ホロコースト史実検証

 (最新見直し2006.3.23日)


 歴史は実証主義をベースにしなければ黒が白と言い含められたり、詐術を許すことになる。ホロコースト検証には明らかにこの精神が欠けている。「5W2H」は思考の基本中の基本であるからして、当然ホロコーストにも適用されるべきであろう。シオニズムが世界を席巻しつつある時代に於いて、明らかにシオニズムに利する結論を論証も為しに押し付けられて受け入れ、その尻馬に乗って正義ぶった論を吹聴することは危険このかたない。そういう意味で、誰しも共有できる史実確認に向かうべきだと考える。

 2004年現在でも、巷間伝えられているホロコーストの伝聞を史実として確認することが民主主義と左派精神の証の如く位置づけられており、これに疑問を投げかける者には容赦ない罵声が浴びせかけられている。さほど知識を持たない者までが安易に付和雷同して、罵詈雑言の列に連なっている。

 しかしれんだいこは指摘しておこう。いわゆるホロコースト論は、第二次世界大戦を「民主主義対ファシズムの闘い」として描くシオニズム的国際主義プロパガンダの延長のものであり、イスラエル建国を正当化させるの都合上悲劇の民性をプロパガンダされたものであり、吟味されたものではない。ここで云う民主主義と本来の左派精神とは基本的に関係なく、ホロコースト論が親シオニズムか反シオニズムかのリトマス試験紙として使われているに過ぎない。

 それをどう勘違いしてか、あたかも民主主義と左派精神の橋頭堡として「ホロコースト神話の堅塁を守り抜くことこそが民主主義者にして左派精神の証」であるかのように擬態されている。これと同じ姿勢で南京大虐殺事件が指弾され、靖国神社が弾劾されている。2006年現在、この観点が新旧左翼に共通している。

 れんだいこは、この仕掛けをいったんぶち壊そうと思う。依拠すべきは史実であり、そこから汲み上げられ積み上げられた論拠によって民主主義と左派精神を証しようと思うから。リアリズムこそ基礎にすえるものであり、虚構に立った正義論は我々が選ぶ道ではない。そういう正義論は却って邪道であると確信するから。


 我々は、史実をもっとリアルにリアルに徹底解明されねばならない。その上で、判明する限りの史実に則り、事件を告発し続け、歴史責任として受け止めていくべきではなかろうか。現状は情緒的扇動が強すぎて、れんだいこは唱和の列に連なることができない。

 2006.3.23日、再編集するに当りどっちつかずのスタンスを転換させ、「ホロコーストのウソ」を暴く視点から説くことにした。


 2004.8.7日、2006.3.23日再編集 れんだいこ拝


【「ガス室論」】

【「アウシュビッツ強制収容所展示館・国立オシフィエンチム博物館」】
 ア ウ シ ュ ヴ ィ ッ ツ 1 」、「アウシュビッツ強制収容所」その他を参照する。

 ポーランドの強制収容所跡が保存されており、現在「アウシュビッツ強制収容所展示館」となっている。収容所は二重に張り巡らされた高圧線の有刺鉄線フェンスに囲まれ、囚人を監視する為に一定の間隔で監視塔が設置され、赤レンガで築かれた28の収容棟がある。鉄道で運ばれてくる収容者を降ろした停車場から門に向うと、「働けば自由になる」という文字が掲げられている。解放から60年をへた今も当時のままに保存されている施設は、来訪者をうちのめす。

 展示館には、ナチスの犯行を象徴する「めがね」、「靴」、「髪の毛」、「入れ歯」、「歯ブラシ」、「義手、義足」、「洋服」等々の遺品がガラスケースの中に収納されている。何万人もの収容者の本物の髪の毛が積み上げられ、その髪の毛で織ったじゅうたんや生地も展示されている。

 ガス室と焼却炉も保存されており、ガス室で死のシャワーを浴びせられた囚人は隣の焼却炉で焼かれた。3台の焼却炉で一日350人が焼かれたという記録が残されている、と云う。

 これを見れば。「ナチス・ドイツは廃物利用可能なありとあらゆるものを収容者から奪い、丸裸にしてガス室へ送り込んだ」様子がリアルに伝わってくる。「遺品の山は、人が人に、どこまで残虐になれるのか」を黙示している、と云う。
(私論.私見) 「アウシュビッツ強制収容所展示館の処刑システム」について

 れんだいこが疑問なことは、「アウシュビッツ強制収容所展示館」において、政治が人に為した残酷さを二度と繰り返してはならないと呼びかけているユダヤの人々が、何ゆえに2005年現在でもアラブの民に同様のあるいはそれ以上とも思える強権政治ー軍事を強制しているのかである。今現在進行中の「グァンタナモ刑務所、アブグレイブ刑務所、ファルージャでの蛮行」を見よ。

 これらの惨劇はたまたまの間違いなのか。種々考えると、「アウシュビッツ強制収容所展示館プロパガンダ」そのものにウソがあるのではなかろうか。史上、最も残忍なテロルと虐待を弄び、それをも科学し続けてきたのはサタン論理に染まった歴史的ユダヤの原理派側なのではなかろうか。こういうことを考えるのが思想というものだろう。

 「アウシュビッツ強制収容所展示館」の語り部が、イスラエルのパレスチナでの悪業について、ネオコンのアフガン、イラクでの悪業について黙するとしたら、現実にそうなっている場合が多いのだが、何やら底が浅く見えてきて仕方ない。こう考えるのはれんだいこ一人であろうか。

 それと、だいたいアウシュビッツ強制収容所のガス室と焼却炉の処刑システムが出来過ぎではなかろうか。今日でさえ死体焼却は汚臭を放つ。当時の囚人はその汚臭の中でシャワーを浴びせられるガス室に従順に向ったということになるが、ユダヤ人の知性はそれほど愚昧な訳が無かろう。云えば云うほど語るに落ちる話ではないか。これについてホロコースト論者の説明を求めたい。

 一体、一日何人の死体焼却されたのかについても諸説有り過ぎで、「3台の焼却炉で一日350人が焼かれた」から「2千の死体が12時間かかって5つのかまどで焼却された」まで幅広い。現物の「アウシュビッツ強制収容所展示館」があって何故に諸説分かれるのであろうか。責任ある検証が為されていないということを示しているのではなかろうか。

 2005.1.30日、2006.3.23日再編集 れんだいこ拝

【「ユダヤ人被虐殺者による人間石鹸譚考」】

 長い間、「ユダヤ人被虐殺者による人間石鹸譚」がまことしやかに流布されてきている。マーク・ウィーバー は、著書「ユダヤ石鹸」(アドレス:ttp://www.nsjap.com/v_b/06.html)の中で次のように記している。これによると、「ユダヤ人被虐殺者による人間石鹸譚」がウソであるということになる。

 近代ユダヤ史を研究しているデボラ・リプシュタット教授も1981年、同じように歴史の「書き換え」に同意している。彼女は書いている、「実はナチスは決して、石鹸製造、その他の目的でユダヤ人の身体を利用することはありませんでした」。 イスラエル・ヘブライ大学のイェフーダ・バウアー教授は、ヤド・ヴァシェム・ホロコースト記念館の館長シュムエル・クラコウスキーと同じく、第一線のホロコースト歴史家と見做されている。このバウアー教授も1990年4月、人間石鹸物語は真実ではないことを認めた。「囚人はドイツ人について、どんな恐ろしい物語でも信じ込んでしまう状況だった」と彼は記している、しかし彼は厚かましくも、その後で噂の責任をナチスに押し付けている。
(私論.私見) 「人間石鹸譚」について

 こうなると、「人間石鹸譚」もうそ臭いという事になる。

 2006.3.23日 れんだいこ拝

【通説「アウシュビッツ論」について】
 ア ウ シ ュ ヴ ィ ッ ツ 1、「ヒトラーの対米宣戦とホロコーストその他を参照する。それによると、「通説アウシュビッツの大虐殺」は次のような手順で遂行されたようである。
 1939年、ポーランドを占領したドイツは、クラクフに作戦司令部を置いた。クラクフは、国内の鉄道の分岐点として、また、全ヨーロッパの鉄道の拠点として、地の利を得ている。これに目をつけたナチスは、1940年、クラクフから50数キロメートル離れたポーランドとチェコの国境に近いオシフィエンチム村(ポーランド地名)に、強制収容所を建設した。ここには元々ポーランドの監獄があり、戦争前にはポーランド軍の基地であったので広大な跡地が使え、収容所の増設や隔離に好都合だった。また、人口密集地から遠く離れているので、強制収容所の情報が、外部に漏れる心配がなかった。

 アウシュヴィッツ強制収容所は、初めはポーランド人の政治犯を収容する目的だったが、次第に、ユダヤ人やロマ人などの劣等民族の絶滅作戦を展開する場所となり、また、ソ連の共産主義者、占領下の国々の反ナチス活動家、同性愛者、etcを捕らえ、収容する場所となって、拡張されていった。

 1942年、アウシュヴィッツが手狭になって、3キロメートル離れたビルケナウ(ポーランド名はブジェジンカ)村に、アウシュヴィッツ第2収容所として、それまでの10倍の規模の強制収容所を建設した。こうして、アウシュヴィッツは、集団虐殺を工業化!するシステムを持つ場所となった。ドイツの敗北が色濃くなった1945.1月、強制収容所を破壊する暇もなく、ドイツ軍は撤退したので、その姿が白日の下に暴かれ、ナチスの罪状をあるがままに、世界に知らせることになった。現在、「アウシュヴィッツ強制収容所」は「国立オシフィエンチム博物館」となってユダヤ人虐殺を物語る歴史的記念館として保存されている。


 ユダヤ人の大虐殺は如何なる手順で実行されたのか、これを見ておく。ユダヤ人はゲットーからの立ち退きを迫られ、集団で家畜用の貨物列車に乗せられて各地の強制収容所に送られた。輸送を担当したのはドイツ国有鉄道で、乗車運賃も決まっており一人あたり4kmで4ペニヒだった。

 収容所入り口のゲートには、「ARBEIT MACHT FREI 働けば自由になる」と標語されていた。このゲートをくぐった人は凡そ150万人とも、200万人ともいわれ、ビルケナウを加えると400万人になるという。そのうち、生きてこの場所から自由になったのは、ビルケナウと合わせて、数千人だったとか。ゲートを入った70〜80%人は、働く前に死へ直行した。こうしてアウシュヴィッツに到着した日が人生の終わりになった人は、1日7千人〜1万人にも上ったという。

  「トランクなどのわずかな荷物を抱えてユダヤ人が送られてくる。持った人々は、ホームに立つSS(ナチスの親衛)隊員と医者の判断で、健康な働ける人は「左」へ、老人・妊婦・子ども・乳飲み子を抱える女性は「右」へ、次々に振り分けられ選別された。選別を担当した医師の一人メンゲレ博士の選別の仕方は、オーケストラを指揮する指揮者のようだったと云われている。

