【提言18、れんだいこの第一次ブント論】 |
更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5)年.3.14日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「れんだいこの第一次ブント論」をものしておく。2023(栄和5)年.3.14日、読み返してみたが、なかなか良い観点を披歴しているではないか。誰も言わないので自分から誉めておく。自己批判ならぬ自己称賛ということになるふふふ。 |
【れんだいこの第一次ブント論】 | |||
筆者が何故「れんだいこの第一次ブント論」を書き記そうと思うのか。それは、あまたのブント論と筆者のそれが明らかに違うからである。あまたのブント論がブントの手になり、筆者はブントと関わりを持たないことを考慮すると、一般的には筆者のブント論は当てずっぽうで、ブントのブント論の補足的地位に甘んじるべきであろう。ところが、筆者はそうは考えない。むしろ、ブントのブント論が当のブントを知らなさ過ぎると考えている。何故こういうことが起きるのか。考えられることは、ブントのブント論は、まさにブント当事者であったが故にブントの森の中に分け入りすぎて、数多くの木を知ってはみたが却って森全体を見失ったのではなかろうか。つまり、歴史過程で捉える視点を失っている。筆者はそう考えている。 もっとも、ブントでない者がブント論を書けばより正確かというと、つまり門外漢があれこれの対象を論評すればより正確かというと、そういう訳ではない。やはり当事者証言こそ一番信に足りるとすべきであろう。まずはそこから始発させねばならない。そうではあるのだが、問題は、現場から始発したとしても、その先が宏大に発展する場合には何らかの観点、史観が必要になるということである。この観点、史観に誤りがあった場合あるいは本筋から逸れた場合、現場証言でさえ信に足らなくなるということである。筆者はそう思う故に、自前の観点、史観保持者であるれんだいこによる「れんだいこの第一次ブント論」を書き記そうと思う。そして、世評を賜りたいと思う。 第一次ブントが何故考察されねばならないのか。それは、日本左派運動史上燦然と輝く「60年安保闘争」を成功裏に領導した実績と、それに伴う開放系闘争理論を創出していたからである。この二事だけで次のように総括されるに値する。
惜しむらくは、このような観点を持ち得た者は極く少数で、史実はブント運動を散らかした後にも「60年安保闘争」の快挙感覚を持とうとしない凡庸な輩がその後の左派運動を継承してきたことを物語っている。 今れんだいこは、「60年安保闘争」を「左派運動が攻勢的に政界を揺るがし勝利した稀有な例」と記した。ところが史実は、60年安保闘争が「左派運動が攻勢的に政界を揺るがし、時の岸政権を打倒した勝利的稀有例」であるにも拘わらず、これを敗北とみなして四分五裂していくことになる。というか「60年安保」を担った面々がブントの解体に内から外から呼応し共同していった。そんな馬鹿なと思うがこれが史実である。 とはいえそう疑問視するのは今日だから見えてくることであって、当時の者達にあっては無我夢中で、ブントの解体は必然であったのかも知れない。島さんが生きておれば、その辺りを質したかった。が、今や叶わない。残念遅まきではあるが、生存中に確かめたかったれんだいこの第一次ブント観を以下世に問うことで鬱憤を晴らしたい。以下、筆者が今のところ恐らく稀有な視点である第一次ブント絶賛論を書き上げる。 2004.5.24日再編集 れんだいこ拝 |
Re:れんだいこのカンテラ時評その179 | れんだいこ | 2006/06/01 |
