428167―1 大正期 アナ・ボル両派の熾烈なイニシアチブ争い

 いよいよ日本左派運動の昂然期がやってきた。しかし、日本にはレーニンのような卓越した指導者は生まれない。どんぐりの背比べ状態で論客がひしめいている窮状からなかなか抜け出せない。この時代の特徴は、僅かにアナーキスト系とボリシェヴィキ系の指導権争いとして沸点化していくことにある。興味深いことは、大杉の卓越した指導能力によってと思われるがむしろアナ系の方が理論でも労働戦線でもイニシアチブを取っていたことである。但し、この頃までのアナとボルは「即時的共同戦線」を張って誼(よしみ)を通じ合わせており、いわば「競合的せり上げ」の共闘関係にあった。この辺りはもっと考察されねばならない。

 1919(大正8).3月に19カ国50名の代表者がモスクワに集まり、コミンテルン(第3インタナショナル)を結成し、翌年の第2回大会で規約を決定した。シベリア出兵によって危機を迎えたソビエト政権の帝国主義列強に対する反撃でもあった。1920〈大正9〉年コミンテルンが極東における活動を開始した。ヴォィチンスキーが来日し、当時の日本の代表的社会主義者であった堺利彦、山川均と接触するが頼りにならなかった。白羽の矢が立てられたのはアナーキスト大杉栄であった。つまり、コミンテルンとの接触は、マルクス主義者として定評を得ていた堺、山川ではなく、アナーキストの大杉であったという皮肉な史実を見せていることになる。

 1921(大正10)年11月にイルクーツクで極東勤労者大会予備会議が開かれ、翌1922(大正11).1月年モスクワで極東勤労者大会が開かれた。この予定に参加したのは、ボル系から暁民会の高瀬清、水曜会の徳田球一、アナ系から吉田一・高尾半兵衛・和田軌一郎・小林進次郎・北村英以智・伊藤某の計8名であった。つまり、ボル系とアナ系の寄せ集めであり時の急進主義者ご一行ということになる。

 この時の極東勤労者大会で、日本共産党の設立が誓約され、「アナ系が共産主義者への転向宣言」したと伝えられている。無事帰国に成功した徳球と高瀬は、堺・山川にオルグを開始し、共産党結成についてのコミンテルンの意向を伝え、両名の得心と賛成を得て、直ちに結党の準備を進めて行くことになった。こうして、公式には1922(大正11).7.15日に日共が創立されていくことになる。

 但し、この間も日共設立後も、アナとボルの争いは続いており止むことが無かった。「極東勤労者大会でのアナのが共産主義者への転向宣言」が何ら実効を持つことなく、日共設立後もアナとボルの争いは続けられたということになる。この辺り興味深いところであるが考察されていない。

 しかし、アナの巨頭大杉らが1923(大正12).9.1日の関東大震災時に拘束され、その混乱に乗じて虐殺される(これを仮に「関東大震災」と云う)。日本左派運動は、先の「大逆事件」に続く「大杉栄虐殺事件」の両事件により、官憲の暴圧にひれ伏していくことになる。以降、アナ系は精彩を欠いていくことになる。この経過を以下検証する。

 れんだいこ史観に拠れば、「大逆事件」の幸徳、「関東大震災」の大杉は共に偉大な思想家で、世界史上で比肩しても当代随一の論客であり実践家であった。その二人が官憲の暴圧に葬られたことはまことに痛恨事であった。「その分、日本の背丈が低くなり、以降もその悪影響に引きずられて行くことになる」。れんだいこは、大衆も官憲も、こういうところを瞑して思案しなければならないと考える。


【労働組合運動はますます激化する労働組合を舞台にアナ・ボル決戦

 第一次世界大戦の終了とともに日本資本主義は1920(大正8)年以降、深刻な反動恐慌に見舞われた。失業者が激増し、守勢に立たされる中で、労働組合運動はますます激化していった。浅原健三の『溶鉱炉の火は消えたり』で有名な八幡製鉄所2万数千人のスト(20年2月)、賀川豊彦を指導者とする神戸の三菱造船・川崎造船3万8千人の1カ月を越すスト(21年7月)はこの時期を代表する歴史的な大争議である。



