428989 靖国神社の再創建に向けてのれんだいこ提言(れんだいこの靖国神社論)

 (最新見直し2006.7.28日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 れんだいこが 「靖国参拝問題」に興味を覚えるのは、この問題を通して自ずと大東亜戦争の歴史的総括に至るからである。その道中で百鬼夜行の諸説が聞けるからである。2005年は戦後より丁度60年、この問題は未だに野晒しにされている。識者は何をしてるのだろう。

 「靖国参拝問題」に解決の道筋はあるのだろうか。これには、1・靖国神社側の意向、2・中国・韓国等の意向、3・政教分離問題、4・A級戦犯の合祀・分祀問題、5・首相・閣僚の公式参拝の是非、6・靖国神社の民営・国営の是非、7・千鳥ヶ淵墓苑との絡み、8・新国立墓苑創設等々様々な角度からの思案が要求されている。以下、考察してみることにする。

 2005.5.12日再見直し れんだいこ拝



【靖国神社問題の争点考】
 2001.8.15日、小泉首相の靖国神社公式参拝を廻って議論がかまびすしい。いわゆる「靖国問題」の争点は、次の点ある。
 首相・閣僚の靖国公式参拝は、憲法20条の禁じる「政教分離」規定に抵触するのか。
 その際A級戦犯合祀をどう見るのか。
 毎年繰り返される不毛論議をどう解決するのか。

 以上を踏まえて、「この際、今後に向けて『靖国問題』をどう決着せしめるのか」に智恵を発揮せねばならないのではなかろうか。れんだいこ史観によれば、今からでも遅くない次のことを提言しておく。
 かっての大戦の史的総括を行う審議会を早急に設置せよ。
 10年掛かりで資料整備とそれらの総括を積み重ね、国家意思としての一定の見解を確立せよ。
 この流れで「靖国神社問題」にも何らかの方向付けと政治的決着を図れ。
 
 いつまでたっても喉仏のトゲのような(C)問題ではあるが、その政治的解決を(A)(B)抜きに強行することには反対である。特に、現下の風潮はこの動きが強く、それはかって大東亜戦争にひた走っていった唯我独尊的な「世界からの孤立への歩み」と同じ道ではなかろうか。結果、歴史は繰り返し、反省無き者は手立てを生まないが故に二度も三度も悲惨を蒙ることになるだろう。

 残念ながら、我が左翼にはこうした課題に対する対応能力が無いように思われる。公式的な暗黒史観に依拠するが故につぶさに歴史考証に向かうこと無く、万年反対でお茶を濁して責任果たし顔してきた経過しか見えてこない。己の党の歴史さえ記録しようとしない指導部にそれを望むのは魚を得ようとして山に分け入るようなものであろう。個々の動きを見れば不遜な言い回しであろうが、その流れを国民的に組織し得なかったし今もその意志をからきし見せていないという意味で、れんだいこは敢えてそのように指弾したい。

 「2001原水爆禁止運動」を見てみよう。今年も原水協と原水禁が分裂したままの大会となっている。その言い草が「特定の観点を持ち込んだのが分裂の原因であり、相手のほうが悪い」と、双方が同じ論調で対立している。こんな馬鹿な話があるだろうか。「特定の観点(主張)を持ち込んだのが分裂の原因」と双方が認識を一致させているのであれば、どちらが持ち込んだのか共同テーブルで白黒つければ良いだろうに。

 責任のある方が謝罪し、和解する、これが国民に責任を持つ政党の採るべき態度だろう。それを延々と何十年も解決せぬまま相手に責任をなすくりつけたまま分裂大会し続けている。こういう手合いだからして、小泉首相の公式参拝という挑戦的事態を迎えても為すすべを持たぬまま様子見せざるを得ず不恰好な姿を晒すのも止むを得ない。

 お蔭さんで先の参院選挙ではかような社共ともどもが痛い目に会わされた。それでも両党首とも座椅子を放さず捲土重来を期そうとしている。我々は代替わりさせようとして痛い目にあわせた。遭わされた方は、党勢回復させるのが真の責任の取り方だからという詭弁でますます固執しようとしている。かような愚劣な論理を弄ぶ党派の変調指導から一刻も早く我等が自立し、我々の見識でこの作業に向かうこと、
国家的事業として過去の大戦の史的総括に取り組ませしめることが一番肝要な時代に入っているのではなかろうか。

 市民運動の隆盛が望まれる所以がここにあるように思われる。その第一歩として、インターネット交流による世論作りに向かいたいとか思う。御意の士よ、共に目指さん!

