428412 | 南京事件の論争点 |
(最新見直し2006.3.30日)
南京事件は、戦前の日本軍の蛮行を証左する典型的事件としてことあるごとに持ち出され、戦後左派は二度と起こしてはならないと肝に銘じてきた。ところが、「南京事件の真実」について、最近は特に「自由主義史観研究会」より定説を覆す数々の論拠が挙げられてきている。れんだいこには、これらの指摘が論争に発展していかないインテリ人士の作風が理解できない。自然科学者の世界ではありえないことではなかろうか。というより、自然科学の世界でもこのようにエエカゲンなものなのだろうか。 南京事件論争の食い違い点は次のことにある。
等々を証左することであろう。これらを実証する補足問題例えば現場写真、松根大将書簡等々でも食い違いが生じており、「真相は藪」という構図になっているのではなかろうか。こうした疑問点については歴史の史実に基づいて徹底的に解明されるべきではなかろうか。 私のスタンスはこうである。「自由主義史観研究会」が学術的に問題提起している以上、指摘された疑問個所については左派・右派、官民挙げて再精査されるべきではなかろうか。「自由主義史観研究会」の論証と活動を学術的でないとして、問答無用的に却下する姿勢には問題があるのではなかろうか。 仮に、「自由主義史観研究会」に政治的意図があるとして、それに対する既成左派の手法も又政治主義的であり、論争に向かわないのは無能力過ぎる対応ではなかろうか。蛮行に対する怒りとか、二度と惨事を起こすまいとの決意は、史実に立脚すればするほど深く生み出されるのであり、「知らさず、拠らしむべし」プロパガンダによる単なる平和擁護運動は有害無益なのではなかろうか。 そういう観点から、以下「南京事件の論争点」を順次考証していくこととする。但し、今のところインターネット上の各種サイトから知識を頂く段階であり、れんだいこ史観による整合的な記述は当分見込めない。こういうところも記述すべしというご指摘、資料をむしろお願いしたい。 |
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以下、最も史実検証的に論理的であると思われるH・P「南京大虐殺はウソだ!」(虐殺事件否定派、以下、単に否定派とする)の記述をテキストにしながらその他で肉付けしつつ見ていくことにする。「南京大虐殺事件とは何か」(虐殺事件肯定派、以下、単に肯定派とする)を参照しつつ、肯定派と否定派の見解対立に争論形式で取り組みを見せている貴重サイトが白龍氏の「検証!南京大虐殺の『南京大虐殺否定論9つのウソ』」と「半月城通信の『南京虐殺事件』」で知識を補足しつつ、南京大虐殺事件に纏わる論争点追跡して見たい。 |
【肯定派、否定派の言い分】 | ||
南京大虐殺事件を1・デッチ上げとして否定するのか、2・過小に見ようとするのか、3・まさに堵殺的な蛮行が大規模に為されたとするのかを廻って「三者鼎立」の如くある。不思議なことに、かくも意見が鋭く対立している割には歴史学の分野でのこのテーマの研究は敬遠されてきている。
秦氏の最新見解は、「犠牲者は四万人で民間人は極めて少ない」という立場へ移行している。「二十万人以上が最有力説というのは明らかに間違い。諸説あるという表現なら『数万』『十数万』が適切ではないか」とコメントしている。 しかし、この中間論は、否定論からも肯定論からも中間的折衷的見解が故に誹謗されているというのが実際である。 肯定派は、洞富雄(早大教授、平成12年死去)、藤原彰(一橋大名誉教授、平成15年死去)、吉田裕(一橋大教授)、江口圭一(愛知大名誉教授、平成15年死去)、それから岩波新書の「南京事件」を書いた笠原十九司(都留文科大教授)氏らが列なっている。虐殺数は、20万前後としている。笠原、吉田、江口の三氏は、この十年ほどの間に10万−20万人に下方修正している。更に、「大虐殺30万人説」、「大虐殺50万人説」が存在する。 |
【現行歴史教科書の記述】 | ||||||||||||
現行歴史教科書の記述は以下の通りである。
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【当時の南京の人口について】 |
「南京事件の経過顛末と南京市の解説」の項で考察。 |
