「46年ぶりの全学連6・15デモ」考

 

 (最新見直し2006.6.16日)

【「6.15デモ呼びかけ文」】
 「電脳ブント」が「デモに行こう!9条改憲阻止!国民投票法案不要!樺美智子追善!」を掲載している。これを転載しておく。
 (http://homepage2.nifty.com/ikariwoutae/starthp/newpage3.htm」でもサイトアップされている

 6月15日 国会へ
      ■ 午後2時     日本弁護士会館集合(日比谷公園脇)
      ■ 午後3時45分  日比谷公園南門出発デモ/献花/請願/国会報告

 呼びかけ人
 青山到、旭凡太郎、足立正生、井汲多可史、泉康子、奥田直美、栗山一夫、塩川喜信、最首悟、平坂春雄、樋口篤三、望月彰、司波寛、鈴木達夫、鈴木迪夫、佐藤浩一、佐藤秋雄、篠原浩一郎、仲尾宏、西村卓司、葉山岳夫、星宮昭生、前田知克、三上治、山中明、由井格
                       
 (世話人)代表 小川登、江田忠雄、蔵田計成、佐藤粂吉、平井吉夫、山田恭暉       
           問い合わせ・連絡先  新宿区四谷4-23第1富士川ビル302
           「9条を守る会(仮)世話人会」 

     行動アピール

  いま、「グロ−バリズム」という名の資本の妖怪が、地球上を徘徊しています。民族、宗教、文化のカベを突き抜け、資本主義的市場原理主義が世界を席巻しています。それは「ジャングルの掟」と言われる「弱肉強食」と同義であり、共同体の内外に広範な社会的格差、失業、貧困を生み出しています。そればかりか、無慈悲な競争を社会原理とするがゆえに、人々の心から、連帯感、共生観、思い遣り等の人間的な心の豊かさを奪い去ってしまい、いちじるしい格差社会を生み出しています。

 フランスにおいては、移民2世・3世の都市郊外暴動に続く、「新雇用法阻止」をめざした300万人の勝利的な街頭デモが展開されました。この街頭デモは、若年労働市場への新自由主義的な規制緩和、企業への柔軟化政策に対する労働者や学生の抵抗と反乱であり、議会制民主主義を越えた直接行動として、フランス的伝統の自己実現を図った闘いといえます。さらに、アメリカにおける移民法阻止を掲げた200万人の抗議デモも、現行の資本主義的繁栄が周縁部に波及・胚胎する矛盾を満天下に露呈しました。

 極東アジアにおいては、どんな事態が進行しているのでしょうか。「小泉靖国参拝」に端を発したせめぎ合いが、「独島」や「釣魚台」など国境をはさんだ政治的経済的対立として発現しています。これは、過去の帝国主義支配の結果としの抑圧国と非抑圧国との間の「国益」「民族益」という形をとった対立といえます。

 そうした事態を背景にして、アフガニスタン、イラク侵略戦争を嚆矢とした、アメリカの「テロ・ならず者国家」への先制攻撃論のしり馬にのって、帝国主義世界戦略の再編や戦略的転換と直接連動しながら、国内の「有事立法」や「周辺事態法」をもって本格化した日米軍事一体化をめざした、世界=極東軍事戦略の大転換がなされようとしています。そこには戦時体制への切迫した臨場感さえ伝わってきます。戦後60年余の歴史が、いまやかってない危険・破局・混沌の危機へと突き進んでいるかのようです。

 事態の本質は誰の目にも明らかです。万が一、国家権力の行使に縛りをかけていた憲法、とくに第9条の「平和主義」条項のタガが、いったんはずされてしまうと、事態はセキを切ったように悪夢の再現へと転がり落ちることは必定ではないでしょうか。最悪の事態への切迫感や危機意識を、行動への逆バネにして、おそまきながら行動を開始すべきではないかと考えるに至りました。

 今後、討論を深めていくのは当然としても、改憲阻止闘争がめざすべき唯一最大の目標は明快です。憲法9条が掲げている「戦争放棄(戦争しない)」(1項)と、その証としての「戦力の不保持、交戦権の否認」(2項)という二つの規定は、表裏一体をなしています。この第9条が掲げている「平和主義」をこそ、憲法理念として堅持するのは当然ではないでしょうか。

