒した。そして革マル派を反革命、ファッシスト、K=K(革マル=警察)連合と断罪規定し、「聖戦論」という単純明快な内向けの論理を対置し、非妥協的党派戦争、絶対殲滅戦の道を選び、内ゲバを断行していった。 こうした中核派の攻勢的党派闘争論の根底には、初期革共同主義としての「党のための闘い論」に加えて、「党としての闘い」「党による闘い」という独自の前衛党論があり、中核派流党派闘争論の論理的根拠の一つになっている。さらにまた、中核派は「反スターリン主義」、革マル派は「スターリン主義打倒」というように、革共同両派は共に「反帝国主義、反スターリン主義」という独特な政治綱領を掲げている。この「反帝反スタ」綱領は反体制イデオロギー党派をも、反革命規定の下に打倒対象にするという政治イデオロギー論に通底しており、党派闘争論を逆規定していくはずである。 9、すでに、新左翼創成から46年の歳月が過ぎようとしている。この現時点において何が問われているか。疑いもなく、その一つの課題は内ゲバ問題に対するケジメではないか。新左翼諸党派が日々刻んできた過去の激闘史の中から止揚すべき根底的問題点を剔出して、内ゲバ廃絶に向けた再生への道を模索する試みは、過去、現在、未来へと歴史をつなげるための至上命題として、いまもなお厳存しているのではないだろうか。 付記 取り敢えず、近作のいくつかの目録をお届けします。多少なりとも興味や関心がおありでしたらば、忙中の閑にて目を通して下さい。 主な著述・論文掲載一覧 (1)「ブント主義をどう考えるのか、一つの試論」(月刊「情況」01年3月号) (2)「試論−ブントと新左翼運動を検証する」(機関紙「赤星」01年5月、連載6回、情況論文の補強) (3)「ブント主義=倍々ゲーム論の陥穽と教訓」(「我かく闘えり」さらぎ徳二著、情況出版、01年 11月) (4)「秘話/ブント『革通派』結成の謎」(「60年安保とブントを読む」島成郎記念文集、情況出版、02年6月) (5)「東海村JCO臨界事故、検事冒頭陳述の欺瞞を暴く」(「原子力の終焉」季刊アソシエ、蔵田計成・石井崇志/編集、お茶の水書房、02年11月) (6)「JCO臨界事故の真因と核燃機構の責任」(季刊「理戦」実践社、02年12月、季刊アソシエ論文の補強) (7)「検証 内ゲバ」(いいだもも・蔵田計成/編著、社会批評社、03年1月) (8)「大いに異議あり!塩見孝也君の『創』論文」(機関紙「SENKI」03年1月15日・第1098号) (9)「「内ゲバ廃絶のための私の提言(公開質問状への回答)」(機関誌「SENKI」03年4月5日・第1106号) (10)月刊機関誌「アソシエ21ニューズレター」掲載小文。「異常と日常の間に見る東海村」(00/10)「歓迎/重信房子への手紙」(00/12)、「臨界事故で露呈した核の本質」(01/11)、社会派カメラマン樋口健二さん」(02/8)、「浜岡原発を止めよう」02/11 5月16日補筆・訂正 |
(私論.私見)