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「さそり」との接点 |
岡本 |
「東アジア反日武装戦線」による連続企業爆破事件が起きた1974~75年は、足立監督が日本赤軍に活動拠点を移したのと同時期ですね。 |
足立 |
三菱重工爆破事件は、私が“海外出張”に出てから、ちょうど4か月後。1974年の8月だった。そのニュースを聞いたときはショックだったね。というのは、日本赤軍を立ち上げるうえで、私たちはまず連合赤軍の同志殺し問題を総括しなければならなかった。そうしないと日本の革命運動なんて前に進まないという強い思いがあったから。そこへさらに大量の死傷者を出してしまう事件が起きて、ガックリ来た覚えがあります。
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岡本 |
その爆破事件を起こしたグループと、日本赤軍はのちに合流しますよね。 |
足立 |
そう。連合赤軍にいた坂東國男、東アジア反日武装戦線の大道寺あや子、佐々木規夫、浴田由紀子という順番に合流してもらった。さっき挙げた大敗北の数々をまず総括し、反省や自己批判のプロセスを経て、今後の目標を煮詰めなければいけないと思っていたからね。それが私たちのテーマだった。それから2~3年後、やっと自分たちの綱領というか、草案ができるわけです。それが1977年とか、78年ぐらい。 |
岡本 |
「さそり」の人たちとの接点は? |
足立 |
私が当時知っていた「さそり」のメンバーは、一斉逮捕で捕まった黒川芳正だけだった。宇賀神寿一と桐島聡は、まだ逃げている段階だったからね。逃げてる最中の人に「おい、出てこい!」って声をかけるのは無理があるでしょう(笑)。 |
岡本 |
当時の足立さんは「東アジア反日武装戦線」の活動や理念に、共感や理解は抱いていたんですか? |
足立 |
アジアの人々の血と汗を搾り取った日本軍、これと結託した日本の企業が、総合商社や大建設会社に看板を塗り替えて存続している。この犯罪性をなんとかせねば日本は駄目になる、という思いは同じでした。だけど、僕らのほうはブント(共産主義者同盟)時代から、あんまりスローガンが変わっていなかった。「国際主義と、組織された暴力で革命を進めよう」というね。パレスチナ解放闘争の現場で国際義勇軍として活動していたのも、そこで学習したことを日本の革命運動に還元するという任務がともにあったから。
東アジア反日武装戦線のほうは、反天皇制を掲げており、もともと明確な違いがあったんです。そういう意味では、連合赤軍はプロレタリア革命とかなんとか、より観念的で抽象的な主張を掲げていて、もはや路線が曖昧過ぎるものになっていた。それも含めて総括しないとな、という意識がありました。 |
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実は何度も桐島とすれ違っていた |
岡本 |
そして話は大きく飛びますが、足立さんがレバノンで1997年に逮捕され、刑期を終えて“海外出張”から戻られたのが2000年。それまでに、桐島聡の消息については耳にしていたんですか? |
足立 |
一切、知らなかった。私が日本に帰ってきたときも、特に警察からは質問されなかった。「どうせあんたに訊いても役に立たない話しかしないでしょ」という態度のなかで、「桐島も向こうに行ってるんでしょ?」とか訊かれた記憶がある。あまりにも長年逃げて捕まらないから、今頃はアラブに合流してるんだろうと推測してたんでしょう。
……これはあまりにもできすぎた話なんだけど、実は昔、私は彼らが何者か知らない状態で、桐島たちと何度もすれ違っていたらしい。しかも、今回の映画を作り終えてからわかった(笑)。 |
岡本 |
そうなんですか! |
足立 |
それは彼らがまだ「さそり」というグループを作る前、つまり1974年以前だね。そのころ、桐島や宇賀神は明治学院大学の学生だった。当時は新左翼の連中と、バンドブームの若者たちが教室で大騒ぎしていて、大学側がまとめて彼らを追いだしたわけ。で、追い出された桐島、宇賀神、黒川たちが、山谷の労働者支援闘争で合流したというプロセスがある。