 右へ向かったグループは虐殺コースに入る。「長い旅でたいへんでしたね。シャワーを浴びて、さっぱりしましょう」と促され、「浴場」ないしは「シャワー室」の掲示のある場所に向かい、裸にさせられた。「シャワーを浴びる間、荷物は預かってあげましょう」、「長旅でお疲れでしょうからお子さんを保育園にお預けなさい」と親切に!言われ、1度に250人が入る大浴場へ導かれた。扉の錠がかけられると、5度Cで気化するチクロンBが、天井の穴から注ぎ込まれ、15分後には窒息して死亡した。毒ガスによる殺害は、最初のうち車の排気ガスを使用して行われたが、後に殺虫剤として使われていたチクロンBが、最も効力を持っているとして使われ始めたという。

 30分後には死体が運び出され、次のシャワーを浴びる人が入ってくるという流れ作業が続いた。死者からは、金歯を抜き、髪の毛を切り、指輪や耳飾りを剥ぎ取る作業が、同じ収容者たちによっておこなわれたという。預けられた子供達の多くは人体実験の被害者となっていったともいう。

 一方、左に振り分けられた人は労働コースに入る。「囚人番号のついた囚人服に着替えさせられた。後には、アウシュヴィッツだけだったが、囚人番号は腕の入れ墨になっていく。囚人服には、政治犯には赤、凶悪犯罪者は緑、男色家はピンク、淫売婦は黒、聖職者は紫、ユダヤ人は、ダビデの星(後には、3角の上に黄色の筋をつけたもの)、ポーランド人はP、ロシア人はRの印をつけて、区別された。

 なお、このようにナチスは組織的にユダヤ人殺戮を行いましたが、個人的な犯罪に対しては厳格であった。ブーフェンバルト強制収容所司令官だったカール・コッホは、個人的にユダヤ人を殺害した罪で絞首刑に処せられている。
(私論.私見) 「ホロコースト通説」について

 「ホロコースト通説」は、凡そ以上の物語となるが、既に述べたように毎日毎日死体が焼かれ続けている状況下では有り得ないことと受け取るのが常識ではなかろうか。れんだいこは、「作られたウソ」とみなしたい。

 2006.3.23日 れんだいこ拝

【通説「ガス室存在裏づけ文書」について】
 ダッハウのガス室について、その存在を裏付ける文書証拠も発見されている。ダッハウで被拘禁者を材料に行われた人体実験の責任者として知られる Sigmund Rascher博士が、1942.8.9日にヒムラーに宛てて送った手紙。
 「ご存知のとおり、リンツにあるものと同種の施設がダッハウにも建設されます。『不適切な移送』がいずれにせよ特別室内で終わりとなる以上、私としましては、これらの人間を用いて我々の各種軍用ガス(Kampfgase)のテストができないものかと考えております。これまでのところ、我々の手元には動物実験およびガスの製造過程における事故死の報告しかございません。本項ゆえに、この手紙は『秘』と致します」。
 これに対して、ガス室自体が存在しなかったという「ガス室作り話説」がある。それによると、600万どころか100万人ですら処理できる設備など、すべての収容所のどこを探してもなかった、と云う。「死体の焼却炉」についても、ガス室で殺したユダヤ人を大量に処分できるようなものではなかった 。大量虐殺が事実であると印象付けるために、焼却炉をことさら強調して幻惑しているに過ぎない、と云う。

 
収容所で死んだ人は、蔓延した伝染病が原因の疫病死だった。アンネ・フランクも、発疹チフスで死んだと云う。
 「アウシュヴィッツの争点その42、アンネ・フランクがもっとも有名な「発疹チフス」患者」http://www.jca.apc.org/~altmedka/aus-42.html。「アンネが死んだ三月、チフス感染で1万8千人が死んだ。死者は合計5万人、解放時の生存者は6万人だった」。

【「アウシュビッツ強制収容所での体験証言による処刑システム通説」】

ヴィクトール,E,フランクル著/霜山徳爾/訳『夜と霧』−ドイツ強制収容所の体験記録(みすず書房、1961年初版に、ホロコースト現場の生々しい様子が次のように記述されている。ちなみに、著者のフランクル(1905〜97)はユダヤ人の精神医ということである。

 「衣類を脱がされた囚人たちは、警備の指図で1回に250人くらいずつ部屋に連れ込まれた。扉に錠が下ろされ、それから1〜2缶のチクロンBが壁の隙間から注ぎこまれた。チクロンBガスはこのような目的のために用いられるものであり、青酸の天然の化合物を含んでいるものなのだ。犠牲者を殺すに要する時間は天候によって異なるが、10分以上かかることは稀であった。

30分後に扉が開かれ、死体はここで囚人の指揮者の手で除去され、穴の中で焼かれた。焼却の前に死体から金歯と指輪が奪取された。焼く時には、薪を死体の間に積み重ね、およそ100ぐらいが穴の中に入れられたところで、パラフィンをしみこませたぼろ布で火がつけられた。穴の底にたまった脂肪は集めて置いて、雨が降った際に火が消えないようにするためにバケツでかけるのに用いられた。このような状態で穴一杯の死体を焼くには6〜7時間かかったがこの人間の体の焼ける臭いは、風の吹かぬ時ですら収容所に充満したのであった。

新しい改良されたガス室では、ガスが送りこまれてから30分たつと電気調整機が活動し始め、死体は昇降機によって焼却炉へと持ち上げられた。そしておよそ2千の死体が12時間かかって5つのかまどで焼却されたのである。

衣類や所持品はことごとく、よりわけられて貯蔵された。貴重品は毎月ベルリンの国立銀行に送られ、衣類はクリ−ニングをした後で、軍需会社に送られて奴隷労働者用に用いられた。また、歯から取った金は溶かされ、月に1度武装親衛隊の医療部へと送られた。かくしてアウシュビッツは『死の収容所』なる名前を得たのである」。

(私論.私見) 「アウシュビッツ強制収容所での体験証言による処刑システム通説」について

 これが通説である。まずここを踏まえねばならない。これによると、強制収用所に移送されたユダヤ人は次のような手順で殺され死体処理された。

 衣類を脱がされる。アウシュヴィッツ到着」の直後に消毒浴場にむかい、親衛隊員から『二分間でお前達は全部衣類を脱がなければならん』と命令された」。概要「他の部屋で毛をそられた。頭髪ばかりでなく、身体中残らず毛をそられてしまった」。
 250人くらいずつ部屋に連れ込まれる。概要それからシャワー室に追いこまれた。われわれは整列した。シャワーの漏斗から実際に水が滴り落ちてくるのを認めて喜んだ。もう一度言うが、シャワーの漏斗から実際に水が出てきた」。
 チクロンBが壁の隙間から注ぎこまれる。
 10分内外で集団殺戮された。
 30分後に扉が開かれる。
 焼却の前に死体から金歯と指輪が奪取された。
 およそ100ぐらいが穴の中に入れられ焼かれた。
 穴一杯の死体を焼くには6〜7時間かかった。
 人間の体の焼ける臭いは、風の吹かぬ時ですら収容所に充満した。
10  衣類や所持品はことごとく、よりわけられて貯蔵された。
11  貴重品は毎月ベルリンの国立銀行に送られた。
12  衣類はクリ−ニングをした後で、軍需会社に送られて奴隷労働者用に用いられた。
13  歯から取った金は溶かされ、月に1度武装親衛隊の医療部へと送られた。
14  改良されたガス室では、ガス殺戮後30分で自動的に昇降機によって焼却炉へと持ち上げられ、およそ2千の死体が12時間かかって5つのかまどで焼却された。
 
 問題は、当時のドイツ軍及びナチスは、移送されたきたユダヤ人の名簿を作成することなく、このような方法で殺戮し、死体を焼却処理し、財物、衣類を強奪していたのだろうか、ということになる。それはあまりに野蛮に過ぎる。焼殺時の臭いは近所を悩まさなかったのか、この点についても証言を得たいと思う。

【「木村愛二氏のアウシュビッツ強制収容所での体験証言批判」考】
 「アウシュヴィッツの争点」(1995年)の著者、「偽イスラエル政治神話」の訳者でもある木村愛二氏は、「V.E.フランクル/著/霜山徳爾/訳『夜と霧』−ドイツ強制収容所の体験記録に対して、「アウシュヴィッツの争点、第6章:減少する一方のガス室」の中で種々疑問を提起している。れんだいこの理解の及ぶところ次のような話になる。

 木村氏は、「ガス室」の存在について疑義を呈している。アウシュヴィッツなどのナチスの捕虜収容所でも大流行した発疹チフス対策として設置された「消毒室」を「ガス室」として喧伝していった経過があるのではないかという。ユダヤ人を大量に強制移送したドイツ軍は、かれらを収容所にいれる前に、それまで着ていた衣服を全部ぬがせ、シラミの卵がうえつけられている可能性のたかい髪を刈り、シャワーを浴びさせた。衣服は別室にまとめ、殺虫剤チクロンBで薫蒸することよってシラミを駆除した。チクロンBと薫蒸室には、毒物の危険を知らせるために、どくろマークがつけられた、という。従って、概要「ガス室殺人は存在せず、それは発疹チフス対策としての消毒であった」と主張している。これは卓見かも知れない。 

 木村氏は、「衣服や髪の毛の山」とか、「どくろマーク」つきの「チクロンB」とか、おなじく「どくろマーク」つきの部屋とかが、そのまま強制収容所にのこされていた謎を解明する。それらの遺留品や設備はこれまですべて「ホロコースト」の物的証拠だと主張され、世界中の「ホロコースト記念展」などで写真や実物の展示までされてきたが、本当にそれだけの凶悪な犯罪の物的証拠ならば、なぜドイツ軍は、日本軍の七三一細菌部隊がそうしたように、撤退にさいしてそれらを破壊または焼却しようとしなかったのだろうか。この破壊作業は、要塞なみに頑丈につくられた鉄筋コンクリートの建物を相手にした七三一部隊の場合よりも、はるかに容易だったはずである、と疑問を投げかけている。これも卓見かも知れない。

 木村氏は、仮に「ガス室」だったとしても、「ロイヒター報告」の「最大に見積もっても10万人そこそこを殺すのがやっとだろう」との見解を支持している。ニュルンベルグ裁判の証拠「L・022」で主張された2年間で「176万5000人」の10分1にもならない、と云う。これも卓見のような気がする。

 木村氏は、以上を踏まえて次のように述べている。
 「ホロコーストの証拠として、大々的に利用されてきた『夜と霧』は、全く逆に、『ガス室』の偽装と主張されるシャワールームで、『湯を浴びた収容者の証言』になるのである」
 「このような状況から、ホロコーストを大嘘と主張する歴史見直し論者(リヴィジョニスト)は、『ホロコースト生存者はホロコーストの嘘の生き証人』だと主張し続けているのである、ということになる」。

