トロツキズム運動の誕生過程、分裂過程考

 更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5)年.3.14日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 日本でのトロツキズムの発生過程を詳論した論稿に「日本革命的共産主義者同盟小史」がある。「「第4期、全学連の再建期、新左翼(トロツキズム)の潮流発生、ブント系全学連の誕生」と同時代的な動きであるが、本編に取り入れると却って煩雑になるので、ここに別立てで一章設けることにした。以下、これをれんだいこ風に整理してみたい。2006.9.21日、手直ししたが、まだ納得できるものではない。但し、流れの整理は前より良くなったであろう。いずれ、トロツキー理論そのものの解析、ネオ・シオニズムとの相関と異同について言及していきたい。

 2006.9.21日再編集 れんだいこ拝


【日本トロツキズム曙光運動概括、戦後学生運動第4期、1956年のもう一つの動き】
 戦後学生運動の第4期のもう一つの動きとして、トロツキズム運動の誕生がある。このような背景から57年頃様々な反日共系左翼が誕生することとなった。これを一応新左翼と称することにする。新左翼が目指したのは、ほぼ共通してス ターリン主義によって汚染される以前の国際共産主義運動への回帰であり、 必然的にスターリンと対立し放逐されたトロツキーの再評価へと向かうことになった。この間の国際共産主義運動において、トロツキズムは鬼門筋として封印されていた。つまり一種禁断の木の実であった。

 スターリン政治の全的否定が相応しいのかどうか別にして、スターリンならではの影響として考えられることに、党内外の強権的支配と国際共産主義運動の「ソ連邦を共産主義の祖国とする防衛運動」へのねじ曲げが認められる。戦後の左翼運動のこの当時に於いて、スターリン主義のこの部分がにわかにクローズアップされてくることになった。 特に、「スターリン流祖国防衛運動」に対置される「トロツキー流永久革命論」 (パーマネント・レボリューション)が脚光を浴び、席巻していくこととなった。

 この時期、日本共産党批判の先進的潮流がこぞってトロツキズムの開封へと向かうことになった。党派的な流れには次の動きが認められる。「山西英一らの三多摩グルー プ」、「対馬忠行」、「太田竜(栗原登一)」、「内田英世・富雄兄弟」、「黒田寛一グループ」、「西京司・岡谷進の関西グループ」。その他研究団体として次の動きが認められる。思想の広場同人の編集になる「現代思潮」、東大自然弁証法研究会の「科学と方法」、福本らの「農民懇話会」、京都の現代史研究会の「現代史研究」、愛知の「人民」、浦和付近の青年たちによる「現状分析研究会」、東大細胞による機関誌「マルクス・レーニン主義」等々。

 1956.3月、トロツキーを指導者としてパリで結成された第四インターナショナル国際書記局から、日本国内のトロツキストに「第四インター日本支部を確立するように」という書簡が届いた。これを受けて、元日共党員・栗原登一は、日共党員の大屋史郎や内田英世らに働きかけ、トロツキズムの実践を目指す組織の結集を図る。

 この動きが具体化するのは1957年になってであるが遂に、日本左派運動史上にトロツキズム運動結社が誕生する。この当時思想的に近接していた黒田寛一や内田英世・富雄兄弟と太田竜らの3グループによる「日本トロツキスト連盟」結成準備会がもたれ、1.27日、「日本トロツキスト連盟」が発足した。内田らの「反逆者」が連盟機関紙となった。山西らの三多摩グループは時期尚早として結集してこなかった。西京司・岡谷進らの関西グループが参加してくるのは、翌58.3月以降である。
 
 「日本トロツキスト連盟」は、第4インターナショナル日本支部を結成する準備会として位置付けられていた。当初は思想同人的サークル集団として発足した。連盟は、国際共産主義運動の歪曲の主原因をスターリニズムに求め、 スターリンが駆逐したトロツキー路線の方に共産主義運動の正当性を見いだそうとしていた。これが後の展開から見て新左翼の先駆的な流れとなった。

 その主張を見るに、黒寛の次の主張が代表している。

 「既成のあらゆる理論や思想は、我々にとっては盲従や跪拝の対象ではなく、まさに批判され摂取されるべき対象である。それらは、 我々のあくことなき探求の過程で、あるいは破棄され、あるいは血肉化されて、新しい思想創造の基礎となり、革命的実践として現実化されねばならない」(「探求」)。

 つまり、早くも「60年安保闘争」の三年より前のこの時点で日本共産党的運動に見切りを付け、これに決別して日本共産党に替わる新党運動を自覚的に創造することが始められたことになる。

(私論.私見) トロツキズム運動誕生考
 この根底にあったものを「日本における革命的学生の政治的ラジカリズムと、プチブル的観念主義が極限化して発現したもの」とみなす見方があるが、 そういう見方の是非は別として、この潮流も始発は戦後の党運動から始まっており、党的運動の限界と疑問からいち早く発生しているということが踏まえられねばならないであろう。

 宮顕理論によれば、一貫してトロツキズムをして異星人の如くいかがわしさで吹聴しつつ党内教育を徹底し、トロツキストを「政府自民党の泳がせ政策」の手に乗る反党(れんだいこ注・ここは当たっている)反共(れんだいこ注・ここが詐術である)主義者の如く罵倒していくことになるが、れんだいこはそうした感性が共有できない。前述した「党的運動の限界と疑問からの発生」という視点で見つめる必要がある。

 ところで、今日の時点では漸く党も含め左翼人の常識として「スターリン批判」に同意するようになっているが、私には不十分なように見受けられる。なぜなら、「スターリン批判」は「トロツキー評価」と表裏の関係にあることを思えば、「トロツキー評価」に向かわない「スターリン批判」とは一体何なんだろう。もっとも、党の場合、その替わりにかどうか「科学的社会主義」が言われるようになってきた。「科学的社会主義」的言い回しの中で一応の「トロツキー評価」も組み込んでいるつもりかもしれない。が、あれほどトロツキズムを批判し続けてきた史実を持つ公党としての責任の取り方としてはオカシイのではなかろうか。スターリンとトロツキーに関して、それこそお得意の「自主独立的自前の」史的総括をしておくべしというのが筋なのではなかろうか。「自主独立精神」の真価はこういう面においてこそ率先して発揮されるべきではないのか、と思われるが如何でしょう。

 ちなみに、れんだいこは、我々の運動において一番肝心なスターリンとトロツキーとレーニンの大きな相違について次のように考えている。この二人の相違は、 党運動の中での見解とか指針の相違を「最大限統制しようとするのか」対「最大限認めようとするのか」をめぐっての気質のような違いとしての好例ではないかと。

 レーニンはややスターリン的に具体的な状況に応じてその両方を使い分ける「人治主義」的傾向を持っていたのではなかったのか。そういう手法はレーニンには可能であったが、スターリンには凶暴な如意棒に転化しやすい危険な主義であった。晩年のレーニンはこれに臍を噛みつつ既になす術を持たなかったのではなかったのか。スターリン手法とトロツキー手法の差は、どちらが正しいとかをめぐっての「絶対性真理」論議とは関係ないことのように思われる。運動論における気質の差ではなかろうか。

 「真理」の押しつけは、統制好きな気質を持つスターリン手法の専売であって、統制嫌いな気質を持つトロツキー手法にあっては煙たいものである。運動目的とその流れで一致しているのなら「いろいろやってみなはれ」と思う訳だから。ただし、トロツキー手法の場合「いざ鎌倉」の際の組織論・運動論を補完しておく必要があるとは思われるが。

 ついでにここで言っておくと、今日の風潮として、自己の主張の正しさを「強く主張する」のがスターリン主義であり、ソフトに主張するのが「科学的社会主義」者の態度のような踏まえ方から、強く意見を主張する者に対して安易にスターリニスト呼ばわりする傾向があるように見受けられる。これはオカシイ。強 くとかソフトとかはスターリン主義とは何の関係もない。主張における強弱の付 け方はその人の気質のようなものであり、どちらであろうとも、要は交叉する意見・異見・見解の相違をギリギリの摺り合わせまで公平に行うのか、はしょっ て権力的に又は暴力的な解決の手法で押さえつけつつ反対派を閉め出していくのかどうかが、スターリニストかどうかの分岐点ではなかろうか。

 れんだいこは、スターリ ニズムとトロツキズムの原理的な面での相違はそのようなところにあると考える。こう考えると、宮本イズムは典型的なスターリニズムであり、不破氏のソフトスマイルは現象をアレンジしただけのスターリニズムであり、同時に日本のトロツキズムの排他性も随分いい加減なトロツキズムであるように思われる。

 さて、話が脱線したが、こうしてわが国にも登場することになったトロツキスト運動は、運動の当初より主導権をめぐって、あるいはまたトロツキー路線の評価をめぐって、あるいは既成左翼に対する対応の仕方とか党運動論をめぐって ゴタゴタした対立を見せていくことになり、日本共産主義労働者党→第4インター日本支部準備会→日本トロツキスト連盟→12.1日、日本革命的共産主義者同盟(革共同)へと系譜していくことになる。

 新左翼運動をもしトロツキスト呼ばわりするとならば、日本トロツキスト連盟を看板に掲げたこの潮流がそれに値し、後に誕生するブントと区別する必要がある。そう言う意味において、日本トロツキスト連盟の系譜を「純」トロツキスト系と呼び、これに対しブント系譜を「準」トロツキスト系とみなすことを今はやりの「定説」としたい。日本トロツキスト連盟の系譜から後に新左翼最大の中核派と革マル派という二大セクトが生まれてお り、特に中核派の方にブントの合流がなされていくことになるので一定の混同が生じても致し方ない面もあるが。

 この時期全学連内の急進主義的学生党員活動家の一部はこの潮流に呼応し、急速にトロツキズムに傾いていくことになった。ただし、日本トロツキスト連盟の運動方針として「加盟戦術」による社会党・共産党の内部からの切り崩しを狙ったヤドカリ的手法を採用していたためか、自前の運動として左翼内の一勢力として立ち現れてくるようになるのはこの後のことになる。

 「加入戦術」と は、対象となる組織に加入し、内側から組織の切り崩しを行う戦術である。このグループの特長として理論闘争を重視するということと、セクト間の対立に陰謀的手法で解決をしていくことを意に介しない面と、暴力的手法による他党派排除を常用する癖があるように思われる。

 私が拘ることは以下の点である。上述したようにトロツキズムとは、レーニンによって批判され続けられたほどに 幅広の英明な運動論を基調とした左翼運動を目指していたことに特徴が認められる、と思われる。ところが、わが国で始まったトロツキズムは、その理論の鋭さやマルクス主義の斬新な見直しという功の面を評価することにやぶさかではないが、この後の運動展開の追跡で露わになると思われるが、意見の相違を平気で暴力的に解決する風潮を左翼運動内に持ち込んだ罪の面があるようにも思われる。この弊害は党のスターリニズム体質と好一対のものであり、日本の左翼運動の再生のために見据えておかねばならない重要な負の面であることも併せて指摘しておきたい。

 この時期の党の青年運動組織への指導ぶりは次のようなものであった。こうした時期の56.11月に日本民主青年同盟(民青同)が発足している。民青同は、「マルクス・レーニン主義の原則に基づく階級的青年同盟」の建設の方向を明らかにしていたが、その実態は進行しつつある反党的全学連再建派の流れと一線を画し、急速に党内主流派化しつつあった宮顕派の指導の下で青年運動を担おうとしたいわば穏健派傾向の党員学生活動家が組織されて行ったと見ることができる。いわば、愚鈍直なまでに戦前・戦後の党の歴史に信頼を寄せる立場から党の旗を護ろうと した派であった、と思われる。


【トロッキー概略伝、スターリン対トロツキーのレーニン跡目後継政争】

 トロツキーを簡略に紹介すれば次のように云える。トロツキー(1879−1940年)は当時レーニンに並ぶロシア革命の最大の指導者の一人であり、革命後のソビエト政権でも外務・軍事人民委員、軍事革命委員会議長などを歴任していた革命家である。

 レーニンは、トロツキーを次のように評している。

 「他方、同志トロツキーは、道路通信人民委員部の問題に関し、彼が中央委員会と争った場合に説明されたように異常な能力を持っているばかりでなく、−個人的には彼は確かに現在の中央委員中、もっとも有能な人物である−又、非常な自信を有し、事物の純行政的方面を余りに重視する傾向を持っている」。

 レーニンとトロツキーはロシア革命史上殆ど対立関係にあった。トロツキー派がレーニン指導に従いロシア10月革命を共にしたことにより一定の友誼関係を構築したが、終始ライバル関係にあった。ところが、レーニンは晩年、スターリンの台頭によるロシア革命の変質を危惧し、トロツキー派との共同戦線により阻止せんとしていた。トロツキー派がその提言に逡巡しているうちにレーニンが逝去した。

 この時、レーニンは数通の遺書を残しており、レーニン没後スターリン派とトロツキ派の抗争が避けられないことを予見し、それぞれの性格にについて次のように記している。この遺書は、クループスカヤ夫人が1924.5月の第13回ソ連共産党大会の際に中央委員会書記局に提出した文書とのことである。

 「同志スターリンは、書記長として恐るべき権力をその手中に集めているが、 予は、彼が、その権力を、必要な慎重さで使うことを知っているかどうか疑う… 。一方、同志トロツキーは、ずばぬけて賢い。彼は確かに中央委員中で最も賢い男だ。さらに彼は、自己の価値を知っており、また国家経済の行政的方面に関して完全に理解している。委員会におけるこの二人の重要な指導者の紛争は、突然に不測の分裂を来すかも知れない」(1922.12.25)。
 「スターリンは、あまりに粗暴である。この欠点は、我々共産党員の間では、全く差し支えないものであるが、書記長の任務を果たす上では、許容しがたい欠陥である。それゆえ、私は、スターリンを、この地位から除いて、もっと忍耐強く、 もっと忠実な、もっと洗練され、同志に対してもっと親切で、むら気の少ない、 彼よりもより優れた他の人物を、書記長の地位に充てることを提案する。これは些細なことのように思われるかも知れないが、分裂を防止する見地からいって、かつ、既に述べているスターリンとトロツキーの関係からいって些細なことではない。将来、決定的意義を持つことになるかもしれない」(1923.1.4)。
 「同志スターリンが党書記長として慎重に広大な権力を行使できるかどうか、私には確信が持てない」。

 不幸にしてレーニンのこの心配は的中することとなった。レーニン没後、トロツキー派とスターリン派の政争が始まった。この時にマルクス主義史上重要な論争が為されている。それらは多岐にわたるが、最大争点は「一国社会主義論争」であった。トロツキー派は、西欧で革命が成功しない限りソ連での社会主義建設は不可能との立場から「永続的世界革命」を主張し、これに対しスターリン派は、成立間もない社会主義国家ソ連を祖国として擁護せねばならず、一国的であれ祖国防衛こそ優先されねばならないと反論し、両派が非和解的に対立した。

 結局、枢要権力機関を掌握していたスターリン派が多数派となり、トロツキー派は敗れた。こうしてその後の国際共産主義運動は、スターリンの指導により担われていくことになった。勝利したスターリン派は、トロツキー派を「帝国主義の手先」として排撃し始め、1927年の第15回大会で「反党分派活動」の理由で除名(ソ連共産党は分派活動を禁止していた)し、1929年には強制的に国外追放した。
 
 スターリン政治の全的否定が相応しいのかどうか別にして、スターリンならではの影響として考えられることに、党内外の強権的支配と国際共産主義運動の「ソ連邦を共産主義の祖国とする防衛運動」へのねじ曲げが認められる。戦後の左翼運動のこの当時に於いて、スターリン主義のこの部分がにわかにクローズアップされてくることになった。 特に、スターリン流「祖国防衛運動」に対置されるトロツキーの「永久革命論」 (パーマネント・レボリューション)が脚光を浴び、席巻していくこととなった。こうして、この時期宮顕が領導し始めた日本共産党批判の急進主義的潮流がこぞってトロツキズムの開封へと向かうことになった。


【「第4インターナショナル」創設と対立、トロツキズム誕生】

 トロツキーはその後国外での活動を余儀なくされたが、これを支持する勢力も根強く、1938年には「第4インターナショナル」を結成する等国際共産主義運動のもう一つの司令部を生み出し、スターリン指導のもとのコミンテルンに対抗することとなった。但し、「第4インターナショナル」の意思統一は平坦ではなかった。第二次世界大戦が始まり、スターリンとヒトラーの独ソ不可侵条約が締結されるに及び、スターリニズムに席捲されたソ連邦の評価問題を廻って対立が発生した。