でも、山谷近辺で働くと目につくから、ほかの寄せ場に行って仕事を見つけるわけね。そういう日雇い仕事をしたあと、彼らが飲みに来ていたのが、東中野や新宿ゴールデン街の店だった。こないだ私の知ってるゴールデン街の店に行ったら、店のオヤジが「監督、やっぱり作りましたね!」って言うんだ。「そりゃあ、ここで何度も一緒に飲んでましたからね!」って(笑)。 |
岡本 |
監督ご自身は記憶になかったんですか? |
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全然、覚えてない。私はそのころから、文化ゴロとか、くっちゃべり新左翼みたいに野次られていたし、彼らは、そんな運動の先輩たちを嫌って、距離を取るようにしてたから(笑)。だから、たまたま飲み屋で席が隣になったり、軽く世間話した程度じゃないの?って訊いたら、店のオヤジが「いや、もっとしっかり一緒に飲んで話し合ってましたよ」って。
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岡本 |
お店の方のほうがよく憶えてるんですね。 |
足立 |
というのは、私はその店から尾行をまいて逃げ出し、国内ではそこで消息を絶ってるから。オヤジのほうはそれでハッキリ覚えてるんだね。でも、私には彼らと話したことはまったく記憶にない。いま思えば貴重な思い出なのに、情けないことです。 |
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自らの死を「表現」にした男 |
岡本 |
2024年1月、桐島聡が名乗り出たというニュースを聞いて、これを映画にしようと思うまでの期間は? |
足立 |
2日以内だったかな。 |
岡本 |
そんなに早く! |
足立 |
まず考えたのは、彼がわざわざ死に際に本名を名乗る必要がどこにあったのか、ということ。だって、あれだけ長いこと逃げおおせてきたんだから、内田洋という偽名のまま世を去ることもできたわけでしょう。きっとそれは「俺はやってやったぜ!」という自己顕示欲ではないし、死ぬことを負けだと考えて、悔やんで名乗り出たわけでもおそらくない。そこで思い当たったのは、やっぱり、仲間に対するメッセージなんじゃないかと。 黒川は1975年の一斉逮捕でほかの仲間たちと捕まり、頼りにしていた宇賀神も逃亡7年目に逮捕され、そこで「東アジア」の表に出ているメンバーは、ほぼ捕まってしまった。そのなかで、「東アジア」の大道寺将司は、獄中から句集を発表する(『友へ――大道寺将司句集』ぱる出版、2001年刊など)。命を懸けて贖罪を続けるという固い決心と、革命を続けられない悔しさ、無念さを、彼は俳句という表現にして世に伝えた。 これに触れた桐島は、自分も何か表現しなくちゃ、どうすればメッセージを伝えられるのかと改めて考え直して、最終的に「名乗り出る」という表現を実行したんじゃないか。そうか、これが理由だ!と私なりに推察し、納得したわけです。自分の死をメディアにするなんて、圧倒的だなと。49年間も逃げ続けたこと自体、すでに尊敬の対象だったんだけど、戦いの表現を最期にそんなふうに整理できるとはね。だから僕も表現者としてじっとしていられなくて、すぐ映画にしようと決めたんです。 |
岡本 |
なるほど。 |
足立 |
そしたら、前作『REVOLUTION+1』(2022年)を一緒に作ったプロデューサーの平野悠から電話がかかってきて、「やっぱり作りますか!」と。うん、だからカネを出せと言って(笑)、それで決まったんです。
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岡本 |
ものすごいスピード感ですね。 |
足立 |
ただ、作り始めたのがコロナ明けの時期だったから、それまで自粛状態だった映画制作が一斉にスタートして、そのころには空いてるスタッフが1人もいない状態だった。だから撮影に入るのは少し遅れたんです。 |
