428982 靖国神社の御祭神、御神体について

 (最新見直し2005.7.3日)

【「靖国神社の御神体(祭神)」について】
 靖国神社の特異な性格を確認しておく。通常の神社であれば、祭神として例えばアマテラスオオミカミ(天照大神)やスサノオノミコトのような歴史的な神話的意味合いを持つ「特定伝承人物ご神体」を祀っている。れんだいこの知る限り、靖国神社にはそのようなものはない。非常に歴史が新しいということの為でも有ろうが、靖国神社が祀っているのは「英霊の御魂」である。その「英霊の御魂」も後で述べるように皇室方と一般方の二種類に分けられている。この「御魂の鎮魂」が靖国神社の祭祀目的となっており、このことが靖国神社特有の性格を規定しているように思える。

(私論.私見) 「首相及び閣僚の靖国神社参拝」について

 近代国家は一般に「国策により国家の為に殉じた英霊」を手厚く葬っており、日本独自のものではない。戦後は、天皇の地位が相対的に低下し、議会の最高権力が国政を取り仕切ることになった。そういう意味で、時の首相及び閣僚が靖国神社に参拝することには「一定の根拠」が認められる。

 但し、靖国神社は、戦後のGHQによる行政指導の際に廃社論が持ち上がり、それを避けるために一民間宗教法人として棲息するという誓約により辛うじて存続が許されたという経緯が有る。それは、戦前あまりにも深く大東亜戦争聖戦論を鼓吹し精神的に支援したからであった。つまり、一民間宗教法人としての靖国神社の在り方には鋭く歴史性が纏っていることになる。

 戦後日本の新秩序は、政教分離を掲げたことから国家及び政府としては護国ないし鎮魂の神社を持たなくなった。然しながら、戦前の国家政策により命を落とした数十万の英霊が居り、これを国家及び政府が追悼しない在り方に対して遺族会からの強い批判が生まれている。

 さて、どうするのか。これが問われている。れんだいこが思うに、国立の非政治的追悼施設としての礼拝所を設けるのが賢明であろう。しかし、戦後60年を経てそういう施設を作ることが果たして賢明かどうかという問題がある。

 財政難の折柄、れんだいこは次のように提言したい。後でで触れることになるが、靖国神社には春秋の二大例大祭がある。首相及び閣僚はこの祭典に臨めば良い。大東亜戦争の国家的史的総括を済ませいない間の「首相の終戦記念日8.15日靖国神社公的参拝公式参拝」は、いろんな問題を纏いつけ過ぎていよう。本来、時の首相及び閣僚が8.15日に臨む行事は、なぜ靖国神社で無ければならないのか。仮に政府主催の終戦記念日祭典が設営され、そこへ出席し「元一日」を振り返るという意味での講話方式が望まれているのではなかろうか。

 それを「不作為」で為さずして、近隣諸国の強い反対の有る中を何の議論の練りあいも無いままに性懲りも無く毎年毎年参拝し続ける首相が居るとしたら、歴史責任に対するあまりにも無自覚なままの国家私物化の謗りを免れまい。

 2005.6.11日 れんだいこ拝

【「靖国神社の御神体(祭神)の貴賎序列」についてその1、皇室祭神】
 靖国神社宮司・陸軍大将・鈴木孝雄氏により靖国神社での祭礼の様子が明らかにされた。その記事が載ったのは、戦時中陸軍将校であった人たちによってつくられていた偕行社の機関紙「偕行」で、要約すれば次のようになる(特号・部外秘第805号、19411年、大江志乃夫「靖国神社」P147より引用とある)。

 れんだいこは原文を読んでいないので心許ないが、次のように記述されているとのことである。
 「靖国神社は皇室礼賛の神社であり、皇族の戦没に対しては格別の配慮を為している。明治時代の北白川宮能久(よしひさ)親王、昭和に入っての北白川宮永久(ながひさ)王は最高級の祭神として祭られている」。

 つまり、靖国神社の祭神は、「死して護国の鬼となる」にせよ、皇族方と庶民方の二系列で祭られて識別されていることになる。「外から見れば一つだが、中は二つに分かれている」(櫟本分署跡参考館「靖国神社」)ということになる。

 この霊璽簿(みたましろの帳簿)全体で一つの命(みこと)となり、個々の命は英霊と呼ばれる。これと鏡と剣が合わさって御神体となっている。
(私論.私見) 「北白川宮能久(よしひさ)親王であり、北白川宮永久(ながひさ)王」について