 ジェームズ・バーナムとマックス・シャハトマンがソ連邦を防衛しないという傾向を代表する。トロツキーは、「帝国主義戦争における堕落した労働者国家としてのソ連邦防衛」を指針させ、理論闘争を展開する。「戦争におけるソ連邦」、「ふたたび、さらにふたたびソ連邦の性格について」(「トロツキー著作集」1939.1940上、柘植書房)で、この時のトロツキーの見解を知ることができる。なお、高島義一の「ソ連論入門」(「第四インターナショナル」No.42)は両論文を解説している、とある。

 こうした最中の1940年、トロツキーは亡命先のメキシコでスターリンの刺客に暗殺された。この間のトロツキー及び「第4インターナショナル」運動を「トロツキズム」と云う。当時の国際共産主義運動で、「トロツキズム」は、スターリンの指導する「正統」共産主義陣営から反革命的とされ、「トロツキストは反革命分子」呼ばわりされ封印され続けてきていた。


【「第4インターナショナル」のその後】
 「第4インターナショナル」は、結成当初より内部に意見の対立を発生させており、やがて分裂していくことになる。「第4インターナショナル」は、51年に開かれた第3回世界大会において、ユーゴと中国革命によって大きく切り開かれた大戦後の、プロレタリアートに有利な新しい世界情勢の転換を評価するテーゼを採択したが、その起草にあたったのがパブロであった。戦後の第四インターナショナルを一時期代表したパブロはこの時、「第四インターナショナルを全体として政治的に再武装し統一させるとともに、組織戦術としての『長期加入戦術』をうち出した」。

 だが後にこのテーゼの欠陥を含めて内部に意見の対立が発生し、分裂を発生させた。1952年、フランス支部の共産党への加入戦術をめぐって、パブロ、ジェルマン(エルネスト・マンデル)を中心とした「国際書記局多数派」(IS派)とフランスのランベール派との間に対立が発生した。更に、アメリカのSWPを中心とした「国際委員会派」(キャノン派.IC派)が生まれ、以降「第4インターナショナル」はIS派とIC派に分岐する。更に、53年春から夏頃にかけてSWP内部に対立が発生し、この経過で秋頃「第4インターナショナル」そのもののが分裂する。

 この分裂の絡みに関係して、我が国のトロツキズム運動は当初より紆余曲折していくことになる。

(私論.私見) トロツキズムに対する外在的批判の批判考

 ここではじめてトロツキズムの諸潮流に出くわすことになるが、この流れの由来をあたかも異星人・異邦人の到来であるかにみなす傾向が今日もなお日本共産党及びその感化を受けた勢力の中に認められる傾向について、どう思うべきかということに関してコメントしておこうと思う。今私は川上徹編集「学生運動」を読み始めている。気づくことは、前半の語りで該当個所に関してマルクス・レー ニンの著作からの適切な指示を引用しながら、結論部に至って「トロツキスト・ 修正主義者を一掃しなければならない」という締めの文句を常用としていることである。他方、右翼・ノンポリ・宗教運動家・改良主義者に対しては統一戦線理論で猫なで声で遇することになる。この現象は、一体何なんだろう。そんなにトロツキズムを天敵にせねばならない思考習慣がいつ頃から染みついたのだろう。

 以下の考察で明らかにしようと思うが、トロツキズムもまた世界共産主義運動史の中から内在的に生み出されてきたものである。マルクス主義の弁証法は、社会にせよ運動の内部からにせよ内在的に生み出されている事象については格別重視するという思考法を生命力としている、と私は捉えている。トロツキズムが、あたかも戦前調のアカ感覚で捉えられている宮顕式日共運動における反動的感覚をこそ問題にしたい。運動の中から生まれた反対派に対して、 日共指導部が今なお吹聴している様な原理的敵視観のレベルで、マルクス、レーニンがそのように言っているという文章があるのならそれを見せて欲しい、と思う。

 例によって宮顕に戻るが、この論調は宮顕が最も得意とする思考パターンであり、戦前は党内スパイ摘発に対して使われた経過は既に見てきたところである。いわゆる「排除の強権論理」であるが、この外在的思考習慣から我々は何時になったら脱却出来るのだろうか。

【日本トロツキズム運動誕生の背景事情考】
 日本トロツキズム運動の胚胎と発生には様々な要因が考えられる。国際的な要因と国内的な要因が重なり合い立て合っていたことが分かる。

 その第一は、「スターリン批判」の衝撃であった。ソ連共産党20回大会でフルシチョフ=ミコヤンの「秘密報告」が為され、スターリンの無謬神話が打ち壊された。フルシチョフの「秘密報告」は、スターリンが行った数々の犯罪的行為を弾劾していた。とはいえ、スターリン個人の犯罪行為として取り上げたにすぎなかった。つまり、この時の「秘密報告」は、スターリン個人の批判であり、それを支えた官僚機構にまで刃が向かわなかった。というか、スターリン批判は官僚たちがその特権を防衛せんがために行った予防的措置の禊(みそぎ)的性格を一面においてもっていたとも云える。ボルシェビキの指導者・トロツキー、ジノビエフ、カーメネフ、ブハーリンらの名誉を回復することまでには及んでいなかった。しかし、かように限定されたスターリン批判であれ、国際共産主義運動の最高指導部がスターリンの誤りと犯罪行為を公然と認めたということは、その権威失墜には十分役立つことになった。

 第二は、ポーランド・ボズナンの暴動、ハンガリー・ブタペストの蜂起とそれの弾圧ぶりの衝撃である。スターリン批判は巨大な衝撃となって全世界の共産主義運動を襲った。スターリニズム体制の“弱い環”であった東ヨーロッパ各地では、官僚支配に反対し、労働者民主主義を要求する大衆の闘争が暴動へとつき進んでいった。とくに、1956.6月のポーランド・ボズナンの暴動と、同じ10月のハンガリー・ブタペストの蜂起は、歴史を画する革命的闘争であった。ポーランドにおいては“民族派”的傾向がヘゲモニーをとって、事態の“収拾”がなされたが、ハンガリーではスターリニスト官僚支配と蜂起した労働者大衆の直接的衝突へと発展し、ソ連軍が蜂起した労働者を鎮圧するという反動行為が発生するのである。

 ハンガリー革命に対するソ連軍の鎮圧行動はスターリン批判に次いで、世界の共産主義運動に衝撃を与えた。スターリニスト官僚たちはソ連軍の介入を正当化するために、政治革命に決起したハンガリーの労働者を、あるいは東ヨーロッパの労働者を“反革命分子”、“帝国主義の手先”として断罪した。確かにそういう面もあったが、労働者の反乱が東欧社会主義の失政を告発していたことも事実である。

 ハンガリー革命はスターリニズムの歴史的没落の過程を鮮明に映し出した。労働者国家の官僚体制は、その支配を持続するためには労働者、農民に対して一定の譲歩を余蟻なくされた。また、神聖不可侵視されてきたスターリンの理論体系が崩壊し、その権威を剥がされた。スターリニズムの歴史が幕をとじマルクス主義の新しい歴史の可能性がひらかれた。

 1956年のハンガリー革命と同じ時期にイギリス、フランス両帝国主義はナセルのスエズ運河国有化宣言に対して出兵し、スエズ戦争の冒険を行った。中東進出を狙っていたアメリカ帝国主義はイギリス、フランスの出兵に反対し、ためにイギリス、フランス両帝国主義はスエズからの撤退を余儀なくされた。このスエズ戦争はアラブにおけるイギリスとフランスのヘゲモニーを決定的に衰退させた。

 かくてくわえてアルジェリア革命はこの衰退過程を一挙におし進めた。そしてフランス帝国主義に破局的な危機をもたらしたのである。アルジェリア民族解放戦線(FLN)の武装解放闘争はインドシナに続いて、フランス帝国主義を文字通りの泥沼のなかにひきずり込んだ。58年、FLNの攻勢が本格化すると、フランスの現地軍は反乱を起してアルジェに公安委員会を設置し、ド・ゴールをかつぎだそうとはかった。この右翼反乱によって第四共和制が崩壊し、フランス帝国主義の没落はいっそう決定的となるが、アルジェリア植民地支配持続のために右翼軍部がかつぎだしたド・ゴールはその後アルジェリアの独立を認めざるを得ない立場に追い込まれていく。

 日本のトロツキズム運動が日本の階級闘争の舞台に公然と登場した1950年代の後半は、国際的には第二次世界大戦直後の激動期から、現状維持的米ソ平和共存構造が形成される時期への移行期であり、過渡期であった。アメリカ帝国主義の核兵器独占が終了し、核兵器においてソ連労働者国家とアメリカ帝国主義の均衡状態が必要な前提としてあったが、なによりも、帝国主義陣営においてはヨーロッパ帝国主義の没落、アメリカ帝国主義のヘゲモニーの完全確立がその条件をつくりだしていったといえる。

 日本トロツキズム運動に可能性をひらいた第三の要素として、既成左翼が国際的な新情勢に対応する能力を失い、それに代わる新左翼の登場が待ち望まれていたことにある。スターリン批判、ハンガリー革命を通じてソ連共産党の国際的権威と地位が没落し、各国共産党が相対的に自立化していくことになった。フルシチョフ率いるソ連は米ソ平和共存政策へ路線転換し始めた。これに呼応するかのように先進帝国主義国における各国共産党も又体制内化的な社民路線を採用し始めた。構造改革論がその理論的基礎となっていた。

 こうした右傾潮流に抗して相対的にトロツキズム運動が左派的地位を獲得していった。例えば、アルジェリア革命において、フランス共産党は革命的敗北主義の立場に立てずにぐ「アルジェリアに平和を!」というスローガンに表現される帝国主義侵略への屈服の路線をとっていたが、対照的に第四インターナショナルはそうしたフランス共産党の立場を批判することを通して戦闘的左翼の地歩を固めていった。アルジェリア革命への関心の強まりは同時に具体的革命を媒介としたスターリニズムへの批判の強化であった。こうして、ヨーロッパ帝国主義が没落し、そこに政治危機がつくり出され、植民地革命の勝利的前進が示されるという1950年代後半の情勢は、トロツキズムが大衆的に影響力を拡大し得る条件をつくり出していた。

 目まぐるしく変化するフランスの政治情勢は、当時のスターリニズムの理論ではとうてい生々と分析して把握することは不可能であった。まさにこのとき山西英一が訳した「次は何か?」や「唯一の道」が学生活動家のなかでむさぼるようにして読まれた。トロツキーの躍動するようなドイツ情勢の分析と展望を導く方法は、当時のフランス情勢を分析する最上の武器であった。

 日本トロツキズム運動に可能性をひらいた第四の要素として、1955年の六全協による日共政変、「自社55年体制」の影響が考えられる。1955年、この年は左右両翼の政治潮流を歴史的に転換させる年となった。共産党六全協、春闘方式の開始、保守合同、社会党統一が重なり、戦後直後から新戦後時代への幕開けとなった。総体的には1950年代後半は日本帝国主義が離陸にむけて序走のスピードをあげていこうとしていた時期といえる。この時期の集約点が、政治的・軍事的には占領下の軍事同盟から帝国主義間の反革命軍事同盟をめざして改訂をはかった安保条約の60年における成立であり、労働者階級への攻撃の集約点としての三井三池労組に対する大量の首切り合理化であった。

 この高度成長期に移行する直前の数年間の国内情勢は、ひと口でいって戦後民主改革への“反動”攻勢としての性格をもっており、したがって当時の労働者人民に戦後改革の成果がなしくずしにされていくのではないか、という危機意識を醸成していったのである。この危機意識は砂川闘争、原水爆禁止闘争に対する平和主義意識からの大衆的共感、戦後民主教育に対する攻撃としての勤評への反対闘争の大衆的ひろがり、警職法攻撃を意図した岸政府への大衆の憤激、そして60年安保の6月段階における民主主義の危機=安保強行採決に対する大衆の怒りの爆発……などによってみることができる。そして、まさに政治的に敏感な学生層がこの時期の“平和と民主主義の危機”という情勢にもっとも生々と対応し、大衆闘争の最前線にたつこととなったのである。

 この学生運動が1950年代後半の日本大衆闘争に果した役割は、当時の労働運動が基本的に右傾化の方向をたどっていたという条件が加わることによってその役割の重さが倍化されていったといえよう。この特殊に重要な役割を果していた学生運動の活動家が、日本トロツキズム運動の最初の大衆的規模における結合の可能性を形成した。そしてまた、当時の労働運動と学生運動の提携のあり方をめぐって、日本トロツキズム運動は試錬にたたされることとなるのである。

 日本トロツキズム運動に可能性をひらいた第五の要素として、日共のあまりな変質に対する怒りがあった。日共は1955年の六全協で、徳球時代から宮顕時代への宮廷革命を遂げたが、その宮顕が党内権力の地歩を踏み固めていくに従い反動的本質が露骨化していった。宮顕率いる日共指導部は、スターリン問題に際して六全協においてすでに克服された問題として処理し、ハンガリー動乱に対するソ連軍の介入にもそれを正当であるとし、ンガリー労働者を反革命分子であるというソ連共産党官僚の弁明を支持した。

 その対応はあまりにも拙劣、無能、傲慢であった。「50年問題」の経過から党中央に幻滅していた戦闘的左翼は、スターリン批判、ハンガリー革命、アルジェリア革命を通じて国際的にトロツキズムが台頭しつつあったことに励まされ、日本においてもトロツキズム運動を生み出しつつあった。

日本のトロツキズム運動史
 次のように記されている。
 「日本のトロツキズム運動は戦前にその歴史を持ち合せていない。戦前において、いくつかのトロツキーの著作が翻訳され紹介されたものの、日本の共産主義運動に対する天皇制権力の徹底的な弾圧と、当時の日本共産党の理論がほぼ全一的にスターリニズムによって支配されていたという歴史的条件のもとにおいて、トロツキズムは運動としては存在し得えなかったのである。すなわち、1922年の日本共産党の結党から、1957年の日本トロツキスト連盟の結成に到る35年間、日本共産党内の分派闘争で、トロツキズムは登場してこなかったのである。

 したがって、第四インターナショナルの各国支部が第三インターナショナルの各国支部(=共産党)の反対派闘争を経由して形成されていった歴史を日本においては持っていない。この伝統の欠如は日本のトロツキズム運動に幾多の障害をつくり出し、ジグザグを強制し、犠牲を生み出すこととなるのであるが、もちろんこのことはこれからの歴史のなかでのことである。いずれにせよいまや日本トロツキスト連盟はひと握りの個々人の寄り合い組織から、綱領や政治方針や組織工作や大衆的宣伝と煽動を要求される段階、真の前衛政党の機能を必要とされる歴史のなかに入り込むことになるのである」。

