れんだいこのデモ参加記

 更新日/2017.3.11日

【れんだいこの「2004.3.20、イラク戦争開戦一周年国際反戦デモ集会」紀行】
 れんだいこは30年ぶりのデモとなる「2004.3.20、イラク戦争開戦一周年国際反戦デモ集会」に参加した。この日早朝、身支度を整え8時過ぎの新幹線に乗り込んだ。自由席に乗ったが混雑しており座ることができなかった。ひょっとしてデモ参加者でも居るのかなと思ったがそれらしい雰囲気のものは居なかった。11時30分過ぎ、東京駅に着いた。日比谷には山手線有楽町駅で下りればよいと知らされ、案外近いことに安堵した。いよいよ有楽町駅に着くと雨模様だったのでコンビニでビニール傘を買い求めた。少しまごまごしたが雨の中を急ぐ行列が続いていたので難なく日比谷公園に着いた。着いたところは噴水前で、後で聞くと中核派系ということだった。

 あらかじめ約束していた先輩を捜したが見つからない。まぁいいや携帯電話を知らせているので最悪連絡できるだろうと気楽に考えあちこち動き回った。居る居る、かっての臭いの面相の人達が。れんだいこは思わずうれしくなった。おじさんもおばさんもゼッケン姿の人もノボリ旗の人もみんななつかしい臭いの人達だった。学生も居た。れんだいこの30年前の姿をダブらせた。マイク音で聞こえてくる遣り取りに耳を傾けながら、DNAが続いていることにうれしさを覚えた。でも、正直な感想は俺達の頃のアジの方がサマになっていたかな。いや、それはそれでいいのだ、がなり調の如何にもアジ風の口舌はあの時代特有なのだから、とも思い直した。

 噴水の反対側に100万人署名の人達が居た。いろんなノボリがあった。動労水戸や部落開放同盟や他にもいろんなのがあった気がする。あちこち立ち止まりながら二周三周しつつ先輩を捜して回った。「反戦兵士・市民」というノボリがあり、それを持っている人が先輩かなと覗いてみたが何となく違う。先輩がノボリ立てるにしても「反戦兵士・市民」という用語ではない気がするしとか考えながらまた歩き始めた。何回か周り回りして「ひょっとして**さんではないですか」と尋ねてみた。この時、正面から顔が会い瞬間違うことが分かったが、「**さんねぇ、よく見るけどねぇ、今日はどうだろう、まだ見ていない」と返答があった。「そうですかぁ」と返事してその場を離れたが、どこまで遣り取りが通じたかまでは分からない。

 そのうち野音の方へ向かった。この間ずっと反戦フォーク調の音楽祭をしていたが、れんだいこの今日の気持ちには今ひとつピンとこなかったのか、先輩捜しに気が向いていたのかでチラッと覗いただけで別の会場に向かった。後で聞いたら先輩はここの会場前に居たようだ。れんだいこが向かった時は何かのいきさつで面会できなかったのだろう。かなり離れたところにも人溜りがあった。そこはどうやら旧社会党労組系なのだろう、そういうノボリが林立していた。

 他にも人溜りがあったが次第に寒くなり暖を取りたくなった。ふと見やれば、日比谷公園を出た向かい側に喫茶店がありそうだった。向かったもののドアを開けると満席だった。何人かが待ち席しておりその後に予約しトイレへ行った。そうこうしているうちやっと座れた。コーヒーを注文し、喉に注いだ。おぅ至福のひと時だ。他の人が待ち席していることもあり三十分ほど居て再び会場に向かった。

 依然として先輩と出くわさない。おかしいな、電話番号伝えているのだからかかってきてもよさそうだ。しかし待てよ、初対面で先輩の方から電話するのには少々抵抗があるのかも知れないな。しかし失礼もあって先輩の電話番号聞いていないや、どうしようもないなぁ、とか考えながらあちこち廻った。さて、そうこうするうちデモ模様になってきた。いささか躊躇しつつその場に立ちつくしていたら自然と列に入り込むようになった。といってもしんがりだわ。先輩はどうしているのかな、これでは会えなくなってしまうぞと思いながらそのまま隊列に入り、その気になっていった。