 2005.5.12日再編集 れんだいこ拝

2001.8.15に寄せてのれんだいこ見解。 2001/08/12
 【靖国神社問題の本質について】

 このところ噴出している国旗・国歌(日の丸・君が代)問題も、新教科書問題も、靖国問題も、全て流れは一つのところから生じているように思われる。明治維新以来かって我々の父祖は、朝鮮、台湾、北方領土、中国大陸へと軍靴を乗り入れた。時代の趨勢まで視野に入れてでも構わないが、その歴史的功罪について、戦後の我々はこれを不問としてきた。この見直しが喫急に要請されている諸問題が噴出してきているように思われる。にも関わらず、論議がそこに向かわないままのいつもの是非論でやり過ごそうとされているように見える。本当のところは、10年がかりの国家プロジェクトによる審議会の創設−これが要求されているのではなかろうか。もっとも、審議会を設置しただけでは意味は無かろうが。

 思えば、戦後直後は廃墟からの再建に忙しく、それをクリヤーした60年代以降は経済成長に忙しく、かくて「軍靴の時代の総括」は後回しにされてきた。あまりに生々しかったという事情が作用したのかも知れない。ひとえに「過去のことを水に流す」伝統的な国民的処世法がそれを良しとさせたのかも知れない。とはいえ、70年以降から今日に至るまでの間には、そろそろかっての大戦の見つめ直しに向かえる機会はいつでもあったと思われる。

 不幸なことに、この間政府を与ってきた与党自民党の特にタカ派系は「軍靴の時代」を居直る陣営であり、その史的総括に向かうよりは戦後憲法の改正こそ肝要とする政治勢力たちであったからして、与党自民党のハト派系はこのタカ派と合従連衡する間柄だからして総じて自主的にこの作業に向かうことは無かった。不幸なことに、野党社・共は政府与党の失政を口先で批判することに忙しく、労組運動も含め主として経済発展のおこぼれとしてのパイを広げる運動にうつつを抜かしてきた。

 60年末頃から70年代にかけてベトナム反戦闘争が風靡したことがあったが、専らアメリカ帝国主義の不遜に対して抗議するという平和運動を基調にしたものであり、その範囲で国民的支持を得ていた運動でしかなかったように思われる。この時代に於いても、日本の国の在り方が問われることはなかった。

 80年、90年代のこの20数年間は、国策として有為なる何事かが為されたようには思われない。恐らく、思いがけなくも奇跡の成功を遂げた戦後の歩みの惰力を原資にして歩んだだけであり、とうとうその遺産全てを吐き出す時代に入ったという反省やんぬるかなの時代でしかなかった、とさえ私は思っている。

 いいたいことは、戦後50年を過ぎて今なお「軍靴の時代」は、公式的な左派的暗黒史観か右派的戦前秩序礼賛論でしか省みられておらず、両者ともそのおぼこそが国際関係の軋轢を生みつつあるという時代に入っているのではなかろうか、という状況認識についてである。どこぞの国のように下手な歴史教育、思想教育を受けるよりは空白の方が良かった面があるかも知れない。とはいえ、無知のままに晒されてきたことが良かった時代は終わり、今やそのツケがとうとう回ってくる時代に入ったいう認識をせねばならないのではなかろうか。

 この間歴代首相は、外国訪問時において反省と責任の弁を適宜に述べてはきた。しかし、いかんせんその場凌ぎのレトリック的なものであり、我々にも当然相手方にも琴線に触れるような歴史見解が披露されることはなかった。加えて、出向く首相によって大臣によって見解が異なるという事態が生まれているが、外交的に無責任且つ危険な綱渡りでしかないように思われる。