【トロツキズムの潮流発生(1957年)考】
 この時期日本共産党批判の潮流がこぞってトロツキズムの開封へと向かうことになった。いわゆる「反日共系左翼の誕生」である。このような動きの発生の前後を極力解明してみたい。これを表にして整理すると次のようになる。
 山西英一らの三多摩グルー プ
 戦前より。山西英一の三多摩グルー プも生まれていた。山西は、ヨーロッパ留学中にトロッキーの影響を受け、戦時中からトロッキーの文献の収集と翻訳を開始していた。トロッキー著「ロシア革命史」、「裏切られた革命」を翻訳していた。なお、社会党内部に第四研究会(国際問題研究会)を組織して、数人のグループで学習サークルを作っていた。日本で最初にトロツキストとしての活動を開始したのが山西英一であり、その組織として三多摩グルー プが生まれていた。
 対馬忠行
 対馬忠行を中心として「反スターリン的マルクス・レーニン主義誌」の表題をつけた「先駆者」を刊行し、56.6月には「クレムリンの神話」を発刊し、現代ソ連国家をトロツキーの云う「堕落した労働者国家」から「官僚制国家資本主義」に変質したものと断定していた。
 太田竜(栗原登一)
 1952年頃より。太田竜が「トロツキー主義によるレーニン主義の継承と発展をめざす」理論研究運動を開始していった。太田は山西英一と対馬忠行の影響下に、52年頃からトロツキストとして活動を開始している。
 内田英世・富雄兄弟
 旧国際派の内田英世・富雄兄弟を中心にした群馬政治経済研究会は「反逆者」を創刊した(群馬グループ)。内田は太平洋戦争の時反戦的思想を持ち、終戦まで投獄されていたが、対馬忠行の「スターリン主義批判」に感激して、以後トロッキーの文献を研究し、独自にトロッキーの立場に移行していた労働者派の人であった。
 黒寛グループ
 10月頃、黒田寛一を中心に学生・労働者・インテリ層で「弁証法研究会」がつくられ、その機関誌「探求」が発行された。こうして党に対するアンチ・テーゼとしての観点から様々な理論研究の潮流が生み出されていくことになった。この黒田氏について、「黒田氏は自前で『こぶし書房』と言う出版社を設立し、52年頃からさまざまな社会学的な書籍を執筆・出版していた。そうしていくうちに黒田氏の下にマルクス主義研究会のようなサークルができあがり、4人のメンバーで『弁証法研究会・労働者大学』と言うサークルを作った。やがてサークルは大きくなり『探求』という雑誌を出版するようになる。このミニコミ誌によって、黒田氏の影響力は全国的 に浸透していったのである」と紹介されている。
 「現状分析研究会」
 2月頃。浦和付近の青年たちによっ てが誕生し、その機関誌「現状分析」が発刊された。 「現状分析」は、「指導的な論理は、運動の最高指導者や一部の理論家だけによって生み出されるものではない。そこでは、名もない一人の声声が積み重なって、指導者や理論家の側に投影されるものでなければならない」という立場から左翼理論の見直しを発信させていた。
 東大細胞による機関誌「マルクス・レーニン主義」
 3月頃。大池文雄を中心に少数の同志たちで「批評」が 発行された。
 (後に、西京司・岡谷進の関西グループが参集する)

 上記が日本トロツキズム運動に流れ込んでいくグループであるが、これ以外にも思想の広場同人の編集になる「現代思潮」、東大自然弁証法研究会「科学と方法」、福本らの「農民懇話会」、京都の現代史研究会の「現代史研究」、愛知の「人民」等々の反日共運動の研究団体が生み出され、「清新な理論研究」が相次いで生まれた。


【日本トロツキズム潮流各派の概要】
 日本トロツキズム運動に流れ込んでいくグループを概略説明すれば、次のようになる。「日本革命的共産主義者同盟小史」他を参照した。 

【山西英一らの三多摩グルー プ】

 日本で最初にトロツキストとしての活動を開始したのが山西英一・氏であり、山西氏を中心として三多摩グルー プが生まれていた。以下、この系譜の流れをみておくことにする。

 山西氏は、ヨーロッパ留学中にトロツキーの影響を受けた。次のように語っている。

 概要「ドイツの情勢を目撃したのである。そしてその情勢を前にして、混乱を助長するしかできないスターリ二ストの影響下にある大衆に向けて、火を吐くような警鐘を乱打し続け、実に分かりやすく明快な分析と展望を打ち出し続けていたトロッキーの活動に衝撃を受け、目覚めさせられたのであった。ドイツ革命の悲劇の真実と共に、世界史的な真実に目隠しされているあの極東の日本に、この本を何としても持ち込まねばならない。私は固く決心した」。
 「それまで自分は嘘のイメージに踊らされていたことをいやというほど思い知らされて、身が縮むほど恥かしい思いがした。同時に、地球が半分欠けたほど、世界史に大きな穴がぽっかり開いていることに驚き、それを知らないでいる日本の人たちを遥かに思って、大変なことだと、居たたまれない焦燥を感じた」
 「頻発する右翼のテロ下の日本のニュースは、ロンドンにも極度に緊迫した危機感を伝えた。革命的騒乱が起ったとき、もしも本書が多くのひとたちに読まれているなら、決定的相違が生まれ、恐るべき混乱が避けられるかもしれない。ドイツ革命の悲劇の真実とともに、世界史的な真実に目隠しされているあの極東の日本に、この本を何としても持ちこまねばならない。私は固く決心した。私がフランスを去る日、フランスにいたリョーヴァもリョーヴァを通してトロツキーも、それを強く望んでいた」

  山西は帰国に当たり、トロツキーの諸著作とパンフレット類を持ち帰り、戦時中からトロツキーの文献の収集と翻訳に着手した。当時の事を次のように記している。

 「ほんとうに仕事に取りかかったのは、大戦が激化した1944.6.25日だった。工場動員や空襲や燈火管制に悩まされながらも、戦後思想の混乱を思い、いつ爆死するかもしれないことを恐れ、これだけはなんとしても日本語に残さねばならぬと考えて、乏しい燭火のもと、凍る指先でペンをすすめたりして、訳出したのであった」。

 かくて、トロツキー著「裏切られた革命」、「ロシア革命史」、「中国革命論」、「次は何か」等を翻訳刊行した。当時のトロツキーについてのタブーがなおどんなに厳しいものであったか当時のトロツキータブーの様子を次のように伝えている。

 「トロツキーにたいする共産党シンパのひとたちの反感は――最初私自身がそうだったように――非常に強く、その方面の事情に詳しい温厚なF教授は、初めて本書が出ることになったとき、訳者の実名を出すのは危いからやめよ、と強く注意されたほどだった」

 してみれば、山西英一氏が日本で最初に自覚したトロツキスト的位置にあることになる。資料「三多摩グループ」等に拠れば次のようになる。山西氏は、1950年、第4インターナショナルの国際書記局(IS派)とコネクションを取り、その指導に従って当時左右両派に分裂していた社会党の左派に「加盟戦術」により潜り込み、三多摩を中心に組織を形成していった。こうして「三多摩グループ」が形成された。55年頃には、左派社会党内部に第四研究会(国際問題研究会)を組織して、20数人のグループで学習サークルを作っていた。

 やがて本部直属の「三多摩職域支部」という形で「支部」を認めさせ、そこを拠点に、三多摩地域の各市ごとに支部を建設し、やがて三多摩支部協をつくりあげ、彼はそこの書記長となる。そしてガリ版ずり四頁の新聞「社会党三多摩支部ニュース」を発行しはじめる。それは一千部くらい印刷され三多摩全体の党員の手に配布された

 
「社会党三多摩支部ニュース」の内容はすでにトロツキズムの立場と見地から情勢分析や国際問題について解説しており、プロパガンダしていた。当時の情勢にぴったりマッチした活動家むけの解説や方針が掲載されたものである。53.8.20日付の「三多摩支部ニュース」には、「官僚独裁の墓堀――東独事件」という小論が掲載されているし、その後のニュースにも「社会主義建設の五ヵ年計画」や、革命直後の「中国問題」などについて書かれている。また54.3.13日づけの同紙には「海外ニュース解説」という欄がもうけられ、「ベリア裁判とベルリン会議」という短いがすばらしい解説が掲載されている。

 こうした活動の背後で、三多摩を中心にしてすでに53年後半には、「国際共産主義運動とトロツキー」を研究しようという、研究グループがIを中心的指導者としてつくられている。それは一時期三多摩だけでなく新宿の地域まで含めて20人くらいのグループになった。最初そのグループによって53.10月に「教育資料」bP、「世界政治とスターリン主義――コミンターンの誕生からドイツプロレタリアートの悲劇まで」が、社会党三多摩支部の正式の機関決定として五百部印刷・配布され、社会党の数人の議員の手にまで届けられている。これは山西英一の手によって書かれたものであり、現在、『国際革命文庫』2の「国際共産主義運動史――コミンターンの誕生からドイツ・プロレタリアートの悲劇まで」に収録されているのがそれである。

 ある意味で当然のこととはいえ、これが出された反響は大きく、蜂の巣を突ついたような議論がまきおこって、問題になった。そこには公然とトロツキーの名が出され、トロツキズムへの手引き書として書かれており、第四インターナショナル創設についての指摘で終っているのである。この点は、『国際革命文庫』2として出版しなおすときに手を加えられたわけではなく、最初書かれたものがまさにそのような内容で展開されていたのである。問題になったのは当然であった。そのため、それにつづけて出していく予定で準備されていた、「人民戦線からソ連共産党十九回大会まで」(bQ)、「スターリンの死以後」(bR)、(グループの)「総括・討論、引用論文抄録」(bS)は、ついに出すことができなかった。

 しかしその後、すぐに、パンフレットそのものはグループ内部の「研究資料」として「日本社会党(左)有志の研究会」の名で発行されている。bUは、「スターリンの囚人収容所の生活とフォルクタの大ゼネスト=ブリギッテ・カーラント女子」が出され、その中には、「手記とわたくしたちの立場/労働者はクレムリン政策の批判を恐れなくてはならぬか」といった論文も収録されている。こうして「第三中国革命とその結果」(bV)、「レオン・トロツキーの『永久革命論』序文」(bW)、「一九三九年トロツキー/今日のソ連の性格」(bX)、「E・ジェルマン/ポズナンの暴動――ソヴィエト国における革命的高揚の新たな段階」(10)が、56.5月から同年9月までのあいだに、ガリ版刷りだが、きちんとしたパンフレットとして出しつづけられている。

 10のE・ジエルマンのそれは、「日本社会党有志/国際政治研究会」の名で出されているが、驚くべきことにその表紙に目次と一緒につぎのような説明が書かれている。「E・ジエルマンはベルギーの革命的マルクス主義者で、第四インターナショナルの理論的指導者である。ことにソ連、東欧諸国、中国の問題の権威であって、輝かしい論文によって、これらの国々の発展をたえず分析解明している。この論文は第四インターナショナル機関誌『第四インターナショナル』(国際機関誌のこと)9月号から訳出したものである」と。もちろんこれは公然と配布されたものではなく、非売品として会員(当時のグループ)に、(会員頒価五十円で)渡されていたものである。

 53年末ころからのこの三多摩グループの活動が、大きな成果を生み出していた事実については、太田自身も無視したり抹殺することはできず、彼自身つぎのように書いている。「54年初頭に重大化した造船疑獄とそれによって生まれた政治危機のなかで、トロツキストは三多摩支部の中のヘゲモニーを確保し、大胆に革命のコースを党内に提起した。54年中の三多摩ニュース、組織綱領草案討論のための参考資料(54.6月)、合同問題について(54.8月)などの諸文献は加入活動としてはすぐれた仕事として評価しなければならぬ」と。

 こうして山西―Iを中心とした社会党三多摩支部の「加入活動」は、一定の成果をあげながら、安保闘争のころまでつづいている。また57年はじめには、『雄叫』びという社会党内分派機関紙が出されている。しかしこれは社会党大会にむけて臨時に出されたものであり、二〜三号で終っている。


【対馬忠行】

 対馬忠行は、「スターリンの言う『社会主義』と真のマルクス主義の立場からする社会主義とが根本的に違う」ということに確信を抱き、1952.5.1日、「スターリン主義批判」を発行した。但し、「いわば習作であって、まだ未整理の段階のもの」でしかなかったと云う(対馬忠行・氏を中心として「反スターリン的マルクス・レーニン主義誌」の表題をつけた「先駆者」が刊行された、ともある)。

 続いて、『資本論』・『ゴータ綱領批判』・『反デューリング論』などを基礎に、社会主義社会における「労働証書」の問題についての研究をつづけていった。トロツキーのものは、最初、戦前に青野季吉によって邦訳された『わが生涯』(それは『自己暴露』というとてつもない表題で出版されている)を読み、その後、『裏切られた革命』と『ロシア革命史』をも読む。こうしてトロツキーの著作も読む機会を得た。

 その過程で山西英一とも連絡をとるが、彼は、その理論研究の傾向からしても、「ソ連論」について、トロツキーの「堕落した労働者国家」という規定についてははじめから反対で、ソ連=「国家資本主義」説をとる。そして、彼はマックス・シャハトマンとの連絡をとり、そのルートをとおしてトニークリフを知るのである。こうした立場で、対馬忠行は「オールドボルシェビキ」という雑誌を出し、「イスクラ協会」という形で少数のグループを組織していた。

 56.6月には「クレムリンの神話」を発刊し、現代ソ連国家をトロツキーの云う「堕落した労働者国家」から「官僚制国家資本主義」に変質したものと断定していた。


【太田竜(栗原登一)】
 太田竜は最初哲学の勉強をしており、田中吉六などの影響を強く受けていたという。その後、山西、対馬の影響によってトロツキズムに接近していった。やがて、太田は山西英一と対馬忠行の影響下に、52年頃からトロツキストとして活動を開始し、「トロツキー主義によるレーニン主義の継承と発展をめざす」理論研究運動に取り組んでいくこととなった。

 太田は初め千葉の社会党青年部で小川豊明氏らとともに活動しており、『前進』というガリ刷りのパンフレットを出していた。52年からは中央の青年部で活動を始めた。こうして当初は社会党青年部に所属し活動していた。その社会党青年部の活動について、太田はつぎのように書いている。
 「最初の成果は青年部から生まれるかのような様相を呈した。52.12月に社会党青年部有志の手で発行された『若い同志』の一号には、“平和運動への疑い”、“ソ連はどこへ行く”、”エジプトの危機とプロレタリアート”などの明らかにトロツキスト的な方向を示す諸論文が掲載された。53年に社会党青年部機関紙『若い群列』のなかで、もちろん社会党の枠の中でではあるが、スターリニズムにたいする一定の批判が展開されるにいたった。同紙13号の“東独六月革命と社会民主主義の立場”、“ソ連は平和勢力であり得るか”、14号の“ブルジョア連立政権かプロレタリア政権か”、“高野実氏への公開質問状”などがそれである」{前掲『永久革命』第五号)。

 当時の主要な政治問題は、国際的にはスターリン死後の東独「六月暴動」やべリヤ事件をも含んだソ連外交政策の評価をめぐる問題があり、他方では勝利した中国革命の前進と朝鮮における「休戦協定」、インドシナからの仏帝国主義の撤退を背景にした、新たな展開をみせる国際情勢全般についての評価をめぐる問題があった。また国内的には、52年の講和・安保両条約の発効後の再軍備・破防法等をめぐる政治闘争の高揚を背景にして、政治的再編がすすむなかで、“重光首班”問題に中心的にあらわれた民族革命と社会主義革命の社会党の綱領論争があった。さらに総評大会における高野実の平和勢力論と第三勢力論をめぐる問題があった。

 このような諸問題に直面しつつ、社会党青年部内の彼の活動は一定の成果をあげるかにみえたが、左派社会党内部の高野派を刺激し、53.10月に彼は青年部の活動から排除された。太田はこの「加入活動」の失敗を総括してそれを「独立活動」の欠如にもとめた。この時の心情が次のように伝えられている。
 「この時期にトロツキストが百%トロツキスト的な出版物を持っていなかったことがこれらの諸問題の討論を通じて左社内部のヘゲモニーを高野派に完全にひきわたすための条件となった。なぜなら、独立トロツキスト機関紙がないために、我々はたとえば暴力革命、ソヴィエト政府、労働者国家擁護などの原則的立場を党内で打ち出すことができず(もしそうしたら直ちに党そのものから排除されるであろう―原文のまま)それゆえに高野派的中間主義を左から批判する余地を非常に狭められていたからである。独立機関紙でなくとも、せめて社会党左翼分派機関紙でも当時我々の手で発行することができたならば、我々は左へ進みつつあった労働者を完全に高野派的潮流に凝結せしめることを部分的にもせよくいとめ、一定のトロツキスト勢力を社会党内につくりあげることができたであろう」(前掲『永久革命』第五号)。

 こうして、社会党青年部から高野派によって排除されたあと、54年頃から独立活動を開始した。第四インターナショナル国際書記局と連絡をとりつつ、「独立活動」の問題を提起しはじめる。実際に「独立活動」への準備を開始する。が、この時社会党内に一定の影響をもち始めていた三多摩グループが「時期尚早」としてこれに呼応せず、組織作りは思わしくは進まなかった。この経過を、太田は次のように記している。
 「社会党加入活動の経験を基礎にして、トロツキストの独立活動をはじめなければならぬ、という問題がK(太田)によって1954年に提起された。山西氏はこれに反対した。54.11月、東京で開かれたアジア社会党会議にオブザーバーとして出席したLSSP(セイロンのランカサマサマジャ党)のコルビン・デシルバと山西氏、Kの間でこの問題に関して短時間の討論が行われた。だがここでも事態になんらの改善も与えられなかった。Kは社会党を脱退して、独立のトロツキスト活動を組織するためのイニシァチブをとった」(太田が58年夏の分裂後組織したトロツキスト同志会―後に国際主義共産党―の機関誌『永久革命』第五号(58.12.29日)の「日本トロツキスト運動の諸段階」より)。

