428163 | 日本社会主義運動の前史、平民社活動史 |
(最新見直し2007.7.14日)
(れんだいこのショートメッセージ) | |
明治維新が胚胎していた西欧的市民革命の流れは自由民権運動に結実する。その主流は右派系の流れとなり、明治憲法の発布と共に議会に取り込まれることによりその役割を終える。この系譜は以降、近代的政党政治の原初的活動に向かうことになる。他方、こうした流れに抗して左派系運動が胎動していき、西欧のマルクス主義系社会主義理論と結びつきやがて日本共産党創立まで辿り着く。この歩みが「日本社会主義運動の前史」と云える。 但し、自由民権運動左派が一足飛びにマルクス主義に結びついた訳ではない。非統制的な市民主義運動の流れを追及するアナーキズム系の流れが介在した。「北一輝と大杉栄についての考察」は次のように述べている。
実にそうであろう。このアナーキズムの流れとマルクス主義の相克が「日本社会主義運動の前史」を彩っている。今日、俗流マルクス主義は色あせたという観点から捉え直すと、この当時のアナーキズムの感性の良さが見えてくる。かく視座を設定し直して史実を追跡していきたい。 「日本社会主義運動の前史」は、三期に分かれる。その一期は、日清戦争直後より労働組合運動の中で結実し、やがて平民社運動へと辿り着く。平民社活動は幸徳らに代表され、日露戦争時にその真骨頂を見せる。が、当局の度重なる弾圧と思想潮流の分岐の前に潰える。以下は、この流れの検証である。 2006.5.30日再編集、2007.7.14日再編集 れんだいこ拝 |
【日清戦争以前】 |
日清戦争(1894〜95年、明治27〜28年)以前、1881年の秩父事件を頂点とする農民蜂起や、1882年の都市部では「社会公衆の最大福利」を目的に掲げた「東洋社会党」(自由民権左派の流れを汲む)や、社会党をもじった「車会党」(同年、馬車鉄道の敷設に反対した人力車夫のラッダイト的運動)などが存在したが、いずれも近代的労働運動の範疇に入るようなものではなく、まもなく自然消滅してしまった。 |
【「万朝報」発行される】 |
1892(明治25).11月、黒岩涙香によって東京で「万朝報」が創刊された。紙名「万朝報」は「よろず重宝」にあやかる。簡単・明瞭・痛快をモットーとし、社会悪に対しては徹底的に追求するという態度と、涙香自身による連載翻案探偵小説の人気によって急速に発展し、明治32年末にはその発行部数が東京の新聞中1位に達した。 これに関わった人士は次の通り。<高知県関係者>として山本秀樹(1862〜1932)、田岡嶺雲(1870〜1912)、幸徳秋水(1871〜1911)、野崎左文(1858〜1935)、岡繁樹(1878〜1954)、馬場孤蝶(1869〜1940)、中内蝶二(1875〜1937)ら。<他府県関係者>として堺利彦(1871〜1933)、内村鑑三(1861〜1930)、斉藤緑雨(1867〜1904)、山形五十雄(1869〜1959)、森田思軒(1861〜1897)、松居松葉(1870〜1933)、茅原華山(1870〜1952)らの面々であった。 |
【日清戦争以降】 |
|
社会主義という言葉は、明治初年にすでに日本に伝えられている。我が国に西欧マルクス主義が紹介されたのは日清戦争後の頃である。以来、プロレタリアートに浸透し始め、労働組合の結成につながり、日本で労働組合運動や社会主義運動が本格的に展開されるようになった。とはいえ「子供が靴を履き始めた頃」であった。 その背景事情を、社労党の町田勝氏は「マルクス主義同志会」の「マルクス主義入門」の「日本社会主義運動史」中で次のように説明している。
|
【この頃の思想潮流】 | |
