青木昌彦が、日本経済新聞の「私の履歴書」という欄で、自らの青春時代の、つまり“ブント”(一九五八年十二月から六〇年八月まで存在した共産主義者同盟)や六〇年安保闘争の思い出について書いている。
もちろん、青木は七十歳になんなんとする自分の人生の全体について書いているのだが、自分の主要な人生などほとんどそっちのけで、夢中になってブント時代の思い出に、あるいは自慢話に紙面を使っている。もう半分に来ているのに(今十四回目である)、やっと「ブント勢の見送りを受けて」、羽田からアメリカに出発するところで、その後の人生などまるで大した意義もないかであり、その後の“近代経済学者”としての“立派な”経歴や仕事も徹底的に空虚なこけ脅しにすぎないことを(それは確かにその通りなのだが)、自ら知っているからだろうか(“賢明なる”青木が、しかもかつてマルクス主義に染まり、その思想や方法で思考した青木が、それを知らないはずはない、だからこそ、彼の思いはブントの時代に、つまり自分がいくらかでも“輝いていた”過去の青春時代に戻っていくしかないのである)。
もちろん、私は青木の文章を読んで、まるで道端で犬の糞をふんづけたかのような、この世で一番汚いものを押しつけられたかのような、不快で、いやな気分に打ち震えた。
青木は少なくとも他の連中――例えば、西部邁など――とは違って、自分の“転向ぶり”などについて語らず、沈黙しているからまだましだ、もう少し利口であり、いくらか恥と遠慮の気分くらいは持っているのかと思っていたが、彼もまた西部等と同等の卑しい人間であり、単なるばか者(流行の言葉で言えば、“KY”人間)でしかないことを暴露したのである。
青木も西部等と同じく、ブントの闘いや六〇年安保闘争を“若気の至り”としてかたつけ、それから転向してブルジョア陣営に移ったことをまるで手柄話であるかに語り、正しい、まともな選択であるかに言いはやすのだが、ただ自らの志操の低さと俗物根性と責任能力の皆無を暴露しているだけである。
それでいて盛んに、ブントを作ったのは自分だとか、その思想的、理論的な根底は自分に負っているとか、自分の「日本国家独占資本主義論」はかなりのものだったとか、吉本隆明にほめられたとか、自慢たらたらなのだから、まったく何をか言わんやであり、あきれて口がふさがらないの体である。
そんなに自慢したいのなら、自らが鼓舞し、振りまき、多くの学生活動家を扇動してブントの闘いに駆り立てた自らの理想や思想を、なぜそんなにも簡単に放棄し、裏切るようなことをしたのか、できたのか。青木は答えるべきであろう。
青木はブントを作ったのも自分だ、その理論も自分のものだと言いたいようだが、しかし実際には、そのブントの指導部と理論的、実践的な立場は、安保闘争の後に開催された一九六〇年の夏の会議では、すでにほとんどすべてのブントの活動家から厳しく批判され、あるいは糾弾され、否定されたのであり、だからこそ、非難を一身にあびた青木は“いやけがさして”――根性も何もない“お坊ちゃん育ち”の本性を出して――、ブントと左翼運動から逃走したのではなかったか。
実際、六〇年の安保闘争の末期から、闘争直後の時期における、島や青木に対する、ブント活動家の非難と攻撃は激烈であり、執拗であって、その時期にはほとんど一握りの“お仲間”以外は、誰も青木や島や清水らを信用していないような状況になっていたのである。
もちろん、当時の“革通派”――服部信司とか星野中とか長崎浩とかいった連中――のヒステリカルな非難があったが、しかしそれだけではない、青木等よりも二年ばかり遅れて活動に参加した私や、それ以降の年代の活動家たちもみな、島や青木にとことんあいそをつかしたのであった。
我々の青木や島に対する批判は、服部や星野とはまったく別のものであり、むしろその反対のものからであった。つまり服部らは、青木、清水らのラジカリズムは中途半端で、にせものだと告発したのだが――したがって彼らはブントの急進主義以上の急進主義を持ち出し、それを欠いていたからといって青木らを攻撃した、すなわち青木や清水と同じ地盤に留まっていたにすぎない――、我々はむしろ青木らの根源に対して、つまり彼らが“学連主義的”であって(つまり学生運動の枠内でしか問題を立てられないで)、少しも「労働者的でなかった」ことに対して、そのいつわりの、口先だけの急進主義に対して反対し、そのプチブル的本性を告発したのであった。
いずれにせよ、青木や島はブント同盟員の集中的な、圧倒的な批判を浴びて破れ去ったのであって、青木が自分がブントを作ったのだとか、その理論は自分のものだといっても、少しも自慢にも“功績”にもならないのである。
彼は“革通派”つまり「東大系が雲散霧消したのは当然だった」などと言うのだが、実際には、ブントのほとんどの活動家から厳しく批判され、総スカンを食って、すごすごと退散せざるを得なかったのは青木らの方だったのだ。青木は活動家としての、こうした不名誉で、無念やるかたなき敗北の“経歴”を隠している。
そして頭は空っぽで、政治技術的にしか動くことができない清水とか唐牛とか北小路とかいった連中は、青木の“理論”ではもう持たない、権威をたもつことはできないと悟ったからこそ、青木を“見捨てて”、大急ぎで黒田寛一の破れ衣のもとに緊急避難したのであった。清水らに見捨てられては、青木がやる気を完全になくしたのも当然というものであった。
