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アジアでの民族独立運動との絡みについて |
黄文雄氏の「捏造された日本史」には次のように書かれている。「欧米中心の世界秩序は日本の介入を許さなかったのである。日本がアジアから白人を追い出し、日本の国益を確保するには、アメリカと対決するしかなかった。日米決戦(太平洋戦争)は日清、日露戦争と同じようにもともと無理な戦争だった。しかし、日米戦争は、日露戦争と同じようにアジア諸民族に大きなインパクトを与え、東亜の諸民族を覚醒させ、ナショナリズムを形成させたのである。数百年にわたる西洋植民地体制が日本側の一撃でもろくも崩壊したのである。アジア諸民族からすれば、神にも近い位置に君臨していた白人が、遂に負けたのである。シンガポールが陥落したとき、イギリスに亡命していたド・ゴールも、『アジアの白人帝国、西洋植民地体制が終焉した』と日記に書き記したほどだ。 日本の敗戦後、イギリス、アメリカ、フランス、オランダは再び東南アジアに舞い戻ってきたが、時代は既に変化していた。かって支配下に置かれていた有色人種はいつの間にか変わっていたのである。日本軍によって編成され、訓練された独自の軍隊が東南アジア各地にあり、しかも人々はナショナリズムに燃えていた。再来した欧米の支配者にはもう押さえる力が無かった」。 小室直樹氏の「日本の敗因」では次のように述べられている。「大東亜戦争は、アジア解放戦争である。何よりの証拠に、戦後、帝国主義諸国の植民地が次々と独立した。大東亜戦争の結果、国際法ががらりと変わった。戦前には、被保護国、属国、植民地などが国際法上、認められていた。治外法権を課せられた国や関税自主権がない国、主権を持たない国もあったし、半独立国、半主権国もあった。つまり、大東亜戦争までは、世界は帝国主義の時代が長らく続いたのである。戦後直ちに、それら旧来の制度を一掃する動きが始まった。植民地は続々と独立した。全ての国は主権を持つ独立国であるという大原則が確立されたのである。第二次世界大戦には世界中に広がっていた植民地は、たちまち、ほとんど全部が消滅した。この事実を高く評価するアジア、アフリカの人は多い。それどころか、侵略側である欧米の国債法学者もこの事実を否定できない」。 この両者の云うように大東亜戦争の歴史的(文明的と云うべきかも)功績として「植民地各国の民族解放闘争に生命力を与えた」ことは、史実として見直されるべきではなかろうか。戦後日本左派・サヨに共通する観点として意識的にここを見ようとしない癖があるように思われる。その遠因として、「南京大虐殺事件」以来、日本軍鬼による虐殺自虐観に冒されており、日本軍の出没するところどこにでもアナーキーな蛮行があったと認識しているように思われる。れんだいこは、それは悪しき政治主義的プロパガンダであり、一時の不戦思想を醸成するに都合よくても実践的には役立たない観点として排斥したい。あくまで史実をどう読み取るべきかが肝要であり、その現場から教訓が生み出されるべきではなかろうか。 ここは大事な観点であるが゛、右派系論調がこれを認め、サヨ・左派系がノーコメントという変調のまま今日まで至っている。以下見ておくことにする。(れんだいこコメント)は追って付ける。 |
仏印(現・ベトナム) |
昭和19・3月に日本軍が進駐し、フランス軍を武装解除。前アンナン皇帝であるバオダイ帝を擁して独立宣言。
ビルマ(現・ミャンマー) |
独立運動家バー・モアを中心にして1942年に行政府を成立させ、43.8月にラングーンで独立式典を執り行った。
フィリピン |
1943.10月に、ホセ・ラウレルを大統領としてフィリピン共和国を樹立。
フィリピンは結構対日感情悪い方なんですが、それでも「日本の戦争責任」なんてアホなことは一言も言っていない。
インドネシア |
アラムシャ第三副首相は次のように述べている。 「日本軍政時代の3年半については、オランダ、チャイナ、アメリカなど、戦勝国の学者や、欧米に留学して日本が嫌いになった人々は、悪い面ばかりを誇大にあげつらっている。しかしそれでは全体を語ったことにはならない」。
タイ |
ククリット・プラモード元首相は「日本は独立の母である」と感謝した。「日本のおかげでアジア諸国はすべて独立した。日本というお母さんは難産して母胎をそこなったが、生まれた子供はすくすくと育っている。こんにち東南アジア諸国民が、米・英と対等に話ができるのはいったい誰のお陰であるのか。それは身を殺して仁をなした日本というお母さんがあったためである。12月8日は我々にこの重大な思想を示してくれたお母さんが一身を賭して、重大決心をされた日である。我々はこの日を忘れてはならない」云々。
インド |
1943.12月に、インド独立運動の指導者スバス・チャンドラ・ボースがシンガポールに自由インド臨時政府を設立。
●杉並区の蓮光寺に眠り続けるボースの遺骨
8月15日。この日が近づくと毎年、日本人は総懺悔する。3年9カ月のわたった戦争は日本人だけでなくアジア人にも忘れさせることのできない悲痛な思いを想起させる。筆者は毎年8月18日には、東京都杉並区にある蓮光寺に参拝してきた。インド独立の父の一人であるスバス・チャンドラ・ボースの遺骨が54年間、異境で眠り続けているからだ。
チャンドラ・ボースはガンディー、ネルーに次ぐ巨頭だった。インド国民会議派の議長を務めていた1938年、ガンディーの方針に背いたことから議長職を解任され、独自にフォワード・ブロックをつくった。急進的なインド即時独立論者として英国から最も危険視された。41年、英国による軟禁状態から脱出、ドイツに逃れ、やがてシンガポールに現れる。そしてインドの武力解放を目指して"同盟軍"としてインパール作戦に参戦する。終戦直後、ボースはソ連への亡命の途上、台北市上空で航空機事故のため死去。遺骨は蓮光寺に仮埋葬されたままなのである。