それは二つの源を持っている。その一つは、中江兆民系譜のフランス流自由平等主義の流れであり、幸徳秋水、酒井雄三郎らが代表する。もう一つは、キリスト教社会主義の系譜の流れであり阿部磯雄、村井知至、山川均、片山潜らが名高い。 日本の社会主義運動のなかで、マルクス主義の理論的伝統をはぐくんできたのは、堺利彦であった。彼は.そのころ各国でおこなわれたようにドイツ社会民主党に学んだ。1890(明治30)年代のかれの活動が、既にこれを示している。 1897(明治30年).4月、社会問題研究会が発足している。これは「学理と実際により社会問題を研究」することを謳い文句に、当時のいわゆる進歩的知識人を200名ほど集めた組織で、幸徳秋水や片山潜なども参加しているが、その主導権は自由民権左派の中村太八郎らが握っていた。普通選挙、土地国有、無料教育などが会のスローガンであったが、中村の入獄などで1年ほどで消滅してしまった」(社労党の町田勝氏「日本社会主義運動史」参照)。 1897(明治30)年、片山潜が、神田三崎町に、当時としては超モダンでセツルメント的なキングスレー館を開設し、幼稚園、小僧夜学校、市民夜学校を開いた。片山潜はこの当時キリスト教の影響下にあった。そこで出した「渡米案内」パンフレットがよく売れた、と伝えられている。 片山が東京で小雑誌「労働世界」を発行した。これが社会主義の声となり、日本の労働者に目覚しい影響を与えた。次の一文が有名である。
|
【「社会主義研究会」誕生】 | ||
社労党の町田勝氏は「日本社会主義運動史」の中で次のように述べている。
|
【「社会主義協会」へと発展】 | ||
1900(明治33)年、社会問題研究会は「社会主義協会」と名称をあらためて、社会主義者のみを組織主体とする社会主義運動へ向かった。社労党の町田勝氏は「日本社会主義運動史」の中で次のように述べている。
|
【「治安警察法」が制定公布される】 |
1900(明治33)年、山県内閣により治安警察法が制定公布されている。これにより労働者の団結権や争議権が禁止された。当時、高野、片山らがめざした組合運動はゴムパース率いるアメリカの労働総同盟をお手本に、熟練労働者を中心とした階級協調主義むき出しの運動であった。しかし、このような穏和なブルジョア的労働運動にさえ、労働者階級の急速な勢力の拡大とその階級的な成長を見てとった山県内閣が禁止したということである。 この「労働組合死刑法」によって、未だ幼児期を脱しない当時の労働組合運動はたちまち壊滅状態に追いやられてしまった。そして、凋落する労働組合運動と入れ替わるかのように表舞台に登場してくるのが社会主義運動である。 |
【片山潜の海外活動】 |
1900(明治33)年、パリの第二回インターナショナル大会で、片山潜が日本の社会主義者代表として、国際社会主義指導部のメンバーに選ばれた。 |
【日本で初めての社会主義政党「社会民主党」の誕生。結党直後に禁止される】 | |
1901(明治34).5・18日、社会主義運動をさらに前進させるため政党創立を協議し、阿部磯雄、片山潜、幸徳秋水、木下、西川、河上(清)の6名らによって我が国初の社会主義政党として「社会民主党」が創立された。翌19日には神田警察署に結社届けを提出、20日には宣言が萬朝、毎日、報知などの各紙に掲載された。社会主義協会はたんなる思想運動を脱皮しようとする試みであった。 翌20日、伊藤内閣はこの生まれたばかりの党に結社禁止、命解散命令を下し、宣言を載せた各紙を販売禁止処分にした。かくして、わが国最初の社会主義政党はわずか2日間の短命に終わった。 |
|
【「社会民主党」の綱領解析】 | |
社会民主党の綱領は、 「最大限綱領」と「最小限綱領」からなるドイツ社民党のエルフルト綱領(1891年制定)にならって、「理想綱領」と「行動綱領」から構成されていた。「理想綱領」には次の8項目が掲げられた。