【当時の国際委員会の能力、権限-中国軍。日本側との遣り取りについて】 |
「国際委員会と南京国際安全区について」の項で考察。 |
【「虐殺」の定義について】 |
否定派により以下の論証が為されている。 「南京大虐殺」というとき、その出発点として「虐殺」とは何かの定義をハッキリさせておかないと、見当はずれの議論に紛れ込んでしまう。この種の事案には、納得するに足る論理が必要である。それを、「情緒的なものでなく、国際的に通用する、組織的に行われた『戦時国際法違反の殺害』と設定」して議論を進めていきたい。ところがいわゆる虐殺派の人々は、あたまから「虐殺があった」と思いこんでおり、論理的な話しにならない。徒に感情的に
revisionist だとかなんとかレッテル張りに終始するケースが多く、果ては戦争で死者が出たのを虐殺だといった話しになってしまいかねない。そんなことを言い出すとあらゆる戦争、戦闘は虐殺のオンパレードになってしまい、硫黄島虐殺、沖縄虐殺、ダンケルクの虐殺等々.全く意味のない、言葉遊びになってしまう。 参考例として、広島の呉に戦後進駐してきた米軍により、進駐2ヶ月の間に14人の日本人市民が殺された事件を考えれば良い。事件は100%事実だが、これを「呉虐殺」とは呼ばない。これと同じである。 |
【実際の虐殺数について】 | |||
南京事件の最大争点であるが、論者を区分してみると、大虐殺派、中虐殺派、小虐殺派、無虐殺派に分かれるようである。
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南京事件での虐殺実数をどのようにして確定すべきだろうか。専門家の考証に拠れば、南京防衛軍の戦闘で死亡した数は1万人を超えてはいないということである。肯定派は、次のように述べている。
肯定派の笠原教授はこう述べている。
これに対して、否定派の見解は真っ向から対立している。「記録で確認される報告数」によれば、南京攻略時の戦闘行為による死傷者数は最大3000名のようである。実際には「戦間中、砲弾・爆弾あるいは銃弾をうけて死亡した者」も含まれており、実数は分からない。今日実証的な研究結果が次々と発表されており、その研究をリードしているのが東中野教授で、その研究成果に基づいているとしている。自民党の歴史・検討委員会「大東亜戦争の総括」における笠原潤一参議院議員の次のような発言もある。「南京へ行った当時の兵隊さんに聞いても、そんなことは有り得ないと。20万人も殺したら、もう累々と南京城の中に転がっていますよ」(笠原「南京事件」P13)。 犠牲者総数については、次のような見解もある。
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但し、肯定派による次のような資料が為されている。半月城通信サイトで、中国軍の犠牲者は戦闘行為を含めると次のとおりですとして以下紹介されている。笠原十九司著 『南京事件』(岩波新書,1997)からの引用のようである。分かりやすく日付順にアレンジしてみる。
この数字が正確とすると動かぬ証拠であるが、この辺りどうなっているのだろう。この数字について笠原教授は、次のように述べている。
日本軍武力制圧後の虐殺・被害者数を計上する場合、12.13日以降が起点になる。報告されている死傷者数のほか4200名が日本軍に拉致されたことが確認できるようである。こうした拉致数以外に臨時の荷役あるいはその他の日本軍の労役のために徴発された者が存在する。
肯定派は、次のように述べている。
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民間人の犠牲者の場合、正確な資料が遺されておらず、『死人に口なし』であるため推定が難しい。そういう困難な中、笠原教授は当時の三つの資料を重視している。
その2は、埋葬諸団体の埋葬記録(『中国関係資料編』の第3編「遺体埋葬記録」に収録)で、南京の埋葬諸団体が埋葬した遺体記録の合計は18万8674体になる。
これは戦死した中国兵の遺体も含まれているし、遺体の埋めなおしなど埋葬作業のダブりの問題もある。しかし、長江に流された死体の数が膨大であったことも考えると、南京攻略戦によってこうむった中国軍民の犠牲の大きさを判断する資料となる、としている。
