42816411 生涯の概略履歴

 幸徳秋水[1871(明治4)年11.5日(陰暦9.23)〜1911(明治44)1.24日、本名伝次郎。明治期の社会思想・運動家]は、1871(明治4)年、高知県幡多郡中村町(現中村市)に、酒造業と薬種商を営む旧家の三男として生まれた。幼くして父を失い、母親の手一つで育てられた。幼少時代は、幡多の神童と呼ばれた秀才で、飛び級で進学。早くもこの時分より自由民権運動の感化を受け、リーダーの一人であった土佐の先輩中江兆民を頼って上京する。その縁で書生となり、影響を受けた。やがて社会主義思想家として飛翔していくことになった。

 「自由新聞」、「万朝報」などの記者として活躍、その後「平民新聞」を創刊し、社会主義の立場から日露戦争に反対する論陣を張った。1910(明治43).1.24日天皇暗殺を企てたとされる「大逆事件」の首謀者として検挙され、翌年1月処刑された。菅野須賀子らも共に死刑に処せられた。先妻千代子、ロマンス菅野須賀子。

 須賀子は、短詩型文学を愛し、与謝野晶子に憧れていた。我が国で最初に女性解放を唱えた一人であり、社会主義運動を通じて幸徳と知り合った。二人が仲間とともに発刊した「自由思想」は、一号、二号とたちまち発禁.押収となった。度重なる罰金、警察の執拗な尾行、投獄、病‐‐‐。幸徳と須賀子の関係は深まり、幸徳は10年連れ添った妻千代子を捨て、須賀子は内縁の夫で革命の同志でもあった荒畑寒村と一方的に絶縁する。この時荒畑は千葉監獄にいた。道徳観に違背して自由恋愛に向かった二人への風当たりは強かった。やがて須賀子も処刑台の露と消える。

 「わが心 そと奪いゆきなおたらで さらに空虚をせめたもうかな」



 年譜(坂本武人「幸徳秋水」他参考)     