 まことに面白い指摘といっては語弊があるが、卓見ではなかろうか。

 2006.3.23日 れんだいこ拝

【「バルセロナより愛を込めて氏の毒ガス伝説批判」考】
 バルセロナより愛を込めて氏は、「阿修羅ホロコースト2」で、2006.3.4日付投稿「アウシュビッツ・ガス室伝説の化学的および毒物学的不可能性(Rense.com)」で次のように述べている。これを転載する。

  3月3日付のRense.comの記事です。これは非常に長い文章ですので、記事のUrlと共に、一部を抜粋して貼り付けておきますので、文章全体は各自ご覧ください。

 これは、実際に近年に起こった青酸ガスによる事故の例を挙げて、アウシュビッツの「ガス室」で青酸ガス(hydrogen cyanide:シアン化水素)を用いた大量殺人が化学的・毒物学的に見て不可能であることを論証した文章です。

 特に最近の悲惨な例としては1995年にフランスのMonterolierという町で起こったものがあります。3名の子供が洞窟の中で、第1次世界大戦の際の不発毒ガス弾を知らずに火の中に放り込み、それが爆発して青酸ガスが噴出しました。そしてそれは子供たちと同じく、ガスマスクを着用した4名の消防士を死亡させました。青酸ガスは消防士の汗に溶けて皮膚から体の中に浸透し、彼らに致死的な中毒症状を引き起こしたのです。

 さらにアイオワ州で青酸カリ自殺をした学生の話が注目されます。彼を病院に運んだ際にそれに携わった9名の人の全員が、彼の体から発する青酸ガスのために気分が悪くなってしまいました。青酸カリが彼の体の水分と反応して青酸ガスが発生していたのです。彼が住んでいた部屋と運ばれた病院は、空気の入れ替えをしなければなりませんでした。

 ところで「ガス室の目撃者」であるDavid Olereの話によると、ナチの作業員たちはロクな換気設備も付いていないガス室のドアを開けて、多数の死体を引きずり出しす作業をしていたのですが、防毒マスクを付けていないことは愚か、防御服もゴム手袋も無し、シャツを着ていない者すらいた、ということです。ガス室の中に入って死者の髪の毛を刈り集める作業をしていた収容者たちも同様であった、という話になっています。

 同様の「証言」が、ルドルフ・ホェスの『アウシュヴィッツの司令官』の中でなされています。下記をご参照ください。

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 http://www.jca.apc.org/~altmedka/nise-20.html
 緊急Web無料公開『偽イスラエル政治神話』(その20)2章:20世紀の諸神話(その8)2節:ニュルンベルグの正義の神話(その5)(c)凶器・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 犠牲者の遺体が全ての青酸ガスをことごとく吸収して、「ガス室」の空気に全くガスが無い状態になっていた、というのなら、まさにWTC「パンケーキ崩壊論」同様の似非科学・オカルトのトンデモ話でしょう。

 以下、本文抜粋、貼り付け。
 http://www.rense.com/general69/gasccm.htm

 The Chemical & Toxicological Impossibility Of The Auschwitz Gas Chamber Legend

 Commentary By Paul Grubach 3-3-6

【前略】

 Finally, he claims that David Olere, a French-Jewish deportee to Auschwitz in 1943, is one of the most important eyewitnesses to the operation of the gas chambers. In his own words, the sketches of Olere "provide a very important visual record of the design and operation of the gas chamber and incinerators of Crematorium 3"7 Indeed, throughout his entire study he attempts to demonstrate that Olere is a credible eyewitness by showing how his sketches are consistent with physical evidence.

 Jean-Claude Pressac also claimed that the drawings of Olere that will be examined in this article are an important visual record of the operation of the homicidal gas chambers.8 And last but not least, Deborah Lipstadt attempts to convince her readership that Olere is a credible eyewitness by showing how his claims are consistent with the physical evidence. In this regard, she refers to the "drawings by Sonderkommando David Olere, who, upon liberation sketched the gas chambers.

【中略】

 Twenty-three year-old Scott Dominguez descended into a tank that once held hydrogen cyanide, and later phosphoric acid, in order to clean it. When this unfortunate worker began chipping away at the chemical film and hosing it down with water, hydrogen cyanide gas was produced.

 Just like the workers in Olere's drawings who supposedly removed the corpses from the Auschwitz gas chambers or the hair and gold from the teeth of gassed victims, Mr. Dominguez was not working with any safety equipment--no gas mask or protective suit. He was overcome by the HCN and had to be carried away by emergency firefighters. This hapless man suffers from permanent brain damage because of his exposure to HCN.17

 Another tragic incident involving firemen during a rescue operation further supports Leuchter's and Armontrout's assertions. In June 1995, there was a dramatic accident in a cave in the French city of Monterolier. Three children lit a fire in a cave, and threw an unexploded bomb they found from W.W.I that contained hydrogen cyanide gas into the fire. The bomb exploded and released the deadly HCN. It killed the children and also four firemen that came to the rescue. According to a Professor of Physical Chemistry, Louis Soulie, the deaths of the children and firemen, and even the fireman who was wearing a gas mask, were due to the fact that hydrogen cyanide dissolves in the sweat and penetrates the body through the skin, where it causes poisoning.18

 Let us repeat: One French fireman was wearing a gas mask, but he perished because the HCN dissolved in his sweat and penetrated his body. Even six days after their deaths, a cyanide concentration twice as high as the lethal dose was detected in the blood of the corpses.19

 Finally, there is the incident of suicide by cyanide poisoning that took place at Grinnell College, Iowa. A student committed suicide by swallowing so much potassium cyanide that the fumes from his body sickened nine people, all of whom had to be taken to a hospital. The potassium cyanide reacted with the water in his body to produce cyanide gas. The fumes that emitted from his body were so disturbing, that the residence hall where the tragic incident took place, and the hospital where the student's body was taken, had to be aired out.20 Keep in mind these are fumes that exuded from just one body. Imagine the fumes exuding from one to two thousand bodies that were allegedly poisoned by HCN in the Auschwitz gas chambers!

 In order to give the reader the appropriate perspective, let us recreate van Pelt's alleged scenario. The intended victims (one to two thousand) were jammed into the gas chamber. The deadly hydrogen cyanide was circulated throughout the chamber, and the victims were murdered. The victims' bodies absorbed the vast majority of the deadly gas-it is in the skin, in the hair, pores and lungs of the victims. The ventilation systems quickly removed the residual HCN. Now it was time for the inmates to go into the chamber and remove the dead bodies for cremation.

 Once again, let us give van Pelt the benefit of the doubt-the victims' bodies absorbed the vast majority of the deadly HCN gas. Here we have over one thousand dead bodies being saturated with deadly HCN-it is in the victims' hair, noses, mouths, on their skin, in their lungs. As Bill Armontrout points out, the HCN exudes from the victims' bodies.

 The Sonderkommandos enter the gas chamber to remove the bodies. According to one of van Pelt's most important eyewitnesses, David Olere, the inmates who removed the bodies from the chambers wore no gas masks, protective suits or rubber gloves to protect them from the inhalation or skin absorption of HCN. They did not even have shirts on!

 The heavy labor of removing the thousand bodies from the chambers causes the Sonderkommandos to sweat. People who are sweating are even more prone to absorb the deadly HCN through the skin.

 As the evidence points out, the victims' bodies exude the deadly HCN-this is why the body of someone who has died from HCN poisoning must be hosed down and rigorously decontaminated. In neither Pressac's nor van Pelt's authoritative tomes is there any mention that each victim's body was hosed down and thoroughly decontaminated after a mass gassing, nor is this process included in any of Olere's "true-to-life" sketches.

 We return to the operation of the gas chambers. The Sonderkommandos enter the chambers to remove the bodies. They perspire because of the hard labor. This makes them even more prone to absorb the deadly HCN gas that exudes from the mass of dead bodies in the gas chamber. As Professor Soulie points out, the firemen died from HCN absorbed by their sweat, even though one of them was wearing a gas mask. Dr. van Pelt's most important eyewitness, David Olere, claims in his sketches that the Sonderkommandos were shirtless and they wore no rubber gloves, nor did they wear any gas masks. This makes them extremely prone to HCN poisoning by way of skin absorption and inhalation.

 As we saw in the incident of the suicidal student from Grinnell College, the fumes from just one body were toxic enough to cause nine people to go to the hospital. Imagine the toxicological impact of one to two thousand dead bodies, all exuding the deadly HCN, upon the Sonderkommandos and Nazi guards who were wearing no gas masks or protective suits. It would have been overwhelming!

 Thus, the important sketch of Lipstadt and van Pelt's most important eyewitness, David Olere, contains a chemical and toxicological impossibility. Although his discussion of this matter is somewhat vague, van Pelt seems to implicitly realize that the Sonderkommandos would have--at the very least!-- needed gas masks to enter the gas chamber after they opened the door to remove the bodies.21 In this particular sketch, the inmates removing the bodies and the Nazi guards supervising those executions are not wearing any gas masks. The inmates dragging the dead bodies are even shirtless!

【中略】

 The door of the gas chamber is opened. According to the most important eyewitness, David Olere, the inmates who entered the chamber to remove the bodies for cremation wore no gas masks, rubber gloves or protective suits to protect them from HCN poisoning by way of inhalation or skin absorption. The inmates that entered the chamber to collect the hair of the victims wore no gas masks, rubber gloves, or protective suits to protect them from poisoning by way of inhalation or the skin absorption of the deadly HCN. The Nazi guards that supervised these executions wore no gas masks or protective suits. 【後略】


【「西岡昌紀氏の指摘」について】
 西岡昌紀氏は、「阿修羅ホロコースト1」の中で次のように指摘している。
 「連合軍が、ドイツ人に拷問を加えて「自白」を得ていた事をどう考えますか?」より。
 質問です。連合軍が、戦後、多くのドイツ人に拷問を加えて「自白調書」を作成して居た事は、もちろん、御存知と思います。この事について、いかなる考えをお持ちですか?
 「ドイツ政府は『ユダヤ人絶滅』の予算を計上していませんでしたが、何か?」より。
 第三帝国(ナチスドイツ)政府は、「ユダヤ人絶滅」などと言う計画のための予算を計上して居ませんでしたが、何か?
 「『ユダヤ人絶滅』の命令書は発見されていませんが、何か?」より。
 連合軍が戦後ドイツで押収した膨大なドイツ政府公文書の中に、ヒトラーもしくは他のドイツ政府指導者が「ユダヤ人絶滅」を命じた命令書は有りませんでしたが、何か?
 「『ガス室』で殺された死体の解剖記録は有りませんが、何か?」より。
 1985年1月17日(偶然にも木村愛二氏の誕生日です)、カナダのトロントで、「ガス室」肯定派の重鎮であるアメリカの歴史家ラウル・ヒルバーグ教授は、ツンデル裁判の法廷で、「ガス室」で殺された死体の解剖記録を知って居るか?と質問され、知らない、と答えています。即ち、「ガス室でユダヤ人が殺された」と主張する側の歴史家が、何と法廷において、つまり宣誓証言の中で、ガス室で殺された死体が、解剖で確認された事を示す記録を見た事が無い(!)と明言したのです。