●インド人将兵の勝利だったシンガポール陥落
第二次大戦中、杉原千畝領事代理がビザを大量発行してユダヤ人救出したことが後世、評価された。同じようにインドのカルカッタやパキスタンのパンジャブ地方に行ってインド国民軍(Indian
National Army=INA)やチャンドラ・ボースのことを話題にすれば、日本人はどこでも歓迎されるはずだ。日本ではほとんど知られていない故藤原岩一氏は、インド独立の父として「メジャー・フジワラ」(藤原少佐)の名でいまでも語り継がれている。いまやだれも語らなくなった太平洋戦争の秘史の部分といってもいい。
第二次大戦の緒戦、マレー半島のジャングルで「F」のマークの腕章を付けた一群の日本人とインド人の姿があった。F機関といった。軍服はきているものの火器は携帯しなかった。機関長、藤原少佐の主義だった。彼らの目的は、開戦と同時にマレーのジャングル奥深く潜行、英印軍内のインド将兵を寝返らせることだった。英印軍が火力と兵力で圧倒していたにもかかわらず、日本のマレー進行作戦が電撃的に成功したのは、ひとえに英印軍内インド将兵が次々と投降したからである。英国から見ればインド人中心の部隊編成だったことが敗因である。ここのところを間違えてはいけない。婉曲にいえば、マレー作戦はインド人将兵の勝利だった。
1942年2月15日のシンガポール陥落後、投降したインド人将兵は5万にも上っていた。10人足らずのF機関がたった2カ月でインド人将兵の心をたくみつかんだ。戦争用語でいえば「謀略」に成功したことになる。F機関は彼らに「インド独立」を約束した。参謀本部はまったく違う思惑を持っていたが、インド人将兵は現場レベルの約束を信じた。それまで大英帝国を守る忠実な番犬だった英印軍は「インド国民軍」に再編成された。インドにはガンジーやネルーが20年以上にわたって反英闘争を続けていたが、ついに軍事組織を持つにいたらなかった。東南アジア在住100万人のインド人は、逆にインド国民軍の創設を積極的に協力、多くの私財を提供した。
●インド国民軍裁判が英国に迫ったインド放棄
モハン・シン大佐がその再編成の役割を担った。インド国民軍創設の目的はただひとつ、「インド独立」だけだった。英印軍による180度の転身だった。1年後、ベルリンからスバス・チャンドラ・ボースを招いてインド国民軍はさらにインド解放を目指す実践部隊に生まれ変わる。彼らの合い言葉は「チェロ・デリー」(デリーへ)だった。米英はインド国民軍を日本軍の傀儡とみた。インパール作戦は前線で指揮した牟田口廉也中将の発案でインドから重慶への援蒋ルートを断ち切るのが目的だったが、ボースの念頭にはインド独立しかなかった。
戦後、英国政府が真っ先にしたことはインド国民軍将兵を「反逆罪」で裁くことだった。デリーのレッド・フォートがその法廷となった。戦争中はボースに冷淡だったインド国民会議派は、インド国民軍を愛国者として迎え、デサイ博士を筆頭とする弁護団をレッド・フォートに送り込んだ。弁護団は「隷属される民族は戦う権利がある」という主張を貫いた。
この動きに全インドがハイタル(ゼネスト)で応えた。ボンベイ(現ムンバイ)にあった英印海軍の艦船は一斉にボンベイ市内に大砲の筒を向けて反英の意志を露わにした。全インドが初めて英国に牙をむき、レッド・フォートを包囲した。反英闘争はかつてない高まりをみせ、裁判を有利に導いた。起訴されたインド国民軍将兵は有罪となったものの、「刑の無期執行停止」を勝ち取った。英国は当初、戦後もインド植民地支配を続けるつもりだったが、インド国民軍裁判でインド放棄を決断した。1946年1月のことである。
ここらの経緯は日本の教科書には一切書かれていない。カルカッタやパンジャブ地方の人々には「チャンドラ・ボースは死してインド独立を勝ち取った」という思いがある。カルカッタはボースの故郷であり、パンジャブ地方はインド国民軍将兵を多く生んだシーク族の故郷である。
チャンドラ・ボースの遺骨が蓮光寺からインドに移されない経緯は複雑だ。戦後、ボースの遺骨を守り続けた林正夫氏の手記に譲りたい。林氏の手記(萬晩報主宰 「伴 武澄」著書より抜粋)
1957.5月岸信介首相がインドを訪ねた時のネール首相の歓迎挨拶の時の一節。「私の若いときに日露戦争というのがあった。その頃、東洋人は西洋人に敵わないというのが普遍的な考え方だった。況や大国と小さな島国が戦うなら、負けるのが当たり前だ。ところが勝っちゃった。これが私の一生を決定した。東洋人の私は、それまでイギリスにはかなわんと思っていたが、独立させようと一生を捧げることになったんだ云々」(2003.1.4日毎日新聞、岩見隆夫「近聞遠見」より。若干文意を踏まえて改訂している)。
マレーシア |
マラッカに国立の独立宣言記念館に展示してある「Japanese
Occupation in Malaysia 1941-1945」という文書がある。そこにマレーシアという国の日本に対する基本姿勢に表現しがたい熱いものを感じた。観光でマラッカを訪れた人は多いと思うが、この文書を目にした人はまだ少ないと思う。
●列強のほとんどが足跡を残したマラッカ
マラッカはマレーシアの独立運動の発祥地である。ポルトガル、オランダ、中国、イギリス、そして日本。この町にはアジアを支配した国々のほとんどの足跡がある。明の時代にやってきた中国人は土着化し、イギリス人は2度やってきた。イギリスはナポレオン戦争でオランダが占領されたどさくさ時から、オランダ領マラッカを事実上支配した。戦後の1825 年、英蘭による条約で東南アジアを2国で分割統治する約束をした。ジャワにあった英領の植民地と引き替えにマラヤ半島の要衝を手中に収めた。ボルネオ島のど真ん中に国境が引かれたのもその時である。
