428168 日本共産党のその後(ニ)考


1924(大正13)年の動き

福本和夫が帰国

 1924.8月末、こういう局面の中、マルクス主義イデオローグとなる福本が帰国する。帰国後の福本は、文部省派遣留学生であったため帰国後一定期間を教授義務を負っていた。京都大学大学院を希望したが受け入れられず、山口高商教授として勤務する。


 同年、学生連合会が、「全日本学生社会科学連合会」(学連)と改称し、マルクス主義を基本に置き、無産階解放運動の一翼を担う組織とみずからを位置づけ、軍事教練反対などの活動を行なった。

1925(大正14)年の動き

コミンテルンが党再建指示、「上海会議」が開かれる

 1925(大正14).1月、日共解党を良しとしなかったコミンテルン極東ビューロー(上海)は、再建行動派の荒畑寒村や佐野学・徳球を呼んでコミンテルン及びプロフィンテルンの専門家と上海会議を開き、党の再建を強力に推進すべきことをうたった「上海テーゼ」(1月テーゼともいう)をあたえた。このテーゼによって、ビューローは再建ビューローとして党の再建に乗り出すことになる。概要「今日日本にすべての共産主義者を結合する組織が何も無いということはこの国の革命運動にとって深刻な危機を意味している。我々の日本人同志は、機会主義の餌食になってしまったのた」()。

 「上海テーゼ」は次のように指針していた。

 「今日、日本に共産党が存在しないことは日本の革命運動にとって大きな危険である。然るに日本の同志達の間には、大衆が自然成長をなした後に共産党を結党するという日和見主義に堕しているものがあるのは甚だ遺憾である。又、日本共産党の従来の指導者は、非マルクス・レーニン主義を観念的抽象的にもてあそび正しい共産主義の理論が無い。革命的戦術によって大衆を指導し、以って党を大衆的基盤の上に築くことを知らず、このためにただ個人的関係を辿って党員を結合している。又、闘争を通じて鍛え上げた規律も無い。これまで出したコミンテルンの指令を実行せず、民主主義的な要求、大衆の民主主義のための要求とその闘争、普通選挙運動の必要、労働者農民の日常闘争への必然的な積極的参加の必要、合法的・非合法的出版の必要などについて実行していない。以上のような党指導者の誤った指導と、労働運動、政治問題その他一切の重要問題に対して党指導者が消極的であったために党は大衆から孤立し後退するのだ」。

 再建行動派は帰国後、ビューローを構成し、徳球が書記長に就任(組織部長兼務)、指導権を確立する。


コミンテルン極東ビューローにヤンソン(ジョンソン)が就任する
 この頃、コミンテルン極東ビューローは上海に駐在しており、それまでヴオイチンスキーがビューローを組織していたが、トロツキストという理由で更迭され、その後ヤンソン(ジョンソン)が就任した。ヤンソンは、ソ連大使館の商務官として東京にも駐在した。ヤンソンは日本資本主義上向説を採っており、ヴオイチンスキーの日本資本主義脆弱説と見解を異にしていた。

 この時点で、コミンテルンの議長はブハーリンであったが、当時のソビエト権力下ではスターリンと組んでトロツキー派と抗争していた。

 大正14・1月頃、佐野学、市川正一、渡辺政之輔、杉浦啓一の4名らからなる「共産主義者グループ」が、「共産主義者の行動を統一し、共産党結党の組織準備を目的」として結成されている。中央部員として、渡辺、市川、杉浦、野坂が選ばれ、市川が政治部担当、杉浦が組合部担当で発足した。しかし、渡辺が体調不良、杉浦入獄で、野坂が杉浦の後釜に座り、市川、杉浦、野坂の協議の上、佐野文夫、中尾勝男が中央部員として補充されている。後に、北浦千太郎、河田賢治他12名が更に選出されている。最高指導部は、北浦、河田、中尾、市川、佐野の5名で構成された。


「無産者新聞」創刊される

 1925(大正14)年、合法機関紙「無産者新聞」(主筆・佐野学)が創刊された。


【日共系「日本労働組合評議会」が結成される

 1925(大正14)年になると、労働運動における労働総同盟内で、渡辺政之輔らをはじめとする左翼急進派と西尾末広らの右派幹部との間の対立が激化、3月の全国大会で、右派系幹部の赤松克麿、西尾末広が攻撃された。右派は左派の除名に着手し始める。これに対し、左派は、山川均の指導の下で関東・関西の25組合を結集して刷新運動を開始し、4.12日、革新同盟を結成して対抗した。

 5.24日、総同盟は勢力をほぼ二分する大分裂(第一次分裂)を遂げ、革新同盟系左派32組合(組合員1万2500名)が「日本労働組合評議会」(「評議会」、委員長・野田律太)を結成した。以降、労働運動における評議会と総同盟の対立が顕著になる。共産主義者と社会民主主義者の争いの代行でもあった。「評議会」内部では、三田村四郎、鍋山貞親、山辺健太郎らが左翼グループを形成し、中村義明らが右派グループを形成した。

 同年、日本農民組合が中心となって、全国的単一無産政党樹立のための運動が起こったが、この無産政党の主導権をめぐって、労働組合の総同盟系と評議会系の対立が持ち込まれた。共産党系主義者たちは、総同盟系右派の運動を「資本家的精神への屈服」であるとみなして、執拗に攻撃した。無産政党運動は左右にはっきりと分裂し、それに応じて山川の「折衷主義」よりも福本の「分離結合論」が共産主義者をひきつけるようになっていった。


【治安維持法が公布される】
 1925(大正14).3月、この時の国会で治安維持法が通過している。4.22日、田中義一(軍閥)内閣が、治安維持法を制定して反体制運動の徹底的に弾圧に乗りだした。

 
第一条には「国体を変革し又は私有財産制度を否認することを目的として結社を組織し又は情を知りてこれに加入したる者は10年以下の懲役又は禁固に処す」とあった。成年男子に選挙権を与えるという見返りの弾圧立法で、治安警察法を強化したものであった。

 4月、治安維持法を公布、社会主義政党弾圧のかまえをしめした。5月にはソビエト同盟との国交を樹立させ、ソビエト大使館が日本に開かれている。その自衛措置でもあったかということになる。

 治安維持法は、「この法律は、国民を弾圧して、天皇制が勝手に侵略戦争を起せるようにすることを目的としたものである。日本政府のために、この法律は、1928年国民の先頭に立つ共産党や、日本労働組合評議会や、労農党に襲い掛かったことからはじまって、第二次世界大戦の終わるまで、全国民を侵略戦争に駆り立てる道具として使われた」(志賀「日本革命運動の群像」)。

 治安維持法は思想を処罰することができるという法律であり、そもそも限度の無い危険なものであった。事実、一度成立するや、立法当時の当局者の意志や弁明いかんに関わらず、この法自体が一人歩きし始め、動き出していくことになった。その様は次の通りであった。
 「戦前、治安維持法関係はすべて特高の担当であった。この法律をテコに、旧特高は、共産主義者からやがては学者や自由主義者、宗教家にまで猛威をふるっていくことになった。特高精度が全国的に整備を見た1925年(昭和元年)以降、司法関係だけでその検挙者は、5万2千人にも及んでいる。戦前、最大時でも共産党員は、千人を超えたことがなかったというのに−。思想信条に関わり無く、僅かでも『国体』に批判的な態度を見せれば、どんな人間でもたちまちこの法律の餌食にされたのである」(「伊藤律陰の昭和史」毎日新聞社編)。

【治安維持法を廻る左派運動内の二極化】
 治安維持法の成立が、当時のマルクス主義者の間に、今後の左派運動の進め方を廻って重大な意見の相違を発生させた。一方は合法主義運動で、多岐に分かれていた。山川イズムはこれに属した。他方は、革命主義的共産党運動。特に、革命主義的共産党運動の場合、ロシアのボルシェヴィキズム運動を手本にしていた。

 この対立は、日本の歴史的条件にたいする認識の相違によって、ますます激烈なものとなった。日本共産党再建派は、日本の支配体制を封建的段階の君主制と規定し、従って、丁度ロシアのニ月革命のように君主制ツアーリズムを打倒したように封建的天皇制を打倒し、ブルジョア革命を推進し、然る後に.社会主義革命へ向う。革命は目前に迫りつつあり、革命の前夜にある。従って、日本のプロレタリアートの革命事業を指導する革命主体としての党を確立しなければならない、と認識していた。

 他方、山川派は、日本共産党再建派の前衛主義的観点に対抗し、論戦し、闘争した。この人びとの主張はだいたいつぎのようなものであった。日本資本主義は、1897〜1910(明治30〜明治末)年の頃に確立した。第一次世界大戦の好景気のなかで資本の集中は急激に進行して、独占資本の支配する帝国主義国となっている。日本の独占ブルジョジ-の寡頭支配は、本来ブルジョアジーが絶対主義とをたたかって実現しなければならない民主主義を、かえって圧殺しつつ支配権を確立しつつある。天皇制は、独占資本支配の防衛と安定の壁として神秘の霧に包まれながら維持されている。従って、労働者階級の正面の階級的な敵は、日本を支配する独占ブルジョアジーでなければならない。

 両派には現状規定を廻って上述のような対立が発生しつつあった。問題は、山川派の運動論にあった。山川派は、日本を支配する独占ブルジョアジーとの闘いを目指すと云いながら、実際の運動方針は穏和主義的なもので、漸次的社会主義という当局から容認される範囲での合法主義の枠内に押し込めようとしていた。

