生田浩二論、山口一理(佐伯秀光)論

 更新日/2020(平成31→5.1栄和改元、栄和2)年.9.27日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 60年安保闘争を指導した共産主義者同盟(ブント)は、一般に書記長の島成郎(しま・しげお)氏が評価されているが、れんだいには女房役を勤めた生田浩二(加藤明男)の方も高く評価したい。思想遍歴の面では生田の方がより深く、ひょっとして当時の思想戦線で最深部に達していたのではないのかとも畏敬している。その生田の履歴を知るとなるとこれが滅法難しい。「アメリカでの不慮の事故死」の後発行された「生田夫妻追悼記念文集」があるようだが、れんだいこの手元に届かない。ややあきらめていたら、猪野健治氏の「ゼンガクレン」に一部取り上げられていた。希少価値情報が載せられておりこの僥倖に感謝している。これを参考にしながら、以下れんだいこ観点で纏めてみる。

 2006.4.26日再編集 れんだいこ拝


【おいたち】
 1933(昭和8).2.3日、生まれ。静岡県出身。

【東大細胞以前の履歴】
 生田浩二氏は、県立静岡中学を経て1959(昭和24)年、静岡第一高校に入学。弁論部に入部。仲間と激論を闘わすなかで急速にマルクス主義に近ずいていく。1950(昭和25)年、民青同に加盟、民青静岡城内高校班を組織、翌年日共へ入党。ベルリン・アピールの原爆署名活動を積極的に展開し、党関係のステッカー貼り、ガリ版切りなどで夜遅くまで活動する。

【秀才の誉れの逸話】
 安保闘争から50年、あの時若者は燃えていた連載T−7の6」を転載する。
小島  生田浩二は「六全協」の前に上田に対して査問のようなこともやってたって話がある。
古賀  生田は「所感派」のゴリゴリだったからね。上田は「国際派」だからスパイだっていう、あれ?
小島

 そう。参議院議員だった上田耕一郎と参議院の前で会った時、たまには遊びに来いよって言うんで、俺みたいな反党分子が行っていいのかなって言ったら、いやもう昔のこと知っているやついないから是非って。上田が「ところで、生田はどうした?」って訊くから、「生田は死んじゃったよ」って言ったら、「へー、俺はあいつにひどい目に遭ったよ」って。中野地区議会で、中央線沿線のどこかでやっていたんだな、生田は。上田は査問されてね。我々からすれば上田耕一郎は大先輩ですよね。大先輩を査問して。

篠原  生田は歳いくつぐらいなの。
小島  昭和7年生まれ。僕と同じ。
篠原  同じ年ですか。ずいぶんませてたんだね、彼も。
古賀  生田はストレートで入学してるからね。
小島

 柳沢伯夫(元金融担当大臣・厚生労働大臣)、静岡高校で生田の後輩なんですよ。僕らが最初に会った時、「小島、生田は知ってるか」って言うから、「知ってるよ、なぜ」って訊いたら、「俺、静高の時、社研に入ったら、生田っていうすごい先輩がいるって言われた」って。柳沢は会ったことないんだけど、生田について神話みたいなのを聞かされたって言うんだ。東大ストレートで入ったってね。


【所感派時代】
 1951(昭和26)年、東大教養部に入学。共産党員として学生運動に没入する。「50年分裂」による党分裂に際しては所感派に与し、駒場寮社会科学研究会に入り、1ヵ月後の「血のメーデー」に参加。中核自衛隊の一員になり軍事組織(Y組織)に属して火炎瓶闘争を敢行している。

 9月、東大教養部Cの日共細胞キャップになる(1953(昭和28).7月まで就任)。この間、細胞会議をリードする。中核自衛隊の責任者を兼任し、浅間山軍事基地化反対闘争には駒場学生300名を動員、その先頭にたって指導する。1953(昭和28).9月、日共西部地区委員になり(1955(昭和30).11月まで勤める)。この時民青を担当している。

