4285363 【遺書と処刑の様子】

 (最新見直し2006.8.20日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 今日明らかになることは、A級戦犯として処刑された、第一組として土肥原、松井、東條、武藤の4名、第二組として板垣、廣田、木村は、戦犯としての罪はさることながら、ネオ・シオニストから見て許し難い能力者であったということであろう。逆に云えば、彼らは、ネオ・シオニスの内通者ではなかったという身の潔白が証明されていることになる。これはむしろ誉れであろう。これは、エージェントばやりの今日なら見えてきたことである。

 ディヴィッド・バーガミニ氏は、「帝国の没落と東京軍事裁判」で次のように記している。
 「明け渡された戦場において連合国の兵隊によって為された残虐行為は、戦争の激情の産物として半ば許され得た。だが、よりいっそう言語道断な不正行為が、分別のある人たちによって考える余裕があったはずの法廷で発生した。日本の政治に対する無知と評価の不足から、マッカーサーの戦争犯罪検察官たちは、辻や三笠宮や天皇裕仁のような戦争指導者たちを入念に無視して、倫理を知らないが命令に忠実であることを知っていた軍の将校たちを熱心に審理し、中傷し、そして絞首刑にしたのであった」

 この一文は、東京軍事裁判の問題のありかの急所を衝いている。

 2005.12.23日、 西岡昌紀(にしおかまさのり)氏は次の一文をサイトアップしている。これを転載しておく。
 天皇誕生日に「戦犯」を処刑したアメリカ

 今日は、12月23日です。12月23日は、現天皇の誕生日ですが、同時に、東京裁判で「A級戦犯」とされた人々が処刑された日でもあります。即ち、アメリカは、当時皇太子だった現天皇の誕生日に東條英機らの「A級戦犯」を処刑した訳ですが、これは果たして偶然だったのでしょうか?私は、偶然だとは思ひません。即ち、アメリカは、当時の皇太子の誕生日をわざわざ選んで「A級戦犯」たちを処刑したのだと私は思ひますが、何と言ふ陰湿な事をしたのだろうと思ふのは、私だけでしょうか。将来の日本人が、天皇誕生日の度に東京裁判を思ひ出す様にと言ふ演出だったのでしょうが、こんな陰湿な事をして、結局、尊敬を失なふのは、自分達であると言ふ事に思ひが至らなかったのか、不思議です。無実の罪で処刑された「A級戦犯」の方たちの御冥福をお祈りします。

 平成17年12月23日(金) 東條英機元首相ら「A級戦犯」達が処刑された日から57年目の日に

 つまり、12.23日という今上天皇(当時皇太子)の誕生日に合わせてA級戦犯7烈士は処刑されたということである。これを偶然とみなすべきだろうか。「ユダヤ教にとって最も聖なる日とされる過ぎ越しの祭りの日にキリストをゴルゴダの丘に磔死せしめた故事にならった文字通りの復讐裁判であった」との説もある。これが歴史の真実とすると、いかに執念深い復讐のためのあざとい裁判だったかがわかろう。

 2005.12.23日 れんだいこ拝


【処刑の様子】
 1948(昭和23).12.23日午前0時、東條元首相以下7人(東條英機、土肥原賢二、廣田弘毅、板垣征四郎、木村兵太郎、松井岩根、武藤章)が処刑された。第一組として土肥原、松井、東條、武藤の4名、第二組として板垣、廣田、木村が処刑された。これを見るに、途中死亡者も含め、陸軍6名、海軍1、文民2名となっている。

 遺体は横浜市立久保山火葬場で荼毘に附された。遺骨は共同骨捨て場に捨てられたが、その後小磯氏の弁護人であった三文字正平氏の手を経て、三文字氏の住む横浜の寺に保管され、更に松井岩根氏が生前、中国戦争での日中双方の死者を祀る為に静岡県の伊豆山に建てた観音堂に安置された。1959年、更に松井氏の故郷である愛知県幡豆町の三ヶ根山に埋葬された。三河湾を臨む国定公園の一角に「殉国七墓墓」と書かれた碑が建っている。これとは別に国から遺族に渡されたものもあるが、経緯は不明。