 曰く、「これら勤労国民の民主主義的闘争のなかで、マルクス主義者は、かれらの歴史的目標にたっするための強力な革命政党に成長し、その周囲に農民および一般勤労大衆を結集して、膨大な社会主義革命達成の勢力をつくりあげることに成功しなければならない。この民主主義的闘争のなかで、鍛練されて、社会主義革命の主体が成立する」。

 日本共産党再建派から見れば、山川イズムの合法主義は当局への屈服運動以外の何ものでもなかった。しかしながら、その後の左派運動は、それぞれが別途に社会主義の道へ向うことになり、二度と交わることは無かった。

【上海会議】
 5月、上海で、ヴォイチンスキーの指導の下で、日本共産党再建会議が開かれた。日本から荒畑、渡辺、青野その他、プロフィンテルンから近藤が参加していた。

日本労働組合評議会が結成される
 5.24日、日本労働総同盟が分裂し、総同盟を放逐された左翼が日本労働組合評議会を結成した。1万名以上のメンバーが結集していた。その綱領は、「資本家の搾取」、「労働階級の完全な解放」を掲げていた。

【「コムミユニスト・ビューロー」確立される。徳球→佐野がビューローの中央委員長に就任する】
 1925.7.29日、佐野が日本共産党再建のため帰国。再建行動派を纏めて「コムミユニスト・グループ」からなる「コムミユニスト・ビューロー」を組織し始める。執行部を委員長・徳球、成治部長・佐野学、組織部長・渡政、青年部長・北浦千太郎、関西地方担当・荒畑で構成した。渡政は南葛労働組合の創始者メンバーで、この時以来党内で短命ではあったが顕著な役割を果たすようになる。

 「コムミユニスト・ビューロー」の当面の任務は、1・赤松派の社会改良主義、安倍磯雄らの日本フェビアン協会、その他小ブル急進主義を克服し、無産政党運動の圏外に放逐する。2・宣伝戦を重視し、組織を伸張させ、大衆動員力を付ける。

 12月、佐野がビューローの中央委員長となる。

【全国水平社青年同盟の動き】
 8.5日、全国水平社青年同盟が、機関紙「選民」を「青年同盟」に改題し、全国の青年運動の機関紙に昇格させた。北浦千太郎、岸野重春、片山久らが中心となってこれを推進した。

 9月、評議会の招待で、ソビエトの労働組合代表・レプセが中国から来日。門司から大阪、東京の各駅で歓迎の会を設け、最初の国際的連帯の具体的行動となった。


【「京大学連事件」に治安維持法が初適用される
 1925(大正14).12.1日、京大学連事件が発生した。これは文部省が軍国主義者の計画した学生軍事教練に着手しようとして、これに反対する学園軍国主義化反対闘争が起り、憲兵・特高が協力して学生を検挙した事件のことを云う。京都府警特高課(内務省)は、出版法・治安警察法違反容疑で、京大・同志社大生らの下宿や自宅、合宿所、寮などの一斉捜索を行い、全国の学生38名が治安維持法違反による初の犠牲として検挙された。

 この時逮捕された学生は、新人会の林房雄、是枝恭二、村尾薩男。他にも岩田義道、鈴木安蔵、逸見む重雄、栗原祐、武藤丸楠、野呂榮太郎、秋笹政之輔、淡徳三郎らであった(内訳は、鈴木安蔵らの京大20人、東大、同志社大各4人、野呂栄太郎らの慶大、大阪外大各2人をはじめ、合計38名)。

 本来の狙いは家宅捜索によって押収した文書から共産党幹部の動向を探るといった一種の予防検束旧行政執行法により、警察官が罪を犯すおそれのあるものを一時的に拘束し警察に、留置の処置をとることだった。京都学連事件は、公布された治安維持法適用第1号となった。治安維持法の適用第一弾として、当時活発化しつつあった学生運動にまず襲い掛かったことが史実に刻印されている。

 京大教授団や新聞報道などはその強引な特高のやり方に強い批判を加えたことと相俟って、京都府警も起訴できる証拠を収集できなかったため、結局、週間後の12月7日には全員を釈放せざるを得なかった。しかし、特高に代わって検察(司法省)が動き始めた。同年12.16日、検事総長・各地裁検事正に各府県特高課長も加わった秘密会議が行われ、治安維持法を初適用し、学連の中心人物を検挙する方針を決定した。


 1926(大正15年).1.15日、検察は、「京大学連事件」の検挙者全員を起訴した。同時に、検察は、京都大学の河上肇や同志社大学の山本宣治などの教授をはじめ、社会運動家らも逮捕したり、家宅捜索を行なった。
 

 1927
(昭和2).5.30日の京都地裁の判決は、禁錮1年が4人、禁錮10ヵ月が11人、禁錮8力月が23人の38人全員有罪であった。双方が控訴した控訴審の始まった1928(昭和3)年3月5日の10日後に起きたのが治安維持法の本格的な適用である「3・15事件」であるが、控訴審は、京都学連事件と3・15事件を一連の事件として裁き、無罪3人のほかは、最低で禁鋼1年6カ月、最高懲役7年の判決を言い渡した。

農民労働党→労働農民党(労農党)が結成される
 1925(大正14).12月、労働総同盟や日本農民組合を中心に農民労働党が結成された。しかし、この最初の無産政党は即日結社禁止となり三時間ほどの命だった。しかし、ただちに新たな取り組みが開始され、今度は日本労働組合評議会、水平社青年同盟など共産党系の団体を除く形で、1926年3月に労働農民党が結成され、委員長には日農の杉山元治郎が就任した。

 綱領はブルジョア的な改良をめざした次の三箇条であった(その後できたいくつかの無産政党の綱領もその性格と内容は基本的に同じものである)。
 われらは、わが国の国情に即し、無産階級の政治的、経済的、社会的解放の実現をめざす。
 われらは、合法的手段により、不公正なる土地、生産、分配に関する制度の改革を期す。
 われらは、特権階級のみの利害を代表する既成政党を打破し、議会の徹底的改造を期す。

日本労働組合評議会が労農党のイニシアチブを獲得
 「日本労働組合評議会」を中心とする共産党系団体は全国各地で労農党の地方支部への加入を追求し、労農党内での勢力と影響力を拡大していった。そしてこれに反発する総同盟は26年10月に労農党を脱退、この結果、労農党は事実上、共産党系の支配するところとなり、杉山に代わって大山郁夫が委員長の座に着く。

社民系「社会民衆党」(社民党)、日本労農党(日労党)が結成される

 一方、労農党を脱退した総同盟は海員組合などと共にこの年の12月、反共を明確にした社会民衆党(社民党)を結成した。赤松克麿がそのイデオローグとなった。

 しかし、これに反発する麻生久ら総同盟内の中間派は総同盟を割って出て(第二次分裂)、三宅正一、浅沼稲次郎ら日本農民組合の中間派とともに同月、日本労農党(日労党)を結成した。また、これより前、日農からは平野力三らの右派が脱退して別の農民組合を作るとともに、農民だけからなる政党・日本農民党(日農党)を発足させた。

 こうして「全国単一の政党」の掛け声とは裏腹に、わずか半年余りで左派の労農党、中間派の日労党、右派の社民党、最右派の日農党と、無産政党は四分五烈の状態となった。その後も無産政党は目まぐるしく合同・分裂劇を繰り返していくことになる。


 12.6日、文芸戦線派が、「日本プロレタリヤ文芸連盟」を結成した。この連盟の綱領には、1・我々は黎明期における無産階級闘争文化の樹立を期す。2・我々は団結と相互扶助の威力をもって広く文化戦線に於いて支配階級文化及びその支持者と闘争せんことを期す、が掲げられた。この連盟は、マルクス主義、アナーキズム、社会民主主義の即自的共同戦線状況下にあった。


1926(大正15)年の動き

 1.30日、第1次若槻礼次郎内閣が成立する。


共同印刷争議が勃発

 2ー3月、共同印刷争議が勃発し、評議会の指導で2300名の労働者が58日に亘ってストライキを闘い抜いた。評議会は、幹部の中尾勝男、伊藤政之助、渡辺政之輔、野田律太らが直接陣頭指揮した。プロレタリア作家・徳永直が「太陽の無い街」と題してこの闘争を知らせた。


 3.5日、労働農民党が結成される。


 3月、佐野が、不在裁判で受けた懲役十月の刑を受けるために自首し、1926.12月、出獄する。


 3.20日蒋介石が反共クーデターを起こす(中山艦事件)


福本が上京し、党再建活動に参画する
 3月末、山口高商辞職。上京。菊富士ホテルに下宿。4−5月頃、コミュニスト・グループに正式に加盟。すぐにビューローの一員として働くことになり、組織的活動に入る。福本が佐野文夫、渡辺政之輔と3名で党再建活動を指導する。佐野文夫が委員長。渡辺が組織と財政。

福本イズムが急速に台頭、席巻する

 「転向論の再構築」「戦前日本共産党略史」その他を参照させていただく。

 こうしたコミンテルンの働きかけによる再建の動きの一方で、この頃国内において福本和夫が出現し、福本イズムが急速に台頭してくることになった。第一次共産党から20年代前半の日本のマルクス主義の理論的指導者は山川均であった。その一方で、共産党の外ではあるが河上肇のマルクス主義理論が存在した。

 「福本和夫は、『河上肇の二元論』と『山川均の機械的な反映論』をともに批判し、ルカーチの『階級意識論』の立場から、『宿命的歴史観としての日本マルクス主義』を『能動的歴史観』に転換した」(伊藤1988)。彼は有名な「分離結合」説を唱え、強く結合するためにはまずはっきりと分離しなくてはならない、として、理論闘争の重要さを強調した。