 これから諸外国との国際協調と経済交流は強まることがありこそすれその逆は無い。新しく友人形成をするにせよ、その際に僅か50年前の現に生き残りの者も多い戦争体験に対する国家的弁明と認識を持っておくことは必要なことではなかろうか。昔のこととして水に流せるのは加害者側の傲慢不遜でしかない。ましてや、小泉首相の云う如く、加害者の側からの「罪を憎んで人を憎まず」などとの説教が許されるなどという事は有り得てならない。これも又レイプ論理であろう。このイロハさえ分からぬままに中国・韓国の姿勢をなじる者に国家の命運なぞ託し得ようか。

 最後にれんだいこならではの見解を添えておく。8.15日靖国神社公式参拝の口火を切ったのは商業新聞の覚えの目出度い三木首相であった。ヌエのような三木ならではの「私人としての参拝である」などと言い訳しながら。次にエポックを為したのは中曽根首相であった。この時は堂々たる「内閣総理大臣としての公式参拝である」と大見得を切っての参拝であった。が、この時も神道形式に拠らぬ参拝であるから合法的であると云い為して手水も洗わず拝もしないという姑息さを見せている。春秋の例祭ならぬ8.15日に参拝するとならば、それなりの確固とした歴史観と責任において十全に参拝すれば良かろうに。

 何を隠そう、この両名こそが百年の逸材田中角栄をロッキード事件の縄にかけ、政界失脚を策した時の首相・幹事長コンビであった。商業新聞はこのことにあまり触れない。ドラ・太鼓を叩き鐘を鳴らしてロッキード事件を書き立て、判決前から有罪を前提にして犯罪者扱いし、他方で三木・中曽根コンビにエールを贈たが、奇しくもこの両名が8.15日靖国参拝の立役者となっている。

 これは果たして偶然だろうか。付言すれば、この両首相が国益有用な何事かをしてくれただろうか。経済が失速して見えてくるのは、この両首相の舵取り当たりから日本は隘路に踏み入ったのではなかろうかという思いが避けられない。

 話を戻して。してみれば、戦前も戦後も靖国神社は時の政治に深く関わってきている特殊な神社であることが知れる。我々が知る神社一般は、親が立木の上から子供が遊ぶのを見守るような隠然とした配慮で牽引力を持っているところに特徴がある。だが、靖国の歴史はあまりに政界表舞台にしゃしゃり出てくる氏素性の良くない神社であることも凝視されねばならないと考える。これにつき、靖国が望んでそうなったのか政治利用され続けたのか、その真偽は分からない。

 れんだいこは、そういう靖国の歴史を顧みて、解体から再生の道筋にこそ、靖国で会おうと云って散らざるを得なかった英霊たちに応える祀り方があると考える。英霊を祀るそのこと自体に非がある訳ではなかろう。サヨ思潮の「英霊を祀るそのこと自体に非がある」思潮には断乎反対である。国策で殉じた者を国家ないしその負託を受けた神社仏閣が祀るのは古来よりの祖法である。このこと自体を否定せんとするエセ論理とは闘わねばならない。

 付言すれば、靖国に代わる新たな戦没者慰霊方式が模索されつつある。れんだいこはこの動きに反対である。無意味な国費の冗費にしかならないであろうから。真に望まれていることは靖国神社の革命的再生であり、それは革命派の権力が樹立されるまで実現されることはないだろう。

 2005.10.25日再編集、2006.5.1日再編集 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評その52 れんだいこ 2005/05/30
 【小泉首相の靖国神社参拝問題の本質について】

 
れんだいこは、「小泉首相の靖国神社参拝問題の本質について」を「靖国神社の再創建に向けてのれんだいこ提言(れんだいこの靖国神社論)」( daitoasenso/sengodemocracy_yasukuni._saisoken.htm)に記した。ここではその一部を転載する。