 この頃の生田について、「生田夫妻追悼記念文集」で山田隆夫氏は次のように記している。
 概要「生田について語ることは、僕自身について語るということにはならないか。僕ら−というのは、生田もふくめて、僕らの世代は、そんな風にある一つの時代を生きてきたのではなかったか。生田も僕も1952年(27年)という年に大学に入った。その“偶然”が、僕らを“血のメーデー”に、そして“火炎瓶時代”にしばりつけた。(中略)ある朝、信じられないほど早い時間に、僕らは、駒場の裏のグランドの人影のない片隅に立っていた。四〜五人はいたように思う。前夜、寮の一室で“製造”した“火炎瓶”を実験しようというのだった。痕跡を残さないように僕はアルミの洗面器を用意しいてきていた(数日か数週間ののちその洗面器は底がスッポリ抜けてしまった)。その日か、少なくとも翌日くらいに、僕らは、駒場から渋谷駅に向かう学生の非合法デモに混じって、初めて“出勤”した。両方のポケットに、ウィスキーの小瓶が入っていた。デモはすぐに道玄坂の途中から警官に追い散らされ、渋谷の駅前広場に着いた時は、先着の労働者のデモ隊も駅舎の側にぴったり押し付けられていた。(中略)警官隊は一列になってこちら側を向き、その後ろの方、広場の真ん中には、応援の警官隊が整列し、大きなトラックが並んでいた。一番手近なトラックの運転台に向かって群衆の中から光りが飛んだ。うまく命中して、運転台にパッと火が燃え上がり、群集と対峙する一列横隊の警官の頭を越えて幾つかの光りが飛ぶ。と、僕のすぐ横で混乱が起こった。群衆の中に私服が紛れ込んでいて、一人の男が現場を押えられたのだ。僕の内部に恐怖が走った。ポケットの中のびんが空しく汗に濡れる−道玄坂から大映の方へ曲がるところで生田と一緒になった。彼は少し慌て気味に“おめえは大胆だな”と言った」。

 都丸譲二氏は次のように記している。
 「共に闘い共に悩んだ私達の仲間、彼が抱く思想と行動に私達の多くが影響された。その中で私達にとって何より貴重な体験は、彼の行動と生活の中で、私心、エゴ、というものを全く感じたことがなかったことである」。

 しかし、武装闘争は失敗し、所感派は行き詰まる。

【六全協以降の歩み】
 1955(昭和30)年の六全協で所感派から国際派へのクーデーター的政変が発生し、以降、野坂―宮顕指導部が確立する。生田は徳球系党中央に忠誠を尽すという意味で、この変化にも即応している。この頃の生田のことを島が「生田夫妻追悼記念文集」の中で次のように述べている。
 「その頃、生田氏は、『食うものも食わず、党中央の忠実なる尖兵として全生活を注ぎ込み、...阿呆面下げて茫然とする党機関の常任や、『学園に帰れ』と一目散に元の木阿弥に逃げ込んだ学生党員らを尻目に、黙々と放擲された地下組織の後始末をしつつ、目前に展開されている党腐敗と瓦解の図を、自分自身の全人間的反映の像として噛み締めていた」。

 1956(昭和31)年のスターリン批判、コミンフォルムの解散が、当時の学生運動家に衝撃を与える。多くの学生党員が動揺から脱落と云われるコースへ向かう中、生田は、東大中央委議長、都学連執行委員(組織部長)に選出されている。この年の9月、黒田寛一が生田論文を「探求」紙上で、「左翼スターリニズム」として批判しているとのことである。黒寛が早速に生田批判に手を染めているところに興趣が注がれるが生田論文も黒寛論文も手元に無いのでコメントできない。

【ブント・フラクション活動の開始】
 その後、国際派内急進派として六全協後の党中央に反発し始めていた島と誼を通じる。先行して結成されたトロツキズム連盟の影響を受けつつもこれにも反発し独自の左派運動を展望する。1957.12月、島・生田・佐伯の三名が、横浜の佐伯の家で新党旗揚げのためのフラクション結成を決意している。党内分派禁止規律に対する自覚した違反を敢えてなそうとしていたことになる。この僅か3名のスタートが翌年のブント結成の萌芽となった。