岡本 |
タイトルもシンプルかつ秀逸ですね。 |
足立 |
うん、まさに「逃走イコール闘争」という生き方を実践した桐島への敬意を表して作った映画ですから。私は30年近く“海外出張”している間、逃げ隠れなんて全然せずに、自由にやってたわけ。彼はそれとは正反対の戦いをしていたわけだから。何もできない苦しさのなかで彼がどれだけ耐え、何度も自分のなかで「革命への確信」を書き換えながら、日々を生きてきたことか。それはやっぱり尊敬に値するでしょう。 |
岡本 |
同じ手配犯としての共感というよりは、自分とは異なる闘い方への敬意なんですね。 |
足立 |
そう、真逆なんです。だって、あの輝くような笑顔を振りまく青年桐島のポスターが、全国各地に貼られていたんだからね。世界中探しても、あんな手配写真ないですよ。「毎日笑顔をありがとう!」「頑張ってくるからね!」って、桐島のポスターに声をかける女学生までいたって言うんだから(笑)。 |
足立 |
桐島の苦しみを、最も湛えていた顔 |
岡本 |
桐島役に古舘寛治さんを起用した理由は? |
足立 |
大量のオーディション写真を見せられて、この俳優さんならいいかな、と思う人が3人ぐらいいた。そのなかで、最も桐島のつらさや苦しさを顔に湛えていたのが、古舘さんだった。それですぐにオファーしてもらったら、「監督と一度セッションして、確認しないと決められない」というので、制作会社の会議室で会ったんです。
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どんな話をされたんですか? |
岡本 |
ホン(脚本)は面白かったけど、監督のことを知らないし、話だけ聞くと怖い印象があると。 |
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いやいや、オレは現場で怒鳴ったことなんてないんだよ?って、やさしく説得するところから始めました(笑)。それで、いろいろ話して、その場で握手して「やりましょう」と。それで決まり。 |
岡本 |
古舘さんにうかがった話では、監督に有無を言わさず手を差し出されて、つい握手し返したら、そのまま出演が決まったそうですが(笑)。 |
足立 |
うん、そしたらもう引けないから(笑)。いや、テクニカルにやったわけじゃなくて、この人やれるな、と私が思ったからね。そこからは、いろいろ大変なこともあったけど。 |
岡本 |
というと? |
足立 |
何か思想信条的に言いづらいセリフとかがあったら修正してもいいよ、と提案したら、2度目に会ったときには、ホンにびっしり赤ペンで書き込みが入っていた(笑)。「これは単なるメモなので、まずは監督のお話を聞いてから」と言うので、そこから細かく話し合って調整していきました。あと、二十代の桐島も特殊メイクでやれる?と訊いたら、「無理です!」と言われて。
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岡本 |
そのほうがお金かかりますよね(笑)。 |
足立 |
だから、若いころの場面は杉田雷麟くんにやってもらった。メインスタッフの間で「ぜひ彼で」という声が強かったんだよね。だから、若いときの桐島と、30代以降の桐島を演じる役者を分けて、死ぬ間際の年老いた桐島の視点から捉えようと。 杉田くんもすごく勉強して役に入り込んでいたし、古舘さんも役に没入するうえでいろんな調整を試みていて、意見を戦わせたりしていて面白かったね。私は端からそれを見ながら、これをどう映画のなかで繋げようかと考えていました。メガネの位置の直し方とか、立つときと座るときの所作だとか、共通の仕草を2人で共有したりして、いろいろ研究してやってくれましたね。 |
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映画で描いた、桐島の行き着いた結論 |
岡本 |
古舘さんは現場で監督とディスカッションしながら演技を固めていくタイプの役者さんだそうですが、この作品でも? |
