428169 戦前日共史(六)第二次日共と大弾圧考


1928(昭和3)年の動き

【「第二次日共が党大会開催準備に入る】
 第二次日共当中央は、総選挙闘争を通じての党勢拡大強化を踏まえ、コミンテルンとの打ち合わせの上4月に党大会を召集、その準備に入った。政治、組織、労働組合の方針書草案を作成し、代表(佐野学、渡政、市正、高橋貞樹)をコミンテルンに派遣した。

 党内討論はを終え、雑誌「マルクス主義」3月号特別付録で、「27年テーゼ」が全文発表公開された。

 この頃、労働運動のむ幹部某が、警視庁特高課・石井係長の下へ共産党再建情報を売り込みに来た。石井係長は、莫大な代償金を要求されたことと情報そのものに半信半疑で応対した為、その男は今度は労働課の毛利警部へ売り込んだ。毛利警部は沈思黙考の上、有り金はたいて情報を買い取ることにした。これが、毛利警部のその後の活躍へと繋がる。


 2.20日、総選挙。この時、党は、労働農民党の選挙運動に混入し、演説会場でアジビラを配布し、あるいはステッカー貼り、弁士の扇動などを通じて公然と大衆の前に姿を現した。


【「1928.3.15事件」】
 1928年(昭和3年).3.15日、治安当局は、先の第一回普選挙で、共産党が労農党から候補を立てて果敢に闘ったこと、近々党大会が開催されるとの情勢に危機感を覚え、事前弾圧に着手した。第二次日共は、27年テーゼに基づく党と大衆との結合へ向けて諸活動を軌道に乗せようとしていた直後、 1928.3.15日、1道3府27県にまたがる検挙1600人余、起訴900人に上る大弾圧を受けた。「1928.3.15事件」は、治安維持法の大規模且つ全国的適用の最初の事例となった。

 司法省は3.15事件の根拠について次のように告示している。
 日本共産党は革命的プロレタリア世界政党第3インターナショナルの日本支部として我が帝国を世界革命の渦中に巻き込まんとするものである。彼らは我が国民のじゅん順良俗を根本的に変革せんとして労働者農民の専制政治樹立に努力している。党はその基本政策に沿ってソビエト・ロシアのために働き、植民地の完全なる独立を主張し、その政策は共産主義社会の建設を目標とする革命を要求している。かくのごとく日本共産党の主義、政策は我が国民の基礎を脅かすが故に如何なる事情の下に於いても許すべからざる犯罪を構成するものである。

 難を逃れた幹部は、渡政、佐野学、中尾勝男、三田村四郎、鍋山貞親、市正、福本和夫、国領伍一郎、高橋貞樹らであった。3.15事件では、最高幹部には拷問は無かった、と伝えられている。
 大正デモクラシーの風潮下で、有能な社会主義者が誕生していった。この連中が3.15事件で弾圧された。この時官憲は、主として党員に狙いを定め検挙した。逆にいえば、党員侯補は逮捕せずに残った。その逮捕され損ねたグループによって、1929年に共産党はもう一度再建される。けれども、それも四・一五事件で全部だめになる。それ以来、日本の社会主義運動はずっと下り坂になる。

 3.15日、「3.15事件」のこの日、マルクス主義派のプロレタリヤ芸術連盟、前衛芸術家連盟、左翼芸術連盟、闘争芸術同盟が大同団結し、「全日本無産者芸術連盟」(略称「ナップ」)を結成し、機関誌「戦旗」、劇団「左翼劇場」を組織した。「ナップ」は、労農派の文芸運動と対立しつつ競っていくことになる。

 この「ナップ」に単一組織体が結集していくことになる。美術の「日本プロレタリヤ美術家同盟」(略称「PP」、1.12日創立)、演劇の「日本プロレタリヤ劇場同盟」(略称「プロット」、2.4日創立)、映画の「日本プロレタリヤ映画同盟」(略称「プロキノ」、2.2日創立)、文芸の「日本プロレタリヤ作家同盟」(略称「作同」、2.10日創立)。音楽の「日本プロレタリヤ音楽家同盟」(略称「PM」、4.4日創立)等々が「ナップ」を囲み、「プロレタリア芸術連盟」を生んでいくことになる。