 「ガス室大量殺人」を主張する歴史家自身が、その「ガス室」で殺された死体の解剖記録を見た事が無いと言っているのです。(これは、The SaultStarと言うカナダの新聞にデカデカと載っています) 「ガス室大量殺人」には、死体と言う物証が無いのです。

【「アウシュビッツ強制収容所解放60年記念式典」】
 2003.1.27日、第二次世界大戦中に多数のユダヤ人がナチス・ドイツに虐殺されたアウシュビッツ強制収容所の解放60周年式典が、ポーランドのクラクフにある同収容所に隣接し「第2アウシュビッツ」と呼ばれるビルケナウ収容所跡地で開かれた。旧ソ連軍が同収容所を解放したことにちなんでプーチン露大統領が出席したほか、イスラエルのカツァブ大統領、ケーラー独大統領、ポーランド、仏など40カ国以上の首脳が参列した。1千名を超す生存者やその家族らが参列し、式典に臨んだ。式典は午後3時前(日本時間同11時前)、雪が舞う中、ドイツ占領下の欧州各地からユダヤ人らを同収容所に輸送した鉄道の引込み線にある慰霊碑の前で始まった。

 アウシュビッツ・ビルケナウ両収容所ではユダヤ人を中心に子供も含め100万〜150万人が殺されるなど最大の犠牲者を出したとされており、ホロコーストの象徴の地となっている。

 2005.1.27日付毎日新聞は、「アウシュビッツ解放60年きょう記念式典」の記事で、ポーランドの総合雑誌「ポリティカ」の現役編集者で、アウシュビッツからの生き残りのポーランド系ユダヤ人・マリアン・トゥルスキ氏(78歳)とのインタビューを報じている。興味深いのは次の件りである。
 「アウシュビッツではどんな生活を」。
 「44年にゲットーからアウシュビッツに移送され、主に収容所周辺で農作業をした。1日11時間を超す厳しい労働だったが、監視の目を盗んでジャガイモなどの農作物を手に入れる特典もあった。同じゲットーから移送された友人9人と共に暮らすことができ、お互い助け合った結果、幸いにも全員がアウシュビッツで生き残ることができた」。
 「解放直前に他に移送されたさうですね」。
 「収容所は1月27日に旧ソ連軍に解放されたが、私はその9日前の18日に別の場所に移送された。氷点下20度を超す厳寒の中、7日間も歩き続けた。収容所の生活で体力が落ちており、歩けなくなる人々が続出、その多くは射殺された。出発時600人だった私のグループは到着時に450人、まさに死の行軍だった。そしてゲットー依頼、互いに助け合った友人のうち4人を移送中に失った。私が解放されたのは欧州で大戦が終結した45年5月、ビタミン不足で全ての歯が抜け落ち、体重は32キロまで減っていた。解放直後、41度の熱が三日間続いたが、ようやく生き延びることができた」。
 「米副大統領の服装、反発買う、アウシュビッツ収容所跡式典」(ロイター通信→CNN)が次の記事を配信している。

 2005.1.29日、ワシントン――ポーランドのアウシュビッツ強制収容所跡で解放60周年記念式典が催された。米代表として列席したチェイニー副大統領が身に着けた「カジュアル」な服装が、犠牲者や元収容者への哀悼や畏敬(いけい)の念に欠けるとして、米マスコミなどでひんしゅくを買っている。ロイター通信が伝えた。

 副大統領は当日、毛の装飾があるフード付きの防寒具、スキー帽やハイキングなどに用いるブーツ姿で現れ、儀礼用のコートに身を包んだシラク・フランス大統領やプーチン・ロシア大統領らとは好対照を成した。

 米紙ワシントン・ポストのファッション担当記者は28日、チェイニー氏のこの姿を、「まるで、典型的な除雪作業員の姿のよう」と皮肉り、「(他の指導者が)成人の身なりをしているのに、彼は小心な少年にように見えた」とも突き放した。

 英国の一部新聞も、副大統領のカジュアルな服装に言及している。

 ポスト紙の記者は、チェイニー氏が1月20日に行われた米正副大統領の就任式典で、雪交じりの天候ながら、濃い色のコートを着用、帽子を使用していなかった事実を指摘。その上で、アウシュビッツ収容所解放式典で、「防寒具を着て、彼は暖かったかもしれないが、寒さを我慢して収容所の犠牲者へ敬意を示すことより、自分の防寒対策に気を配っていたとの印象を与えた」と結んでいる。

 チェイニー氏側はコメントを出していない。


【マウトハウゼン収容所でも「ガス室」の大嘘?
 「云われるところの毒ガス致死に対する疑問」は既に多くの方から指摘されている。以下、2005.5.9日、バルセロナより愛を込めて氏が「阿修羅ホロコースト2」に「マウトハウゼン収容所でも「ガス室」の大嘘?」を参照し、れんだいこ風に整理してみる。

 「ナチ収容所で死んだ5000人のスペイン人たち(エル・ムンドより)」は、「マウトハウゼン強制収容所」について次のように述べている。

 これには以下のような記述があります。

 『ドナウ川に面したマウトハウゼンは、元々オーストリア最大の花崗岩採掘場であった。ナチは採掘場のそばに収容所を建設、他にグーゼン、エーベンゼーなど大規模な衛星収容所を従え、オーストリアにおける強制収容所ネットワークの拠点になった。収容所内の強制労働、暴力などは他のものと比べても凄惨を極め、ガス殺も行われた。』

 この「ガス室」については写真まで載せられているのですが、しかし私が昨日ご紹介したエル・ムンドの記事の中には「ガス室」に関する記述は一言もありませんでした。確かにそこでの強制労働が凄惨を究めたことに間違いはなく、7000名のスペイン人収容者のうち5000人が帰らぬ人となったのです。この記事を書いた記者は『「過労によって」行われる絶滅収容所(el campo el exterminio tuviera lugar "por agotamiento")となっていた』と書いているのですが、しかし「ガス殺」があったのならそれに少しは触れてもおかしくはないと思います。例えば「病気や怪我で役に立たなくなった者はガス殺された」とか何とか。

 またご紹介したエル・ムンドの記事に書かれているユダヤ人の少年シーグフィールド・メイァ(Siegfried Meir)についても「アレ?」と首をかしげました。両親がアウシュビッツで亡くなった、ということですが、労働力にならない小さな子供をわざわざポーランドのアウシュビッツからオーストリアのマウトハウゼンまで移送するのかな?と奇妙に感じたからです。

 彼は解放の1年前、つまり1944年にマウトハウゼンに移されたようですが、アウシュビッツが本当に「絶滅収容所」なら、両親が死んだ後(その死因についてもエル・ムンドの記事には書かれていない)どうして労働力にならない彼を生かしてここに移したのか? 彼が一人のスペイン人の世話で苦しみながらも生き延びることができたのは本当に良かったのですが、それはともかく、「絶滅収容所」に関しては重大な疑問が残ります。

 なおマウトハウゼンの「ガス室」に関しては、次の『歴史的修正主義研究会』の試訳によるロベール・フォーリソンの論文がありますので、ご参照ください。
 「試訳:マウトハウゼンとハルトハイムの「ガス室」文献資料解題」(http://www002.upp.so-net.ne.jp/revisionist/faurisson_07.htm


 木村愛二氏は、サイト「憎まれ愚痴」の「ホロコースト神話一覧」の「 シオニスト『ガス室』謀略の周辺事態、『私にガス室を見せるか描くかせよ』」の中で次のように述べている。

 幸いなことに、『偽イスラエル政治神話』には、豊富な資料が盛り込まれている。初版の編集者としてガロディとともにパリ地裁の刑事法廷の被告だったピエール・ギヨームとは、法廷の前のロービーで並んで写真を撮ってきた。その写真をフランスで公開すると、また刑法にふれるというので、「日本でだけ」と約束していきた。ギヨーム自身が『歴史見直し論年代記』の著者でもあり、彼の何十年もの資料収集の成果が、ガロディに提供されている。その中には、「元収容者」であり、しかも、「フランスの第1級の歴史家」による自己点検の文章があった。以下は、『偽イスラエル政治神話』p.228.からの引用である。

 「“ガス室”の知識の出所は戦後の“特集読み物”」

 ブッフェンヴァルトやダッハウの元収容者たちでさえも、このように念を入れて物語られる伝説によって、暗示を与えられてしまう。フランスの第1級の歴史家で、カン市分科大学の名誉学長であり、元収容者としてマウトハウゼン研究所のメンバーに加わっているミシェル・ドゥ・ブアールは、1986年に、つぎのように言明した。

 《1954年に……提出したマウトハウゼンに関する専攻論文で、私は、2度にわたってガス室のことを書いた。その後に思い返す機会があって、私は、自分に問い直した。私は、どこで、マウトハウゼンのガス室についての確信を得たのだろうか?

 それは、私が、あの集中収容所で暮らしていた時期ではない。なぜなら、そのころは私自身も、その他の誰であろうとも、そんなものがあり得るなどとは想像さえしていなかったからである。だから、その知識の出所は、私が戦後に読んだ“特集読み物”だと認めざるを得ないのである。そこで、自分の論文を点検してみると、……私は、常に自分の確信の大部分を引用文献から得ているのだが、……そこにはガス室に関係する引用文献が明記されてなかったのである》(『西部フランス』86.8.2.& 3.)