 平和主義に徹するその最大の理由はどこにあるでしょうか。そもそも、戦争というものは本質的には国家による政治的行為の延長として継起するものです。例えば、あの太平洋戦争の開戦理由も、「自衛のための戦争」として正当化され、「国権の発動」として引き起こされました。この事実が雄弁に物語っていることは、「侵略戦争」といえども「自衛のための戦争」という論理の詐術と、「国益論」を援用することによって、容易に合理化されてしまうということではないでしょうか。この歴史の事実から引き出すべき教訓とは何でしょうか。それは、「国際貢献」等の口実のもとに海外出兵を合法化するような危険と破滅への道ではなくて、「非戦」「反戦」「平和」「共生」への道であると確信しています。

 見逃すことができないのは、憲法と現実政治の乖離とその整合性という見え透いた理屈を押し立てて、改憲の正当化をはかろうとしている事実です。その背後では、「挙国一致」の国家的統合のカリスマとして、天皇制護持による民族主義や排外主義をも辞さない改憲への意図が露出しています。だが、「自衛軍」「集団的自衛権」を改憲規定し、日米軍事同盟の質的転換のもとで、アジア→中東→全世界に到る邪悪な侵略戦争への参加を合法化させることのなかに、どのような未来への希望があるというのでしょうか。

 一連の改憲策動の中で見逃すことが出来ないもう一つの問題点は、国の最高法規としての憲法に対する近代法的概念を原理的に逆転させようとしていることです。つまり、これまでの近代法体系における憲法概念は、国民の側が国家権力の行使に対して「縛り」をかけるものとして、憲法を位置付けていました。ところが、自民党改憲草案は、この憲法の概念規定のなかの主客の立場を、根本的に逆転させています。国家権力の側が、国民に対する「公の秩序」「公共の利益」を持ち出して、「義務」「責務」を課し、人民主権に対して逆規制を加えようとしていることです。

 「6.15国会突入闘争」から46年の歳月が過ぎました。あの60年安保闘争は、その後におとずれた「高度経済成長」と、その結果がもたらした「地球環境の深刻な破壊」という二つの経済的社会的状況にさらされる中で、固有の風化をとげた、といえるかも知れません。だが、そのこととは無関係に、いまや私達を取り巻く時代は、劇的な変貌を遂げており、政治的逆動化の真っ只中にあります。だが、多くの国民は、このような歴史への背理を決して許さないでしょう。国民の過半数が、「戦争放棄」「平和主義」に共感を示しているという社会的事実が明日への希望です。おそらく、いま眼前に進行しているこのような政治的事実と、過去の歴史の事実とを重ね合わせるならば、私達が、歴史の中から「真実」を取り出すことは可能であり、そのことが、限りなく未来への期待をつないでくれます。その期待感を実現するための唯一の手段は、いうまでもなく、私達一人ひとりが、今すぐにでも行動を開始することだ思います。

 私達は、これまで何をやり残し、何を為し終えなければいけないのか、歴史への現在的な関わり方を、互いに模索しているのではないかと思います。あらためてその延長線上に、「改憲阻止」をめざした行動への参加、支援、賛同、共感等のさまざまな関係性の構築を、誠実に呼びかけたいと思います。己の行動を最初の出発点にして、一人目の友人に語りかけ、二人目の知人につなげ、三人目の他人を求めて、連帯の輪を広げていきたいと思います。他の市民運動との合流も含めて一歩でも、二歩でも前に踏み出したいと思っています。私達の仲間内には、健康に不安を持ち、杖を頼りに参加を決意している人も少なくありません。でも、共通な想いは、ギリギリの決意を込めて改憲阻止を目指し、仲間への確かな波動を希求しているということです。

 併せて、志半ばで斃れた樺美智子さんや、おおくの御霊に対して、改憲阻止の決意を誓いたいと思います。世代を越えて、一人でも多くの人達が参加されるよう、心から呼びかけたいと思います。    呼びかけ人一同


