蔵田計成氏の論考考 |
(最新見直し2007.6.17日)
2007.12.23日、9条改憲阻止の会の蔵田計成氏より「6/15共同行動の意味、 九条改憲を許さない「新しい運動体の創出」に向けて 反テロ戦争を糾弾する民衆の思想―正義性を相対化する視点を問うー」と題したメールが送られてきた。これを検討する。
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【れんだいこが、蔵田氏の営為を評す】 |
れんだいこは、蔵田氏のこたびのメール内容に対して、その出来映えを問う以前にその労をねぎらいたいと思う。現代は、事象の概念的把握、思想的意味づけが価値を失い、徒に時勢の流れに埋没している冗漫な時代である。この時に、齢70才を過ぎて意気軒昂に、かってのような思想で時代を捉える営為に向かっていることは貴重ではなかろうか。 人は云う、「思想で時代を捉える時代は終わった。それは却って危険である」と。れんだいこは、そうは思わない。人が、時代を思想で捉えるのは、人としての本能的営為であり、幾ら徒労で終わろうとも何度も向かわねばならない。問題は、その営為にあるのではなく、従前の思想の欠陥にあると。時代が降下して見えて来た時点で何度も挑み、よりあり得べきものを創造せねばならない。いわば、これが思想の弁証法であり、この弁証法に挑まねばならない。そう考えるれんだいこは、蔵田氏の営為に賛辞を惜しまない。 かく観点を確立して、論の中身に立ち入らねばならない。蔵田氏は、その1で、「6.15共同運動の意義」を問うている。それは、60年安保闘争よりまもなく50年になろうとするこの時点で、政治的情況が少しも好転していないという否定的総括を裏事情として、日本左派運動の能力を問うところから始発しているように思われる。我々が、何を克服して新運動に乗り出さねばならないのか、を問おうとしているように思われる。 この観点は至極当然の評価されるべきものではなかろうか。その第一克服として「小異を捨て大同に就く共同戦線運動の創出」を目指そうとしている。これは、何気ないことのように思われるが、俗流マルクス主義に胚胎した統一戦乱理論の否定であり、理論的に大いに価値ある提起であるように思われる。 日本左派運動は、この間数多くの大衆団体とその運動を創出してきたが、党派のくびきに置く統一戦線理論に支えられたものでしかなく、各党派がそれをやるのでセクト的宗派的な域を出ることができなかった。これを反省するならば、大衆団体とその運動に一定の「自由、自主、自律」を与えた上で、その運動体と各党派が結合するような共同戦線理論に支えられる運動へと転換させねばならないのではなかろうか。 「6.15共同運動」派の「小異を捨て大同に就く共同戦線運動の創出」提言は、その意味で価値があると思う。遅まきながら、漸く生まれ出てきたという感じがする。これを提唱するに至ったのが第一次ブント派であり、ブントらしいと思う。 蔵田氏は、その2で、「運動圏内から暴力を排し、反政府運動に於いても暴力的運動を抑制する運動の創出」を目指そうとしている。これも、何気ないことのように思われるが、この結論に至るまでには夥しい「血の代価」が支払われていることを知る必要があろう。 れんだいこが敢えて云えば、単にかく提起するだけでなく、「共同戦線理論に立つことのできない宗派による他党派解体ゲバルト主義」に抗する「共同戦線理論に立つ左派運動擁護ゲバルト」の必要を意思一致させるべき必要があるのではなかろうか。この違いは、ミソとクソとの違いであろう。これを弁えずの一般的な暴力反対は稔らないだろう。 問題は、正義ゲバルトと性悪ゲバルトを誰が識別するのかにあろう。ひれが出来ないからと云うのではいつまでたっても事態が解決し無い。ここに智恵が無ければならず、各党派、大衆団体代表による審議会が常設され、この問題を吟味裁定すべきだろう。左派運動が、この能力を獲得していないことに、左派運動の限界と衰退が見て取れると思う。 れんだいこの見るところ、戦後左派運動は、いわゆる共同戦線派が牛耳るところを、統一戦線派に主導権を奪われ、統一戦線派が各党派ごとにミニチュアな運動を展開してきたところに貧困が宿されていると見る。そうと気づけば、共同戦線派が主導権取り返しに向かわねばならないし、そろそろ向かう時期だろうと思う。統一戦線派の棲み分け的な矮小運動は既に見飽きたではないか。 「6.15共同運動」派は、その3で、そういう左派共同戦線の元始まりの日を6.15に設定し、運動を開始している。60年安保闘争に於ける国会構内と突入と悲劇の樺美智子の死のこの日を基点にしようとしている。れんだいこは、それで良いと思う。日共系が、その理論に随えば首肯し難しのところ、宜しき理解を得て既にこの運動が開始しされている。これはすばらしいことではなかろうか。 以上より、 「6.15共同運動」の意義は大きい。問題は、この後、どのように育まれ、その理論と運動を発展せしめていくかにあろう。 2007.12.24日 れんだいこ拝 |
(私論.私見)