 つまり、ドゥ・ブアールの場合、「戦後に読んだ“特集読み物”」の強烈な印象が、最早、検証の必要を感じない「記憶」になっていたのである。

 木村氏の阿修羅投稿「ブッシュらの修正主義者呼ばわり以後に牢屋入り覚悟で戦う事例続発し反撃の好機」(http://www.asyura.com/0306/war36/msg/487.html)は次のように述べている。
 http://www.jca.apc.org/~altmedka/nise-20.html
 
 [“ガス室”論争に終止符を打つ法医学鑑定]

 もしも、誠実に公開の場での議論をする気があるのなら、現在すでに、“ガス室”に関する論争に終止符を打つ三つの研究報告[訳注1]がある。『ロイヒター報告』(88・4・5)、その再鑑定としてのクラクフの報告(90・9・24)、ゲルマル・ルドルフの報告(94)である。これらの研究報告が、なぜ論争に終止符を打つかというと、この方法こそが唯一の科学的で客観的なアプローチとして注目され、現場で採集したサンプルの調査、化学的な分析を可能にしているからである。

 訳注1:本書では『ロイヒター報告』をトロント裁判の記録として出典表示しているが、数種類の単行本がある。訳者が所持している英語版が入手しやすいので巻末リストで紹介する。続編として、ドイツ南西部のダッハウ、オーストリアのマウトハウゼンとハルトハイムを対象とした「第二ロイヒター報告」があり、『歴史見直しジャーナル』(90秋)に掲載されている。

 「クラクフ」とあるのはポーランドのクラクフ市にある国立の法医学研究所であり、日本ならば警視庁が鑑定を依頼するような最高権威である。クラクフの法医学研究所による再鑑定はアウシュヴィッツ博物館の依頼によるものである。同研究所の報告には、もう一つ、さらに詳しいもの(94・5・30)がある。訳者は同研究所を訪れ、鑑定結果についても、『アウシュヴィッツの争点』二三九頁以下に略記した。

 この他に、オーストリア人の工学者で工学専門家協会の会長、ヴァルター・ルフトルの報告(同誌92/93冬)もある。「ゲルマル・ルドルフの報告」は巻末で紹介する『歴史見直しジャーナル』(93・11/12)の記事によると、一九九三年中には公刊されている。ゲルマル・ルドルフは、公認の薬剤師で博士課程の研究者であり、その後に、クラクフの報告を批判する論文をも発表している。さらに同記事によると、アメリカの化学者ウィリアム・リンゼイと、ドイツの技術者ヴォルフガング・シュスターが、同様の調査を行い、それらすべてが『ロイヒター報告』の正しさを裏付けている。


 はちまき伍長氏の2005.5.10日付け「第二ロイヒター報告」(http://www.asyura2.com/0505/holocaust2/msg/108.html)は、「歴史的修正主義研究会のサイトにある試訳:第二ロイヒター報告(ダッハウ、マウトハウゼン、ハルトハイム調査報告書、フォーリソンの序文つき)」(

http://www002.upp.so-net.ne.jp/revisionist/leuchter_02.htm)の次の一節を紹介している。

 フォーリソン博士の序文に事情が書かれていました。

 修正主義者の反乱(インティファーダ)

 今日、「ホロコースト」の擁護者たちは混乱におちいっているが、そのことは奇妙な事態を生み出している。彼らは1970年末まで、ポーランドにあるアウシュヴィッツ、ビルケナウその他の収容所については、「ガス室」の実在の、したがって、ユダヤ人の「大虐殺」の「確固とした証拠」を持っていると信じていた。当時、彼らは、何らかの誇張があったこと、今日のポーランド以外の場所にある収容所にはガス室はなかったかもしれないことを認める姿勢をとるまでにいたっていた。ところが、1980年代初頭から、修正主義者の研究の圧力を受けて、ポーランド、とりわけアウシュヴィッツとビルケナウの「ガス室」の実在がますます疑わしいものとなってきた。このために、恐怖にもとづく反動が生み出された。宗教的ファンダメンタリズム、政治的ファンダメンタリズムでの動きと同じく、絶滅論者ももともとの信仰と教義への復帰を呼びかけるようになった。彼らは、放棄されたガス室を「ふたたび定説にしていった」。マウトハウゼン、ザクセンハウゼン、ラーフェンスブリュック、ノイエンガムメ、ストリューホフ・ナチヴァイラー、そしておそらくダッハウにも「ガス室」が存在したとふたたび主張するようになっていった。ここで念頭においているのは、リュッケルル、ラングバイン、コーゴンその他21名の筆者による『毒ガスによる民族社会主義者の大量殺戮』(Fischer Verlag, 1983)である。


【カルロ・マットーニョ論文「歴史と真実の否定」】

 カルロ・マットーニョ論文「歴史と真実の否定」(http://www002.upp.so-net.ne.jp/revisionist/mattogno_08.htm)(2003.6.19日、歴史的修正主義研究会の試訳)は、次のように述べている。

 歴史的修正主義に関する真実は、まったく別のことである。修正主義的歴史家を反ユダヤ主義とかネオ・ナチという使い古されたカテゴリーの中に押し込めてしまおうとすることは、かならず「個人的・政治的理由のために」生じているのであり、シェルマーとグロブマンの著作の題名『歴史の否定』と同じくらい誤解を招くものである。修正主義的歴史家が否定しているのは「歴史」ではなく、御用史家たちが提供してきた歪曲された歴史の解釈である。この歪曲の否定から誕生した修正主義とは、歴史的真実の復権である。

 ポール・ラッシニエは、戦後の強制収容所関連の文献にちりばめられていた嘘を否定することから、修正主義者としての活動を始めた。ラッシニエは、嘘のオンパレードに憤激し、真実を復権しようという燃えるような情熱を抱いたのである。御用史家の詐欺行為への憤激こそが、修正主義的歴史家を駆り立てているもっとも重要な動機の一つである。御用史家たちは自分たちの地位を利用して、無知な読者を欺き、無知な読者を欺き続けることで、自分たちの地位を維持しているにすぎない。そして、私が『歴史の否定』の詐欺的本質を暴露しようとするのも、シェルマーとグロブマンの詐欺的行為に憤激し、歴史的真実を復権しようとしたいがためである。


【「死体焼却論」】
Re:れんだいこのカンテラ時評その110 れんだいこ 2005/10/10
 【ネオ・シオニズムの「ホロコースト・プロパガンダ」考】

 「ホロコーストの史的真実」を廻って、「ガス室論争」はかなり為されている。ところが「死体焼却論争」はあまりお目にかかれない。そういう中で、木村愛二氏の季刊誌「真相の深層春号」の「ホロコーストは真実か、虚構か?」(イラク共産党カーデル派のヌーリー・ムラーディー氏著、斎藤力二郎氏訳)が貴重な見解を披瀝している。これを検証する。

 イラク共産党カーデル派とは、現在イラク暫定政権に参加しているイラク共産党とは袂を分かつ別党である。各国各地の共産党は日共もそうであるが、今やネオ・シオニズムに取り込まれている。イラク共産党カーデル派は、そういう仕掛けを拒否して反占領姿勢を鮮明にしている良質な党である。そのイデオローグであるムラーディー博士は次のように云う。

 ヒットラーが600万人のユダヤ人をガス炉で焼却したというこの事件が起きた時期は、第二次世界大戦(1939ー1945年)の最初の3年間とされている。このような大規模で恐るべき犯罪行為は、以下どちかの可能性がなければ起こりえなかったであろう。

1、どのような形にせよ、世界中がこの犯罪行為に加担したか。
2、加担者の誰かがこの物語を創作し、これを事実として世界中に宣伝したか。

 どちらかである。どちらの可能性がより高いのであろうか? 

 ムラーディー博士はこのように問いかけ、「ホロコーストの各要素を見てみよう」と述べて、概要以下のように主張している。(れんだいこ風に意訳している) 
 
焼却炉  これが当該焼却炉だとされているガス炉を実際に目にすれば、600万人もの人々をとても焼ききれない代物でしかない。
焼却灰  600万人を焼いたとされるならその灰も厖大な量になる。その灰はどこに行ったのだ。なぜ消え去ったのだ?
殺戮の手段  ヒットラーはなぜ、手間と費用のかかる殺戮方法を選んだのか。人間一人を毒殺し灰にするには2キロのプロパンガスが必要であり、600万人ともなると1万2千トンが必要になる。当時の局面にあって非常に貴重な燃料の使い方としても問題がある。爆発事故の報告例も無い。
人口  戦前戦後のユダヤ人の人口統計上、戦前(1939年)1600万人、戦後(1946年)1800万人と発表されている。むしろ200万人増えていることになるが、600万人を失ってなお200万人増える仕組みが解せない。
600万人  600万人はむしろ戦禍で蒙ったドイツ人の人口数である。、
全欧州のユダヤ人人口  当時の全欧州のユダヤ人人口は200万人と推定されている。そのうちナチスの支配下に置かれていたのは水増ししても20万人を超えない。如何にして600万人ものユダヤ人を調達したのか。
ヤルタ会談  テヘラン会談、ヤルタ会談、ポツダム会談で、ユダヤ人の600万人虐殺は話し合われていない。なぜ、この時、ナチスの犯罪を暴かなかったのか。
イスラエル  イスラエルへの移住は100年間に300万人である。ヒトラーは、3年間に600万人を集めたというがそれみそ不思議極まる。

 (れんだいこの私論.私見)

 れんだいこは思う。ムラーディー氏の検証にはなかなか説得力がある。れんだいこもホロコースト物語のウソにうすうす気づき始めているが、新観点で補強されたことになる。未だに尻馬に乗り正義ぶる手合いが後を絶たないので貝にならざるを得ないが、いずれ決着付けねばならない。

 戦後左派運動は、新旧左翼を問わずその反戦平和運動理論を再検証すべきではないのか。「作られた常識」なら覆さねばなるまい。こういう理論的営為をおろそかにしてはなるまい。

 2005.10.10日 れんだいこ拝

Jon Wiener氏の「ホロコースト創造論」(The Nation誌)
 「阿修羅ホロコースト2」のバルセロナより愛を込めて氏の2005.10.6日付け投稿文ホロコースト創造論(The Nation誌)」を転載しておく。

 ホロコースト創造論(The Nation誌)

 米国の情報誌Rense.comはThe Nation誌に1999年7月24日に掲載されたHolocaust Creationism(ホロコースト創造論)というJon Wiener著の記事を再掲しています。著者のWienerは主としてシカゴ大学の歴史学者Peter Novick(ユダヤ人)のホロコーストに関する主張を紹介しています。

 このPeter Novickについては次のサイトに若干の説明があるのですが、これによると、
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 http://www.fpp.co.uk/Auschwitz/Novick/
 Documents on the Peter Novick controversy
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 「ホロコースト産業」の著者フィンケルシュタイン同様に、第2次世界大戦でのユダヤ人の「被害」を誇張することによってホロコーストを宣伝し、それによって巨額の利益が米国のユダヤ人団体によって吸い上げられる様子を描いたThe Holocaust in American Lifeを出版して、ユダヤ人団体からつるし上げられました。しかしその後でフィンケルシュタインの本が登場すると、逆に、学問的な調査が為されていると、ノヴィックを持ち上げてフィンケルシュタインを叩く材料に使ったそうです。

 このThe Nationの記事からでは、ノヴァックがホロコースト自体を肯定しているのか否定しているのかは明確には書かれていません(おそらく否定はしていないと思います)が、第2次大戦後に戦争の教訓は第一にヒロシマであってヒトラーではなかったこと、またスターリンがヒトラー同様(あるいはそれ以上)に悪辣であったことを、1960年代から70年代にかけてシオニストと米国のユダヤ人団体がいかに捻じ曲げてホロコーストを創造することで覆い隠していったのかが、ノヴァックの研究を元に著者のWienerによってまとめられています。

 非常に長い英文ですが、このようなサイトが消されないうちにここに掲げておくこととします。

 http://www.thenation.com/doc/19990712/wiener

 REVIEW | posted June 24, 1999 (July 12, 1999 issue)

 Holocaust Creationism   Jon Wiener

 Between 1945 and 1947 the United States underwent perhaps the most breathtaking ideological transformation in its history. "The Good War," which had united America with Russia to save Western civilization from Nazi barbarism, ended, and within two years the incarnation of evil had been relocated: Germany was suddenly our ally in defending freedom from the USSR.