イギリスはペナンの開発に着手し、シンガポールという新たな半島の拠点もあり、以降、貿易拠点としてのマラッカはあまり意味があったとはいえない。だが、その後のスズ鉱山経営という観点からみれば、クアラルンプールへの出入り口を抑えた経済効果は小さくなかった。
●4年後に戻ったイギリスが感じた違うマラヤ
マラヤ人にとってイギリスによる百数十年の支配が植民地のすべてだった。そこへ1941年疾風のごとく「北からの黄色い支配者」がやってきて、4年後には再びイギリスが戻ってきた。マラヤ人にとっての第二次世界大戦はマレー半島を舞台にした日英の衝突だった。どちらもがマレー半島の支配者だった。違うのは日本が統治した時間が圧倒的に短かったため、破壊のみで建設する時間がなかったことだ。日本軍政が終了した後、イギリスもまた軍政を敷いた。合点がいかないのは、人様の領土を踏みにじった歴史はどちらも誉められたものではないはずなのに、戦後は日本が悪でイギリスが善となった。
一つだけ言えるのは、日本がマレー半島を手にするのに血が流れ、イギリスがそれを取り戻すのに血を流す必要がなかったことだ。太平洋で日本がアメリカに敗れたため、棚からぼた餅で元の領土が戻ってきたのだ。イギリスにとっての不幸は、マラヤ人が4年前の従順なマラヤ人でなくなっていたことだった。チャーチル首相がヤルタ会談で「インドはイギリスのものである」と断言したように、シンガポールを含めたマレー半島の海峡植民地は再びイギリスに富をもたらす土地となるはずであった。だが「invinsible=絶対不敗」だったイギリスが日本に敗れる様を見た後のマラヤ人はもはや元と同じような目でイギリス人を仰ぎ見ることはなかった。
筆者は、以前から「国家機能」のひとつに「歴史編纂」という大事業があると考えてきた。これまでアジアのほとんどの国は西洋の歴史観ををそのまま導入して自らの歴史編纂を怠ってきたのではないかという問題意識を持ってきた。どうやら戦後50年以上を経て、マレーシアで新しい歴史観が芽生えているようだ。マラッカにある国立独立宣言記念館の文書を翻訳して以下に掲載する。
●マレーシアにおける日本占領 1941-1945
1941年12月8日、第二次世界大戦で日本軍がコタバルに上陸作戦を敢行した時、マラヤもまた影響を受けたが、イギリス軍が残したものは跡形もなく破壊された。戦艦プリンス・オブ・ウェールズとリパルズが撃沈されたことは強さを誇ったイギリスの軍紀に大きな痛手を与えました。
1942年2月15日、パーシバル将軍に率いられたイギリスが正式に日本軍に降伏し、アジアの国による新たな植民地化が始まりました。日本軍の占領によってマラヤは社会的、経済的な被害を受けましたが、政治的に言えばマラヤ人々にとって覚醒ともいえるものでした。マラヤ人はイギリスは無敵の存在と考えてましたが、そうではないことが分かったのです。言い換えれば、日本の成功が西洋列強からの独立の精神を呼び覚ましたということもできます。
(略)日本の占領が多くの人々に経済的苦しみを与えたことも事実ですが、彼らの登場と成功によってアジア人に自らの自覚が生まれました。アジア人たちは西洋人に対する自信を取り戻し、偶像化することも少なくなりました。日本の力が増し、日本の影響力が強まることで、マラヤ人の独立に向けた闘争は早められましたのです
1946年2月22日、クアラルンプールのビクトリア協会(?)での降伏の儀式で、板垣将軍はマラヤの司令官となったマサヴィー中将に刀を捧げ、ほかの幹部たちも続きました。
日本による軍政が経済的社会的な苦難を伴ったことは確かですが、その軍政がある意味ではマラヤ人に劇的な政治変化をもたらしました。日本がたった70日という短い期間でイギリスを打ち負かしたことを見たマラヤの民族主義者たちにイギリス植民地主義は無敵でないことを植え付けました。日本は負けましたが、日本の占領はマラヤ独立闘争を続ける火種を植え付けたのです。(国立マラッカ独立宣言記念館)
ラジャー・ダト・ノンチック元上院議員は次のように述べている。
この国に来られた日本のある学校の先生は「日本軍はマレー人を虐殺したに違いない。その事実を調べに来たのだ」と言っていました。私は驚きました。「日本軍はマレー人を一人も殺していません。」と私は答えてやりました。日本軍が殺したのは、戦闘で闘った英軍や、その英軍に協力したチャイナ系の抗日ゲリラだけでした。
パール博士 |
ラダ・ビノード・パル極東国際軍事裁判判事ラダビノード・パール(1886〜1967年)判事とはいうまでもなく極東国際軍事裁判(俗称・東京裁判)のインド代表判事ラダビノード・パール博士のことである。この裁判で11人の判事のうちただ一人、被告全員無罪の判決(少数意見)を下した判事である。博士は東京裁判の約2年半の期間、帝国ホテルの一室に閉じこっもたまま、他の判事や検事が休日ごとにドライブやパーティーを楽しんでいる時、博士は自宅からあるいは弟子や知友に依頼して参考文献を取りよせ、もっぱら読書と思索にふけられた。その読書は三千巻にも及んだといわれる。
東京裁判(1946〜1948年)で、日本は満州事変(1931年)から盧溝橋事件(1937年)を経て日中戦争に突入し、日米開戦(1941年)、そして終戦に到るまでのプロセスを「侵略戦争」と判定され、この「侵略戦争」を計画し、準備し、開始し、遂行したことは、「平和に対する罪」に当たるとして東條英機ら7人の絞首刑が遂行された。
パール判事は、この東京裁判で日本が国際法に照らして無罪であることを終始主張し続けてくれたインド人判事である。田中正明著『パール博士の日本無罪論』によれば、同判事は、日本の教科書が東京裁判史観に立って「日本は侵略の暴挙を犯した」、「欧米諸国は日本が侵略戦争を行ったということを歴史にとどめることによって、自分らのアジア侵略の正当性を誇示する目的であったにちがいない。日本の子弟がゆがめられた罪悪感を背負って、卑屈、退廃に流れていくのを、私は平然と見過ごす訳にはゆかない。誤られた彼らの宣伝を払拭せよ。誤られた歴史は書き換えられなければならない」とまでいって励ましてくれたのである。
