428412 南京事件の論争点

 (最新見直し2006.3.30日)

 南京事件は、戦前の日本軍の蛮行を証左する典型的事件としてことあるごとに持ち出され、戦後左派は二度と起こしてはならないと肝に銘じてきた。ところが、「南京事件の真実」について、最近は特に「自由主義史観研究会」より定説を覆す数々の論拠が挙げられてきている。れんだいこには、これらの指摘が論争に発展していかないインテリ人士の作風が理解できない。自然科学者の世界ではありえないことではなかろうか。というより、自然科学の世界でもこのようにエエカゲンなものなのだろうか。

 南京事件論争の食い違い点は次のことにある。
 当時の南京の人口について。
 実際の総虐殺数について。
 日本軍の南京攻略戦闘とその後の制圧下の過程で、「国際法上許容されぬ、日本軍の蛮行があったのか、なかったのか、について。
 捕虜処遇ないし「便宜衣兵」処罰の国際法との絡みについて。
 無抵抗の市民大虐殺の規模がどれほどのものであったのか。「30万人大虐殺なのか、実数は数万人、否数千人、数百人規模なのか、いなむしろもっと少ないのか」について
 日本軍の指揮系統の実態について。日本軍は最高司令官松根大将の指揮の下全体的に統制が取れていたのか、軍は蛮行をほしいままにしたのか、について。
 婦女凌辱につきアナーキー状態での乱行を現出したのか、について。

 等々を証左することであろう。これらを実証する補足問題例えば現場写真、松根大将書簡等々でも食い違いが生じており、「真相は藪」という構図になっているのではなかろうか。こうした疑問点については歴史の史実に基づいて徹底的に解明されるべきではなかろうか。

 私のスタンスはこうである。「自由主義史観研究会」が学術的に問題提起している以上、指摘された疑問個所については左派・右派、官民挙げて再精査されるべきではなかろうか。「自由主義史観研究会」の論証と活動を学術的でないとして、問答無用的に却下する姿勢には問題があるのではなかろうか。

 仮に、「自由主義史観研究会」に政治的意図があるとして、それに対する既成左派の手法も又政治主義的であり、論争に向かわないのは無能力過ぎる対応ではなかろうか。蛮行に対する怒りとか、二度と惨事を起こすまいとの決意は、史実に立脚すればするほど深く生み出されるのであり、「知らさず、拠らしむべし」プロパガンダによる単なる平和擁護運動は有害無益なのではなかろうか。

 そういう観点から、以下「南京事件の論争点」を順次考証していくこととする。但し、今のところインターネット上の各種サイトから知識を頂く段階であり、れんだいこ史観による整合的な記述は当分見込めない。こういうところも記述すべしというご指摘、資料をむしろお願いしたい。
 以下、最も史実検証的に論理的であると思われるH・P「南京大虐殺はウソだ!」(虐殺事件否定派、以下、単に否定派とする)の記述をテキストにしながらその他で肉付けしつつ見ていくことにする。「南京大虐殺事件とは何か」(虐殺事件肯定派、以下、単に肯定派とする)を参照しつつ、肯定派と否定派の見解対立に争論形式で取り組みを見せている貴重サイトが白龍氏の「検証!南京大虐殺の『南京大虐殺否定論9つのウソ』」「半月城通信の『南京虐殺事件』」で知識を補足しつつ、南京大虐殺事件に纏わる論争点追跡して見たい。


【肯定派、否定派の言い分】

 南京大虐殺事件を1・デッチ上げとして否定するのか、2・過小に見ようとするのか、3・まさに堵殺的な蛮行が大規模に為されたとするのかを廻って「三者鼎立」の如くある。不思議なことに、かくも意見が鋭く対立している割には歴史学の分野でのこのテーマの研究は敬遠されてきている。

 否定派は、藤岡信勝、西尾幹二、渡辺昇一、東中野修道(亜細亜大教授)、田中正明、鈴木明、山本七平、富士信夫、小林よしのり、上杉千年氏などが列なっている。「虐殺があったという記録が発見されない以上は犠牲者はゼロ」から「捕虜の不法殺害は三千人以下、民間人は五十人以下」辺りまでの見解がこの派とみなせられ、「藤岡、東中野、西尾氏らの南京事件考察
、歴史認識批判により南京大虐殺は完全に否定された」としている。この観点は、「南京大虐殺は歴史的捏造であり、東京裁判でデッチあげられた」とする見解に到達する。

 この否定論に対して、事件の存在は認めつつも被害を肯定論の「大虐殺30万人説」を採用せず、もっと控えめに見ようとする中間派が存在する。秦郁彦(元千葉大教授)や板倉由明といった研究者らであり、秦・氏は約4万人説(「南京事件」中公新書)、板倉氏は1万数千人説を主張している。

 秦教授は、「南京事件」のあとがきで次のように述べている。

 「第一次資料を改竄してまで、『南京”大虐殺”」はなかった』といい張り、中国政府が堅持する『三十万人』や『四十万人』という象徴的数字をあげつらう心ない人がいる。もしアメリカの反日団体が日本の教科書に出てくる原爆の死者数(実数は今でも不明確だが)が『多すぎる』とか、『まぼろし』だとキャンペーンを始めたら、被害者はどう感じるだろうか」。

(私論.私見)

 秦教授の上述の論旨は明らかに不正であろう。原爆の死者数は史実的に確認できている。その数値に対し「多すぎる」とか「まぼろし」だとかの異見が提起されている訳ではない。これに対し、南京大虐殺事件は今もって数値不明な訳で、故に諸説が飛び交っている。この状況で、「被害者はどう感じるだろうか」という観点から南京大虐殺事件の死者数論議を掣肘するのは政治主義過ぎよう。一見口当たりは良いが、妄りに道徳律を持ち込むべきではなかろう。


 秦氏の最新見解は、「犠牲者は四万人で民間人は極めて少ない」という立場へ移行している。「二十万人以上が最有力説というのは明らかに間違い。諸説あるという表現なら『数万』『十数万』が適切ではないか」とコメントしている。

 しかし、この中間論は、否定論からも肯定論からも中間的折衷的見解が故に誹謗されているというのが実際である。

 肯定派は、洞富雄(早大教授、平成12年死去)、藤原彰(一橋大名誉教授、平成15年死去)、吉田裕(一橋大教授)、江口圭一(愛知大名誉教授、平成15年死去)、それから岩波新書の「南京事件」を書いた笠原十九司(都留文科大教授)氏らが列なっている。虐殺数は、20万前後としている。笠原、吉田、江口の三氏は、この十年ほどの間に10万−20万人に下方修正している。更に、「大虐殺30万人説」、「大虐殺50万人説」が存在する。

 但し、肯定派は、戦死者を含めての総数をカウントしており、その内より不法殺害数を抽出して言及するという作法を持たない。そういう訳で、否定派との論争が噛み合わない。


 (他に、元外交官にして典型的なシオニスタンである岡崎久彦氏の言説の解析を要する


【現行歴史教科書の記述】

 現行歴史教科書の記述は以下の通りである。

 日本書籍「新版、高校日本史」(中村政則他,1997)
 「12月、日本軍は国民政府の首都南京を占領し、南京城外で10万人をこす中国人の捕虜や民間人に対して虐殺・暴行などの残虐行為をおこなった(南京虐殺事件)。この事件における中国人の軍・民の犠牲者の数については、中国政府発表 の30数万人説があり(この数字は、戦闘行為による戦死者も含む)、日本で は15万人から20万人前後という説がある。英米のジャーナリストは、この事件を南京残虐(アトロシティー)事件として報道した」。
 実教出版「日本史B」(直木孝次郎,1997)
 「一撃を加えれば中国は屈服するであろうという日本の予想に反し、抗日民族戦線を結成した中国の抵抗は強大であった。日本はつぎつぎと大軍を投入し、 12月、国民政府の首都南京を占領した。 南京占領のさい、日本軍は投降兵・捕虜をはじめ中国人多数を殺害し、略 奪・放火・暴行をおこない、南京大虐殺として国際的な非難をあびた。死者の 数は、戦闘員を含めて、占領前後の数週間で10数万人に達した」。
 自由書房「高等学校、新日本史B」(江坂輝弥他,1997 )
 「日本軍は1937年12月、国民政府の南京を占領したが、このとき略 奪・放火・暴行をおこない、一般住民と捕虜を大量に虐殺する事件(南京大虐 殺事件)をおこしたため、国際的な非難をあび、中国国民の抗戦意識はさらに 高まった。 (欄外注)陥落から1か月余りのあいだに南京市内で婦女子をふくむ一般住民のほか 捕虜もあわせると、およそ20万人といわれる大量の人々を虐殺した。なお、 中国側では、戦闘による犠牲者もふくめ、その数30万人以上としている」。
 南京事件に関する教科書の記述は次の通り。
 「日本軍はシャンハイや首都ナンキンを占領し、多数の中国民衆の生命をうばい、生活を破壊した。ナンキン占領のさい、日本軍は、捕虜や武器を捨てた兵士、子ども、女性などをふくむ住民を大量に殺害し、略奪や暴行を行った。(ナンキン虐殺事件)。(注)この事件の犠牲者は二十万人といわれているが、中国では戦死者と合わせて三十万人以上としている」。


【当時の南京の人口について】
 「南京事件の経過顛末と南京市の解説」の項で考察。

【当時の国際委員会の能力、権限-中国軍。日本側との遣り取りについて】
 「国際委員会と南京国際安全区について」の項で考察。

【「虐殺」の定義について】

 否定派により以下の論証が為されている。

 「南京大虐殺」というとき、その出発点として「虐殺」とは何かの定義をハッキリさせておかないと、見当はずれの議論に紛れ込んでしまう。この種の事案には、納得するに足る論理が必要である。それを、「情緒的なものでなく、国際的に通用する、組織的に行われた『戦時国際法違反の殺害』と設定」して議論を進めていきたい。ところがいわゆる虐殺派の人々は、あたまから「虐殺があった」と思いこんでおり、論理的な話しにならない。徒に感情的に revisionist だとかなんとかレッテル張りに終始するケースが多く、果ては戦争で死者が出たのを虐殺だといった話しになってしまいかねない。そんなことを言い出すとあらゆる戦争、戦闘は虐殺のオンパレードになってしまい、硫黄島虐殺、沖縄虐殺、ダンケルクの虐殺等々.全く意味のない、言葉遊びになってしまう。