 浅岡秀志氏の「『パール博士のことば』(東京裁判後、来日されたときの挿話) 田中正明著」の「東京裁判の評価とパールの名声」の項には次のように記されている。
 マッカーサー創るところの「極東国際軍事裁判所条例(チャーター)」に基づき、いわゆるA級戦犯28人が起訴されたのは昭和21年4月29日(昭和天皇の誕生日)であった。すべての審理が終了したのが昭和23年4月16日。以降裁判のため7ヵ月の休憩に入り、判決は同年11月4日から始まった。判決文の朗読が終わり、最後の「刑の宣告」が行われたのが11月12日あった。

 東條元首相以下7人(東條英機、土肥原賢二、廣田弘毅、板垣征四郎、木村兵太郎、松井岩根、武藤章)が処刑されたのは12月23日(今上天皇の誕生日)であった。つまり東京裁判は昭和天皇の誕生日に起訴し、当時皇太子であられた今上天皇の誕生日を期して処断したのである。この一事をもってしても、いかに執念深い復讐のための裁判だったかがわかろう。  だが、東京裁判が終わって2年後の昭和25年10月15日、マッカーサーは、ウェーキ島においてトルーマン大統領に「東京裁判は誤りであった」旨を告白して、すでにこの裁判の失敗を認めている。その翌年の5月3日、アメリカ上院の軍事外交合同委員会の聴聞会で「日本が第二次大戦に赴いた目的は、そのほとんどが安全保障のためであった」と、東京裁判で裁いた日本の侵略戦争論を全面的に否定している。

 のちに、「この裁判の原告は文明である」と大見得を切ったキーナン主席検事も、あの傲慢なウエッブ裁判長も、この裁判は法に準拠しない間違った裁判であったことを認める発言をしている。現在名ある世界の国際法学者で、東京裁判をまともに認める学者など一人もいない。パール判事の立論こそが正論であるとし、パールの名声は国際的に高まった。


【東条(條)英機(とうじょうひでき)(1884-1948)履歴その1、戦前篇】

(私論.私見) 東条英機考

 A級戦犯の筆頭に挙げられる東条ですらその履歴が案外と知られていない。れんだいこは、時代に登竜し、翻弄され、ホロコースト(聖壇での生贄という意味)された一代記と見立てる。

 宮顕ー不破系日共式の何らマルクス主義的ではない単にネオ・シオニズム教学の請け売りにしか過ぎないA級戦犯論では歴史から何も学べない、否むしろ有害であることを憂慮し、れんだいこが素描しておく。イデオロギーは歴史の史実から汲み出さねばならない。イデオロギーで歴史を裁断してはならない。ネオ・シオニズム教学は後者の悪しき例であり、日本左派運動は一刻も早く決別抜け出さなければならない。

 
人物に関するデーターベース
東条英機、小林よしのり氏の「いわゆるA級戦犯」その他を参照した。他の文献から貴重情報を得次第に順次書き換えることにする。

 2006.8.20日 れんだいこ拝
 総評。軍人にして政治家になり、大東亜戦争開戦時の首相という歴史的地位を占めている。
 1884年、東京生まれ。父・東条英教は、旧盛岡・南部藩士の陸軍軍人。陸軍の知嚢と謳われたが、南部藩は戊辰戦争で賊軍であった為、長州閥の威勢の前にさほど昇進することなく不遇であった。日露戦争の際に抗命を理由に馘首同然で中将を最後に陸軍を退かされた。息子の英機も長ずるに及び城北尋常中学から陸軍幼年学校に進み、陸軍士官学校を経て中尉に任官した。こうして、父と同じ陸軍軍人になった。

 任官後、陸軍大学校へ。卒業後、陸軍省副官を拝命し、順調に進級した。大正8年、山下奉文とともにドイツ駐在。ドイツ駐在の折、永田鉄山、岡村寧次、小畑敏四郎らと保養地バーデン・バーデンに会して密約を結んだ。この時、1・日本における総力戦体制の構築、2・長州閥を排撃するの二つを意思統一させた。東条はこうして長州閥退治に情熱を燃やすことになる。