【日本社会主義同盟が創立される】

 こうした中、1920(大正9)年には、各派の社会主義団体や労働団体を一つにまとめようという動きが起こり、9月に機関紙「社会主義」を発行。更に各地で講演会を開き、東京・大阪でブックデーを催し、街頭で社会主義書籍を売るなど宣伝活動につとめ、多数の支持者を獲得していった。

 同年12.9日、翌10日の創立大会が官憲に禁止される情勢を察知し、日本社会主義同盟を成立させた。大杉栄、堺利彦、山川均、高畠素之、荒畑寒村、岩佐作太郎、山崎今朝弥らが奔走した。しかし、同盟は諸団体の単なる寄せ集めに過ぎず、主としてマルクス主義系とアナーキズム系とに大きく分化しつつあった。
他に社会民主主義の系譜の者も居た。

 10日、神田の青年会館で創立報告演説会が開かれ、開会後まもなく解散させられ、数十名が検挙され13名が器物毀棄罪を問われることになった。



【アナ・ボル論争はますます激化】
 アナ・ボル論争はその後ますます激化し、それは直接に労働組合運動の中に持ち込まれていった。


【日本社会主義同盟解体される】

 日本社会主義同盟はほとんど何もなすことなく、翌年5月の第二回大会の開催をとらえて下された政府の結社禁止命令で幕を閉じてしまった。


東アジア・アナキズム運動クロニクル 

主要事項版 1906⇒2001           トップ・ページに戻る

それぞれの時代のアナキズム運動史を主要に参考にした。

1906 6月 幸徳秋水 無政府主義と直接行動論を主張

1906 8月 石川「堺兄に与えて政党を論ず」を発表

1906  末   中国から留学中の張継、幸徳と出会う

1907  3月  大杉栄、クロポトキン「青年に訴う」の一部訳を『平民新聞』に掲載、起訴される  ☆大杉栄クロニクル

1907 2月 幸徳「余が思想の変化」を日刊『平民新聞』に発表

1907 8月 幸徳、張継らの社会主義研究会で講演

1907 夏  「亜州和親会」活動

1907 8月24日 《在パリ、アナキスト張景などが刊行》『新世紀』10号、日本の朝鮮支配、帝国主義を厳しく告発

1907 11月 「亜州現勢論」掲載 劉志培『天義』11・12号合冊<東京で刊行>   

1907   亜州和親会第二回談合に大杉栄出席

1907 11月 張継、『総同盟罷工』漢訳本刊行 幸徳秋水原訳

1908 1月1日 『高知新聞』幸徳秋水「病間放語」掲載 ☆幸徳秋水

1908 1月 屋上演説事件・金曜会 『民報』主筆、張継らも集会に参加していた

1908 1月 労働者、宮下太吉 亀崎で演説会開催  ☆宮下太吉・天皇暗殺を企図したアナキスト労働者

1908 6月 赤旗事件、大杉ら弾圧   

      同事件、管野すが、神川マツ子弾圧、逮捕

1908 8月29日 赤旗事件、管野、神川に無罪判決

1908 10月 『無政府共産・入獄記念』内山愚堂、秘密出版    

1908 11月3日  宮下太吉『無政府共産』50部を受け取る    

   11月10日  東海道線大府駅での天皇の見物人に『無政府共産』を配る、公然たる反天皇宣伝

1909 11月3日  宮下太吉、明科で爆裂弾を試爆

1910 5月18日  管野、『自由思想』への弾圧で東京監獄に入獄

1910 5月25日  宮下太吉、弾圧逮捕    

1910 6月1日  幸徳、湯河原で弾圧逮捕

1910 6月  大逆罪で弾圧が広まる

1910 7月〜10月 26名が起訴<内2人は爆取罰則>

1910 11月 在米《革命社》岩佐作太郎、幸徳事件で公開質問状起草・発送

1910 11月12日 エマ・ゴールドマン、ヒッポリート・ハベルら5名のアナキスト・自由思想家が

          駐米全権大使内田康哉あてに講義文を送る、これを機に全米、ヨーロッパ

          抗議行動が広がる

1910 12月10日 公判開始

1910 1月18日 24名に死刑宣告

1911 1月24日 幸徳ら11名絞首  

1911  1月25日 管野、絞首、31歳

1911  3月 大杉、同志茶話会に出席 「春三月縊り残され花に舞う」 の句を読む