このいわば遠大な理想主義に対して、現実的な獲得目標を示した「行動綱領」はブルジョア民主主義と資本主義の枠内での社会改良の要求の域を出るものではなかった。こうした「理想」と「行動」の乖離は、当時の第二インターの諸党に共通の特徴であるが、それはまた当時の日本資本主義の発展段階とそれに照応した労働者階級の未成熟、ブルジョア民主主義的な課題が広範に残存していた政治状況などの反映でもあった。 |
【雌伏する社会主義運動】 |
安部ら6人は翌月内閣が伊藤から桂に変わったことから、今度は「日本平民党」に名称変更して届け出たが、これもまた即時禁止であった。このため、彼らは当面結党の見込みなしと判断、社会主義協会を復活させて啓蒙宣伝活動を続けることにした。そして10月に第二回の「社会主義学術大演説会」を開催したのを皮切りに、「弁士中止!解散!」の警察の妨害をものともせずに、演説会、茶話会、伝道旅行などによる公然たる大衆宣伝を強めていった。 また、労働組合期成会の機関誌であった片山編集の「労働世界」は「社会主義」と改題され、協会の機関誌の役割を果たすことになった。2年余にわたる協会のその後の粘り強い活動は平民社による社会主義運動の新たな時代を準備していくことになる。(社労党の町田勝氏「日本社会主義運動史」参照) |
【日露戦争前夜の動き】 |
1903(明治36)年に入ると、満州・朝鮮の権益と支配をめぐる日本とロシアの対立が一触即発の段階に達した。この頃、世界資本主義は帝国主義の段階に移行し、領土と植民地の分割・再分割をめぐる諸列強の争奪戦は全地球規模でますます激化していった。日露の争いもまたそうした帝国主義的角逐の一環に他ならず、10年後に第一次大戦となって爆発する世界戦争に向けた序曲であった。 |
【「万朝報」内の意見が割れる】 |
この年の秋に開戦必至の情勢を迎えると、それまで幸徳秋水や堺利彦を抱えて非戦(反戦)の論陣を張ってきた黒岩涙香の万朝報もまた「戦争やむなし」の主戦論に転向した。 |
【平民社設立される】 |
「万朝報」を退社した幸徳と堺は、当初は別々の途を進む予定だったが、相談のうえ、協力して新たな週刊新聞「平民新聞」を発行することになった。問題の資金調達も友人の医師らの協力で何とか解決し、同月23日には有楽町の一角に二階家を借り受けて平民社を設立、退社から一カ月後の1903(明治36).11.15日には早くも歴史的な週刊「平民新聞」第1号の発行にこぎつけた。以降、週刊「平民新聞」紙上に論陣を張り、戦争反対を圭張し続けた。 |
【平民社の理念解析】 |
創刊号には「一、自由、平等、博愛は人類世にある所以の三大要義なり」で始まり、平民主義(階級打破、圧制束縛の除去)、平和主義(軍備撤去、戦争禁絶)、合法主義(国法遵守、暴力否認)を謳った四項目の「宣言」が「平民社同人」の名で掲げられた。これは平民社の唱える「社会主義」の基本的な内容を示すものだが、一見して明らかなように前回見た社会民主党綱領の水準を超えるものではなかった。労働者階級の独自の歴史的階級的な運動としての社会主義という観念はまだ明白には把握されておらず、依然としてキリスト教的な人類同胞主義の色彩が濃厚である。 また人的にも、平民社の「相談役」(4人)にはキリスト教社会主義派の安部磯雄、木下尚江が就任、寄稿家には同派の村井知至らが名を連ねていた。しかし、平民社の実際の指導部は幸徳、堺をはじめとする自由民権左派の流れを汲む人々が中心となっており、日本社会主義運動の主導権が当初のキリスト教社会主義派の一派(社会民主党の創立者6人の顔ぶれは幸徳を除いて他の全員が同派の人々であった)から別の潮流の手に移行したことを示していた。この点でも平民社の創立は運動史上の新たな段階を画するものであった。 ともあれ、幸徳らは平民社と「平民新聞」を日本における社会主義運動の「城」および「中央機関」と位置づけ、非戦論を中心環に社会主義の啓蒙・宣伝活動を公然と繰り広げていった。 |