 「南京虐殺」を論じる場合、「戦時国際法に違反した違法殺害が組織的に行われたかどうか」で論ぜられねばならない。「1部兵士に非行、不法行為があり、それを軍が処罰している」といったケースは、殺害があったとしても「虐殺」とは言えない。東中野先生は、「南京事件」での一般人の殺害は、これとほとんど比較できる数と性格のものであったことを、当時の尤も信頼するにたる第1次資料である、"Documents of the NankingSafety Zone"(南京国際委員会の2ヶ月にわたる英文の活動記録)に基づいて検証している。

 参考例として、広島の呉に戦後進駐してきた米軍により、進駐2ヶ月の間に14人の日本人市民が殺された事件を考えれば良い。事件は100%事実だが、これを「呉虐殺」とは呼ばない。これと同じである。


【実際の虐殺数について】

 南京事件の最大争点であるが、論者を区分してみると、大虐殺派、中虐殺派、小虐殺派、無虐殺派に分かれるようである。

 虐殺が行われたことは当事者であった軍人により数多く証言されているので、これが無かったというのでは議論以前になる。問題は、その規模と「質」の解明であろう。虐殺数は、南京攻略時の戦闘行為による死傷者数と日本軍武力制圧後の虐殺・被害者数を区別して、その両面から考察されねばならない。なお、戦闘前後による識別のみならず一定期間の兵隊の死傷者数と市民の虐殺・被害者数という面からの考察も要するところである。いずれにせよ、「歴史的な事実と真実を追究する」ことから全てが始められるべきだろう。

 一つ疑問なことがある。1937(昭和12)年12月13日より発生した「南京事件」は、1931(昭和6)年9.18日の柳条湖事件より突入した満州事変より6年後、1941(昭和16)年12.8日の第二次世界大戦(太平洋戦争)より4年前の頃の事件である。この頃の軍部の勢いは多少陰りが見え始めていたとはいえ破竹の進撃をしている頃であり、総合的に見て未だ指揮系統が確立されていた時期でもあったように思われる。それを思えば、否定派の云う如く「アナーキー式大虐殺事件」はデッチ上げ臭いと云えなくも無い。逆にいえば、肯定派の云うとおりであったとしたら、「南京事件」は軍部腐敗のエポック・メモリアルになる事件ではなかったかということになる。

 れんだいこ史観に拠れば、一つは中国側の事情から反日感情を醸成させるために、首都南京の容易陥落の責任転嫁を日本軍の蛮行にすりかえて行ったのではなかろうか。一つはジャーナリズムを通じて、国際的な日本批判キャンペーン→反日運動醸成という政争の道具にさせられる為に誇大捏造させられた事件ではなかったかという思いが禁じえない。この限りで私は否定派の見解に与していることになる。但し、否定派の見解の大方はそこに止まるが、れんだいこは更に「国際的な日本批判キャンペーン」の背後にネオ・シオニズムの組織的な動きがあったと推定する。

 否定派とはこの後から見解が相違する。否定派は、1・聖戦イデオロギーを称揚し、2・日帝の中国大陸侵略に対してこれを是認し、3・軍部の悪逆非道を隠蔽することに尽力しているが、この三者関係は必ずしも連動しない。1・聖戦イデオロギーを称揚せんが為に3・軍部の悪逆非道を隠蔽することに尽力し過ぎていよう。南京事件は否定派の指摘通りフレームアップされたものであったにあったにせよ、日本軍の蛮行証拠は無数とある。云われるところの戦争行為の範囲を逸脱した腐敗事件は枚挙に暇ない。聖戦イデオロギーの光と影の部分であるが、影の面もしっかりと見据えて記録しておくべきと思う。


 黄文雄氏は「捏造された日本史」の中で次のように述べている。

 概略「中国の戦争文化としては略奪と虐殺が付き物である。日本の戦争文化には、中国にあるような略奪や大量虐殺は存在しない」。
 「日本軍の『南京大虐殺』があったかどうかは別として、今まで『研究』と銘打って出されている虐殺の記述は、事実に基づいたものではなく、中国の歴代の王朝が交替するときに行われた虐殺の歴史から焼く直したり、引き写したりしたものばかりなのである。虐殺という行為は、行為そのものに文化的な意味があるものである。どこの民族だろうと、誰であろうと、同じ精神状態に置かれれば、同じ行為を為すという考え方は必ずしも成り立たない。いくら学習し訓練したところで、日本兵が中国の長い伝統に基づく虐殺文化をそっくり真似できるものではない」。

 南京事件での虐殺実数をどのようにして確定すべきだろうか。専門家の考証に拠れば、南京防衛軍の戦闘で死亡した数は1万人を超えてはいないということである。肯定派は、次のように述べている。

 「南京大虐殺の犠牲者は30万人以上であるとするのは根拠がある。30万人という数字は、おおよその数であるばかりでなく、かなりの意味のある確実な数でもあるのだ。極東国際軍事法廷と南京軍事法廷でも、日本軍の虐殺は30万人以上であるとする数字を見出すことができる」。

 肯定派の笠原教授はこう述べている。

 「犠牲者総数の解明は、南京事件の全貌をより厳密に理解するために必要で あって、その逆、つまり、正確な総数が確定できないから南京事件は『「まぼろ し』であるということにはならない。犠牲者の問題は、今後さらに資料が発掘 されていけば、より実数に迫っていけることも事実である」。

 これに対して、否定派の見解は真っ向から対立している。「記録で確認される報告数」によれば、南京攻略時の戦闘行為による死傷者数は最大3000名のようである。実際には「戦間中、砲弾・爆弾あるいは銃弾をうけて死亡した者」も含まれており、実数は分からない。今日実証的な研究結果が次々と発表されており、その研究をリードしているのが東中野教授で、その研究成果に基づいているとしている。自民党の歴史・検討委員会「大東亜戦争の総括」における笠原潤一参議院議員の次のような発言もある。「南京へ行った当時の兵隊さんに聞いても、そんなことは有り得ないと。20万人も殺したら、もう累々と南京城の中に転がっていますよ」(笠原「南京事件」P13)。

 犠牲者総数については、次のような見解もある。

 「南京事件に関する歴史書を始めて読んだのは9才の時でした。その時の被害者の数は20万人でした。その被害者の数は年々増え、今では45万人と言われます。5年後には100万人なるのではないでしょうか。これは私にとって大変悲しいことです。というのは中国の人は明らかに正しい歴史を学んでいないことを示すものだからです。更に1946年から49年の内戦とその後の歴史については、当時の権力者の厳しい検閲にさらされました。その為中国人の書いた中国の歴史は極めて偏向しています。私は中国人です。歴史家であるためにはタフでなければ出来ませんね」。

 但し、肯定派による次のような資料が為されている。半月城通信サイトで、中国軍の犠牲者は戦闘行為を含めると次のとおりですとして以下紹介されている。笠原十九司著 『南京事件』(岩波新書,1997)からの引用のようである。分かりやすく日付順にアレンジしてみる。

日付 師団・部隊 犠牲者数  方法
6(南京攻撃中) (5,500)    捕虜捕獲
12.10-13 6(南京攻撃中)   (11,000)    上河鎮下関遺棄死体
12.12,13 6(南京攻撃中)   (1,700)    城壁遺棄死体(含掃討)
12.13 16歩兵38連隊 5,000-6,000  長江渡江中殺戮
16歩兵33連隊 約2,000      長江渡江中殺戮
16佐々木支隊  1万数千    敗残兵殺戮
16佐々木支隊   数千      投降捕虜殺戮
161中隊    1,300        投降捕虜殺戮
16重砲兵第2大隊  7,000-8,000 投降捕虜処刑
114歩兵66連隊  1,500余    捕虜を背信行為で処刑
5国崎支隊    (約5,000)  捕虜の措置軍に委任
12.14 16佐々木支隊    (約2万)   捕虜(殺戮の可能性大)
16歩兵20連隊 800      武装解除して殺害
16歩兵20連隊   310      武装解除して銃殺
16歩兵20連隊 (約1800)   捕虜を連行
16歩兵20連隊 150-160    捕虜を銃殺
16歩兵20連隊 600      敗残兵を連行処刑
13山田支隊   約1,000    敗残兵掃討
5歩兵41連隊   (2,350) 捕虜を後刻処刑する
12.13-24 9歩兵7連隊    6,670     難民区の敗残兵刺殺
12.16 第2碇泊場司令部     (約2,000)    下関で敗残兵処刑
12.16頃 数千      八卦洲の敗残兵殺戮
12.16,17 13山田支隊      約2万     捕虜殺害
12.17 第2碇泊場司令部同上        (約2,000)      捕虜殺害
12.24-1.5 16佐々木支隊   数千      敗残兵狩りで処刑
12.13 海軍第11戦隊 (約1万)   長江渡航中殺戮
12.14 軍艦熱海    (約700) 敗残兵武装解除
12.15 第2号掃海艇  (約500) 敗残兵殲滅
軍艦栂 12.15 (約700) 敗残兵殲滅
 合計         8万人以上 

 この数字が正確とすると動かぬ証拠であるが、この辺りどうなっているのだろう。この数字について笠原教授は、次のように述べている。

 「わたしは、総数15万人の防衛軍のうち、 約4万人が南京を脱出して再集結し、約2万人が戦闘中に死傷、約1万人が撤退中に逃亡ないし行方不明となり、残り8万余人が捕虜・投降兵・敗残兵の状態で虐殺されたと推定する(『南京防衛軍と中国軍』)」。

 日本軍武力制圧後の虐殺・被害者数を計上する場合、12.13日以降が起点になる。報告されている死傷者数のほか4200名が日本軍に拉致されたことが確認できるようである。こうした拉致数以外に臨時の荷役あるいはその他の日本軍の労役のために徴発された者が存在する。

 「『拉致』がいかに深刻なものであるかということは、拉致された者としてリストされた全員が、男子だったということからもはっざりしている。実際には、多くの婦人が短期または長期の給仕婦・洗濯婦・売春婦として連行された。しかし、彼女らのうちだれ一人としてリストされてはいない」。

 肯定派は、次のように述べている。

 「市内および城郭附近の地域における埋葬者の入念な集計によれば、1万2000人の一般市民が暴行によって死亡したと推定される。これらのなかには、武器をもたないか武装解除された何万人もの中国兵は合まれていない。3月中に国際委員会の復興委員会によって調査をうけた1万3530家族のうち、拉致された男子は、16歳から50歳にいたる男子全部の20%にも達するものであった」。

