428412−4 「ニセ写真問題」について

 南京事件に付きまとう未解明部分あるいは無用のトラブルは数多くあるが、「ニセ写真問題」もその最たる事案である。事件肯定派がそれまで南京事件の証拠写真として掲載していた写真の多くが(これについて肯定派は多くでは無いと云っているが)ニセ写真であったことが今日判明させられていいる。事件否定派がこの面を鋭く突き、問題にしてきたところである。

 これについてもすっきりせず、岩波新書『南京事件』には明らかな写真の誤用があり、否定派の指摘の正しさが判明させられることになったが、事件肯定派は次のように云う。概要「大虐殺否定派がさかんに批判する南京事件の『ニセ写真』問題がかまびすしいようで、『南京事件(岩波新書)』のように、写真の誤用が一枚でもあると、さもその著書全体がデタラメであるかのようなキャンペーンが雑誌『SAPIO』(「謀略の“南京大虐殺”キャンペーン」1197.7.14号 )などで繰りひろげられているようです」と、「写真の誤用一枚説」で応酬している。

 しかし、事件肯定派のこの見解は正しくないように見える。なぜなら、仮に『南京事件(岩波新書)』では一枚であっても、「ザ・レイプ・オブ・ナンキン」(著者アイリス・チャン)資料は誤報で出来たようなもので、使用されている写真はほとんどがニセ写真」ということを合せ考えると、事件肯定派の抗弁は見苦しいように受け止めざるを得ない。

  誤用事件の当事者であり事件肯定派の論客である笠原氏は、虐殺現場写真が左程残されていない背景について次のように説明している。「南京安全区国際委員たちが南京事件の一端を撮影した写真の多くは、イェール大学神学図書館に所蔵されていて、拙著『南京難民区の百日−虐殺を見た外国人』(岩波書店、1995年)でも何枚か紹介した。ラーベ日記にも国際委員たちが撮影した多くの写真が収録され、中国語版にはそのまま掲載されているが、日本語版『南京の真実』(講談社、1997年) では残念ながら相当枚数省略されている。ラーベがヒトラーに宛てた報告書の附属文書には、安全区国際委員(主にマギー牧師)が撮影した南京事件関係の写真80枚がそれぞれにラーベの丁寧な解説をつけて収録されている。撮影者と出所と撮影現場が特定できる貴重な南京事件写真資料である。  ・・・ 日中戦争において日本軍が引き起こした多くの侵略、残虐事件の中で、これだけフィルムと写真の資料が残されたのは、むしろまれな例であるといえる。それは、量的にも規模的にもはるかに被害が膨大であった『三光作戦』の 現場写真がいかに少ないかを想起すれば、容易に理解できよう。日本軍当局は、侵略、残虐事件の写真、フィルムを厳格周到に取締って撮 影させず、たとえ撮影したものがあれば、兵士個人の日記、郵便物、持ち物まで含めて厳密に検査、検閲したのである。いっぽう、被害者の中国人側には、戦火、戦場において、日本軍の残虐行為を撮影、記録できる条件は皆無に等しかった」。

 笠原氏は、虐殺現場の撮影そのものが陸軍の検閲体制によって不許可にされていた故に証拠写真が少ない、として次のようにも述べている。「軍人がオールマイティであった軍国主義時代、日本人や中国人が皇軍兵士の残虐行為を撮影することなど自殺行為に近かったようです。当時、陸軍は検閲制度をもうけ『新聞掲載事項許否判定要領』で下記に該当する記事や写真は不許可にしました(南京事件調査会編『南京大虐殺否定論13のウソ』(柏書房)1999 )。  ・・・ (12)我軍に不利なる写真、 (13)支那兵または支那人尋問等の記事写真中、虐待の感を与える虞(おそれ)あるもの、 (14)惨虐なる写真、ただし支那兵または支那人の惨虐性に関する記事は差し支えなし。これでは虐殺写真が残るはずがありません。残るのは『我軍に有利』なヤラセ写真になりがちです」。