 当初は社会党青年部に所属し活動していたが、高野派によって排除され、54年頃から太田氏は社会党から飛び出し自力活動していくことになったが、この時社会党内に一定の影響をもち始めていた三多摩グループは時期尚早としてこれに呼応せず、対立した(「永久革命」第5号)。この対立の背景には、第4インターナショナルセンターの分裂が関係していた。次のように記されている。
 「50年からとられていた山西氏と国際書記局との連絡は、主として中国支部のメンバーであり国際執行委員であったペンを介して行われていた。ところが、インターナショナルの分裂という事態のなかで、ランベール派を支持したペンは、国際執行委員会多数派から実質的に排除され反パブロの立場をとるにいたった。そのため山西氏とインターナショナルとの関係は、ペンを介してICと関係をとることになった。これにたいして54年以降太田氏は、当時のIS(パブロ派)と連絡をとることになる」。

 55年の末には、「日本労働者解放同盟」という組織をつくったことが報告されている。続いて、56.5月頃、太田氏は「レーニン主義研究」を創刊した。夏ごろ、「ISからの最初の連絡を受け」IS派系を明確にしている。
 「最初のうち太田は、ほぼ単独で『レーニン主義研究』を出しながら、群馬グループと三多摩グループをそのもとに結集しようと努力する。ところが七月か八月頃になると、『レーニン主義研究』の発行をやめて、『反逆者』を軸に結集する方向を追求する。ただ三つのグループのあいだにはいろんな点で意見の対立があったが、太田はその意見の対立を含みながら、『独立活動』への準備をすすめていく」。

 同年の9.18日付のISへの手紙にはつぎのように書かれている。
 「レーニン主義グループと反逆者グループは八月二九日付のISの手紙(これがISからの最初の手紙であり、独立活動と支部結成の必要を示唆した内容のものであろう――引用者)を支持している。そこでこの二つのグループは、その手紙の見解にもとづいて統一の準備をすすめている。そして多分十月の六か七日に会合をもって統一するだろう。社会党グループには、その手紙を支持するのはわずか一人か二人だけである。残りの部分はそれに反対である。社会党グループの正式の会議は九月末に開かれるだろう」。「この太田のIS宛の手紙によると、まず前二者のグループが統一し、その後社会党グループの参加をまって日本支部を結成する、というのが最初の構想であったことがわかる。その見通しについても、『最終的には年内には日本支部を結成することができるだろう』というテンポで考えられていた。それにむけて社会党グループを参加させるためにも、この点についての教育的内容のISの手紙(=テーゼ)を早急に送るように、くり返し要請している」

【内田兄弟らの「反逆者」グループ】
 内田英世・富雄兄弟は太平洋戦争の時反戦的思想を持ち、終戦まで投獄されていた経歴を持っている。

 内田富雄は戦前昭和一八年の暮に反戦活動(戦前のあの厳しい弾圧のなかで、日本帝国主義軍隊の基地てビラまきを行った)を問われて、治安維持法で逮捕され、半年間荻窪警察署に留置されたあと巣鴨刑務所に拘置された。巣鴨では、宮本顕治、神山茂夫、西沢隆二(ぬやまひろし)、それにゾルゲ事件のマックス・クラウゼンなどと一緒だったという。巣鴨刑務所が焼失してからは府中豊多摩の刑務所に送られ、そこでは志賀義雄、中西功などとも一緒であった。この頃すでに「獄内委員会」の活動に参加して、事実上共産党員としての活動を開始していた。

 ただしかし、敗戦の色も次第に濃くなってきた昭和二十年の頃ともなると、看守や取り調べにあたった検事の側から、戦局の行方と戦後どういうことになるのか、といったことなどについて、政治犯である彼らに逆に聞いてきたり、はては、兄、内田英世の作になる「革命歌」を絶讃して、一緒にスクラムを組み四股を踏みながら高唱したともいう。八月十五日以後は釈放までの期間に、すでに志賀義雄、中西功らは、例の「解放軍規定」の観点からGHQへ日参しはじめていたという。それにたいして彼(富雄)は、遅くまで戦時下の日常生活の中にいた分だけ、その点にはじめから疑問を抱いていたし、苦々しくも思っていたという。

 兄の内田英世もやはり昭和十九年の一月二十六日に近衛軍隊にいて逮捕されている。彼は後に、「近衛連隊で逮捕されたのだから、確実に死刑だろう、と思った」と語っている。彼は代々木(渋谷区歌川町)の陸軍刑務所(そこは江戸時代からの牢であったという)に入れられ、吉田茂とも一緒だったという。当時はまだ、二人とも共産党との組織的関係があったわけではなかったが、治安維持法によって逮捕、投獄されたのであった。

 こうした事情から終戦を迎えるとともに、戦後すぐに日本共産党に入党し活動を始めた。が、「50年分裂」に遭遇する。この時、内田英世は群馬県の中毛地区委員会の書記から、県委員会の書記をやっており、弟の富雄は前橋地区委員会から伊勢崎地区委員会に移り地区委員長をやっている時期であった。内田兄弟は、国際派についた。そのため伊勢崎地区は彼の指導のもとに一時期「国際派」が多数を占めたが、中央からの官僚的テコ入れによってくつがえされ、彼らは除名されてしまう。

 以降、二十人から三十人くらい残った仲間で群馬国際派グループとして活動を続け、機関紙「建設者」を発行している。中心的な位置をになったのは内田英世、富雄の兄弟であった。すでに「別党コース」という考えをおし出してユニークな立場にあったが、その段階ではまだ漠然としており、「全国統一委員会派(宮本派)の方が正当の中央委員会だ」という程度の主張で、まだけっしてトロツキズムの立場に立っていたわけではない。

 内田英世は、関西のグループよりも一足早くトロツキズムの立場に接近する。その最初の契機は、52年に発表されたスターリンの「ソ同盟における社会主義経済の諸問題」にたいする彼の独自の立場からする疑問と批判であった。彼はもともと経済学について専門的な勉強をしてきており、戦前、大学に在学中から、当時まだ残っていた日本資本主義論争の余燼のなかでマルクス経済学の研究を深めていた。そのためスターリン論文が出されたときも、ある程度正確な批判的視点をもつことができた。

 56.3月頃、旧国際派の内田英世・富雄兄弟を中心にした「群馬政治経済研究会」(群馬グループ)が組織され、自覚的にトロツキズムを広めようと「反逆者」を創刊した。「スターリン論文」の批判が掲載された。「反逆者」は、一地方の思想同人的サークル誌として発行されたが、明確にトロツキズムと第4インターナショナルの立場から編集されていたことにより、「このとき、初めて日本にトロツキズムと第4インターナショナルの旗を掲げた独立した組織が、独自の機関紙をもって登場したのである」と評価されている。

 この頃、書店で対馬忠行の「スターリン主義批判」を入手した。「スターリンの言う『社会主義』と真のマルクス主義の立場からする社会主義とが根本的に違う」ということに確信を抱き、対馬と連絡をとった。彼との連絡をとおしてやって来たのは太田竜であった。その際山西のトロッキー翻訳本「次は何か」が贈呈され、トロッキーの生の思想に触れていくこととなった。贈られたその本の裏表紙に《一九五三年八月八日、山西氏より贈らる》と記入されてあり、また彼が読後の感激を詩と短歌の形でその本のトビラに書きつけたものが、『反逆者』の一号と二号に掲載されている詩と短歌である。その後、対馬、太田竜、山西らとの交流を深め同時に影響を受けていった。このような経過をたどって、内田はトロツキズムに傾斜していく。

 その後、対馬、太田竜、山西らとの交流を深め同時に影響を受けていった。「対馬忠行の『スターリン主義批判』に感激して、以後トロツキーの文献を研究し、独自にトロツキーの立場に移行していた労働者派の人であった」と評されている。

 内田グループは、「反逆者」を創刊した。「反逆者」は、一地方の思想同人的サークル誌として発行されたが、明確にトロツキズムと第4インターナショナルの立場から編集されていたことにより、「このとき、初めて日本にトロツキズムと第4インターナショナルの旗を掲げた独立した組織が、独自の機関紙をもって登場したのである」と評価されている。「この『反逆者』グループを三多摩の社会党グループと結びつけつつ、『独立活動』へのイニシアチブをとるのが太田竜である」。


【黒寛グループ】
 黒田寛一氏(以降、「黒寛」と記す)は、47年に青年共産同盟(民青の前身)に加入している。が、「活動せず」、「漠然とながら四七、八年頃からマルクス主義者になろうという意識をもつ」のであり、「この年(四八年)以降、マルクス主義の古典のパンフレットを読みはじめる」とある。当時の青年、学生で、すくなくともなにか真面目にものを考え、社会の在り方や自分の生き方を考えようとするものはすべて、マルクス主義にひかれていったし、共産党に入っていったのである。彼もまたそうした青年の一人として「マルクス主義者」になり、とくに「哲学」の分野で思索を重ねていく。

 黒寛は実践的な運動分野より哲学的思索の旅を重ねていった。「戦後日本唯物論(1946〜50年)が例え試行錯誤的であれ、創造し獲得した真正なものは何であるかを、戦後の三大論争(主体性論争.技術論論争.価値論論争)を通してとらえかえし、そうすることによって同時に自己自身の立脚点と主体性をも唯物論的に確立すること、即ち『唯物論的主体性理論を確立すること』」を目指すところとなった。

 53年頃から、東大自然弁証法研究会会員との交流を深めたり、民主主義科学者協会哲学部会に出始めた。54年には「新しい人間の探求」を著作している。その直後「ソ連水爆実験による『死の灰』の降下に直面させられ、ハタと当惑する」。56.7月、「クレムリンの神話」を読み目から鱗が落ちるような経験となった。次のように記している。
 「ソ連の水爆実験にかんして『判断停止』をやってしまった自分自身の過去の不徹底さと自己欺瞞が、こうしてはっきり暴露されてしまったわけです。このような自己の立場の弱さとそれをできるだけ早く克服しなければならないという自覚をうながしてくれたのは、対馬忠行の『クレムリンの神話』でした」。
 それが、56.2月のソ連共産党20回大会におけるスターリン批判と6月のボズナニの暴動のあとである。

 「七月一三日『クレムリンの神話』を読み感激、対馬に手紙を出す」。「56.9月下旬、トロツキー『裏切られた革命』と手紙が太田竜から送り届けられる。この本の内容は57年1月以後、黒田の頭脳に流し込まれる」とある。この段階で、「日本トロツキスト連盟」の「結成」に加わる。しかしその頃の黒寛について、彼自身つぎのようにも書いている。
 「しかし当時の私は『クレムリンの神話』から当然『裏切られた革命』へと自分自身の理論的探求をかさねていくべきであったにもかかわらず、ほとんど探求心を喪失してしまっていました」。

 10月頃、黒田寛一を中心に学生・労働者・インテリ層で「弁証法研究会」がつくられ、その機関誌「探求」が発行された。こうして党に対するアンチ・テーゼとしての観点から様々な理論研究の潮流が生み出されていくことになった。黒寛は自前で「こぶし書房」と言う出版社を設立し、52年頃からさまざまな社会学的な書籍を執筆・出版していた。52年に「ヘーゲルとマルクス」を自費出版、54年には「新しい人間の探求」、56年には「経済学と弁証法、「社会観の探求」、「スターリン主義批判の基礎」を出版している。

 そうしていくうちに黒寛の下にマルクス主義研究会のようなサークルができあがり、4人のメンバーで「弁証法研究会・労働者大学」と云うサークルを作った。やがてサークルは大きくなり「探求」という雑誌を出版するようになる。このミニコミ誌によって、黒寛の影響力は全国的 に浸透していった。


 「黒田は、スターリンの罪業を根本的に是認しえないとしながらも、依然としてトロツキズムの一定の正しさを認めると同時にスターリニズムの全面的な否定にまではいきえない、という中間主義的な立場をとっていた。けれども、『スターリン批判』以後の日本における公認左翼戦線の驚くべき腐敗を、スターリニスト陣営の堕落を根底的に打破していく、という革命的な立脚点においては一致するという意味において、第四インターナショナル日本支部の結成準備会に彼は参加したのである」。
 「このトロ連参加によって、三浦つとむや東大自弁研会員などのそれまでの学問的友人たちのほとんどを失った。鶴見、野村、大川、遠山正ら加入。<労働者大学に集まった新しい友人たちの前進だけが残された」。

 こうして党に対するアンチ・テーゼとしての観点から様々な理論研究の潮流が生み出されていくことになった。

【西京司・岡谷進の関西グループ】

 西、岡谷は、戦後直後の四五、六年から共産党に入党し活動していた。「50年分裂」の際には国際派に所属して除名されている。六全協後の復帰の呼びかけによって復党している。京大職組細胞に所属した。但し、圧倒的多数が「所感派」で占められていた京都府委員会の組織的崩壊の度合はひどく、党内には救い難い混乱と動揺と挫折があったし、多くの党員が自殺し、運動から離れ、党中央にたいする深刻な疑惑が渦巻いていた。「所感派」と「国際派」のイデオロギー的対立は解消されたわけではなく、前者は民族民主革命の立場からチトー支持の立場をとっていた。「国際派」の傾向は一応ソ連支持という立場をとったが、「ハンガリア問題」などをめぐって釈然としなかった。このような党内の状況のなかで、復帰した旧国際派のメンバーは、党主流の指導と権威が崩壊していた分だけ、いわば「権威をもって迎えられた」という奇妙な事態が生じていた。

 復帰した旧国際派の流れが主導権を握っていった全学連が、「フルシチョフテーゼ」を掲げて、平和擁護闘争の先頭に立ち始めていた。このようななかで、単純なソ連支持でもない真の国際主義の立場を求めて、西、岡谷を中心とする少数のメンバーは、本格的に国際共産主義運動史の検討を開始していったのである。その過程でトロツキーの著作が読まれていった。すでに邦訳ものはかなり出版されていたし、また西京司は「50年分裂」以後、「あとで検討しなければならぬ、と思って」トロツキーの著作についてはすでに買いそろえてあった。

 56年の10〜11月頃、山西と手紙で連絡を取っている。返信がき、つづいて、山西宅を訪問する。ただそこでは、「群馬のグループのことも太田のことも聞かされなかった」という。そのころ、西、岡谷は京大職組細胞に所属しており、その周辺で“三月書房の学習会”をもって「フルシチョフの平和共存」批判などをやっていた。

 たまたまそこへ、小山弘健が「反逆者」を持ち込み、そこでただちに、57.3月頃、「反逆者」の編集部(太田)と連絡をとり、西は東京で太田と会い、その後、再び太田、黒寛と三人で会い、「日本トロツキスト連盟」に加盟する。他方、共産党員として活動を並行させており京都府委員に選ばれている。

 57年夏には日本共産党の七回大会が予定され、(12月に延期され、さらに翌年に延期される)激しい綱領論争の最中であった。日共党内の論争に介入するのは必定の状況で、「トロツキスト連盟」として日共への加入活動が決定される。ところが日共内部では、情勢の分析と展望をめぐる議論などほとんどなく、すでに「トロツキスト連盟」の一員であった西が、「ハンガリア革命支持」、「平和共存論批判」などをはじめ、その公然たる意見表明をとおして、京都府委員へ選出された。

 日本共産党第7回党大会への綱領論争の際には、「沢村論文−レーニン主義の綱領の為に」を提出している。この論文は誰一人の反対もなく「京都府党報」に全文掲載され、またその立場からの意見表明をとおして、誰一人の反対もなく大会代議員権も獲得した。(後で官僚的かつ一方的に剥奪されるが)。京都府委員会の学対部長の地位にあった西はこの間立命大細胞を先頭にして学生の間に急速にトロツキズムの影響を浸透させていった。

 このようにして、出来るところではトロツキーの文献紹介と宣伝活動を展開した。「レーニン死後の第三インター」の翻訳などもこの当時なされたのであった。このような共産党内部での活動のため、「連盟」の機関紙にはこの時期まったく執筆していない。

 しかし当時の全学連は、「平和擁護闘争」で党中央の「巾広統一戦線」に反対するという水準であった。このなかで、京都府委員会の学対部長の地位にあった西は、自らの左翼的立場を、「フルシチョフテーゼ」と「平和擁護闘争」によって表現していた学生グループとのし烈な論争をとおしてこれに介入していく。こうして58年に入ると、立命大細胞を先頭にして急速にトロツキズムの影響が、学生の間に拡大していくことになった。