 ところが面白い。しんがりに着いたれんだいこのその後ろには学生隊列が続くことになった。つまり、れんだいこは学生隊列の前で終始デモることになった。なかなか日比谷公園から出ないが、学生隊列が太鼓や鉦や笛やトランペット、ハンドマイクで賑やかに音頭取ってくれるから退屈はしない。デモスタイルも様変わりしたなぁ、しかしこういうスタイルも良いとは思う、TPOも関係してくるけどと思いながら乗りが移って足踏みし始めた。こうして連中のシュプレヒコール聞きながら連れションとなった。

 道中で、バスの車中の人から手が振られていた。れんだいこは紛れて入っているような感覚のままだったので特段のお返しはしなかったがそれでも手を振られて悪い気はしなかった。一箇所だが、お店の店員が十数人外へ出てきて声援してくれていた。こういう歓迎も良いことだと思う。それにしてはデモ隊からのお返しが今ひとつだったなぁ。要所要所で機動隊の警護に出会ったが、彼らも皆うら若き青年達だった。そうさ、こんな連中とぶつかったって何の意味もありやしないさと思いながら、昔を思い出していた。
 以下、久しぶりのデモで気づいたことをチェックしておく。

 「日比谷10万人集会」は凡そ3万人のそれとなった。6万人との説もあるがそれはどうでもよい。問題は、 「日比谷10万人集会」の中身で、相互交流のない漠然とした共同デモでしかなかったことにある。しかしこれも、共同デモが破壊された長い雌伏時代と比べれば、為されないよりは良いのだからあまり目くじらすることもないのかも知れない。が、当面は修復期間として良いとしても、いつかもう少し組織だった集会にする必要があるかも知れない。誰かが音頭取らねばならないのだやはり。これが感じた問題点その一である。

 次に、「100万人署名運動」も学生隊列も所属団体を明示せず、烏合の衆的デモ行進していたことである。意図的に党派性を薄めているのだろうが、その良さもあるだろうし物足りないと思ったのも事実だ。しかし、せめて学生隊列ぐらいは中核派なら中核派の堂々とした行進すれば良いのにとも思ったが、学生の意識状況がかってとは違うので一概には云えない事情があるのかも知れない。あるいは革マル派の標的とされる緊張関係が続いており致し方ないという状態にあるのかも知れない。しかし、メット姿で真紅の旗と竹ざおを雄々しく掲げ行進、時にジグザグデモを見たい気持ちがあると思うのも人情だろう。これが感じた問題点そのニである。

 次に、たまたま学生隊列のすぐ前を歩いたので、学生の意識状況がそれなりに分かった。驚くことに、彼らはかっての中核派の急進主義性のもとに結集しているというより、丁度れんだいこの30年前の意識即ち革命的民主主義者レベルの段階にあるのではなかろうか、ということが分かった。一言で言えば、正義感運動である。これはこたびの集会で発見した気づきであった。それはそれで宜しい、殊更こねくり回して難しく語る必要なぞありはしないのだから。

 だから、れんだいこの失望はさほど深刻なものではなく、むしろこの学生隊列がこの先伸張していくだろうことを予感させたことで十分帳尻が合っている。学生時代にはこれで良い、そこから更に如何に学習してあるいは社会経験を積んでどう思想を陶冶していくかにあり、その方が余程大事と思うから、正義感をバネに、革命的民主主義者としてたち現れることに何ら異存はない。誰でもひとたびはここを経由しなければならないと思う。この過程の有る無しはむしろ致命的に大事というのがれんだいこ観である。

 最後に。れんだいこが感じとったことに、これらの集会企画者に演出に回す予算が乏しいという臭いである。昔ならカンパで間に合ったのだろうが、今日日は財政的に苦しいのだろう。これをどうするのかという問題も切実であろう。

 とりあえず冷めないうちの感想をここに記しておく。

 2004.3.22日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評305 れんだいこ 2007/06/17
 【れんだいこの「2007.6.15、9条改憲を許さない6.15共同行動」紀行】