 【 小泉首相の靖国神社参拝問題の新展開】


 
2005.4月、中国で、日本右傾化の象徴的現象批判として、小泉首相の度重なる靖国神社参拝問題が槍玉に挙げられ、反日デモにより在中日本大使館や企業、商店が投石されという騒ぎが発生した。日本のナショナリズム派はこれを批判して悦に入っている。しかし、れんだいこは首肯し難く、この際れんだいこの観点を披瀝しておこうと思う。

 「首相の靖国神社参拝」は、小泉式政治手法ではますます事態をこじらせるだけであろう。それを構わず強行突破するのが如何にもレイプ犯小泉らしさではあるが、それはどうぞ個人的趣味の世界に止めてくれ。政治は、日本の国家と人民の現在と将来を与る重責大切事であるが故に、そういう個人趣味嗜好による政治はよしこにしてくれ。

 「靖国神社参拝問題」は何処に問題性が認められるのだろうか、これについて論ずる。れんだいこ史観に拠れば次のようになる。靖国神社は明治維新以降に創建されたという神社の中では非常に新しい神社であり、その由緒縁起は幕末志士を弔うことから始まっている。よって、このこと自体に非はない。且つその優れたところは、仏教式宗派毎の弔いに拠らず神道形式で一括菩提化させたところに斬新さが有り、これが受けたように思われる。このこと自体にも非はない。

 
この手法が明治維新以来の国家ナショナリズムの気運と合致し、その後の日清、日露以下の国策戦争の度に発生した戦死者を祀ることで人柱を増やして行き、靖国神社イズムとでも呼べるものを生み出していった。これが習い性となり軍部直轄運営の神社として昇格していった。兵士は、戦地で惜しくも生命を落とせば靖国神社に祭られるという事で安んじて国策に殉じていった。遺族は、戦地に散った我が子に会いに靖国神社に参詣するという方式が確立されていった。

 「靖国神社問題」は実に、靖国神社イズムのこの手法の是非を問うのが本論である。国家が国策に殉じた者を祀るのが悪いはずがない。遺族が訪れることが悪いはずがない。むしろ、国策で遂行した以上国家にはかく為すべき政治責任があるというべきだろう。

 ということは逆に、日本の左派運動が運動途上で倒れた者を祀る術を生み出していないことを考えると、それは左派党派のお粗末さを示しているのであって政治責任を果たしていないとさえ考える。

 しかしながら、問題はここから始まる。靖国神社は、等しく戦死者を祀るといいながら、人柱に対してかなり政治性のある祀り方をしていることに気づかねばならない。まず、門地門柄に於いて皇室に対しては格別の祀りをするという階級的差別を敷いている。これはご神体の祀り方にも現われている。(これにつき、れんだいこは最近ややこしい問題があることに気づき始めているが、ここでは触れない)

 次に、国策に殉じた者を祀るという資格要件に拘り、不幸にして幕末時に於ける幕府側の戦死者、官軍のその後の追討戦による犠牲者例えば会津白虎隊の兵士は祀られていない。明治維新以降に於いても不幸にも政策の違いにより国家に反逆した咎で散った例えば萩の乱、西南の役等々の戦死者は祀られていない。他にも、当然の事ながら、明治から大東亜戦争の過程で国策上反逆を為したと判定された者は祀りから排除されている。

 ここから判明することは、靖国神社は創建以来かなり政治性のある動きをしており、時の政治権力と歩調を合わせ政治利用したりされるのを好んできた傾向が有るということである。「靖国神社参拝問題」は実に、靖国神社のこの時局迎合的政治的体質を告発するのが次の本論となるべきである。

 敗戦により、靖国神社は、解体寸前に追い込まれた。一民間宗教法人と格下げされることにより辛うじて存続を認可された。以来、靖国神社に牢として染み付いたこの体質は大きく掣肘され、戦前の賑わいは見る影も無く細々と生き延びることになる。

 ところが、戦後政府与党内のハト派とタカ派の政争に於いて、ロッキード事件という青天の霹靂事件の勃発と共にタカ派が次第に優勢になっていくのに応じて、靖国神社が政治舞台に復活し始める。