 つまり、靖国神社の祭神は、内部に立ち入ると皇族方と非皇室方の一般霊の二つに分かれているということになる。それにしても、何故北白川宮能久(よしひさ)親王であり、北白川宮永久(ながひさ)王が祀られているのかその根拠が開陳されていない。そも北白川宮能久(よしひさ)親王であり、北白川宮永久(ながひさ)王とは何者か、それも知らされていない。判明することは次の通りである。これによると、靖国神社の祭神「北白川宮能久(よしひさ)親王」と「北白川宮永久(ながひさ)王」は、「悲劇の裏天皇」とも云うべき素体を見せている。この二祭神を祀る靖国神社の精神的背景はよほど深いものがあると云うべきだろう。

 北白川宮能久(よしひさ)親王とは、数奇な運命を持つ幕末時の皇族である。この一部始終を確認しておく。幕末時に孝明天皇が急逝し(毒殺されたとの説がある)、代わりに睦仁親王が擁立された。睦仁親王も間もなく急逝せしめられたとの説があり、この説に従うと、長州が「成り代わりの睦仁親王」を明治天皇として即位させ、薩長同盟はこの明治天皇の朝儀を錦の御旗に掲げつつ幕末内戦に突入した。これについては大室寅之祐→明治天皇考で考察している。

 1867(慶応3)年、「最後の将軍」徳川慶喜は遂に将軍職を辞し「大政奉還」が実現した。ここに、十五代続いた江戸幕府は幕を閉じ、明治天皇を擁し、薩長勢力を主体とする維新政府が樹立された。世界的に見ても稀に見る「平和的な無血革命による政権交代」となったが、「インド、中国の怜にりこれ以上の内戦は英仏による日本植民地化にのみ利する」ことを見据えて「内戦の危機を憂い」た幕府側の高度な政治判断であった。

 しかし、にも関わらず、維新政府は、前将軍・徳川慶喜ら旧幕府勢力を、「朝敵」の名の下、征伐の対象とした。京都守護職だった会津藩主・松平容保も「朝敵」の汚名を着せられた。

 1868(慶応4).1.13日、鳥羽の戦いが始まり戊辰戦争の火蓋が切られた。幕府側は敗北し、徳川最後の将軍となる慶喜は、あくまで内戦を回避して江戸に逃走する。 3.17日(明治元.2.23日)、旧一橋家の床机衆と呼ばれた家臣が中心となって「彰義隊(「床机」に掛けたものであろう)」を結成し、朝敵とされた徳川慶喜を守ろうした。徳川慶喜は謹慎していた上野寛永寺大慈院から水戸の弘道館に退去する。

 江戸決戦が予想されたが、勝海舟と西郷隆盛の談義により、「江戸城無血開城」となった。

 これに従わなかった幕府側残党派の彰義隊は、東京上野の寛永寺に立てこもった。寛永寺は門跡寺院として、代々、皇族が座主を務めることになっており、公現法親王が門跡となっていた。この門跡が、靖国神社の祭神となる「北白川宮能久(よしひさ)親王」であり、ここで「北白川宮能久(よしひさ)親王」の履歴を確認する。

 「北白川宮能久(よしひさ)親王」は、元々江戸に住んでいた皇族で、1847(弘化4).4.1(旧暦2.16)日に伏見宮邦家親王の第9皇子として生まれ、1848(嘉永元)年、青蓮院(しょうれんいん)宮御相続。1858(安政5)年、輪王寺(りんのうじ)宮御相続。公現(こうげん)法親王と称せられていた。江戸決戦を控えて急遽、仙台青葉城に居を移し、上野寛永寺の門跡(もんぜき)となった。輪王寺の宮は、江戸決戦を控えて急遽、仙台青葉城に居を移していた。

  彰義隊は、「孝明天皇を殺して擁立した『成り代わり偽者の睦仁親王→京都明治天皇』などに従えるか」と反発して、輪王寺の宮(公現法親王)を擁立し東武天皇として押し立て対抗したことになる。これを輪王寺の宮から見れば、1868(慶応4).6.15日、 輪王寺宮公現法親王は、諱(い みな:本名)を陸運(むつとき)と改め、奥羽越列藩同盟(北日本政府)の「東武皇 帝」に即位。この日を以て、「大政」元年と改元。