このパール判事の冷静かつ公平な歴史感と人権に感服し、義兄弟の契りまで結んだ平凡社創設者下中弥三郎は、世界連邦アジア会議を開催してそのゲストとしてパール博士を招致した。その没後二人を記念する建設委員会によって創設されたのが、箱根町の丘の上にあるパール記念館である。正式には「パール下中記念館」と呼ばれている。
秘密保持の念書を入れて清瀬、伊藤両弁護士より和訳タイプしたパール判決書を借用した。原稿用紙にして二千二百枚、九十万語にも及ぶ長文である。多数判決−清瀬弁護士の言う六人組判決(米、英、ソ、中、カナダ、ニュージランド)−の6ヶ国の判事の判決文よりも、パール判事一人の意見書(判決)の方が浩翰な法理論の展開をしている。
ついでながら東京裁判は、法律なき裁判ゆえ、その判決も六つに分かれた。前記六人組の多数判決のほかに、五人組がそれぞれ別の意見書(判決)を出している。
レーリング判事 | オランダ | 「廣田弘毅元首相は無罪、他の死刑も減刑せよ。ドイツのナチスの処刑に比して重すぎる」。 |
ベルナール判事 | フランス | 「この裁判は法の適用および法手続きにおいてもあやまりがある。とし、「11人の判事が一堂に集まって協議したことは一度もない」と内部告発までしている。 |
ウエッブ裁判長 | オーストラリア | 六人組からのけ者扱いにされ、量刑について別の意見書を出している。 |
ハラニーヨ判事 | フィリピン | 量刑が軽すぎるとしている。 |
パール判事 | インド | 全員無罪、無罪というよりこの裁判は裁判にあらず「復讐の儀式に過ぎない」として根底から否定する意見書である。 |
ザリヤノフ判事 | ソ連 | |
梅汝*判事 | 中国 | |
欧米先進国では少数意見は必ず発表されることになっており、東京裁判所条例も少数意見は公表すると明記していたが、時間がないことを理由に発表を禁止した。当時GHQによって言論統制を受けていた日本の新聞はただ数行「インドの判事が異色の意見書を提示した」と発表したに過ぎない。かくして、ついにパール判決書は日の目を見ることなく葬り去られてしまったのである。
ついでながら、オーストラリアのウエッブ判事とフィリピンのハラニーヨ判事は、法廷にもち出された事件に前もって関係していた判事で不適格、必要な言葉すなわち協定用語である英語と日本語がわからないソ連のザリヤノフ判事とフランスのベルナール判事、また本来裁判官でない中国の梅汝*判事の五名の判事は不適格判事であった。国際法で学位をとった判事はパール博士一人のみである。
パール判決書はニューヨーク・タイムズやロンドン・タイムズなどでは大々的に報道され、米英の法曹界ではパール旋風が巻き起こっていることを氏は承知していたのである。しかしこれを日本で出版しようとすると壁にぶちあたった。「田中さん、残念ながらこの本はマッカーサーの占領中は絶対に出版できません。内々調べてみたが、出版すればあなたも僕も即刻逮捕された上、発売禁止です。占領が解かれ、日本に主権が回復する日まで待つより外ありません。それまではお互いに秘密厳守で、潜行して作業を進めることです。」
占領軍はポツダム宣言に違反して、物凄くきびしい言論統制を行っていた。表現活動で厳禁した三十項目の第一の禁止事項は、占領軍総司令部(マッカーサー)の批判、第二が東京裁判の批判、第三が新憲法、第四が検閲制度への言及・・・等々、三十項目である。この内、東京裁判の批判は第二の禁止事項なのである。
パール博士の全員無罪の判決文は、東京裁判批判の最大最高の、しかも権威ある法理論による批判である。占領下にこんなものを出版したら、それこそ首がいくつあっても足りないほどの処罰を受けるのは当然で、鶴見先生はすでにこれを承知していたのである。
そこで日本が独立を回復する日、すなわち昭和27年4月28日を期した。それまでは内密に印刷し、製本し28日に全国一斉に書店で発売した。これが太平洋出版社発行の『パール博士述・真理の裁き・日本無罪論』である。この本の新刊紹介は各新聞に取りあげられ、大変な反響を呼び、ベストセラーズになった。パール博士の名が広く日本人に知れわたったのは、この著述によってである。
その年(昭和27年)の11月、原爆の地広島で「世界連邦アジア会議」が開催されることになっていたが、そのゲストとして、アジア会議の実行委員長であった下中先生が私費をもって博士をお招きすることになったのである。先生は博士の歓迎委員会も組織され、その代表者にもなられた。
博士は10月26日に来日された。東京では法政、明治、早稲田、日大など各大学のほか日比谷公会堂でも講演された。さらに京都、大阪、神戸で講演されて広島の『世界連邦アジア会議』に臨まれた。さらに博士は福岡で頭山満翁の墓に詣でられ、九大でも講演された。帰郷後も中村屋ビハリ・ボースさんの墓や、熱海の興亜観音にも参詣された。・・・この一ヵ月余にわたる全国遊説に下中先生、中谷武世先生、そしてわたくしと通訳のA・Mナイル君の四人が終始同行した。
東條元首相以下7人(東條英機、土肥原賢二、廣田弘毅、板垣征四郎、木村兵太郎、松井岩根、武藤章)が処刑されたのは12月23日(今上天皇の誕生日)であった。つまり東京裁判は昭和天皇の誕生日に起訴し、当時皇太子であられた今上天皇の誕生日を期して処断したのである。この一事をもってしても、いかに執念深い復讐のための裁判だったかがわかろう。
だが、東京裁判が終わって2年後の昭和25年10月15日マッカーサーはウェーキ島においてトルーマン大統領に「東京裁判は誤りであった」旨を告白して、すでにこの裁判の失敗を認めている。その翌年の5月3日、アメリカ上院の軍事外交合同委員会の聴聞会で「日本が第二次大戦に赴いた目的は、そのほとんどが安全保障のためであった」と、東京裁判で裁いた日本の侵略戦争論を全面的に否定しているのである。
