4285343 | 【パール博士の論理】 |
(最新見直し2006.2.11日)
浅岡秀志氏の「『パール博士のことば』(東京裁判後、来日されたときの挿話) 田中正明著」を参照する。
【パール博士の論理―判決理由要旨】 | |||||||||||||||||||||
インドのラダ・ビノード・パル博士(1886〜1967年)は国際法を専門とする学者であるが、極東国際軍事裁判(俗称・東京裁判)判事11名の中でただ一人、この裁判が最初から日本を侵略国と決め付けていることに不快感を示し、日本の無罪を主張した。日本が戦争に至った経緯を丹念に調べ上げ、この裁判は勝者が敗者を一方的に裁いた国際法にも違反する非法・不法の復讐劇だったとして、被告全員の無罪の判決を下した。また、南京事件についても徹底的な検証を行い、松井石根陸軍大将の名誉を回復させる無罪判決を下した。残念ながら松井大将は絞首刑となってしまう。パール判事は戦勝国アメリカの罪についても、鋭く追求言及した。特に広島・長崎における原子爆弾の使用については、アメリカ側の有罪を立証して見せた。
欧米先進国では少数意見は必ず発表されることになっており、東京裁判所条例も少数意見は公表すると明記していたが、時間がないことを理由に発表を禁止した。当時GHQによって言論統制を受けていた日本の新聞はただ数行「インドの判事が異色の意見書を提示した」と発表したに過ぎない。かくして、ついにパール判決書は日の目を見ることなく葬り去られてしまったのである。 このパール博士の見解が、文章という形で出版されたのは、ずっと後の日本が独立を回復した1952年。太平洋出版社発行の「パール博士述・真理の裁き・日本無罪論」によってである。この時出版記念会が開かれ、全国への普及に尽力したのが平凡社社長の下中弥三郎氏であった。 |
【パール判事の判決を聞いて戦犯が遺した歌】 | ||||||||
|
【「六人組判決理由要旨」】 |
六人組の個性についてコメントしておく。オーストラリアのウエッブ判事とフィリピンのハラニーヨ判事は、法廷にもち出された事件に前もって関係していた判事で不適格、必要な言葉すなわち協定用語である英語と日本語がわからないソ連のザリヤノフ判事とフランスのベルナール判事、また本来裁判官でない中国の梅汝*判事の五名の判事は不適格判事であった。国際法で学位をとった判事はパール博士一人のみである。 |
【「意見書」について】 | ||||||||||||||||||||
東京裁判判決は、六人組の多数判決で決定された。しかし、結論は同じでも、法理論はそれぞれ異なっていた。それぞれ別の意見書が出されている。
|
【「パール博士の全員無罪の判決文のその後」】 |
パール判決書はニューヨーク・タイムズやロンドン・タイムズなどでは大々的に報道され、米英の法曹界ではパール旋風が巻き起こっていることを氏は承知していたのである。しかしこれを日本で出版しようとすると壁にぶちあたった。「田中さん、残念ながらこの本はマッカーサーの占領中は絶対に出版できません。内々調べてみたが、出版すればあなたも僕も即刻逮捕された上、発売禁止です。占領が解かれ、日本に主権が回復する日まで待つより外ありません。それまではお互いに秘密厳守で、潜行して作業を進めることです」。 |
【「パール博士の判決書の刊行経緯」】 | |
浅岡秀志氏の「『パール博士のことば』(東京裁判後、来日されたときの挿話) 1994.10.23日著田中正明」の「『日本無罪論』の上梓と博士の来日」の項を転載する。
|
【ラダビノード・パール博士略歴】 |
浅岡秀志氏の「『パール博士のことば』(東京裁判後、来日されたときの挿話) 1994.10.23日著田中正明」を参照する。 1986.1.27日インド、ベンガル州ノディア県クシュティア郡カンコレホド村に生まれる。1907年カルカッタ、プレジデンシーカレッジにおいて理学士の試験に合格、数学賞を受ける。1908年カルカッタ大学にて理学修士を取得。1910年インド連合州会計院書記生として就職。1911年カルカッタ大学において法学士の学位を取得。1920年法学修士の試験に一番でパスする。1921年弁護士登録。1923―36年カルカッタ大学法学部教授に就任。