西暦 和暦 年齢 年          譜
1871 明治4   9月22日幡多郡中村町(現高知県中村市)の豪商、俵屋に父篤明(通称嘉平治)母多治の末っ子として生まれる。上から民野、亀治、牧子、伝治郎(秋水)。篤明の兄勝右衛門に子供無く亀治は勝右衛門の養嗣子となる。 幸徳幸衛は亀治の子(洋画家、昨年の高知新聞連載)
72 5 1 8月14日 父篤明死亡。 番頭の駒太郎を養子に迎える事になる。
76 9 5 中村小学校入学。
79 12 8 木戸鶴洲の漢学塾「修明舎」に入る。神童の誉れ高かった。
81 14 10 月小学校を終え、高知中学中村分校に入学。
85 18 14 中学校が台風のため倒れ、廃校となる。
86 19 15 1月18日同郷の先輩、林祐造を訪ねる。2月22日高知に出て入塾するも、助膜炎を患い、8月帰省。
87 20 16 1月病気が治り再び高知へ、しかしブランクのため試験に落第して中村へ帰る。
8月家出して上京、9月林有造の書生となり、英学館に通学。12月26日保安条令により(巻き添えにて)4ヶ月で東京追放。  
88 21 17 1月15日、中村に帰省、6月再び家出し清国には金が無く、宇和島にとどまる。
9月退去命令解除され、帰省。11月大阪に出て少年時代の友人の紹介で、日本のルソーといわれた中江兆民の書生となる
89 22 18 10月5日、中江家と共に大阪を発ち上京。
90 23 19 6月病気により転居、次いで中村に帰る。
91 24 20 徴兵検査不合格、4月上京して国民英学会に通学。7月小野家に寄宿、次いで下宿に移る。
92 25 21 12月10日、国民英学会卒業
93 26 22 4月、兆民より秋水の号を受ける。
9月、「自由新聞」入社。これを皮切りに新聞畑を歩くことになる。
95 28 24 2月広島に赴き、3月「広島新聞」入社。 5月「中央新聞」入社。
96 29 25 高知から母 多治を迎える。友人の薦めで17歳の朝子と結婚2〜3ヶ月で離婚。
97 30 26 シャフレの「社会主義神髄」を読む。
98 31 27 2月「中央新聞」を去り、黒岩涙香の「万朝報」に入社、論説員として雇われる。
10月社会主義研究会結成され11月入会社会主義者のジャーナリストとして頭角を現していくことになる。
99 32 28 7月 国学者師岡正胤の二女千代子と結婚。「普通選挙期成同盟会」幹事
1900 33 29 3月母を伴い帰省 郷里の人々と還暦祝う。中村にも「普通選挙同盟会」支部を置く。
8月 「万朝報」に「自由党を祭る文」
01 34 30 4月「20世紀の怪物帝国主義」出版 5月社会民主党結成するも禁止さる。8月兆民を見舞うため堺に赴く(*12月13日死亡) 9月兆民の「1年有半」「続1年有半」出版。11月田中正造の為、直訴文の草案を書く。
02 35 31 「長広舌」 「兆民先生」出版。
03 36 32 7月「社会主義神髄」
10月、日露非戦論を主張、非戦主義の論客として知られていった。
10月「万朝報」反戦非戦論者の堺、内村と共に退社。
11月平民社を創立。堺利彦と週刊「平民新聞」創刊。石川、西川光二郎、木下尚江らも参加。ここで彼の真骨頂が発揮され、日清戦争・日露戦争で沸く国民に対し、彼の論説の正確さが評価を高めた。
04 37 33 1.24日社会主義協会の茶話会で、幹事の斉藤から「是まで社会主義協会の本部が定まって居らぬので色々不便もあるから、今後平民社を本部なり倶楽部なりに使いたい」(平民新聞12号)との提案があり承認されている。以後、平民社と社会主義協会は社会主義運動や非戦運動に表裏一体として活動した。「(幸徳、堺らの反戦思想は)労働者階級がまだ若く、天皇制と地主と財閥が煽った排外主義の大浪が国民の大部分を迷わせていたとき、流れに抗して、戦争反対を主張したことは『平民新聞』の不朽の事業であった」(志賀義雄「日本革命運動の群像」)。
3月 「露国社会党に与うる書」 「嗚呼増税」事件。
11月平民新聞1周年記念号に堺と共訳でマルクス・エンゲルスの「共産党宣言」を訳載、即日発禁。堺、西川、秋水が80円の罰金刑。
05 38 34 「平民新聞」発行禁止、64号にて廃刊。
平民新聞終刊号発行の1ヶ月後2月26日判決、秋水と西川は28日禁錮五カ月の刑で巣鴨監獄へ。始めての入獄(*病弱な体質が相当悪くなる)

秋水は獄中でクロポトキンの著作に傾倒。日本に社会主義の理論を広め、社会主義運動に挺身し、『社会主義神髄』等数多くの著書を残していった。足尾鉱毒事件では天皇への直訴文を代筆するなどしたため政府の弾圧を受ける等、発禁や投獄をくり返している。
10月平民社解散。
11月14日渡米の途につく。岡繁樹らが設立した平民社桑港支部を、日本の革命運動の策源地にしようとの計画と、さらに健康回復の目的のため一時期アメリカへ逃れた。
11.14日伊予丸で日本を出港し、シアトル入りのあとサンフランシスコへ向かった。サンフランシスコでは、アナーキストのロシア人、フリッチ夫人方に滞在する。我孫子、鷲頭らと交流。
12月26日にはテキサスにいた片山潜が来訪している。
約半年間サンフランシスコ、オークランドで現地在、この間移住の日本人社会主義者と交流、竹内鉄五郎、岩佐作太郎、小成田垣郎らと社会革命党を結成している。
06 39 35 サンフランシスコ地震に遭遇し、現実の相互扶助を知り、一時的に私有財産や貨幣価値が無効となった事態に接して平等な配給社会を感じたといわれる。
6月1日オークランドで社会革命党を結成。
6月5日、岡繁樹とともに香港丸で横浜に帰朝。船中で岡に「日本に革命を起こすためには天皇を倒す必要がある。君は帰国した上は貴族院の衛士を志願せよ」と、大逆事件の基礎を話したという。

サンフランシスコから戻った直後の6.28日帰国第一声となる日本社会党主催の演説会で「世界革命運動の潮流」と題し、直接行動時代へ向け同志に訴えたとある。「労働者の革命は労働者自ら行なう」、「総同盟罷工」を提唱。