【「日本トロツキスト連盟」結成前の動き】

 以上のような動きが進行しつつあったが、この結節点に太田氏が居たことになる。従って、太田氏の動きを見ながら「日本トロツキスト連盟」結成前後の様子を見るのが相応しい。

 大田氏が1955.10.9日づけでマリー・ワイスに宛てた手紙には次のように書かれている。

 「私ほか5名のものは去る55.10.2日東京で会議を開き、日本労働者解放同盟をつくりました。そのメンバーは十名です。この中には私のようなトロツキストが3人、準トロツキストが7名います。準トロツキストというのは、彼らがソ連を堕落せる労働者国家ではなくて資本主義国家であるとし、ソ連官僚をブルジョアジーであるとしていること、永久革命論に批判的であって、いわゆる労働者と農民の民主的独裁という思想のカラをつけていること、トロツキズムを革命的プロレタリアートとの思想そのものとみとめたがらないこと、などの特徴をもっているからです。しかし私はかれらに革命的第四インターナショナルとの連絡を密にする方向を承認させました。こうしてできた日本労働者解放同盟はさし当り宣伝団体として活動することになりました」。

 ここにある「準トロツキスト」グループというのは、社会党青年部で活動しているころから太田が対馬のところに始終出入りしていたことから考えても、またその思想傾向からしても,対馬の組織していた「イスクラ」グループのうちの何人かであると思われる。太田が黒寛と会うのは一年後であるし、「反逆者」グループでもない。これはしかしすぐに崩壊してしまうし、最初からどの程度しっかりした「組織」としてつくられたのかも明瞭でない。ただ56.5月に、「レーニン主義研究」を創刊していったとき、一人か二人のメンバーがいたことは確かである。

 太田氏がIS(パブロ派)へ宛てた56.10.10日付の手紙には次のように書かれている。

 「われわれは10.7日、三つのグループの代表者会議をもち、そこで第四インターナショナル日本支部準備会を結成しました。われわれは基本綱領草案、規約草案を決定し、この草案を各メンバーの討論にかけることに決定しました。準備会の決定機関は各グループの代表者から構成される代表者会議であり、そのメンバーは反逆者グループの内田英世、レーニン主義研究グループの栗原登一(太田)、社会党のIの三名です。また、代表者会議は日常の支部準備会の活動を処理するために、仮書記局をもうけ、そのメンバーとしてKほか二名を指名した」と。

 ついで、12.22日付のISへの手紙ではつぎのように書かれている。

 「機関紙の発行。支部準備会は『反逆者』を支部準備会機関紙とすることに決定しました。一月からは月二回、六百部の線で発行します。社会党グループの問題。準備会に参加している社会党員は現在一名のみです。社会党グループの多数は支部結成に熱意がありません。かれらはメンバーが十名やそこらでは支部を結成するのは早いとか、その他いろいろな理由をならべたてていますが、とにかく支部結成の問題、ISの書簡等もまじめに討論する様子が見えません」。
 「われわれは次のように考えます。現在、支部結成に賛成しないメンバーは除外して、つまり社会党グループの大多数は除外して、支部準備会に参加しているもののみで支部を結成する以外に方法はない。われわれは1月27日に支部準備会の会議をひらき、そこで支部結成の段どりをつけるつもりです」。

 しかしこのあと、Iは三多摩グループの会議をへて、「支部準備会」には加わらない。そこで太田は、この間に黒寛と連絡をつけ、そのグループを結集させていく。

 黒寛との関係は、太田の方から連絡をつけた。この点については、「黒田寛一をどうとらえるか」に収録されている、吉沢功司編の「黒田寛一年譜」によると、概要「1956.9月下旬、トロツキー『裏切られた革命』と手紙が太田竜から送り届けられる」とある。この本の内容は57.1月以後、黒寛の頭脳に流しこまれることになる。更に、概要「10.日、黒田と太田が、日本における共産主義運動のボルシェヴィキ化について討論」とある。これによれば、二人はこの段階であっていることになる。それは、太田が「準備会を結成した」といっている「10月7日の会議」以後であったということになる。


【「日本トロツキスト連盟」結成】
 56.10月以降、何度かの準備会議が開かれたあと、1957.1.27日、「日本トロツキスト連盟」(第四インターナショナル日本支部準備会)が結成されたと推定できる。その間、Iを含めて三多摩グループは時期尚早として一人も参加せず、内田英世・富雄兄弟、太田龍、黒寛の三つのグループによって結成されたことになる。内田らの「反逆者」が連盟機関紙となった。これが、日本トロツキスト派のわが国に於ける初の党派となった。西京司・岡谷進らの関西グループが参加してくるのは、翌年57年の3月以降である。
(私論.私見) 三多摩グループの脱落について
 「日本トロツキスト連盟」が、内田英世・富雄兄弟、太田龍、黒寛の三つのグループによって結成され、最も古い三多摩グループを脱落させたことにつき、責任は無いかもしれないが何やら不自然さを感じる。れんだいこはこれを仮に、「革共同派の第一次分裂」とみなす。 

 2006.10.14日 れんだいこ拝

 「日本トロツキスト連盟」は、第4インターナショナル日本支部を結成する準備会として位置付けられていた。当初は思想同人的サークル集団として発足した。日本トロツキスト連盟は、国際共産主義運動の歪曲の主原因をスターリニズムに求め、 スターリンが駆逐したトロツキー路線の方に共産主義運動の正当性を見いだそうとしていた。これが後の展開から見て新左翼の先駆的な流れとなった。

 その主張を見るに、「探求」は次のように記している。
 「既成のあらゆる理論や思想は、我々にとっては盲従や跪拝の対象ではなく、まさに批判され摂取されるべき対象である。それらは、 我々のあくことなき探求の過程で、あるいは破棄され、あるいは血肉化されて、新しい思想創造の基礎となり、革命的実践として現実化されねばならない」。

 つまり、早くも「60年安保闘争」の三年より前のこの時点で日本共産党的運動に見切りを付け、これに決別して日本共産党に替わる新党運動を創造することが始められていたことになる。


 黒寛の年譜は次のように記している。
 「(57年)1月17日、”日本トロツキスト連盟”結成のための準備会……1月27日、日本トロツキスト連盟(第四インター日本支部準備会)が、太田、黒田、内田英世らによって結成される。……内田の個人紙だった<反逆者>が連盟機関紙となる。……鶴見、野村、大川、遠山正ら加入」。

 ところで、太田が書いた「日本トロツキスト運動の諸段階」では、「五六年十月には日本支部準備会が発足した」となっている。しかも当時のISにたいしては、「準備会」の発足はその日付で報告されている。おそらく前者が正式の「支部準備会」つまり「連盟」の結成で、それ以前に何度も準備のための会議が開かれ、何度かそのまま「支部準備会結成」に踏みきろうとしたのであろう。

 太田は、「十月七日に三つのグループの代表者会議をもち、そこで第四インターナショナル日本支部準備会」が結成されたと報告している。但し、ここに報告されている三つのグループのうち社会党グループというのは、組織として正式にこの支部準備会の結成に同意していたわけではないし、代表を送ったわけでもない。太田はISへの報告のなかで次のように述べている。

、「社会党グループでは第四に好意をもっているメンバーは約十人おりますが、その中第四と組織的に結びつくことを承認したのは同志Iのみでした」。

 又、「社会党グループの中でこの手紙を支持している一人は、社会党グループが全体として第四の日本支部に参加しない場合は一人でも入ると云っている」というふうに書いている。これは多分に太田個人の主観的な評価であって、I自身は太田の思惑どおりには動いていない。というのは、Iはその直後に社会党グループの討論と決定に従って、準備会を脱退するのである。

 11.27日付のISへの手紙で社会グループの会議の決定について、太田はつぎのように報告している。

 「十月二六日(明らかに十月七日の支部準備会の結成後である)社会党グループの会議(六名参加)。ここでの決定事項は次のとおり。@社会党グループが日本支部結成のイニシアチブをとるべきであり、かつその主体とならなければならない。A十月七日の会議で組織された支部準備会を認めることはできない、なぜなら反逆者グループも千葉グループも社会党にも共産党――共産党などに属するものは除名されるまでその中で闘うべきである――にも属していないからである。B同志Iは準備会を脱退すべきである」。

 そして同じ手紙のなかで、群馬グループと千葉グループの間にも、社会党への加入戦術をめぐって意見の対立があることについてふれたあと、その手紙の最後につぎのように書かれている。

 「千葉、群馬グループは社会党加入戦術について意見が一致していないが、まず第四支部を確立すべきことについては意見が一致している。そこで千葉、群馬グループは共同して機関紙を発行する運びにすすんでいる」。

 以上のような経過のなかで、太田は五六年十月段階までは社会党グループの多数を獲得して支部結成に踏みきろうとしていたが、Iの準備会脱退によってそれをあきらめ、社会党グループを除外したまま支部を結成しようと考えるにいたる。

 さきにあげた10.10日付のIS宛の手紙では、10.7日の会議の決定事項としてつぎのように報告されていた。

 「われわれは支部の正式結成のためには、三つの条件が必要であると考えています。 (a)綱領・規約案の内部的討論、(b)ISの承認、(c)社会党グループからできるだけ多数の参加。われわれは以上の三条件が充足されるのは、大体年末になると考えています」。

 しかしこのあと、Iを除く三多摩グループを除外して「支部結成」にすすむしかないと判断する。だから、太田が「五六年十月に支部準備会」を結成したと、ISに報告したあとでIもまた離脱するのである。そこで今度は黒寛と連絡をとり、あらためて、57.1月に「支部準備会」結成のための会議をもつことになった。

 ここで以上の経過を「反逆者」をとおしてみてみると、その創刊に太田がかんでいないことは明白である。というのは、その時期にはさきにもふれたように、彼は別個に「レーニン主義研究」を7月まで出していたのであるから。太田が登場するのはちょうどそのあとで、第4号(1956、8.1日号)に太田竜の訳によるM・スタインの論文が掲載されている。また内田は「6号(10.1日号)あたりから第四インターナショナルとの関係について考えはじめた」と語っている。その6号は発行者が「マルクス主義研究会」に変っており、「レーニン主義研究」の(5月から7月号までの)広告がのっている。この頃から「反逆者」の編集発行に太田が参加しはじめているとみられる。

 そして8号(1957.1.1日号)より「反逆者」が「トロツキー主義研究会機関紙」となり、申し込み所として千葉と群馬の二つの住所が併記してある。9号(1.15日号)から「日本トロツキスト連盟機関紙」となり、発行所が千葉の住所になって、群馬事務局として群馬の住所が書かれてある。10号(2.1号)からは発行所として千葉の住所だけが書かれてある。勤務をもつ内田は、なかば専従的な政治新聞の発行にたずさわる経済的・時間的余裕はなかったし、他方、経済的にも時間的にも余裕のあった太田がそれをひきうけて、発行所も千葉に移されたと推定できる。そのために内田富雄は、千葉に寄宿して新聞を発行しつづけた、という。

 ところで、太田が黒田に手紙を出し、面会するにいたるのは、黒寛の一連の「主体性論」に関る諸論文が出された頃からであろう。黒寛の「スターリン主義批判の基礎」が発刊されるのは1956.10.11日刊であり、太田が彼に手紙を出したあとである。(原稿そのものは1956.3-6月にかけての執筆とされている)

(私論.私見) 日本トロツキスト運動の評価基準について
 この根底にあったものを「日本における革命的学生の政治的ラジカリズムと、プチブル的観念主義が極限化して発現したもの」とみなす見方があるが、 そういう見方の是非は別として、この潮流も始発は戦後の党運動から始まっており、党的運動の限界と疑問からいち早く発生しているということが踏まえられねばならないであろう。

 宮顕理論によれば、一貫してトロツキズムをして異星人の如くいかがわしさで吹聴しつつ党内教育を徹底し、トロツキストを「政府自民党の泳がせ政策」の手に乗る反党(ここは当たっている…私の注)反 共(ここが詐術である…私の注)主義者の如く罵倒していくことになるが、私はそうした感性が共有できない。前述した「党的運動の限界と疑問からの発生」という視点で見つめる必要がある。

【日本トロツキズム分党史その1、内田の脱落】
 1957.4月に「連盟」の全国代表者会議が開かれ、そこで「行動綱領草案」が採択されるが、その会議には関西から千葉、岡谷が出席している。その後、同年の4月〜7月頃にかけて、太田の「対馬批判」(『反逆者』第8号<57.1.1号>)を契機に始っていた、「ソ連論」を主とする内田―太田論争がかなり決定的なものになってきた。内田は、「半資本主義的労働者国家説を主張して、国家資本主義論ではなかった」という。がいずれにせよ、対馬忠行の影響が強かったことは確かである。この点で、黒寛もまた同様であり、イデオロギー的には内田に近かったにもかかわらず、黒寛はこのときには太田を支持した。

 7月頃、このような経過と論争のなかで内田は組織を離脱する。そのいきさつで、「第四インターナショナル」29号が欠版になっている。ただ内田は、「再度勉強し直そうというのが、組織をぬけた主な理由であった」と語っている。こうして、最初に「日本トロツキスト連盟」(日本支部準備会)を結成した中心人物の三人のうち、内田英世は1957.7月に太田との対立で組織を離脱することになる。
(私論.私見) 内田の脱落について
 「日本トロツキスト連盟」は結党半年後早くも、三グループの一つ内田派を脱落させたことになる。れんだいこはこれを、「革共同派の第二次分裂」とみなす。日本革命的共産主義者同盟小史にはこの観点はないが、ここから見ないと革共同派の分裂史の特質が見えてこないと思うから敢えて「革共同派の第二次分裂」とみなす。

 2006.10.14日 れんだいこ拝

【日本トロツキズム運動の当初の歩み】
 極く少数のメンバーによって結成された日本トロツキスト連盟の活動は、1957年の後半から、1958年にかけて新しい組織建設の段階に突入することになる。すなわち、日本のトロツキズム運動がはじめて学生運動というひとつの大衆闘争と結合し、この学生運動を推進している数千名の規模で存在していた日共の学生党員たちのなかに、トロツキズムの影響力を、まさに一挙的に、きわめて劇的に拡大する。こうして、日本のトロツキズム運動は創世紀の数人のメンバーの歴史の段階から、新しい大衆的な規模で組織建設を構想し得る段階を迎える。

 この時期全学連内の急進主義的学生党員活動家の一部はこの潮流に呼応 し、急速にトロツキズムに傾いていくことになった。つまり、日本トロツキズム運動は、全学連を中心とする学生運動の昂揚の上潮に乗って切り開かれていくことになった。56年から開始し、60年安保をもってひとつのサイクルを描いて終った学生運動の昂揚こそ、日本のトロツキズム運動を神話的段階から、現実の歴史過程として推進させるエネルギー源であったといえる。 

 六全協後の学生運動と日本トロツキズム運動が関わっていたのかを見ていくことにする。六全協後、学生党員たちはキャンパスに戻り、国際派に属していた理由で党を離れていたメンバーが党に戻っていった。学生運動の再建が開始された。56.1月の国立大学授業料値上反対闘争をきっかけに、教育三法、小選挙区制反対闘争に取り組んだ56年の4、5月闘争は学生運動の昂揚を確定した。こうして全学連は56年秋には砂川闘争に取り組み、57年に入ると平和擁護闘争を展開、58年の勤評、警職法闘争を経て、60年安保闘争へむかっていく。

 このような学生運動の昂揚をバネとして、この運動の中心を担った学生共産党員たちは、ハンガリー革命の再検討を通じて理論的にスターリニズムからの訣別を準備し、平和共存路線の誤りを大衆闘争の展開を通じて運動的に確認し、スターリニズムの理論と組織からの離別にむかうのである。

 日本トロツキズム運動の巨大な可能性の対象は、具体的にはこの日本共産党から離れようとする学生党員たちとして出現する。そして、57年から58年にかけての日本トロツキスト連盟(57.12月からは日本革命的共産主義者同盟=JR)は、このスターリニスト党から分離していこうとする学生党員たちを対象とする活動にむかうのである。