 この時のことを島氏は後年次のように追想している。
 「既に、『スターリン主義』が単なる一思想ではなくソ連という強大な国家意思の実現と、その物質化されたものとの認識に到達した限り、『スターリン主義』日共は最早変え得る存在ではなく、打倒すべき対象であり、欲するところは、これに代わる新しき前衛の創設である。この立場に立った生田は、密かに、しかし容易ならぬ決意を持って『新しき前衛』の準備に着手した。1957年の暮れの或る日、この合議のため生田と私、そしてSが会した場所こそ、9年後、生田の灰を迎えねばならなかったあの横浜の寺の一隅であった」。

 
東大細胞の島成郎、生田浩二、佐伯秀光、冨岡倍雄、青木昌彦、早大の片山○夫、小泉修一ら、関西の星宮らが寄り集い始め、レーニン・トロツキー路線による国際共産主義運動の見直しに取りかかり、理論展開し始めた。
この連中は日本トロツキスト連盟派のオルグに応じなかったグループということにもなる。この頃、トロツキー及びトロツキズムとは何ものであるのかについて懸命に調査を開始していったようである。ご多分に漏れず、彼らもまたこの時まで党のスターリン主義的な思想教育の影響を受けてトロツキズムについては封印状態であった。この時、対馬忠行、太田竜らの著作の助けを借りながら禁断の書トロツキー著作本が貪るように読まれて いくことになった。島・氏は、「戦後史の証言ブント」の中で次のように述べている。
 「一枚一枚眼のうろこが落ちる思いであった。決して過去になったものではない。現代の世界に迫りうる思想とも感じた」。

 
山口一理の論文 「10月革命の道とわれわれの道−国際共産主義運動の歴史的教訓」(後に結成されるブントの原典となったと言われている)と「プロレタリア世界革命万才!」を掲載した日本共産党東大細胞機関紙「マルクス・レーニン主義」第9号が刷り上がったのが57.12月の大晦日の夜であった。

 この「山口一理論文」は、かなり長大な文面で、国際共産主義運動と日本共産党の運動を系統的に批判的総括しており、全学連急進主義者たちに衝撃的な影響を与えていくことになった。特に当時の日本共産党に対する「『敵は優勢、味方は劣勢』という空虚なスローガンによってズブズブの大衆追随主義に革命部隊を封じ込め、抽象的な『平和と民主主義』のスローガンによって、プロレタリアートの前衛的部隊を武装解除させてしまったのであった」という認識は、宮顕主導の右翼的党運動に対する鋭角的なアンチの観点となった。

 この「山口一理論文」が理論的な武器になり、主に日本共産党東大細胞たちを中心として、その影響下にあった学生達が中心となって後述するブント結成へむかうことになる。論文が全学連急進主義者たちに衝撃的な影響を与えていくことになった。この、主に日本共産党東大細胞たちを中心として、その影響下にあった学生達が中心となって後述するブント結成へむかうことになる。

 この衝撃を常木守氏は次のように表現している。
 「もう一つの戦慄は、重く立ち込めていた分厚い雲間が切れて、澄み切った青空が微(かす)かに姿を現したような強い解放感だった。これだったのだ。全世界と対峙すべき革命思想の理念がここに眠り込み、閉ざされていたのだ」。

 この後、生田は、日共第7回大会の代議員として選出される。島・氏は、「生田夫妻追悼記念文集」の中で次のように述べている。
 「一方、党人としての生田は、この党の行方を見届けねばならぬ故に、六全協後の党内闘争の目標であった日共第7回大会に向け細心の組織化を行い、最も年少の代議員の一人になったのだ」。

 1958.3月、東大細胞総会が開かれ、この頃においてはプロレタリア世界革命の見地が当然とされるようになっていた。陶山健一氏の「安保闘争と生田浩二」(生田浩二夫妻追悼記念文集)には次のように書かれている。
 概要「57年の秋から58年の3月僅かな期間、『反逆者』、『探求』、『世界革命』などの文書と、主に古本屋で買い漁ったマルクス・レーニン・トロツキーの戦前版の本によって薦められた思想転換は、驚くべきほどのスピードだったといえる。(中略)58年1月と3月、東大細胞定例総会で政治報告を行った生田は、新しい世界を目指す運動のリーダーとして、自信に満ちて、『世界革命』を力説した。スターリンの革命運動に対する裏切りを弾劾し、『同志スターリン』の祖国防衛の業績を弁護するNを一蹴した論議は実に楽しそうであった」(猪野健治「ゼンガクレン」)。」。