中村に帰郷(7月4〜8月31日)
07 40 36 1月15日「日刊平民新聞」発行。堺利彦、石川三四郎らと日刊『平民新聞』を発行。西川光二郎、木下尚江らも参加。2月5日号に〈余が思想の変化〉を発表。「労働者階級の欲するところは、政権の略取でなくて、麺麭の略取である」と直接行動派の宣言、黎明期のアナキズム思想を社会主義運動の中に確立させた屈指の理論家、活動家となった。
2月第2回社会党大会で直接行動派が党内の主流となるが西園寺内閣は新聞の即日発禁、解党と、弾圧を強化。しかし、秋水は非戦論集『平民主義』を刊行、これも即日発禁。後に石川啄木は〈国禁の書〉呼ぶ。大会、5日後 日本社会党禁止さる。
4月「日刊平民新聞」発行停止廃刊。
5月にはドイツのアナキスト、ローレルの『社会的総同盟罷工論』の翻訳を完成(翌08年森岡栄治、戸垣保三、守田有秋、神川松子が秘密出版)。大阪の森近運平、熊本の松尾卯一太、新美卯一郎が運動紙誌を発行と東京での弾圧に屈せず直接行動派は積極的に展開する。 
6月片山との間に硬軟論争。
9月堺等と「金曜会」結成。
社会主義夏期講習会でも秋水は人気を得、新村忠雄らが集まり、中国人留学生も参加。秋水は中国革命同盟会にも呼ばれ「おだやかな表情のなかに強い気性をおび」と景梅九の印象。劉光漢、張景らは反帝国主義・民族独立を目指す。東亜和親会を呼びかけ、秋水、大杉栄、山川均も関係する。インド、安南(ヴェトナム)の当時日本に滞在していた革命家も参加。秋水は堺ら社会主義者有志で、日帝による朝鮮への植民地的支配強化に対し抗議を行なう。
10.27日、病気療養のため母多治、妻千代子を連れ帰省の途につく(富山、大阪、九州)11月24日中村に帰郷、クロポトキン『麺麭の略取』の翻訳を進める。東京では屋上演説会事件、赤旗事件と弾圧が続くが、地方では上毛同志会が続けて開かれるなど、「平民の中へ」という秋水の主張が実践された。
08 41 37 「東洋諸国の革命党にして、その眼中国家の別なく、ただちに世界主義・社会主義の旗幟の下に、大連合を形成するに」『高知新聞』(1月1日号)と論ずるように国際主義の立場であった。それは20年代に大杉に引き継がれ、1928年には朝鮮人アナキストを中心として中国、台湾、フィリピン、インド、安南、日本(赤川啓来)のアナキストが参加した東方無政府主義者連盟の結成につながる。秋水の著書や翻訳書は中国や朝鮮の社会主義者にも読まれ、重訳され運動に影響を与えた。連盟員の朝鮮人アナキストであり高名な歴史学者、シン・チェ・ホ(申采浩)は秋水の著作に影響を受けアナキストになったと法廷で宣言している。
6月「麺麭の略取」の翻訳に従事。この頃東京では赤旗事件で同士が入獄。
7月、翻訳を完成、大石誠之介、内山愚童ら各地の同志を訪ねながら8月に来京、赤旗事件の公判を傍聴、柏木に住み平民社とする。坂本清馬が住み込み、森近も合流。赤旗事件で無罪を勝ち獲った管野すが、他に戸恒、新美、守田、徳永保之助、川田倉吉らも出入りする。

8月15日赤旗事件公判を傍聴。
10月巣鴨村に居住。
11月、大石の滞在、堀保子、神川、榎米吉、竹内善朔、神崎順一、岡野辰之助らの同志が集まる。
12月中旬には『麺麭の略取』を自費で刊行。
09 42 38 1月18日妻千代子上京。
1月末には、ほとんどの配布を坂本らの活躍で終えるという秘密出版(奥付けは1月末発行・平民社訳)であったが坂本は秋水と対立し去る。新村が入れ替わりに住み込み、2月13日には宮下太吉が初めて平民社(巣鴨)を訪ねて来る。