 1925年は、労働運動の中で、労働総同盟と対立して共産党系の評議会(日本労働組合評議会)が結成された。同年、日本農民組合が中心となって、全国的単一無産政党樹立のための運動が起こったが、この無産政党の主導権をめぐって、労働組合の総同盟系と評議会系の対立が持ち込まれた。共産主義者たちは、「具体的項目としては自分たちのとたいして違わない右派の綱領案の背後に、『資本家的精神への屈服』をみつけては執拗に攻撃した。この対立はすぐに統一的無産政党運動を行き詰まらせる結果になった。そうした共産主義者のセクト的な活動の中で、山川の「折衷主義」よりも福本の「分離結合論」が共産主義者をひきつけるようになる。

 こうして福本和夫は、山川均に変わってコミュニスト・グループの指導的理論家としてもてはやされることになる。山川均の思想は「山川イズム」と呼ばれるようになり、かわりに福本イズムが共産主義者を支配した。「そして、この一年、福本イズムは一世を風靡したのであった」(高知聡「日本共産党粛清史」)という情況が生まれ、福本自身も「俺は日本のレーニン」と自負していたと伝えられている。この時期から翌年の1926(大正15)年にかけて福本イズム一色となった。

 福本理論の眼目は、その理論において従来の日本コミュニズム運動の在り方に鋭い批判が込められていたことにあった。福本は、日本マルクス主義運動に足らざるものとして意識的に「分離−結合」論を持ち込んだ。「分離−結合」論とは次のようなものであった。概要「無産階級の運動は、経済闘争から政治闘争へと転換すべきであり、そのためには革命意識の昂揚を必要とする。それにはまず無産階級の中から真のマルクス主義者のみが分離して、それだけが結合しなければならない」。

 この観点は、主として山川イズムを右翼日和見主義であると論難していることに意味があった。概要「理論を実践の直接経験から形成する仕方なるものは『組合主義』でしかなく、これが『従来我々の陣営を支配していた指導精神』であるが、これは『悪しき折衷主義』に他ならない」と批判していた。他方で、日本共産党史に輝く「渡政、市正、徳球系運動」的急進主義運動でさえ経験主義でしかないとしてその欠陥を鋭く突いていた。

 高知聡氏は、「日本共産党粛清史」の中で、「(そういう)組織実態を考えるなら、理論闘争の即自性自体においてすら、圧倒的な意義があったといえるほどである」と福本イズムを高く評価している。れんだいこ史観に照らしてみても、「福本イズムの特徴は、先に既に革命を遂行した一国を除いては果敢なる理論闘争により、世界いずれの国におけるよりも先鋭なる意識を獲得したる政党として、日本共産党を形成しようとしていた」ことにあり、いわば「理論百%主義」と評されようとも「理論自身の生産性を的確に認識していた」という意味でかなり価値が高いと思われる。(詳細は、「福本イズム考」参照のこと)


【指導幹部下獄入り】
 4−6月、佐野学、市川、徳球、野坂らが下獄。高橋貞樹はモスクワのレーニン研究所入りする。志賀は一年志願兵として下関の砲兵隊。

 5−6月頃、野坂が水野成夫をオルグし、入党を勧誘。水野が「グループ」に入党している。


浜松楽器争議が勃発
 5ー8月、共同印刷争議に続いて浜松楽器争議が勃発し、評議会の指導で1200名の労働者が105日に亘ってストライキを闘い抜いた。評議会は、幹部の三田村四郎、鍋山貞親、本沢兼治、寄田春夫、中村義明、南喜一、野田委員長ららが直接陣頭指揮した。プロレタリア作家・徳永直が「太陽の無い街」と題してこの闘争を知らせた。右翼テロに対し左翼テロで応じるなど果敢な闘争史が刻まれている。

 8.8日、スト終結。

 5・6月下旬頃、「共産主義者グループ」の中央委員会が開催されている。参加者は、徳田、市川、佐野、北浦、野坂の5名。この時、徳田が「急速に日本共産党を作り上げなければならぬ。それが為に、メンバーを拡大し、グループの組織機関を改造して、積極的な行動を採れるようにする」と述べている。又、「第三インターナショナルで協議した方針書様のものを出して、それに基づいて話を致しました」(「野坂参三予審訊問調書」)。


 6.10日、朝鮮半島で、六・一〇万歳運動が起こる。


 7.1日、中国で蒋介石が国民革命軍を率いて北伐を開始する。


 7月初旬、磯部鉱泉において、徳球がモスクワよりもたらされた「テーゼ」を報告し、これに基づき新任中央委員会が新方針を確立している。


 7月、野坂の共産党事件の刑が禁固4ヶ月と確定し、豊多摩刑務所に入所。11月初めごろ出所する。その後体調悪くし、昭和2.1月から3月まで伊豆山に転地療養。


 8.1日、全日本無産青年同盟が結成され、片山久が委員長に就任。山辺健太郎らが加盟。


 9.8日、 ドイツが国際連盟に加入し、常任理事国となる。


 10.14日、「日本プロレタリヤ文芸連盟」の第2回大会が開かれ、ボル派がアナーキズム派に対する支配権を確立した。アナ系作家・中西伊之助、村松正俊、松本弘二らが除かれ、秋田、江口、佐々木らの指導が確立された。新指導部は、「プロレタリヤ芸術連盟」と改称し、文学、演劇、美術、音楽の4部門を設けた。


 10.19日、イギリス帝国会議がロンドンで開催され、イギリス本国と自治領の地位は平等とされる。(バルフォア宣言)


 10月、赤松らは、総同盟の右派を率いて、労働農民党の左翼的傾向に反対して脱党し、同年12月、安部磯雄を委員長として、吉野作造、北沢新次郎、白柳秀湖らを顧問に「社会民衆党」を創立した。綱領は、1、勤労階級本位の政党、2、資本主義の改革は合法的手段による、3、左翼急進主義を排す。

 大山郁夫らの労農党や、麻生久らの日本労農党、日本共産党から、日和見主義者党、労使協調主義者などと批判された。

【第二次日本共産党の再建】
 この頃、大正天皇が重病に陥り、新聞は連日病状を報道し始め、警視庁も皇太子裕仁が新天皇になる天皇交代に向けて葬儀、即位の警備に注意が向っていた。大正天皇が死亡したのは12.25日であるが、その間隙を縫うようにして日共の再建がセットされた。大会参加者を予め分散させ、福島・山形の県境にある五色温泉宗川旅館で落ち合わせるという用意周到さであった。

 1926(大正15).12.4日、山形県五色温泉の旅館で党再建大会が開かれ、第二次日本共産党が再建された。佐野と福本が正副議長となり、党宣言、規約、運動方針、党機関などを決定した。2年半の「ビューロー時代」を経過して党が再建されたことになる。これが第3回党大会となる。佐野が開会挨拶し、党員120名と発表した。福本が立党宣言を朗読し提案説明した。佐野が規約案を説明し、渡辺が党中央委員役員の提案をした。

 再建大会参加者は次の通り。
党再建準備会代表者  福本和夫、佐野文夫、渡辺政之輔、中尾勝男、松尾直義、三田村四郎
関東地方代表  片山久、水野成夫、日下部千代一、豊田直、門屋博
関西地方代表  国領五一郎、喜入*太郎
九州地方代表  藤井哲夫
書記  藤原久、中野尚夫
警備  菊田善五郎

 中央委員長に佐野文雄、中央委員に福本、渡政、徳球、市川正一、佐野学、鍋山貞親、中尾勝男(評議会の指導者)が選出された。中央委員候補として、三田村四郎、国領伍一郎、杉浦啓一、河合悦三、松尾直義。統制委員長・荒畑らが選任された。

 この時、福本は党中央政治部長の役に付き、本格的に実践運動に身を投ずることになった。こ経緯で顕著なことは、第二次日本共産党は福本イズムを獲得することにより可能になり、実際でもその強い影響下で行われたことを物語っている。当然、採択された大会宣言は福本イズムの観点を取り入れており、「理論闘争の展開は真のマルクス主義意識を獲得せる革命的インテリゲンチャの結成をもたらし、労働者運動と結合するに至って今や我々は自らの間に存する折衷主義を克服しつつある」と確認されている。しかし、この方針はコミンテルンの指導テーゼと食い違っており、紛糾していくことになる。

 この時、山川イズムと福本イズムが審議され、福本イズムが圧倒したものの綱領の採択には至らなかった。福本イズムの観点の濃い大会宣言が採択されたが、コミンテルンの指導テーゼと食い違っていた。こうしたことから、翌1月、指導部は連れ立ってモスクワに行くことが決められた。
この背景にあった事情は次のように解析できる。福本イズムが当時の青年マルクス主義者の共鳴を呼び、日共再建の指導理論として脚光を浴びていたが、党内の決着は着かず、第二次共産党再建の報告と福本イズムの裁定をコミンテルンに仰ぐために訪ロすることになった、ということである。

 この時の綱領は次の13項目を骨格としていた。1・天皇制の廃止、2・議会の解散、3・18歳以上の男女の普通選挙、4・言論、集会、結社、出版の自由、5・一切の反労働者農民法の撤廃、6・8時間労働制、7・資本家全額負担の失業保険、8・皇室、地主、寺院等の土地の無償没収、9・高度の累進所得税、10・ソビエト・ロシアの防衛、11・中国革命の不干渉、12・戦争の危機に関する闘争、13・植民地の完全なる独立。
(私論.私見) 「第二次日本共産党の再建の秘密裏の開催成功」について

 さほど注目されていないが、第二次共産党の再建は、その後暫くの間当局に感知されなかった。ということは、逆に言うと、この時のメンバーには組織的なスパイが潜入していないことになる。党再建大会の顔ぶれは、そういう意味に於いて評価される。付言すれば、野坂が入っていない。