 東条はその後永田鉄山との親交を深め、永田もまた東条を信頼し、ドイツから帰国して陸大の教官となっていた東条を自分の後釜(陸軍省整備局動員課長)に据えた。東条は、永田の庇護下で国家総動員体制を深く研究した。昭和4.8月、第一師団連隊長を拝命。

 この時の逸話が次のように伝えられている。東条は、私語している兵士の名前、年齢、出身地、成績をすべて前もって諳(そら)んじていて、直に名前で「誰々、私語するな」であった。他にも、連隊内の栄養状況に関心を寄せ、兵士が食事を残してごみ箱に捨てているのを確認するや、炊事班長を呼びつけて「消化がよくておいしいものをつくってやれ」と命じた。いずれも下級兵士を思いやる逸話となっている。

 連隊長を務めた後、参謀本部総務部編成動員課長となった。この頃、軍部内での統制派と皇道派の対立が発生し相剋が深まっていく。統制派に位置していた東条は、荒木貞夫らの皇道派から煙たがられ、少将とはなったものの省部の要職から追われ閑職の日々が続いた。一時は永田が林銑十郎陸相を擁することに成功して閑職から復帰するが、まもなく統制派のリーダー永田少将が斬殺された結果(相沢事件)、またもや冷や飯の日々が続く。昭和10年、関東軍憲兵司令官として満州に飛ばされた。

 その翌日、皇道派による二・二六事件が勃発し鎮圧された。事件後就任した寺内寿一陸相が徹底的な皇道派粛清の粛軍人事を断行したことにより、東条ら冷や飯を食わされていた統制派が返り咲くこととなった。同12年、関東軍参謀長に就任。満州の実力者の一人として登竜していったが、世界最終戦ビジョンを持つ石原莞爾とは反目した。

 支那事変が勃発するや積極攻勢論を展開し、東条兵団は破竹の快進撃を続けてた。これが功績と認められ、同13.5月から12月まで近衛内閣の陸軍次官に指名され帰国する。こうして、内地に凱旋することとなった。

 板垣征四郎陸相のもとで次官を務めた後、同13年から14年まで陸軍航空総監(本部長)に転出。続いて、同15.7月から16.10月まで第二次近衛内閣の陸軍大臣を務め、政局中枢に位置することになった。当時中将、57歳であった。この時、1・石原莞爾を予備役に追放。2・今村均・中将の策定した先陣訓の採用。3・日米交渉で、中国からの撤退に反対等々の履歴を残している。この間、陸軍部内の掌握に成功した。

 この頃、日中戦争(支那事変)の処置が懸案になりつつあった。日本軍は、蒋介石の国民党政権の首都南京を陥れたが、蒋は屈服せず国共合作により抵抗を強めつつあった。軍部は、英米の蒋介石支援策に対抗せんとして、松岡洋右外相による日独伊にソ連を加えた枢軸体制構築策を支援した。東条は松岡の外交交渉に与しつつ、援蒋ルートを破壊する為南部仏印に進駐させた。これによって英米と日本の関係は決定的に悪化し、ハル米国国務長官は「日米交渉の基礎は失われた」と発言、石油の対日禁輸を断行するに到った。 

 陸軍は、「対米戦争必至」を覚悟し、数次の御前会議の経過を経て開戦を決定した。東条は、近衛や豊田貞次郎外相が「戦争に自信がない」と述べるや、「御前会議を経ていながらその言いざまはあまりに無責任である」と痛論した。また、近衛・東条会談では、議論を尽したのち、東条が、「人生の一度や二度、清水の舞台から飛び降りることが必要だ」と言うと、公卿出身の近衛は、「万邦無比の国体を持つ国家がそう易々とすることではない」と反駁、東条はつくづくと近衛をみやって、「これは性格の相違ですなぁ」と述べたとの逸話が残されている。

 第三次近衛内閣退陣後、東久邇宮稔彦親王と木戸幸一・内大臣らの強い推挙により、後継首相の大命降下を受け、同年10月から19.7月まで内閣総理大臣に就任した。東条は、首相、陸相、内相兼務で組閣し、軍政権と警察権、そしてマスコミに対する統制権を一手に握った。その上で、昭和天皇の意向を挺して戦争回避策に基づく外交交渉を粘り強く重ねた。主戦派の東条が戦争回避すべく日米交渉に当ることになった経緯に対し、陸軍若手将校らから生命を狙われる羽目になった。最終的に用意した甲案・乙案どちらも却下する「ハル・ノート」を突きつけられるに及び、開戦に向った。