 This astonishing ideological shift was accomplished by invoking the theory of totalitarianism, which held that Nazi Germany and Soviet Russia were "essentially alike." Whatever the intellectual strengths or weaknesses of the theory, it served to marginalize talk about what we today call the Holocaust: The suggestion that the destruction of European Jewry was the defining feature of the Nazi regime undermined the logic of the cold war by denying the essential similarity of Hitler and Stalin. The dizzying reversal redefined discussion of German war crimes as evidence of disloyalty to the "free world."

 A riveting new book by historian Peter Novick describes how "the Holocaust" as we speak of it today--a singular event--barely existed in Jewish consciousness or anybody else's at the end of World War II and for many years afterward. American Jews had learned by 1945 about the fate of "the 6 million." But for Jews and non-Jews alike, it was the overall course of the war and the deaths of 50 million people that were the dominant facts. Jews understood themselves to be one group among many that suffered immense and heartbreaking losses.

 During the fifties, Novick shows, the Holocaust was not held up as a source of historical lessons but rather as something terrible that had ended. The principal instruction the public took from the war arose not from Hitler but from Hiroshima--an urgent theme underscored by civil defense drills and bomb-shelter hysteria. Since Americans were both the perpetrators of atomic bombing and potential victims, it made sense that nuclear anxieties should dominate public consciousness about world politics.

 So Jews in the fifties weren't talking about the Holocaust or defining themselves in primary terms as the victims of Hitler. They sought integration into American society and culture; they embraced the fifties liberal "family of man" ethos. Now, Novick poses a simple question: How, then, did consciousness of the Holocaust, evident most recently in the enormous triumph of Schindler's List, become so pervasive in American culture? Novick, a University of Chicago professor who previously wrote a prizewinning study of the history profession, also examines what is most puzzling to him about this consciousness: The Holocaust didn't happen here, and survivors and their descendants make up but a tiny proportion of the Jewish population.

 Novick's contention is that "the Holocaust" was constructed twenty-five years after the war in a way that would not have been recognizable to Jews or gentiles in 1945. Indeed, Novick shows that while the Holocaust as such was hardly talked about from 1945 to 1965, from the seventies on it became increasingly central to Jewish self-consciousness. Despite the fact that after World War II Jews became the best-educated, most politically effective and wealthiest ethnic group in American society, official Judaism since the seventies has increasingly drawn on the Holocaust to portray Jews as victims, pitting them against other groups seeking redress--especially through affirmative action--for their own victimization.

 The United States Holocaust Memorial Museum in Washington becomes one of Novick's biggest concerns in this regard. "There surely isn't going to be a second Jewish institution on the Mall, presenting an alternative image of the Jew," he writes. The official American representation, the most expensive and best Jewish museum in the world, portrays Jews as victims and gentiles as either persecutors or guilty bystanders. Novick has to ask the irresistible question: Is it good for the Jews? And is it good for anybody else?

 Novick begins with an analysis of wartime policy. During the war, Jews eagerly embraced the Allies' ideological claim that Nazi Germany was the enemy not just of them but of "free men everywhere." Jews understood that throughout their long history, tyrants had periodically arisen who persecuted and killed them; but Jewish life would survive Hitler the way it had survived all his predecessors. For those concerned with world Jewish issues, working for the creation of a Jewish state took precedence over the rescue of Europe's Jews. American Jews accepted David Ben-Gurion's belief that creation of a Jewish state was the best way to make future tragedies impossible. In this context, Jews supported FDR's conduct of the European war with enthusiasm and gratitude.

 This strand of Novick's argument runs against David Wyman's important and well-known book The Abandonment of the Jews. Wyman argues that the Roosevelt Administration willfully disregarded rescue opportunities that could have succeeded, that anti-Semitism was the main problem and that inaction by American Jews also played a role. The "failure of rescue" is also a prominent theme in the Holocaust museum on the Mall.

 Novick presents a strong case, however, that rescue efforts wouldn't have worked, and that trying to bomb the Auschwitz gas chambers (much discussed by historians today) would have been a bad idea because precision bombing was a myth; nobody wanted to be blamed for bombing tens of thousands of Jews at Auschwitz--what could be regarded as helping Hitler kill Jews. In Novick's judgment, rescue efforts might have saved 1 to 2 percent of Jews from the ovens--"a worthwhile achievement indeed"--but he relentlessly documents the fact that rescue was barely mentioned by Jewish organizations.

 "Abandonment of the Jews," he concludes, would have been an incomprehensible phrase at the time, because no one believed rescue of foreign civilian populations was an obligation for the Allies. With only a few exceptions, Jews concurred with the goal of the Roosevelt Administration and its allies: to force the unconditional surrender of Nazi Germany as quickly as possible. That was the best way to help the European Jews who were still alive. All other objectives, including rescue, had to be subordinated to it.

 Novick then provides a fascinating picture of the differences between postwar Jewish culture in America and that of today. Talk about the Holocaust during the early postwar years was "something of an embarrassment," indeed something seen as inconsistent with American ideals. Only the Communists worked to keep alive the memory of Hitler's campaign to exterminate the Jews--part of their fight against German rearmament. Official Jewish thinking in that era was evident in the response to proposals for a Holocaust memorial in New York City made in the late forties by prominent Jewish individuals. The American Jewish Committee, the Anti-Defamation League, the American Jewish Congress and other official voices all agreed: Such a monument would be "a perpetual memorial to the weakness and defenselessness of the Jewish people" and thus "not in the best interests of Jewry."

 Jews' desire to escape from the "victim" schema was perhaps best dramatized by an incident from the grotesque daytime TV show Queen for a Day, in which contestants competed for the most miserable story: A Birkenau survivor said, "Each time I look down at my left arm and see my tattoo I am reminded of my terrible past.... If only my tattoo could be removed!" The audience, Novick reports, voted enthusiastically in favor of an award of cosmetic surgery.

 There was, of course, one monument of nascent Holocaust consciousness in the fifties: The Diary of Anne Frank, brought to the stage in 1955 and the screen in 1959. But those productions emphasized Anne's "universalism" and upbeat optimism and played down her Jewishness. Onstage and onscreen, Anne proclaimed, "We're not the only people that've had to suffer...sometimes one race...sometimes another." At the time this was precisely the way American Jews wanted their story told. But with the rise of Holocaust consciousness since the eighties, those productions have come under brutal attack. Cynthia Ozick wrote in The New Yorker in 1997 that the universalizing of Anne's story had gone too far, so that it might have been better if the diary had been "burned, vanished, lost."

 The story of such a monumental reversal in official Jewish thinking occupies the second part of Novick's book. Where did the concept of "the Holocaust" as a distinct entity come from? Novick's answer is that it derives from the 1961 trial of Adolf Eichmann, the first time the Nazi campaign to exterminate the Jews was presented to the public as distinct from Nazi barbarism in general. Israeli tactics in kidnapping Eichmann and bringing him to Israel for trial had initially aroused considerable opposition: The New Republic recommended that Israel "confess error and hand Eichmann back to the Argentine authorities," and the Wall Street Journal editorialized that the trial could benefit only the Communists and was pervaded by "an atmosphere of Old Testament retribution." William F. Buckley's National Review was the most vehement, denouncing Israel for "bitterness, distrust, the refusal to forgive, the advancement of Communist aims."

 But the Israeli prosecutors succeeded in showing American Jews that they could and should discuss a singular event they called "the Holocaust," that they need no longer be defensive about Jewish victimization. American Jews had not taken the initiative in this development, but many nevertheless found the end of silence liberating.

 The Yom Kippur War of October 1973 provided a major impetus to the rise of Holocaust consciousness in America. Jewish enthusiasm about Israeli invincibility, which followed the Six-Day War of 1967, came to a sudden end, as did the claim that the Jewish homeland provided a kind of security unknown in the diaspora. The 1973 Israeli victory came only after frightening early reverses and massive Israeli casualties. Only US support assured Israeli victory and survival. Suddenly the Holocaust had an intense new significance, invoked on behalf of Israeli security. Elie Wiesel wrote that he was, for the first time since the end of World War II, "afraid that the nightmare may start all over again."

 Along with this theme came offensive arguments made by defenders of Israel. Most encompassing was Cynthia Ozick's statement in 1974 that "all the world wants the Jews dead." She was arguing, essentially, that since nobody cared what happened to the Jews, they should stop being so concerned about injustices to others and focus on defending their own particular interests. Talk about "our timidity" and "our failure" in the face of the Holocaust now became central to Jewish discourse, the implication being that "we" must not be timid or fail to protect Israel this time around.

 While Zionist spokesmen expressed deep anxieties about the survival of Israel after the 1973 war, Jewish leaders began worrying during that decade that the greatest threat to Jewish survival in the United States was the loss of Jewish distinctiveness. Novick points out that it's not easy to come up with grounds for a distinctive Jewish identity in America today: Most Jews aren't particularly religious; most have no particularly Jewish cultural traits; Zionism provides only a thin and abstract commitment. For many official voices, the best argument for Jewish survival is the obligation to deny Hitler a "posthumous victory."

 This contention that Jews are an endangered species was accompanied by an irrational anxiety about a "new anti-Semitism" in America, whipped up by professional Holocaust memorializers like the Simon Wiesenthal Center, which bombarded Jews with mailings describing frightening threats and appealing for money. But in fact, as Novick argues, "it was the absence of hostility to Jews that was threatening"--the threat now was assimilation, and especially intermarriage. "The monster has assumed a different and more benign form," said Norman Lamm, president of Yeshiva University, "but its evil goal remains unchanged: a Judenrein world."

 As a historian, Novick is profoundly critical of the argument that the Holocaust was "unique." Every historical event is unique in some ways, yet each can be compared with others in other ways. It's easy to point out ways in which the Holocaust was not unique: Stalin killed more people than Hitler; Gypsies suffered losses that were roughly proportional to those of the Jews. But there's a more radical argument Novick found in the work of philosopher Berel Lang: "So what if the Holocaust is unique?" The uniqueness argument serves primarily to denigrate or minimize the sufferings of others.

 In the seventies the insistence that the Holocaust was unique turned into what Novick calls "the Victimization Olympics." Official Jewish treatment of the Armenian genocide has been particularly reprehensible, Novick shows. Originally the Holocaust museum had pledged to provide some coverage of the Armenian genocide, but its planners yielded to the Israelis, who didn't want to offend Turkey, a crucial Muslim ally. American Jewish activists joined Israeli lobbyists in defeating a 1989 Congressional resolution memorializing the Armenian genocide, while major Jewish organizations stayed silent. In response to Armenians who argued that they too were the victims of genocide, Lucy Dawidowicz, a leading Holocaust historian, argued that the Turks had "a rational reason" for killing Armenians, unlike the Germans, who had no rational reason for killing Jews.