 民間人の犠牲者の場合、正確な資料が遺されておらず、『死人に口なし』であるため推定が難しい。そういう困難な中、笠原教授は当時の三つの資料を重視している。

 その1は、ラーベの「ヒトラーへの上申書」(「南京事件・ラーベ報告書」に同じ)で、「中国側の申し立てによりますと、十万人の民間人が殺されたとのことですが、これはいくらか多すぎるのではないでしょうか。我々外国人はおよそ5万人から6万人とみています」(ラーベ『南京の真実』)。笠原教授はこれにコメントを加え次のように述べている。

 「38年2月23日にラーベが南京を離れた段階での推定数である。南京域内にいたラーベら外国人には、城外・郊外の広い地域でおこなわれた集団虐殺の多くをまだ知っていない。それでも、難民区国際委員たちが当時の情報を総合して推測した数として参考になろう」。

 その2は、埋葬諸団体の埋葬記録(『中国関係資料編』の第3編「遺体埋葬記録」に収録)で、南京の埋葬諸団体が埋葬した遺体記録の合計は18万8674体になる。 これは戦死した中国兵の遺体も含まれているし、遺体の埋めなおしなど埋葬作業のダブりの問題もある。しかし、長江に流された死体の数が膨大であったことも考えると、南京攻略戦によってこうむった中国軍民の犠牲の大きさを判断する資料となる、としている。

 その3は、スマイスの「南京地区における戦争被害、1937年12月ー1938年3月、都市および農村調査」 で、同調査では、市部(南京城区)では民間人の殺害3250人、拉致されて殺害された可能性の大きい者4200人を算出、さらに城内と城壁周辺の入念な埋葬資料調査から1万2000人の民間人が殺害されたとしている。近郊区では四県半の県域をのぞいた農村における被虐殺者数は2万6870人と算出 している。

 笠原教授はこれにコメントを加え次のように述べている。この調査は、38年3月段階で自分の家にもどった家族を50軒に1軒の割合でサンプリング調査したものであるから、犠牲の大きかった全滅家族や離散家族は抜けている。それでも、同調査は当時おこなわれた唯一の被害調査であり、犠牲者はまちがいなくこれ以上であったこと、および民間人の犠牲者は城区より近郊農村の方が多かったという判断材料になる。

 笠原教授は総評として次のようにコメントしている。以上の犠牲者数についての資料状況と、本書で叙述してきた南京事件の全体状況とを総合すれば、南京事件において十数万以上、それも20万人近いかあるいはそれ以上の中国軍民が犠牲になったことが推測される。日本軍側の資料の発掘・公開がさらに進み、中国側において近郊農村部の犠牲者の記録調査がもっと進展すれば、より実数に迫る数字を推定することが可能となろう。     

 笠原教授は、日本軍側の資料によって裏づけにくい事情について次のように記している。

 「藤原彰氏の調べによれば、中支那方面軍の全連隊のなかで、これまで戦闘詳報や陣中日記の類の公式資料を公刊・公表している部隊はおよそ三分の一にすぎない。多くは敗戦前後に連合軍の追求を恐れて証拠隠滅のため焼却されている。また、南京攻略戦に参加した元兵士が残虐行為を証言したり、それらを記録した陣中日記を公表したりすると、戦友会や右翼勢力から証言封じの圧力が加えられることも日本側の資料が少ない原因になっている」。

【中国人学者による虐殺数推定について】

 中国孫学者らのグループは、確実な歴史的文献などの資料の調査閲覧、1,0 00人あまりにわたる生存者、証人を訪問・聞き取り調査した結果、それらの事象がほぼ一致して指し示す「30万人以上の人々が大虐殺にあった」という結論を得た。調査の可能だった記録に基づくと、千人以上の虐殺が少なくとも10回あり、その犠牲者は19万人近い。この10回の代表的な集団虐殺には、以下が含まれる。

 ちなみに、1985年8月に江東門にオープンした南京大虐殺記念館には「一般市民30万以上」、南京大学歴史系叢書「日本帝国主義の南京における大虐殺」には「同胞40万人前後」と書かれている。

12月15日 漢中門外 2、000人あまりの虐殺
12月16日 中山埠頭 5,000人あまりの虐殺
下関一帯の単耀亭 4,000人あまりの虐殺
12月17日 煤炭港 3,000人あまりの虐殺
12月18日 草鞋峡 57,000人あまりの虐殺
12月    三チャ河 2,000人あまりの虐殺
水西門外、上新河一帯 28,000人の虐殺
城南鳳台郷、花神廟一帯 7,000人あまりの虐殺
燕子磯江周辺 50,000人あまりの虐殺
宝塔橋、魚雷営一帯 30,000人あまりの虐殺
(合計  188,000人、半月城注)

 このほかにも規模はそれぞれ異なるが、散発的な虐殺事件が870回あまりある。一回の犠牲者数は、少ないケースで12人から35人、多いときには 数十人から数百人だ。三つの比較的大きな慈善団体である紅卍字会(こうまんじかい)、崇善堂、 赤十字社の遺体埋葬記録の中には、上述した10回の大規模な虐殺地点での数字以外に、紅卍字会では27回の虐殺、合計11,192体の収容・埋葬、崇善堂には17回の虐殺、合計66,463体の収容・埋葬、赤十字社には18回の虐殺、合計6,611体の収容・埋葬、総計84,266体 の埋葬記録が残されている。以上により、集団虐殺は19万人、散発的虐殺は84,000人、合計 274,000人あまりが虐殺されたことになると推定している。

 また、以下のことも考慮に入れる必要がある:千人以上の虐殺は上述の1 0回だけではないし、散発的に虐殺された犠牲者の収容・埋葬に当たった団体や私的埋葬隊も上述の三団体だけではないので、虐殺事件や埋葬活動がすべて 記録されるのは不可能なことだった。それ故、我々は集団虐殺と散発的虐殺の事実認定だけから、この大虐殺の被害者は30万人という驚異的規模であったという結論を得た。            

 孫氏は、上記の数字の中には戦闘による死者は含まれていないと回答している。孫氏は、犠牲者30万人以上という数字を別な角度、すなわち遺体の収容・埋葬記録の面からも検討している。報告によると、埋葬は下記のように なされた。ただし、この中には戦死した兵士も当然含まれるし、遺体収容・処理の重複もあるとことわっている。  

国際委員会 30,000体
紅卍字会 43,123体
崇善堂 112,267体
赤十字社 22,683体  
同善堂 7,000体
湖南の材木商  28,730体
城南市民 7,000体  
南京市第1区役場  1,233体
南京市下関区役場  3,240体
南京市衛生局 3,000体
安達少佐  100,000体 
長江に投棄や江北にて焼却・埋める  南京侵攻部隊 50,000体
合計      408,276体

【上官の虐殺命令について】

  半月城通信の記事をそのまま借用する。

 ある部隊では、捕虜をとるなという奇妙な命令が出されていました。1938年 1月14日、歩兵第30旅団の佐々木支隊長は「(各隊は担当区域を)掃討し、支那兵を撃滅すべし。各隊は師団の指示あるまで俘虜を受けつくるを許さず」 という命令を発しました。つまり掃討作戦において、捕虜を作らず皆殺しにせよという命令でした。 これは佐々木支隊にかぎらず、それを統括する第16師団全体の方針でした。

 それについて師団長の中島今朝吾中将は「捕虜掃討」という項目で、日記(1 2月13日)に次のように記しています。「だいたい捕虜はせぬ方針なれば、片端よりこれを片づくることとなしたる (れ)ども、千、五千、一万の群衆となれば、これが武装を解除することすらできず、ただ彼らがまったく戦意を失い、ぞろぞろ付いてくるから安全なるものの、これがいったん掻擾(騒擾)せば、始末にこまるので、部隊をトラック にて増派して監視と誘導に任じ、13日夕はトラックの大活動を要したり。 (中略)後にいたりて知るところによりて、佐々木部隊だけにて処理せしもの約1 万5千、大平門(太平門)における守備の一中隊が処理せしもの約1300, その仙鶴門付近に集結したるもの約7,8千人あり、なお続々投降しきたる。この7,8千人、これを片づくるには相当大なる壕を要し、なかなか見当 たらず、一案としては百、二百に分割したる後、適当のヶ処(箇処)に誘きて処理する予定なり」。(注1)

  この日記によれば最初、中島師団長は捕虜を殺して大きな壕のなかに埋め るつもりのようでした。こうした捕虜虐殺の方針は、当時の日本軍の実状から すれば、起こるべくして起こったといえます。その事情を、笠原十九司教授は 次のようにみています(注2)。「近代戦においては、大部隊は前線部隊と後方の兵站部隊とに分かれ、前線の戦闘部隊は後方の兵站部からの食糧・軍事物資の補給をうけながら前進していく。したがって、前線部隊のあらたな前進は、兵站部が補給可能な位置まで 移動してきてから行うのが常識であった。ところが、中支那方面軍の独断専行で開始された南京攻略戦ではこの作戦常識が無視された。上海派遣軍の場合、もともと上海周辺だけを想定して派遣された部隊であったから、各師団の兵站部は最初から弱体だった。それにもかかわらず、前線部隊は「南京一番乗り」を煽られ、補給を無視 した強行軍を余儀なくされたのである。そのため、中支那方面軍は糧秣(食糧 と軍馬の飼料)のほとんどを現地で徴発するという現地調達主義をとった。これは「糧食を敵中に求む」「糧食を敵による」という戦法であり、通過 地域の住民から食糧を奪って食べることであった」。

 「数千、数万人単位の軍隊が食糧を略奪しながら南京をめざしたのでは、通 過地域の住民はたまったものでありません。日本軍はイナゴの大群さながら食糧をあさったので、当時の皇軍は変じてイナゴの軍隊すなわち「蝗軍(こうぐん)」に成りさがったのでした。このように補給のない軍隊であってみれば、突然降って湧いたような数千人いや数万人に達する捕虜のための食糧調達はほとんど不可能です。そうなると、捕らえた捕虜を殺すこと以外にどんな手段があるでしょうか。かくして一部の例外を除いて日本軍は、のちに「三光作戦」と命名されるように、奪いつくし、殺しつくし、焼きつくす蛮行をはたらかざるを得ませんでした。同じ「三光」でも三光鳥のほうは別名「極楽鳥」とも呼ばれ、鳴き声は 「月日星ほいほい」と優雅ですが、三光作戦のほうは中国人にとってこの世の 「地獄」そのもので、その泣き声は断末魔のうめきになるでしょうか。こうして狂気に満ちた殺害がくりひろげられました」。