 8月、慶喜と中川宮 (1863年にすりかわった水戸斉昭の息子の中川宮朝彦)が大室寅之祐明治天皇新政府に対しクーデターを計画したが失敗。

 西郷隆盛は、無血開城を推進した経緯もあって、彰義隊についてもなんとか穏便に解決したいと考えており、勝海舟を通じて彰義隊の解散を呼びかけたが交渉は難航し、事態を憂慮した新政府は、軍防事務局判事大村益二郎を江戸に派遣して、軍事的な打開を図ろうとする。7.3(5.14)日、大村益次郎は東征大総督の名において彰義隊討伐の布告を出し、7.4(5.15)日、ついに上野戦争が始まった。

  彰義隊は殲滅され、輪王寺宮はその後、上野を逃れ仙台に入り、奥羽越列藩同盟の盟主となる。奥羽越列藩同盟とは、4月に結成された「会津藩征討」を要求する維新政府を承認しない東北諸藩が「奥羽同盟」を結成し、維新政府に抵抗する。更に、翌5月には北越6藩をも加え、北陸以北の諸藩による「奥羽越列藩同盟」を樹立した。これを云う。

 奥羽越列藩同盟は、孝明天皇の御舎弟・輪王寺宮法親王(りんおうじのみや-ほっしんのう)を「東武皇帝」として擁立、「公儀所」(政府)を白石に、「軍事局」(大本営)を福島に設置し、列強諸外国に対して「独立宣言」をした。これは、「明治天皇(大室寅之祐)」を擁す薩長の維新政府に対する、北陸以北諸藩による事実上の「北日本連邦」の成立を意味した。

 かくて、「南朝」の血を引くとされた「明治天皇」を擁す維新政府と「北朝」(足利朝)の血を引く東武皇帝を擁す同盟が決戦することとなった。しかし、奥羽越列藩同盟は、徹底して内戦を回避した旧幕府方の支援を受けられず、結果的に敗北した。三春藩・河野広中らの裏切りや、同盟諸藩の脱退により、10月、同盟の敗北により終結した。ここに、東北以南の日本は維新政府に平定された。

 東北決戦に於ける会津降伏の際に、「成り代わり偽者の睦仁親王」と輪王寺の宮が講和を結び、1・睦仁親王が明治天皇になること、2・輪王寺の宮が還俗して北白川能久親王となることで生命及び身分が保障される、との条件で和睦した。

 この敗北を見て、旧幕府海軍副総裁(海軍次官)・榎本武揚(たけあき)派は新天地の蝦夷地(えぞち 北海道)に向った。「22."Authorities Defact" 北の大地に潰えた夢〜幻の蝦夷共和国 (1998.2.4)」を参照する。1868(明治元).8.19日、江戸湾(現・東京湾)を8隻の黒船(軍艦)が、北へ向けて出航していった。12.15日、彼らは箱館(現・函館)一帯を占領、蝦夷地の領有を宣言し、いわゆる世に云う「蝦夷共和国」とか「北海道共和国」と呼ばれる事になる榎本政権を樹立した。彼らは日本で最初の「選挙」を実施し、この「選挙」で榎本武揚を、蝦夷島総裁(共和国大統領)、副総裁・松平太郎を選出、諸閣僚をも選任した。

 海軍奉行・荒井郁之助、陸軍奉行・大鳥圭介、陸軍奉行並・土方歳三、会計奉行・榎本対馬・川村録四郎、開拓奉行・沢太郎左衛門、松前奉行・人見勝太郎、江差奉行・松岡四郎次郎、江差奉行並・小杉雅之進、箱館奉行・永井玄蕃、箱館奉行並・中島三郎助。顧問・フランス士官隊 ブリュネ 以下十名。

  しかし、「運命の女神」は共和国に微笑まなかった。一時は、"Authorities Defact"(事実上の政権)として共和国を承認した筈の列強諸外国が、共和国に対して局外中立の撤回、交戦団体不認定を通告した事で、大勢は半ば決した。列強諸外国が、「天皇制」を国体とする維新政府を「日本を代表する唯一合法な政権」として国際的に承認したことにより、共和国の命運は定まった。