 同16.12.8日、日本軍は真珠湾攻撃でもって大東亜戦争を開始した。この時の首相が東条であり、戦後の極東裁判でA級戦犯とされることになる。戦況ははじめ日本にきわめて有利であったが、のびきった戦線がひとたびミッドウェイで米軍によって撃破されるや、米軍は東南アジア諸島嶼を島づたいに日本の補給線に迫り、空爆によってこれを寸断するようになった。

 戦局の悪化に伴い、東条政権は「憲兵政治」を強めていった。東条は、翼賛選挙の際にも選挙干渉を強め、憲兵らは彼の歓心を買うためにいささかでも不穏と目される分子を拘引して厳しく取り調べた。この頃の逸話として、東条がときおり下町の様子を自ら調べ、干してある洗濯物を手にとって、「まだ木綿だ、大丈夫」と呟いたの記録が残されている。東条には、統制好みと大衆生活への関心が表裏をなしていることが判明する。東条は、戦局の悪化に応じて、軍政と軍令の効率化をはかるために自ら陸相と参謀総長を兼ねたが、これは憲法違反の疑いすらある暴挙であった。細川護貞近衛女婿)は、「東條が望むものは、道鏡の地位か」と憤慨している。

 昭和18年、元旦の朝日新聞紙上での中野正剛のコラム「戦時宰相論」に激怒し、中野が倒閣工作を謀ったとして警視庁に逮捕させた。5日後に釈放された中野はその夜、割腹自決した。

 同年11月、東条首相を議長にして東京にアジア各国代表を集め大東亜会議を主宰し、アジア解放の大東亜宣言を採択した。大東亜宣言の要旨は次の通り。
 「大東亜各国は、相提携して大東亜戦争を完遂し、大東亜を米英の桎梏より解放して、その自存自衛を全うし、左の綱領に基づき、大東亜を建設し、以て世界平和の確立に寄与せんことを期す。以下云々」。
 これが東条政権の花道となった。

 その後、東条式憲兵政治は国民の怨嗟の的となった。生活必需品の統制で悲鳴を上げる国民は、憲兵や特高を見ると口をつぐむようになる。東条の悪口を言えばしょっ引かれるためである。1944.7月、サイパン陥落などの戦局悪化と共に東条降ろしの動きが強まった。近衛文麿、岡田啓介らによる東条内閣倒閣クーデタが策され、天皇への伝声管であった木戸幸一内府が反東条に廻ったことによって一気に加速した。こうして、東条は重臣集団の宮廷クーデタによって政権を逐われ、辞任を余儀なくされた。

 東条は、終始一貫大東亜戦争の聖戦イデオロギーに忠実であった。小磯・米内連立内閣時に天皇が重臣を一人ずつ召して意見を徴したとき、威勢のいい主戦論を相変わらず吐いたし、同内閣総辞職時の重臣会議では、「鈴木貫太郎内閣では陸軍がそっぽを向くの恐れあり」と言い放って岡田啓介からたしなめられている。

【東条(條)英機(とうじょうひでき)(1884-1948)履歴その2、戦後篇】
 戦後、A級戦犯として逮捕された。

 続いて戦争責任者の追及に向かい、9.11日、東条英機以下その内閣時の閣僚を筆頭に戦争指導犯罪者43名の逮捕指令が出され、以後容疑者が次々と収監されていった。東条邸は早朝より進駐軍の車に取り囲まれ、外国人記者も駆けつけ騒然としていた。東条は自らが作った「生きて虜囚の辱めを受けず」、「死して罪禍の汚名を残すことなかれ」の通り、娘婿の古賀少佐が玉音放送の後、自決に使ったコルト32口径で心臓を狙って発射させたが僅かに手元が狂い、自殺を図ったものの一命をとりとめた。