 その実例として、幕府山虐殺を見てみる。 第13師団の山田支隊は南京陥落後、遅れて揚子江南岸に沿い南京をめざ して進撃していました。一行が幕府山と揚子江にはさまれた道にさしかかったとき、難民と化した大群の軍民に遭遇しました。このときの体験を第5中隊長代理の角田栄一少尉はこう回想しています。 「私たち120人で幕府山に向かったが、細い月が出ており、その月明かり のなかにものすごい大軍の黒い影が・・・。私は『戦闘になったら全滅だな』 と感じた。どうせ死ぬならと度胸を決め、私は道路にすわってたばこに火をつ けた。(中略) ところが近づいてきた彼らに機関銃を発射したとたん、みんな手をあげて 降参してしまったのです。すでに戦意を失っていた彼らだったのです」 (注1)大勢の捕虜を捕獲したのは、角田少尉が所属する両角(もろずみ)部隊の 「大武勲」でした。しかしこの大量の捕虜は、山田支隊長にとってたいへんな 重荷でした。山田少将は日記にこう記しています(注3)。 <12月14日> 他師団に砲台をとらるるを恐れ、午前四時半出発、幕府山砲台に向かう、 明けて砲台の付近に到れば投降兵莫大にして始末に困る。 捕虜の始末に困り、あたかも発見せし上元門外の学校に収容せしところ、 14,777名を得たり。かく多くては殺すも生かすも困ったものなり、上元門外三軒屋に泊す。 <12月15日>捕虜の始末その他にて本間騎兵少尉を南京に派遣し連絡す。皆殺せとのこ となり。各隊食糧なく困却す。膨大な捕虜の処置を上海派遣軍司令部に指示をあおぎに行かせたところ、 入場式を控えて敗残兵・捕虜を徹底的に殲滅する方針でいた上層部から、捕虜の全員処刑を命じられたのでした。その命令に従い山田少将は捕虜の虐殺を実行しました。その始末を陣中日記はこう記しています。 <12月16日>晴れ  捕虜総数17,025名、夕刻より軍命令により捕虜の3分の1を江岸に 引出し一(第一大隊)において射殺す。一日二合給養するに百俵を要し、兵自 身徴発により給養しおる今日、到底不可能事にして軍より適当に処分すべしとの命令ありたるもののごとし」。

 歩兵第65連隊第8中隊遠藤高明少尉の陣中日記(注4) <12月16日>晴れ  二、三日前、捕慮(捕虜)せし支那兵の一部5,000名を揚子江の沿岸に連れ出し機関銃をもって射殺す。その后、銃剣にて思う存分突き刺す。自分もこの時ばが(か)りと憎き支那兵を30人も突き刺したことであろう。山になっている死人の上をあがって突き刺す気持ちは、鬼お(を)もひひ (し)がん勇気が出て力いっぱい突き刺したり。ウーン、ウーンとうめく支那兵の声、年寄りもいれば子供もいる。一人残らず殺す。刀を借りて首をも切っ てみた。こんなことは今まで中にない珍しい出来事であった。・・・帰りし時は午後8時となり、腕は相当つかれていた。

 山砲兵第19連隊第3大隊黒須忠信上等兵の陣中日記(注4) 翌日、残りの捕虜も同じように虐殺されました。しかし、銃殺された死体の中には、生き残っている人も当然います。そうした人たちは後に大虐殺の惨状を告発する可能性があります。そのため、日本軍にとって殺害は一人残らず 徹底的におこなう必要がありました。そこで総仕上げとして考えられたのが、あぶり出しでした。山のように折り重なった死体の上に、まきや燃えるものを無造作にばらまき、それに石油をかけて焼きました。熱さにたまらず手足を動かしたところを銃剣で突き刺して とどめを刺しました。 こうして完璧な処理を終えた1−2万の死体を揚子江に運び、川に流しま した。この死体処理だけでも連隊総掛かりで二日間を要したとのことです。

 こうした事実を知ってか、旧陸軍将校の会・偕行社は機関誌『偕行』に中 国人民に深く詫びるという一文を掲載しました。『偕行』は82年頃、実際に 南京攻略戦を行った人たちの体験談を掲載し「南京大虐殺はなかった」とか 「世間に宣伝されているような故意の大虐殺などなかった」という論調を掲げていました。しかし、相次ぐ研究により南京虐殺の全体像が明らかになるにしたがい、 『偕行』はいさぎよく南京虐殺の事実を認め、中国人民に詫びるという劇的な編集部論文を発表し歴史認識を正しました(注7)。細部の認識はともかく、 認識の一大転換であることは確かです。


【実際の虐殺の様子と現場シーンについて】

 奥山正武「私の見た南京事件」(p33-41)に、事件当時の虐殺シーンが次のように記述されている。

 「(第1回目の目撃)そこで、目もあてられないような惨状を目撃した。玄武湖岸やそこに近い湖上に数え切れないほどの数の中国人の死体が投棄されていた。下関の停車場と開源碼頭(波止場)付近を見回っているうちに、陸軍部隊が多数の中国人を文字通り虐殺している現場を見た。碼頭の最も下流の部分には揚子江にそって平坦な岸壁があり、やや広い敷地を挟んで倉庫群があった。そして、その倉庫群の中に、約三十名の中国人を乗せた無蓋のトラックが次々と消えていた。構内の広場に入って見ると、両手を後ろ手に縛られた中国人十数名が、江岸の縁にそって数メートル毎に引き出されて、軍刀や銃剣で惨殺されたのち、揚子江上に投棄されていた。岸辺に近いところは、かなり深く、目に見えるほどの速さの流れがあったので、ほとんどの死体は下流の方向に流れ去っていた。が、一部の死にきれない者がもがいているうちに、江岸から少し離れたところにある浅瀬に流れついていたので、その付近は血の川となっていた。そして、死にきれないものは銃撃によって、止めが刺されていた。

 この一連の処刑は、流れ作業のように、極めて手順よく行なわれていた。大声で指示する人々もいなかった。そのことから見て、明らかに陸軍の上級者の指示によるものであると推察せざるをえなかった。したがって、部外者である私が口を出す余地はないと感じた次第であった。

 そこで、私は、付近にいた一人の若い陸軍士官に、尋ねた。「なぜこのようなことをするのか」。答えて日く、「数日前の夜、一人の勇敢な中国人が、わが陸軍の小隊長級の若い士官十名か十一名かは分かりませんが寝ている寝室に侵入して、全員を刺殺したそうです。そこで、彼らの戦友や部下たちが、報復のために、その宿舎の付近の住民を処刑しているとのことです」。彼の説明が正しかったか否かは私には分からなかった。あるいは、そう説明するように教えられていたのか知れなかった」。
 
 「(第2回目の目撃)十二月二十七日。再び下関に行くことにした。下関の処刑場に近づくと、この日もまた、城内の方から、中国人を乗せた無蓋のトラックが、続々とやってきて、倉庫地帯に消えていた。再び、警戒中の哨兵にことわって、門を入ったところ、前々日と同じような処刑が行なわれていた。そこで、ある種の疑間が生じた。それは、「多数の中国人を、大した混乱もなく、どうして、ここまで連れてくることができるか」ということであった。そこで、処刑場の入口付近にいた一人の下士官に、その理由を尋ねた。ところが、彼は、何のためらいもなく、「城内で、戦場の跡片付けをさせている中国人に、〃腹のすいた者は手を上げよ〃と言って、手を上げた者を食事の場所に連れていくかのようにして、トラックに乗せているとのことです」と説明してくれた。

 そこで、更に、「日本刀や銃剣で処刑しているのはなぜか」と質間したところ、「上官から、弾薬を節約するために、そうするように命じられているからです」との答が返ってきた。

 このような処刑が、南京占領から二週間近くを経た後の二十五日と二十七日に手際よく行なわれていた。もっとも二十六日と二十五日前と二十七日後にどのような処刑が行なわれていたかは分からなかったが(註 第三○旅回長佐々木到一少将の手記によれば、十二月二十四日までに約一万五千人以上、十二月二十四日から翌年一月五日贖までに数千人の処刑をしたとのことである)、二日間のことから察して、それが戦場にありがちな、一時的な、興盲状態での対敵行動であるとは私には思われなかった。この日もまた、一連の処刑が、ある種の統制のとれた行動であるように感じた。

 私は、この二目間に下関で見た合計約二十台分の、言いかえれぱ、少なくとも合計五百人以上の中国人の処刑だけでも、大虐殺であった、と信じている。もっとも、どれだけの被害者があれば大虐殺であるかについては、人それぞれに見解の相違があるかも知れないが。それらに加えて、玄武湖の湖上や湖岸で見た大量の死体のこととも考え合わせて、正確な数字は分からなかったが、莫大な数の中国人の犠牲者があったのではないか、と考えざるをえなかった。そうだとすれば、それは、明らかに、国際法上の大間題ではないかと思われた。が、当時の私には、そのことを突っ込んで検討する時間的な余裕がなかった。その後間もなく、私自身が作戦飛行に従事せねばならなかったからであった」。


【マスコミの対応】

  当時、マスコミや日本国民は南京占領を待望し、陥落を熱狂的に迎え た。新聞の見出しでは、活字が歓喜に踊っていた。

読売新聞 37.12.8  はやる歓喜! 大祝賀の催促! 神速の皇軍・紫金山占領の快報をうけて  早くも銀座に戦勝飾  
朝日新聞 37.12.11  踊出した提燈(ちょうちん)行列  昨夜・雨の帝都の賑ひ(にぎわい)  ”陥落公表”を待ち祝賀の大行進  畫夜・歓喜の坩堝(るつぼ)へ   
読売新聞 37.12.12  百万人の旗行列  (東京)府市が公電着次第催し種々    