 このことは、警視庁の面目を潰し、以降に於いて組織的なスパイを潜させていくことになる。その果てにスパイM、その失踪後は宮顕が登場し党中央を壟断していくことになる。

 2006.5.31日 れんだいこ拝

【時代の寵児としての福本イズムについて】
 山川イズムで解党した共産党は「福本イズム」で再建された。福本イズムは、分離結合論で象徴されるように理論闘争の重要性を格別主張したことから、インテリ層を惹きつけ理論研究活動を盛んにさせた。他方で、その結果、理論研究活動は盛んになっても、たとえば東大新人会では「書斎派」と呼ばれるような、理論を振り回しがちな風潮をつくった。そして、福本和夫という個人に権威が集中することで、個人崇拝の傾向が起こり、福本と「女子学連」とのスキャンダルも生むことになる。

 福本イズムは、批判の舌鋒を鋭くしたことにより労働組合や単一無産政党結成運動内に分裂を促進していかざるを得なかった。通説運動史は次のように評している。概要「これはそのセクト主義、最後通諜主義で純化された理論で、組織論では山川の対極に位置する内容をもっていた。こうして日本共産党はその出発の数年間において、組織方針の右翼路線をとって自ら解党し、次いで、その対極の極左路線をとって、極度のセクト主義で再結集するというジグザグを描くのである。解党主義に対する勝利の反動として福本和夫の『左』翼教条主義が支配することになった。結果的にマイナスに作用した」。

(私論.私見) 福本イズムをどう評すべきか

 福本イズムが実践の上でいくつかの齟齬を引き起こしたことは事実である。しかし、そのことをもって福本イズムの意義を落し込めるべきであろうか。むしろ、不可避的な産みの苦しみとしての鎮痛でもあったのではなかろうか。第一次日共崩壊から再建期における福本イズムの意義、功績をないがしろにする論評が主流であるが、れんだいこはそうは思わない。むしろ、その意義、功績をいくら強調してもし過ぎる事は無い、と総括している。


【山川派が別党コースに向う】

 福本イズムが、山川均に変わって「コミュニスト・グループ」の指導理論としてもてはやされるようになった。こうした流れの中で、山川は党の再建を肯定せず、堺利彦とともに再建ビューローから抜け出し、荒畑寒村もまたこうした福本イズムの台頭に抗議して後に再建される第二次共産党には参加しなかった。その後山川や荒畑は、雑誌『労農』に拠って、労農派として共産党と対立することになる。この時、山川派はこの動きと決別しており、ここに日本左派運動マルクス主義派に二潮流が生み出されたことになる。

 
「1921年に結成された第一次共産党が官憲の弾圧によってつぶされ、マルクス主義者は2つの傾向に分裂した。片方は山川均に代表される山川イズム、他方は福本和夫に代表される福本イズムである。福本は「結合の前の分離」という理論により、純粋な前衛党として共産党を再建することを主張し学生らに支持された。一方、山川はこうした傾向を批判しまず労働者大衆を組織した合法的無産政党をつくることを主張、マルクス主義者が労働者の目前の利益のために闘い大衆を組織することの必要性を説いた(「無産階級運動の方向転換」1922年)」。


 この頃、第一次共産党事件で検挙された幹部が刑期を終えて次々と出獄してきた。「佐野学、市川正一、徳田球一らの諸君に、それぞれ個別に佐文、福本、渡政の3人が会見して、決定内容を文書で示し、十分に時間をかけて討議した」(福本和夫「革命回想第一部非合法時代の思い出」)。
 徳田君は積極的に賛意を表明したが、ただ委員長でないのがすこぶる不満らしく渡政君との間に醜いもつれを演じたので、佐文君が委員長を引いて、彼に譲ることになった。(福本和夫「革命回想第一部非合法時代の思い出」)。

 12月、鍋山貞親がコミンテルン第六回拡大施行委員会(プロフィンテルン)に日本代表として参加し、国内の動きを報告。コミンテルンは福本イズムに警戒心を露にした。早速、新たに選出された中央委員と、福本イズム・山川イズムの両責任者をモスクワに寄越せという秘密電報が東京に飛ぶ。

 12.25日、大正天皇が崩御し昭和天皇が即位する。元号が昭和となる。(この日から年末まで昭和元年)


1927(昭和2)年の動き

 1927(昭和2).1月、第二次共産党第3回中央委員会が開かれ、1・コミンテルンへの代表派遣の件、2・留守中の指導部の人選を協議した。党代表として、徳球、佐文、渡政、福本、中尾勝男、河合悦三の6名の派遣が決定された。留守居指導部に付き、委員長代理に市川正一、その補佐に三田村四郎、志賀義雄を選出した。

 渡政らは、入露に先立ち、山川派からも代表者を出すべきだと働き掛けている。しかし、山川派はこの申し出を拒絶した。この拒絶が、山川派をコミンテルン直系日本共産党運動から決別させる契機となった。


【第二次日共幹部が大挙してモスクワを詣で、論争を経て福本イズム一蹴される】
  1927(昭和2).2月、モスクワ行きの代表委員として第二次共産党の指導幹部のうちから徳球、佐文、渡辺、福本、中尾勝男、河合悦三の6名が選ばれ、それぞれモスクワに向った。中尾、河合が先遣隊。続いて五月雨式に向った。福本は、徳球とウラジオスクで落ち合い、列車で共にモスクワに句かう。「ウラジオからモスクワまで、汽車は11日かかった。汽車で11日ぶっつけの旅は、私にはこれが初めての経験だったが、幸いに、私は少しも退屈しなかった」とある。

 モスクワに来着。福本は、ブハーリンと会見。片山潜の訪問を受け種々話す。「私の部屋には、特に二度もこっそり一人で、わざわざ訪ねてこられて、親しく色々と打ちとけたお話も聞いたが、そのうちで、スターリンについて、『スターリンは無学だからね、困ったもんだ』と、長嘆息されて、吐かれた言葉が、今も猶私の耳に残っている。恐らく一生忘れないであろう」とある。一行は連れ立って赤の広場とレーニン廟を詣でる。

 既に佐野・渡政とコミンテルン日本駐在のヤンソンと日本のソ連大使館内で論争が為されており、ヤンソンと絶交に及ぶほど深刻な対立を生み出していた。モスクワに着いて見ると、スターリン・ブハーリン派の強硬な態度に直面することとなった。当時、ブハーリンは、スターリンと左翼合同権力派として組んでおり、トロッキー、ジノヴィエフ、カメネフらの左翼合同反対派を駆逐して、コミンテルン議長の要職に就いていた。

 このスターリンーブハーリン体制の時代に、コミンテルンが完全に統一された単一の世界党(ウェルト・パルタイ)として位置づけられ、ソ連を絶対無条件に支持する者が世界の共産主義者の証しである、ソ連を絶対無条件に支持するものでなければコミニストでない、とされるようになった。いわゆるプロレタリア国際主義のソ連邦祖国主義及びその防衛主義への捻じ曲げであったが、この当時、それを疑う者が輩出せず、むしろスターリンの至上命令を金科玉条にして後生大事にするという作風に染まっていた。

 ちなみに、第二次世界大戦後の戦勝祝賀会で、スターリンは、「我々は、49年前の日露戦争の仇を打ち返した」と述べており、それを思えば、「ソ連絶対無条件支持」はソ連大国主義への協賛運動であったことになる。

 既に派遣されていた鍋山、高橋貞樹を含めコミンテルン本部に於いて特に編成された「日本問題に関する特別委員会」の第一回小委員会が開かれた。コミンテルンとの見解のすり合わせを経ての党綱領の作成に着手する為であった。この時新指導部のほぼ全員が福本イズムを積極的に支持しており、コミンテルンとの意見調整という目的があった。イギリス共産党書記長のマーフィーが司会し、徳球が音頭を取る。「日本資本主義の激烈没落説、革命前夜説」をぶつ。次に、福本が発言を促され、徳田説を批判する。福本の絶対君主制論、急速転化の二段革命論が批判される。

 そのいきさつとは次のようであったと伝えられている。コミンテルン側は日本の代表同士を議論させた。コミンテルン側は重要な遣り取りの時にはヤンソンが出席、更に重大な局面では「共産主義のABC」、「史的唯物論の理論」の著者でコミンテルン議長の要職にあったブハーリンが直接指揮し、主として福本イズム批判の遣り取りとなった。

 福本の「革命回想第一部非合法時代の思い出 P160」に、 レーニンの遺書の件でブハーリンについて次のように記述している。
 「ブハーリンは党の最も貴重な理論家であり、最大の理論家であるばかりでなく、全党の人気者であるかも知れぬ。しかし、彼の理論的見解は決してマルクス主義的だとはいえない。彼には幾分衒学的なところがある。彼は決して弁証法を学んでいない。彼はこれを十分に理解しているとは決して考えられない」。

 ブハーリンは、福本イズムに対し、急速転化の二段革命論については「私は正しいと思う」と述べたものの、「同志黒木の分離結合論は非常な誤りであって、速やかに克服されなければならない」と断罪した。福本たちは自分たちの福本イズムに絶対の自信をもっていたようだが、コミンテルンに明確に否定されると、福本本人も含めて誰も反論することができなかったという。