1924年カルカッタ大学にて(LLD)の学位を取得(論文は「マヌ法典前のヴェダおよび後期ヴェダにおけるヒンズー法哲学」)。1925年カルカッタ大学"タゴール記念法学教授"に任命される。このインド学会最高の栄誉といわれる"タゴール記念法学教授"に1930年、1938年と3回にわたり任命された。これは同大学創立以来のことといわれる。 1927―41年インド政府法律顧問に就任。1937年国際法学会の総会に招聘され、議長団の一人に選ばれる。1941―43年カルカッタ高等裁判所判事。1944―46年カルカッタ大学副総長。1946―48年極東国際軍事裁判所判事。1952―67年国際連合国際法委員会委員(1958年度および1962年度委員長)。 1952年下中弥三郎らの招聘により、世界連邦アジア会議に参加、下中と義兄弟の契りを結ぶ。1953年下中弥三郎の招聘により三度目の来日。大倉山文化科学研究所に置いて講義。1955年世界連邦カルカッタ協会会長に就任。1957年常設仲裁裁判所判事。1959年ナショナル・プロフェッサー・オブ・ジュリスプルーデの称号を受く。1960年インド最高の栄誉である PADHMA RRI 勲章 を授与される。1966.10月清瀬一郎、岸信介らの招聘により、四度目の来日、日本政府より勲一等瑞宝章に叙せらる。1967.1.10日、カルカッタの自邸において逝去される。 |
【ラダビノード・パール博士のその後】 |
浅岡秀志氏の「『パール博士のことば』(東京裁判後、来日されたときの挿話) 1994.10.23日著田中正明」を参照する。 このパール判事の冷静かつ公平な歴史感と人権に感服し、義兄弟の契りまで結んだ平凡社創設者下中弥三郎は、世界連邦アジア会議を開催してそのゲストとしてパール博士を招致した。その没後二人を記念する建設委員会によって創設されたのが、箱根町の丘の上にあるパール記念館である。正式には「パール下中記念館」と呼ばれている。 極東国際軍事裁判(以下東京裁判と略称)で東條元首相とともに処刑された松井石根陸軍大将の密葬の夜のことであった。当日は大亜細亜協会理事長下中弥三郎、幹事長中谷武世両先生とともにわたくしもお招きいただいた。その夜の直会の席で、弁護団副団長の清瀬一郎先生と大将の弁護人伊藤清先生のお二人から11名の連合国判事中ただ一人インド代表のパール判事のみが、この裁判は国際法に違反するのみか、法治社会の鉄則である法の不遡及まで犯し、罪刑法廷主義を踏みにじった復讐裁判に過ぎない、だから全員無罪であると、堂々たる法理論を展開された旨のお話を承った。
1953年、パール博士はジュネーブにある国際司法委員会の議長の要職に推挙された。1960年にはインド最高の栄誉賞であるPADHMA・RRI勲章を授与された。同時にインド国際法学会の会長に就任され、のち世界連邦カルカッタ協会長にも就任した。1967年1月10日カルカッタの自邸において多彩な生涯を終えられた。死の前年、すなわち昭和41年(1966)10月、パール博士は清瀬一郎、岸信介両氏の招きに応じて四たび来日され、天皇陛下から勲一等瑞宝章の受賞の栄誉に浴されたのである。 |
「パール記念館」は正しくは『パール・下中(下中弥三郎)記念館』といい箱根の関所跡から約1Kmほど箱根峠に向かった国道1号線脇のバス停<お堂前>(元箱根⇔三島)神奈川県箱根408-1に存在する。連絡所:東京都新宿区袋町6番地 (財)日本出版クラブ TEL 03-3260-5271 |
『パール博士の日本無罪論』田中正明著・慧文社(昭和38年初版・平成10年増補改訂第27刷)は絶版となり復刻版『パール判事の日本無罪論』田中正明著・小学館文庫(平成13年10 月5日初版)として発行された。本体価格:¥533ー |
【パール博士来日時の発言要旨】 | |
浅岡秀志氏の「『パール博士のことば』(東京裁判後、来日されたときの挿話) 1994.10.23日著田中正明」を転載する。
|
|
羽田空港に降り立った博士は、出迎えの一人一人と握手して、待ちかまえた記者団の会見室に臨んだ。博士は開口一番こういわれた。「この度の極東国際軍事裁判の最大の犠牲は《法の真理》である。われわれはこの《法の真理》を奪い返さねばならぬ。」これが上陸第一歩、博士の唇をついて出た言葉であった。