 これら新聞をみると、日本中が南京攻略に沸き立っていたようで、侵略戦争に疑問をはさむ記事はほとんど見当たらない


【婦女子に対する暴行の残忍さについて】

 肯定派の資料。明確なのは婦人にたいする強姦で、「当復興委員会に救済をもとめてやってぎた1万3530家族が委員会に報告した負傷者のうち、3月中の調査によれば、強姦による傷害は16歳から50歳に到る婦人の8%を占めていた。この数はきわめて実際を下まわるものである。というのは、大ていの婦人はこのような扱いをうけても、進んで通報しようとはせず、男子の親近者も通報したがらないからである。12月・1月のように強姦がありふれたことになっていた間は、住民はその他の状況からも、かなりそうした事実を遠慮なく認めたのである。しかし、3月になると、家族たちは家族の中の婦人が強姦されても、その事実をもみ消そうとしていた。ここでこのことに触れたのは、市の社会・経済生活がどれほどはげしく不安定なものであったかを説明するためである」とある。この記述では少々心もとない気がする。

 『南京市崇善堂埋葬隊活動一覧表・付属文書』

 部外の民衆で、未だ他所へ避難できず、難民区にも入れない者は、昼間は一カ所に集まって助け合って身を守っているが、不幸にして日本侵略者に見つかると多くが被害に遭う。背後から撃たれて倒れている者がいたが、逃げる途中で難にあった者である。横臥した形で、刀で突かれて血を流している者は、生きているうちにやられたものである。口や鼻から血を出し、顔が青くなり、足が折れているのは、大勢の者から殴られたりしたものである。婦人で髪が顔にかかり、乳房が割れて胸を刺され、ズボンを付けていない者は、これは生前辱めを受けた者である。また、頭をもたげ、目をむき、口を開けて歯を食いしばり、足を突っ張り、ズボンの破れている者は、乱暴されるのを拒んだ者である。惨たるかな、惨たるかな。
 毎日夜になると、集団をなして遠方に逃げる。声が聞こえると草むらに隠れたり、田のほとりに隠れる。一番危険なのは、夜が明けてから、敵が高所から遠くを見渡すときで、逃げるところを見つかると、すぐ弾丸が飛んでくる。中には婦人がいると手で止まれと合図して、追ってきて野獣の仕業をなす。言うことを聞かないと殺されるし、言うことを聞いても輪姦されて殺される。立ち止まらずに行こうとする者には、銃声がいっそう激しく浴びせられ、死者がますます増える。それゆえ、農村部落の遭難者は都市部より多い。

『フォースター文書』(夏淑琴他からマギー牧師が聞き出す)笠原十九司『南京事件』岩波新書 P150

 日本軍の南京城侵入最初の日(12月13日)、日本兵たちが市内の南東部にある夏家にやってきた。日本兵は、8歳と3歳あるいは4歳の二人の子供だけを残してその家にいた者全員、13名を殺した。これは、8歳の少女(夏淑琴)が話したことを彼女の叔父と私を案内した近所の老女とに確認してチェックした事実である。

 この少女は背中と脇腹を刺されたが、殺されずにすんだ。殺害された人には、76歳の祖父と74歳の祖母、母親と16歳と14歳の姉と一歳の赤ん坊(妹)がいた。二人の姉ともそれぞれ三人ぐらいの日本兵に輪姦され、それからもっとも残酷な殺されかたをした。下の姉は銃剣で刺し殺されたが、上の姉と母のほうはとても口にできないやり方で殺害された。私は南京でそうした方法で殺害されたのを四件ほど聞いているが、ドイツ大使館の書記官(ローゼン)は、一人の女性は局部に棒きれを押しこまれていたと言っている。彼は「あれが、日本兵のやり方さ」と言った。

 私はこれらの死体を撮影した。母親が一歳の赤ん坊と一緒に横たわっている。その小さな少女は、もう一つの一歳の子供の死体は、家主の子供だといった。その子供は日本兵の刀で頭を二つに切り裂かれていた。


 否定派の見解。強姦について、戦後の米軍による神奈川県の例を見ておくと、米軍は1945年8月30日神奈川県横須賀に上陸した。その日の米軍による強姦事件は、神奈川県だけで315件も記録されている。次の8月31日には228件記録されている。9月10日までの累計による強姦事件は1326件も記録されている。これを南京事件での強姦数と比較する必要がある。強姦の記録について、南京のものと米軍のものとが方法的に比較できるものかどうかという問題もあるが、東中野先生は、その根拠となる数字を"Documents of theNankoing Safety Zone" において次のように明らかにしている。これによると、強姦を届け出た総数は251件で、そのうち報告者、または目撃者の名前が載っているのは61件です。そのうち、国際委員会から日本軍に通報されたのは7件。根拠のあるものは、通報され、逮捕、連行、査問され、処罰されていることにより確定できる。相当あやふやなものも含めて合計251件。噂のレベルで8千だ2万だと言いふらされてきているが、ある程度比較可能な数字を採るとこの様になる。


性暴力について

 この問題に対しては、肯定派の方の分析が精緻である。これに対する否定派はどのような見解を持っているのだろう。『便衣兵』問題ほどの詳述はないようである。


 【肯定派の見解】肯定派は次のように説明している。

 「『便衣兵狩り』や『食糧調達』=財物掠奪の過程で、日本兵は一般市民の間に入り込み、多数の無差別な強姦・殺傷、あるいはさらにおぞましい変質的性暴力を働きました。このような行為は戦闘とはなんの関係もなく、いかにしても正当化できるものではありません。性暴力の広汎さと変質性は南京大虐殺を特徴づけるものです」、「やがて強姦殺害が増え、『残敵掃蕩戦』「」が山をこえた1938年1月中旬以降は、掠奪にともなう殺害(平時の強盗殺人)や「女狩り」にともなう殺害、日本兵の「憂さばらし」、「慰めもの」、「見せしめ」などの殺害がめだつようになった。それは同年の2、3月まで続いた。難民区の鼓楼病院のアメリカ人医師、ロバート・O・ウィルソンがのちに、「上海に来てなによりも嬉しいのは、中国人が頭をつけて街を歩けるのを見られることだ」とその感慨を述べているのは(『チャイナ・インフォメーション・サービス』12号、1938年10月)、そうした情況の一端をものがたっている」。 

 強姦は、南京攻略戦および南京占領の全期間にわたっておこなわれた。多くの軍隊が日常的に、しかも、戦闘以外はほとんどどこにおいても行っていたことにおいて、まさに日本軍の組織的行為であった。強姦は女性の身体を傷つけただけでなく、心にも深い傷をあたえた。南京攻略戦段階では、南京近郊の農村で強姦が行われた。農村の場合、強姦殺害が多いのが特徴である。さきにあげた南京近県の農村における多数の女性死者の多くはこの種の犠牲者であった。

 南京占領後は12月16日ごろから強姦事件が激発するようになり、南京安全区国際委員会の計算では一日に1,000人もの女性が強姦されている。同委員のベイツは、占領初期には控え目に見ても8000人の女性が強姦され、翌年の2、3月までに何万という女性が強姦されたと記している。(「アメリカのキリスト者へのベイツの回状」1938年11月29日付)。同委員会が日本当局に報告した、日本兵士による暴行事件444件のうち、大半が強姦・輪姦およびこれにともなう傷害、殺害の内容で占められている。

 南京における「残敵掃蕩戦」も峠をこえた1月中旬以降は、日本軍の「慰安」のための「女狩り」としての強姦が日常化していく。強姦殺害は減少するが、掃除婦、洗濯婦として拉致し、軟禁状態にして連日強姦するケースや、もっぱら少女を拉致して強姦するいわゆる「処女狩り」、さらに性的変質行為(例えば、中国人男子に老婆との性交を強要したり、輪姦した老女にペニスをなめさせたり、少年を獣姦するなど)がめだつようになる。

 1月末から2月初旬には、日本軍当局から難民区をでて自宅にもどることを強制された婦人たちが帰った家で強姦される事件が頻発している。なお、強姦が日常化して多くの女性が長期にわたって被害を受けたために、悪性の性病をうつされて廃人同様になってしまった者や、望まぬ子を身ごもってしまった者、また、そのために無理な堕胎をこころみて身体をこわしてしまった者などもでて、あとあとまで悲劇はつづいた。


【事件が明るみになった時期について】

 肯定派は、戦後に連合軍によって南京大虐殺が捏造されたなど真っ赤なウソですとして、以下のように裏付けている。

 「否定派は、南京大虐殺は東京裁判で突然登場したと主張しています。日本では、報道規制、言論弾圧によって日本の一般国民には知れ渡らなかったわけですが、それでも一部の日本人は知っていたようです。南京戦に参加した従軍記者もこの大虐殺の光景をみていますが、厳しい報道規制がおこなわれました。そして、彼らは戦後になってから書くに書けなかった虐殺の記録を残したのである。石川達三も大量虐殺を見ていますが、彼は、その光景を創作という形で小説『生きてゐる兵隊』にて発表しましたが発禁処分を受け、彼自身も禁固4年執行猶予3年の判決を受けました」


 この事件はすぐに世界中にタイムリーに報道されています。「ニューヨーク・タイムズ」、「シカゴ・ディリー・ニュース」。「アメリカやイギリス、ドイツなど世界においては発生当時から事件が報道されていた。当時南京から事件を世界に知らせた人々は、日本軍の南京占領前後に南京に残留し、直接あるいは間接に事件を目撃した外国人だった」(笠原「南京事件」P229)として、第一のグループ・外国人ジャーナリスト(「ニューヨーク・タイムズ」のダーディン、「シカゴ・ディリー・ニュース」のスティール、ロイター通信社のL・C・スミス、AP通信のC・Y・マクダニエル、パラマウント映画ニュースのメンケンら。但し、彼等が南京で取材したのは12.15日まで)、第二のグループ・南京の大使館員(中でもアメリカ大使館とドイツ大使館の外交官は本国と関係機関に多くの報告を行っている。但し、彼らは日本軍の南京城攻撃直前に南京を離れ、1938年1月上旬になって南京に帰任)、第三のグループ・南京難民区国際委員会のメンバーたち。彼らは国際世論に訴えて、外国からそのような蛮行を阻止させる行動が起ることを期待して、海外の報道機関やキリスト教団体に向けて、残虐行為に関する情報を様々なルートを使って送り出していたとある。