 高橋貞樹が急先鋒で福本批判を始めた。福本はトロツキストの烙印を押される危機に直面してか、それなりに弁ずるものの沈黙を余儀なくされた。この流れを見て、福本支持の一番有力手であった徳球は、「俺は福本によって迷惑しているんだ。福本の欠点は前から分かっていた。しかし、福本はなかなか自説を撤回しないから、俺が騙してモスクワへ連れて来たんだ」と云いながら、福本を殴るか蹴るかした。渡政がそれを見て、「この野郎、貴様みたいな裏切り者があるか。今までさんざん福本を担ぎ上げてきたのは、お前じゃないか」と云いながら、いきなり徳球を殴り倒したとか、この時の徳球の豹変振りに対して「国際的山師」と異名がつけられるようになったとか、伝聞で面白おかしく伝えられている。ありそうなことではあるが真偽は分からない。心なしか意図的な徳球誹謗逸話のような気がしない訳でもない。福本の弱腰ぶりも記録されている。

 河合悦三は次のように記している。
 「次に日本問題のテーゼが作成された経過を述べてみよう。党の代表者として又福本主義の最も熱心な主張者であった渡政は高橋によってもろくも説服され、福本到着前既に反福本主義者になってしまった。そして福本が到着するや否や来るべき革命がブルジョア革命なりやプロレタリア革命なりやを論議した座談会に於て僅かに二、三時間にしてその理論的破産を宣告され、中央委員会を辞任せしめられた。次いで、徳田も暴力的に指導者たる資格を奪われた。こりより先既に佐野は福本等によって中央委員長を辞職せしめられていたとのことだ。福本主義は、党の代表によってコミンターンに持ち出されるまでに、既に克服されて、いわゆる労働者団なるものが組織され、高橋は通訳としてではあるが、これの理論的代表者となった」。

【コミンテルンによる第二次日共指導部の強制的交替】
 この時、コミンテルンは同時に佐野文・徳球・福本を中央委員から罷免し、佐野学、市川正一、荒畑、渡政、鍋山を中央委員に 、新たに山本懸蔵、国領伍一郎らを新中央委員を任命した。国際主義とコミンテルン拝跪主義との混同による明らかに人事介入であったが、これを異と思わないコミンテルン拝跪ぶりであった。当時のコミンテルンの権威は絶対的で、誰もこれを訝る能力を持ち合わせていなかったということでもあろう。「これを機に、コミンテルンの日本共産党にたいする指導関係が本当に成立した」と評されているが、本当とつけようがつけまいが指導関係は一貫しており、「指導から支配関係の成立」と読むべきであろう。

 新指導部は、インテリ1に対して労働者2という比率が形式的に利用されており、渡政らに帰国後直ちに第一回普通選挙に党を挙げて取り組むよう指示した。「これを機に、コミンテルンの日本共産党にたいする指導関係が本当に成立した」と評されている。


 渡政、福本、鍋山、中尾、河合の5名が一緒にモスクワからの帰路についた。佐野文と徳田が残った。

(私論.私見)

 こうして、福本イズムはコミンテルンに批判され、共産党は路線転換を行うことになった。以降、福本は党中央の舞台を去ることになる。 コミンテルン事大主義下の日共運動は自ら福本イズムを排斥して行くことになったが、福本主義の2年余の活動は日本左派運動史上の金の卵であり、その卵を自ら潰したことになる。日本左派運動はこの時より「理論軽視」の負の歴史がついて廻ることになる。

【スターリン派とトロツキー派の最後の抗争】
 この時、スターリンとトロツキーの最後の論戦が行われている。

 留守の間の執行部は、臨時中央部が構成され、委員長・市川、これを志賀、三田村、佐野学が補佐した。指導幹部がモスクワ滞在中に、新方針を立てた。その内容は、右翼日和見主義的なもので、1・日本の国家権力を天皇、地主、資本家からなる三位一体規定、2・当面の革命をブルジョア革命とし、民主的議会を持つ共和制国家樹立革命、3・社民主義とは一線を画すが、清瀬一郎らの革新クラブとの提携を目指す。「22年テーゼ」よりも後退していた。


【野坂入党】
 3−4月頃、市川正一紹介により野坂参三が正規に第二次日本共産党に入党。
(私論.私見)

 今日野坂の胡散臭さは知られている。野坂の入党によって、国内の党運動のみならず国外のコミンテルン活動も、その後の中共での延安活動も、戦後の党運動も大きく穏和化されていくことになる。この辺りの考察が全く為されていない。

 2006.5.31日 れんだいこ拝

 4.20日、男爵陸軍大将田中儀一が政友会指導者として総理大臣に任命された。


【評議会第3回大会が開催される】

 5.10日、大阪の四天王寺公会堂で、評議会第3回大会が開催される。この時、概要「日常的経済闘争の方針について過去の実践闘争の経験が総括され、労働組合統一の問題が提起された」(山辺健太郎「社会主義運動半生記」)。

 この大会で、労働者が、企業や労働組合の枠を乗り越え、現場ごとに代表を選出して共同闘争を組織する為の「工場代表者会議」戦術を打ち出した。これは、当時のプロフィンテルン(国際赤色労働組合連盟)の注目を浴びるほど高い水準のものであった。


【「日本プロレタリヤ文芸連盟」内にも「政治の優位性」を廻って対立が発生】
 「日本プロレタリヤ文芸連盟」内にも、「政治の優位性」を廻って対立が生じた。鹿地亘(本名、瀬口貢)、久板栄二郎、中野重治、佐野*、谷一(本名、太田慶太郎)らは、プロ芸運動は一般プロレタリア政治運動の一部でなければならぬと主張した。これに対し、藤森成吉、青野季吉、林房雄(本名、後藤寿夫)、村山知義、葉山嘉樹、山田清三郎、蔵原惟人、小川信一、田口憲一、前田河広一郎、金子洋文、黒島伝治、平林たい子らは芸術の特殊性を強調して政治への従属に反対した。それぞれの立場はその後変転するが、この時点での流れは以上の如くであった。

 6.19日、後者はプロ芸から脱退して、「労農芸術家連盟」(略称「労芸」)を組織し、「文芸戦線」を機関誌とし、劇団「前衛座」を組織した。前者は、プロレタリヤ芸術連盟に残り、新たに機関誌「プロレタリア芸術」を創刊し、劇団「プロレタリヤ劇場」を組織した。

 「労芸」の山川イズム派が更に飛び出し、「前衛芸術家同盟」(略称「前芸」)を結成し、機関誌「前衛」を発刊し、劇団「前衛劇場」を組織した。この派は、藤森成吉、林房雄、佐々木孝丸、村山知義、蔵原惟人、小川信一、川口浩、山田清三郎らの面々であった。無事森機関次の

 かくて当時のプロレタリア文学運動は三派に分かれた。その外に、江口カン、小川未明派、壷井繁治、三好十郎らの個人グループが存在し、四分五裂していた。日本共産党を支持する芸術団体は、労農派を除く戦線統一を企て「日本左翼文芸家総連合」の結成に向うが、「3.15事件」で雲散霧消させられた。

【新テーゼ作成に向う】
 モスクワに残った指導幹部はコミンテルンの指導のもとに新テーゼ作成に向かった。概要「勿論日本の代表者諸君は、同志渡辺政之輔を始めとして労働者的な最も活動的な積極的な同志諸君はこの討議に実に熱心に参加した。27年テーゼの起草に当たったのは、最初イギリス共産党の書記長マーフィーであった。マーフィー案は、山川イズム、福本イズムの双方を手厳しく批判していた。そのマーフィー案が討議に附され、後にブハーリン自身が手を加えた。そして十分な討議を経た結果出来上がったものが、27.7月における「日本問題に関する決議」(いわゆる「27年テーゼ」)である。これがその後の党活動の指針となった」(「市川正一の血涙の公判弁明録」)。ブハーリン案は、山川イズムに対してよりも福本イズム批判に重点が置かれていた。

 この経緯に付き、河合悦三は次のように記している。
 「コミンターンでは日本問題特別委員会が組織され、日本の党では政治テーゼ草案をブハーリンに書いてくれるように頼んだのだが、ブハーリンが忙しいというので英国のマアーフィーがすることになった。事実上は、マアーフィーと日本支部代表と高橋との三人が相談してこしらえたらしいが、マアーフィーがどこか党の大会へ祝辞を述べに行ったとかで、テーゼの作成は非常に遅れた。しかしともかくもマアーフィーのテーゼ草案が出来上がり、これを我々日本の党代表全部が若干修正したうえ認めたのだ。

 ところが、ブハーリンがこのテーゼ草案を見てこれは駄目だと云うので全部書き換えることになった。しかし、スターリンがコーカサス方へ休暇をとっているのでブハーリンがコミンターンとBKPと両方の仕事をやらなければならないので忙しいからブハーリンの弟子である某大学教授が書くことになった。ところがこれまた良くないと云って日本支部代表と高橋とが反対すると云うようなことでとうとう政治テーゼの完成を見ずに我々はモスコーを出発しなければならなかったのだ。スローガンに就いては何等の論議も亦説明も無かったように覚えている。我々は先ずコミンターンで手軽にこしらえられたものを貰って来たに過ぎないと云うことが出来よう」(河合「感想一」)。

【「27年テーゼ」の登場】 
 1927.7.15日、半年にわたる熱烈な議論の末、モスクワでコミンテルン第7回施行委員会総会が開かれ、徳田球一、片山潜、渡辺政之輔らが代表として出席し、マーフィー→ブハーリンを主査とする委員会作製の「日本問題に関する決議」、いわゆる「27年テーゼ(ブハーリン・テーゼ)」が採択され、その後の党活動の指針にされた。「市川正一の血涙の公判弁明録」では、「そして十分な討議を経た結果出来上がったものが、27.7月におけるコミンテルンの日本に関するテーゼである」と述べられている。