 れんだいこは、「2004.3.20、イラク戦争開戦一周年国際反戦デモ集会」以来の3年ぶりの東京デモとなる「9条改憲を許さない6.15共同行動」に参加した。記憶が定かなうちに感想記を書きつけておく。

 「阿修羅」で見たら既に佐藤浩一氏の9条改憲を許さない6.15共同行動」(http://www.asyura2.com/07/kenpo1/msg/554.html)と攝津正・氏のこの爺さんらから眼が離せない〜6・15改憲阻止行動(レイバーネット日本)(ttp://www.asyura2.com/07/kenpo1/msg/555.html)が発表されているので、式次第はそれを参照していただくとして、れんだいこの個人的な感慨を中心に述べておく。

 5月頃の去る日、「紙の爆弾」の元編集長・松岡氏よりデモの案内を受けた。呼びかけ人になることも含めてのお知らせだった。その意義を知るれんだいこは、集会への参加を直ちに決めた。呼びかけ人について目を通すと、みんな名の聞こえたつわものであった。今となっては別に臆することはないが、みんなが恐らく本名で呼びかけているように思えたので、れんだいこ名でしか登録する気のないれんだいこは、とりあえず集会参加だけとした。

 当日前、「真相の深層」編集長の木村先輩にメールを入れ対面を申し込んだ。木村先輩とは、「2004.3.20、イラク戦争開戦一周年国際反戦デモ集会」で会おうとして会えなかった経緯がある。松岡さんにも必ず行くから二次会も含めてよしなにとのメールを入れておいた。

 さて当日、早めに起きて新幹線に乗った。日比谷公園は既に馴染みなのでまごつくことはなかった。寄り道での用事を済ませて向かうと2時半、まだ誰も居ない。売店でアイスキャンディーを買い、のどを潤していた。3時半頃、松岡さんから電話が入ってきた。既に着いていますよと応えたところ、4時に衆議院議員第2会館に集まり会議をする予定になっているとのことだった。木村先輩との待ち合わせが気になったが、確か呼びかけ人になっているのでそちらへ行っているかも知れないと判断し、了解と返答した。タクシーで乗りつけた。

 松岡さんはまだ来ておらず、まだ何人かが居ただけだった。後で分かったが、既に宣伝リレーウォーク隊があちこちに分散して情宣活動を行っており、皆な歩いて帰還中とのことだった。受付で名簿に記すようになっており、少し躊躇したがれんだいこと署名した。幹部席のどなたとも面識がないので挨拶するのをためらい、入り口付近の後ろ席に坐って待った。暫くして宣伝リレーウォーク隊が続々登場してきた。二階の会議室の部屋はほぼ満席となった。松岡さんも来たので、短い挨拶をした後、隣り合わせに坐った。木村先輩は来ていない。やはり野音だったかと反省したが腹を決めた。

 4時過ぎ会議が始まった。司会者の開会挨拶に続いて活動報告が為された。3.20日〜5.2日にかけての改憲手続法に対する国会前の連続ハンスト・座り込み闘争の成果が情熱的に語られた。続いて宣伝リレーウォーク隊がビラまきの手ごたえを報告しあった。次に、遠方からの参加者紹介として北海道の方、九州の方、関西の方の挨拶があった。

 れんだいこは、こういう時には恥ずかしがり屋なので発言の番が回ってこなくて良かったと安堵していたら、中国地方の方が居られましたので紹介しますとれんだいこを指名した。こりゃ困ったと思いながらもスクっと半身立ちで立ち上がり、手短く挨拶した。坐ってから、もう少しれんだいこ節でご挨拶しても良かったかなとか、半立ちでなく背筋を伸ばして意見表明したかったなとか思ったが、もう後の祭りだ。

 続いて他の方が報告した後、階下のロビーに集まり、代表が社民党の保坂議員に請願書を渡した。保坂議員の国政報告の後、国会議事堂南通用門へ向かい、樺美智子さんの追悼集会を行った。どなたかが気合のこもった追悼文を読み上げた。そこから五月雨式に日比谷公園へ向かった。