【平民社の非戦論(日露戦争開戦に対峙する平民新聞)】 | |||
1904(明治37).1月、日露の交渉が最終的に決裂し、開戦が決定的になった。政府・財界はもとより言論界あげての世論誘導によって「ロシア撃つべし」の好戦気分が横溢するなかで、反戦の立場を貫くことは弾圧と迫害を覚悟の大変な勇気を要することであったが、幸徳は、敢然ペンを奮った。
また2月7日付けの第13号は、これもまた幸徳執筆の社説「和戦を決する者」を掲げ、次のように喝破した。
そして「ひとり日本のみならず、今や世界の政治はことごとく資本家のために支配せられざるなし」と敷衍し、キューバとフィリピンをめぐる米西戦争、イギリスによる南ア戦争などの例をあげて次のように述べている。
諸大国の政治とその延長である戦争の帝国主義的な本質を鋭く衝いている。それを主導する国際金融資本の暗躍にまでは言及していないにせよ。 では、このような「マンモニズム」(拝金主義)の支配を打破するにはどうすればよいのか。社説は、「ただ資本家階級の全廃あるのみ」と強調し、「これ欧米社会党の大運動のある所以にして、而してまた実に吾人のこの主義を絶叫する所以と知らずや」と結んでいる。 |
|||
2.8日、「平民新聞」が発行された翌日、ついに戦争が始まった。2.14日付け第14号は、戦争の責任はあげて両国の政府にあると弾劾し、「戦争すでに来るの今日といえども、吾人の口あり、吾人の筆あり、吾人の紙ある限りは戦争反対を絶叫すべし」と非戦の決意を改めて明らかにした。そして、論説「戦争の結果」を掲げて再度国民に警告を発するとともに、「兵士を送る」の一文では「兵士としての諸君は、単に一個の自動機械なり」として、「諸君の行くは諸君の罪にあらざるなり。英霊なる人生を強いて、自動機械となせる現時の社会制度の罪なり」と出征兵士に深い同情を寄せた。続く15号の社説では「死生一擲、金鵄勲章を賭するが如き」の愚を避けよ、政府の扇動に乗せられるなと兵士に呼び掛けた。 また3.27日付け第20号では社説「ああ増税!」を掲げ、戦費調達のための6000万円に上る増税を次のように激しく糾弾した。
そして次のように説いた。
政府は新聞紙条例によってこの幸徳執筆の社説を掲げた新聞を発売禁止にするとともに、発行責任者の堺を起訴し、軽禁固2カ月に処した。 |
【平民新聞の国際反戦活動の功績】 | ||||
平民社の非戦運動の重要な特質はその一貫した国際主義の精神であった。平民新聞には世界各国の社会主義者との交流・連帯を目的にして当初から「英文欄」が設けられ、毎号、重要問題を英語でアピールするとともに、「世界之新聞」欄を設けて各国の労働運動や社会主義運動の状況を紹介していった。 戦争勃発後の3.13日付けの平民新聞第18号には、平民社のプロレタリア国際主義を象徴する社説「露国社会党に与うるの書」が掲載された。幸徳秋水の一代の名文と言われるこの檄文は次のように書き起こしている。
ツァーリ圧制下で堅忍不抜の闘いを繰り広げるロシア社会民主党に心からの敬意と同情の意を表明した後、こう訴える。
そして、終わりにあたって「マルクスの『万国の労働者よ団結せよ』の一語は、真に今日において実現せしめざるべからず」と強調し、こう結んでいる。