 三木首相はハト派のバルカン政治家として知られているが、れんだいこ史観に拠れば何のハト派であるものかは。彼は穏和系タカ派に位置づけられるべきであろう。それはともかく、その三木首相の「私人資格参拝」を経ての中曽根首相の「公式首相参拝」辺りから、靖国神社と時の政権との露骨な政治的結託が露骨になり始めた。

 目下の小泉政権ともなると、靖国神社側の協力の実態までは分からないが、首相の靖国神社参拝こそが政治責任として両者呼吸を合わせて「首相の責務としての靖国神社公式参拝論」を常態化しつつある。しかし、小泉のする事為す事は全て変調であり、現代世界を牛耳る国際金融資本帝国主義者の奴僕であるからして、小泉の靖国神社参拝は靖国神社レイプひいては解体へ繋がる可能性がある。このことを靖国神社側から見れば、同神社は自ら自己否定の道へ誘い込まれているとも云えよう。ここでは、これ以上のコメントはしない。

 先の、中国人民の反日デモは、小泉政権の下で急速ファナティックに進行しつつある右傾化に対する言いしれぬ不快感から発生したものと思われる。あるいは、日中友好の動きを面白からぬ勢力が背後で糸を引いているかも知れぬ。いずれにせよ、その責任は、かっての大東亜戦争の国策責任を未だ総括しない日本国の対応の拙さと、それを無反省にしたまま再び戦前並みの手法で政府と靖国神社が提携し始めている愚策ぶりにあると云えよう。

【日中両国政府が編み出した「A級戦犯罪被せ論(スケープゴート論)」について】
 「日本国首相の靖国神社公式参拝」に対する中国政府及び人民の不快感には道理が有る。案外このことが知られていないのでれんだいこが立論しておく。

 「日本国首相の靖国神社公式参拝問題」は、1972年の田中政権下での日中国交回復交渉の評価と継承に関わっている。つまり、田中首相ー大平外相コンビがものした日中国交回復交渉史を国家責任に於いて踏襲するのか反故にするのかに関わっている。こう立論すれば驚かれるだろうか。れんだいこはそう思っている。

 本来、国家は連綿責任が有る訳だから、革命ないしはクーデターでも発生しない限り歴代政府は国と国の約束を遵守する義務が有ると云える。

 想起しよう。田中首相ー大平外相コンビ.による日中国交回復交渉は、戦前の日帝による軍靴の損害賠償責任問題を廻って大いに対立した。しかし、日中国交回復を押し進めたい日中両国政府は、ある種の政治的取り決めを為すことによりこの問題を解決した。それが、概要「戦前の不幸な戦争は、日本軍部が引き起こした歴史的犯罪であり、日本人民にはその罪はない。悪かったのは日本の一部の戦争指導者であり、一般の日本国民ではない。日中両国人民は友誼を求める」というものであった。

 それは、いわばA級戦犯をスケープゴートにして罪を被せることにより、天皇も含めた国家責任を免責するという政治的トリック論法であった。しかしながら、こういう風に立論しない限り、戦災賠償責任問題における中国側の請求権放棄及び日中両国政府が望んだ国交回復推進の打開の扉が開かなかった訳である。事実、日中国交正常化による平和友好条約協定交渉は、この歴史観を産み出すことにより条約締結の関門を突破した。


 してみれば、「A級戦犯罪被せ論(スケープゴート論)」は、時の日中両国政府が編み出し共通の歴史観として獲得したものであり、相互にこれを守ることが国際的信義に関わる問題となっている、と受け取るべきだろう。事実、中国政府はこの歴史観により中国の人民大衆をなだめ、歴代政権がこの観点を継承してきている。日本政府もこの観点を保持してきた。何とならば、これは国家と国家との取り決めであったから。

 問題は次のことにある。小泉首相は、こういう歴史的積み重ねに対してもレイプ式で、無造作にこれを投げ捨てて顧みない癖を持つ。小泉政権が今後とも、「日中両国政府が維持してきた取り決め歴史観」を変更し、「A級戦犯罪被せ論は間違い」で、「罪を憎んで人を憎まず論」で、A級戦犯の靖国神社への合祀、それを踏まえての首相の公式参拝、且つ終戦記念日に合わせた首相の公式参拝を強行しようとするなら、これは恣意的にできることではない。このことを分からせる必要が有るのだが、彼は聞く耳を持たない。というかそもそも聞き分け能力が欠損しているのではないか、と思われる。