3月、千駄ヶ谷へ移転、管野の同居が始まり、近在の奥宮健之が訪れるようになる。同月、二番目の妻師岡千代子と別れる。秋水は制度としての家や結婚に関しての封建的な意識を変えられず、一方では身近な女性と恋愛を進めるという矛盾した態度があり、一部の同志の中傷を受けたり、離反される要因ともなった。管野との恋愛を貫きアナキズム運動を推し進めるため『自由思想』を発刊、弾圧を受けるが戸恒、榎、竹内らの秘密配布網が組織され、かろうじて2号まで発行。同時期、宮下太吉は爆弾により天皇を打倒する決意を固め、管野、新村は接触するが、それは準備のための話し合いであった。古河力作も加わり、秋水も消極的に関与していくが、管野の入院、自身の病状の悪化、警察の監視が続いた。
3月1日協議離婚。菅野スガと同棲。「平民論評」発行禁止
6月「自由思想」2号にて禁止。宮下太吉等の「大逆事件」の相談に参加、11月以降「大逆事件」より退く。
10 43 39 1910(明治43)年3月には平民社を閉じ、湯河原に投宿し、執筆活動に専念。計画は自然消滅せんとした矢先に宮下が明科で逮捕される。
4月小泉三申の勧めで「通俗日本戦国史」執筆のために湯河原に赴く。スガと別れる。
5月25日大逆事件の検挙始まる。
6月1日上京途上、湯河原駅頭で拘引される。愛人管野スガらが明治天皇暗殺を計画、これに関わっていた容疑で拘束された。  この時の様子が、田岡嶺雲の「数奇伝」に次のように明らかにされている。「幸徳が大逆事件の犯人として捕縛せられた当時の状を、目撃者として少しく語ろう」から始まり、昨[明治四十三]年の五月、予は痾を養うために湯河原に赴いた。四十一年発病以来毎年転地する習になっていた予は、この年も転地先を選択中にたまたま幸徳が腸結核の宿痾の保養がてら『基督抹殺論』を起草のために湯河原に在っていたのと、腸窒扶斯に罹った正岡藝陽が病後の静養にこれも湯河原へ行くというので、ついに同行した。

 幸徳は天野屋という宿にいた、予は始め藝陽と同じく中西屋に宿まったが、座敷が騒々しいので、幸徳のいる天野屋へ転宿した、五月の二十六日であった。幸徳と予との室は相隣していた、幸徳はひたすら『抹殺論』の稿を急いでしきりに筆硯に親しんでいた。確か六月三日であった、幸徳は上京してくるといって、車の来る間を予の部屋で話していた、出て行ったのは七時頃であった。十時頃になって宿の主人があわただしく来た。幸徳が門川の停車場で、東京から来た判検事の一行に邂逅して、湯河原へ連れ戻られた由の車夫の報告を予に語った。

 間もなく神奈川県の警部と土地の駐在巡査と二人で予の部屋に来て、予に駐在所まで同行を求めた。駐在所には、幸徳が奥の細長い一間にぽッねんと坐っていた。その次の間に制服の巡査が洋服の膝を窮屈そうに護衛していた。予は連れられて往ったままで、別に何事の調べもない。退屈まぎれに懐にしていた『牡丹亭[還魂記]』を読んでいた。初夏の晴れ切った日で、時は午に近く、外に虻の迂鳴が聞こえるほどの静けさであった。巡査の好意で蒲団は敷いてくれたが、脚が寒いので女中に膝掛けを取りにやった。

 やがて帰って来ての話で、予が室の捜索中なるを知った。家宅捜索はなるべくその主人の立会いの下に行うべきはずである。宿屋の一室といえどもすでに自分がこれを占めている以上は、その一室は即ち自分の家宅と同一である、宿屋の主人といえども妄りに侵入すべきではない。然るにことさらに病躯の予を駐在所まで引出して、その不在中に捜索を行うことは、たとい宿主の立会いはありとも、不法ではあるまいかと考えた。