【れんだいこの第一次ブント賛辞】 筆者が第一次ブントを絶賛するのは、彼らの言辞や理論によってではない。彼らの実践と感性に於いてである。追々述べるが、はじめにこのことを指摘しておく。彼らの言辞や理論も学ぶ価(あたい)のあるものではある。しかしそれは当時の情況に於いてのものであり、今日では空理空論が目立ち過ぎており殆ど使えない。このことは左派運動党派としては重大な失格なのであるが、第一次ブントにはその失格を補って余りある感性の素晴らしさがあった。以下、そのことを検証する。 第一次ブントの感性が如何に素晴らしかったか。それはまず、中国の文革に先だつ十年前から日本左派運動の紅衛兵足りえたことにある。彼らは、毛沢東に云われるまでもなく自前の造反有理運動を創出していった。第一次ブント創出時の状況として、日共が六全協でそれまでの徳球ー伊藤律系執行部からスパイ派の野坂ー宮顕系へという最悪の執行部に転換し、次第に本末転倒の統制主義運動に転化しつつあった。社会党は政権奪取による責任与党政治を目指すでもなく徒に万年野党に甘んじる口先批判政党に堕しつつあった。 第一次ブントは、これらの状況を眼前にして既成左派運動を批判し抜き、自前の党派を生み出す挙に打って出る。日共式統制主義批判から始発した故に当然のことながら「自由、自主、自律」型規約に基づくルネサンス風競り上げ運動を展開していった。何よりこのことが素晴らしかった。そして、この型の運動が成功し、急速に支持者を増やしていった。 第一次ブントの感性の素晴らしさにはもう一つの理由がある。それは、闘争の矛先を国家権力中枢機関の集中する霞ヶ関ー国会空間に向け、デモ動員を煽ったことである。国会に照準を定め数次にわたって震撼させた。最終的に当時の岸政権打倒を勝ち取った。これは、今日に於いても後先にない日本左派運動史上未曾有の稀有事例となっている。十年後の70年安保闘争の単なる動員デモに比べて一目判然とする違いがここに認められる。 しかし、第一次ブントは、60年安保闘争後の局面に於いて、その成果を確認し損なった。「れんだいこの第一次ブント論」は、確認し損なった成果を今からやり直そうとすることにある。如何に成果を確認するべきであったのか。もったいぶるが、これを一言で述べることは難しいので、以下、順を追って論証する。 |
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第一次ブントの運動的成果を歴史に於いて正しく確認するためには、戦後秩序論から説き起こさねばならない。戦後秩序論とは戦後憲法論に集約されるが、これをどう観るか。筆者は、戦後左派運動はここで早くも躓いた、と看做している。 戦後左派運動は、戦前の治安維持法体制から解放された勢いで、それまでの禁書であったマルクス主義の諸文献を紐解き、マルクスーエンゲルスーレーニンの急進主義的な資本主義体制打倒論を初学者的に生硬に受け止め、文言が指針する通りの運動へと傾斜していった。あるいは戦後の冷戦構造に於ける一方の雄となったソ連邦体制を指導するスターリニズムを信奉し、その指導に従うことが正しき左派運動と自己規定していった。 しかし、情報開示された今日になって思うのに、マルクスーエンゲルスーレーニン理論にもその革命論に於いてある種の幅があるということ、スターリニズムは本来のマルクス主義の内部からの裏切りであり、革命の成果を食い潰す変成物であり、模範とするには足らないどころか解体出藍(止揚、揚棄)せねばならないものであることが自明である。 ひとたびこの観点、史観を請ければ対蹠的に、戦後日本秩序は世界に稀なるプレ社会主義秩序になっていたことを見抜かねばならなかった。然るに、当時の戦後左派運動は、その戦後秩序をも旧体制権力と見立て、その解体を声高に叫べば叫ぶほど左派的であるかの如くな錯覚に陥った。この教条主義が最初の間違いであった。その教条主義に基づく戦後秩序体制打倒運動がそもナンセンスなものであったが、戦後左派運動はその不毛な道を競り合いして急進主義化していった。それは、闘えば闘うほど先細るしかない現実遊離となった。 確かに、戦後日本は米英を主とする連合軍に進駐されており、GHQ権力が君臨しており、そのGHQ権力は米帝国主義のお先棒を担がされていた。左派にとって、米帝国主義との闘いが世界的第一級課題であったからして、米帝国主義の進駐する戦後日本体制は否定されるべきものと理論化されていったことには相当の理由があるにはあった。 しかし、戦後秩序をプレ社会主義秩序体制と看做せば事情が異なってくる。戦後秩序をそのようなものとして看做したかどうかはともかくも、これを戦前秩序との比較により弁証法的に捉えたのは人民大衆であった。