 この頃の生田の活躍が特記されるに値する。生田は、「6.1事件」からブントの結成までの期間を、理論面行動面で指導し、全国オルグの片道切符代や運動方針案、ビラの印刷代、集会会場費などの資金調達までやってのけている。西京司氏の指導下にあった日共京大細胞をブントへ獲得したのも生田の功績であった。この間、国労の新潟闘争を個人的に支援、その後、国労新潟が原水禁ストをアピールし、一斉汽笛吹鳴と一分間ストを実現したのも生田の影響であったと云われる。


 
1958(昭和33)年の「6.1事件」、7月の第7回党大会を前後して東大細胞内で分派(フラクション)活動を開始する。

 1958.11.29日、生田浩二の島成郎宛手紙が遺されている。
 「第4インター日本支部なんてものに、色目を使う必要は、毛頭ないと思う。今一つは、黒田にしても、栗原にしても、危なっかしくて、こちらのアキレスけんになる人物でしかない。まあ、翻訳、その他に動いてもらう以外に、妙なところに手をつけないように注意してもらうことだ」(遺稿集433Pとのこと)。

【ブント結成と60年安保闘争】
 ブントを立ち上げる。ブントの政治局員兼事務局長として安保闘争を指導した。学生運動の活動家としての約十年間に、このブントが60年安保闘争を領導していくことになる。「山口一理がヨーロッパに行ってしまった後、生田浩二(経済学者)と並んでブントの代表的理論家となった姫岡玲治(青木昌彦:京大経済学部教授・スタンフォード大教授)による『国家独占資本主義論』(現代思潮社)が出たのは60年だったと思う」、「日米安保に反対する学生運動において、当時全学連にかわって新しい流れを形成していった共産主義者同盟(ブント)にて実質的に組織を掌握していた生田浩二事務局長」と評されている。

 陶山健一は次のように回想している。
 「(生田浩二の)『所感派スタイル』とわれわれが呼んだこの実践性は、言い知れぬ倫理的力で活動家を引きつけていた。・・・彼はよく冗談に『銃殺だ』と引金をひくかっこうをしてみせた。腕をまっすぐのばし、時に左の指を耳の穴に入れる仕草は『所感派』の実感をみせつけるに十分だった」(「生田夫妻追悼記念文集」113Pとのこと)。

【ブント党内抗争と生田の対応】
 第5回大会でブントは分裂する。生田はそれをきっかけにブントからぷっつり身を引いている。

【その後の生田、渡米先での様子】
 1964(昭和39)年、東大大学院経済学研究所博士課程在籍のまま米国へ留学する。ビザ申請の段階で反米活動の前歴でクレームを付けられ、これを切り抜けるために米大使館へ度々出かけ、書記官と直談判までやり、東大に出張講義に来ていたパトリッシュ教授にも釈明を依頼している。この経過を見れば、「生田は裏切った。フルブライト資金を受けて米国へ渡ったことがそれを裏付けている」なる批判は皮相的であろう。

 留学中のエピソード。数量経済学を専攻してペンシルヴァニア大学に留学。リージョナル・サイエンス科では、提出された問題の誤りを発見し、これを担当の教授に指摘して教授を窮地に追い込んだりする有能性を見せている。イギリス、インド、中国の学友から「コージ、コージ」と親しまれていた。坂下昇氏は生田の優秀さについて次のように評している。
 「生田さんが三度更新取得されたペン大のユニバーシティ・フェローシップはペン大の学生にとって最高栄誉というべきもの」。

【渡米先で焼死】
 1966(昭和41).3.23日、生田が米国ペンシルベニア大学留学中、生田浩二、恭子夫妻はアパートの火災で死んだ。33歳の若さだった。

 後に台湾の事実上の大使として駐日する羅福全がピッツバーグでは生田浩二のルームメートだった。羅大使の公邸には生田の書き残した掛け軸が掛けられていた、と云う。「かれが事故死したときには葬儀もやりました」とのことである。
(私論.私見)
 れんだいこは、生田夫妻の火災死亡に不審な気持ちを抱いているが確かめようもない。当時の誰も本当に事故死かどうか不審にしていないおぼこさが認められる。「生田の死の不審」は永遠に閉ざされるであろうが口惜しいことである。