 ところで、日本革命的共産主義者同盟小史には次のように書かれている。

 「戦後激動期に第一期黄金時代を印した全学連の運動は日本共産党の50年分裂によって決定的な打撃をこおむり、沈滞にむかった。すなわち、50年分裂の当時の全学連指導部はほぼ全面的に国際派に所属していた。しかし党の実権を握った所感派は国際派が多数を握る全学連指導部からの国際派の追放を断行した。所感派の学生運動論は“層としての学生運動”を否定して、共産党のメンバー供給源として学生運動をとらえ、学生そのものへの方針としては身のまわり主義の改良主義的運動としてその方針を提起したのである。したがって学生党員たちは山村工作隊や火炎ビン闘争の“兵士”として動員されるいっぼう、学生大衆を“歌え踊れ”の路線で組織するという任務が与えられたのである。50年分裂から55年の六全協までの間、学生党員は共産党の冒険主義路線によって多大の犠牲を払わされるのである。学生自治会やサークルを指導する大学細胞はかくて壊滅的打撃を受けた。

 先に見たように56年以降の学生運動が担った役割の特殊な重要性は、全学連の闘争の歴史によっても明らかとなる。すなわち、朝鮮戦争直前におけるレッドパージによって、日本共産党の労働者階級に与えていた影響力はほとんどゼロにまで崩壊させられてしまったのである。このレッドパージは当然にも大学にむけられ、アメリ力の反共主義者・イールズは各大学で“赤い教授”の追放を煽動したのである。イールズの全国遊説において、かれを迎えた東北大学の学生たちは逆にイールズを糾弾して追い帰してしまい、大学における反レッドー・パージ闘争の火ぶたを切ったのである。結局、全学連の反レッドー・パージ闘争によって大学にまでのパージは貫徹されなかった。すなわち、日本の大学は唯一残された共産党の橋頭堡ともいうべき役割をもっていたのである。この歴史的伝統と、情勢の危機は全学連を再び大衆闘争の前面へ押し出していった」。
(私論.私見) 「全学連運動における国際派と所感派の評価」考

 日本革命的共産主義者同盟小史の日共運動に対する上記の纏めは、無茶苦茶である。とはいえ、おこれが新左翼のほぼ共通した見方であるが。しかし、「所感派の学生運動論は“層としての学生運動”を否定して、共産党のメンバー供給源として学生運動をとらえ、学生そのものへの方針としては身のまわり主義の改良主義的運動としてその方針を提起したのである。したがって学生党員たちは山村工作隊や火炎ビン闘争の“兵士”として動員されるいっぼう、学生大衆を“歌え踊れ”の路線で組織するという任務が与えられたのである」などという文章が果たしてまともであり得るだろうか。

 第一章節の、「所感派の学生運動論は“層としての学生運動”を否定して、共産党のメンバー供給源として学生運動をとらえ」については、これで良い。第二章節の、「共産党のメンバー供給源として学生運動をとらえ、学生そのものへの方針としては身のまわり主義の改良主義的運動としてその方針を提起したのである」は、極めて不正確である。この傾向は、閉職に追いやられた格好の宮顕及び西沢等が指導していた限りにおいて「身のまわり主義的右派系改良運動」が存在していたことは事実である。しかし、徳球系党中央の路線ではない。徳球時代とは急進主義と穏健主義が混在していたところに特徴があるが、そのうちの宮顕系指導をもって徳球時代の指導を批判するのは為にするものであり公正ではない。

 だから、次の章節の「したがって学生党員たちは山村工作隊や火炎ビン闘争の“兵士”として動員されるいっぼう、学生大衆を“歌え踊れ”の路線で組織するという任務が与えられたのである」などという訳の分からない規定を平然と為し得るようになる。一体全体、「山村工作隊や火炎ビン闘争」という極左闘争と「歌ってマルクス、踊ってレーニン」という穏和運動なぞが両立できる訳がない。正確には、徳球系が急進主義から極左闘争へ転じたのであり、穏和運動は宮顕派の専売であった。

 ちなみに、徳球時代に「“歌え踊れ”路線」が一時期あったのは事実であるが、一般には六全協後の宮顕指導によりもたらされた7中委路線のことを云う。これを否定する形でブント運動が出てくるのであり、この時代差を混合させた形で概括する日本革命的共産主義者同盟小史は意図的であれば非常に問題が多い。

「加盟戦術」の採用
 日本トロツキスト連盟は、その運動方針として「加盟戦術」による社会党・共産党の内部からの切り崩しを狙ったヤドカリ的手法を採用した。「加入戦術」とは、対象となる組織に加入し、内側から組織の切り崩しを行う戦術である。そのため、自前の運動として左翼内の一勢力として立ち現れてくるようになるのはこの後のことになる。

 加入戦術をめぐる論争は、日本トロツキズム運動の初期に、組織方針の分野でもっともはげしくたたかわされた論争である。加入戦術は、1950年代に、山西英一や太田竜によってすでに実行に移されていたが、六全協以後の日本共産党の学生党員を中心とする大量の代々木ばなれした活動家にとって、新しい党建設を志向する立場から第四インターナショナルに判断を下すための重大な問題点としてクローズアップされた。加入戦術を一貫して熱心に主張したのは、太田竜であった。彼は、パブロの第三回世界大会における立場と路線の熱心な支持者であり、日本の第四インターナショナルを強固なパブロ派として組織しようとしていた。

 パブロの加入戦術論は、次のように提起された。

 「第三回世界大会=ついで国際執行委員会第十回総会によって決定された戦術(加入戦術)は何よりも時代の深く革命的な性格の評価と国際的力関係の革命に基本的に有利な発展に基づいている」、「帝国主義の戦争へ向っての志向と具体的前進にもかかわらず国際的力関係が革命に基本的に有利に発展する基本的に革命的な時期という条件のもとで、第三回世界大会ついでIEC第十回総会は、各国の現実の大衆運動への可能なかぎりのあらゆる深い浸透と作用という戦術を決定した」(第四回世界大会への報告――パブロ)、「……この展望は、資本主義の終局的危機と世界革命の拡大の展望として定義づけられる。この二つとも、第二次世界大戦でひきおこされた混乱によって激化し、終戦後ますます顕著となり、いまや決定的解決への決定的闘争にむかうこの歴史的時期全体を特色づけるものである」、「決定的戦闘までになお二年か三年――いやもう少し――残されているとしても、われわれが準備するのに十分ではない。それどころかいたるところでわれわれが現実の大衆運動へ参加するためにすみやかに行動し、われわれの勢力を配置し、今から行動にうつらなければならない。これが、第三回世界大会の戦術適用についての討論を長々とひきのばしてはならない理由である」(第十回国際執行委員会報告――パブロ)。

 「きわめて急速に革命的危機が到来する。われわれはこの危機にどのように間に合うことができるか」。これが、パブロが加入戦術を提起した核心の問題設定であった。パブロはユーゴ革命と中国革命を総括するなかから、革命的大衆の圧力は、スターリニスト党をも(革命党不在の場合には)ゆり動かして、権力にむけて押しやるであろうと予測した。今日第四インターナショナルがきわめて微弱である前提のうえに立てば、来るべき数年のうちに開始される決定的戦闘においては、大衆の革命的エネルギーは、スターリニスト党や社会民主主義党の既成の大衆的政党に流れ込むであろう。われわれはそれを外から評論するのではなく、これらの党の内部にいて、大衆のエネルギーを待ちうけ、合流し、これらの党の官僚と大衆のミゾを拡大し、大衆的な革命党建設のダイナミックな出発点をたたかいとらなければならないのである。

 しかし、「来るべき二〜三年」というようなパブロの切迫した問題設定は、事実とはならなかった。世界資本主義は世界大戦を回避しながら、経済上昇の長い時代に入っていった。こうしたなかでマンデルは、加入活動を全般的な組織戦術として再度定式化した。

 「一、大衆的革命党の創造は広汎な勤労大衆の急進化なくしては不可能である。二、……この急進化は、その第一局面においては、伝統的大衆党への労働者の流入とこれら諸党の労働者党員の重要な部分の急進化によって表現されるであろう。三、この急進化の基盤に立って強力な左翼がこれら諸党の内部に結成されるし、それは大衆の目には予備指導部としての真の役割をはたすであろう。この左翼は伝統的指導部とあすの大衆的マルクス主義政党とのあいだにわたされたカケハシとなるだろう」(IEC二十回総会)。

 マンデルはこう定式化することによって、加入戦術を一般的な組織戦術に高めた。パブロの「来るべき対決」の展望はくずれたとはいえ、加入活動の戦術は、第四インターナショナルの基本的組織戦術として60年代後半の急進的青年運動の爆発の時期まで受けつかれていくことになる。

 これに対して、キャノン派は、加入戦術一般には反対しないが、その基礎にすえられている「スターリニスト党と革命的大衆」の関係のとらえ方が、修正主義的であるとして猛烈に反対した。キャノン派によれば、こうしたとらえ方はトロツキストの原則の放棄、武装解除につながるのである。したかってキャノン派の加入戦術にたいする理解は、あくまでも一時的で部分的なものでなければならず、スターリニスト党の「可能性」に立脚したり、主体性を喪失した「全面加入」であったりしてはならないのである。

 ICPの太田竜は、パブロ―マンデルの方針を忠実に実行すべきだという立場に立った。

 「第四インターナショナル日本支部は、社会党左派とその周辺、及び共産党の戦闘的労働者・学生の中に見られる革命路線への多分に自然発生的な潮流を意識的に指導し、その中に計画的にボルシェビズムを注入し、この潮流を強化し、意識化することを当面の任務とする。この目的のために支部は独立の組織をあくまで維持しながら、比較的長期に亘って既存の労働者諸党すなわち社会党及び共産党の内部で活動することにその主たる努力を向ける」(日本革命のテーゼ)。

【太田―黒田論争その1】
  内田が組織を離脱したあとも同じ問題をめぐって、もっと深刻な対立が太田と黒寛の間に展開されていくことになる。この点に関して太田はつぎのようにその問題を自ら認め、次のように指摘している。
 「56年10月には日本支部準備会が発足した。そのメンバーは8名であった。この人々はすべてどの党にも属しておらず、どんな大衆運動にも活動家として参加してはいなかった。この欠陥はやがて運動に否定的影響を与えるであろう」。
 「56年末には山西氏のグループの方が一層労働者的であり、大衆運動に根をもち、より活動的であった」。

 しかし、その後の運動に「やがて否定的影響を与えるであろう」欠陥は、最初に結集した人々が、「すべてどの党にも属しておらず、どんな大衆運動にも活動家として参加していなかった」というところにだけあったのではなかった。第一に、三つのグループを結集して支部準備会を結成したとき、綱領的、原則的問題についての意見対立が残されたままであり、保留されたままであった。第二に、このような原則的問題についての意見の対立を残しつつも、ともかくトロツキズムと第四インターナショナルの立場にたって支部準備会の結成に関して一致して以降、その後も引き続き内部での徹底した民主的討論によって見解の練りあいをしていかなければならなかったのであるが、太田の対応は、黒寛のセクト的体質とともに、この最も重要な組織的討論を保障していくことができなかった。

 では、結成にいたるまでの論争がどのようなものであったかを確認する。まず、創設期に、三多摩グループ、太田グループ、「反逆者」グループの三者の間で「独立活動」をめぐる論争が発生した。56.8.21日付のIS宛の手紙によると、組織的な問題で「加入活動」を廻って論争が行われ、「加入活動」の継続を主張し「独立活動」に反対する三多摩グループと、「独立活動」を指針する太田や「反逆者」グループとの間に対立があった。

 他方、イデオロギー的には逆に、「反逆者」グループと太田や三多摩グループとの間に意見の対立があった。理論的な対立は、次のようなところにあった。
 革命中国と革命日本の合同社会主義計画経済のスローガンについて。
 賛成意見――このスローガンは永久革命戦略の具体的適用である。
 反対意見――スターリニストが中国を支配しているかぎり、それは不可能である。それをいうならば世界社会主義計画を云うべきである。
 ソ連との領土問題。
 返還請求論―ソ連官僚の反革命的対日政策を否認し、日本の革命運動を推しすすめる見地から千島、南樺太の返還、捕虜の虐待に対する賠償要求。
 領土問題棚上げ論―領土問題にこだわるのは反動の手にのる結果になる。みんな労働者の共通の財産である。

 このような理論的対立を孕(はら)みながらも「日本トロツキスト連盟」(日本支部準備会)を結成していった。留意すべきは、黒寛がこの段階ではトロツキーのものは何ひとつ読んでいなかったことである。当然、第四インターナショナルの諸文書や活動についても知識が不十分のまま「第四インターナショナル日本支部結成の準備会」に参加していたことである。

 その黒寛が、57.4.20日付の「反逆者」16号には米原俊成の名で「左翼反対派を結集せよ」という一文を掲載して、「いまこそ左翼反対派は第四インターナショナルの旗のもとに結集しなければならない」と、第四インターナショナルへの結集を呼びかけている。その文章は、69年に現代思潮社から出版された「黒田寛一・スターリン批判以後」にも再録されている。しかしそこでは原文のままに再録されているのではなく、気付かれないように部分的な手直しがなされている。くり返し使われていた「第四インターナショナル」という言葉が、「それ」という代名詞に置き替えられているくらいなら内容の本質を歪めることにはならないだろうが、「スターリニスト官僚」というのが「スターリン主義的官僚国家」と書き替えられたのでは明らかに内容の本質を歪めるものである。しかも「反逆者16号より」と書かれているのであればなおさら許されない。確認すべきは、黒寛はこういうことを平気でやる手合いだと云うことである。


 こうしてひとたびは、トロツキズムと第四インターナショナルの立場に立った(?)黒寛は、たちまちのうちにそれをのりこえる(?)のである。やはり黒寛の著になる「日本の反スターリン主義運動」第二冊の「党組織建設論――その過去と現在――A、第一段階(1957〜59年8月)」には、つぎのように書かれている。
 「わが革命的共産主義運動の約三ヵ年は、トロツキズム運動の伝統がまったく欠如していたわが国において、公認共産主義運動と敵対した運動を創造するという苦難にみちた闘いであった。……しかも、この闘いは、スターリンに虐殺されたトロツキーの革命理論と第四インターナショナルの運動を土着化させると同時に、それをものりこえ発展させていく、という革命的マルクス主義の立場において実現された」と。そしてそれは、「まずもって日本トロツキスト連盟の結成(57年1月)として、そして日本革命的共産主義者同盟へのその名称変更(同年12月)にもとづく革命的マルクス主義運動の創造としてたたかいとられた」。

 だが実際には、その当時「トロツキズムをものりこえる」立場にあったどころか、トロツキズムについても第四インターナショナルについても、まったく何も知りはしなかったし学びもしなかった。そればかりかスターリニズムとの関係において中間主義的立場をとってさえいた。しかし、その内容はともかく、事実としても主観的にも、ひとたびは「第四インターナショナル」に加盟し、その「旗のもとに」結集せよと呼びかけ、機関紙の名称も黒田の提案によって(「反逆者」というのは過激すぎるからというのが理由だったらしいが)「第四インターナショナル」と改題したのである。

 ところがその年の末にはもう、「日本トロツキスト連盟」を、これも黒寛の提案によって「日本革命的共産主義者同盟」と名称変更して、「トロツキズムの立場をのりこえ」ようとしたらしい。名前を変えれば、何かが変るとでも思っているのか、黒寛は一度たりとも第四インターナショナル内部で、何か論争したとか闘争したとかいうことをとおして「トロツキズムと第四インターナショナル」の立場をのりこえたわけではけっしてない。

 結局、彼ら中間主義者にとってはつぎの点で共通した特徴をもっている。つまり、強固なスターリニストであった黒寛が、「ソ連の水爆実験」と「スターリン批判」で衝撃をうけて、黒寛の頭の中で「事の真相」がはっきりした、そのときから歴史が新たにはじまり、世界が誕生するのである。その時からすべてがはじまるのである。スターリニズムの根底的な堕落も、それとの闘争も、すべてその時点からはじまるのである。だから、ロシア十月革命とその成果のスターリニスト官僚による纂奪も、またそれとの闘争をいちはやく開始した1924年以来のトロツキーを中心とする「ロシア左翼反対派」の歴史も、「国際左翼反対派」の歴史もないのである。それがはじめから「一国主義」でしかないのは当然である。