この卑しい人間は、自分の転向を“世渡り”の上手な証拠として自慢し、清水や北小路は「必要な時には、人生のリスイッチを試みる勇気が欠けていたのではないか」などとえらそうに言うのである。つまり“ブル転”(ブルジョア的転身)こそ「勇気」ある行動だと開き直るのだから、こうした連中の破廉恥さ、人間的卑劣さには限度というものがない。
彼はうれしそうに、転向後のブルジョア陣営の“暖かさ”や寛大や“厚遇”をあげつらい、それに感謝するにやぶさかではないが、国家やブルジョア・インテリたちが青木らの“転向者”をチヤホヤするのは当然のことであり、昔からのことである、というのは、青木や西部やその他“ごまん”といる学生運動からの転向組は、まさに反体制運動の、労働者階級の社会主義、共産主義の闘いの不毛性、不可能性等々を証明するに一番説得力があり、役に立つ道具だてだからである。ブルジョアたちは青木とか西部とかその他、諸々の“裏切り者”たちを利用することを、その“価値”を十分に知っているのである。
青木は一九六一年三月の青木の下宿における、“プロレタリア通信”派の最後の会議について語っているが、真実の一部しか明らかにしていない。
青木はこの会議に、黒田派へ乗り換えると主張した連中と、「そう、我々は戦線逃亡する」と開き直った、恥ずべき青木とか西部とかいった連中しかいなかったかに言っているが、実際には、黒田派には決して行かないが闘いを継続すると明確に宣言した活動家も、私を入れて少なくも三人いたことを隠している。
つまりこの会議には十人ほど参加していたが、黒田派に乗り移ると言い張った清水、北小路、奥田らと、「戦線逃亡する」と開き直った青木や西部やその他一、二名と、黒田派になど決して行かない――その思想はプチブル的であり、単なる主観的なドグマの一種だから――が、闘いを決してやめないと言った三人ほどの、三つの傾向に分かれたのである(十人ほども参加し、円座になってかなりゆったりと座っていたから、この部屋は青木がいうのとは違って、四・五畳よりももっと広く、少なくとも六畳くらいはあったように思われる――こんなことはどうでもいいことだが、まあ、この“会議”の雰囲気を知るには重要かもしれない)。
もちろん、この時も清水は「黒田派に行かないということは、“別党コース”なのか」と例によって我々を恫喝したが、しかしそんなものは、すでに“青木幻想”だけでなく、“清水神話”からもすっかり解放されていた我々には(我々はすでに新しいグループを組織し始めていた)、蚊が刺したほどの影響もなかった。
青木はまた、誰かにカネが入ったときには、新宿で楽しく飲んだとか書いているが、これも嘘である、というのは、青木のような“ブルジョア”出の人間はいざ知らず、清水や唐牛のような“ルンプロ”らには、どんなカネの入るところもなかっただろうからであり、新宿で“豪遊”するようなときは、しばしば全学連のカネで飲んでいたからである。もともと清水は公然と全学連のカネで生活していたが、これを非難する者は誰もいなかった、というのは、彼の全学連における指導的な役割は余りにはっきりしていたからである(私も、このことで清水を非難するつもりはなかった)。
しかし清水とか島とか青木とか唐牛らは、青木がきれい事にしているのとは違って、もっぱら全学連の費用で“飲み食い”していたのであって、あるとき、清水は私に「昨夜は一晩で新宿で五万円も飲んだ」と自慢したので、どこにそんなカネがあったのかと尋ねると、全学連のカネだとぬけぬけと白状したことからも、このことは明らかである。
私は「おれにそんなことは言わない方がいいぞ、いつかぶちまけるかもしれないからな」と警告を発すると、清水は、「いいよ、そんなことは嘘だと言うから。俺の言うことの方が林の言うことよりも信用される」などとうそぶくのであった。当時の五万円は現在の金額では数十万円で、私などが、都学連の執行委員をしていた間、つまり安保闘争の全期間中を通してずっと月二、三千円くらいのバイトをして「生活費(の一部)を稼いでいた」ことからしても、この金額の大きさが了解いただけるだろう。今清水との“約束”を果たして、ここに、この事実を「ぶちまけて」おく。
青木のように、多くの活動家を「世界革命」とか「共産主義」とか「スターリン主義者の打倒」とか大声で扇動しながら、また権力との闘争に駆り立てながら(樺美智子のように死んだ“同志”もおり、傷つき、不具となった“まじめな”活動家も山といたのだ)、たちまちブルジョア的に“転向”し、しかもそれを誇り、偉そうに語るような人間は本当に卑しい人間、最低のクズ人間ではないのか。
青木はこれまでずっと、自分の“革命家”としての“経歴”や思い出について一切語らず、その点ではいくらか増しかと考えていたが、しかし青木もまた西部とか、その他山ほどいる――私の兄もその一人だが――くだらない連中と何ら変わらない俗物であることを自ら暴露し、かくしてブントという存在のプチブル的本性を暴露する上で、最終的な仕上げをしてくれたのである。
恥というものを知らない、青木とか西部といった心根の濁ったゴキブリ連中よ、せめて諸君は沈黙を守るべきではなかったか。諸君には、えらそうなことを言える資格は全くないのだから。我々の怒りと軽蔑は深い。
(林 紘義)
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