この国際連帯の情にあふれた檄文は次号の英文欄にも訳載され、欧米各国の社会主義者に深い感銘を与えた。このような国際主義の精神がすっかり見失われて久しく、ブルジョア政党は無論のこと日共に代表される似非(えせ)左派諸党によって自閉的な民族主義や愛国主義が振りまかれ、その害毒が蔓延している現在に於いては、率直に国際連帯を訴えた百年前のこの一文は我々の心をもまた揺さぶらずにはおかない。
|
【多彩で精力的な平民社の活動】 | |
反戦運動の展開と社会主義の啓蒙宣伝活動とを両軸とする平民社の闘いはまことに精力的かつ多彩なものであった。1904(明治37).12.25日付けの平民新聞第59号に載った集計によれば、平民社創立から一年間の活動状況は次のようであった。
わずかの勢力と乏しい資金のなかで、平民社の人々が一年間にこれだけの活動を成し遂げ得たことは驚嘆に値する。財政難で1904.5月以降は専従社員は無給となったが、彼らは平民社に「籠城」して活動を支えた。 |
【片山潜が日本の社会主義者の代表として万国社会党(第二インター)第六回大会に参加】 |
1904(明治37).8.14日、アムステルダムで万国社会党(第二インター)第6回大会が開かれた。この大会に渡米中の片山潜が日本の社会主義者の代表として参加した。大会は、自国のブルジョアジーの帝国主義的政策を正当化して、ブルジョア政府に加担しようとした社会主義者たちの立場を非難した。 片山は交戦国ロシアの代表プレハーノフとともに大会の副議長に選出された。登壇した二人は壇上で固く握手を交わし、日露の社会主義者たちの一体性に満場の拍手と喝采が贈られた。この時、片山が英語でした演説の通訳の労をとり、ドイツ語に翻訳したのがクララ・ツェトキン、フランス語に翻訳したのがローザ・ルクセンブルグであったと伝えられる。 この模様は、イスクラに「これ以上美しい瞬間はこの大会にはなかった」と書かれた。平民新聞(9.18日付け第45号)も「記せよ、読者諸君。この握手や、これ実に世界の社会党発達の歴史において、永く特筆大書せざるべからざる重大の一事実なることを」と紹介した。 このように純粋・素朴な形ではあれ、プロレタリアートの国際主義と社会主義の原則に則って、断固として革命的な反戦闘争を繰り広げていったことこそ、平民社の非戦運動が国際社会主義運動史上に不滅の足跡を残すに至った理由であり、今なお我々に深い感動を呼び起こさずにはおかない。 |
【社会主義運動史上初めての選挙闘争】 |
この時期の活動で言及しておかなければならないのは、社会主義運動史上初めて選挙闘争に取り組んだことであった。東京市選出の衆院議員・田口卯吉の死去に伴う補欠選挙が五月に行われることになり、平民社では木下尚江を候補者に立てて闘うことにした。 木下の政見は社会主義実行のための手段としての普通選挙制の獲得というものであったが、政府の乱暴な選挙干渉で、チラシの配布も政見発表演説会も許されなかった。しかも有権者が百人に1人(総数約1万7000人)という制限選挙であったため、木下の得票は32票(得票率0.2%)に止まった。しかし、平民社の人々は「これ、あに厳然たる社会党の樹立に非ずや」(5.21日付け「直言」第16号)と意気盛んであった。 選挙運動でさえこの有様なので、演説会を開催し、数百人の聴衆を集めても、たちまち「弁士、中止!」「解散!」の連発で成り立たず、怒った聴衆が警察官と小競り合いを繰り返すという状況であった。しかも、印刷代に加えて罰金や没収印刷機械の賠償金で財政は火の車であった。 こんななか、6月にはいると、米国の仲介で日露両国の講和への動きが始まった。燃え広がる革命闘争に手を焼いていたロシアはもとより、日本もすでに戦争継続の余力を失っており、両国はルーズヴェルト大統領の調停に渡りに船と飛びついた。8.10日、講和会議が米国のポーツマスで開かれ、日本は韓国・満州の利権、大連・旅順の租借権、樺太の南半分の割譲、沿海州の漁業権などを分捕ったが、賠償金は一銭もとれなかった。 このため反動派から「屈辱講和反対」の声が猛然と上がり、9.5日に日比谷公園で開かれた対露硬同志会主催の「講和反対国民大会」は政府の御用新聞社や警察署、電車などを焼き払う暴動へと発展した。政府は6日の夜、東京府下に戒厳令を敷き、講和反対と政府批判を掲げた新聞に軒並み一定期間の発行停止を命じた(東京朝日14日、読売11日等々)が、一人「直言」のみは無期発行停止であった。 |