治安警察法荒れ狂う。「4・10事件」
 4.10日、政府は、1900(明治33)年制定の治安警察法(明33法第36号)に基いて、先の選挙での宣伝活動とこの検挙で判明した共産党の「脅威」を理由として、共産党の影響下にあった労農党、日本労働組合評議会、無産青年同盟の三団体に結社禁止の処分を行い、解散を命じた。これを「4・10事件」と云う。

 
更に東大の新人会、京大、九大などにあった研究会が解散させられた。青年学生運動の左派系は「共産青年運動」に向うことになる。

 3・15事件直後の4月、治安維持法の「国体の変革」の項の最高刑を死刑または無期懲役に引き上げる案を議会に提出、審議未了となると6月に緊急勅令でこれを公布する。


 これに対して労働農民党書記長細迫兼光は警視庁で署名を迫られた解散命令への署名を強行に拒み抵抗したが、右派の社会民主党は、政府の弾圧に加担する内容の決意表明を行ない、結局、抵抗の足並みがそろわず、政府の弾圧政策を許すこととなった。

【渡政、鍋山、市川、三田村4名の常任委員会時代】

 1928(昭和3)年のいわゆる「3.15事件」直後、難を逃れた渡政、鍋山、市川、三田村の4名で常任委員会が作られた。これを福本、村山藤四郎が補佐した。「3.15から4.16までの間を指導したのが市川。28年夏のコミンテルン第6回大会の日本代表として参加し、帰国後先頭にたつ。反戦テーゼ」とある。こうして直ちに再建に着手している。この時期袴田らクートベ留学生が帰国して活動している。

 3.15大弾圧以後も国領五一郎ら幹部の多数を逮捕するが、共産党は弾圧に抗して活動を続け、1928(昭和3)年4月の第2次山東(さんとう)出兵に反対、同年12月には、治安警察法第8条により結社禁止の処分をされた日本労働組合評議会(評議会)にかわって非合法組織の日本労働組合全国協議会(全協)を、また同じく労働農民党にかわって政治的自由獲得労農同盟を組織し、侵略戦争に強力に反対していた。


【渡政、鍋山、市川、三田村4名の常任委員会時代】
 4.12日、警視庁が「共産党事件学生関係者調査」を行い、「日本共産党事件関係者にして全日本学生社会科学関係者」として総勢88名の学生リストを作成した。それによると、帝大48(村尾薩男、是枝恭二、門屋博、石堂清倫、渡辺武、田中清玄、長尾正良、谷川厳、山根銀二、亀井勝一郎ら)、明治学院11、早稲田8、京都4、日本3、慶応2、法政2、駒場農大、中央、外語学校各1名、不明1名、その他女性4名。

【「山本懸蔵がソ連邦へ脱出」】
 5.8日、山本懸蔵は、3.15事件で逮捕されていたが、衰弱激しく、拘留に耐えずと認められ執行停止処分で釈放され自宅療養していた。この日、監視の隙を狙って逃亡しソ連邦への脱出に成功した。「山懸逃亡」のニュースは当時の左翼陣営に電波の如く伝わり、士気を鼓舞した。

袴田.福本が検挙される
 6.28日、袴田.福本が検挙された。福本は、モスクワ帰りの袴田里美の連絡により大阪野田駅で待ち合わせしていたところを、検挙された。

 福本はその後昭和17年まで14年間刑に服している。袴田は3年6ヶ月の刑で昭和7年10月出所している。

(私論.私見) 福本検挙に関わる袴田のスパイ的動き

 福本検挙に関わる様子につき、袴田のスパイ的動きが刻印されている。これを思えば、後に袴田が宮顕と共に小畑をスパイ容疑で査問している虚構が透けて見えてくる。

 更に、袴田の出所の「速さ」もイカガワシイ。袴田は、リンチ事件の際に小畑のスパイ性根拠として「釈放に当たっての何らかの取引があったのではないのか」と詮索しているが、この絡みで重要な史実となる。つまり、その論法で行けば袴田自身も比較的短期で釈放されており臭いということになる。宮顕の場合は不可思議である。逮捕歴が史実に出てこない。他方堂々と中条百合子と同棲していることからして奇跡の不逮捕ではある。


【治安維持法改悪される】
 この間28年(昭和3年)6.29日、緊急勅令で治安維持法が改訂され、それまでの最高刑が10年以下の懲役又は禁固とあったのが無期懲役、最高罰として死刑までと厳罰化させられている。なお、この法改悪により、党員でなくても自由に検挙し得る法的裏づけが為された。これに伴い特高警察が大拡充され、7.3日、国外の要所、国内の主要検事局にくまなく配置されていくことになった。