 Re:れんだいこのカンテラ時評その180 れんだいこ 2006/06/12
 【「全学連46年ぶりデモ」について】
 「全学連46年ぶりデモ」があるとのことである
 (「阿修羅政治版23」のクエスチョン氏の2006.6.10日付け投稿文「全学連46年ぶりデモ」、http://asyura2.com/0601/senkyo23/msg/155.html) 6.10日付け東京新聞がこれを報じているとのことである。

 「電脳ブント」(http://www.bund.ne.jp/)、「デモに行こう!9条改憲阻止!国民投票法案不要!樺美智子追善!」を掲載している。これによると、60年安保全学連闘士の面々が、「憲法9条改正反対」を旨として、1960.6.15日、日米安保条約改定に反対する学生、市民約10万人が国会を取り囲んだ大衆デモから46年ぶりに「6・15国会周辺デモ」を敢行すると云う。

 デモは15日午後4時、東京・日比谷公園を出発。「1960.6.15デモ」で警官隊との衝突の際亡くなった女子学生樺美智子さんの遺影を掲げ、約1時間かけて霞ヶ関から国会周辺を行進する。樺さんが死亡した南通用門で献花を行う。当時の全学連の役員・主要メンバーだった桃山学院大名誉教授の小川登(70)・氏、著述業蔵田計成(71)氏ら33名が世話人・呼びかけ人となっており、「いったい何人が再結集するのか、それもまた楽しみです」とコメントしている。

 れんだいこも行きたいが、今月は早々に京都へ出向いたことと先だつ金と時間がないので行けそうもないのが残念である。行けば通じ合えるものがあると思う。れんだいこは1970年入学なので、60年ブント全学連の方々とは10年有余のタイムラグがある。もし60年安保時に学生であればブントで闘ったと思う。ブントは60年安保闘争後、その総括を廻って大混乱大分裂し、結果的に黒寛の指導する革共同へ雪崩打つかのように合流し、第一次ブントを解体させてしまった。

 れんだいこが居ればその道は間違いと棹差したと思う。黒寛革共同と宮顕日共に濃厚に認められる「排除の論理」の邪道を説き、否定の否定弁証法の観点で第一次ブントの功績をそれなりに認める論理と道を指針せしめたと思う。もっとも後付けの言であるので実際にはどうかは分からない。概ね、関西ブントがそのように主張していたようで、この時点に於ける関西ブントの動きは評されるべきだろう。

 今から思うに、第一次ブントがなぜ素晴らしかったのか。れんだいこは次のように思っている。第一に、組織論、運動論に於けるルネサンス気風による「自由、自主、自律」精神を称揚し、競り合い運動を目指したことが素晴らしい。「排除の論理」や他党派解体路線なぞ微塵もない。日本左派運動内に、第一次ブント解体と共にこの作風が失われた損失は大きい。

 第二に、第一次ブントは、社共の穏和式反対運動によるお焼香デモに抗して、ジグザグデモで抗議の意思表明し、数次にわたって官邸ー国会突入デモを勝ち取り、時の内閣を打倒せしめたことにある。戦前戦後を通じて、左派運動の盛り上がりで内閣を倒壊せしめた事例はこの時を措いて他にはない。

 第三に、第一次ブントが倒壊せしめた岸政権は政府自民党内タカ派の首領であり、結果的にその後の政府自民党はハト派系で運営されていくことになった。タカ派とハト派の対立は戦後日本政治史上の最大抗争であり、第一次ブントは期せずしてハト派政権を生み出す「ひょうたんから駒」の役割を果たすことになった。

 以降、ハト派政権は池田ー(佐藤)ー田中まで続き、田中ー大平同盟で絶頂期を迎え、ロッキード事件で脳震盪を見回され、以降のハト対タカの仁義なき抗争を経て大平政権を誕生させたものの鈴木で幕を閉じる。この間、1960年代初頭から80年代初頭までの約20年間を政局運営し、世界に称讃される「奇跡の戦後復興及び高度経済成長」を謳歌した。第一次ブントの60年安保闘争は、これを呼び水したことになる。

 そういう客観的役割を果たし功績を持つ第一次ブントの誤りはどこにあったのか。れんだいこは、その理論が、戦後憲法秩序体制をも打倒すべき権力体制として否定する理論に傾斜したことにあるのではないかと思っている。そういう規定であるからして、政府自民党内のタカ派とハト派の抗争にも無頓着なままに保守反動視し過ぎたことにあるのではないかと思っている。