 野外音楽堂の会場に着くと、若者のプロテスト音楽が奏でられていた。適当に坐っていると、党派の情宣活動が行われているらしいマイク音が聞こえてきた。こういうことに興味のあるれんだいこは松岡さんを誘い向かった。おぅおぅいろんな方がビラ配ってらぁ。中核派が機関紙前進掲げて販売していた。天木グループが演説していた。よく見ようと反対側に回って眺めていたら、後ろに居るのは刑事さんばかりだよと云われ、こりゃ具合が悪いと少し前に出て耳を傾けた。

 適当に見切りをつけ、会場に向かった。両脇のビラ攻勢の垣根を潜りながら前の方へ坐った。100万人署名のノボリが立っていたが、目が悪いから前の方がいいという理由でそのまま居座った。そうこうしているうち松岡さんの友人達も来た。さて、集会が始まった。空席部分もあったが、ほぼ千人を超えているようだった。後で司会者発表1200名を聞かされたが実数だと思った。何事も正直がいいわな。開会挨拶、基調報告、各界代表の挨拶が続いた。これを記せばきりがないので割愛する。

 いずれにせよ、党派の垣根を越えて、あり得そうであり得なかった小異を捨てて大同につく共同戦線集会が挙行された。日本左派運動は、この意義に気づくまで60年安保から数えて50年にならんとしている。遅まきながらこれが実現したことになる。れんだいこのカオス思想理論と合うので、待ち望んでいたところだ。これを牽引したのが60年安保世代で、小川さんとか蔵田さんとかが取りまとめ役になっているらしい。ここまで漕ぎ着けるのも大変だっただろうけど頑張っているわな。

 ほぼ2時間後、デモに向かうことになった。坐った位置で第一艇団と第二艇団に分かれ、我々は第二艇団に入った。第二艇団は中核派系だった。こりゃぁちょっと具合が悪いと云うので辞去して、第一艇団に移った。デモに移る前に簡単な替え歌の練習とシュプレヒコールの打ち合わせをした。

 こうしてデモに移った。れんだいこは、会場で売られていたミニメガホンを手にして首にかけてデモに移った。日比谷公園から銀座通りを越して東京駅の先の公園までウォーキングデモをした。れんだいこは、銀座の夜景を楽しみながら、見られているのか見ているのかどちらでもいいや、俺はシュプレヒコールするんだと時に腕を突き出しながらデモった。次第に乗ってきた。

 銀座を過ぎた頃、れんだいこは気づいた。れんだいこより一回り歳の多い60年安保世代即ち70歳前後の連中が全くヘタらずにデモを貫徹していることに。連中はよほど養生が良いのか、若い時からデモで鍛えてきたのか元気が良い。そういうことを考えると可笑しくなった。いずれにしてもデモは最高の健康法である。歩いて声を出し腕を振り上げつつ進むというこのトレーニングは絶対健康に良いわなと。こうなりゃ、だれかれ構わずにデモに参加しませんかと声をかけるのも親切だわな。

 案外と女性が多いことにも感心させられた。当時のお嬢さんが、道中いろいろあったのだろうに荒波を乗り越えて、今も変わらずデモの半分を支えていることにたまげた。否、何事も粘り強いのは女性だからなぁ、ほんに天地の半分を支えあっているんだなぁと改めて感慨した。

 デモを貫徹して、第二艇団のデモを迎え入れて、連中の太鼓とドラのリズムを聞いた。おぅおぅ3年前はたまたまこの連中のすぐ前で足並みを揃えたんだ、とか思い出した。こうして集会を後にして松岡グループと二次会に向かった。映画監督グループ3名と松岡さんと住職さんとれんだいこの6名で居酒屋に入り、料理が結構うまかったので話と共に舌鼓を打った。来てよかった、叉来るぞと思った。皆さんもご苦労さんでした。楽しかったですね。ここまで漕ぎ着けた縁の下の力持ちさん有難う。

 2007.6.17日 れんだいこ拝





(私論.私見)