 コミンテルン日本問題特別委員会から27年テーゼが発表された。第二次共産党は、福本イズムを葬り去って、この27年テーゼをもとに、活動を再開することになった。日本共産党は、以降この新テーゼに則り、渡辺、鍋山らが中心となって公然と大衆の面前に姿をあらわし、労働者、前衛分子を広範に吸収したため、党員は約1000名に拡大(「27年テーゼ」以前は約120人)した。

 27年テーゼは、「文芸戦線12月号」に蔵原惟人訳の要約文が掲載され、12月下旬、渡政が「報告の要点」を持ち込み、翌年「社会思想2月号」で翻訳文が掲載された。但し、相当読みにくく、「マルクス主義昭和3.3月号」の別冊で翻訳紹介された全文が掲載された。
 27年テーゼの理論的考察は、「27年テーゼ」で為し、ここでは党史上必要不可欠なことのみ記す。

 「27年テーゼ」は、「22テーゼ」以降党内に発生した右派的潮流の山川イズム、左派的潮流の福本イズム双方を批判していた。これにより山川均を主唱者とする山川イズムが共産党から離脱していくことになった。この流れがその後労農派となる点で見逃せない経過である。

 「27年テーゼ」は、福本イズムに対して、次のような手厳しい総括を与えていた。
 「党と大衆との遊離を生ずべき同志クロキ(福本)の見地は、また大衆党としての労農党の現実の瓦解を生ぜしむる。この『分離結合の理論』が純粋な意識的方面だけを過度に不相応に強調し、経済的、政治的、組織的方向を無視したのは偶然ではない。これはまたインテリゲンチャの許すべからざる過重評価、労働大衆よりの分離、宗派主義であつて、共産党は、『マルクス主義的に思惟する人々』−従って勿論第一に知識階級の集団であって、労働階級的の闘争的組織ではないという考えを生み出すに至った。共産党は同志クロキも既に放棄したこのレーニン主義のカリカチュアと断乎手を切らねばならぬ」。

 付言すれば、いわゆる山川主義、福本主義を概要「党の発展を妨害する二つの重要な偏向過誤としての小ブルジョア的な思想であり指導である」として徹底的な批判を加えていたが、山川(星)及び福本(黒木)を同志的待遇しており、「山川主義、福本主義の克服と共に党から葬ることはしなかった。コミンテルン及び共産党はそういうことは決してしなかったのである。しかしながら同志星(山川)が党から葬られて今日では公然たる党の敵となっているのは、本来山川主義を徹底的に克服しているコミンテルンのテーゼに従わず、却って党に反逆しコミンテルンに反逆して行動をしたが為であって、この為に彼は党及びコミンテルンから放逐されたので、決して山川主義の克服と同一ではないのである」(「市川正一の血涙の公判弁明録」)とある。
(私論.私見) 福本テーゼについて

 こうして、1920年代の日本マルクス主義史に独自の光芒を放つ業績として価値をもっていた福本イズムが断ち切られていくことになった。この流れも見逃せないように思われる。なぜなら、以降、日共運動における理論活動から理論を理論として実践的に研鑚する姿勢が失われることになったからである。この傾向は、戦前も戦後になっても否今日においても続く理論軽視の作風となって悪影響を及ぼしているように思われる。

 れんだいこが思うに、福本テーゼと「27年テーゼ」を比較して、「27年テーゼ」の方がより優れていたのか、福本テーゼよりも理論的に後退していたのか、ここを見極めることが肝要であるように思われる。結論から云えば、27年テーゼで無視されていた福本テーゼの諸内容が32年テーゼで復活することを思えば、或る意味で逆進していたのではなかろうか。

 しかしながら、福本テーゼの評価がこれまた難しい。その考察は別稿で為そうと思うが、政治的見解としては屈折しており、急進性と妥協性が入り混じった特異な理論であったという評価を下さねばならないように思われる。それはそれとして、この時点で、日共運動が至ろうが至るまいが福本テーゼを更に議論して自前の党綱領を作り出す作風を放棄してことが、それを良しとしてきたことが、その後の日共運動の宿アとなったように思われる。そういう意味で、27年テーゼ創出過程は重大な事件であったように思われる。

 2006.5.31日再編集 れんだいこ拝

拡大中央委員会で、「27年テーゼ」を採択する

 同年11月中旬、「27年テーゼ」が日本に持ち込まれ、党幹部全員一致で意思統一した。1927年末、栃木県日光において、拡大中央委員会が開かれ、「27年テーゼ」を採択し、圧倒的支持の下に「27年テーゼ」を実践に移すことを決定した。

 党は、新テーゼの指針に基づき、従来の組織論、運動論を転換させた。党をポルシェヴィキ化させ、組織の重点を工場に置き、従来の5人組組織を細胞に改めてこれを基本単位と為し、順次地域的に地区委員会、地方委員会、中央委員会と縦の連絡を保ち、中央常任委員会を5名制とし、政治部、組織部に分け、書記局を直属せしめた。政治部の下に農政委員会、選挙対策委員会、政策委員会、機関誌編集局を設け、組織部の下に共産青年同盟部、婦人部、政党部、アジプロ部、国際部などの各部門を分置した。

 党中央は、テーゼ採択に当って、次のようなアピールを発表した。

 概要「全国の革命的労働者諸君! 共産党は労働者階級のもっとも階級意識あり、もっとも勇敢であり、もっとも訓練ある部分の組織ー前衛の組織であり、労働者階級の唯一の革命的政党である。(中略)諸君は、このテーゼを読んで、その根本方針が正しいと信じたなら、ただちに革命的労働者として工場内に働け! すべての労働組合内に働け! 農民の間に働け! そして同志を糾合せよ! (中略)日本の支配階級は前衛の革命的運動に対して、諸君、記憶せよ! 兇暴、野蛮きわまる弾圧を加えている。また記憶せよ! かかる圧制迫害のもとにこそ、益々諸君は、もっとも精鋭な、もっとも強固な、規律あり統一ある軍隊ー共産党に組織されて闘わねばならないということを。 (中略)同志諸! 諸君こそ、ブルジョアと地主との兇暴な専制政治と徹底的に闘ってこれを打倒する軍隊とならねばならぬのだ。ブルジョア及び地主の政府を倒せ! 日本帝国主義を倒せ! 日本の革命的プロレタリア万歳! 日本共産党万歳! 共産主義インタナショナル万歳! 日本共産党中央委員会」。
 
 この時の拡大中央委員会以来日共の方針が変わったことについて、野坂が昭和4.4.4日の東京地裁での予審判事・藤本梅一の訊問に答えて次のように語っている。
 「従来の党員は職業的革命意識の完成された者に限られて居りましたが、新方針は、コミンテルンの綱領政策を承認し、定期的に会費を納入し、組織の一人として活動し、規律を遵守する者ならば誰でも党員になり得る事になりました。又、従来は、大衆的組織に基礎を持たねばならぬという事にはなって居りましたが、実際は工場細胞はできて居りませんでした。然るに、新方針は、工場細胞に党の基礎を置く事になりました。その他、従来の運動方針殊に大衆団体に対する方針等も変わって来ました」。

 「野坂参三予審尋問調書」では次のように語られている。
 「当面の政策というのは、(1)・戦争の危機に対する戦争、(2)・支那革命不干渉、(3)・ソビエトロシアの防衛、(4)・植民地の完全なる独立、(5)君主制の撤廃」、(6)・議会解散、(7)・18歳以上の男女の普通選挙、(8)・言論出版集会結社の自由、(9)・反労働者法の撤廃、(10)・失業保険、(11)・8時間労働制、(12)・宮廷寺院地主の土地無償没収、(13)ろ高度の累進所得税の事項を当面のスローガンとし、(1)・プロレタリヤ独裁、(2)・労働者農民の政府の二個の中心スローガンが掲げられてあるという事を知りました」。

 つまり、「二個の原則綱領、及び13個の闘争目標」を明らかにしている。君主制撤廃について次のように述べている。
 「君主制の撤廃及びこれに類する事項をスローガンとして掲げ、これを大衆の目前に現わす事については、異論を持って居ります。かかるスローガンを掲げるには、一定の段階を経ていなければならぬのと訓練を経ておらねばならぬのに一定の条件と一定の準備ができていなかったので、今日直ちに大衆の前にこれを掲げる事は誤りだと思って居ります」。

 野坂は、戦後晩年になって「風雪の歩み」を著したが、当時細胞会議で「27年テーゼ」の説明を受けたことを回想しながら次のように述べている。
 「『27年テーゼは、日本共産党が正式に採択した最初の綱領的文書であって、日本帝国主義の中国に対する侵略戦争の危険が切迫した事態のもとでの日本資本主義を分析し、この戦争に反対する闘争こそ『緊急焦眉の義務』であると指摘した」。
 「又、『テーゼ』は、日本の国家権力が、『資本家と地主のブロックの手中にある』と規定し、日本の革命は、日本国家の民主主義化、君主制の廃止、土地革命などを内容とするブルジョア民主主義革命から急速に社会主義革命に転化するという、革命の性格と展望とを明示した」。
(私論.私見) 野坂の「27年テーゼ」礼賛について

 野坂が「27年テーゼ」を礼賛している様子が分かる。胡散臭い連中は胡散臭いテーゼを悦ぶという好例だろう。

 2006.5.31日 れんだいこ拝

労農派が行動開始する 

 福本イズムはコミンテルンの批判を浴びて鎮静化した。同時に再建共産党の綱領となる「27年テーゼ」がコミンテルンから示され、共産党の路線転換が始まった。これを尻目にしながら、第一次共産党事件で検挙された後出獄していた猪俣津南雄が、中央公論7月号、社会科学8月号、太陽9月号などの誌上で、日共党中央見解に異論を提起し始めた。日本左派運動史上、もう一つのマルクス主義派の登場であった。