 追記すれば、生田が、今れんだいこが獲得しているところの国際ユダ邪論に通じていれば米国留学を避けたと思われる。さすればこのような焼死事件にも遭わずに済んだと思う。国際ユダ邪論を獲得していないばかりにかような目に遭わされたと思っている。逆に、生田のような憂き目に遭わなかった同じフルブライト資金仲間の
姫岡玲治(青木昌彦。京大経済学部名誉教授、スタンフォード大名誉教授)なぞは凡庸さ故に取り込まれ、故に無難であったと云うことになる。国際ユダ邪陰謀論はこういう風に役立つと云うことになる。日本左派運動は、旧左翼も新左翼もこの国際ユダ邪陰謀論を否定するので、理論が歴史に肉薄しない。

 2015.12.28日 れんだいこ拝
 「No287  新聞で見る1969年 ゲリラ参上 大衆をカクレミノに」の生田関連ヶ所を確認する。
 「3年目の3月31日、羽田空港に遺骨が着いた。大ぜいの人に迎えられた霊は、東大大学院博士課程に在籍のままアメリカのペンシルバニア大学に留学中、不運の火災事故で死んだ生田浩二、恭子夫妻の霊であった。生田氏はアメリカで計量経済学を勉強していた。空港で霊を出迎えた一人に、島成郎氏がいた。島氏はいま、東京小平市の広大な敷地の中にある国立武蔵療養所で、精神科の医師として働くかたわら、精神病の原因究明のため、電気顕微鏡で腦細胞をのぞき、精神病理学の研究に熱を入れている。60年安保のとき、国会に突入し「赤いカミナリ族」といわれた全学連主流派のブント。生田氏は、そのブントの事務局長、島氏は書記長であった」。

【追悼集】
 生田追悼として「生田夫妻追悼記念文集」(小長井法律事務所)が発刊された。現在手に入らない幻本となっている。次のように評されている。
 「もし肉声的な回顧というなら『生田夫妻追悼記念文集』。生田浩二は安保ブントの書記局員として重要な位置を占め、闘争終了後、ペンシルヴァニア大学に渡り、1966年3月、アパート火災という不慮の事故で亡くなった。この追悼文集は生田浩二と恭子夫人に捧げられたものである。島成郎、唐牛健太郎、生田浩二、青木昌彦、山口一理と言った強烈な個性の集まりであった安保ブントの肉声を聴くにはこの追悼集は欠かせない」。

 島は、生田と共産党の関係について次のように述べている。
 「若き日よりともに過してきた日共は、ただ彼をいれた器だけに止らなかったのではないか。常に自分から離れ、逆に自分に立ち向ってくる物神であると同時に、自己の一変身と錯覚される奇妙な存在である」(「生田夫妻追悼記念文集」)。

 島は、生田の日米新安保条約自然承認直後の様子について次のように述べている。
 「日米新安保条約自然承認の時が刻一刻と近づいていたあの夜、私は国会を取り巻いた数万の学生.市民とともに首相官邸の前にいた。ジグザグ行進で官邸の周囲を走るデモ隊を前に、そしてまた動かずにただ座っている学生の間で、私は、どうすることも出来ずに、空っぽの胃から絞り出すようにヘドを刷いてずくまっていた。その時、その横で、『共産主義者同盟』の旗の近くにいた生田が、怒ったような顔つきで、腕を振り回しながら『畜生、畜生、このエネルギーが!このエネルギーが、どうにも出来ない!ブントも駄目だ!』と誰にいうでもなく、吐き出すように叫んでいた。この怒りとも自嘲ともいえぬつぶやきを口にした生田・・・」

【佐伯秀光(=山口一理)】
 旧制横浜第一中学校(現、神奈川県立希望ヶ丘高等学校)から東大理学部に進学。 日共分裂時は主流派。ブント結成以前、東大細胞機関誌にスターリン全面批判の論文を掲載し、党内に大きな波紋を投ずる。ブント結成の理論的指導者。




(私論.私見)