 その報道振りを考察してみる。12.15日に日本軍の要請で南京を離れた「ニューヨーク・タイムズ」のティルマン・ダーディンは、「南京における大虐殺行為と蛮行によって、日本軍は南京の中国市民及び外国人から尊敬と信頼を受けるわずかな機会を失ってしまった」と打電している。上海沖の米砲艦オアフ号の士官室から打電したこの長文記事が、南京アトローシティ(Nanking Atrocity)を世界に告げる第一報となった。「日本軍が占領してから二日の間に事態の見通しは一変した。大規模な略奪、婦女暴行、一般市民の虐殺、自宅からの追い立て、捕虜の集団処刑、成年男子の強制連行が、南京を恐怖の町と化してしまった」、「多数の捕虜が日本軍によって処刑された。安全国収容された中国兵の大部分が集団銃殺された。肩に背嚢を背負った後があったり、その他兵隊であったことを示すしるしのある男子を求めて、一軒一軒虱潰しの捜索が行われ、集められて処刑された」。

 ここでは、『南京事件』(笠原十九司著、岩波新書)に紹介されている、1938年1月9日のニューヨークタイムズを引用する。「月曜日(13日)いっぱい、市内の東部および北西地区で戦闘を続ける中国部隊があった。しかし、袋のねずみとなった中国兵の大多数は、戦う気力を失っていた。(中略)無力な中国軍部隊は、ほとんどが武装を解除し、投降するばかりになっていたにもかかわらず、計画的に逮捕され、処刑された。(中略)塹壕で難を逃れていた小さな集団が引きずり出され、縁で射殺されるか、刺殺された。それから死体は塹壕に押し込まれて、埋められてしまった。時には縛り上げた兵隊の集団に、戦車の砲口が向けられることもあった。最も一般的な処刑方法は、小銃での射殺であった。年齢・性別にかかわりなく、日本軍は民間人をも射殺した。消防士や警察官はしばしば日本軍の犠牲となった。日本兵が近づいてくるのを見て、興奮したり恐怖にかられて走り出す者は誰でも、射殺される危険があった」。

 小林よしのりという厨房が書いた『戦争論』には「
外国人ジャーナリストや日本の新聞記者もそこにいっぱいいたのに誰も虐殺など見ていない」などと、大嘘が書かれている。外国人ジャーナリストも日本人記者も虐殺を見ているのである。12月13日の南京陥落時にいた、外国人ジャーナリストは、わずか5人ですが、その中のひとりダーディン記者は、レポートを打電している。秦郁彦著『南京事件』にその文章が載っていたので引用する。
「大規模な略奪、婦女暴行、一般市民の虐殺、自宅からの追い立て、捕虜の集団処刑、成年男子の強制連行が、南京も恐怖の町と化してしまった」、「多数の捕虜が日本軍によって処刑された。安全区に収容された中国兵の大部分が集団銃殺された。肩に背嚢を背負ったあとがあったり、その他兵隊であったことを示すしるしのある男子を求めて、一軒一軒しらみつぶしの捜索がおこなわれ、集められ処刑された」。 

 パル判事と言えば、東京裁判の判事の中で唯一国際法の専門家であり、被告人全員無罪を主張した人物である。その為、自由主義史観派が大好きな人物である。しかし、小林よしのり『戦争論』では、さもパル判事が南京大虐殺を否定したと描写されているが、パル判事は南京で虐殺行為があったことを認めているのである。以下は、パル判事の判決書で『共同研究パル判決書』(東京裁判研究会、講談社学術文庫)からの引用である。
南京における日本兵の行動は凶暴であり,かつベイツ博士が証言したように,残虐はほとんど三週間にわたって惨烈なものであり,合計6週間に渡って、続いて深刻であったことは疑いない。事態に顕著な改善が見られたのは、ようやく2月6日あるいは7日すぎてからである


 中国では、新聞報道だけではなく口コミを通じて中国人全体に伝えられていった。1938.7月中国国民政府軍事委員会は写真集「日寇暴行記録」を発行して、南京における日本軍の残虐行為をビジュアルに告発した。特に日本軍の中国女性に対する凌辱行為は、中国国民の対日敵愾心を沸き立たせ、大多数の民衆を抗日の側に廻らせ、対日抵抗勢力を形成する源泉となった。中国民衆の民族意識と抗戦意思が発揚され、高められていくことになった。南京攻略戦の結果、中国は屈服するどころか逆に抗日勢力を結束させる役割を果たすことになった。(笠原「中国女性にとっての日中十五年戦争」)。


【南京大虐殺は中国共産党創作説について】
 否定派は、「南京大虐殺は中共による創作だ!」、「中国政府は天安門事件で死亡者がでたことを認めていない。そんな国の言い分は信用できない」、「中国はチベットの大量虐殺を正当化している。そんな国の言うことなんて信用できない」と云う。

 肯定派は、「南京大虐殺がおこった当時は、中国は蒋介石率いる国民党と毛沢東率いる共産党に分裂していたが、毛沢東・中国共産党は当然この事件が起こったことを言及している。それは、はやくも1938年1月に発行された週刊誌『群衆』で南京で日本軍による虐殺行為があったと言っている。蒋介石・中国国民党では、どうであっただろうか?蒋介石は1938年1月の日記に、南京で日本軍による大量虐殺があったことを記している。そればかりか、1938年12月には中国国民党の機関紙のなかで南京で日本軍による大量虐殺がおこなわれ20万人の命が奪われたと書いている。このように、今の中国を支配している中国共産党だけでなく、蒋介石並びに中国国民党(現・台湾)まで認めているのである」と云う。

【日本軍の指揮系統の実態について】
 肯定派は次のように述べている。統制がきかず、軍紀の弛緩した軍隊はとかく暴走しがちで、 侵略戦争は止めどなく拡大してしまうものです。南京攻略もそのいい例でした。 「 南京への道 。この間、上海攻略後の日本軍は中国軍退却のあとを追って、南京に向かった戦線を拡大していったが、このとき軍中央は南京占領という明確な計画をもっていたわけではなかった。むしろ作戦の実質的責任者多田駿参謀次長は石原 (莞爾)系の不拡大論者で、最後まで占領には反対であったのである。しかし 中支那方面軍最高司令官として赴任する松井石根大将は、見送りに来た杉山陸相に対し、南京攻撃を訴えていたという(近衛文麿『失はれし政治』朝日新聞 社)。
 
 ここでも現地軍が独走し、中央がそれを黙過し最終的には追認するという、 満州事変以来繰り返されてきた陸軍の典型的パターンの再現を防ぐことはでき なかった。下村作戦部長によれば杭州湾上陸、白茆口上陸以外の作戦は現地の企画、出先の意見によるものであったという。(回想応答録『現代史資料』)。

 あの南京事件という大不祥事も、このような軍部全体の恐るべき綱紀の弛 緩というなかで起きたものといえよう。なぜ日本軍はこのように統制のとれない集団になってしまったのであろう か。柳川平助中将の指揮する第十軍が、11月5日、杭州湾に上陸したとき、 上海戦線の大勢はすでに決しており、中国軍は南京方面に敗走しつつあった。 したがって第十軍は目標をそちらに定め、それを追撃したいという心理になったのである。ここにやはり満州事変以来の「石原現象」を認めざるを得な い。すなわち下剋上が是認されるような風潮のもとでは、第一線に出征した軍 人としては、中央の方針に従うよりは、とにかく行動して勲功を立てたいという誘惑には勝てないのである。参謀本部もついに南京攻略を認めざるを得なく なった。

 また当時の雰囲気としては、政府は敵国首府の占領により戦意を喪失させ、 有利な条件で講和ができると考え、国民も単純な勝利感に酔うようになっていたのである。敵国の首府を攻撃するに際しては、単に軍事的な観点のみならず、政治的な配慮も必要であり、いわゆる政戦略の一致が要求される。まして中国は面子を重んじる国である。しかも第三国に調停を依頼しているときである。南京占領と和平問題との連携は考えられて当然であった。しかしこのころ軍部は勝手に戦線を拡大し、その報告を受けない近衛や文民閣僚はジリジリ、イライラし ているだけであった。まさに国務・統帥の乖離という戦前の日本のもつ致命的な欠陥に直面していたといえる。  

 近衛首相は軍から戦線拡大の報告すら受けることができなかったというのはなさけない話です。政治体制に致命的な構造的欠陥があったのは確かなよう です。一方、現地軍隊は中央のあまい統制を軽視し、中央が指示した制令線な どを次々に無視し、独善的な判断により戦線を急速に拡大していきました。そのような暴走に対し、これに懲罰を与えるどころか逆に追認した軍中央は、その戦線を支えるために必然的に兵の大量動員を必要としました。そのため常備兵だけでは不足をきたし、予備兵や後備兵、さらには補充兵などを大量にかり出すようになりました。

 彼ら、特に後備兵はだいたい30歳代で、妻子を持ち一家の大黒柱である 場合が多いのですが、それが予期しないときに突然赤紙で召集されるものです から、とても戦争に没頭できるものではありません。規律や戦闘意欲が十分で はなく、志気や軍紀は「満州事変」当時の日本軍とは比べるべくもありませんでした。

 この召集兵こそ軍紀退廃の原因であるという見方が軍中央にさえありまし た。陸軍省軍務局軍事課長・田中新一大佐は、「軍紀粛正問題」と題してこう 所見を書いています。 「軍紀退廃の根源は、召集兵にある。高年次召集者にある。召集の憲兵下士 官などに唾棄すべき知能犯的軍紀破壊行為がある。現地依存の給養上の措置が 誤って軍紀破壊の第一歩ともなる。すなわち地方民からの物資購買が徴発化し、 掠奪化し、暴行に転化するごときがそれである・・・補給の定滞(停滞)から 第一線を飢餓欠乏に陥らしめることも軍紀破壊のもととなる」 (田中新一『田中新一』/ 支那事変記録、其の三)  

 高年次召集兵もさることながら、問題は小隊長や中隊長などの現役初級幹 部にもありました。このような陸軍現役将校の補充は基本的に陸軍士官学校卒 業生からなされましたが、軍縮や諸般の事情で士官学校学生を減員した影響が このころになって出始め、これら将校が極端に不足しました。

 そこでやむなく知識や経験の浅い予備役将校が急きょ当てられましたが、 統率力に欠けており、軍紀のたるみに拍車をかけたようでした。   しかし、たとえこのように高年兵と予備役将校とのコンビでも、戦争目的 が祖国防衛などといった誰もが納得するような大義名分なら、気を引き締めて 戦うのでしょうが、そのころの対中国戦は宣戦布告はおろか「戦争」の名前す らつけられず、出先軍に引きずられた行き当たりばったりの泥沼戦でした。  