 本来であれば少なくとも、政府は審議会を設け、国民的合意の得られる新たなる見解を産み出す必要が有る。なぜなら、「A級戦犯罪被せ(スケープゴート)論見直し論」には学術的には根拠がある訳で、「A級戦犯の見直しが良くない」という訳ではないから。

 
然しながら、日本側の天皇責任免責、中国側の対日賠償権放棄の双方をクリヤーし、日中友好を推進させるための「新たなる論理」を生み出すことはかなりの難事であろう。なぜなら、「A級戦犯罪被せ論(スケープゴート論)」は、A級戦犯には申し訳ないが上手く出来た政治的解決策であるから。

 小泉首相が、首相の公式参拝を強行し続ける為には、「新たなる論理」を生み出す必要が有り、それを獲得し得て後に事前に中国政府と外交的折衝する必要があろう。それらを一切為さずして、神学論争一蹴の類の論で小泉首相のワンマンポリテックスで転換できるとするなら、この国は法治国家ではない。それは王権的独裁政治である。且つ、何らの「新たなる論理」を生み出すことなくこれを遣り続けるのは暗愚政治でしかない。

 「日本国首相の靖国神社公式参拝」は概ね以上のような問題を抱えているのではなかろうか。これを認識せずに、中国政府及び人民の造反有理的反日運動に対して「内政干渉であり」、「躾け教育の必要有り」などと論ずる輩は、手前こそ躾け教育されねばならない側の御仁であろう。

 問題は次のことにある。国会で新論拠を獲得しないままの小泉首相の靖国神社公式参拝強行は、まさに政治的レイプ所業である。思えば、この御仁は徹底的に反法治主義である。憲法改正ならぬままの現行憲法下でのイラクへの自衛隊武装派兵も然りで徹底的に反法治主義である。法治主義に随う限り出来ないことを平気で為す政治的サイコパスである。れんだいこは、戦後首相の中で、これほどアウトローな人物を知らない。そのサイコパスぶりが受けて支持率が高いという何とも妙ちくりんな日本政治の現状では有るが。

 識者は云わないが云うべきである。上が乱れれば下も乱れる。上が法を守らなければ下も守る必要がない。こういう時代には、法の番人はあっても、れんだいこに云わせればロッキード事件での政治主義以来頭がヤラレテイル。もはやあっても無き存在で、そういう訳で社会規範がますます乱れていくことになろう。今、上からの火付け強盗の類が進行中である。これを支持するマスコミ族の犯罪も含め、正されるべきであろう。世の中は次第にアナーキーに向う。アナーキーならまだしもやがてアノミーと化してこの国は滅びるだろう、と。

 2005.5.30日再編集 れんだいこ拝

【「小泉首相の靖国神社参拝時の英霊と語る」考】
 小泉政権は、史上初の戦地への自衛隊武装派兵を遂行し、今もその手綱を弄んでいる。大東亜戦争で云えば、かって米英軍と戦って散った英霊に詣でて菩提を弔うと称しつつ、その英霊が闘った当の相手の鬼畜米英の配下軍として自衛隊を自在に派遣している。これが敗戦の悲哀というべきか、彼らからすれば馴致効果であろう。

 ところで、小泉首相はかって、大東亜戦争史観を聞かれ、国会答弁で、「そもそも強大な敵米英軍と闘った事自体が間違い云々」と述べている。こうなると、解せないことになる。小泉首相は靖国神社へ英霊と語りに行くと云うが何を語っているのだろう。かの戦争が間違いという小泉史観に拠れば、間違いの戦争に殉じた英霊の死も又間違いで無駄死にということになりはしないか。こうなると、小泉首相が英霊と何を語っているのか告白させるべきであろう。ひょっとして英霊までもがレイプされていることになりはしないか。