 彼らは突然の衝撃で初期マルクスへ回帰し、さらにへーゲルにまでさかのぼっていく。彼らはトロツキーと第四インターナショナルの闘いの歴史をぬきにしては、ボルシェヴィズムに結晶した革命的マルクス主義の防衛はありえなかったのだ、ということをどうしても理解できない。だからまた、生きた歴史を闘いぬいてきた、革命的マルクス主義としてのトロツキズムを正しく評価することができない。

 スターリニズムの誤謬も労働者国家ソ連邦の堕落も、歴史的に形成された社会的力関係とは切り離されて、純粋にスコラ的な方法でとり扱われた。ソビエト国家の評価と分析も、帝国主義と対決して現に闘われている国際的階級闘争や、その力関係のなかで位置づけられるのではなく、抽象的に『資本論』の次元で論じられたのである。ソ連にはまだ資本主義的諸要素――価値法則や疎外――が残存しているということから、十月革命の成果――生産手段の国有化と計画経済――そのものも否定され、「ロシア十月革命とボルシェヴィズムをものりこえた」マルクス主義への回帰がはかられたのである。


 
黒寛と彼ら中間主義者が、「加入戦術」と「労働者国家無条件擁護」をどうしても理解できないのはそのためである。「ソ連論論争」を含む、この二つの点を理解できないのは、現に歴史的に形成されているグローバルな階級的力関係、また国内における階級闘争の現実から出発して、問題を提出する能力がないということを示している。この点で、「加入戦術」とソ連論をめぐる「労働者国家無条件擁護」を理解できるかどうかという問題は、別々の二つのことではなく、まったく同一の問題なのである。

【日共京大職組細胞幹部の西、岡谷グループが入党】

 1957.1.27日、「日本トロツキスト連盟」(第四インターナショナル日本支部準備会)結成後僅かの3月頃、日共京大職組細胞幹部の西、岡谷が「日本トロツキスト連盟」に加盟した。「トロツキスト連盟」の一員となった西は、「ハンガリア革命支持」、「平和共存論批判」などをはじめ、「日本トロツキスト連盟」の立場から公然たる意見表明をとおして京都府委員へ選出された。


「日共の綱領論争」への参戦
 日本トロツキズム運動勃興期のこの頃、日共内で綱領論争が起り、日本トロツキズム運動はこの論争に参加していくことになる。1957.9月に党章草案(党章とは綱領と規約をまとめて呼ぶ)が発表され、同時に綱領論争へと発展していった。宮顕系党中央は、徳球時代の「51年綱領」を改定して、新しい綱領をつくることを決定し、57.9月に党章草案として発表した。

 この草案をめぐって、共産党内に大規模な論争が展開された。論争点は草案が当面する日本革命の性格を「民族独立民主主義革命」とし、この戦略を導くために支配権力の性格規定をアメリカ帝国主義に従属した半植民地国の権力であるとしていたが、これに対して、草案の反対派は日本帝国主義の復活を重視し、当面する革命を社会主義革命であると草案反対の戦略を対置したのである。

 論争は57.9月から58.7月の第7回大会までほぼ一年間にわたって展開するが、この時期の日本共産党はこの党の歴史にはまれな”自由の季節”をむかえ、百花斉放の感でさまざまの見解が発表された。

 既に「日本トロツキスト連盟」していた西は、57年夏の日本共産党7回大会への綱領論争に参加する。「沢村論文−レーニン主義の綱領の為に」を提出し、これが党の機関紙(京都府党報)に掲載された。 この論争の期間、共産党の官僚的権威は低下し、官僚体制による統制はきわめて微弱なものとなっていた。「前衛」や綱領討論のための「団結と前進」において、民族独立民主主義革命派、社会主義革命派の立場、及びその内部の見解の相違をふくめて論争は全面化していった。沢田論文は誰一人の反対もなく「京都府党報」に全文掲載され、またその立場からの意見表明をとおして、西は誰一人の反対もなく大会代議員権も獲得した。(後で官僚的かつ一方的に剥奪されるが)。京都府委員会の学対部長の地位にあった西はこの間立命大細胞を先頭にして学生の間に急速にトロツキズムの影響を浸透させていった。

 このようにして、出来るところではトロツキーの文献紹介と宣伝活動を展開した。「レーニン死後の第三インター」の翻訳などもこの当時なされたのであった。このような共産党内部での活動のため、「連盟」の機関紙にはこの時期まったく執筆していない。

 しかし当時の全学連は、「平和擁護闘争」で党中央の「巾広統一戦線」に反対するという水準であった。このなかで、京都府委員会の学対部長の地位にあった西は、自らの左翼的立場を、「フルシチョフテーゼ」と「平和擁護闘争」によって表現していた学生グループとのし烈な論争をとおしてこれに介入していく。こうして58年に入ると、立命大細胞を先頭にして急速にトロツキズムの影響が、学生の間に拡大していくことになった。


 綱領論争は日本トロツキズム運動に共産党への介入の好機を提供した。論争がスターリニズムの枠内で展開されているのに対して、日本トロツキスト連盟は「反逆者」や「第四インターナショナル」誌上で草案の段階革命論や一国社会主義論にトロツキズムの立場から批判を展開していった。この介入は直接的な組織的成果につながらなかったとしても、学生党員を中心とする反対派がスターリニズムから脱却するための促進要素となったことは明らかである。特に、沢村論文が果した役割は具体的成果を生みだすものとして重大であった。

 論争を通じて共産党内にはさまざまな反対派のグループが形成された。党組織としては東京都委員会、関西地方委員会が草案反対派の拠点となり、全学連主流派の学生党員たちはさらに強力な全国的反対派として存在した。また、いくつかの拠点的経営細胞において反対派が多数派をつくるという状況が生れた。六全協を契機に党のヘゲモニーを掌握した宮顕は、第7回大会までを徳球時代に培われていた“自由”な論争に依拠せざるを得ず、第7回大会以降一層支配権を固めることにより、一転して反対派の排除を断行していくことになる。この反対派排除によって党外にさまざまの小党派が結成されることになったが、まずその最初にして最大の組織が58.12月に結成される共産主義者同盟になる。

 日本トロツキスト連盟は共産党綱領論争への介入を通じて、主として学生党員に接近して組織的成果を獲得することになるが、綱領論争はスターリニズムの綱領的立場の破産をまた示すことでもあった。


「日本革命的共産主義者同盟(革共同)」の誕生
 12月、日本トロツキスト連盟は、日本革命的共産主義者同盟(革共同) と改称した。この流れには西京司(京大)氏の合流が関係している。日本トロツキスト連盟の「加入戦術」が巧を奏してか、かなりの影響力を持っていた日本共産党京都府委員の西京司氏が57.4月頃に「連盟」に加入してくることになり、その勢いを得てあらためて黒田寛一、太田竜、西京司、岡谷らを中心にした革共同の結成へと向かうことになった訳である。この時点から日本トロツキスト運動の本格的開始がなされたと考えられる。この流れで58年前後、全学連の急進主義的活動家に対してフラク活動がかなり強力に進められていくことになった。

 ただし、革共同内は、同盟結成後も引き続きゴタゴタが続いていくことになった。善意で見れば、それほど理論闘争が重視されていたということかも知れぬ。

【太田―黒田論争その2】
 この論争と対立を通して、黒寛は「トロツキズムと第四インターナショナルをのりこえ」ていく。ちょうど、57年秋から58年1月まで、太田が世界大会に出席して不在の間に、黒寛は、RMG(革命的マルクス主義者グループ)なる秘密の分派組織を別個につくって、「探求」や「早大新聞」によって独自の理論活動を展開していく。この時、日共内の活動にそのエネルギーのほとんどすべてを注いでいた関西グループは、陰湿で秘密裡に遂行されていた黒寛派の分派活動にかかずりあっているひまはなかった。

 58.1月、第四インターナショナル第5回大会に出席していた太田竜が帰国した。この時、関西では西、岡谷のヘゲモニーのもとにJRの影響力が理論的にも組織的にも拡大しようとしていた。関西でのトロツキズムの運動は、日共京都府委員会の学対部といういわば戦略的高地から開始され、確実に成果を拡大していた。

 それに比べて、東京は関西よりはるかに遅れていた。帰国した太田の任務は重大であった。しかし、太田は、流れに逆うように学生への工作をほとんど放棄して、JRを即時に全面的な社会党への加入活動へむけた方針を提起した。ここから約半年間、東京のJRは太田と黒寛の対立が進行し、学生工作活動は不活発となる。政治組織としての統一性を持ち合せることなく、太田と黒寛という思想も理論も気質も異った二頭立ての体制での学生工作することは失敗が見えていた。二人はお互いにいがみ合い、足をひっぱり合って相手を嘲笑していた。東京においては学生たちに攻勢をかけるよりも、内輪の喧嘩に浮身をやつしていた。最終的に58.7月の太田派の分裂にまで進み東京でのJRの組織体制は最悪の事態に陥ってしまう。

 ここで、日本トロツキスト連盟結成後の東京における黒寛と太田のグループの形成をみておく。黒寛のもとに形成されたグループは東京の数名の学生メンバーと、埼玉県の民青メンバーであった。かれらは黒寛のスターリン主義批判の著作を読み、黒寛に直接連絡をとることによって、黒寛のもとにサークル的に結集しはじめた。東京の学生メンバーは遠山、山村、広田などであり、それに57年の終り頃、当時早大新聞会にいた本多延嘉が加わった。また九州の青山もこのころ黒寛グループにつながっていった。彼らは、黒寛理論にひきつけられていた分子と云える。

 黒寛に近づいた埼玉グループは大川によって指導されていた。大川は民青埼玉県委員会の指導的メンバーであったが、スターリン批判を通じて黒寛と結びついていった。当時、埼玉の民青の拠点として国労大宮工場があった。大川は、大宮工場の班の主要メンバーを自己のグループとして獲得した。そのなかのひとりに後の動労の松崎もはいっていた。黒寛グループのなかに入った埼玉のメンバーは当時の日本トロツキスト同盟のほとんど唯一の労働者部分であった。この部分が今日まで黒寛の影響下にあることによって、その後の黒寛派の分裂や革マル派の誕生の要因となった。即ち、黒寛は、この国鉄労働者メンバーを握っていたことによって組織分裂のイニシァチブをとったことを、われわれは後にみることになる。

 太田竜グループはふたつのルートを通じて形成された。ひとつは東学大グループでありもうひとつは日比谷高校グループである。57年夏、当時、反戦学生同盟の中央書記局メンバーであった東学大の小山は「連盟」から送付されていた「第四インターナショナル」に目をとめ、全教学協(教育系自治会全国組織、五八年五月全学連へ統一)の事務局長をしていた西山とともに太田竜との接触をはじめた。こうして東学大にトロツキスト運動のきっかけが生れた。いっぽう、小島を中心とした日比谷高校グループは当時民青班であったが平和共存路線に疑問を抱いていたところ、グループのひとりが東大の社研のサークルにいて「第四インターナショナル」に接し太田を講師に招いて学習会を開き、太田の理論的影響のもとに入っていった。日比谷高校グループのメンバーは57年から58年にかけて東大か東学大に進んだため、小山、西山と合流し、ここに東大駒場と東学大に太田竜グループがつくられることとなった。小山、西山は五八年初めに同盟に加入し、日比谷グループは第四インターナショナル・シンパサイザーグループ(FISG)をつくって太田を経由してJRと結合していた。

 第五回世界大会に出席した太田は当時のIS(国際事記局)派の指導者、パブロとの結合を強めて帰国した。かれは帰途、セイロンに立ち寄りランカサマサマジャ党(LSSP=第四インターナショナルセイロン支部)を訪れた。セイロンの階級闘争で労働者階級の多数派を占めているLSSPの現実をつぶさに見て、太田は加入戦術の即時実施を決意したのであろう。帰国すると太田は、五八年二月に開かれたJR第六回全国代表者会議において社会党への即時全面加入活動の方針を提出した。

 太田の加入戦術方針はもちろん単なる第四インターナショナルの組織決定であるからこれを適用するというだけの形式的方針ではなかった。太田はきわめて近い将来に日本において階級的総対決が訪れるであろう、この対決に間に合うように、トロツキストを既存の労働者の党へ加入させ、来るべき対決にそなえねばならないと考えた。来るべき対決においては労働者階級がまず左傾化の第一歩として既成指導部に対して左の圧力を強めるであろうと予測し、この既成指導部に流れ込む労働者階級の左への圧力を内部にいたトロツキストが結合して社民の枠を突破することが必要であるという展望にたっていた。したがって太田にとっては対決に“間に合う”かどうかが決定的であった。だから、ちょうどその頃、学生たちが何千という数で日本共産党から別れようとしていたこと、日本トロツキズム運動にとってまたとないチャンスが生れようとしていたこと、このような客観的条件は太田にとってはどうでもいいことであったのである。

 黒寛は太田の加入活動方針に真向うから反対した。“哲学ぼっちゃん”の黒寛にとっては高度な統一戦線戦術である加入戦術については政治的に本質的に理解することはできなかったのであろう。当時、黒寛は次のように太田を批判していた。
 「……パブロ修正主義者のいう『加入戦術」は本質的にスターリニスト党からのトロツキストの疎外感の必然的産物でしかないこと、逆にいうならばスターリニスト党を革命的に解体するためのトロツキストとしての主体的な組織戦術を追求することが欠落しているがゆえに、いわば応急手段として『加入戦術』が即時的に提起されているにすぎない」(「日本の反スターリン主義運動1」黒田寛一、94頁)。

 太田の加入戦術方針に反対した黒寛はすでに太田の留守の間に第四インターナショナルとトロツキズムへの敵対の路線をかためており、加入活動をめぐる太田、黒寛の対立は、七月の太田派の分裂(いわゆる第一次分裂)にまで進んでいくのである。

 黒寛は、57.9月執筆の論文「日本革命とわれわれの課題」において、早くも第四インターナショナルを「乗り越え」た新しいインターナショナルの展望を打ち出していたが、太田が世界大会に出席して日本にいなくなるとトロツキズムと第四インターナョナルへの敵対の路線を公然化させた。

 黒寛は、「探究」第二号においてソ連核実験擁護という労働者国家防衛の路線から導かれる正しい方針に反対した。かれはサルトル的実存主義、小市民的平和主義からすべての核実験に反対した。三月、「探究」第三号で黒田は第四インターナショナルそのものの批判を公然と行った。

 「トロツキーによってうちたてられた第四インターナショナルは、堕落したコミンテルンに敵対するものとして、その存在理由をもっている。それは、トロツキズムがスターリン主義に敵対するものとして意義をもつということの国際的な組織形態にほかならない。第四インターナショナルはスターリン主義に敵対するトロツキズムの世界的な政治組織である。」(『革命的マルクス主義とは何か?』黒田寛一、一〇六頁)。

 黒寛にとっての第四インターナショナルとは、反スタインターナショナルに過ぎない。また、黒寛にとってのトロツキズムとは、スターリンを批判するためにのみ意味があるのである。

 かれはトロツキーの理論を密輸入しながら、トロツキ−をののしった。それは決して「世界に冠たる反スタ哲学者」と自他称する黒寛にふさわしい内容ではなく、ヨーロッパの中間主義者たちの陳腐な批判の口移しであった。
 「……この現実政治のパラドックス、階級闘争における非合理的なモメント、敵対するもののあいだの非合理的な力関係――これが、政治のダイナミックスをなすのであって、これを本当に理解することなく、ただ文学青年的に割り切ったところに、革命家たらんとしたトロツキーがたんなる理論家となり、真の(レーニン的意味における)政治家たりえなかった根本的な理由があるのだ。(略) このようにロシア革命前後のトロツキー自身が現実政治の弁証法的展開をほとんど理解していなかったこと――ここから理論的にはトロツキーの組織論の致命傷が不可避となり、政治的実践においては、その理論的正当性と正統性にもかかわらずスターリンとその一派に完全に敗北してしまったのだ――」(『革命的マルクス主義とは何か?』黒田寛一、45頁)。
 「ところで、現代トロツキストの革命的主体性喪失にもとづく今日の第四インターナショナルの組織的弱体化、その四分五裂と堕落を決定的なものとした直接の根拠は、その組織論の欠陥にあるo つねに既成左翼諸政党への「加入戦術」をめぐっての論争しかおこなわれたことがないという点に象徴されているところのものは、まさしくトロツキストとしての独自の、本質的な意味での組織論が欠如しているということである。(『日本の反スターリン主義運動1』黒田寛一、91頁)。