【平民新聞紙上での石川三四郎の「小学教師に告ぐ」騒動】 |
平民社の闘いと影響力の拡大は支配階級に深刻な脅威を与え、権力の弾圧もまた日を追って熾烈なものになっていった。そんな中、1904.11.6日付の平民新聞第52号は教育批判を特集し、いくつかの論文を掲げたが、その一つに石川三四郎の「小学教師に告ぐ」があった。石川はこの中で国家主義教育を攻撃し、教師の劣悪な待遇を暴露して、教師たちに社会主義運動への結集を呼び掛けた。政府はこの論文が朝憲紊乱罪(国家存立の基礎となっている制度を侵害する罪)にあたるとして、平民新聞の発売を禁止するとともに、編集兼発行人の西川光二郎と印刷人の幸徳秋水を起訴した。 |
【平民新聞創刊一周年紙上で「共産党宣言」掲載される】 |
翌週の1904(明治37).11.13日付の平民新聞第53号は創刊一周年に当たっていた。この記念すべき号を飾るため、堺利彦は幸徳秋水との共訳の「共産党宣言」を掲載することを計画していた。これが「共産党宣言」の最初の邦訳で、実は訳者も含めてそれまで誰も読んだ人がなかったというのが当時の実情であった。53号は直ちに発売禁止に処せられた。 今度は西川、幸徳、堺の3名が起訴された。また記念行事の一つであった園遊会も禁止されたうえに、16日には社会主義協会(片山潜が03年末に渡米して以降は協会の本部もまた平民社に移り、両者は一体となって活動していた)に解散命令まで下された。 1905.1.11日、第52号の控訴審判決が下されたが、第一審に続き、幸徳に禁固5カ月、西川に禁固7カ月、それぞれ罰金50円、平民新聞の発行禁止、印刷業者所有の機械没収という厳しいものであった。 |
【平民新聞廃刊】 | |
万事休す。平民新聞はこの裁判責め、兵糧攻めの政府の迫害に断固抗議し、なおも「非戦論をやめず」と呼号した。だが、大審院での上告棄却が避けられない状況の中では、それにも限界があり、それならば政府によって禁止されるよりは自ら廃刊しようということになった。 1905(明治38)年、平民社同人は、西川の出獄を待って「直言」の廃刊と平民社の解散を決定し、10.9日には70余名の同志が平民社に集まって悲痛な解散式を挙行した。ここに、その革命的な反戦闘争で国際社会主義運動史上に輝かしい足跡を残し、また日本の社会主義運動を初めて公然たる政治闘争の舞台に登場させるという歴史的な役割を果たした平民社の一時代が幕を閉じた。 平民新聞は1.29日付の第64号をもって終刊とすることに決した。この終刊号は1905(明治38).12.29日に発売された。終刊号は、マルクスの新ライン新聞の故知にならって全面赤刷にされ、「告別! されど永久の告別にはあらず。彼らは精神を殺す能わず」というフライリヒラートの詩も掲げられていた。