 れんだいこは、小ネズミ政権下の諸施策を検証することを通じて、彼及びその背後勢力が解体せしめようとしているものを凝視することによって、戦後憲法秩序体制とは実は世界に冠たるプレ社会主義体制ではなかったかと思い始めている。特殊日本的な面を持つ在地型プレ社会主義の側面を濃厚に持っていたのではないかと思い始めている。

 小ネズミ政権は、背後勢力の操りもあってそれを壊そうとして登場した。小ネズミの「自民党をぶっ壊す宣言」とは、政府自民党内のハト派を最終的に一掃し、戦後憲法秩序の持つプレ社会主義を壊すことにより、現代世界を牛耳る米英ユ同盟の指針するネオシオニズム・グローバル体制へ我が日本を貢物としようとしており、その為の急速転換を図ろうとしているのではないかと思っている。

 れんだいこはそのように気づき、ならばと、現代世界を牛耳る米英ユ同盟の指針するネオシオニズム・グローバル体制の史上初テキストである「シオンの議定書」まで渉猟するに至った。先日もとある人物と会話して、戦後日本=在地型プレ社会主義観点は良いとして、「シオンの議定書」を史実書として看做すのは論外とする批判を浴びた。しかし、そういう御仁に限って「シオンの議定書」に真面目に眼を通していないのは滑稽なことである。

 しかしまぁそれは良い。それは特殊れんだいこ的到達点だとしても、日本が今ネオシオニストの要請する危険な「傭兵の道」へ引きずり込まれようとしていることを共認できさえすれば良い。明らかに戦後の質が変わり、自民ー民主ー公明内シオニスタン同盟による戦後秩序総体の全否定構造改革が為されようとしていることへの危機感が共認できさえすれば良い。

 以上の認識から何を為すべきか。戦後憲法秩序体制の護るべき地平を確認し、左派共同戦線を創出せしめ、一挙に政権取りにまで向うべきだろう。そうならなければ次善の策、次々善の策で抗戦すべきであろう。そこに知恵を要するから政治が面白いのではなかろうか。この智恵が弱すぎるのだ。

 この構えに立つ時、いつものオチながら、宮顕ー不破ー志位系党中央日共の逆対応をも見据え、策動の余地を与えない共同性が要るであろう。日共の化けの皮はとうに剥がれている。二枚舌三枚舌のマルチ舌を引っこ抜いてやれば良い。

 何事も理想通りには行かないが、戦後憲法秩序体制を護るべき主体は何らかの形で党内を戦後憲法秩序原理に即応させて居なければ論理矛盾である。目下の日共にはからきしない。そういう主体が護憲を云うのはおこがましい。

 旧社会党ー現社民党の方が幾分マシではあるが、村山政権時代に憑依した保守反動との癒着構造をも告発せねばならない。「権力の蜜の味」を知ったことは構わない。政治にはそういう動機付けも要るだろう。だがしかし、それに被れるとなると始末に負えない。「口先批判裏取引専門」常態の万年野党根性は左派運動には馴染まない。社民党がそのように自己形成するのなら悪いことは言わない、今からでも自民党へ入り直せ。

 それらを思えば、第一次ブントの面々が「47年ぶりの6.15デモ」に揃うことの素晴らしさよ。あぁ行きたくなったぜよ。まぁしかし来年もあるからな。毎年やり続ければよかったんだよな。

 2006.6.12日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評その179 れんだいこ 2006/06/01
 【れんだいこの第一次ブント賛辞】

 れんだいこが、第一次ブントを絶賛するのは、彼らの言辞や理論によってではない。彼らの実践と感性に於いてである。追々述べるが、はじめにこのことを指摘しておく。彼らの言辞や理論も学ぶ価(あたい)のあるものではある。しかしそれは当時の情況に於いてのものであり、今日では空理空論が目立ち過ぎており殆ど使えない。むしろこのことは左派運動党派としては重大な失格なのであるが、第一次ブントにはその失格を補って余りある感性の素晴らしさがあった。以下、そのことを検証する。

