428165 | 大正ルネサンス運動その陽と陰 |
(最新見直し2005.9.15日)
1910年の「大逆事件」で幸徳らが虐殺されて以降の沈潜から日共創立までの歩みを「日本社会主義運動の前史の三期」とすることができるように思われる。この時期、日本左派運動は明確に右派、左派、学識潮流に三分岐していく。これを以下考察していく。 |
【「友愛会」創設される】 |
1912(明治45、大正元).8月、キリスト教人道主義者・鈴木文治を中心にして15名が労働団体「友情の協会」(「友愛会」)を創設した。日本最初の全国的規模の労働組合的団体であり、労働組合運動史における新たなページがめくられたことになる。 |
【息を吹き返し始めた左派運動】 |
さて、こうした労働組合の新たな興隆と、「民本主義」に代表されるブルジョア自由主義的な政治運動とを二つの柱とする「大正デモクラシー」の時代的な風潮の中で、社会主義者の活動も徐々に息を吹き返して来た。堺利彦達は、月に一回の「茶話会」に逃げ込んだものの再起を模索していた。 1912(大正元).9月、若手を代表する大杉栄と荒畑寒村が「近代思想」を創刊したが、これは政治・社会問題を直接扱うことは弾圧を招くだけなので、当面は文芸思想を論じる小冊子の発行で、全国に離散し、沈黙を強いられている同志を励まし、連絡を取ろうというものであった。 |
【憲政擁護国民運動(第一次護憲運動)が展開される】 |
1913(大正2)年、第三次桂藩閥内閣の登場に反発して憲政擁護国民運動(第一次護憲運動)が展開された。 |
【山川均が「方向転換論」打ち出す】 |
1913(大正11)年、山川均はその「方向転換論」で当時存在した少数の社会主義者の集団が労働者大衆のなかで活動するために、労働者の組織とむすびつかなければならないことをあきらかにした。そのころ社会主義運動のなかには、雑多な種類の社会主義思想が包含されていたが、しだいにマルクス主義が主導的な理論として確立される。 |
【「サンジカリズム研究会」発足する】 |
1913.2月、大杉栄と荒畑寒村らが「サンジカリズム研究会」を発足させ、毎月2回の講演会を開くなどして、「実際運動へのあこがれ」を強めていった。 |
【大杉栄のアナーキズムへの傾斜】 |
こうした中で、大杉は「生の拡充」、「生の創造」などを強調する個人主義的なアナーキズムへの傾斜を一層深めていき、サンジカリズムからマルクス主義への方向をたどりつつあった荒畑とも次第に離反していった。伊藤野枝、神近市子との恋愛関係のもつれから起こった例の「日陰茶屋」事件は16年11月のことであった。
1914年(大正3).9月、大杉は、「近代思想」が丸二年を迎えたのを期に、この「進歩的インテリゲンチア相手の安易な、自慰的生活」(「寒村自伝」)に見切りを付け、第23号をもって同誌を廃刊、翌月から月刊の労働運動紙「平民新聞」を発行し始めた。しかし、同紙は毎号発売禁止で、翌14年3月の第6号で刊行を断念せざるを得なかった。同年10月には「近代思想」を復刊したが、これも連続発禁で四号で廃刊に追い込まれてしまった。この間、大杉は、サンディカリズムの立場から経済的直接行動主義を主唱し、また国際無政府主義運動において活躍した。 |
【第一次世界大戦が勃発】 |
1914(大正3)年、第一次世界大戦が勃発した。これを契機として日本資本主義は飛躍的に発展していった。但し、ブルジョア階級に好景気をもたらした反面、物価の高騰をもたらしたため、労働者の生活に打撃を与えることになり、労働者階級の階級意識の覚醒を再発させていった。 欧州で始まった大戦は、ブルジョアどもが「大正の天佑」(天佑――天の助け)と呼んだように、直接戦火にさらされることのない日本資本主義に空前の好景気をもたらした。ヨーロッパ諸国の生産・輸出能力の減退・喪失を衝いて、日本の商品輸出は急増し、大戦前年の13(大正2)年に6億円だったものが、16年には11億円に倍増、19年には20億円を突破した。これに支えられて企業数も約1万5000(13年)から2万6000(19年)へと増加、払込資本も約20億円から60億円へと三倍に膨らんだ。そして、この急激な資本蓄積にともなって、労働者数も85万人から182万人へと急増した。 しかし、この資本の繁栄の陰で、労働者は労働強化や労働時間の延長を強いられ、その生活は物価高騰に苦しめられた。この間の物価上昇率は著しく、12(大正元)年の物価指数を100とすると、19年には238と二倍以上に跳ね上がった。 このため、物価上昇の後追いをする形での賃上げ闘争や、労働時間の短縮を要求する闘いを中心に争議は増加の一途をたどり、13年に47件だったものが、16年には100件を突破、17〜18年には一挙に四倍増の400件前後を記録、19年には497件に上った。参加人員も13年の約2200人に対して19年には6万3000人と30倍近くに達した。 |
【片山潜、再度渡米】 |
1914(大正3).8月、片山潜は、労働争議の行き詰まるなか四度目の渡米に旅立ち、その後再び日本の土を踏むことはなかった。 |
【堺利彦がマルクス主義月刊誌『新社会』を創刊】 |
1915(大正4)・9月、暫く売文社で雌伏してきた堺利彦は、マルクス主義月刊誌『新社会』を創刊、「鬨(とき)を作って勇ましく奮い立つという程の旗上ではもちろんないが、とにかくこれでも禿(ち)びた万年筆の先に掲げた、小さな紙旗の旗上には相違ありません」と『小さき旗揚げ』を宣言した。 この雑誌がまさに日本におけるマルクス主義の中心となった。このころになると、社会主義運動のなかで、堺利彦、山川均および荒畑寒村が主たる役割を演ずるようになり、マルクス主義の火が、少しずつひろがった。 |
1915(大正4)年、慶応大学を卒業した野坂参三、早大出身の久留弘三が友愛会本部に入る。 |
【吉野作造の「民本主義」が登場】 |
1916(大正5)年、中央公論1月号の論文で、吉野作造の「民本主義」が登場し一躍時代の寵児となったであった。吉野の「民本主義」とは、民主主義が国家権力の所在を厳しく問うのに対し、「国体の君主制たると共和制たるとを問わず、あまねく通用するところの主義」と自己規定していた。それは、「民主主義が初めから君主国体たることの明白な我が国の如きに通用しないのは、もとより一点の疑いを容れぬ」(「憲政の本義を説いてその有終の美を済(な)すの途を論ず」)という観点から生み出されていた。 |
【堺利彦が総選挙に立候補し闘う】 |
1917(大正6).4月、総選挙には堺を候補者に立てて闘ったが、政談演説会も開けず、ビラもまけない徹底した弾圧にさらされ、得票はわずかに25票にとどまった。 |
これより以降は、「戦前日共史(前史一)アナ・ボル両派のイニシアチブ争い」
(私論.私見)