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【中国人学者による虐殺数推定について】 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
中国孫学者らのグループは、確実な歴史的文献などの資料の調査閲覧、1,0
00人あまりにわたる生存者、証人を訪問・聞き取り調査した結果、それらの事象がほぼ一致して指し示す「30万人以上の人々が大虐殺にあった」という結論を得た。調査の可能だった記録に基づくと、千人以上の虐殺が少なくとも10回あり、その犠牲者は19万人近い。この10回の代表的な集団虐殺には、以下が含まれる。
このほかにも規模はそれぞれ異なるが、散発的な虐殺事件が870回あまりある。一回の犠牲者数は、少ないケースで12人から35人、多いときには
数十人から数百人だ。三つの比較的大きな慈善団体である紅卍字会(こうまんじかい)、崇善堂、
赤十字社の遺体埋葬記録の中には、上述した10回の大規模な虐殺地点での数字以外に、紅卍字会では27回の虐殺、合計11,192体の収容・埋葬、崇善堂には17回の虐殺、合計66,463体の収容・埋葬、赤十字社には18回の虐殺、合計6,611体の収容・埋葬、総計84,266体
の埋葬記録が残されている。以上により、集団虐殺は19万人、散発的虐殺は84,000人、合計
274,000人あまりが虐殺されたことになると推定している。
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【上官の虐殺命令について】 |
半月城通信の記事をそのまま借用する。 |
【実際の虐殺の様子と現場シーンについて】 |
奥山正武「私の見た南京事件」(p33-41)に、事件当時の虐殺シーンが次のように記述されている。 |
【マスコミの対応】 | |||||||||
当時、マスコミや日本国民は南京占領を待望し、陥落を熱狂的に迎え
た。新聞の見出しでは、活字が歓喜に踊っていた。
これら新聞をみると、日本中が南京攻略に沸き立っていたようで、侵略戦争に疑問をはさむ記事はほとんど見当たらない。 |
【婦女子に対する暴行の残忍さについて】 |
肯定派の資料。明確なのは婦人にたいする強姦で、「当復興委員会に救済をもとめてやってぎた1万3530家族が委員会に報告した負傷者のうち、3月中の調査によれば、強姦による傷害は16歳から50歳に到る婦人の8%を占めていた。この数はきわめて実際を下まわるものである。というのは、大ていの婦人はこのような扱いをうけても、進んで通報しようとはせず、男子の親近者も通報したがらないからである。12月・1月のように強姦がありふれたことになっていた間は、住民はその他の状況からも、かなりそうした事実を遠慮なく認めたのである。しかし、3月になると、家族たちは家族の中の婦人が強姦されても、その事実をもみ消そうとしていた。ここでこのことに触れたのは、市の社会・経済生活がどれほどはげしく不安定なものであったかを説明するためである」とある。この記述では少々心もとない気がする。 『南京市崇善堂埋葬隊活動一覧表・付属文書』 部外の民衆で、未だ他所へ避難できず、難民区にも入れない者は、昼間は一カ所に集まって助け合って身を守っているが、不幸にして日本侵略者に見つかると多くが被害に遭う。背後から撃たれて倒れている者がいたが、逃げる途中で難にあった者である。横臥した形で、刀で突かれて血を流している者は、生きているうちにやられたものである。口や鼻から血を出し、顔が青くなり、足が折れているのは、大勢の者から殴られたりしたものである。婦人で髪が顔にかかり、乳房が割れて胸を刺され、ズボンを付けていない者は、これは生前辱めを受けた者である。また、頭をもたげ、目をむき、口を開けて歯を食いしばり、足を突っ張り、ズボンの破れている者は、乱暴されるのを拒んだ者である。惨たるかな、惨たるかな。 『フォースター文書』(夏淑琴他からマギー牧師が聞き出す)(笠原十九司『南京事件』岩波新書 P150) 日本軍の南京城侵入最初の日(12月13日)、日本兵たちが市内の南東部にある夏家にやってきた。