 ヤラセ写真がどのようにして撮られたかについて、 南京安全区国際委員のマッカラム氏はこう記している。「1938年1月9日−難民キャンプの入口に新聞記者が数名やって来て、 ケーキ、りんごを配り、わずかな硬貨を難民に手渡して、この場面を映画撮影していた。こうしている間にも、かなりの数の兵士が裏の塀をよじ登り、構内に侵入 して10名ほどの婦人を強姦したが、こちらの写真は一枚も撮らなかった(『南京事件資料集1』青木書店、1992)」。 

 笠原氏は、そうした報道管制とならんで言論弾圧も厳しいものがあったとして、作家の石川達三の例を挙げている(笠原十九司「日本軍の中国人20万人大虐殺を否定したがる論者たちへ」『SAPIO』1998.12.23号)。「石川氏は、たそがれ小説『48歳の抵抗』で一躍有名になった作家です。  ・・・  作家の石川達三は、中央公論特派員として占領直後の南京に滞在、兵士からの取材をもとに、南京攻略戦に参加した日本兵たちの捕虜、民間人の殺害、婦女暴行などの行為をリア ルに描いた『生きている兵隊』(『中央公論』1938年3月号)を執筆した。同号は即日販売禁止となり、石川は禁固4か月執行猶予3年の判決を受けた。同氏の編集長も起訴され、退社を余儀なくされた。弾圧に弱い日本のマスメディアにたいしてこの処分が脅しの意味をもち、 日本のマスメディアは南京事件を報道しなくなったのである。

 南京に派遣されていたカメラマンも虐殺現場を目撃しながら、撮影はせず、 報道もしなかった。東京日々新聞(現毎日新聞)の佐藤振壽カメラマンは、南京市内で敗残兵約100人を虐殺している現場を目撃したが、『写真を撮って いたら、恐らくこっちも殺されていたよ』と述べている(『南京戦史資料集 2』偕行社)。南京事件が東京裁判でデッチ上げられたのではない証拠に、石川達三は『裁かれる残虐・南京事件」と題して、自分の見聞した残虐事件を述べ、『「南京の大量殺害というのは実にむごたらしいものだった。私たちの同胞によってこのことが行われたことをよく反省し、その根絶のためにこんどの裁判を 意義あらしめたいと思う』と語っている(「読売新聞」1946年5月9日)。  ・・・ 日本人や中国人にとって、南京にかぎらず虐殺現場の写真を撮ることは至難なことだったようです。そのため残された写真は、日本軍の統制が利きにく い欧米人によるものか、あるいは皇軍兵士が「勇猛果敢」を誇示する目的で撮ったものに限られるようです。皇軍兵士がとった写真は写真屋で現像の際にこっそり残され、それが現在 中国に残っているようです。そうした写真はいきおい撮影場所や時間があいまいにならざるをえません」。

 笠原氏は、こうした事情を踏まえて次のように云う。「アイリス・チャンの本も含めて、世に出ている南京事件大虐殺写真には、 厳密な意味で南京虐殺の現場の写真でないものも多い。ただし、それらの多くは南京事件の最中に撮影されて現場写真と特定できないだけで、首切りの瞬間や、中国人の刺殺場面、強姦被害の女性、中国人の 虐殺死体等々の写真が語る日本軍の残虐行為そのものは事実である場合が多い。 否定派の攻撃する『ニセ写真』とは意味が違う。南京事件とは違う場所と時間の写真を南京大虐殺の写真であると『誤用』したのであり、他の場所で日本軍の行った残虐行為の写真材料としての価値はあるのである」。