 Black-Jewish Holocaust competition has been equally distasteful and destructive. "They are stealing the Holocaust from us," Wiesel complained. "The greatest victory," Novick writes, "is to wring an acknowledgement of superior victimization from another contender. Officials of the US Holocaust Memorial Museum tell, with great satisfaction, a story of black youngsters learning of the Holocaust and saying 'God, we thought we had it bad.'"

 James Baldwin long ago provided the best response to this Jewish oneupmanship: "It is not here, not now, that the Jew is being slaughtered, and he is never despised, here, as the Negro is, because he is an American. The Jewish travail occurred across the sea and America rescued him from the house of bondage. But America is the house of bondage for the Negro, and no country can rescue him."

 Holocaust consciousness today is thoroughly embedded in mainstream popular culture. This has happened, Novick writes, because American Jews "are not just 'the people of the book,' but the people of the Hollywood film and the television miniseries, of the magazine article and the newspaper column, of the comic book and the academic symposium." A giant leap in situating this in the mind of Middle America came with the 1978 NBC miniseries Holocaust. One hundred million Americans watched all or part of the four-night broadcast. Wiesel didn't like the program--he wrote that the series "treats the Holocaust as if it were just another event.... Auschwitz cannot be explained nor can it be visualized.... The dead are in possession of a secret that we, the living, are neither worthy of nor capable of recovering." But it made a tremendous impression on the American public.

 Then came Schindler's List (1993); Oprah Winfrey declared on television, "I'm a better person as a result of seeing Schindler's List." Again a few Jewish critics complained; again the public responded with tears and sympathy. Novick, ever the clear-eyed questioner, asks "why the eliciting of these responses from Americans is seen as so urgently important a task."

 The central claim justifying the spread of Holocaust consciousness is that it teaches "lessons" that we all "ignore at our peril." Novick is deeply skeptical of this claim. He points to the ways contending groups have drawn different, self-serving "lessons." On the right, thinkers like George Will have claimed the Holocaust teaches that we must reject the liberal belief in the perfectibility of man, that we need to adopt government policies to deal with the evil people in our communities. But Americans, with their daily TV diet of images of crime, murder and mayhem, hardly need the Holocaust to teach them about the dangers outside their door, and Novick politely suggests that Will's opposition to liberal social programs did not arise out of his study of the Holocaust. Liberals, of course, draw their own lessons--the need for tolerance and mutual understanding among different ethnic groups. And antiabortion groups proclaim they are fighting the abortion holocaust.

 Novick is interested in the "lesson" that ordinary people are capable of extraordinary evil, but he argues that the Holocaust is not as relevant a case of this as the work psychologist Stanley Milgram did at Yale in the mid-sixties. Milgram recruited ordinary New Haven residents for what they were told was an experiment in the influence of pain on learning. He told them to inflict increasingly painful electric shocks on subjects who gave wrong answers. The upper range of shocks on what was in fact a fake generator was described as "Danger: Severe Shock" and "XXX." Despite hearing screams of agony and pleas for help, more than 60 percent continued to crank up the shocks, and 90 percent of those reading the questions but not administering the shocks continued to the end. If you want lessons about the capacity of normal people to inflict pain, you don't need to go to a society in a total war with an ideology that has dehumanized some groups--you don't need Auschwitz when you've got New Haven.

 Another lesson some have drawn from the Holocaust is awareness of "the crime of indifference." Novick agrees that "the atrophy of a sense of mutual obligation" is indeed a problem in modern individualistic societies, but he doubts that the Holocaust provides the most useful example, again because of the extremity of the situation. When Kitty Genovese was attacked in Queens in the mid-sixties, thirty-eight neighbors heard her cries for help and didn't respond or even call the police. They didn't have to fear Gestapo retaliation.

 The most fundamental thesis the professionals advance is that Holocaust consciousness sensitizes us to oppression and atrocity. But making the Holocaust the example of oppression can easily have the opposite effect. It's such an extreme event, Novick argues, that it tends to trivialize everything of lesser magnitude: Slavery was bad, but not as bad as systematic mass murder; Americans may have killed 2 million Vietnamese, but that's not as bad as the Nazis' killing 6 million Jews. The argument for the uniqueness and incomparability of the Holocaust contributes directly to this kind of "lesson." Novick's harsh but unavoidable conclusion is that the Holocaust doesn't teach lessons at all. Visiting the Holocaust museum doesn't make you a better person--it could conceivably provide a rationale for minimizing current injustices.

 Beyond these immensely significant arguments, Novick's book is full of revealing little gems. The Holocaust text quoted most often is Martin Niemoller's confession: "First they came for the Communists, but I was not a Communist--so I said nothing. Then they came for the Social Democrats, but I was not a Social Democrat--so I did nothing. Then came the trade unionists, but I was not a trade unionist. And then they came for the Jews, but I was not a Jew--so I did little. Then when they came for me, there was no one left who could stand up for me." Niemoller had the progression of Nazi concentration camp policy correct. Al Gore quoted the passage, but moved the Jews to first place. He also left out Communists and trade unionists, and he added Catholics, who were not on Niemoller's list. The US Holocaust Memorial Museum preserves the list intact and in the correct order, except that it omits Communists. Other versions add homosexuals.

 The invocations of the Holocaust in American politics and culture today cited by Novick are mind-boggling. Hillary Clinton, under attack in 1996 for her Whitewater financial transactions, appeared in the gallery of the House during her husband's televised State of the Union address, sitting with daughter Chelsea on one side and Elie Wiesel on the other. Surely this should get the award for best use of Holocaust imagery in a photo-op. Runner-up goes to Woody Allen for his explanation about how he was able to cope with the scandal over his romance with his teenage stepdaughter: by learning from "all the reading I'd done through my life on the Holocaust.... Those who focused on what was actually happening to them--the daily horror...the reality of it--they survived."

 Virtually every reader will have some disagreements with this provocative and vigorously argued book. I thought Novick should have considered the Museum of Tolerance in Los Angeles, the "other" big Holocaust museum in the United States, which, unlike the one on the Washington Mall, seeks to relate Jewish suffering to the sufferings of other groups, to teach that all minorities have an interest in protecting one another from discrimination. I disagreed, too, with his assessment of the writing about rescuers--Christians who helped Jews. Novick says its purpose is to condemn the millions who did nothing by honoring the few who helped, but the work I know--particularly Gay Block and Malka Drucker's magnificent book Rescuers--simply affirms that, under the most difficult circumstances, ordinary people can be heroes. Novick suggests that the Holocaust curriculums mandated for public schools are a waste of time, teaching trivial lessons about being nice to everybody; I think the Holocaust ought to be taught in school.

 But Novick has made his case: The present state of Holocaust consciousness is not good for the Jews. It provides a negative way for Jews to define themselves as a people and a destructive way for Jews to relate to others. His wonderfully clear and intelligent voice, his insistence on posing difficult questions and his deep learning make this, for me at least, the history book of the year--not just for what it says about Jews but for what it reveals about cultural politics in America since World War II. 


「ホロコーストプロパガンダ及び洗脳」

「ホロコースト・プログラミング」
 「阿修羅ホロコースト2」の木村愛二氏の2005.10.6日付け投稿文「旧稿採録:ホロコースト・プログラミング」より引用しておく。

 概要「NHK で戦争責任のシリーズの1夜目の1.2日付け放送『人道に対する罪』だけは仕方なしに録画して、見ましたが、何らの論証無しにホロコーストを信じ込んで力む阿呆の典型でした。アメリカ、様、様から、お喜びのお言葉を沢山頂戴できることでしょう」。

 私がユーゴ戦争におけるNATOの戦争犯罪を裁く「独立戦争犯罪法廷」に参加した際、マンハッタンの書店のベストセラーの棚で見つけて買ってきた本は、ユダヤ人の歴史家で、教授の書いたものです。そこには、ハッキリと、アメリカのユダヤ人がイスラエルを支援する目的で、ホロコースト・プログラミング(教育の意味です)を開始したと書かれています。NHKなどの阿呆がやっていることは、今の今、パレスチナで子供を虐殺し続けている極右の応援になっているのです。呆れた話ですが、要するに、日本人の程度の低さの象徴です。

 イギリスの諺に曰く、「公然の敵よりも偽の友の方が悪い」のです。『人道に対する罪」の考案者は、シオニストのユダヤ人の弁護士です。目的は、泥棒(ナチ)の上米をはねるイスラエルの建国、アラブ人の土地への侵略の口実作りでした。拙著『アウシュヴィッツの争点』(1995) 参照。

 虚心坦懐に資料を読めば、そんなに難しい問題ではありません。いやしくも公共の電波を使って、「人道に対する罪」を論ずるのなら、それくらいの勉強はすべきです。それとも、東大の助教授を出演させているから、それで十分だとでも言うのでしょうか。戦前の東大教授達は、皇国史観の立て役者だったのです。戦後だって、似たようなものです。ましな教師は、ましな官僚と同様に、非常に少ないのです。

 「人道に対する罪」のでっち上げ、、またはホロコーストの嘘は、特に、中東問題の核心に触れる問題であり、重要な政治的問題です。私は、かつて労働組合の現役幹部などの位置にいた当時に、ヴェトナム戦争を世界の焦点として議論しました。それと同等に考えているのですが、今も昔も、あまりにも不勉強な自称反体制が多すぎて、呆れています。

 「戦争責任」の追及は当然のことですが、日本が事実行った残虐行為と並べて、シオニストの謀略宣伝に加担してしまうのは、実にお粗末な盛り付け料理なのです。

 私は、拙著『湾岸報道に偽りあり』の第一部「CIAプロバガンダを見破る」に、「CIAのプロバガンダ作製の秘訣は、30%の真実を加えることだそうである」とか、「歪め屋が放つ弾丸に脳天を撃ち抜かれたことに気付かず、歪め屋の仲間にされるメディア関係者」などと書きました。

 この種のメディア関係者は、自分では良心的な仕事をしているつもりだから、かえって始末が悪いのです。宮崎学の著書の宣伝文句に、「騙される奴は騙すやつの10倍悪い」とありましたが、私は、これをさらに増幅して、「騙されて騙すメディア関係者は10の自乗で100倍悪い」、とホーム頁に書きました。もちろん、メディア関係者だけではなくて、メーリングリスト関係者にも、同じ責任を持ってもらいたいものです。

 ことあらためてCIAと言わなくても、昔から、人を騙す技術、詐欺では、当然、真実を加えるのでした。私の母親も、戦後の物資不足の折、訪問販売で、表面が真綿で中身が屑綿の詐欺に、引っ掛かったものでした。

 「戦争責任」追及を遡れば、アメリカ軍が今のNHKを使って、日本の軍部批判をしながら、アメリカン・デモクラシー、実は、アメリカン・デマゴギーで、日本人を洗脳し、その一方で、人間宣言をした天皇と資本主義体制を守ったのでした。今度のシリーズにも、そういう「現代神話」の典型が表れているのです 。