 ついでに述べれば、靖国の英霊はむしろ、目下のイラク戦争で例えれば、鬼畜米英軍と闘っているイラク人民レジスタンス派と立場が相似している。イラク人民レジスタンス派は、大東亜戦争で鬼畜米英軍と闘って散ったかっての英霊達と同じ心境で聖戦を遂行しているのではないのか。

 ところが滑稽なことに、小泉首相は、自衛隊を米英軍配下で参戦させている。他方で靖国神社参拝を強行し続けている。辻褄が合っているだろうか。彼は、春秋の例祭ではなく、何の為に終戦記念日や謹賀新年辺りを狙って必要以上に靖国神社を参拝するのか、所信を述べてみよ。報道機関は語らせるべきであると考える。

 思いつくままに述べてみた。いずれ多角度から考察してみようと思う。

 2005.4.30日 れんだいこ拝

【「2005.10.17日小泉首相の5回目のコソドロ式靖国神社参拝」考】
 小泉首相は、2005.10.17日、秋季例大祭に合わせて第5回目の靖国神社参拝を挙行した。こたびは私的参拝を演出し、一市井人並に一般通路から詣でポケットから引き出した賽銭を投げ、仏教式手合わせ30秒という略式参拝ぶりであった。不思議なことに、中国、韓国から又もや抗議がお見舞いされ、国内ではこたびのような私的参拝なら可論が生まれている。れんだいこは、1・小泉首相の私的参拝も、2・中、韓の抗議も、3・国内の私的参拝可論のいずれもナンセンス極まりないと思う。その理由を書き付けておく。

 1・小泉首相の私的参拝について。

 小ネズミは、誰に知恵をつけられたのか、首相たるものの私的性がどうやって確保されるのか不明であるが、私的参拝の要領でやれば首相が参拝しても私的になるとの姑息な論法でこたびの靖国神社参拝を挙行し、居直った。だがしかし、それは、小ネズミの靖国神社参拝精神の付け刃ぶりを示しており、精神の貧困を証左しており、靖国の英霊を侮辱している。

 小ネズミに申し渡しておく。一般に職階が付けば、それが重責であればあるほどましてや公的なものであればなおのこと私人性は無くなる。職階の責務からみなされるようになるという意味である。僅かに、公務を離れた時間帯、純然たる私用の時のみ、大目に見られるに過ぎない。これが、官民問わずの職責原理である。よって、一国の首相の靖国神社の参拝に於いて私的参拝というのは有り得ない。首相を辞め、議員を辞め、一民間的市井人になった時のみ私的参拝が有り得る。これが常識であるところ、かって三木首相が戦後初の8.15日首相の靖国神社参拝に際して私的参拝論を詭弁して以来、罷り通ることになった。云う方も云う方だが聞く方も聞く方だろう。

 れんだいこ観点からすれば、首相の靖国神社私的参拝は有り得ない。ならば、行かざるべきか行くべきか思慮せねばならない。敢えて政治信条によって参拝するのであれば、首相らしい格式で参拝せねばならない。こたびのようなコソドロ的参拝は有り得てならない醜態である。まさに小ネズミならではのサイコパス性によってもたらされた参拝であり、靖国神社の首相参拝史に於いて醜態が歴史に刻まれたことになる。普通には、穴があったら入りたいほどの恥部ぶりを見せた事になろう。

 2・中、韓の抗議について。

 中、韓のこたびの抗議は、内政干渉である。従来、靖国神社の春季秋季例祭に於ける首相の参拝に対してまで抗議されることは無かった。これが問題にされたのは、終戦記念日の8.15日に於ける首相の参拝を廻ってのものであった。それは、大東亜戦争の功罪が鋭く問われるからであり、一方的な片手落ちの英霊慰霊に対する抗議であり、これには首肯できるものがある。しかし、春秋の例祭にまでくちばしを入れるとなると別である。中、韓外務当局は、今頃になって抗議し始めた論拠に付き弁明せよ。