1912   大杉『近代思想』創刊

1913   師復『民声』創刊、南洋の労働者に影響を与える

1913   サンジカリズム研究会発足

1914   大杉『平民新聞』創刊

1914   ラングーンにて『正声』創刊

1915   渡辺政太郎、久板卯之助「研究会」

1917   マニラで華林『平民』創刊

1918 1月 大杉・伊藤『文明批評』創刊

1918 1月 和田久太郎、亀戸に同居 ☆大杉をめぐる同志の人々

1918   「北風会」創立

1918  5月 久板卯之助、和田久太郎ら『労働新聞』創刊、大杉協力

1919 5月4日 北京の学生アナキズム団体《工学会》、反日帝運動に決起

1919 5月4日 上海アナルコ・サンジカリズム<無政府工団主義>の団体《中華工党》ゼネスト扇動

1919   大杉『労働運動』第一次創刊

1919   南洋で最初の無政府主義者の組織「真社」結成

1920   第一回メーデー

1920   サンジカリズム労働運動で優位

1920   日本社会主義同盟結成

1920   自由人連盟組織

1920   大杉、上海の社会主義者会議に出席  ☆大杉を上海に誘ったコミンテルンの密使

1920   台湾から上智大学に留学中の范本梁、無政府主義に共鳴

1921   高尾、岩佐『労働者』創刊

1921   古田ら「小作人社」組織   ☆古田大次郎クロニクル

1921 11月 朴烈ら在日朝鮮人《黒濤会》組織、最初の思想団体

1922  5月 金子文子、朴烈と同居

1922  6月、7月 後藤謙太郎、石田正治、大串孝之助ら反軍ビラ「過激思想・軍隊宣伝事件」

1922 7月 山鹿泰治、上海にてアナルキスタ・フェデラツィオ、大同党に参加

1922 8月27日 《自由労働者同盟》中浜、中名生、白武、等結成

1922  夏  中浜、古田ら、ギロチン社結成

1922  夏  中国からの留学生、張景、春培「安那其主義者連盟」のビラを作り弾圧、検挙

1922   夏  信濃川、朝鮮人労働者虐殺事件。朴烈、中浜、現地調査行

1922 9月   虐殺糾弾集会が朝鮮人アナキスト・社会主義者により開かれる

1922   無政府主義団体《北京安社》に台湾から赴いた笵本粱が参加    

1922   虚舟「南洋安那其同志社」で活動

1922  9月30日 全国労働組合総連合創立大会決裂、天王寺、アナ・ボル勢力争い

1922 10月  <信濃川電化工事中の怪聞に因んで抱懐を述べる>新居格 『亜細亜公論』1922年10月号

1923 2月 朴烈《黒友会》 『太い鮮人』創刊

1923 3月 在日帝本国朝鮮人アナキストグループ《黒友会》機関紙『民衆運動』創刊

1923   シンチェホ、イ・フェヨン「自由連合によるアナキズム革命の必要を確信」

1923   シン・チェ・ホ「朝鮮革命宣言」執筆   

1923   愛真「東方無政府主義者同盟ペナン支部」結成

1923 5月 大杉、巴里のメーデーで演説  ☆巴里における大杉氏

1923 8月 大杉、アナキストの《連合》を企図

1923 9月3日 朴烈、金子文子弾圧・検挙さる

1923 9月16日 大杉、伊藤、虐殺さる

1923 10月16日 ギロチン社、古田ら 銀行員襲撃・刺殺

1923 12月27日 難波大助、摂政宮狙撃

1924 3月30日 中浜、弾圧逮捕

1924 4月27日 石川、新居「フェビアン協会」参加

1924 4月 《在中国朝鮮無政府主義者連盟》組織化『正義公報』発行

1924 9月1日 和田久太郎、大将・福田雅太郎の狙撃失敗、逮捕される

1924 9月10日 東京大井町で古田と村木は逮捕される

1924 11月15日 難波大助、処刑

1924 11月15日 難波の遺体を引き取りに出向いた、自然児連盟の山田作松、横山楳太郎、荒木秀雄ら

           アナキストが検束される

1924   范、北京で《新台湾安社》組織化

1925 1月20日 後藤謙太郎、巣鴨刑務所で縊死

 

トップページに戻る




(私論.私見)