 そもそも、近衛内閣が37年に発表した戦争目的の声明は「支那軍の暴戻 (ぼうれい)を鷹徴(ようちょう)し、以て南京政府の反省を促す為」とする ものでした。「悪者の支那」をこらしめるため戦うという、たとえてみれば、 おとぎ話に出てくる「桃太郎の鬼退治」もどきの大義名分でした。このような「支那鷹徴」論の背景には、軍拡大派を中心とする打算的な意見や、それに引きずられた政府の存在を見落とすことはできません。「近衛は結局、軍部拡大派の『戦いそのものは好まぬところだが、とにかく 国防国家をつくるにも、産業拡大をやるにも、今のままでは政府も国民も容易について来ん、それだから戦いでも始まって--現実に戦いでもあれば国民もしかたなくついて来る、それがためにこの戦いをやったら良いじゃないか』という思惑に沿って、国民を戦時体制に総動員していく国家指導者の役割 を演じたのである」、「国民も仕方なしについてくる」、そのために戦争を始める、このように理念のひとかけらもない侵略戦争を仕掛けられたのでは、相手国はたまったものではありません。こうした中国に対する傍若無人ぶりのうらには、軍事大国・ 日本が「支那に一撃」を加えれば中国は簡単に折れるだろうという読みがあったことはいうまでもありません。ここに日本の誤算がありました。中国人の抗日意識や抗日戦線の強い抵抗をみくびっていました。

 誤算はさらに続きました。日本は首都の南京さえ落とせば戦争はほぼ終わるだろうとみていたようでした。そのあまい考えも手伝って、上海派遣軍と第十軍は先陣争いをしながら南京に進撃しました。その際、兵站補給問題は二の次で食糧の補給を軽視したため、必然的に徴発という名の略奪を日常茶飯事に繰り返し、それをきっかけに次第に道徳的に堕ちていきました。

事件発生が軍の上層部に知られていたかについて
 こうした残虐行為が、数万の市民に対しなされたことは、当時、日本軍上層部も知っていたようでした。それについて、元一橋大学教授・藤原彰氏は次のように紹介しています。 南京攻略にさいし、一般市民への残虐行為が多発したという認識は、軍上層部に存在していた。翌38年8月に、武漢攻略のために第11軍司令官とし て赴任した岡村寧二郎中将は、その回想録に次のように書いている(『岡村寧 二郎大将資料(上)』原書房、1970,P291)。 「上海に上陸して、1,2日の間、先遣の宮崎参謀、中支那派遣軍特務部長  原田少将、杭州特務機関長萩原少佐から聴取したところを総合すれば、次のとおりであった。 1.南京攻略時、数万の市民に対する略奪強姦等の大暴行があったのは事実である。 1.第一線部隊は給養を名として俘虜を殺してしまう幣がある」。 数万の市民への大暴行があったことを、軍の最高幹部も認めざるを得なかったのである。

マスコミの報道ぶりについて

 政府や軍だけを責めるのは酷かもしれません。侵略戦争に積極的に荷担した当時のマスコミなども検証が必要ではないかと思います。

 当時、マスコミや日本国民は南京占領を待望し、陥落を熱狂的に迎えた。新聞の見出しでは、活字が歓喜に踊っていました。「はやる歓喜!、大祝賀の催促!、神速の皇軍・紫金山占領の快報をうけて 早くも銀座に戦勝飾」 (読売新聞、37.12.8)、「踊出した提燈(ちょうちん)行列 、昨夜・雨の帝都の賑ひ(にぎわい)、 ”陥落公表”を待ち祝賀の大行進、畫夜・歓喜の坩堝(るつぼ)へ」(朝日新聞、37.12.11)、「百万人の旗行列 」(東京)「府市が公電着次第催し種々 」(読売新聞、37.12.12) 。これら新聞をみると、日本中が南京攻略に沸き立っていたようで、侵略戦 争に疑問をはさむ記事はほとんど見当たらないようです。それどころか報道は 過熱し、なかには「人殺し競争」をあおる新聞まで登場しました。毎日新聞の 前身で三大紙のひとつである東京日日新聞は、ある殺人ゲームをこう伝えまし た。「百人斬り競争!」 (37.11.30)、「両少尉早くも80人、”百人斬り”大接戦、勇壮!向井、野田両少尉」 (37.12.6) 、「勇壮な」向井、野田両少尉は、軍刀を前にして写真入りで大きく紹介した。


南京事件についての日中論争
 否定派資料。南京の真実の追究者

 東京裁判で、マギーは質問に答え、彼が見たこと、中国人から聞いたことを述べています。彼が関わった目撃者はすべて傷つけられ、彼や彼の助手の所へ運び込まれた人でした。この事はきマギー自身が話しており、間違いのない真実です。同時に今一つの真実は誰も南京事件で正確に何人殺されたか知らないと言うことです。

 デビット・ケネディ教授はアイリス・チャンの「レイプ・オブ・南京」について、研究や知識より感情や憤りがこの本のテーマだと述べています。私も同感です。私は中国人であり、私の周りの人々は第2次大戦の話になると、極めて感情的になりすぎるきらいがあります。

 我々は事実をベースに、学術的に説明しようと考えています。南京事件についての基本的な見解は、「日本軍と中国軍が南京で戦い、日本軍が勝った。しかし南京虐殺事件と呼ばれるような事件はなかった」と言うことです。

 この事は中国兵を殺さなかったという事ではありませんし、中国の市民に戦争に伴う大きな損害を与えなかったという事でもありません。言い換えると南京戦はあったが、南京事件と言われるような事件はなかったと言うことです。この理由は全く簡単です。即ち当時は中国政府も共産軍も共に南京虐殺事件を公式に非難していないという理由です。南京陥落6ヶ月後1957年5月27日に出された、国際連盟の日本非難決議でも、南京虐殺事件については一言も触れられていません。この事は当時は「南京戦はあったが、南京虐殺事件はなかった」と認識していた事を明確に示しているのではないでしょうか。南京事件はその15年後の東京裁判で突然持ち出されたものです。これが南京事件に関する基本的な事実です。

 貴方はこの時期中国には公式の記録がなかったと言われます。しかし公式記録に匹敵する記録がありました。それは国民党政府の対外委員会が監修し、上海の Kelly and Walsh社が当時出版した"Documents of the Nanking Safety Zone" 「南京安全地帯の記録」です。これは安全地帯に集まった全市民の保護のための、実質的な行政組織であった、南京安全地帯の国際委員会の記録を編集したものです。この安全地帯はニューヨークのセントラルパークとほぼ同じ広さでした。そこに20万人の市民が集まったのです。勿論この数字は正確でないかもしれませんが、南京市警察長官王固磐から国際委員会に提出されたものです。従って違っていても、大幅には違わないと思います。そして「南京安全地帯の記録」によれば、この20万人という数値がその後の行政の基礎として使われました。重要なことはこの20万人という数値が虐殺により減少したのではなく、約1ヶ月後の2
月14日には25万人に増えたことです。これでも日本軍による組織的な大量殺人があったと思われますか。

 マギーはこの国際委員会の委員の一人で、東京裁判で2日間に亘り証言しています。多くの恐ろしい証言の後、ブルック弁護人がマギーに「所で貴方自身が目撃した殺人は何件ありましたか」と尋ねました。彼の答えは「一人」でした。「それはどのような事件でしたか」と質問すると「中国人が日本兵に誰何されたところ、突然逃げだし、射殺されました」。これがマギーが見た唯一の殺人であり、他はすべて中国人から聞いた話に過ぎませんでした。彼は確かに病院で写真を撮っています。しかし戦争中の事です。多くの人が大なり小なり負傷しました。南京大学病院は唯一の大病院でした。

 貴方はその病院で撮った、けがをしている人の写真は全部日本軍の虐殺の明らかな証拠だと言えますか。彼の撮ったフィルムは1ヶ月後アメリカに持ち帰られ、政府に提出されました。そして中国シンパの会合で展示されましたが、人々から殆ど注目されませんでした。それは日本軍の残虐行為を立証するような物ではなかったからです。マギーは反日的で、彼の信徒の中国人に同情していました。彼は非常に偏向しており、当時はアメリカでも容易に受け入れられませんでした。しかし彼が勝利国の人間として日本に来たとき、彼は何を言っても良かったのです。これがマギーの話です。牧師は決して嘘を言わないなど信じてはなりません。

 私は中国人が偽造された南京事件に何故こだわるのか理解できません。もしこの悲惨な犯罪を告発し、日本人を困らせることにより、彼らのプライドを満足させる為であるなら、いやな民族だと気の毒に思います。彼らのプライドは偽造や嘘で満たされなくても、歴史の真実、善行により満たされるはずです。私は中国の古い文化が大好きです。私の弟は大学で中国文学を教えています。どうして最近の中国人は、他人を非難して自己満足する安易な道を選ぶ人が増えたのでしょうか。


南京事件に関する訴訟について】

【「明らかにされた外務大臣、広田弘毅の驚くべき電報」】
 本当にショッキングな事実が明らかにされた。それは一九三八年1月、日本軍が南京を占領してほんの1ヶ月しかたっていない時に、日本政府は南京での犠牲者の数が30万を超えることを既に認めていたのである。 南イリノイ州大学の呉天威教授は「中国における日本の侵略」という季刊誌の編集に携わっているが、アメリカ政府の書類の中から重要な証拠をはじめて出版した人である。これは一九三八年1月17日、外務大臣広田弘毅によってワシントンの日本大使館あてに出された暗号電文である。内容は以下に記す。

 From: 東京(広田) To: ワシントン 1938年1月17日 No.227 上海から第176号文書として受理、数日前に上海に帰ってきて、報道された南京市内外での日本軍による虐殺を調査したが、信頼できる筋からの証言や手紙から判断して、日本軍の行動はアッチラとフン族軍を想起させるほどの傍若無人な行動が今も続いている。30万に上る中国市民が虐殺されている。それも多くの場合、血も涙も無い方法で。 すでに数週間前に戦闘は終わっているはずの地域からも略奪、強姦(子供も含 めた)そして市民に対する非情極まりない殺戮の数々が報告され続けている。 上海のあちこちから日本軍が暴れている報告がなされているが、同じ日本人と して恥ずかしい思いでいっぱいだ。今日の新聞「字林西報」には不快極まりない記事が載っていた。以下に記す。 「酒に酔った日本兵は、要求した酒と女を強奪できなかった腹いせに60歳をこえた中国人のおばあさんを3人射殺、他の市民にも負傷を負わせた」。