 この時、次のように述べたと伝えられている。

 概要「一発で死にたかった。大東亜戦争は正しい戦争であった。切腹は考えたが、ともすれば間違いがある。後から手を尽くして生き返らないようにしてくれ。陛下のご多幸を行く末までお守りして、どこまでも国家の健全な発達を遂げることができれば幸いである。勝者の裁判は受けたくない。勝者の勝手な裁判を受けて、国民の処置を誤ったら国辱だ。俺の死体はどうなってもいい。遺族に引き渡さなくてもいい。しかし、見せ物ではないとマッカーサーに言ってくれ。天皇陛下万歳」。
 極東国際軍事裁判は、天皇を免責するために東条など陸軍中枢部にほぼすべての責任を負わせる方向で訴訟指揮されていた。東条はそのような立場に置かれて、東京裁判の法廷を「もう一つの戦い」と考えてキーナン検事を相手に、一切の証人をも要求せず、膨大な陳述書を書き上げて「戦い抜いた」。このことは、注目されて良いと思われる。

 昭和22.12月末、法廷で聖戦論理を詳細に弁明した。供述書は次の言葉で締め括られていた。
 「戦争が国際法上より見て、正しき戦争であったか否かの問題と、敗戦の責任如何との問題は、明白に分別できる二つの異なった問題であります。第一の問題は、外国との問題であり、且つ法律的性質の問題であります。私は最後まで、この戦争は、自衛戦であり、現時承認せられたる国際法には違反せぬ戦争なりと主張します。第二の問題、即ち敗戦の責任に就いては、当時の総理大臣たりし私の責任であります。この意味に於ける責任は、私はこれを受諾するのみならず、真心より進んでこれを負荷せんことを希望するものであります」。

 供述書朗読終了の翌日の12.31日、尋問で、木戸幸一被告の弁護証言の際に、「では、天皇の平和に対する希望に反した行動を木戸内大臣がとったことがありますか」の質問に対して、次のように述べた。
 概要「勿論ありません。日本国の臣民が陛下のご意思に反してかれこれするということは有り得ぬことであります。況や日本の高官においてをや」。

 結果的に、天皇の戦争責任を認めたこの発言が法廷を揺るがした。天皇免責指令を受けていたキーナン検事との調整の結果、昭和23.1.6日、次のように証言を修正した。
キーナン  「少し前にあなたは、日本臣民たる者は何人たりとも天皇の命令に従わぬ者はないと言われましたが、正しいですか」。
東条  「それは私の国民感情を申し上げたのです。責任問題とは別です。天皇のご責任とは別の問題」。
キーナン  「しかし、あなたは実際に米英蘭に対して戦争をしたではありませんか」。
東条  「私の内閣に於いて戦争を決意しました」。
キーナン  「その戦争を行わなければならない、行えというのは裕仁天皇の意思でありましたか」。
東条  「私の進言。統帥部、その他責任者の進言によって、しぶしぶご同意になったというのが事実でせう。平和ご愛好の精神は、最後の一瞬に至るまで、陛下はご希望をもっておられました。昭和16年12月8日のご詔勅の中に、明確にそのご意思の文句が付け加えられております。しかも、それは、陛下のご希望によって、政府の責任に於いて入れた言葉です。それは、開戦の詔勅の『あに朕が意思ならむや』という文句である。まことに止むを得ざるものあり、朕の意思にあらずという意味のお言葉であります」。

 これを受けて、マッカーサーは、天皇免訴を最終決定した。東条は、当初天皇の責任にも触れ、その累が及ぶとなるや以上の陳述により守り抜いたことになる。


 最終弁論を終え、判決を待つ間、元側近の佐藤賢了に次のように語っている。
 「戦争の責任は僕一人で背負いたかったが、多くの人々に迷惑を掛けて相済まぬ。君もどんな判決を受けるか知らないけれども、敵に罰せられると思えば腹も立つだろうが、陛下と国民から罰をいただくと思って、甘んじてもらいたい。敗戦により、国家と国民とが蒙った打撃と犠牲を思えば、僕が絞首刑に上がるがごときはむしろ勿体無い。八つ裂きにされてもなお足りない。君が生き残っても、僕に就いては弁解して貰いたくない。僕はただに絞首の辱めを受けるだけでなく、永遠に歴史の上に罵(ののし)りの鞭を受けなければならないからである」。