日本兵は、8歳と3歳あるいは4歳の二人の子供だけを残してその家にいた者全員、13名を殺した。これは、8歳の少女(夏淑琴)が話したことを彼女の叔父と私を案内した近所の老女とに確認してチェックした事実である。 否定派の見解。強姦について、戦後の米軍による神奈川県の例を見ておくと、米軍は1945年8月30日神奈川県横須賀に上陸した。その日の米軍による強姦事件は、神奈川県だけで315件も記録されている。次の8月31日には228件記録されている。9月10日までの累計による強姦事件は1326件も記録されている。これを南京事件での強姦数と比較する必要がある。強姦の記録について、南京のものと米軍のものとが方法的に比較できるものかどうかという問題もあるが、東中野先生は、その根拠となる数字を"Documents of theNankoing Safety Zone" において次のように明らかにしている。これによると、強姦を届け出た総数は251件で、そのうち報告者、または目撃者の名前が載っているのは61件です。そのうち、国際委員会から日本軍に通報されたのは7件。根拠のあるものは、通報され、逮捕、連行、査問され、処罰されていることにより確定できる。相当あやふやなものも含めて合計251件。噂のレベルで8千だ2万だと言いふらされてきているが、ある程度比較可能な数字を採るとこの様になる。 |
【事件が明るみになった時期について】 |
肯定派は、戦後に連合軍によって南京大虐殺が捏造されたなど真っ赤なウソですとして、以下のように裏付けている。 |
【南京大虐殺は中国共産党創作説について】 |
否定派は、「南京大虐殺は中共による創作だ!」、「中国政府は天安門事件で死亡者がでたことを認めていない。そんな国の言い分は信用できない」、「中国はチベットの大量虐殺を正当化している。そんな国の言うことなんて信用できない」と云う。 肯定派は、「南京大虐殺がおこった当時は、中国は蒋介石率いる国民党と毛沢東率いる共産党に分裂していたが、毛沢東・中国共産党は当然この事件が起こったことを言及している。それは、はやくも1938年1月に発行された週刊誌『群衆』で南京で日本軍による虐殺行為があったと言っている。蒋介石・中国国民党では、どうであっただろうか?蒋介石は1938年1月の日記に、南京で日本軍による大量虐殺があったことを記している。そればかりか、1938年12月には中国国民党の機関紙のなかで南京で日本軍による大量虐殺がおこなわれ20万人の命が奪われたと書いている。このように、今の中国を支配している中国共産党だけでなく、蒋介石並びに中国国民党(現・台湾)まで認めているのである」と云う。 |
【日本軍の指揮系統の実態について】 |
肯定派は次のように述べている。統制がきかず、軍紀の弛緩した軍隊はとかく暴走しがちで、
侵略戦争は止めどなく拡大してしまうものです。南京攻略もそのいい例でした。
「 南京への道 。この間、上海攻略後の日本軍は中国軍退却のあとを追って、南京に向かった戦線を拡大していったが、このとき軍中央は南京占領という明確な計画をもっていたわけではなかった。むしろ作戦の実質的責任者多田駿参謀次長は石原
(莞爾)系の不拡大論者で、最後まで占領には反対であったのである。しかし
中支那方面軍最高司令官として赴任する松井石根大将は、見送りに来た杉山陸相に対し、南京攻撃を訴えていたという(近衛文麿『失はれし政治』朝日新聞
社)。 ここでも現地軍が独走し、中央がそれを黙過し最終的には追認するという、 満州事変以来繰り返されてきた陸軍の典型的パターンの再現を防ぐことはでき なかった。下村作戦部長によれば杭州湾上陸、白茆口上陸以外の作戦は現地の企画、出先の意見によるものであったという。(回想応答録『現代史資料』)。 あの南京事件という大不祥事も、このような軍部全体の恐るべき綱紀の弛 緩というなかで起きたものといえよう。なぜ日本軍はこのように統制のとれない集団になってしまったのであろう か。柳川平助中将の指揮する第十軍が、11月5日、杭州湾に上陸したとき、 上海戦線の大勢はすでに決しており、中国軍は南京方面に敗走しつつあった。 したがって第十軍は目標をそちらに定め、それを追撃したいという心理になったのである。