足立 |
その通り。彼が思う存分やれるように準備したつもりだけど、現場で話し合って決めることも多かった。実際にスクリーンに映るのは古舘さんだから。彼が演じて映ったものが映画なわけだからね。彼がやりたいようにやれないなら、私も彼を選ばない。
そういう意味で典型的な例は、最後に、病院のベッドで桐島が本名を名乗るシーン。最初、彼はベッドから起き上がらないわけ。「瀕死の状態なんだから起き上がれない」と。いや、古舘さん、桐島はここで最後の勝負に出てるんだ。たとえ虫の息でも、彼が最後の戦いの瞬間に起き上がれないわけがない!と説明してやり直したら、ちゃんと起き上がって、決死の覚悟の、あのセリフを言ってくれた。古館さんも「ああ、起き上がれますね」って(笑)。
お互いに、この場面が映画のキモだという認識は一致していて、それを寝たまま言うか、起き上がって言うかで大違いだということも分かっている。そういう表現を決めていく意見のすり合わせの楽しさが現場ではたくさんあったね。 |
岡本 |
桐島が繰り返す「自問自答」を視覚化したイメージシーンも印象的です。 |
足立 |
桐島は、日常に足をつけた革命、その確信とはどんなものなのか、その自問自答を日々繰り返して生きていた。映画では、それを禅寺の坊さん姿になった自分の分身と、禅問答を繰り広げる場面として描いた。それより以前のシーンでは、年取った古館さんが川の土手を歩いていて若い頃の「昔の自分」とすれ違いざまに話し合うシーン。このすれ違いの話し合いと禅問答のシーンが、この映画のキモなんです。
つまり、すべての欲望を含め、生きていきたいという願望、それを基盤にしない「革命への確信」は全部ニセモノだ、というのが桐島の総括。それが最期に名乗り出るという行為と直結するわけです。 |
岡本 |
なるほど。 |
足立 |
旗を背負って革命やってるつもりの側は、脱落した人々を転向したとか、日和ったとか言うかもしれない。だけど、そうではないと主張する。日常を生きることのなかで戦いを続けるという道を選んだのであって、決して転向ではない。観念的な「革命への確信」みたいなフレーズを、日常生活のなかでもういちど鍛え直さないと、敗北や過ちを超えた本当の革命なんてありえない。それがこの映画で描いた、桐島の行き着いた結論なんです。 |
岡本 |
桐島が実は地道に破壊活動を続けていたというくだりも面白かったです。 |
足立 |
あれは、妄想のひとつとして描いた場面です。そこでは、元赤軍派のヤツが楽しそうに暗殺して回っているのと遭遇する。赤軍派の闘争心に、逆に桐島のほうがポカンと立ち尽くすという……。ああいうおかしさが自分では好きなんです。だけど、どうも周りの評判は良くない(笑)。「余計だから切れ」って言われたりする。
最終的に、ホンは17稿ぐらいまで書き直したんです。いよいよ撮影に入るころには、ざっと3時間分ぐらいの長さになっていた。それでも周囲の反対を押し切って撮り切ったら、やっぱり編集段階では3分の1ぐらいバサバサと落すことになってね。みんな「そら見たことか!」って怒ったりするんだけど、映画は撮影して映ったもので再編するしか成立しないもの。学生時代から一緒にやってきた元同級生の山崎裕キャメラマンとも、ケンカしながら楽しくやりましたけど(笑)。 |
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みんなが惚れた「うーやん」の実像 |
岡本 |
リアリティにとらわれない姿勢は、足立作品のトレードマークでもあると思います。ああいう描写は、監督としては描きやすいのでしょうか? |
足立 |
さっき言ったようなキモの部分を、映画表現として見せるにはどうすればいいか考えた。それで、桐島が入院して亡くなるまでの4日間をくくりにするという構成ができた。
その間の、桐島の病室における追憶、あるいは妄想、そして瀕死の病状。実は、桐島にとっては妄想のほうがリアルな世界になっていたはずだし、そちら側から日本社会の50年間をも傍観していたはずだという構造。これを基本イメージにしていました。