のちに、「この裁判の原告は文明である」と大見得を切ったキーナン主席検事も、あの傲慢なウエッブ裁判長も、この裁判は法に準拠しない間違った裁判であったことを認める発言をしている。現在名ある世界の国際法学者で、東京裁判をまともに認める学者など一人もいない。パール判事の立論こそが正論であるとし、パールの名声は国際的に高まった。
1953年、パール博士はジュネーブにある国際司法委員会の議長の要職に推挙された。1960年にはインド最高の栄誉賞であるPADHMA・RRI勲章を授与された。同時にインド国際法学会の会長に就任され、のち世界連邦カルカッタ協会長にも就任した。1967年1月10日カルカッタの自邸において多彩な生涯を終えられた。死の前年、すなわち昭和41年(1966)10月、パール博士は清瀬一郎、岸信介両氏の招きに応じて四たび来日され、天皇陛下から勲一等瑞宝章の受賞の栄誉に浴されたのである。
「真理喪失」と「日本回帰」
羽田空港に降り立った博士は、出迎えの一人一人と握手して、待ちかまえた記者団の会見室に臨んだ。博士は開口一番こういわれた。「この度の極東国際軍事裁判の最大の犠牲は《法の真理》である。われわれはこの《法の真理》を奪い返さねばならぬ。」これが上陸第一歩、博士の唇をついて出た言葉であった。
「たとえばいま朝鮮戦争で細菌戦がやかましい問題となり、中国はこれを提訴している。しかし東京裁判において法の真理を蹂躙してしまったために《中立裁判》は開けず、国際法違反であるこの細菌戦ひとつ裁くことさえできないではないか。捕虜送還問題しかり、戦犯釈放問題しかりである。幾十万人の人権と生命にかかわる重大問題が、国際法の正義と真理にのっとって裁くことができないとはどうしたことか。
「戦争が犯罪であるというなら、いま朝鮮で戦っている将軍をはじめ、トルーマン、スターリン、李承晩、金日成、毛沢東にいたるまで、戦争犯罪人として裁くべきである。戦争が犯罪でないというなら、なぜ日本とドイツの指導者のみを裁いたのか。勝ったがゆえに正義で、負けたがゆえに罪悪であるというなら、もはやそこには正義も法律も真理もない。力による暴力の優劣だけがすべてを決定する社会に、信頼も平和もあろう筈がない。われわれは何よりもまず、この失われた《法の真理》を奪い返さねばならぬ。」
博士はさらに言葉を改めて、「今後も世界に戦争は絶えることはないであろう。しかして、そのたびに国際法は幣履のごとく破られるであろう。だが、爾今、国際軍事裁判は開かれることなく、世界は国際的無法社会に突入する。その責任はニュルンベルクと東京で開いた連合国の国際法を無視した復讐裁判の結果であることをわれわれは忘れてはならない。」と、語調を強めて語られた。
それから今まで約半世紀、米国のベトナム戦争、アフガニスタンへのソ連の侵略戦争、4回にわたるイスラエルによるアラブ侵略戦争、イラン・イラク戦争、さきの湾岸戦争等々、世界に戦争は絶えない。だがパール博士の予言通り、国際軍事裁判はおろか、国連において侵略の定義がようやく合意を見たのは、実に東京裁判から26年後の1974年である。つまり東京裁判は、侵略とは何かということが判らないままに、日本は侵略したとして処断されたのである。
記者団の、サンフランシスコ条約と日本独立の印象についての質問に対し、博士はこう答えている。「日本は独立したといっているが、これは独立でも何でもない。しいて独立という言葉を使いたければ、半独立といったらいい。いまだにアメリカから与えられた憲法の許で、日米安保条約に依存し、東京裁判史観という歪められた自虐史観や、アメリカナイズされたものの見方や考え方が少しも直っていない。日本人よ、日本に帰れ!とわたくしはいいたい。」 これがパール博士の東京裁判と独立後の日本に対する印象の第一声であった。
帝国ホテルにおいて『パール博士歓迎委員会』主催の歓迎レセプションが開かれた。この席上、ある弁護士が「わが国に対するパール博士の御同情ある判決に対して、深甚なる感謝の意を表したい。」という意味で謝辞を述べた。すかさず博士は発言を求めて起ちあがり、「わたくしが日本に同情ある判決を下したというのは大きな誤解である。わたくしは日本の同情者として判決したのでもなく、またこれを裁いた欧米等の反対者として裁定を下したのでもない。真実を真実として認め、法の真理を適用したまでである。それ以上のものでも、それ以下のものでもない。誤解しないでいただきたい。」と述べられた。 この博士の高い見識に、列席者一同は益々畏敬の念を深くした。
博士はこの席上でも、また東京、大阪の弁護士協会や広島高裁での講演においても、日本の法曹界はじめマスコミも評論家も、なぜ東京裁判やアジア各地で執行された戦犯裁判の不法、不当性に対して沈黙しているのか。占領下にあってやむを得ないとしても、主権を回復し独立した以上この問題を俎上にのせてなぜ堂々と論争しないのか、と問題を提起し、奮起を促した。
博士によれば、「いまや英・米・仏・独など世界の法学者の間で、東京とニュルンベルクの軍事裁判が、果して正当か否かという激しい論争や反省が展開されている。げんに英国法曹界の長老ロード・ハンキーは<パール判事の無罪論こそ正論である>として『戦犯裁判の錯誤』と題する著書まで出版している。しかるに直接の被害国であり、げんに同胞が戦犯として牢獄に苦悶している日本においてこの重大な国際問題のソッポに向いているのはどうしたことか。なぜ進んでこの論争に加わらないのか。なぜ堂々と国際正義を樹立しようとしないのか・・・」と憤慨されるのである。