ここにやはり満州事変以来の「石原現象」を認めざるを得な い。すなわち下剋上が是認されるような風潮のもとでは、第一線に出征した軍 人としては、中央の方針に従うよりは、とにかく行動して勲功を立てたいという誘惑には勝てないのである。参謀本部もついに南京攻略を認めざるを得なく なった。 また当時の雰囲気としては、政府は敵国首府の占領により戦意を喪失させ、 有利な条件で講和ができると考え、国民も単純な勝利感に酔うようになっていたのである。敵国の首府を攻撃するに際しては、単に軍事的な観点のみならず、政治的な配慮も必要であり、いわゆる政戦略の一致が要求される。まして中国は面子を重んじる国である。しかも第三国に調停を依頼しているときである。南京占領と和平問題との連携は考えられて当然であった。しかしこのころ軍部は勝手に戦線を拡大し、その報告を受けない近衛や文民閣僚はジリジリ、イライラし ているだけであった。まさに国務・統帥の乖離という戦前の日本のもつ致命的な欠陥に直面していたといえる。 近衛首相は軍から戦線拡大の報告すら受けることができなかったというのはなさけない話です。政治体制に致命的な構造的欠陥があったのは確かなよう です。一方、現地軍隊は中央のあまい統制を軽視し、中央が指示した制令線な どを次々に無視し、独善的な判断により戦線を急速に拡大していきました。そのような暴走に対し、これに懲罰を与えるどころか逆に追認した軍中央は、その戦線を支えるために必然的に兵の大量動員を必要としました。そのため常備兵だけでは不足をきたし、予備兵や後備兵、さらには補充兵などを大量にかり出すようになりました。 彼ら、特に後備兵はだいたい30歳代で、妻子を持ち一家の大黒柱である 場合が多いのですが、それが予期しないときに突然赤紙で召集されるものです から、とても戦争に没頭できるものではありません。規律や戦闘意欲が十分で はなく、志気や軍紀は「満州事変」当時の日本軍とは比べるべくもありませんでした。 この召集兵こそ軍紀退廃の原因であるという見方が軍中央にさえありまし た。陸軍省軍務局軍事課長・田中新一大佐は、「軍紀粛正問題」と題してこう 所見を書いています。 「軍紀退廃の根源は、召集兵にある。高年次召集者にある。召集の憲兵下士 官などに唾棄すべき知能犯的軍紀破壊行為がある。現地依存の給養上の措置が 誤って軍紀破壊の第一歩ともなる。すなわち地方民からの物資購買が徴発化し、 掠奪化し、暴行に転化するごときがそれである・・・補給の定滞(停滞)から 第一線を飢餓欠乏に陥らしめることも軍紀破壊のもととなる」 (田中新一『田中新一』/ 支那事変記録、其の三) 高年次召集兵もさることながら、問題は小隊長や中隊長などの現役初級幹 部にもありました。このような陸軍現役将校の補充は基本的に陸軍士官学校卒 業生からなされましたが、軍縮や諸般の事情で士官学校学生を減員した影響が このころになって出始め、これら将校が極端に不足しました。 そこでやむなく知識や経験の浅い予備役将校が急きょ当てられましたが、 統率力に欠けており、軍紀のたるみに拍車をかけたようでした。 しかし、たとえこのように高年兵と予備役将校とのコンビでも、戦争目的 が祖国防衛などといった誰もが納得するような大義名分なら、気を引き締めて 戦うのでしょうが、そのころの対中国戦は宣戦布告はおろか「戦争」の名前す らつけられず、出先軍に引きずられた行き当たりばったりの泥沼戦でした。 そもそも、近衛内閣が37年に発表した戦争目的の声明は「支那軍の暴戻 (ぼうれい)を鷹徴(ようちょう)し、以て南京政府の反省を促す為」とする ものでした。「悪者の支那」をこらしめるため戦うという、たとえてみれば、 おとぎ話に出てくる「桃太郎の鬼退治」もどきの大義名分でした。このような「支那鷹徴」論の背景には、軍拡大派を中心とする打算的な意見や、それに引きずられた政府の存在を見落とすことはできません。「近衛は結局、軍部拡大派の『戦いそのものは好まぬところだが、とにかく 国防国家をつくるにも、産業拡大をやるにも、今のままでは政府も国民も容易について来ん、それだから戦いでも始まって--現実に戦いでもあれば国民もしかたなくついて来る、それがためにこの戦いをやったら良いじゃないか』という思惑に沿って、国民を戦時体制に総動員していく国家指導者の役割 を演じたのである」、「国民も仕方なしについてくる」、そのために戦争を始める、このように理念のひとかけらもない侵略戦争を仕掛けられたのでは、相手国はたまったものではありません。