彼らは、戦後秩序を感性に於いてプレ社会主義秩序の如くに感じ取り、逸早くその享受と謳歌に向った。それは大衆感覚の賢明さを証している。戦後左派運動は無能にも、この感性を取り入れることのないままペシミズム的に理論ぶることに終始した。 その後、戦後日本は次第に戦後世界を規定した冷戦構造に巻き込まれていった。米帝国主義は、朝鮮動乱前後を契機に日本を反共の砦化していった。やがて、サンフランシスコ講和条約の日を迎えるが、同時に日米安保条約が締結され、講和独立後にも米軍基地が要所要所に居座ることになった。これにより、それまでの連合軍占領から米軍単独支配への転換が為され、米帝国主義による単独対日支配体制が完遂した。 しかしながら、れんだいこ史観によれば、米軍の占領継続は外在的なもので、内在的には戦後憲法秩序が機能しており、否戦後憲法秩序はますます受容されていきつつあった。以来、戦後秩序は、憲法秩序と日米安保秩序の二大原理により操舵されていくことになった。これが最大矛盾となり、戦後日本のその後の歩みを規定していくことになる。 |
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この間、戦後日本の政治権力を握ったのは自由民主党であった。戦後日本左派運動は、2.1ゼネストを始め何度かの政権取り機会を得ていたがそのつどGHQ権力に潰された。そういうこともあって、最終的に磐石の態勢を構築して責任政党となったのは共に保守系の自由党と民主党の大連合により生まれた自民党であった。これに戦前来の天皇制官僚及び財界が列なり、強固な保守系資本主義体制系与党権力が創出された。この政府自民党が、戦後復興からその後の経済成長へ向けての切り盛りに成功していくことになる。 戦後左派運動は、この政府自民党の評価に於いても致命的な過ちを犯す。政府自民党は実際のところ、これを弁証法的に観れば、戦後日本の最大矛盾即ち憲法秩序派と日米安保秩序派を同居させ混交させた上に成立していた。自民党は、戦後憲法秩序派のハト派と日米安保派のタカ派との合従連衡によるやじろべえ式政治を本質としていた。それは見事なまでに日本的カオス式和合政治であった。 戦後左派運動は、政府自民党内のこうした抗争軸を観ずに、これを保守反動権力として一色規定し、対蹠的に手前達を革新ないしは革命派と映し出す漫画的構図を図式化させた。それは余りにも手前勝手なご好都合主義理論以外の何物でもなかった。この悪作法は今日まで新旧左翼問わず続いているように見える。しかしながら、筆者の研究によるマルクス主義手引き教本「共産主義者の宣言」には、そのような漫画的公式は強く戒められている。ということは、マルクス主義が「共産主義者の宣言」から始まったことを思えば、戦後左派運動は初手に続いて悪手を打ち続けていることになる。 |
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さて、ここで第一次ブントに登場して貰う。第一次ブントが創設され、60年安保闘争に向った時期は折悪しくというべきか折り良くというべきか、政府自民党にあってタカ派系岸派が政権を担当していた。岸派の史的意義は、それまでのハト派系吉田派との熾烈な抗争を通じて戦後初めて米奴ナイズ化されたタカ派が政権奪取したことにあった。しかし、このことは、党内に吉田を後継した池田派と佐藤派という二大ハト派系派閥を抱えており、岸政権は彼らと暗闘裡で政権運営していたことを意味する。つまり、政治手法は強引であったにせよ、政権基盤はかなり弱いものであったことになる。 第一次ブントは、その闘いを、たまさか岸政権時代に花開かせることになった。それは誠に歴史の不思議な廻りあわせであった。そして、60年安保闘争を殊のほか成功裏に領導したことにより岸政権を打倒せしめた。かくて、戦後初のタカ派政権は、ブントの闘いの前に万事休して、政権をハト派系池田派へ禅譲させた。これにより、政府自民党は再び吉田派の後継者に牛耳られることになり、以来ハト派の治世が長期安定化し、1960年より池田ー佐藤ー田中まで15年余続くことになる。角栄後はタカハトが紆余曲折するが、ハト派は最終的に大平ー鈴木まで続く。その間都合20年余をハト派が主導していくことになった。