 第一次ブントの感性が如何に素晴らしかったか。それはまず、中国の文革に先だつ十年前から日本左派運動の紅衛兵足りえたことにある。彼らは、毛沢東に云われるまでもなく自前の造反有理運動を創出していった。

 第一次ブント創出時の状況として、日共が六全協でそれまでの徳球ー伊藤律系執行部からスパイ派の野坂ー宮顕系へという最悪の執行部に転換し、次第に本末転倒の統制主義運動に転化しつつあった。社会党は政権奪取による責任与党政治を目指すでもなく徒に万年野党に甘んじる口先批判政党に堕しつつあった。

 第一次ブントは、これらの状況を眼前にして既成左派運動を批判し抜き、自前の党派を生み出す挙に打って出る。日共式統制主義批判から始発した故に当然のことながら「自由、自主、自律」型規約に基づくルネサンス風競り上げ運動を展開していった。何よりこのことが素晴らしかった。そして、この型の運動が成功し、急速に支持者を増やしていった。

 第一次ブントの感性の素晴らしさにはもう一つの理由がある。それは、闘争の矛先を国家権力中枢機関の集中する霞ヶ関ー国会空間に向け、デモ動員を煽ったことである。国会に照準を定め数次にわたって震撼させた。最終的に当時の岸政権打倒を勝ち取った。これは、今日に於いても後先にない日本左派運動史上未曾有の稀有事例となっている。十年後の70年安保闘争の単なる動員デモに比べて一目判然とする違いがここに認められる。

 しかし、第一次ブントは、60年安保闘争後の局面に於いて、その成果を確認し損なった。「れんだいこの第一次ブント論」は、確認し損なった成果を今からやり直そうとすることにある。如何に成果を確認するべきであったのか。もったいぶるが、これを一言で述べることは難しいので、以下、順を追って論証する。

 第一次ブントの運動的成果を歴史に於いて正しく確認するためには、戦後秩序論から説き起こさねばならない。戦後秩序論とは戦後憲法論に集約されるが、これをどう観るか。れんだいこは、戦後左派運動はここで早くも躓いた、と看做している。

 戦後左派運動は、戦前の治安維持法体制から解放された勢いで、それまでの禁書であったマルクス主義の諸文献を紐解き、マルクスーエンゲルスーレーニンの急進主義的な資本主義体制打倒論を初学者的に生硬に受け止め、文言が指針する通りの運動へと傾斜していった。あるいは戦後の冷戦構造に於ける一方の雄となったソ連邦体制を指導するスターリニズムを信奉し、その指導に従うことが正しき左派運動と自己規定していった。

 しかし、情報開示された今日になって思うのに、マルクスーエンゲルスーレーニン理論にもその革命論に於いてある種の幅があるということ、スターリニズムは本来のマルクス主義の内部からの裏切りであり、革命の成果を食い潰す変成物であり、模範とするには足らないどころか解体出藍(止揚)せねばならないものであることが自明である。

 ひとたびこの観点、史観を請ければ対蹠的に、戦後日本秩序は世界に稀なるプレ社会主義秩序になっていたことを見抜かねばならなかった。然るに、当時の戦後左派運動は、その戦後秩序をも旧体制権力と見立て、その解体を声高に叫べば叫ぶほど左派的であるかの如くな錯覚に陥った。

 この教条主義が最初の間違いであった。その教条主義に基づく戦後秩序体制打倒運動がそもナンセンスなものであったが、戦後左派運動はその不毛な道を競り合いしていった。故に、闘えば闘うほど先細るしかない現実遊離となった。確かに、戦後日本は米英を主とする連合軍に進駐されており、GHQ権力が君臨しており、そのGHQ権力は米帝国主義のお先棒を担がされていた。左派にとって、米帝国主義との闘いが世界的第一級課題であったからして、米帝国主義の進駐する戦後日本体制は否定されるべきものと理論化されていったことには相当の理由があるにはあった。