「たとえばいま朝鮮戦争で細菌戦がやかましい問題となり、中国はこれを提訴している。しかし東京裁判において法の真理を蹂躙してしまったために《中立裁判》は開けず、国際法違反であるこの細菌戦ひとつ裁くことさえできないではないか。捕虜送還問題しかり、戦犯釈放問題しかりである。幾十万人の人権と生命にかかわる重大問題が、国際法の正義と真理にのっとって裁くことができないとはどうしたことか。 「戦争が犯罪であるというなら、いま朝鮮で戦っている将軍をはじめ、トルーマン、スターリン、李承晩、金日成、毛沢東にいたるまで、戦争犯罪人として裁くべきである。戦争が犯罪でないというなら、なぜ日本とドイツの指導者のみを裁いたのか。勝ったがゆえに正義で、負けたがゆえに罪悪であるというなら、もはやそこには正義も法律も真理もない。力による暴力の優劣だけがすべてを決定する社会に、信頼も平和もあろう筈がない。われわれは何よりもまず、この失われた《法の真理》を奪い返さねばならぬ。」 博士はさらに言葉を改めて、「今後も世界に戦争は絶えることはないであろう。しかして、そのたびに国際法は幣履のごとく破られるであろう。だが、爾今、国際軍事裁判は開かれることなく、世界は国際的無法社会に突入する。その責任はニュルンベルクと東京で開いた連合国の国際法を無視した復讐裁判の結果であることをわれわれは忘れてはならない。」と、語調を強めて語られた。 記者団の、サンフランシスコ条約と日本独立の印象についての質問に対し、博士はこう答えている。「日本は独立したといっているが、これは独立でも何でもない。しいて独立という言葉を使いたければ、半独立といったらいい。いまだにアメリカから与えられた憲法の許で、日米安保条約に依存し、東京裁判史観という歪められた自虐史観や、アメリカナイズされたものの見方や考え方が少しも直っていない。日本人よ、日本に帰れ!とわたくしはいいたい。」 これがパール博士の東京裁判と独立後の日本に対する印象の第一声であった。 |
【「パール博士歓迎委員会主催の歓迎レセプションでのパール博士の発言要旨」】 | ||||
浅岡秀志氏の「『パール博士のことば』(東京裁判後、来日されたときの挿話) 1994.10.23日著田中正明」を転載する。
|
【京都霊山護国神社碑文】 |
当時カルカッタ大学の総長であったラダ・ビノード・パール博士は、十九四六年、東京に於いて開廷された「極東軍事裁判」にインド代表判事として着任致しました。既に世界的な国際法学者であったパール博士は、法の心理と、研鑚探求した歴史的事実に基づき、この裁判が法に違反するものであり、戦勝国の敗戦国に対する復讐劇に過ぎないと主張し、連合国側の判事でありながら、ただ一人、被告全員の無罪を判決されたのであります。 |
【日印友好の礎(いしずえ)】 |
(私論.私見)
浅岡秀志氏の「『パール博士のことば』(東京裁判後、来日されたときの挿話) 田中正明著」を転載する。
産経新聞は平成6年8月18日のオピニオンアップで大きく「パール判事に学べ/見直したい東洋の誇り」と題する主張を尾崎諭説委員の署名入りで発表した。パール判事とはいうまでもなく極東国際軍事裁判(俗称・東京裁判)のインド代表判事ラダビノード・パール博士のことである。この裁判で11人の判事のうちただ一人、被告全員無罪の判決(少数意見)を下した判事で、尾崎氏は次のごとく述べている。パール博士の外貌をわかりやすくデッサンしているので、やや長文であるが引用させていただく。
《ラダビノード・パール(1886〜1967年)。現在、どれほど多くの日本人がこの恩人の名をご記憶だろうか。
東京裁判(1946〜1948年)で、日本は満州事変(1931年)から盧溝橋事件(1937年)を経て日中戦争に突入し、日米開戦(1941年)、そして終戦に到るまでのプロセスを「侵略戦争」と判定され、この「侵略戦争」を計画し、準備し、開始し、遂行したことは、「平和に対する罪」に当たるとして東條英機ら7人の絞首刑が遂行された。
パール判事は、この東京裁判で日本が国際法に照らして無罪であることを終始主張し続けてくれたインド人判事である。田中正明著『パール博士の日本無罪論』によれば、同判事は日本の教科書が東京裁判史観に立って「日本は侵略の暴挙を犯した」「日本は国際的な犯罪を犯した」などと教えていることを大変に憂えて「日本の子弟が、歪められた罪悪感を背負って卑屈、頽廃に流されて行くのをわたくしは平然と見過ごすわけにはいかない。」とまでいって励ましてくれたのである。