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岡本 |
桐島の逃亡生活を支えたのは、周囲の人たちとの出会いだったという面も描いています。その交流を描くシーンも感動的です。 |
足立 |
桐島の逃亡生活は、端から見るとラッキーの連続みたいに見えるけど、私たちがいろいろリサーチした結論は、実際に彼の人柄が周りの人々に親しまれたことを軸に成立していたところが大きいんです。桐島は、もともとバンドがやりたくて、その一方で企業の犯罪が許せなくて活動にのめり込んでいった人だから、その真面目さ、モラルの高さが、周りの人を惹きつけちゃうんですね。調べれば調べるほど、私の考えていたとおりの人なんだな、という確信も得られました。
その上、桐島は友人関係にしても、恋愛にしても、関係が深まりすぎることを自制して、深入りしないようにし、先には進まないようにしていた。なぜなら自分は指名手配犯で嘘をついて付き合っているし、もし捕まったら人々に迷惑をかけてしまうから。
そうした自制から自由になって、彼の逃亡生活のなかで逃走=闘争に直接関わらない部分があったとすれば、音楽だけ。だからロックを聴くときだけ、彼は自由だったんです。
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岡本 |
音楽バーで楽しそうに踊る本人の映像も残っていますね。 |
足立 |
そういう場所では、素直に音楽好きの表情をみんなに隠さず見せていた。だから周囲からは「うーやん」とか「うっちゃん」とか呼ばれて親しまれていたんです。彼の律儀で真っ直ぐな人柄に、周りのみんなは惚れてたんですよ。 |
岡本 |
映画のなかで「山谷ブルース」を歌うところも、イメージシーンなんでしょうか? |
足立 |
いや、実際に演奏できる曲は、みんなの前で披露していたそうです。映画では、時代の表象として「山谷ブルース」を古舘さんに弾き語りしてもらった。演じる古館さんには「ロックじゃないんですか!?」って不満そうに言われたけど(笑)。 |
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あのポスターを見た人には全員観てほしい |
岡本 |
桐島が、阪神淡路大震災や地下鉄サリン事件などのニュースを思い出しながら、自分では何もできない悔しさを吐露するシーンは、1990年代に集中していました。それは“海外出張中”だった足立監督の真情とも重なるのでしょうか? |
足立 |
その通りです。私にとっても、海外にいて日本国内のいろんな問題に「手が届かない」ことが歯がゆかった時期でもあります。その後、日本に帰ってきてからも特に何もできなかった時期、東北大震災が起きた。私ですら悔しさを感じていたんだから、桐島の悔しさたるやいかばかりか。
でも、真っ暗になった東京の街を、黒山が移動するように列をなして帰路に就く人々の姿を見ながら、桐島はこれが人間の日常なんだ、生活なんだと実感しながら、「でも俺には帰るところがない……」という受け止め方をしたんだろうな。そういう桐島の視点から、現代日本史を辿ったところもあります。 |
岡本 |
桐島をこういう人物としては描かない、と決めていたところはありますか? |
足立 |
安易に、ヒロイックに人物像を描かない、ということ。いわゆるヒロイズムとは無縁の人だったわけだから、そこを基調に人物造形をしていこうとし、それは古舘さんとも合意できた。 でも、なかにはこの映画に対して、犯罪者でしかない桐島をヒーローに仕立てていると非難する僻み根性の人もいる。英雄主義の意図はまったくないし、ちゃんと作品を観てほしいですね。 |
岡本 |
ヒーローかどうかはともかく、「こんな生き方が可能だったんだ」という、希望を与える存在ではあると思います。 |
足立 |
うん、それを描きたかった。桐島が身をもって示したことを、この映画でも多くの人に伝えたいと思う。あの笑顔のポスターを見た覚えのある人には、是非観に来てほしいね。 |