 トロツキーに組織論がないと断定した黒寛は、日本のトロツキズム運動の組織論として、「反スタ統一戦線」方針を提唱する。「世界に冠たる組織論」として打ち出された反スタ統一戦線がいかなる代物であるかは、黒寛派→全国委員会派→革マル派の歴史過程をみれば明らかであろう。

 6月に入って黒寛はかれの体系を完成する。かれは、当時、アルジェリア革命によってつくられたフランスの危機の情勢において、第四インターナショナルフランス支部(PCI)が「社会党、共産党、CGTの政府」という統一戦線のためのスローガンを提起して反ド・ゴール闘争を展開していたのに対して、反ドゴールは同時に反トレーズ(当時の共産党書記長)でなければならないと批判し、かれ自身の基本戦略を「反帝反スタ」として定式化し、この論文を本多が編集長をしていた早大新聞に掲載した。

 「スターリニスト官僚打倒を『従属的戦術』とし、『反帝・労働者国家無条件擁護』を根本戦略とする第四インターの基本方針に対して、われわれは、われわれの闘争をより有効におしすすめるための世界革命戦略として『反帝・反スターリニズム』のスローガンを提起した」(『逆流に抗して』「反帝・反スターリニズム」のスローガンについて、黒田寛一、八三頁)。
 
 黒寛は、トロツキズムが理解できないから、第四インターナショナルの方針が理解できないから誤っているのだ、と善意に判断すべき人物ではなくなり、公然かつ悪質な反トロツキストに転化したのである。そして、58年にブントが結成されるや、“黒寛理論”はブントによるJR批判・トロツキズムと第四インターナショナル批判として利用されることになる。

 このような反トロツキズムの理論を完成させてきた黒寛の第四インターナショナルからの離脱はもはや時間の問題であった。ところが、58.7月の組織分裂は黒寛がJRに残り、黒寛からトロツキードグマチスト、100%トロツキストといわれていた太田竜がJRから分裂することになる。

【日本トロツキズム分党史その3、太田派離脱】
 58.7月、太田は、同盟の拡大政治局会議において、黒寛派と決別するために「第四インターナショナル日本支部再組織準備委員会」を組織すべきだと提案する。「日本革命的共産主義者同盟小史」は、次のように揶揄している。
 (太田竜氏は組織をデッチあげるのが大好きで、この趣味は終生変ることはないだろう。かれがいくつの組織をつくったか、正確に数えられるのはかれ自身の他にいない。いや、自分でも忘れたか!?)
(私論.私見) 「黒寛派との決別を要請した太田龍の眼力」について
 れんだいこはそう思わない。黒寛派のその後の悪行を見れば、黒寛派の左派党派としての異質性を見抜いた太田龍の眼力をこそ評価すべきではなかろうか。意見の相違では分裂することは必要ない。明らかに宮顕同様の異分子が闖入してきた際は斥けるか出て行くか二つに一つしかないのではなかろうか。「日本革命的共産主義者同盟小史」の観点こそ変調ではなかろうか。

 2006.9.21日 れんだいこ拝

 当時、書記局は太田、黒寛の話し合いの場にすぎず、同盟の組織指導機関ではなかった。しかも、ここに出席していたメンバーは圧倒的に黒寛派であった。黒寛、大川、遠山らは太田提案に反対し、太田は小山とともに退場した。この様子を聞いた京都の西は太田の分裂を阻止しようと太田を説得した。太田は西の説得を受け入れ、同盟への復帰を約束した。しかし、太田は西との約束にもかかわらず、結局7.27日の第7回全国代表者会議において分裂する。太田は西と組んで黒寛と闘うことも放棄し、自前の太田クルーブを旗揚げに向った。

 7月、こうして草創期のメンバーが内田に続いて太田も組織を離脱した。「このときは相対的には太田の方が正しい思想的立場にあったが、組織的には非原則的、日和見主義的な対応をして個人的に抜けたのである」と総括されている。さらに黒寛もその翌年1959.8月に、当時すでに「日本トロツキスト連盟」を改称して、「日本革命的共産主義者同盟」となっていた組織からスパイ問題によって除名される。こうして結局残ったのは、「トロツキスト連盟」結成後に参加した関西のグループと、その影響下に獲得された学生同盟員であった。

 (太田氏の関連サイト「太田龍・氏のネオ・シオニズム研究」)
(私論.私見) 太田の脱落について
 日本革命的共産主義者同盟小史では、太田の脱落を「革共同第一次分裂」と看做している。れんだいこは、内田派脱落に続く「革共同派の第三次分裂」とみなす。

 2006.10.14日 れんだいこ拝

「太田派の脱落」考

 太田竜・氏らのグループが関東トロツキスト連盟を結成して革共同から分離することとなったが、その背景はどのようなものであったのか。「太田派が全体討議を拒否した」と云われているが、何事も片方の意見を聞くだけでは真相が見えてこない。判明することは次のような理論対立である。この時太田氏は、トロツキーを絶対化し、トロツキーを何から何まで信奉しそれを唯一の価値判断の基準にする「純粋なトロツキス ト」(いわゆる「純トロ」)的対応をしていたようである。

 
太田派は、「パブロ修正主義」と呼ばれる理論を尊重し、ソ連を「労働者国家」とした上で、「反帝国主義、ソ連労働者国家無条件擁護」の戦略を採った。後にソ連の原水爆実験が行われたときこれを無条件に擁護することとなる。これに対し黒寛派は、「トロツキズムは批判的に摂取していくべき」との立場を見せており、そうした意見の食い違いとか第四インターの評価をめぐる対立とか大衆運動における基盤の有無とかをめぐっての争いとなり、これが原因で「革共同第一次分裂」へと向かうこととなったとされている。黒寛派は、「反帝国主義、スターリニスト官僚(政府)打倒」の戦略を採った。後に「反帝.反スターリン主義」へと純化していくことになる。ソ連核実験の際には反対という立場に立った。

 この時のトロツキー評価をめぐる太田派と黒寛派の違いについて、黒寛は次のように明らかにしている。

 「我々の反スターリン主義のバネは、確かにとトロツキズムの摂取と主体化によって形作られた。だが、我々は百%.トロツキストたりえなかった。それは我々が『サルトル的義憤』に『共鳴』した『実存主義者』であったからではない。左翼反対派の戦いの伝統が完全に欠如したわが国において、革命的共産主義運動を創造せんとする、我々のこの主体的な苦闘にとっては当然にも、既成のもの−例えトロツキズムであったとしても−への乗り移りは、スターリン主義者としての死滅への途と同様に唾棄すべきものでしかなかったからである。にもかかわらず、この主体的な構え方を、わが俗流トロツキストは『プチ.ブル的だ』と烙印した。こうした運動のそもそもの発端における、我々と自称トロツキストとのこの決定的な違いの根拠を哲学的次元にまで掘り下げて追及することが、さし迫った課題として浮かび上がってきた」(黒田寛一「革命的マルクス主義とは何か」)。

 この分裂後黒寛派が中央書記局を掌握することとなった。次のように勝利宣言している。

 「革命的マルクス主義の立脚点をあきらかにし、革命的指導部を確立するための闘争は、しかしけっして平坦なものではない。それはまず、トロツキズムをセクト的教条的に獲得しつつ、現実にはパブロ書記局の方針をうのみにしようとする太田竜に人格的表現をみる偏向との闘争として、すすめなければならなかった」。
 概要「太田竜派の活動における政治的力学の無知ないし無視からうまれるこうした組織戦術の誤謬の根底にあるトロツキー・ドグマチズムの誤謬こそは、トロツキーの歴史上の弱点のデフォルメでもあった。かくして太田は、 第四インターが世界的にも国内的にもいまだ十分に大衆を獲得していない事実を、『23年以後のロシア・スターリン主義者の反動の圧力の強さ』などに結びつけていく客観主義に転落する。世界革命の一環としての日本革命の実現、ここにこそわれわれのいっさいの価値判断の基準があることを明白にしつつ、われわれはトロツキズムを反スターリン主義→革命的マルクス主義の最尖端としてとらえかえし、マルクス主義を現代的に展開していくものでなければならないであろう」。
  「こうした太田の教条的セクト的傾向は、ソ連論をめぐる内田の対馬的傾向との闘争において色こくあらわれた。第5回大会出席後、さらに極端となった太田は、日本における左翼反対派の活動をすべてパブロ分派とのみ直結させようとする陰謀となってあらわれた」。
 「我々革命的共産主義者は、このようなトロツキー教条主義、トロツキスト分派の教条主義と、明白に且つ公然と決裂することを宣言せざるを得ない。けだし我々は、トロツキー及びトロツキズムの成果と欠陥と誤謬をはっきり認識し、その上でそれらをマルクス主義の発展線上に正しく位置付けるとともに、それを生きた現実へ適用することを通して同時にそれをも超えてゆかねばならないとする実践的立場を拠点とするからに他ならない。わがトロツキストたちには、こういう主体的で実践的な立場が完全に欠如している」(「革命的マルクス主義とは何か」『探究』第3号参照)。

 ただし、9月になると、黒寛は大衆闘争に対する無指導性が批判を浴び、党中央としての指導を放棄させられているようである。


【太田派が「トロツキスト同志会」創設】
 58.8月、JRから分裂した太田はほんの数名で「関東トロツキスト連盟」を結成し、9月、「日本トロツキスト同志会」へと改称した。翌59.1月、国際主義共産党をつくり、8月に第四インター日本委員会へ歩みを進めていくことになる。トロ同には二つの学生グループ(東大・東学大の火曜会と日比谷高校グループ)が列なった。東学大のメンバーと、新たに都学連と社学同都委員会の東大メンバーが参加した。間もなく、黒寛から180度コペルニクス的に転回した遠山も加わった。

 太田は、トロ同を政治組織にし、機関紙「労働者の声」を週刊で発行し始めた。月刊で機関誌「永久革命」も刊行し、そのほかトロツキーの論文をパンフレットにして送り出した。トロ同の文書活動は確かに旺盛であった。JRがちょうど中央書記局活動が停止し、9月から「世界革命」も刊行されていないのにくらべて、トロ同の活動は活発で、東京では第4インターナショナルの活動はJRではなくトロ同が代表した観を呈していた。

 太田は58年秋からかねて念願の加入戦術を実行に移した。日本社会党への「加入戦術」 を行い、学生運動民主化協議会(学民協)と言う組織を作り、当時の学生運動の中では右寄りな路線をとっていくことになった。すでにこの頃になると、東大、東学大の他にいくつかの大学や看護学院などにトロ同のメンバーが拡大していた。顔の割れている大国を除いて、トロ同のメンバーは全面的に社会党の地区組織に入党手続をとった。当時社会党には組織も運動もなかった。党は議員と労働官僚の連合寄合い世帯にすぎず、大衆運動の活動家はいなかった。とくに東京の社会党は地区活動もなく、地区労運動も日共のヘゲモニーに握られていた。

 この時加入して、後の三多摩加入活動に到るまでの一貫した地区加入活動を推進したのが遠山である。三多摩は同じ東京でも、地区活動の可能性を幾分かはもっていた。社会党は未だ社青同運動も開始していなかったが、加入活動は遅々として進まなかった。その後、学生活動家が群をなしてブントへ流入していく状況がトロ同のメンバーのあせりをたかめていった。

 太田氏はその後、太田氏はアイヌ解放運動に身を投じていき、最近では「国際的陰謀組織フリーメーソン論」での活躍で知られている。 

【太田派脱落後の革共同】
 「日本革命的共産主義者同盟小史」を参照する。

 太田竜が分裂したJR第7回全国代表者会議は、太田なき後の体制として、黒寛政治局員のもとに、書記局に大川、遠山、山村を任命し、新中央体制が発足した。しかし、遠山は太田が分裂して行ったのを追い、黒寛に絶縁宣言してトロツキスト同志会に加盟した。書記局の中心を担った大川はその活動をJRの独立組織活動を放棄して、ブント構想への便乗に主力を注ぎ始めるという具合で早くも座礁し始めた。

 JRは東京で新しいメンバーとして都学連グループを58.10月ごろ組織し、ブント結成における全国的ヘゲモニーに備えたが、方針が定まらなかった。58.12月、全学連主流派の学生党員をほとんど結集して共産主義者同盟=ブントが結成された。ブント結成は56年の学生運動の昂揚から開始したトロツキズムにとっての「開かれた可能性」に終始符を打った。ブントは左翼中間主義としての性格をあらわにして、トロツキズムと敵対する過程に入った。

【「黒寛・大川スパイ事件」】
 この頃、革共同の指導者の一人黒寛にまつわる胡散臭い事件が明るみにされている。これについては、「黒寛・大川スパイ事件」で別途考察する。

【「黒寛・大川スパイ事件その後」】
 「黒田・大川事件その後」について、「国際革命文庫の日本革命的共産主義者同盟小史」の「第三章 最初の試練」の「黒田、大川の除名と分裂」で論述されている。次のように記されている。
 当初、この事件の当事者たちは事を内密にしておこうとした。しかし、小心な黒田は大川が先にこのことを暴露してしまったら自分の立場がなくなると考えたのであろう、何人かの側近に「大川はスパイである、このことは他言するな」と打ちあげたのである。この話は未だ書記局にいた遠山の耳に届き、遠山はこの話を聞いて直後にトロツキスト同志会に移っていったのである。この事件を遠山から聞いた太田は西に報告すべきだと指示した。遠山は西に報告し、太田はJRがすぐ処置しないと、自分の方で暴露すると西に通告した。

 西はそんなことがあるとは信じられなかったが、関東の中野をはじめとする数人のメンバーを調査委員会に指名し、早速調査することを命じた。中野の招集に応じて査問に出てきた黒田と大川は、先の事件を自供し、認めた。

 黒田・大川のスパイ行為は「未遂」で終った。しかし、当時のJRやICPのメンバーがどれほどスターリニストを憎み、非難したとしても、帝国主義権力との関係においてはスターリニストといえども階級闘争のバリケードのこちら側であるというのは議論の余地ない原則であり、それはことさら取上げて論ずることでもなかった。だから「未逐」に終ったとはいえ、バリケードのこちら側の情報をバリケードの向う側へ売ることは階級的裏切りである。

 JRはこの原則を防衛するため、調査委員会の報告にもとずいて、五九年八月の第一回大会に大川の除名、黒田の権利停止を提案することにした。しかし、問題は組織処分ではなく、黒田派の分裂という事態にまでつき進んでいくことになる。(中略)

 黒田グループとの対立はまず関東ビューロー総会で展開された。五九年八月に全国大会を前にして開かれたこの会議で、黒田派の中心となってきた本多が「田宮テーゼ」をもって綱領草案反対を展開し、これに対して、鎌倉、中野ら関東ビューロー指導部が綱領草案防衛の立場から反撃した。関東ビューローの会議は黒田派分裂の序曲であった。

 八月二十九日、第一回全国大会の初日において、黒田・大川スパイ事件問題が調査報告され、大川の除名、黒田の権利停止が提案されると、本多を先頭とする黒田派は、組織処分に引っかけて綱領論争を弾圧し、反対派を排除するものである、といって退場した。その後大会は黒田、大川の除名を決定した。これが黒田派が「革共同第二次分裂」というところの黒田派の分裂である。

 黒田派は分裂を準備して大会に臨んだ。このことは、退場してすぐ、黒田派は革共同・全国委員会なる正体不明の組織をでっち上げ分裂を“完成”させたことによって明確であろう。第一回大会は黒田派分裂という混乱をのりこえて、綱領を採択決定し、中央委員を選出することによって成功をかちとった。
(私論.私見) 「黒寛・大川スパイ事件その後」考
 これによると、日本革命的共産主義者同盟の調査委員会が黒田と大川を査問したところ、「先の事件を自供し、認めた」とある。ならば、日本革命的共産主義者同盟は、その時点で日本左派運動全体に対し回状を廻し、黒寛派を追放すべきであったのではないのか。「黒田の権利停止提案、除名」などという措置があまりにも手ぬるすぎる。この手合いが、他党派解体路線を敷き、日本学生運動戦線に甚大な被害を与えたことを思えば。今も、誰彼の党派に対しスパイ呼ばわりして「正義」の鉄拳を振るっているが、噴飯ものではないか。宮顕も誰彼掴まえてはスパイ呼ばわりしてきたが、何やら共通項が臭って仕方ない。

 2005.5.14日 れんだいこ拝




(私論.私見)