岸に続くタカ派の登場は1980年代の中曽根政権の誕生まで待たねばならず、その間雌伏させられることになった。 第一次ブントの闘いは、彼らが意図したか自覚していたかはともかくとして、政府与党自民党権力内のこうしたタカ派とハト派の暗闘に容喙し、タカ派を引き摺り下ろし、ハト派を後押しする政治的役割を果たしたことになる。れんだいこ史観によれば、第一次ブントの闘いの歴史的政治的意義はここにこそ認められる。これが云いたいがためにここまで順序を追って概術した。 興味深いことに、第一次ブントの当事者でこのことを自覚していた者は稀有なようである。第一次ブントの指導者・島ー生田ラインにもこの観点はなかったのではなかろうか。筆者には、この方面の観点の喪失が60年安保闘争の意義を喪失せしめ、後の第一次ブント解体となる混迷に繋がったように思われる。もっとも、戦後秩序プレ社会主義論抜きにはそのようには総括できず、それを欠いていたブントが運動成果を確認できなかったのも致し方なかったのかも知れない。 ちなみに、タカ派支配からハト派支配へと転換させたのが第一次ブントなら、その逆にハト派支配からタカ派支配へと転換させたのがロッキード事件ではなかったか。ロッキード事件はそういう歴史的政治的地位を占める。通りで、その煽りが真反対から為されているにも拘わらずジャーナリズムの喧騒の程度も匹敵している。 |
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問題は次のことにある。第一次ブントは奇しくも、日本の戦後政治に於ける真の抗争軸であるハト派対タカ派抗争に対し、タカ派掣肘に大きな役割を果たした。第一次ブントは奇しくも、タカ派の能力者・岸を打倒することにより戦後憲法秩序を擁護する役割を果たした。つまり、戦後のプレ社会主義秩序を擁護し、その解体屋を葬った。当人たちが口先で語ることなく、否全く意識せぬまま体制打倒運動を呼号していたとしても、客観的役割はかくの通りのものであり、筆者はその感性や良しとしている。 なんとならば、戦後日本の憲法秩序こそが何を隠そう、社会主義圏のエセ社会主義と比較して比べ物にならない世界史上初のプレ社会主義秩序であり、それは護持されるに価のあるものである。それを感性で護持した第一次ブント運動は世に云う天晴れなものではなかったか。筆者はかく評している。しかるに、第一次ブント運動評者は当事者まで含めて今日まで、この視点を欠いたまま極力思弁的に語り過ぎているように思われる。筆者は、この種のブント論は学ぶけれども受け入れない。というか難解過ぎて役に立たない。理解できない。 最後に。今は全く逆に、米帝国主義を裏で操る真の磁力体ネオシオニズム、その表出体・米英ユ同盟に客観的に有利に作用させる売国奴系ポチ運動がもてはやされている。時代はかく変遷してきたことになる。この観点は、小ネズミの余りにも露骨な反角栄政治を理解するところから生まれた。小ネズミは、明らかにネオシオニズム、その表出体・米英ユ同盟に教唆され、日本解体計画に手を染めている。小ネズミの日本解体計画に援交しているのは今や跋扈しつつあるシオニスタンであり、同マスコミであり、同自称知識人であり、同サヨである。5年有余にわたる小ネズミ政権の史的意義は、このことをくっきりさせることにあったのではなかろうか。筆者は今そういう意味で、小ネズミ政権を反面教師的に照射している。かく構図が見えたなら、我々が為さねばならないことも見えてくる。まさに禍福あざなえる縄の如しと云うべきではなかろうか。 2006.6.1日 れんだいこ拝 |
【中核派の最高指導者・清水丈夫氏の第一次ブント運動擁護の弁考】 | ||
2002.6.15日島成郎記念文集刊行会から「60年安保とブントを読む」、「ブント書記長島成郎を読む」がりブントがなぜ今見直しされねばならぬのか、されようとしているのか。現中核派の最高指導者・清水丈夫氏の次の感性はさすがである。