 十二時も過ぎて一時近くなる頃、判検事の一行五、六人ばかりが、駐在所へ引上げて来た。予に対して二、三件の訊問があった後、予は帰宿を許された。幸徳に一言したいと望んだがもとより許されなかった。起って帰ろうとする時、幸徳が奥から声をかけて、「左様なら」といった。生別即死別、この「左様なら」が永遠の「左様なら」であろうとは予は予想だにもしなかった。彼が就刑を聞いた時、錆のある「左様なら」の彼の声が、今更のように耳に響くを覚えた。

12月10日 第1回公判。12月28日母多治死去。
11 44 40 1月18日死刑宣告(26名中24名死刑宣告)翌日12名に無期懲役の減刑命令。予審を経て大逆罪による大審院のみでの拙速審理、ほとんど反論できぬまま、秋水以下、計画とは全く無縁の同志も含め24名に死刑判決。(直後に12名は減刑)
1月24日秋水以下12名死刑執行。
 秋水は首謀者とみなされ大逆罪で1911(明治44)年1.24日、41歳の時処刑された。他にも10名が死刑となり、他の12名は無期懲役に、他の2名は長期の刑に処せられた。これが「大逆事件」と云われている。「天皇制をすすめようとする明治政府の弾圧が強まり、説くところの政治的権力と伝統的権威を否定する思想、並びに労働者による直接行動の提唱が、宮下太吉らの明治天皇暗殺計画に結びつけられ(冤罪とされる)、いわゆる大逆事件の首謀者とみなされ、絞首刑に処された」とまとめられている。堺利彦、山川均、荒畑勝三(寒村)らは、これよりさき、一九〇八(明治四一)年赤旗事件で検挙されていたために、残酷な「大逆事件」から免かれた、と信ぜられる。「大逆事件」は、日本における社会主義運動に大衝撃を与え、以降我が国での社会主義運動は暫く鳴りを潜めることになった。

 審理中から、エマ・ゴールドマン、ヒッポリート・ハベルら『マザー・アース』誌によるアナキスト・グループを中心に国際的な抗議行動が展開されるも、市ヶ谷の東京監獄において11年1月24日処刑、管野は翌日に執行。秋水らは「獄中手記」を残すが司法省によって長年隠匿され、45年の日帝解体後、焼却直前に発見。逮捕直前にほぼ書き上げ獄中で脱稿した『基督抹殺論』は堺により11年2月に刊行、増刷を重ね、印税は12名の死刑囚の遺族、懲役刑の獄中者、家族への救援費用に当てられ、また初の屋外メーデーの開催費用にも役立てられる。アナキストは後に「幸徳事件」「大逆事件」と語る。秋水の立場で「事件」を公に論じること自体が不敬罪弾圧の契機となり得るも、命日には集まりを継続し、保管されていた『麺麭の略取』の残部も少部数ずつ同志に配布、あるいは筆写と秋水の意志は受け継がれた。

 「獄中手記」「予審調書」「証拠物写」等が45年以降史料として発掘され、天皇ムツヒト、明治専制政府の大弾圧の実態の基礎的な研究に取り組まれるのが50年代から60年代である。坂本清馬を中心に再審請求も取り組まれる。「大逆事件の真実を明らかにする会」も発足。アナキズムの立場でも秋水、「大逆事件」に関し大澤正道、秋山清、向井孝等が論じている。(アナズム運動人名事典・項目<幸徳秋水>亀田博)

 「多謝す警視庁,迫害は社会主義の好肥料なりき」は秋水の真骨頂の言として知られている。「一種さみし気のある、しかもどこか凄みのある、ちょっとおかしがたい容貌をもっている」(小野田翠雨)との評がある。

 第二次世界大戦終了までは、中村においてもその墓を尋ねることさえ憚れる時代が続いた。現在、幸徳秋水を近代日本の思想的指導者の第一人者と讃えられても、その状況下では中村にその思想を継ぐものが現れなかったこともやむを得ない。

 現在インターネットで、彼の書物が容易に読むことができる幸せが、当然のものと思ってはならない。社会をあるがままに受け入れることも大事かもしれないが、時にはこれで本当によいのか、良いのであればそれを続けるにはどうすれば良いか、自問してみることも大事だろう。

 下記に幸徳秋水の文献がある。徳富蘆花「謀叛論」にも注目。
 http://www.ne.jp\asahi\anarchy\anarchy\library.html





(私論.私見)