 NHKがこのところ、しきりと「ホロコースト」問題で、こともあろうに、あの極右国家イスラエルでの制作番組を「丸投げ」放送したりしている状況の下では、連続番組の全体が齎す思想支配の効果を議論しないと、片手落ちというよりも、本命の狙い、または、「法廷」準備者たちが陥っている重大かつ決定的な錯誤を見逃すことになると考えるので、あえて、問題提起します。

 簡単に言うと、イスラエル支持のアメリカの億万長者のユダヤ人たちは、国際世論の動向に危機感を覚えており、世界中に金をばらまいて、相手が抱える問題と無理矢理にでも結び付けては、彼らの張りぼての守護神、「ホロコーストの嘘」を維持し続けようとしているのです。日本では創価学会を味方にしています。

 この認識は、表現こそ違いますが、私が一昨年、ユーゴ戦争におけるNATOの戦争犯罪を裁くために元司法長官のラムゼイ・クラークが代表の国際行動センターが主催した「独立国際戦争犯罪法廷」に参加した際、マンハッタンの大型書店のベストセラーコーナーで発見した本、ユダヤ人の歴史家、大学教授が書いた『アメリカ人の生活の中のホロコースト』にも詳しく書いてあることなのです。


【ホロコースト考最新見解】
 「ヘブライの館2」の「公式に否定された絶滅収容所『ダッハウ収容所』」は「ホロコースト考最新見解」として注目される(「阿修羅ホロコースト2」の救国の草莽の志士氏の2006.2.12日付け投稿「公式に否定された絶滅収容所  投稿者 鉄人 氏が雑談版に投稿していた語源の代名詞「ダッハウ収容所」の真相 転載」)。これを転載しておく。
 ●今ではホロコーストの「絶滅収容所」といえば、ポーランドにある「アウシュヴィッツ収容所」が有名である。「アウシュヴィッツ収容所」はホロコーストの代名詞にまでなっている。しかし1960年代までは、「絶滅収容所」と言えばミュンヘン郊外にある「ダッハウ収容所」のほうが有名だった。「ダッハウ収容所」がホロコーストの代名詞だったのだ。

(※ 「ダッハウ収容所」はナチスが一番最初に作った収容所である。戦争が始まるより6年も前(1933年)、ナチスの政敵や同性愛者、売春婦など「非社会的」とされた人々を収容するために建設された)。

 ●「大量ガス殺」の現場証拠として、「ニュルンベルク裁判」で、唯一、法廷に提出されたのは、記録フィルムの上映による「ダッハウ収容所」のシャワールームの水栓の映像のみであった。裁判では、このシャワー栓の映像が法廷で映写されただけで、「ダッハウ収容所」は「絶滅収容所」だと断定され、「絶滅収容所」はドイツ各地に存在したとされたのである。そして、反対尋問も許さず600万人のユダヤ人虐殺が認定された。

 世界の人々は、長い間、この裁判結果に基づいて、大戦中に大量のユダヤ人が「ダッハウ収容所」のガス室で虐殺されたと信じてきた。

 ●しかし今では、イスラエル寄りの学者でも、「ダッハウ収容所」が「絶滅収容所」だと言う者はいないし、ドイツ国内に「絶滅収容所」があったと言う者もいない。なぜならば、ドイツ国内に「絶滅収容所」は無かったことが公式に発表されたからである。「ニュルンベルク裁判」から15年後の1960年のことである。

 当時、西ドイツ政府の第二次世界大戦や「ホロコースト」に関するスポークスマン的地位に会った歴史学者、マーティン・ブロサット博士が、突如として、ナチスが大戦中「ガス室」を作ったのはドイツ軍に占領されたポーランドだけで、ドイツ本国に「ガス室」はなかったという趣旨の声明を発表した。

 「ダッハウでも、ベンゲル=ベルンゼンでも、ブッフェンヴァルトでも、ユダヤ人その他の収容者がガスで殺されてはいない。……ガスによるユダヤ人の大量絶滅が始まったのは1941年から1942年であり、……(旧ドイツ帝国の領土内ではなくて)占領下のポーランドの、アウシュヴィッツ=ビルケナウ、ソビボル、トレブリンカ、ヘウムノ、ベウツェックにおいてである」(1960年8月19日付『ディー・ツァイト』紙)

 ●このようにブロサット博士は「ニュルンベルク裁判」の判決に全く反する声明を発したのである。ブロサット博士はその後、1972年に「ミュンヘン現代史研究所」の所長に就任したが、この研究所は、それまで「大量ガス殺」の存在を「証明」するために実に多くの発表を行なっており、西ドイツ政府の歴史に関する見解を代弁する団体とみなされていた。しかしブロサット博士の影響で、従来の見解を捨て去ったのである。


 ●今では、あの「ナチ・ハンター」として有名なユダヤ人活動家、シモン・ヴィーゼンタールまでが、「ダッハウ収容所」を否定し、ドイツ国内には「絶滅収容所」はなかったと言わざるを得ないのである。

 もっとも、ドイツ国内に「大量ガス殺」収容所、すなわち「絶滅収容所」が存在したことは完全否定されたが、「ガス室」そのものは存在したとされる。場所は収容所ではなく「精神医療施設」。そこでは何万という精神障害者が「ガス室」で密殺されたのである。また、最近では、収容所内でも「実験的ガス殺」が存在していた、という研究報告も出されている。しかし、この「実験的ガス殺」は「絶滅収容所」のものと比べると非常に小規模なもので、そこでの死者は恐らく数千人程度で、1万人以下であることはほぼ確実だという。

 ●ホロコーストの代名詞として、「絶滅収容所」として名をはせた「ダッハウ収容所」は、現在は記念館になっていて、そのパンフレットには「このガス室はシャワー室に偽装したものですが、一度も使われたことがありませんでした」と書いてある。

 こうして、「ニュルンベルク裁判」で決定された「ドイツ国内にも絶滅収容所があった」という通説は、完全否定され、「ニュルンベルク裁判」で採用された唯一の映像は、決定的な物的証拠ではなかったことが判明したわけである。

 それまでは、ダッハウ以外のドイツ国内の収容所(ベルゲン・ベルゼンなど)でも、それぞれ「ガス室」における処刑を告発し、または自供する山ほどの「証言」があった。しかし、これらも吹き飛んでしまった。

 ●この一連の騒動のあと、「ダッハウ収容所」に代わって「絶滅収容所」として注目されたのが「アウシュヴィッツ収容所」である。「アウシュヴィッツ収容所」は、戦後10年間、ソ連が立ち入りを全面的に禁止していたため、十分な調査(実地検証)がなされていなかった。そのため、「アウシュヴィッツ収容所」の実態に関しては不明な部分が多く、現在も「アウシュヴィッツ収容所」を巡る論争は尽きない状態である。

 ●ちなみに、「ダッハウ収容所」を解放したのは、アメリカの日系人部隊である。

 ■■追加情報: ダッハウの「ハーブ園」と「医学人体実験」

 ●ナチス・ドイツではハーブと自然薬が大いに推奨されていたが、1930年代末、SS長官ハインリッヒ・ヒムラーの命令を受けたSSの植物学者たちは、ダッハウに広大な「ハーブ園」を建設した。こうして実験用およびSS隊員、軍への配給用として香辛料や植物の栽培が始まり、「ダッハウ収容所」は世界最大の「薬用植物研究所」をもつにいたったのである。

 多くの囚人たちが、ダッハウ湿原を耕した200エーカーの土地で様々な種類の薬草・香草類の栽培・乾燥・出荷にあたっていた。有機栽培で育てた花からハチミツも作られていた。

 ●アウシュヴィッツ収容所所長ルドルフ・ホェスによれば、戦争中、軍が使用した調味料のほとんどすべてがこの「プランテーション」で栽培されていたという。これは事業としても収益性が高く、SSは年間何十万ライヒスマルクを得ていた。

 そして1945年以後も、ダッハウの菜園は共同農場として運営が続けられ、何百人もの元囚人が労働を続けていたほど収益性の高いものだった。このダッハウの菜園以外にも、ヒムラーの命令によりSSの兵舎や収容所の多くで薬草の栽培が行なわれた。

 ●このように、「ダッハウ収容所」は世界有数のハーブとスパイスの栽培所となっていたのである。

 ●もちろん、「ダッハウ収容所」は囚人たちにとって「楽園」ではなかった。“死神”がうろつくような劣悪な生活環境であった。栄養失調、石切り場での重労働では数ヶ月しか命がもたなかった。

 また、ナチスの医者によって残酷な「医学人体実験」も行なわれていた。(主な人体実験に「低圧実験」「低温実験」「マラリア実験」「海水飲用実験」などがある。人体実験の被害にあったのはユダヤ人だけではなく、ジプシー(ロマ)も多く含まれていた)。

 ●微笑ましい風景に見える「ハーブ園」と、残酷でおぞましい「医学人体実験」──。この本来結びつきそうもない両者が、奇妙に共存していたのが「ダッハウ収容所」であった。ダッハウで「薬草」の栽培にいそしんでいたSS隊員たちにとって、囚人たちは価値のない「雑草」にしか見えなかったのかもしれない……

 

 ●ところで、当時のドイツにとって、囚人たちは貴重な「労働力」であったことも見逃すことはできない事実である。ダッハウではガスによる大虐殺はなかったが、過酷な労働作業が存在していた。(これを象徴するように、ダッハウのゲートには「労働が自由への道」という標語が掲げられていた。これと同じ標語が「アウシュヴィッツ収容所」のゲートにも掲げられていた)。

 ●ダッハウの「労働力」を使役して進められた大プロジェクトのひとつが、「モル」と呼ばれた巨大地下施設の建造である。防空構造を持たせたこの工場が生産する予定だったのは、「リンゲルタウベ(杜バト)」という暗号名で呼ばれた、ヒトラーの秘密兵器製造計画のひとつである。ドイツ空軍が連合軍機によって空から駆逐されつつあったため、ドイツ側は、猛烈な勢いで世界最初の実用ジェット戦闘機「Me262」の建造に取り組んでいたのだ。

 (この「Me262」は、何機かが1945年初期に離陸を果たすが、そのときにはすでに、連合軍の制空権は圧倒的なものとなってしまっていた)。

 阿修羅ホロコースト2」の西岡昌紀氏の2006.2.12日付け投稿「フランツ・ブラーハ(Franz Blaha)の「証言」は何だったのか?」は次のようにコメントしている。

 ダッハウの元被収容者で、チェコ出身の医師であったフランツ・ブラーハ(Franz Blaha)は、ニュールンベルク裁判で、証人として証言し、自分は、医者だったので、ダッハウのガス室で、殺された人々の検死を毎日やらされて居た、と「証言」して居ます。(笑)

 一体、ブラーハのこの「証言」は何だったのでしょうね?                           





(私論.私見)