直接的であるが、これこそかってのブント魂であろう。思えば、ブントの功績が語れなさ過ぎて来過ぎた。それは総帥島成郎が黙し過ぎたことにもよる。しかし、実際には、日本左派運動の逸材・島氏を評価したがらない情況が生み出され過ぎて、余儀なくされた沈黙であったのが史実なのではなかろうか。もっと端的に云えば、よってたかって圧殺されたのではないのか、そう受け止めている。 日本左派運動に金字塔を打ち立てているブント運動の功績を封殺した勢力は、左派系に限って見ても二潮流ある。一つは宮顕系日共運動であり、もう一つは革共同系運動である。60年安保闘争前後の渦中においてはこの三つ巴の勢力が真偽不明で拮抗していた。渦に巻き込まれた者は、そういう意味で判断停止に追い込まれたのも致し方ない。しかし歴史はくっきりさせてきつつある。ブントを解体したこれら二潮流が日本左派運動をどこに漂着させたか。あまりにも無残な結末しか見せていない。 こういう経過から、今や我々ははっきりと主張することができる。ブント運動の見直しとそのエキスの継承こそが任務とならねばならない。この観点抜きに闇雲に取り組んでみても、それは不毛の大地に再々度立ち返ることにしかならないであろう。歴史を主体的に学ばねば何も生み出されない。ここ数十年の不毛はこれに尽きるのではなかろうか。そういう観点からブント運動論を構築していきたいと思う。 その際の基準は、当時の東大法学部緑会委員長・有賀信男氏の指摘するように「批判するにしろ、是認するにしろ、議論される場合には、事実関係についての正確な知識が前提でなければならない」であろう。これを「簡にして要を得る」よう綴ることは至難であるが心掛けだけでもそうしたいと思う。 |
【ブント運動の発生経路】 | |
ブントとはどのような経路で生み出されたのか、まずここから検証せねばならない。次のように云えるのではなかろうか。 戦後の左派運動は主として共産党によって担われた。数の面では常に社会党がリードしたが、それは共産党の貯水池的な位置づけでもあるからして、深部で担ったのは共産党であったとして捉えることはあながち間違いではなかろう。この時代、次のような共産党神話が通用していた。
戦後直後の党運動は、徳球―伊藤律系譜がこれを領導した。この時までの党運動は、世の中のあれこれ社会の不合理を考える多くの若者の心を捉え、学生時代に左傾化するのは自然なトレンドであった。 ところが、徳球―伊藤律指導にも限界があった。「1947.2.1ゼネスト時の対応の拙劣さ」を内向させ、1949年の9月革命に挫折させられ、「1950年初頭のスターリン批判による脳震盪」で党内分裂に誘い込まれた。「50年分裂による党内闘争のゴタゴタ」で嫌気が生まれ、「所感派の武装闘争の失敗」が党の権威を失墜させ、「六全協による宮顕宮廷革命」でショックが走り、「以降の宮顕右派路線の策動開始」で全く異質の党運動が展開されるようになった。かくて急進主義者の居りどころがなくなり、「突如勃発したスターリン批判と平和共存政策への転換」で党への疑惑の限度が越え、「ハンガリー事件」で事態の容易ならざることを知らされ、「日本トロツキスト連盟の創出」で党の権威が瓦解させられた。 学生運動はこの経過の悲劇をもろに被った。当時、武井昭夫氏らがこれを指導したが翻弄される。その詳細は割愛するが、「左」の観点から徳球―伊藤律運動を批判し続け、その際あり得てならないスパイ派の宮顕グループと結託するという愚昧ぶりであった。「六全協による宮顕宮廷革命」で宮顕が党中央に登場するや、そのスパイ派的な本質を公然化させていった。武井ら当時の全学連指導部は懐柔されていったが、ブントを生み出すことになる島グループはこの流れを拒否していくことになった。ここに島グループの本能的正しさが見て取れる。 この島グループがブント発生の牽引力となる。それは、当人たちの意識がどうであったかは別として、「六全協による宮顕宮廷革命」で変質させられた共産党に遭遇して本来の共産党運動を護教化せんとする左派運動であった。ここにブントの本質がある。それ故に、「六全協による宮顕宮廷革命」で変質した共産党が天敵の如くに撲滅に向かった左派運動であった。この場合の問題は二つ考えられる。一つは変態共産党運動考。もう一つは、ブント運動の能力と限界考。残念ながら、この二つのテーマともが手つかずに放置されている。少なくともれんだいこが登場するまでは。 2014.11.24日 れんだいこ拝 |
(私論.私見)