 明治2.5.11日、箱館戦争最大の山場「5.11の決戦」が土方歳三の戦死で敗北。5.18日、榎本武揚ら共和国首脳は、最後の拠点・五稜郭を開城、維新政府軍に投降し、ここに共和国は名実共に崩壊した。これにより箱館戦争の終結であると同時に戊辰戦争が終結し、日本が維新政府によって「統一」された。「蝦夷共和国」は5ヶ月の幻共和国となった。

 元蝦夷島総裁・榎本武揚の「その後」。榎本は、維新政府軍への降伏後、獄中に繋がれたが、明治5年(1872)年、罪を許され、蝦夷地改め北海道開拓の指導者として尽力した。明治7年(1874)年には、海軍中将兼駐露公使に就任、日露間で、『千島・樺太交換条約』を締結、北方国境線を確定した。その後、海軍卿(海軍相)・逓信相(運輸通信相)・文相・枢密顧問官(天皇補佐官)・外相・農商務相(農林通産相)等を歴任し、子爵にまで登りつめた。

 この間の明治天皇の動きは次の通りである。1868(慶応4).1.13日、鳥羽の戦いが始まり戊辰戦争の火蓋が切られた。同1.15日、大室寅之祐が「明治天皇」として京都御所に向かい入れられる。三条等、勤皇派の公卿等も京都御所に復帰する。東京遷都。、明治天皇が、江戸城を皇居として入座する。

 1870(明治3)年、輪王寺の宮は、還俗(げんぞく)して伏見宮に御復帰、能久親王として軍籍に就く。同年勅命によりプロシヤ国留学を命ぜられ、同国歩兵・砲兵聯隊、参謀学校等で兵学を学ぶ。1872(明治5)年、留学中、北白川宮を相続する。1877(明治10)年、帰朝。近衛砲兵聯隊御隊附となる。1884(明治17)年、陸軍少将に任ぜられ、歩兵第1旅団長、参謀本部御出仕。1891(明治25)年、陸軍中将に任ぜられ、第6・第4、近衛師団の師団長を歴任。

 1894(明治28).1月、還俗していた北白川能久親王が近衛師団長に親補せられ、近衛師団を率いて台湾に御出征、台湾植民地化に赴いた。同10.28日、日本政府が突然「マラリヤにより台南に於て薨去した(享年49歳)」と発表した。表向きは「風土病で死んだ」とされたが、現地情報では、生番義民軍のゲリラによって負傷し、その後出血多量で戦死した、とされている。これは日本皇族の最初の海外戦死だった。

 「日本軍大将北白川宮能久親王、台湾にて殺さる」は次のように記している。

 北白川宮能久親王を記念して特に王者の礼で台北の円山に約1万6千坪の日本廟「台湾神社(宮)」(今日の円山大飯店に位置する)を作り上げ、その中に能久親王の位牌が奉納された。台北城の民衆に台湾神社を訪問しやすくさせ、特別に「明治橋」(今日の中山橋、中山北路が基隆河を跨ぐところ、円山がつながる)を作り、そしてその死亡した10月28日を国の祭日にして全台湾は休みの日となった。

 その後、靖国神社の祭神として移されることになった。没後、陸軍大将に任ぜられ、大勲位菊花章頸飾および功三級金鵄勲章を賜わり、国葬を以て豊島岡陵に御埋棺された。
 ちなみに、台湾神社(宮)」の運命も奇異である。1944.10月末、東京から台北を通ってインドへ飛行機がとんだ。この機には「インド義勇軍」とビルマ方面で日本軍とイギリス軍に抵抗したインド独立運動指導者「チャンドラ・ボース」が乗っていたが、台湾神社にぶつかった。その時身につけて持っていた「国を回復する資金」(宝石)が、「台湾神社」の境内に散らばり、神社はこの事故のために燃えて壊れた。
  靖国神社のもう一人の皇族祭神・北白川宮永久(ながひさ)王の運命も奇異で、「悲劇の家系・北白川宮家」を証左している。その履歴は次の通りである。ある。「永久王(ながひさおう)」その他を参照する。

 白川宮家は、1870(明治3)年、伏見宮第二十二代貞愛親王の王子、智成(さとなり)親王が創設によって創設された。しかし家祖智成親王はわずか17歳で夭折。宮家は智成親王の兄である能久親王が継ぐこととなった。だがまたしても能久親王が日清戦争のおりに台湾で戦死。49歳の若さであった。