 1927(昭和2).11月、日共から離党していた山川、堺、荒畑、猪俣津南雄、大森義太郎、鈴木茂三郎、足立克明、黒田寿男、向坂逸郎らが、大森宅で「労農派グループ」を結成し、機関紙「労農」を創刊、共産党に対抗する社会主義者の団体いわゆる労農グループを形成した。党中央は、山川等の労農グループを反党活動の咎によって除名処分に附している。ここから日本マルクス主義運動に労農派という流れが生まれることになる。

 労農派は、「27年テーゼ」を廻って共産党の見解を是認せず、無産政党内で合法的な活動を目指していった。為に両派の論争が続いていくことになった。両派は、国家権力規定、目指すべき日本革命の性格、戦略目標等々について激しく且つ重要な論争を展開した。これにより、その後のマルクス主義的日本左派運動は、労農派、共産党中央、福本イズムの対立を見せつつ独自に発展していくことになった。

 「1927年頃、華やかに展開された戦略論争はその後も永く両派の系統を受け継いだ新聞、雑誌、著書などを通じて現在まで継続されている。そしてこの論争の主題の重要性、内容の深化、論争当事者の多彩などはこの国の共産主義運動史に実際運動に与えた影響とともに、見逃すべからざる存在である。この論争はその時期に応じ、日本共産党の27年テーゼ、あるいはテーゼ草案、次いで32年テーゼなどに結晶し、後年、日本資本主義封建論争に深化発展され、この国の共産主義政党や労働組合、農民組合文化運動の栄枯盛衰に反映しつつ現在に至るまで至大な影響を与えてきた」(山本勝之助・有田満穂「日本共産主義運動史」)。

 この頃、27年テーゼを廻って党と労農派の間に革命論論争が展開される。論争は革命戦略の問題に発展した。労農派は、日本はすでに不完全ながらブルジョアジ−に権力が渡った資本主義国であるとして、社会主義革命を主張したが、その実践手法は反対的に合法主義運動を目指すというものであった。共産党は、日本は天皇制絶対主義」との見方からブルジョア民主主義革命−社会主義革命の2段階革命論を主張した。天皇制打倒を見据えた非合法主義的暴力革命論に拠っていた。福本イズムは、労農派のブルジョア権力説を受けつつも絶対主義的天皇制と規定し、ブルジョア民主主義革命−社会主義革命の急速転化式2段階革命論を主張した。この論争は理論的には明治維新をどう位置づけるかという点に集中し、「日本資本主義論争」へと発展する。

 山川は、「労農」創刊号に論文「政治的統一戦線へ!――無産政党合同論の根拠」を発表した。これは労農グループの綱領的な立場を明らかにしたものであった。論文はまず、「わが国には、ブルジョアジーの政権が完全に確立せられている」と見立て、日本の支配階級を、ブルジョアジーと認定していた。「現在の政治的闘争の目標は、帝国主義ブルジョアジーの政治権力であり、これを認めないものは、ブルジョアジーの庇護者であると論難し、ブルジョア政権確立の過程を、歴史的、理論的に述べ、現在ではブルジョアジーが種々の条件の下に、絶対的専制主義の残存勢力を、殆ど同化し去った」と断じ、「その証拠には、貴族院や枢密院が、ブルジョア政権の一部となり、第二に、地主階級は完全にブルジョアジーに隷属し、第三に、小ブルジョアジーの上層の政治権力が、急速に、その独立と重要性を失って、終に大ブルジョアジーの政治勢力に隷属し、第四には、今度の普通選挙は、ブルジョアジーが広大な社会層の上に影響を拡大し、これを自己の指導下におこうとするものである」と説明していた。

 革命戦略に付き、「故に現在日本の政治的形勢の最も著しい特質は、かっては多かれ少なかれ対立していた反動的要素が、独占的金融勢力を中心として、強大な反動的帝国主義的政治力にまで、急速に結成しつつあるから、プロレタリアートの一般戦術は、プロレタリアートを指導的勢力として、半プロレタリアたる小作農を同盟者として、反動的、帝国主義的ブルジョアジーの支配を打倒すべきだ」云々と述べていた。

 この主張は、当面する革命の性格を社会主義革命と規定しており、天皇制絶対主義を打倒するブルジョア民主主義革命とする共産党系の戦略規定を退けていた。ならば、直接に社会主義の実現をめざすに足りる革命的な闘いを課題としてその取り組みを推進していくのかと思えば、その前にプロレタリアートとその他の一切の被抑圧民によるブルジョア民主主義闘争の展開によって社会主義革命に向けての「根本的条件」を準備していくことを直接の課題であるとしていた。

 こうなると、労農派の提起する闘いも共産党の提起するものと何ら変わりはない「ブルジョア民主主義の実現運動論」でしかなくなっている。その上で、労働者、農民、都市の小ブルジョア下層など一切の要素を「反ブルジョア政治勢力」に結合する「共同戦線の特殊な一形態」としての『共同戦線党』のために闘うことが「プロレタリア前衛の具体的な任務」とされていた。

 山川の「無産政党合同論」は、従前の「方向転換論」にもまして山川イズムの骨格を明らかにしていた。雑誌「太陽」所載の猪俣津南雄の「日本ブルジヨアジーの政治的地位」とともに「労農」派の理論的基礎をしめした。


 猪俣は、労農12月号で、「日本無産階級の一般戦略」を論じ、日共派のブルジョア民主主義革命説を誤謬であると断じ、「日本に与えられた歴史的条件の下では、ブルジョア民主主義革命の端緒は、直ちにプロレタリア革命の端緒となるであろう。換言すれば、プロレタリア革命の端緒はブルジョア民主主義革命の形態で、現われ、両者は二つの段階に引き伸ばす代わりに、一つの段階に圧縮される。我がプロレタリアートは、その政治闘争を、民主主義獲得の為の闘争にのみ限ることはできない。主力をそれに集中してさえもならぬ。かかる闘争は、帝国主義に対する闘争、この重要な闘争の中に統合されるときにのみ、プロレタリアートの闘争となるであろう」と述べている。

 労農派のその後の動きをスケッチしておく。労農党(1926年)、日本大衆党(28年)、全国大衆党(30年)、全国労農大衆党(31年)などは次々と結成されたかと思うと、たちまち分裂して消え去って、一つとして実を結ぶことはなかった。

 とりわけ、満州事変が勃発した1931年、全国大衆党を軸に新労農党、社会民衆党の一部が合同して結成された全国労農大衆党に彼らは強い期待を寄せた。しかし、満州出兵に際し、この党選出の国会議員の一人は「満蒙の権益は擁護すべし」と言い出す始末であった。にもかかわらず、労農派は「党内にとどまり、党本部で党の運動方針決定に影響を与えることにより、マルクス主義的な統一戦線指導をこの大衆党に加えよう」と悪戦苦闘を続けていたのであった。

 そして、全国労農大衆党は翌32年、西尾末広の率いる右派の社会民衆党と合同して社会大衆党となった。この社大党がその後ますます右傾化して軍部・独占資本の帝国主義のお先棒をかつぎ、労働者大衆を戦争協力へと駆り立てていったことは周知の通りである。

 こうした事実を見れば、革命的プロレタリア党の意義を否定し、「共同戦線党」といった合法主義的、日和見主義的な戦術をもてあそんできた労農派の破産は明確である。だが、こんな労農派にさえ軍部ファシズムの弾圧は容赦なく襲いかかり、1937年の検挙(「人民戦線事件」)後、彼らはもはや手も足も出ない状態に追いやられてしまった。

(私論.私見) 労農派の政治的統一戦線論について

 労農派の政治的統一戦線論は評価が難しい。理論そのものは、統一戦線論を共同戦線論と読みかえれば妥当なものである。だがしかし、その共同戦線論が第二次共産党を排除する為の論であったとしたら問題であろうが、現実はそのような役割を担う。革命闘争では、穏和主義と急進主義こそ共同戦線化が望まれるところ、我が国の場合においてはどちらもがその論によって排撃しあう関係になる。れんだいこに云わせれば、どちらもまともではなかろう。そのまともでない同士が角つき合わす左派運動を展開していくことになる。

 労農派の共同戦線党運動はそれなりに意義のあるものである。しかし、「彼らのやってきたことは労働組合や農民組合を基盤としたブルジョア改良主義的な無産政党運動をなにか革命的な意義があるかにマルクス主義用語で粉飾して、その合同・分裂に一喜一憂しつつ追随することでしかなかった」。そこに問題があろう。

 労農派の軟弱性はその後の経過で判明する。労農派は、軍国主義化のなかで反ファッショ人民戦線を追及していくが、無産政党自体のファッショ化で失敗。戦争中は両派とも主だったメンバ−が投獄または軟禁状態にされ活動が押さえ込まれ、日本左派運動の再生は戦後まで待たねばならなかった。


岩田義道入党

 1927.12月、岩田義道入党。


 12月、佐野が党中央委員長に就任。以後2年間、27年テーゼに基づいて党を指導する。更に、宣伝扇動に精力的に向うこととし、党中央より合法機関紙「無産者新聞」、中央機関紙として非合法の「赤旗」、日本共産党パンフレット檄文、ビラなどを発刊することとした。各地方では、例えば関西の「階級戦」、長野地方の「信越赤旗」、北海道の「北海道通信」、細胞による細胞新聞、工場新聞などを秘密出版して宣伝組織に勤めることにした。