博士は日本に来てみて、日本の評論家やジャーナリストや法律家が、東京裁判に対する本質的な論争、ないしは戦犯の法的根拠、東京裁判で裁いた「平和に対する罪」「人道に対する罪」が国際法とどう関連するのか、日本に侵略的意図があったかなかったか・・・。そうした問題について、あまりにも無関心、もしくは不勉強であると同時に、義憤さえ覚えられたらしい。その義憤は日本人の真理探究、マハトマ・ガンジーのいう《真理把持》の精神に欠けている点に対してである。長いものにはまかれろ、強いものには屈服せよという事大主義のしみったれた根性に対する義憤である。
博士によると「日本の外務省は、わざわざごていねいに英文パンフレットまで出して、日本の《罪悪》を謝罪し、極東軍事裁判(東京裁判)の御礼まで述べている。東洋的謙譲の美徳もここまでくると情けなくなる。なぜ正しいことは正しいといえないのか、間違っていることをどうして間違っていると指摘できないのか。」と、博士は嘆かれるのである。
パール博士は、広島の爆心地本川小学校講堂で開かれた世界連邦アジア会議にゲストとして参加された。この会議は独立したばかりの新興アジア諸国の指導者を交えた14カ国、45名の代表と千余名の世連主義者によって構成された。壇上には連邦旗を中心に左右に「人類共栄」「戦争絶滅」のスローガンをかかげ、馬蹄形の議事場には14カ国の代表と正面に下中大会委員長、特別来賓のパール博士と英国のボイド・オア卿(ノーベル平和賞受賞者)が着席した。
博士は45分間にわたる特別講演をおこなった。この講演は、アジア会議の性格を規定する重大な意義をもつものとして注目された。
「人種問題、民族問題が未解決である間は、世界連邦は空念仏である。」と前提して博士はこう述べられた。
「広島、長崎に投下された原爆の口実は何であったか。日本は投下される何の理由があったか。当時すでに日本はソ連を通じて降伏の意思表示していたではないか。それにもかかわらず、この残虐な爆弾を《実験》として広島に投下した。同じ白人同士のドイツにではなくて日本にである。そこに人種的偏見はなかったか。しかもこの惨劇については、いまだ彼らの口から懺悔の言葉を聞いていない。彼らの手はまだ清められていない。こんな状態でどうして彼らと平和を語ることができるか。」
白人代表を目の前にしての痛烈な民族・人種問題についてのこの講演は、会議の性格を一変したといっていい。この博士の講演に引き続き無残にも悪魔のツメアトも生々しい4名の原爆乙女が壇上に立った。ケロイドで引きつった顔に黒眼鏡をかけた佐古美智子さん(当時20才)が、「わたしたちは、過去7年の間原爆症のために苦しんできましたが、おそらくこの十字架はなほ長く続くと思われます。しかし、わたしたちは誰をも恨み、憎んではいません。ただ、わたしたちの率直な願いは、再びこんな悲劇が世界の何処にも起こらないようにということです・・・。」と、涙にふるえながらメッセージを読みあげれば、会場は感動のルツボと化し、嵐のような拍手が鳴りやまなかった。感極まった比島代表のアンヘルス氏が原爆犠牲者に一分の黙祷を提案した。一同起立して、黙祷を捧げた。米代表のマックローリン夫人が「わたしはアメリカ人としてこの原爆に責任を感じています。この悲劇がふたたび起こらないよう生涯を通して原爆阻止運動に献身します。」と誓いの言葉を述べた。そして乙女たちの一人一人を抱いて頬に感激のキスをおくった。博士によればこれこそアメリカ人にして《原爆の懺悔》をした最初の人であった。
11月5日、博士は原爆慰霊碑に献花して黙祷を捧げた。その碑に刻まれた文字に目を止められ通訳のナイル君に何がかいてあるかと聴かれた。『安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませぬから』・・・博士は二度三度確かめた。その意味を理解するにつれ、博士の表情は厳しくなった。
「この《過ちは繰返さぬ》という過ちは誰の行為をさしているのか。もちろん、日本人が日本人に謝っていることは明らかだ。それがどんな過ちなのか、わたくしは疑う。ここに祀ってあるのは原爆犠牲者の霊であり、その原爆を落した者は日本人でないことは明瞭である。落した者が責任の所在を明らかにして《二度と再びこの過ちは犯さぬ》というならうなずける。 この過ちが、もし太平洋戦争を意味しているというなら、これまた日本の責任ではない。その戦争の種は西欧諸国が東洋侵略のために蒔いたものであることも明瞭だ。さらにアメリカは、ABCD包囲陣をつくり、日本を経済封鎖し、石油禁輸まで行って挑発した上、ハルノートを突きつけてきた。アメリカこそ開戦の責任者である。」
このことが新聞に大きく報ぜられ、後日、この碑文の責任者である浜井広島市長とパール博士との対談まで発展した。
このあと博士はわたくしに「東京裁判で何もかも日本が悪かったとする戦時宣伝のデマゴーグがこれほどまでに日本人の魂を奪ってしまったとは思わなかった。」と嘆かれた。そして「東京裁判の影響は原子爆弾の被害よりも甚大だ。」と慨嘆された。
その夜、わたくしたちのホテルに、広島市小町の本照寺の住職筧義章さんが訪ねてこられこういわれた。「わたくしの寺の檀徒も大勢原爆でやられています。また出征して多くの戦死者も出しています。これらの諸精霊に対して、どうゆう言葉を手向けたらよいか。パール博士に『過ちは繰り返しませぬから』に代わる碑文を書いていただきたい。」と懇願された。
これを聞かれた博士は、意外にも快く引き受けられた。そして一夜想いを練られて、奉書紙と筆をとりよせ次のような詩を揮毫された。その詩が今も本照寺に建立されている『大亜細亜悲願之碑』である。ナイル君がベンガル語を和訳し、さらに英訳して三カ国語で大きな黒御影石に刻んだ。
それは次のような格調高い詩である。
激動し 変転する歴史の流れの中に
道一筋につらなる幾多の人達が
万斛の想いを抱いて死んでいった
しかし
大地深く打ちこまれた
悲願は消えない
抑圧されたアジア解放のため
その厳粛なる誓いに
いのち捧げた魂の上に幸あれ
ああ 真理よ!