 警視庁特別高等警察部の初代特高課長は毛利基であり、部下に山県為三警部らが位置していた。これにより共産党に対する取り締まりが格段に強化されることになり、情報収集、スパイ(内偵)政策も本格化していくことになった。仕立て上げたスパイの党内地位を高めていくことで、より正確な情報が得られることになる。「筋の良いスパイを仕立て使うこと」が、目論まれていくことになった。

 共産党は、ほとんど態勢を立て直す間もなく、「中間検挙」


【「28年コミンテルン第6回世界大会指針」について】
 28.7.17日から9月の初めにかけてコミンテルン第6回世界大会がモスクワで開催された。この大会は1924年の第5回大会以来の4年間における国際革命運動の経験を集積した上に開かれた大会となった。

 この重大なコミンテルン世界大会に日共は、3.15検挙という打撃にも拘わらず、渡政、市正、山本懸蔵、難波英夫ら数名の代議員の派遣を決行した。コミンテルン世界大会に日本国内から数名の代議員が出席したことは今までに無いことであって、コミンテルン大会の発展と日本共産党の発展を物語るものであった。

 この大会では、第一に最初のプロレタリア世界綱領たるコミンテルンの綱領、第二に国際情勢とコミンテルンの任務に関するテーゼ、第三に国際情勢の中心である帝国主義戦争の危機に関するテーゼ、第四に植民地革命運動に関するテーゼ、最後にソビエト連邦の情勢に関する決議が議題にのぼった。こういう重大な諸決議に対して、全世界の隅々から集まった代議員は長時間の熱烈な討議を行い、これら全ての画時代的意義のある綱領やテーゼが決定された。日本の代議員団はもとより全世界の同志達に伍して積極的にこの討議に参加して、これらの綱領ないしテーゼの作成に力を尽くした。

 大会は日本の革命運動の発展に対して注意を払い、国際情勢に関するテーゼの中で日本問題を熱心に討議した。「日本問題に関する決議」(「28年コミンテルン第6回世界大会指針」、以下、「28年指針」と云う)が為され、1・日本共産党の党としての大衆化。労農党の如き政党への依存を止め、合法的労農政党と共産党の峻別を為し、共産党自身の政党化。「労農党及びいわゆる左翼政党に対して、共産党はその根本的な大衆的性質を明らかにし、共産党のみがプロレタリアの党であり、労働者・農民の唯一の味方であることを強調しなければならぬ」。2・労働組合運動の重要な任務の自覚による指導強化。3・農民運動に於いて大土地所有の没収、土地を農民へのスローガンで闘い、農民運動の指導に当たるべきこと。4・レーニン主義的宣伝活動の展開を指示した。

 「28年指針」がこの年の秋から冬にかけて日本の党にもたらされ、日本共産党の新たな前進の一歩に拍車を加えることになった。モスクワのクートベ留学していた革命青年達も続々帰国した。4.16の大検挙までは短い間であるが、日本共産党の「偉大なる発展の時期」となり、重要な諸活動があった。新指針は、3.15以来の数次にわたる検挙によって打撃を蒙っていたにも拘わらず、全党員と革命的労働者を奮い立たせ自己犠牲的英雄的な活動を生んでいった。

 革命的大衆が生み出され、工場、農村においてグループが形成され党の予備軍的な革命的組織、労働者を創出していった。彼らは党のその後における、なかんずく4.16の大検挙以後における党の再組織の為の絶えざる新しき源となった。それまでの小ブルジョア的なインテリ集団から革命的労農党への転換が進行していった。後の経過から見て、
1928年の日本の共産主義運動は絶頂期となった。

 8月、特別高等警察官会議が開かれ、1・全ての屋外集会示威運動の禁止、2・屋内集会には議事要綱、声明書、決議書の事前届出を決議した。この決議が、共産主義運動弾圧政策の完結でもあった。


 8.4日、河合悦三検挙される。


【「10月事件」】
 1928.10月、岩田義道が検挙される。国領伍一郎も検挙されている(10月事件)。

 11月、第6回コミンテルン大会から帰国した市正らが、茨城県筑波山中で党再建ビューローを創設した。3.15事件で検挙を免れていた幹部(市正、間庭末吉、砂間一良、三田村四郎、鍋山、高橋貞樹)らで党中央を構成し、組織を再編した。12月に「赤旗」再刊し、全国的再組織化に乗り出した。