幸徳の「終刊の辞」は例によって悲愴を極めたものであったが、あにはからんや翌週の定期発行日には「本紙は日本社会主義の中央機関なり」と大書した週刊「直言」が後継紙として直ちに姿を現わした。編集・執筆陣も、新聞の体裁も全く同じで、平民新聞が直言に名を変えただけであった。とはいえ2月末に主筆の幸徳が下獄した後の紙面が精彩を欠くものとなったことは否めなかった。 この時期の記事で注目されるのは、ロシアの労働者人民の革命的な決起、すなわち1905年の革命に関する報道である。平民新聞の終刊号には「露国革命の火」と題して、奇しくもその一週間前(1.22日、露歴では1.9日)に起こった「血の日曜日事件」(僧ガポンに率いられた2万の労働者人民がツァーリに請願するため冬宮に向かったところ軍隊の発砲で多数の死傷者を出した事件で、05の革命の発端となった)が詳しく紹介されていた。直言もこれを引き継いで、かのプチロフ工場の労働者のゼネストから始まり戦艦ポチョムキンの反乱(7月)に至る革命的蜂起の模様を毎号のように掲載、ロシアの労働者人民の闘いの発展に胸を躍らせ、その勝利に期待し、熱い連帯を表明している。 平民社の国際主義の面目躍如だが、しかし、彼らもロシアの革命運動の内情について詳しくは通じておらず、ロシア社会民主党のボルシェヴィキとメンシェヴィキへの分裂はおろか、社会民主党と社会革命党の違いさえ明瞭には理解していなかった。 |
【平民社の解散】 |
こうして平民社は権力の凶暴な弾圧と財政難によりまさに刀折れ矢尽きる形で解散に追い込まれたのであるが、しかし、平民社の解散は単に弾圧と財政難といった外的要因によってのみ余儀なくされたのではなかった。そこには早晩、解体を不可避とする内的な要因もまた存在していた。 平民社を主導したのは幸徳、堺らの自由民権左派の流れを汲む唯物論派の社会主義者であった。しかし、平民社内部もこの頃思想的に分裂しており、単なる人道主義者や博愛主義者や精神主義的なキリスト教社会主義の立場に立つ安倍、石川、木下らと、唯物論的な社会主義、マルクス主義の立場に立つ幸徳、堺らとが対立し始めていた。 彼らは明確な政治綱領に基づいて結集していた訳ではなく、せいぜい社会主義の抽象的な理想やその実現のための普通選挙制の獲得を共通の土台にしていたに過ぎなかった。そして、その彼らを打って一丸とさせていた紐帯は何よりも日露戦争に断固反対するという非戦の立場であった。 ところが日露戦争の終結はこの非戦の紐帯を解いてしまった。平民社に団結させていたこのほとんど唯一の紐帯が失われれば、それぞれが自らの本来の傾向や色彩にしたがって分離していくことは自然の成り行きであった。平民社の一時代が日露戦争の勃発とともに幕を開け、日露戦争の終結とともに幕を閉じたのは決して偶然ではなかったということになる。 |
【平民社の解散以降の流れ】 | |
1905(明治38).10月の平民社の解散から一カ月後、木下尚江、石川三四郎らキリスト教社会主義派は月刊誌「新紀元」を創刊した。他方、「マルクス派社会主義」を名乗る西川、山口義三らの唯物論派も月刊誌「光」(この名称はロシア社会民主党の機関紙イスクラをまねたもの)を発刊して、両派はそれぞれ別の道を進むことになった。その他幸徳、堺らは別個に歩み始めた。かくて日本の社会主義運動は三陣営に分裂した。 「光」は、平民社直系の「日本社会主義中央機関」をもって任じたが、編集には西川光二郎と山口義三(孤剣)が中心になって当たることになった。というのは、幸徳秋水は11月半ばに静養と見聞をかねて米国に旅立ち、堺利彦は理論研究に力を注ぐことになったからであった。堺の成果は翌年春から夏にかけて発行された1〜5号の雑誌「社会主義研究」に発表され、「共産党宣言」、「空想から科学へ」などの日本語訳が初めて日の目を見た。 「光」創刊号は第一面に「印絆天雑誌、凡人主義の新聞」と大書し、第2号の巻頭に「凡人主義とは何ぞや」と題する声明を掲げて次のように呼号した。
西川、山口らは平民新聞や直言は少しく高尚・難解に過ぎたとして、もっと通俗的大衆的な新聞にしようと意図した。しかしそれは、理論や原則を軽視し、卑俗な改良主義に陥りかねないものであった。 |
(私論.私見)