 しかし、これはいささか苦しい答弁のように聞こえる。南京事件は、その史的存在そのものが厳しく精査されている事件であり、論争の渦中にある。こうした折に、事件肯定派が、「南京事件とは違う場所と時間の写真を南京大虐殺の写真であると『誤用』したのであり、他の場所で日本軍の行った残虐行為の写真材料としての価値はあるのである」などという言い訳で、『誤用』を正当化できる訳が無い。否、もっとも戒めるべき行為ではなかろうか。正しくは、南京事件の例ではないが他の地域でかような大虐殺写真があり、南京でもこのような犯罪が行われたものとみなされると注釈つけて掲載されるべきであり、こうした注釈抜きに南京大虐殺の現場写真として紹介されるなど有り得てならないことではなかろうか。

 笠原氏は、『誤用』に対して以上のように居直りつつ、「しかし、そうしたメディアが問題にしている『ニセ写真』は、多くは南京事件と特定できないだけで、もちろんヤラセ写真や偽造ではなく、それどころか、それらは日中戦争のひとこまを記録する貴重な資料ではないかと思います」として、写真そのものはニセではないと述べる。「『ニセ写真』とは、被写体が現実とはまったく違い『ヤラセ』、『合成』、『創作』などの詐欺的手段を使って撮影された事実でない写真のことである。 中国側の発行する南京大虐殺写真集に掲載されている南京事件と特定できない日本軍の残虐写真には、日本兵が南京の写真屋に現像・焼き増しを頼んだものが中国人側にわたり、戦後の南京事件法廷で証拠写真として提出されたものもある。 ・・・さらに日本軍将校の中には、中国戦場における武勇談の一つとして、中国人捕虜を日本刀で斬首するところを記念撮影させていた者もいた。日本兵が所持していた日本軍撮影の残虐写真が、さまざまな経緯を経て中国側に残され、戦後の中国において各地の革命博物館や抗日烈士記念館に展示されたり、写真集に収録されたものが多く、それらの写真には場所や時期、撮影者が特定できないものが多い。しかしそれらは『ニセ写真』ではない。間違いなく日本軍の残虐を記録した写真なのである。山東省の革命博物館の写真展示にある、中国人を斬首している将校が誰か、部隊関係者が見てすぐ分かったという話を聞いている。

 小林よしのり氏が『南京大虐殺はニセ写真の宝庫』というのはウソである。『「ニセ写真』ではなく、南京事件そのものと特定できない写真や他の場所の写真が使われているものがある、ということである」。
「やはり多くの写真は本物のようです。しかし、撮影場所と時間がはっきり しないと資料価値が問題になり、博物館などに展示すると思わぬ非難にさらされることになります。 非難する人たちは、多くの写真が真実かもしれないということには意識的に目をつぶり、疑わしい数枚の写真の検証のみに汲々としているようです。そうした木を見て森を見ない流儀で、なかには南京虐殺は『まぼろし』であった と短絡的に結論をだし、中国の憤激を買うありさまです」。

 笠原氏は、こうして写真そのものは本物と述べる一方で、「 そんな輩の雑音を防ぐため、南京の『侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館』では笠原氏たちのアドバイスを受け入れ、出展がはっきりしない写真は差し替えられたようです」とあるからして、問題は深刻に受けているものと拝察される。

 問題は、『ヤラセ』、『合成』、『創作』などの詐欺的手段を使って撮影された事実でない写真ではないと断言されているにも関わらず、『ヤラセ』、『合成』、『創作』によって『ニセ写真』が作られていたとしたらどうなるかという問題がある。事件否定派は、その種の『ニセ写真』も指摘している。これについて、事件肯定派の抗弁はまだ見当たらない。

 「半月城通信」では、歯切れ悪く次のように述べている。「やはり多くの写真は本物のようです。しかし、撮影場所と時間がはっきり しないと資料価値が問題になり、博物館などに展示すると思わぬ非難にさらされることになります。非難する人たちは、多くの写真が真実かもしれないということには意識的に目をつぶり、疑わしい数枚の写真の検証のみに汲々としているようです。そうした木を見て森を見ない流儀で、なかには南京虐殺は『まぼろし』であったと短絡的に結論をだし、中国の憤激を買うありさまです」。