あなたはわが心の中にある
その啓示に従って われは進む
1952年11月5日 ラダビノード・パール
1952年11月6日、博士は広島高裁における歓迎レセプションに臨まれて、「子孫のため歴史を明確にせよ」と次のように述べられた。
「1950年のイギリスの国際情報調査局の発表によると、『東京裁判の判決は結論だけで理由も証拠もない』と書いてある。ニュルンベルクにおいては、裁判が終わって三か月目に裁判の全貌を明らかにし、判決理由とその内容を発表した。しかるに東京裁判は、判決が終わって4年になるのにその発表がない。他の判事は全部有罪と判定し、わたくし一人が無罪と判定した。わたくしはその無罪の理由と証拠を微細に説明した。しかるに他の判事らは、有罪の理由も証拠も何ら明確にしていない。おそらく明確にできないのではないか。だから東京裁判の判決の全貌はいまだに発表されていない。これでは感情によって裁いたといわれても何ら抗弁できまい。」
このように述べた後、博士はいちだんと語気を強めて、「要するに彼等(欧米)は、日本が侵略戦争を行ったということを歴史にとどめることによって自らのアジア侵略の正当性を誇示すると同時に、日本の過去18年間のすべてを罪悪であると烙印し罪の意識を日本人の心に植えつけることが目的であったに違いがない。東京裁判の全貌が明らかにされぬ以上、後世の史家はいずれが真なりや迷うであろう。歴史を明確にする時が来た。そのためには東京裁判の全貌が明らかにされなくてはならぬ。・・・これが諸君の子孫に負うところの義務である。
「わたしは1928年から45年までの18年間(東京裁判の審議期間)の歴史を2年8カ月かかって調べた。各方面の貴重な資料を集めて研究した。この中にはおそらく日本人の知らなかった問題もある。それをわたくしは判決文の中に綴った。このわたくしの歴史を読めば、欧米こそ憎むべきアジア侵略の張本人であることがわかるはずだ。しかるに日本の多くの知識人は、ほとんどそれを読んでいない。そして自分らの子弟に『日本は国際犯罪を犯したのだ』『日本は侵略の暴挙を敢えてしたのだ』と教えている。満州事変から大東亜戦争勃発にいたる事実の歴史を、どうかわたくしの判決文を通して充分研究していただきたい。日本の子弟が歪められた罪悪感を背負って卑屈・頽廃に流されてゆくのを、わたくしは見過ごして平然たるわけにはゆかない。彼らの戦時宣伝の偽瞞を払拭せよ。誤れた歴史は書きかえられねばならない。」
博士は、慈愛と情熱を込めて切々と訴えられるのである。
パール博士は東京弁護士会においても多数の法律家を前にして講演された。いうまでもなく、博士は極東国際軍事裁判を根本的に否定している。それは戦勝国が復讐の欲望を満足させるために国際法を無視し、司法と立法を混合してマッカーサーが法を制定し、法の不遡及まで犯した一方的な軍事裁判だったからである。ここでも博士は次のように述べている。
「日本人はこの裁判の正体を正しく批判し、彼らの戦時謀略にごまかされてはならぬ。日本が過去の戦争において国際法上の罪を犯したという錯覚におちいることは、民族自尊の精神を失うものである。自尊心と自国の名誉と誇りを失った民族は、強大国に迎合する卑屈なる植民地民族に転落する。日本よ!日本人は連合国から与えられた《戦犯》の観念を頭から一掃せよ。・・・」と、博士は繰り返し強調された。
1952年11月7日、わたくしたち一行が福岡に到着すると、BC級戦犯者の家族が60名ほど福岡消防館で博士を待っていた。深い悲しみにつつまれた家族たちを前に、パール博士は沈痛な表情でこう述べた。
「戦犯といわれるが、決して犯罪者ではありません。全員無罪です。何も罪とがを犯したのではないのです。恥ずべきことはひとつもありません。世界の人たちも、戦争裁判が間違っていたことを少しづづ分かり始めたようです。しかし、わたくしは、今さらながら自分の無力を悲しみます。ただご同情申しあげるだけで、わたくしには何もできません。・・・けれど戦犯釈放にはできるだけ努めます。これ以上、罪のない愛する者同士を引き離しておくわけにはいきません。・・・わたくしは倒れそうです。・・・許してください。」受刑家族の苦悩を苦悩とする博士は、言葉も途切れがちに、ようやくこれだけ述べて合掌するのみであった。
戦犯の無罪を確信し、この暴挙に憤りをもつ博士は、受刑家族を目のあたりに見て、深い責任感-自ら犯した過ちの如く- 責められる気持ちであったのだろう。「自分の無力を悲しむ・・・許してください」といって涙し、そして嗚咽する家族の中に歩みよって、家族の一人一人の肩にやさしく手をおいた。
東京へ帰ると博士は、巣鴨プリズンを慰問された。巣鴨にはA級戦犯とBC級戦犯あわせて130名ほど留置されていた。博士は一部屋ごとに声をかけられ慰めかつ励まされた。当局もインド代表判事ということで、BC級戦犯全員を廊下に整列せしめた。博士は「皆さんには何の罪もない。講和条約も終わった。講和条約が終われば、当然皆さんは釈放されるはずです。あとは手続きの問題だけです。それが国際法の定めるところです。どうかそれまで健康に留意してください。」と励ました。
博士は東京裁判で処刑された7人の遺族に対しても、心からいたわりの情を示された。まず東條勝子夫人から面会の申し込みがあったのを、夫人にわざわざ来てもらうのは忍びないといって、博士はわざわざ遠隔の世田谷・用賀の東條宅を訪れた。荒れはてた庭にはコスモスが咲き乱れ、七面鳥が鳴きわめいていた。勝子夫人と二人の娘さん、三人のお孫さんに囲まれた博士は、一人一人孫を抱きあげ、頬ずりしながら、長時間勝子夫人を慰めた。
板垣征四郎元大将未亡人喜久子夫人は博士を帝国ホテルに訪ねてきた。博士は夫人の手をとって迎え、「板垣さんはわたくしの座席の真正面でした。」と博士がいうと、「はい、いつもパール先生がまっ先に正面にあらわれて、被告席に向かって合掌されるので、とても印象が深かったと、主人は死ぬまで申していました。」 夫人はそういって二枚の色紙をとり出した。それには次の二首の短歌が染筆されていた。
ふたとせにあまるさばきの庭のうち
このひとふみを見るぞとうとき
すぐれたる人のふみ見て思ふかな
やみ夜を照らす灯のごと
《ひとふみ》とは、博士が判決した全員無罪の要旨を弁護人から聴いた時の感慨である。ナイル君が英訳して伝えると、「そうでしたか・・・」と目をうるませながらこまごまと夫人をねぎらった。