 しかし、戦後秩序をプレ社会主義秩序体制と看做せば事情が異なってくる。戦後秩序をそのようなものとして看做したかどうかはともかくも、これを戦前秩序との比較により弁証法的に捉えたのは人民大衆であった。彼らは、戦後秩序を感性に於いてプレ社会主義秩序の如くに感じ取り、逸早くその享受と謳歌に向った。それは大衆感覚の賢明さを証している。戦後左派運動は無能にも、この感性を取り入れることのないままペシミズム的に理論ぶることに終始した。

 その後、戦後日本は次第に戦後世界を規定した冷戦構造に巻き込まれていった。米帝国主義は、朝鮮動乱前後を契機に日本を反共の砦化していった。やがて、サンフランシスコ講和条約の日を迎えるが、同時に日米安保条約が締結され、講和独立後にも米軍基地が要所要所に居座ることになった。これにより、それまでの連合軍占領から米軍単独支配への転換が為され、米帝国主義による単独対日支配体制が完遂した。

 しかしながら、れんだいこ史観によれば、米軍の占領継続は外在的なもので、内在的には戦後憲法秩序が機能しており、否戦後憲法秩序はますます受容されていきつつあった。以来、戦後秩序は、憲法秩序と日米安保秩序の二大原理により操舵されていくことになった。これが最大矛盾となり、戦後日本のその後の歩みを規定していくことになる。

 この間、戦後日本の政治権力を握ったのは自由民主党であった。戦後日本左派運動は、2.1ゼネストを始め何度かの政権取り機会を得ていたがその都度GHQ権力に潰された。そういうこともあって、最終的に磐石の態勢を構築して責任政党となったのは保守系大連合により生まれた自民党であった。これに戦前来の天皇制官僚及び財界が列なり、強固な保守系資本主義体制系与党権力が創出された。この政府自民党が、戦後復興からその後の経済成長へ向けての切り盛りに成功していくことになる。

 戦後左派運動は、この政府自民党の評価に於いても致命的な過ちを犯す。政府自民党は実際のところ、これを弁証法的に観れば、戦後日本の最大矛盾即ち憲法秩序派と日米安保秩序派を同居させ混交させた上に成立していた。自民党は、戦後憲法秩序派のハト派と日米安保派のタカ派との合従連衡によるやじろべえ式政治を本質としていた。それは見事なまでに日本的カオス式和合政治であった。

 戦後左派運動は、政府自民党内の抗争軸を観ずに、これを保守反動権力として一色で規定し、対蹠的に手前達を革新ないしは革命派と映し出す漫画的構図を図式化させた。それは余りにも手前勝手な好都合理論以外の何物でもなかった。この悪作法は今日まで新旧左翼問わず続いているように見える。

 しかしながら、れんだいこの研究によるマルクス主義手引き教本「共産主義者の宣言」には、そのような漫画的公式は強く戒められている。ということは、マルクス主義が「共産主義者の宣言」から始まったことを思えば、戦後左派運動は初手に続いて悪手を打ち続けていることになる。

 さて、ここで第一次ブントに登場して貰う。第一次ブントが創設され、60年安保闘争に向った時期は折悪しくというべきか折りよくというべきか、政府自民党にあってタカ派系岸派が政権を担当していた。岸派の史的意義は、それまでのハト派系吉田派との熾烈な抗争を通じて戦後初めてタカ派が政権奪取したことにある。しかし、このことは党内に吉田を後継した池田派と佐藤派という二大ハト派系派閥を抱えており、岸政権は彼らと暗闘裡で政権運営していたことになる。つまり、政治手法は強引であったにせよ、政権基盤はかなり弱いものであったことになる。

 第一次ブントは、その闘いを、たまさか岸政権時代に花開かせることになった。それは誠に歴史の不思議な廻りあわせであった。そして、60年安保闘争を殊のほか成功裏に領導したことにより岸政権を打倒せしめた。かくて、戦後初のタカ派政権は、ブントの闘いの前に万事休して、政権をハト派系池田派へ禅譲させた。

 これにより、政府自民党は再び吉田派の後継者に牛耳られることになり、以来ハト派の治世が長期安定化し、1960年より池田ー佐藤ー田中まで15年余続くことになる。角栄後はタカハトが紆余曲折するが、ハト派は最終的に大平ー鈴木まで続く。その間都合20年余をハト派が主導していくことになった。岸に続くタカ派の登場は1980年代の中曽根政権の誕生まで待たねばならず、その間雌伏させられることになった。