 そうした事件肯定派が近年色めきたったのは、アイリス・チャンにより発見された「ラーベの日記」である。概要「調査が進むにつれ新たな写真や資料が発見される可能性はまだまだあります。つい3,4年前にラーベの日記がアイリス・チャンにより発見されたのは記憶に新しいところですが、先日も南京関係の写真が中国・長春市で発見されたとの報道があったくらいでした。今後もこうした発掘が続くことでしょう 」と述べている。

 中国・長春市で発見された南京大虐殺の新資料とは、(ホームページ「中国情報局」http://searchina.ne.jpより引用) 「新華社長春は、日本の右翼勢力が大阪の南京大虐を否定し、やかましく騒ぎ たてる中、長春日刊新聞は南京大虐殺の現場を記録する8枚の写真を掲載し、 歴史のために証言したと報道した。  《近代の百年の史》の画報が吉林長春市で偶然発見され、画集の上で当時の 日本の従軍記者が南京大虐殺の現場を撮影し、掲載した物が如実に当時の状況 を物語っていた。“南京が大いに虐殺する”を標題に掲載された8枚の写真は、中国の平民が 自動車で刑場に送られる様子を撮影したもの、死体の血をすする猫を撮影したものなど思わず目を背けたくなるような写真ばかりであったようだ」とある記事のこと。

 問題は、この「ラーベの日記」にも数々の記述間違いが指摘されていることにある(「日本語訳出版はなぜ挫折したのか(藤岡信勝)」による)。となると、南京事件は「ますます混迷に拍車がかけられている」とみなす方が、正確な認識なのではなかろうかということになる。



 こうした中で、説得性があるのは次の下りである。「半月城通信」は次のような記事を載せている。「井上久士氏は虐殺を撮影した日本軍兵士についてこう記しました。南京戦を取材した日本の報道カメラマンが軍部の厳格な検閲制度に従順に したがって、自己規制的に南京事件の場面や現場を撮影しなかったなかで、日本軍の大虐殺の一端をカメラに収めていた一兵士がいた。兵站自動車第17中隊の非公式の写真班を務めていた村瀬守保氏で、彼は 自分の中隊の各将兵の写真を撮り、それを自分で現像、焼付けして各将兵の家族に送らせていた。戦闘部隊ではなく、輸送部隊であったため、戦火の直後をまわって、比較的自由に撮影でき、かつ軍部の検閲を受けないでネガを保持できる恵まれた立場にいた。『村瀬守保写真集 一兵士が写した戦場の記録−私の従軍中国戦線』(日本機関紙出版センター、1987年)には、村瀬氏がキャプションをつけた南京での集団虐殺現場の生々しい写真が何枚か収録されている。これらの写真は、集団虐殺の現場から奇跡的に死を免れて逃げ帰った中国人の証言にある、射殺・銃殺、再度生存者を点検して刺殺したあと、最後は薪と石油で焼殺、焼却するという集団大量虐殺の手段が事実であることを証明するものである。その中に『虐殺されたのち薪を積んで、油をかけられて焼かれた死体。ほ とんどが平服の民間人でした』というキャプションの写真が三枚ある。冒頭に引用した小林よしのり『戦争論』で、厳密な資料批判に耐え、これ が日本軍による民間人大量虐殺の証拠といえる写真はまだ一枚も出てきていない』と、氏としては珍しく逃げ道を用意した慎重な言い方をしているが、それもウソであることを村瀬氏の写真は証明している」。

 「対抗言論」の「南京虐殺資料」の村瀬守保氏の写真と記録でも次のように紹介されている。目黒輜重連隊兵站自動車第17中隊で非公式の写真班を務めていた村瀬守保氏は、補給部隊として進行する南京攻略戦の後を辿りながら、貴重な戦場の記録写真を多数撮影し、自ら現像した写真を持ちかえっている。その中には、揚子江岸下関における大虐殺を証明する、殺され、焼かれた死体が累々と堆積する現場を撮影した決定的な証拠写真4枚も含まれている。以下、『村瀬守保写真集 私の従軍中国戦線』(日本機関紙出版センター 1987年)からその一部を引用するとして、上海から南京へ向かう道中で村瀬氏が見聞した出来事と写真の解説をしている。以下、これを参照する。