こうした中国に対する傍若無人ぶりのうらには、軍事大国・ 日本が「支那に一撃」を加えれば中国は簡単に折れるだろうという読みがあったことはいうまでもありません。ここに日本の誤算がありました。中国人の抗日意識や抗日戦線の強い抵抗をみくびっていました。 誤算はさらに続きました。日本は首都の南京さえ落とせば戦争はほぼ終わるだろうとみていたようでした。そのあまい考えも手伝って、上海派遣軍と第十軍は先陣争いをしながら南京に進撃しました。その際、兵站補給問題は二の次で食糧の補給を軽視したため、必然的に徴発という名の略奪を日常茶飯事に繰り返し、それをきっかけに次第に道徳的に堕ちていきました。 |
【事件発生が軍の上層部に知られていたかについて】 |
こうした残虐行為が、数万の市民に対しなされたことは、当時、日本軍上層部も知っていたようでした。それについて、元一橋大学教授・藤原彰氏は次のように紹介しています。 南京攻略にさいし、一般市民への残虐行為が多発したという認識は、軍上層部に存在していた。翌38年8月に、武漢攻略のために第11軍司令官とし て赴任した岡村寧二郎中将は、その回想録に次のように書いている(『岡村寧 二郎大将資料(上)』原書房、1970,P291)。 「上海に上陸して、1,2日の間、先遣の宮崎参謀、中支那派遣軍特務部長 原田少将、杭州特務機関長萩原少佐から聴取したところを総合すれば、次のとおりであった。 1.南京攻略時、数万の市民に対する略奪強姦等の大暴行があったのは事実である。 1.第一線部隊は給養を名として俘虜を殺してしまう幣がある」。 数万の市民への大暴行があったことを、軍の最高幹部も認めざるを得なかったのである。 |
【マスコミの報道ぶりについて】 |
政府や軍だけを責めるのは酷かもしれません。侵略戦争に積極的に荷担した当時のマスコミなども検証が必要ではないかと思います。 |
【南京事件についての日中論争】 |
否定派資料。南京の真実の追究者
東京裁判で、マギーは質問に答え、彼が見たこと、中国人から聞いたことを述べています。彼が関わった目撃者はすべて傷つけられ、彼や彼の助手の所へ運び込まれた人でした。この事はきマギー自身が話しており、間違いのない真実です。同時に今一つの真実は誰も南京事件で正確に何人殺されたか知らないと言うことです。 我々は事実をベースに、学術的に説明しようと考えています。南京事件についての基本的な見解は、「日本軍と中国軍が南京で戦い、日本軍が勝った。しかし南京虐殺事件と呼ばれるような事件はなかった」と言うことです。 貴方はその病院で撮った、けがをしている人の写真は全部日本軍の虐殺の明らかな証拠だと言えますか。彼の撮ったフィルムは1ヶ月後アメリカに持ち帰られ、政府に提出されました。そして中国シンパの会合で展示されましたが、人々から殆ど注目されませんでした。それは日本軍の残虐行為を立証するような物ではなかったからです。マギーは反日的で、彼の信徒の中国人に同情していました。彼は非常に偏向しており、当時はアメリカでも容易に受け入れられませんでした。しかし彼が勝利国の人間として日本に来たとき、彼は何を言っても良かったのです。これがマギーの話です。牧師は決して嘘を言わないなど信じてはなりません。 |
【南京事件に関する訴訟について】 |
【「明らかにされた外務大臣、広田弘毅の驚くべき電報」】 |
本当にショッキングな事実が明らかにされた。それは一九三八年1月、日本軍が南京を占領してほんの1ヶ月しかたっていない時に、日本政府は南京での犠牲者の数が30万を超えることを既に認めていたのである。