 12.2日、拡大中央委員会で渡政が書記長に就任。一路工場の中へ。 


 日共は、労農派の批判に対し、1928.1月より「マルクス主義」誌上で、反論に着手した。渡政が、「一般的戦略の決定的重要点について」論文を発表し、山川論文を俎上に乗せた。労農派のブルジョアジー権力説に対し、極左小児病見解と難じている。その上で、二段階革命戦略の正しさを強調した。佐野学は「歴史過程の展望」論文を発表し、渡政と同じく「民主主義革命の完遂からプロレタリア革命を展望」した。


 マルクスの資本論の邦訳が昭和2年頃既に出版部数において、ソ連を除いてはドイツをも凌駕していた。マルクス・エンゲルス全集、レーニン全集、スターリン、ブハーリン著作等々のマルクス・レーニン主義文献の大量刊行は、世界にも稀有であった。


1928(昭和3)年の動き

【徳球と門屋博と野坂の協議】

 1928(昭和3).1月上旬頃、徳球と門屋博と野坂が、東京小石川区竹早町の門屋宅で「革命運動犠牲者救援運動」に関する協議をしている。野坂は、昭和4.4.4日の東京地裁での予審判事・藤本梅一の訊問に答えて次のように述べている。

 「その際徳田球一から党の中央部にはモップルの方針がないので、ここへ集まった三人で党の方針をまずつくり上げてくれと云う事だからここでそれをつくり上げる事にしたいと云う話があり、なお徳田よりモップルは革命運動者の犠牲者救援を目的とするもので、共産党の直接の指導の下にある団体であるが、このモップルの意義を党員に対し充分徹底させる必要がある云々」(「野坂参三予審訊問調書」)。

 第三回目の会合時に、徳田草案が出され、その骨子を議題として協議している。「野坂参三予審訊問調書」は次のように記している。

 「協議の結果、モップルの意義は単に革命運動における犠牲者の救援に止まらず、労農大衆の政治的意識及び階級的連帯の高揚にある。従って、それに加わる者はできるだけ広範な大衆を抱擁しなければならぬ。そして、モップルは国際的本部に属さなければならぬ。かかる場合においては、党員としては、当とモップルとの関係においてフラクションを作らなければならぬ。しかし、当面日本においては、政治的経済的情勢の結果、従来よりの労働者救援運動または労農運動犠牲者救援運動なるものが古くより断続している。今後かかる運動が更に具体化する場合はできるだけこれが支援援助をやるべきであると云う意味の事を決し、それを徳田が書いて中央部に出し、中央部が修正して中央部の方針を決定するということになりました」。

【組織テーゼ作成する】
 この頃、「27年テーゼ」に基づく「組織テーゼ」(「日本共産党再建についてのテーゼ」)を作成した。党中央機関紙として赤旗(せっき)の創刊(月2回、謄写版刷り、600〜800部発行)が決議されている。次のように定式化された。
 概要「党の組織再建に当っての基本的任務の一つは、集合的組織者としての党の中心機関紙の発行である。かくの如き方法のみが党を大衆的組織として再建設する唯一の方法である」。

【普通選挙第1回国会議員総選挙戦取り組みの申し合わせ】
 第50議会解散に伴う普通選挙第1回国会議員総選挙戦が目前に迫り、党は次のように対応することを申し合わせた。選挙戦に参画し、大衆の前に公然登場する。宣伝扇動を通じて党勢力の拡大強化を図る。中央委員会の手で「総選挙方針」を作成し、これを非合法パンフレット、機関紙赤旗、無産者新聞、マルクス主義誌に公表した。次のようにの述べられている。

 A・ブルジョア議会に対する共産党の態度

 共産党は現在の議会は敵階級の一機関であり、これによってプロレタリアートが解放されると思うことは、木によって魚を求めるようなものであるという。しかし一般大衆が議会の民主的性質を信頼しており、特に第一回普選による今回の選挙に大きな期待をかけていることをよく知っている。そこで党は、コミンテルン第2回大会の議会主義に対するテーゼに基づき、ブルジョア議会参加の原則を公表した。即ち、党が議会に参加することによりその議会の階級的本質を暴露し、これを内部から破壊する。プロレタリアートはブルジョアの国家機関をそのまま継承するものではなくこれを破壊して、プロレタリアートの新しいソビエト権力を作り上げるのであり、党は階級闘争の一つの補助手段としてこの議会を利用して選挙戦に参加するものであると宣言公表した。

 B・選挙運動方針

 共産党は独自の候補者を立てねばならぬが、自ら共産党員たることを名乗って立候補することも、又これを応援することもできない事情に鑑み、次の如き方針を樹てた。第一に、労働農民党は殆ど共産党のフラクションの手に指導権を握っていたので、共産党に近い政策を実行し得るから、この選挙には労働農民党を出来る限り応接すること。第二に、労働農民党の候補は出来るだけ共産党員を選ぶこと。第三に、立候補せぬ党員は、できるだけ労働農民党員として全国的に遊説し、議会の階級性を暴露する。第四に、共産党員がこの選挙戦に参加して活動していることを示すためには、共産党名入りのビラ伝単を全国的に撒布し、殊に共産党員の立候補地では、日本共産党はその候補者を推薦し応接するものであることを明示した印刷物を流すこと等々である。

 共産党の初の選挙戦に対し、コミンテルン執行委員・片山潜が、「総選挙について日本の友人に与う」なる激励分を送ってきた。次のように指針させていた。
 「若き労働者の党、日本共産党がこの選挙戦で公然と大衆の面前への出現は偉大なる英雄的行為である。しかし之に対し必ずや激しい官憲の圧迫、追撃を受けるであろう。だが困難に出会って躊躇した社会主義者はかって無かったし、今後も無いであろう。日本の労働者のため、また全世界の被圧迫民衆のために諸君は犠牲的に行動せねばならぬ」。

第一回普選が行われ、日共は労農党より11名が立候補して闘う

 1928(昭和3)年、1月から2月にかけて、第一回普選が行われ、無産各党は候補者を立てた。この時共産党は、非合法化されていたので大山郁夫の指導下にあった労農党候補者の中に入って山本懸蔵、徳田球一ら11名の党員が立候補した。間接的ながら初めて大衆の前に公然と姿を現し宣伝活動したことになる。

 東京で唐沢清八、南喜一、秋和松太郎。北海道で山本懸蔵。静岡で杉浦啓一。大阪で野田律太、長尾有。岡山で難波秀夫。九州で徳田球一らの11名。

 各候補は、政見発表演説会で壇上から、「本日、日本共産党のビラが撒かれ私を支持して下さるそうだが、共産党は日本では公然と表面へは出ないが真の労働者農民の階級党であり、共産党が私を応援してくれることは、百万人の味方を得たかの如く思う」などと巧みに大衆に宣伝した。「我々の同志は選挙演説の中で党の線から少しも離れることのないようによく注意されている。彼らは全ての演説に於いて一定の共産主義理論について言及しなければならなかった」。党員大衆は、選挙演説に対し、「反動田中内閣を倒せ」、「我等に自由を与えよ」と叫んで答えた。これに対し、官憲は、「注意」、「中止」を連発し、干渉し、検束した。

 激しい選挙妨害にも関わらず、天皇制反対と帝国主義戦争準備反対とが結合されて、大衆にビラまきが敢行され、党の存在が知らしめられることになった。もっとも、先鋭的部分においてということであり、一般大衆的な認識までにはたどり着いていない。

 2.20日、第1回選挙(第16回衆議院総選挙)の結果、無産党の当選者は社民党4人(安部磯雄、西尾末広、鈴木文治、亀井貫一郎)、労農党2人(山本宣治、水谷長三郎)、日労党1人(河上丈太郎)、九州民権党1人(浅原健三)の計8人で、得票数は50万票弱、得票率は5%に達した。この中の約19万票は、共産党の合法政党たる労働農民党(40人立候補2人当選)に集中した。

 2.28日、芝公園の協調会館で、労働農民党選挙報告演説会が開かれ、2千数百名が集まり、赤旗やインターを合唱し、屋外では一大示威デモを行い、数百名の警官隊と衝突流血の惨を見た程の興奮のルツボとなった。


 2月、党は、選挙戦の成果に基づき、新党員を獲得すべく組織会議を開いた。この会議で、党のポルシェヴィキ化を一層発展させるため、中央、地方の機関紙、工場新聞の重要性とその実践を協議し、又「労働者農民の政府」なるスローガンが民主的革命的独裁を意味すること。「大土地所有の没収」の再確認、又「耕作権の確立」なるスローガンを確認し、次いで無産政党の合同問題に対し党はこれを労働者農民の政治ブロックと規定し、労働者農民の政府なるスローガンによる闘争によって統一合同ができることを規定した。

 この総選挙戦に鑑み、社会民主主義に対する闘争を決議し、最後に、共産党と不即不離の関係にあるが如き幻影を大衆に与えながら常に階級的反逆者であり国際的な裏切り行為ありとして労農派の山川均、猪俣津南雄らを正式に共産党から除名することを決定し之を発表した。

 共産党中央委員会は、コミンテルンとの打ち合わせの上4月に党大会を召集することとし、その準備に着手した。


 1928.2月、「27年テーゼ」が中間派グループの雑誌「社会思想」に「清算主義者を生産せよ」と題して公表された。党も機関紙「マルクス主義」3月号の付録で公表した。


 3.15検挙の直前、佐野は、2月の総選挙後に開催すべき党大会準備のため、党で作成した諸テーゼについて上海のコミンテルン極東部代表ヤンソンに連絡し、且つ7月に開かれるコミンテルン第6回大会に日本代表として参加するため日本を脱出した。以後、1929.6月、上海で逮捕されるまでロシア−中国で活動した。


 これより以降は、戦前日共史(六)第二次日共と大弾圧考





(私論.私見)