全協(日本労働組合全国協議会)が結成される
 12.25日、評議会解散後、3.15事件の残留党員・伊藤保らの指導の下に非合法で全協(日本労働組合全国協議会)が結成された。

「ナップ」が結成される
 12月、「ナップ」が結成され、芸術のポルシェヴィキ化、大衆の組織化を旗印に掲げ活動を始めた。

1929(昭和4)年の動き

【渡政委員長が銃撃戦の末射殺される】
 1929.1月、渡政委員長が台湾の基隆(キールン)で警官隊と銃撃戦となり交戦、ピストル自殺した。

【山本宣治が、右翼に刺殺される】
 1929(昭和4).3.5日、当時の左翼合法政党・労農党から衆院選に出馬し当選していた山本宣治が、神田の宿舎で右翼に刺殺されている。3.15日、全国で労働農民葬が執り行われた。余談ながら、宮顕は、この「山宣告別式」に「私も、一人の市民としてこの集会に参加した」(「私の五十年史」)と記している。山宣は党員ではなかったが、党は生前の功労を認め、革命戦士として党籍に加えた、と云われている。

 山本は凶刃に倒れる三日前、大阪で開催中の全国農民組合第2回大会に出席し、来賓挨拶の中で次のように述べている。「先鋭化する階級闘争の裡にあって、合法主義者の人々は色々の口実を設けて退却する。水谷君もその一人である。私は、『卑怯者去らば去れ、我等は赤旗を守る』と云いたい。私は政獲同盟選出の唯一人の議員である。私は淋しくない。山本宣治只一人孤塁を守る。私は一人でも淋しくない。自分の背後には多数の同志が支持してくれるから」云々。

野坂公判
 1929(昭和4).3.29日、東京地裁で野坂を被告とする裁判が開かれている。予審判事は藤本梅一。

 4月、コミンテルン日本代表団としての派遣から帰国していた高橋が、再刊された雑誌「マルクス主義」4月号の誌上に、「日本の政治機構における半封建的関係の残存について」論文を発表、労農派の理論を徹底的に批判した。

 この頃既に主だった幹部は獄中につながれ、もしくは虐殺の憂き目に会わされていた。そういう中で、昭和4年3月には党員200名というところまで漕ぎ着けていた。


【「1929.4.16事件」】
 1929.4.16日、漸く再建に取り掛かりつつあった最中またしても大弾圧を食らうことになった。3・15事件後に全国の警察設置された特高警察は、全組織を動員して、1道3府24県にわたって第二次共産党の指導幹部と党員、そのシンパ(同調者。支持者)約400名を逮捕した。再び全国的な一斉弾圧が見舞われ、総計800余名が検挙された。これをいわゆる「4.16事件」と云う。

 「4.16事件」で鍋山、三田村、市川を除き日共幹部の殆どが逮捕され壊滅的打撃を受けた。全協の指導部も一網打尽で検挙された。続いて、4.26日、高橋貞樹が、4.28日、市川正一が、4.29日、鍋山貞親、三田村四郎が、6.16日、上海で佐野学が検挙され、第二次日共指導部の殆どが検挙されるに至った。 

 「3.15事件」の検挙から残った党幹部のほとんどが捕まったことにより、第二次共産党は実質的に壊滅させられた。「中央部がやられ、国際組織も壊されてしまった。労働組合の細胞も同様だった。労組、農民組合、みな組織して固まるからそこを根こそぎやられた」(田中清玄「田中清玄自伝」)とある。

 28.3.15、29.4.16事件。これによって第二次共産党が瓦解させられた。獄中共産党の時代となり、転向派と非転向派に識別されていくことになる。共産党の壊滅は、国民を全面戦争に動員する体制づくりのつゆ払い(貴い人や行列の先に立って道を開くこと。転じて、先立って物事の先鞭をつけること)となった。


 この弾圧により党の理論的中枢が根こそぎ壊滅され、創刊以来5ヵ年に亘って続いた雑誌「マルクス主義」が廃刊のやむなきに至った。

 以下の党史の流れは、「戦前日共史(七)不屈の再建史考に続く





(私論.私見)