この夜、廣田弘毅元首相のお嬢さんと、東郷茂徳元外相の夫人が訪ねてきた。この時も博士は懇切に二人を慰めた。木村兵太郎元大将の未亡人可縫夫人は奈良ホテルに博士を訪ね、「わたくしども7人の戦犯処刑家族のものは、年2回、23日の命日に集まってひそやかに慰めあうのを何よりの楽しみにして、淋しい日を送っています。」といった。博士は「12月23日!この日は今に日本国中の人が《記念の日》とする日が来るようになりましょう。」と慰めた。
博士はその判決文の最後を次の言葉で結んでいるのである。「時が、熱狂と偏見をやわらげたあかつきには、また理性が、虚偽からその仮面を剥ぎとったあかつきには、そのときこそ、正義の女神はその秤を平衡に保ちながら、過去の賞罰の多くにその所を変えることを要求するであろう。」と。
大将はこの鳴沢山の山麓に庵を結んで、《無畏庵》と名づけ、読経三昧の堂守生活に入った。戦犯の汚名をきせられて大将が処刑された後は、文子未亡人と久江嬢の二人が、養鶏をなりわいに寂しく暮らしていた。博士は突然ここを訪れて二人を驚かした。博士は大将の霊に祈りをささげた後二人を慰め、励ました。博士はアジアの独立・解放の悲願に立つ観音像と七人の遺骨が眠る「七士之碑」(吉田茂揮毫)、それに隣した「BC級戦犯殉国刑死1086霊位」の碑に、それぞれ花香を手向け敬けんな祈りを捧げられた。
博士が東京裁判の判決を終えて昭和23年(1948 )11月、病妻の待つインドへ帰った時、妻の病は重く、もはやろくに口も聞けなくなっていた。そして5ヶ月後、ついに帰らぬ人となってしまった。
この話を感動をもって、じっと聴いていた下中翁は「夫人の追悼法要をやろう」とわたくしに命じた。わたくしは帰京すると直ちに伊藤千春氏とともにその準備に当たった。26日の午後1時から東京・築地本願寺で「パール夫人追悼大法要」が厳粛裡に執り行われた。世界連邦建設同盟のほかに、日本仏教連合会、釈尊御遺影奉賛会がこころよく協賛してくださり、さらに千代田女子学園の聖歌隊がこの法要に参加してくれた。法要の前後に聖歌を合唱した。参加者は250名を越えた。それは民族・国境を越えた、身も心も引き締まる、森厳のうちにも愛情のこもった追悼法要であった。
上梓した前述の太平洋出版社発行『パール博士述、真理の裁き・日本無罪論』は90万語にも及ぶパール判決書を五分の一ほどにカットし、「パール判決書を読んで」というわたくしのコメントを附記した本でしかなかった。博士は来日早々下中翁に対して「判決文全文を刊行すべきである。」と強調された。当時、下中翁は平凡社社長であると共に日本書籍出版協会の会長でもあった。
幸にして判決書の全文は、わたくしがアルバイトを雇って原稿に筆耕させて持っていた。それを基礎に博士が帰国するまでのあいだ、僅か20日ばかりの間に『全譯・日本無罪論 = 極東国際軍事裁判印度代表判事R・パール述』を見事上梓したのである。A5版の9ポイント二段組み、630頁の堂々たる上製本である。これを手にしたパール博士は大満足し、たいそう喜ばれたことは申すまでもない。下中翁なればこその、おそらく昼夜兼行の組版、校正、印刷、製本の記録的スピードの上梓であったのだ。かくして翁は、パール博士との約束をはたされたのである。《同著は現在絶版になっているが、講談社学術文庫から『共同研究パル判決書(上下二巻)が刊行されている。現在市販されている拙著『パール博士の日本無罪論』(慧文社発行)は23版を重ねロングセラーズとなっている。》
翁が昭和36年2月、83歳で逝去されるまで、義兄弟まで契ったパール博士との交友は、文字通り《吻頸のまじわり》であった。なお、下中弥三郎翁も死後、パール博士と同様、天皇陛下から勲一等瑞宝章を授与された。 1994年10月23日 田中正明
1886年 1月27日インド、ベンガル州ノディア県クシュティア郡カンコレホド村に生まれる。
1907年 カルカッタ、プレジデンシーカレッジにおいて理学士の試験に合格、数学賞を受ける。
1908年 カルカッタ大学にて理学修士を取得。
1910年 インド連合州会計院書記生として就職。
1911年 カルカッタ大学において法学士の学位を取得。
1920年 法学修士の試験に一番でパスする。
1921年 弁護士登録。
1923-36年 カルカッタ大学法学部教授に就任。
1924年 カルカッタ大学にて(LLD)の学位を取得(論文は「マヌ法典前のヴェダおよび後期ヴェダにおけるヒンズー法哲学」)。
1925年 カルカッタ大学"タゴール記念法学教授"に任命される。このインド学会最高の栄誉といわれる"タゴール記念法学教授"に1930年、1938年と3回にわたり任命されたというこは、同大学創立以来のことといわれる。
1927-41年 インド政府法律顧問に就任。
1937年 国際法学会の総会に招聘され、議長団の一人に選ばれる。
1941-43年 カルカッタ高等裁判所判事。
1944-46年 カルカッタ大学副総長。
1946-48年 極東国際軍事裁判所判事。
1952-67年 国際連合国際法委員会委員(1958年度および1962年度委員長)。
1952年 下中弥三郎らの招聘により、世界連邦アジア会議に参加、下中と義兄弟の契りを結ぶ。
1953年 下中弥三郎の招聘により三度目の来日。大倉山文化科学研究所に置いて講義。
1955年 世界連邦カルカッタ協会会長に就任。
1957年 常設仲裁裁判所判事。
1959年 ナショナル・プロフェッサー・オブ・ジュリスプルーデの称号を受く。
1960年 インド最高の栄誉である PADHMA
RRI 勲章 を授与される。
1966年 清瀬一郎、岸信介らの招聘により、四度目の来日、日本政府より勲一等に叙せらる。
1967年 1月10日、カルカッタの自邸において逝去される。
明治44年2月11日、長野県に生まれる。飯田高校を経て興亜学塾に学び、大亜細亜協会、大日本興亜同盟に勤務し、アジア独立運動に尽力。松井石根大将の支那講演旅行に同行、応召。戦後、南信時事新聞編集長、拓殖大学講師を歴任。現在、評論家として活動。
主なる著書『パール博士の日本無罪論』『アジアの曙』『南京虐殺の虚構』『松井石根大将の陣中日記』『南京事件の総括』『アジア独立への道』その他多数。 浅岡 秀志 )
(私論.私見)