 第三代成久王は明治20(1887)年に誕生。わずか8歳で父宮の死去によって宮家を相続。成久王は陸軍閥の北白川宮家の伝統にのっとり、陸軍士官学校、陸軍大学校を卒業。陸軍砲兵少佐となり、大正 6年には大勲位に叙せられた。しかし同12年、視察のために訪れていたパリで自動車事故により死亡。37歳の宮さまざかりであった。

 北白川宮第四代永久王は成久王の王子として明治43(1910)年に誕生、大正12年父宮の死去により宮家を相続。父宮 と同様に陸軍士官学校、陸軍大学校と進み、これまた父宮と同じ砲兵少佐の任に就いた。この間、ホ○ナベ元帥と交友を深める。昭和10年、尾張徳川の裔、男爵徳川義恕(よしくみ)の娘祥子(さちこ)と結婚。幸福な人生を歩むかに思われた。

 昭和なって蒙古へ参謀として派遣される。昭和15年、現地の日本軍が歓迎の閲兵(えっぺい)分列していた時、デモ飛行機の曲乗り中に故障して操縦士の操作が誤り臨席していた宮様にぶつかり死亡せしめられた(享年31歳)。「蒙彊方面で演習中、不時着した飛行機にひっかけられて死亡」とされている。

 妻の祥子はその後宮内庁の女官長を務め、侍従長の兄義寛とともに侍従ブラザーズとして天皇のためにその身を尽くした。親友ホ○ナベ元帥はその後幸せな生涯を送り、美しい娘にも恵まれた。しかしその孫はおかしな連中と付き合ったりして色んな意味で問題児である。

 父永久王の跡を継いだ第五代道久王は昭和22年、臣籍降下。北白川道久を名乗り、ここに宮家としての歴史を閉じる。道久王はその後東芝に勤めた。「永久王(ながひさおう)」は、「宮さまを一社員として扱うなど、東芝不忠なり」とコメントしている。


【「靖国神社の御神体(祭神)の貴賎序列」についてその2、一般祭神】
 これに対して、一般霊は次のように祀られている。
 「非皇室方の祀り方には階級制度が色濃く反映している。『死して護国の鬼』となった戦没者達は、生前の階級に従って序列化される。霊璽簿(みたましろ)と呼ばれる帳簿に、死没日、出身地、その人の階級が書かれる。その後に勲何等、金賜勲章を貰っている場合にはその等級が記される。この帳簿全体で一つの命(みこと)となる。各個は英霊であるが、全体として『一命(みこと)』として扱われる」。
(私論.私見) 「一般霊の祀られ方」について

 つまり、英霊の御魂は、徹底的に階級の等級別に祀られていることになる。
 天皇の靖国参拝の様子は次のように為されるとのことである。
 「天皇の靖国参拝の様子は次のようである。主賓として天皇が立っており、侍従長が侍る。そこへ宮司が玉串を持って侍従長に渡す。侍従長が受け取り、天皇に渡す。天皇は玉串を持ったまま礼拝することなく(親閲)祈念を凝らす。暫くして玉串を侍従長に渡す。それを宮司が受け取り玉串を捧げ礼拝する。この間、天皇が礼拝することは一度も無い」。
(私論.私見) 「天皇の靖国参拝のの際の無拝の慣例」について

 つまり天皇は主賓として遇され、礼拝することがないとのことであるが、その根拠は如何に。。
 靖国神社のそういう階級的性格にも拘わらず、民間は、戦没兵士の御霊を篤く祀り続けている。その心情は次の言葉が適確に表現している。
 「靖国の宮にみ霊は鎮まるも 折々帰れ母の夢路に」(自分の部隊で戦死した若い将校の葬儀のときに、その部隊長が送った電文。露骨に母のところに帰れ云えば軍律違反になるので、せめて夢路に通ってやれという思いやりの歌として胸を撃つ)。
(私論.私見) 「靖国神社宮司・陸軍大将鈴木孝雄氏により靖国神社での祭礼の様子伝の価値」について

 「靖国神社宮司・陸軍大将鈴木孝雄氏により靖国神社での祭礼の様子伝」は貴重情報であり、靖国神社論の前提とすべき必須知識ではなかろうか。「れんだいこの靖国神社論」の生まれる所以がここにある。

 2003.10.21日 れんだいこ拝




(私論.私見)