(写真キャプション) 不敵な面魂の若者が、便衣隊のスパイだ、と捕らえられ憲兵隊に送られました。おそらくこの若者が生きてかえることは、なかったでありましょう。
(写真キャプション) ある部落で昼食の大休止の時、逃げ遅れた老人と子供が、恐怖におののきながら部屋の奥に身をかくしているのが、見つかりました。子供にキャラメルをやろうとしましたが、手を出そうともしません。涙ながらに語る老婆の訴えをきくと、八十にもなる老婆がつかまって、二人の日本兵に犯され、けがをしたというのです。言うべき言葉もありませんでした。
南京制圧途次 第一線に近づくにつれて、部落を通過するたびに、虐殺死体が目立ち始めました。部隊は夜おそくまで行進をつづけ、適当な部落で大休止です。車両は街道においたまま車両衛兵をたてて、警戒しています。私達はくずれかけている民家を探して、班ごとに分宿です。土間にひくアンペラ(竹で編んだゴザ)を探して、穴蔵のようになっている奥の部屋に踏み込むと、下半身裸の婦人が、下腹部を切り裂かれて、死んでいます。 少し奥には、五〜六歳の子供が、うつぶせに死んでいました。 プーンと、血生臭いにおいが、立ちこめています。翌朝、出発前に点検すると、奥の部屋にもう二人、老人が殺されていました。このような虐殺死体は、随所に見られました。婦人に暴行を加えて虐殺し、女性の性器に棒を差し込んでおくような、残虐な事例も何回か目にしました。

 南京の攻略が大幅に遅れたので、第一線部隊の兵隊は、厳しい命令を受けて、目が血走っていました。小休止で一緒に休んだ時の話をきくと、「南京一番乗りは師団の至上命令だ。
南京へいけば、女はいくらでもいるし、酒もある。速くいったものは、やりたいほうだい、なんでもやれるぞ」と上官からハッパをかけられているのです。戦国時代の将軍が、敵の都市を攻略するときに、部下の将兵に、獲物を与えたと同じやり方が、南京攻撃にも使われていたのです。
南京制圧後の様子 十二月十日午後五時、脇坂部隊がようやく光華門の城壁に、日章旗を翻し、続いて十三日夕刻には、十六師団が中山門を占領し、完全に南京を制圧しました。 私達輸送部隊はなぜか、二週間ばかり、城内に入ることを許されず、城外に足止めされていました。どこからともなく城内で大虐殺が行われている、という噂が流れてきました。捕虜を南京の背後ある、紫金山のふもとへかりたて、機関銃を打ちまくって数千いや、数万人も殺りくしたというのです。

 とあるものの、南京大虐殺で死体が山積みされたり、数珠繋ぎで折り重なっている現場写真の紹介は為されていないのが惜しまれる。次の章(17)大虐殺のうわさが---とあるが、そこにはそうした写真とその解説がなされているのだろうか。それならズバリその部分をなぜ紹介しないのだろう、ややこしい限りである。



【「夏服」写真問題について】
>私としては、「写真が夏服だから偽造である」というつつましい根拠そのものがおかしいと思います。なぜならば「夏服が偽造とは限らない」だからです。「写真が夏にとられた」なら偽造ですが・・・。

 せっかくだからレスするね。「写真が夏服だから偽造である」などとすりかえている方は例の御仁で、椿氏は「あの写真」が本当に南京大虐殺事件を語る写真なのかと言っていると理解するのが真っ直ぐ読む人ね。Kuuさんも感染してるみたいやね。「写真が夏服だから偽造である」などと云うのは根拠の一つであって、それを否定したからと言っても、「あの写真」が本当に南京大虐殺事件を語る写真なのかという問いは引き続き残ると解するのを相当とするのではないかな。忍法目くらましそこまでと裁定申す。