日本が敗戦で呆然自失し、思想的にも文化的にも、日本人のアイデンティティーを失っていた時代に、パール判事の言葉はどれだけ日本人に勇気と希望を与えてくれたことか。わたしたちは決してこの恩義を忘れてはなるまい。
このパール判事の冷静かつ公平な歴史感と人権に感服し、義兄弟の契りまで結んだ平凡社創設者下中弥三郎は、世界連邦アジア会議を開催してそのゲストとしてパール博士を招致した。その没後二人を記念する建設委員会によって創設されたのが、箱根町の丘の上にあるパール記念館である。正式には「パール下中記念館」と呼ばれている。》
以上が産経新聞の要約である。
最初、私事で恐縮だが、わたくしは極東国際軍事裁判(以下東京裁判と略称)で東條元首相とともに処刑された松井石根陸軍大将の秘書として、また松井大将が会長をされていた「大亜細亜協会」に勤務していた。そのわたくしが、インド代表判事パール博士のことを知ったのは、松井大将の密葬の夜のことであった。
当日は大亜細亜協会理事長下中弥三郎、幹事長中谷武世両先生とともにわたくしもお招きいただいた。その夜の直会の席で、弁護団副団長の清瀬一郎先生と大将の弁護人伊藤清先生のお二人から11名の連合国判事中ただ一人インド代表のパール判事のみが、この裁判は国際法に違反するのみか、法治社会の鉄則である法の不遡及まで犯し、罪刑法廷主義を踏みにじった復讐裁判に過ぎない、だから全員無罪であると、堂々たる法理論を展開された旨のお話を承った。
その日からわたくしは、ものの怪に取り憑かれたように、まずパール判決書を手にいれ、これを上梓して、戦後の罪悪感にひしがれている国民に警鐘を鳴らしたいとひたすら思うようになった。
当時わたくしは、敗戦後、大陸から帰還し、郷里の信州飯田市の新聞社に勤務していたが、志業達成のため居を東京に移した。そして早速、清瀬、伊藤両弁護士の事務所をお訪ねした。両先生に秘密保持の念書を入れて、和訳タイプしたパール判決書を借用した。悪質の仙貨紙に不鮮明なタイプ印刷で、しかも所々欠落があり、お二人のを合わせて漸く完全なものとなった。わたくしは学生アルバイトを雇い、これを原稿用紙に筆写させた。
原稿用紙にして二千二百枚、九十万語にも及ぶ長文である。
多数判決−清瀬弁護士の言う六人組判決(米、英、ソ、中、カナダ、ニュージランド)−の6ヶ国の判事の判決文よりも、パール判事一人の意見書(判決)の方が浩翰な法理論の展開である。
ついでながら東京裁判は、法律なき裁判ゆえ、その判決も六つに分かれた。前記六人組の多数判決のほかに、五人組がそれぞれ別の意見書(判決)を出している。オランダのレーリング判事は「廣田弘毅元首相は無罪、他の死刑も減刑せよ。ドイツのナチスの処刑に比して重すぎる」。フランスのベルナール判事は「この裁判は法の適用および法手続きにおいてもあやまりがある。とし、「11人の判事が一堂に集まって協議したことは一度もない」と内部告発までしている。ウエッブ裁判長まで六人組からのけ者扱いにされ、量刑について別の意見書を出している。比島のハラニーヨ判事のみが量刑が軽すぎるとし、インドのパール判事は前述の通り全員無罪、無罪というよりこの裁判は裁判にあらず「復讐の儀式に過ぎない」として根底から否定する意見書である。
欧米先進国では少数意見は必ず発表されることになっており、東京裁判所条例も少数意見は公表すると明記していたが、時間がないことを理由に発表を禁止した。
当時GHQによって言論統制を受けていた日本の新聞はただ数行「インドの判事が異色の意見書を提示した」と発表したに過ぎない。かくして、ついにパール判決書は日の目を見ることなく葬り去られてしまったのである。
ついでながら、オーストラリアのウエッブ判事とフィリピンのハラニーヨ判事は、法廷にもち出された事件に前もって関係していた判事で不適格、必要な言葉すなわち協定用語である英語と日本語がわからないソ連のザリヤノフ判事とフランスのベルナール判事、また本来裁判官でない中国の梅汝*判事の五名の判事は不適格判事であった。国際法で学位をとった判事はパール博士一人のみである。