 第一次ブントの闘いは、彼らが意図したか自覚していたかはともかくとして、政府与党自民党権力内のこうしたタカ派とハト派の暗闘に容喙し、タカ派を引き摺り下ろし、ハト派を後押しする政治的役割を果たしたことになる。れんだいこ史観によれば、第一次ブントの闘いの歴史的政治的意義はここにこそ認められる。これが云いたいがためにここまで順序を追って概述した。

 興味深いことに、第一次ブントの当事者でこの事を自覚していた者は稀有なようである。第一次ブントの指導者・島ー生田ラインにもこの観点はなかったのではなかろうか。れんだいこには、観点のこの方面の喪失が60年安保闘争の意義を喪失せしめ、後の第一次ブントの解体と更なる混迷に繋がったように思われる。もっとも、戦後秩序プレ社会主義論抜きにはそのようには総括できず、それを欠いていたブントが運動成果を確認できなかったのも致し方なかったのかも知れない。

 ちなみに、タカ派支配からハト派支配へと転換させたのが第一次ブントなら、その逆にハト派支配からタカ派支配へと転換させたのがロッキード事件ではなかったか。ロッキード事件はそういう歴史的政治的地位を占める。通りで、その煽りが真反対から為されているにも拘わらずジャーナリズムの喧騒の程度も匹敵している。

 問題は次のことにある。第一次ブントは奇しくも、日本の戦後政治に於ける真の抗争軸であるハト派対タカ派抗争に対し、タカ派掣肘に大きな役割を果たした。第一次ブントは奇しくも、タカ派の能力者・岸を打倒することにより戦後憲法秩序を擁護する役割を果たした。つまり、戦後のプレ社会主義秩序を擁護し、その解体屋を葬った。当人たちが口先で語ることなく、否全く意識せぬまま体制打倒運動を呼号していたとしても、客観的役割はかくの通りのものであり、れんだいこはその感性や良しとしている。

 なんとならば、戦後憲法秩序は何を隠そう、社会主義圏のエセ社会主義と比較して比べ物にならないプレ世界史上初の社会主義秩序であり、それは護持されるに価のあるものである。それを感性で護持した第一次ブント運動は世に云う天晴れなものではなかったか。れんだいこはかく評している。しかるに、第一次ブント運動評者は当事者まで含めて今日まで、この視点を欠いたまま極力思弁的に語り過ぎているように思われる。れんだいこは、この種のブント論は学ぶけれども受け入れない。というか難解過ぎて理解できない。

 最後に。今は全く逆に、米帝国主義を裏で操る真の磁力体ネオシオニズム、その表出体・米英ユ同盟に客観的に有利に作用させる売国奴系ポチ運動がもてはやされている。時代はかく変遷してきたことになる。この観点は、小ネズミの余りにも露骨な反角栄政治を理解するところから生まれた。小ネズミは、明らかにネオシオニズム、その表出体・米英ユ同盟に教唆され、日本解体計画に手を染めている。

 小ネズミの日本解体計画に援交しているのは今や跋扈しつつあるシオニスタンであり、同マスコミであり、同自称知識人であり、同サヨである。5年有余にわたる小ネズミ政権の史的意義は、このことをくっきりさせることにあったのではなかろうか。れんだいこは今そういう意味で、小ネズミ政権を反面教師的に照射している。かく構図が見えたなら、我々が為さねばならないことも見えてくる。まさに禍福あざなえる縄の如しと云うべきではなかろうか。

 2006.6.1日 れんだいこ拝

【「6.15デモ」】
 2006.6.15日、元全学連メンバーを代表とする約200名が、高まる改憲論議に「死んでも死にきれない」と再結集し、「9条改憲を阻止するぞ」「平和主義を葬るな」と、雨の中、声を張り上げ、60年安保闘争以来46年ぶりの国会デモを敢行した。警官隊との衝突で東京大学文学部生だった樺美智子さん(当時22歳)が亡くなった国会南通用門に到着すると、代表6人が献花し、手を合わせて樺さんの冥福を祈った。




(私論.私見)