プロパガンダ写真研究室


「南京大虐殺」流布写真143枚、証拠として通用せず 東中野・亜大教授検証【SankeiWeb】
 http://www.asyura2.com/0502/war66/msg/947.html
 投稿者 JFK 日時 2005 年 2 月 01 日 16:48:50: JXb2byltvnP6A

→ 著者のプロフィール

  ○東中野修道(ひがしなかの・しゅうどう)
   1947年生まれ。鹿児島大学法文学部卒、大阪大学大学院博士課程修了。ハンブルグ大学客員研究員等を経て、現在、亜細亜大学教授。
   日本「南京」学会会長。主な著書に『東ドイツ社会主義体制の研究』 『「南京虐殺」の徹底検証』など(アマゾンHPから)

  「証拠として通用するものは一枚もなかった(東中野教授)」マジですか!?
  本の現物はこれ↓。
  
 <http://images-jp.amazon.com/images/P/4794213816.09.LZZZZZZZ.jpg>

「南京大虐殺」流布写真143枚、証拠として通用せず 東中野・亜大教授検証【SankeiWeb】

 <http://www.sankei.co.jp/news/morning/01na1003.htm>

 明らかな合成/日本兵と違う軍服

 「南京大虐殺」の証拠として流布する写真の検証作業を続けていた東中野修道・亜細亜大学教授は三十一日、都内で会見し、証拠写真として入手しうる百四十三枚のうち、証拠として通用するものは一枚もなかったとする検証結果を発表した。

 東中野教授は「大虐殺」に触れた著作物を可能な限り収集、そこに掲載されていた約三万五千点の写真の中から「大虐殺」の証拠とされるものを抽出して検証した。「虐殺の有無を検証しようとしたのではなく、虐殺の証拠に使われている写真が、証拠として通用するものかどうかを検証した。そこを理解してほしい」と東中野教授。

 検証の結果、今日流布する証拠写真の多くは、昭和十二年十二月の南京攻略戦から七カ月後に出版された「日寇暴行実録」(国民政府軍事委員会政治部編)と「外人目撃中の日軍暴行」(ティンパーリー編)の二冊を源流としていたことが明らかになった。

 この二冊に掲載された七十枚は、いつ、どこで、だれが撮ったものか不明なものが大半であり、細部を詰めてゆくと、明らかに合成と分かるもの▽軍服が日本兵のものでないもの▽初夏に撮られたとみられるもの−が多数あった。さらには、日本の写真雑誌に掲載された写真のキャプションを改竄(かいざん)して掲載した例も。

 東中野教授によれば、こうした写真が「大虐殺」の証拠として検証されることなく次々に使用されていったという。典型的な例は、昭和十二年十二月五日発行の「朝日版支那事変画報」の裏表紙に掲載された、代価を払って鶏を買った兵士の写真。「日本軍の行くところ略奪されて鶏も犬もいなくなった」とキャプションを改竄されて「日寇暴行実録」に掲載され、さらに朝日新聞記者だった本多勝一氏の著作に「ヤギや鶏などの家畜は、すべて戦利品として略奪された」という説明をつけて掲載された。

 「源流の二冊は、反日プロパガンダとして作成されたもの。そこに掲載された写真を検証なしで流布したマスコミの責任は極めて重い」と東中野教授は話している。

 検証をまとめた「南京事件『証拠写真』を検証する」は、草思社から二月三日に刊行される。

               ◇

 「南京大虐殺」 昭和12年12月に南京を占領した日本軍が起こしたとされる虐殺・略奪事件。中国側は犠牲者を30万−40万人と主張するが、日本側には虐殺はなかったという意見もある。その真相をめぐって現在も論争が続く。





(私論.私見)