【東条(條)英機(とうじょうひでき)(1884-1948)履歴その3、東条の遺書と最後篇】
 東条はこの裁判の結果、絞首刑を宣告された。東条の処刑前の様子が次のように伝えられている。東京帝国大学教授で浄土真宗本願寺派の宗林寺住職であった花山信勝氏が証言している。花山氏は、1946.2月から教戒師として巣鴨プリズンで法話を続け、A級戦犯7名とBC級戦犯27名の刑執行に立ち会った。1948.12.22日午後9時から1時間、花山氏は巣鴨プリズンの独房で東条に面会した。東条は用紙20枚に及ぶ長文の遺書を託そうとしたが、連合国軍総司令部GHQに没収されるのを恐れた花山氏はその場で読み上げてもらい、必死でメモをとった。面会直後の23日午前零時過ぎ、東条は処刑された。遺書の原文は、花山氏の予想通りにGHQに差し押さえられた(今も行方不明)。

 花山氏は、遺書が没収されることを危ぶみ、東条に読み上げさせ、メモを取っていた。それによると、遺書の一部は次のようなものであった。
 「最後に軍事的問題について一言する。我が国従来の統帥権は間違っていた。あれでは陸海軍一本の行動はとれない」。
 「開戦の時のことを思い出すと、実に断腸の思いがある。今回の死刑は個人的には慰められるところがあるけれども、国内的の自分の責任は、死をもって償えるものではない。しかし、国際的な犯罪としては、どこまでも無罪を主張する。力の前に屈服した。自分としては、国内的な責任を負うて満足して刑場に行く。ただ、同僚に責任を及ぼしたこと、下級者にまで刑の及びたることは、実に残念である。この裁判は、結局は、政治裁判に終わった。勝者の裁判たる性質を脱却せぬ。

 天皇陛下の御地位及び陛下の御存在は動かすべからざるものである。天皇存在の形式に就いては、敢えて云わぬ。存在そのものが必要なのである。それにつき、かれこれ言葉を差し挟む者があるが、これらは空気や地面の有り難さを知らぬと同様のものである。

 東亜の諸民族は、今回のことを忘れて将来相協力すべきものである。東亜民族も又他の民族と同様の権利を持つべきであって、その有色人種たることをむしろ誇りとすべきである。インドの判事には尊敬の念を禁じ得ない。これをもって東亜民族の誇りと感じた。今回の戦争にて、東亜民族の生存の権利が了解せられ始めたのであったら、幸せである。列国も排他的な考えを廃して、共栄の心持を持って進むべきである」。

 ここで云う「統帥権問題」とは、その大権を天皇が保持し、統帥部と呼ばれる陸軍参謀本部と海軍軍令部がこの大権を付与され、「統帥権の独立」を楯に軍の独立的権限が暴走し、主導的に戦争方針を決定し戦局を拡大していった経緯に対しての自己批判であると思われる。

 他に東京裁判への批判なども有り、メモは全部で80枚近くに上る、と云う。「弁解をせず、沈黙を是とせよ」、「この公判が自分の罪の軽重大小に関係有りなどと夢思うな」の家訓を残した。辞世の句は、次の通り。
 「さらばなり 有為の奥山けふ越えて 弥陀のみもとに行くぞうれしき」。
 「明日よりは 誰に憚るところなく 弥陀のみもとでのびのびと寝む」。
 「我行くも 又この土地に かへり来ん 国に報ゆることの足らねば」。
 「さらばなり 苔の下にて 我れ待たん 大和島根に 花薫る時」。

 1948(昭和23).12.23日午前0時、7名の絞首刑が執行された。第一組として土肥原、松井、東条、武藤の4名、第二組として板垣、廣田、木村が処刑された。第一組の4名は、松井大将の音頭で「天皇陛下万歳」、「大日本帝国万歳」を三唱した。その後、アメリカ人教戒師、将校たちと握手を交わした後、刑場へ向かい、刑場の入り口で花山が4名と最後の握手をした。午前0時10分30秒、東条の死亡が確認された(享年62歳)。




(私論.私見)