 南京大虐殺によって引き起こされた国際的怒りの広がりにより、一九三八年 の1月から2月にかけて大虐殺のことは日本の外交官たちの大きな話題になっていたのである。この新しい秘密文書の公開は日本政府が南京で展開された恐怖のことを知っていたことを表す最新の動かぬ証拠である。 (The Rape of Nanking より)

藤岡教授の「戦時国際法」説について】

 「自由主義史観」を提唱する東大の藤岡信勝教授は、捕虜虐殺に対して次のようにみています。

 「残る問題は、戦闘をやめて日本軍の拘束下に入った中国兵の処刑の問題です。戦時国際法によれば、管理する側に圧倒的な力の余裕がある場合でなければ、拘束した敵の兵士を処刑しても違法とはされません。自分たちの身の危険 をおかしてまで、拘束した敵の兵士に捕虜の特権を与える必要はないのです」 。

 この藤岡教授の持ち出す「戦時国際法」説に対し、大本営海軍参謀を勤めた奥宮正武元中佐はこう解説している。 <戦時国際法とは>この用語もよく検討されねば ならない。戦時国際法なる単独の条約はなかったからである。戦時国際法とは、交戦国が守るべき戦争一般に関する条約、陸戦、海戦及び空戦のさい守られるべき条約や宣言などと、中立国人の守るべき条約を総称したものである。したがって、南京事件のように、個々の問題を言及するさいには、そのことに直接関係のある条約名をあげることが望ましい。奥宮氏によれば、国際法で捕虜の待遇に関係のある戦前の条約は以下の3 条約です。

ハーグ条約 1899 「陸戦の法規慣例に関する規則」
ハーグ条約 1907 同付属書
ジュネーブ条約 1929 「捕虜の待遇に関する条約」

 これら全てに日本は調印しましたが、批准は当時において、(1)と (2)のハーグ条約のみで、ジュネーブ条約は49年になって批准しました。捕虜に関する規定で共通するのは、いずれの条約も「俘虜は敵の政府の権内に属し、これを捕らえたる個人または部隊の権内に属することなし」とうたって いることです。

 これはいずれにもある「政府はその権内にある俘虜を給養すべき義務を有す」という条文と密接不可分の関係にあります。つまり、捕虜は決してそれを捕らえた部隊の権内にあるのではなく政府の権内にあり、部隊が勝手に捕虜を処分するのは明らかに国際法違反になります。もちろん、政府は捕虜を給養する義務があると同時に、注目すべきは、いずれの条約も捕虜は人道的に、あるいは博愛的に取り扱われるべきであること が明記されています。

 先ほどの藤岡教授の主張ですが、これに少しでも関係がありそうな条文は ハーグ条約(1907)第8条でしょうか。この点、奥宮氏は下記のように解説しています。ヘーグ条約(1907)第8条には、 「俘虜は、これをその権内に属せしめたる国の陸軍現行法律、規則および命令 に服従すべきものとす。すべて不従順の行為あるときは、俘虜に対し、必要な る厳重手段を施すことを得」 とあった。わが国には、本条にある厳重手段を、処刑を含むものと解釈する人々が少な くなかった。そして、そのことが南京事件虚構説の根拠となっていた。いずれの条約や法律も、人によって、また場合によって、その解釈に幅があ ることは周知のとおりであるので、そうされたことは止むをえなかったかも知れない。言いかえれば、わが国に前記のような拡大解釈をする人々がいても不思議はなかった。ところが、同条約の第23条では、 「兵器を捨て、または自衛の手段尽きて降を乞へる敵を殺傷すること」 が禁止されていた。 また、ジュネーブ条約(1929)第2条には、 「俘虜に対する報復手段は禁止す」 と明記されていた。したがって、どう考えても、軍の正規の裁判によって死刑と判決されない限 り、捕虜を殺傷することは違法であるといわれても弁明の余地はなかった。


【南京虐殺「ニセ写真」問題について】
 別章ニセ写真問題についてに記す

【南京虐殺での死体の行方】

 日本軍にとって虐殺の「物証」である死体をいつまでもさらけだしたままでは南京占領統治上、好ましくない。 死体を見るたびに中国人の日本軍に対する憎しみがかき立てられることは容易に想像される。それに死体は長く放置すれば腐って悪臭を放つし、伝染病のまん延など衛生上も問題がある。そのためか、日本の南京特務機関は新興宗教団体「道院」の社会事業実行団体である紅卍(まんじ)字会をこっそり指導し、遺体の埋葬を進めたようである。その報告書『華中宣撫工作資料』(1938.2)には「紅卍字会屍体埋葬隊(隊員約600名)は一月上旬来、特務機関の指導下に城内外に渉(わた)り連日屍体の埋葬に当り二月末現在に於て約五千に達する屍体を埋葬し著大の成績を挙げつつあり」とあり、意外にも日本軍の特務機関が関与していた。

 虐殺後2,3か月たって急ピッチで遺体の埋葬が行われたようである。しかしながら虐殺は大規模であったために、遺体は3月の段階でもかなり放置されていたようである。その様子は、中国側資料で盛文治という民間人が「南京市自治委員会救済組」にあてた要請書に赤裸々にこう記されている。

 「私はこのたび郊外から(南京)城内にやって来ましたが、3月になるというのに途中の馬家店・大定坊・鉄心橋は左右両側、人の死体と馬の骨が野に遍 (あまね)しという有様でした。ある者は小高いところで仰向けになって目を見開き口を開け、ある者は田 のあぜに伏せて肉と骨をさらしており、屍は鷹や犬の餌になっています。 完全なものは少なく、足や腕がなかったり、頭がとれていたりで、たとえ 五体満足なものでも、黒褐色を呈し腐乱しはじめています。そのうえ悪臭が鼻をついて人をむかつかせ、伝染病を避けるため、現地の人はみな鼻をおさえて歩いています。まだ日差しも弱く高くありませんが、もし炎熱多湿の気候になったらと思うと、想像もできません」。

 日本側の資料も添える。先の特務機関の3月分資料にはこう書かれている。

 「尚、各城外地区に散在せる屍体も尠(すくな)からず、然(しか)して積極的作業に取りかかりたる結果、著大の成績を挙げ3月15日現在を以て既に 城内より1793, 城外より29998計31791体を城外下関地区並(ならび)上 新河地区方面の指定地に収容せり」。

 この資料を補強するかのように大阪朝日新聞の「北支版」(1938.4.16)も紅卍字会の活動を記事にしている。同紙は、紅卍字会と南京市自治委員会、日本山妙法寺の僧侶たちが遺体埋葬した実績をこう記している。

 「最近までに城内で1793体、城外で30311体を片づけた。約11000円の入費となってゐる。苦力(クーリー)も延5,6万人は動いている。しかしなほ城外の山かげなどに相当数残っているので、さらに8千円ほど金を出して真夏に入るまでにはなんとか処置を終はる予定である」。

 紅卍字会の活動以外にも、惨状を見るに見かね、さまざまな団体が遺体の埋葬に当たったようでした。

 最近、こうした研究も進んでいるようで、その成果の一端は南京事件60周年にあたる97年、東京で開かれた シンポジウムの席上、中国江蘇省社会科学院の孫宅巍氏により発表されました。報告によると、遺体の埋葬は下記のようになされました。ただし、この中 には戦死した兵士も含まれるし、遺体収容・処理の重複もあると、孫氏はこと わっている。

国際委員会  30,000体
紅卍字会  43,123体
崇善堂 112,267体
赤十字社 22,683体
同善堂  7,000体
湖南の材木商  28,730体
城南市民 7,000体
南京市第1区役場 1,233体
南京市下関区役場   3,240体  
南京市衛生局 3,000体
安達少佐    100,000体
長江に投棄や江北にて焼却・埋める  南京侵攻部隊 50,000体
合計      408,276体 (ただし、重複あり)       

 こうした研究を総合すると、東中野氏が「五等資料」とさげずむ極東国際軍事裁判(東京裁判)の下記判決文は、その正当性があらためて浮きぼりにされるのではないかと思います。

 「後日の見積もりによれば、日本軍が占領した最初の6週間に、南京とその周辺で殺害された一般人と捕虜の総数は、20万人以上であったことが示され ている。 これらの見積もりが誇張でないことは、埋葬隊とその他の団体が埋葬した 死骸が、15万5千人に及んだ事実によって証明されている。・・・ これらの数字は日本軍によって、死体を焼き捨てられたり、揚子江に投げ込まれたり、または他の方法で処分された人々を計算に入れていないのである」。

 虐殺数20万人が正当かどうかは別にして、大虐殺があったことはあらゆる資料から明らかといえよう。

 南京戦を取材した日本の報道カメラマンが軍部の厳格な検閲制度に従順に したがって、自己規制的に南京事件の場面や現場を撮影しなかったなかで、日本軍の大虐殺の一端をカメラに収めていた一兵士がいた。兵站自動車第17中隊の非公式の写真班を務めていた村瀬守保氏で、彼は 自分の中隊の各将兵の写真を撮り、それを自分で現像、焼付けして各将兵の家族に送らせていた。 戦闘部隊ではなく、輸送部隊であったため、戦火の直後をまわって、比較的自由に撮影でき、かつ軍部の検閲を受けないでネガを保持できる恵まれた立場にいた。 『村瀬守保写真集 一兵士が写した戦場の記録−私の従軍中国戦線』(日本機関紙出版センター、1987年)には、村瀬氏がキャプションをつけた南京での集団虐殺現場の生々しい写真が何枚か収録されている。  

 これらの写真は、集団虐殺の現場から奇跡的に死を免れて逃げ帰った中国人の証言にある、射殺・銃殺、再度生存者を点検して刺殺したあと、最後は薪と石油で焼殺、焼却するという集団大量虐殺の手段が事実であることを証明するものである。その中に「虐殺されたのち薪を積んで、油をかけられて焼かれた死体。ほとんどが平服の民間人でした」というキャプションの写真が三枚ある。(半月城通信)





(私論.私見)