南イリノイ州大学の呉天威教授は「中国における日本の侵略」という季刊誌の編集に携わっているが、アメリカ政府の書類の中から重要な証拠をはじめて出版した人である。これは一九三八年1月17日、外務大臣広田弘毅によってワシントンの日本大使館あてに出された暗号電文である。内容は以下に記す。 From: 東京(広田) To: ワシントン 1938年1月17日 No.227 上海から第176号文書として受理、数日前に上海に帰ってきて、報道された南京市内外での日本軍による虐殺を調査したが、信頼できる筋からの証言や手紙から判断して、日本軍の行動はアッチラとフン族軍を想起させるほどの傍若無人な行動が今も続いている。30万に上る中国市民が虐殺されている。それも多くの場合、血も涙も無い方法で。 すでに数週間前に戦闘は終わっているはずの地域からも略奪、強姦(子供も含 めた)そして市民に対する非情極まりない殺戮の数々が報告され続けている。 上海のあちこちから日本軍が暴れている報告がなされているが、同じ日本人と して恥ずかしい思いでいっぱいだ。今日の新聞「字林西報」には不快極まりない記事が載っていた。以下に記す。 「酒に酔った日本兵は、要求した酒と女を強奪できなかった腹いせに60歳をこえた中国人のおばあさんを3人射殺、他の市民にも負傷を負わせた」。 南京大虐殺によって引き起こされた国際的怒りの広がりにより、一九三八年 の1月から2月にかけて大虐殺のことは日本の外交官たちの大きな話題になっていたのである。この新しい秘密文書の公開は日本政府が南京で展開された恐怖のことを知っていたことを表す最新の動かぬ証拠である。 (The Rape of Nanking より) |
【藤岡教授の「戦時国際法」説について】 | |||||||||||||
「自由主義史観」を提唱する東大の藤岡信勝教授は、捕虜虐殺に対して次のようにみています。
この藤岡教授の持ち出す「戦時国際法」説に対し、大本営海軍参謀を勤めた奥宮正武元中佐はこう解説している。 <戦時国際法とは>この用語もよく検討されねば ならない。戦時国際法なる単独の条約はなかったからである。戦時国際法とは、交戦国が守るべき戦争一般に関する条約、陸戦、海戦及び空戦のさい守られるべき条約や宣言などと、中立国人の守るべき条約を総称したものである。したがって、南京事件のように、個々の問題を言及するさいには、そのことに直接関係のある条約名をあげることが望ましい。奥宮氏によれば、国際法で捕虜の待遇に関係のある戦前の条約は以下の3 条約です。
これら全てに日本は調印しましたが、批准は当時において、(1)と
(2)のハーグ条約のみで、ジュネーブ条約は49年になって批准しました。捕虜に関する規定で共通するのは、いずれの条約も「俘虜は敵の政府の権内に属し、これを捕らえたる個人または部隊の権内に属することなし」とうたって
いることです。 |
【南京虐殺「ニセ写真」問題について】 |
別章「ニセ写真問題について」に記す。 |
【南京虐殺での死体の行方】 | ||||||||||||||||||||||||||||||||
日本軍にとって虐殺の「物証」である死体をいつまでもさらけだしたままでは南京占領統治上、好ましくない。
死体を見るたびに中国人の日本軍に対する憎しみがかき立てられることは容易に想像される。それに死体は長く放置すれば腐って悪臭を放つし、伝染病のまん延など衛生上も問題がある。そのためか、日本の南京特務機関は新興宗教団体「道院」の社会事業実行団体である紅卍(まんじ)字会をこっそり指導し、遺体の埋葬を進めたようである。その報告書『華中宣撫工作資料』(1938.2)には「紅卍字会屍体埋葬隊(隊員約600名)は一月上旬来、特務機関の指導下に城内外に渉(わた)り連日屍体の埋葬に当り二月末現在に於て約五千に達する屍体を埋葬し著大の成績を挙げつつあり」とあり、意外にも日本軍の特務機関が関与していた。
日本側の資料も添える。先の特務機関の3月分資料にはこう書かれている。
この資料を補強するかのように大阪朝日新聞の「北支版」(1938.4.16)も紅卍字会の活動を記事にしている。同紙は、紅卍字会と南京市自治委員会、日本山妙法寺の僧侶たちが遺体埋葬した実績をこう記している。
紅卍字会の活動以外にも、惨状を見るに見かね、さまざまな団体が遺体の埋葬に当たったようでした。
こうした研究を総合すると、東中野氏が「五等資料」とさげずむ極東国際軍事裁判(東京裁判)の下記判決文は、その正当性があらためて浮きぼりにされるのではないかと思います。
虐殺数20万人が正当かどうかは別にして、大虐殺があったことはあらゆる資料から明らかといえよう。 |
(私論.私見)