 3・国内の私的参拝可論について。

 こたびの小泉首相の参拝に対し、これを受け入れることは無思慮が過ぎよう。凡そサヨがこの手の論を吹聴しており、愚劣さを示している。首相の靖国神社私的参拝可論者は、いかにすれば首相職の者が私的に成りえるのか論証してみよ。それとも何か体の半身が公職で残りの半身が私的な者でもいるというのか。あるいは首相ともなればカメレオンの如く表皮が変色するとでも云うのか。「誰にも知らせず、早朝、警護の警官1人をともなって靖国神社を参拝し、そのことを誰にも知られなければ、それが問題になることはありません」もウソクサイ。人に見られる見られないで公職性が減じたりするものではなかろうに。

 この手合いは、持論に裏づけをもたないから、外国ではどう報じられているのかを第二の判断基準にする。中、韓が米が西欧諸国がどう伝えようと、首相の私的参拝論の詭弁が剥がれるだけのことで、それは手前達の「首相の靖国神社私的参拝可論」の論拠が崩されだけのことであろうに。

 れんだいこは、以上から次のように結論する。

 第1に、靖国神社は英霊の御霊の鎮守府(又は社又は座)として再生されねばならない。国策に殉じた者を国家が慰霊する精神は必要なことである。これを他に代替施設を求めようとする動きは、これまでの歴史の積み重ねを愚弄し過ぎていよう。国費の無駄の冗費にしかならない。

 第2に、首相が春季、秋季例祭に参拝することは歴史的に認められてきた経緯がある。今後も、英霊の御霊の鎮守府詣でという意味に於いて参拝するが良かろう。但し、こたびのようなコソドロ式参拝は英霊の御霊を愚弄するものである。厳に慎まねばならない。

 第3に、首相職の私的性は極端に薄い。それは公的職務の最高峰のものであるが故に仕方ない。この職にある者は我が身を弁え、どうしても私人に憧れるのであれば一刻も早くその座を降りねばならない。世の中にエエトコ取りはない。

 第4に、首相の終戦記念日8.15日靖国神社参拝は許されない。その根拠は、先の大戦大東亜戦争の総括を廻って、我が国でも関係職国との間に於いても何ら合意が為しえていないからである。これが出来ない期間に於いては、首相は政府主催の戦没者慰霊祭を催し、ここで所信表明することが望まれている。

 第5に、A級戦犯分祀論について言及しておく。近時のA級戦犯分祀論はこれまたウソクサイ。大東亜戦争の指導責任者として最も憎むべき戦犯論に依拠しているが、かっての大東亜戦争を遂行した責任をA級戦犯のみに帰着させるのは便宜的手法でしかない。正しくは歴史の趨勢であり、直接的には昭和天皇の関与も疑わねばならず、裏方の財界の牽引も見ねばならず、当時の御用勢力の役割も判定せねばなるまい。決してA級戦犯論で片付けるものではなかろうに。よって、合祀されたA級戦犯の慰霊を分祀すれば問題が片付くものではない。

 以上、「2005.10.17日小泉首相の5回目のコソドロ式靖国神社参拝」の教訓を記しておく。

 2005.10.25日 れんだいこ拝

【「靖国神社問題処方箋アラカルト」考】
 「靖国神社問題処方箋」が幾つも用意されている。だがしかしそのどれも効かない。とりあえず列挙しておく。
【ハード型】
 「ハード型」と称すべき次の処方箋がある。靖国神社の国営化を主としており、但し政治色を強めるの薄めるのかで論が分かれている。変種として、現行のように民営化のままで政治色を強めていくべしとする論もある。
方式 政教関係 公式参拝 参拝方式  その内容
復古型・護国・合祀 政教一致 義務 神道方式  靖国神社を国営化に戻し、戦前同様の天皇制秩序−護国型を主とした祀りとする。
復古型・招魂・合祀 政教一致 義務 神道方式  靖国神社を国営化に戻し、政治色を薄めた上で創建時の招魂を主とした祀りとする。
戦後型・護国・合祀 政教分離 任意 神道方式
非宗教色
 靖国神社を民営化で認め、戦前同様の天皇制秩序−護国型・招魂を主とした祀りとする。

【ソフト型】
 「ソフト型」と称すべき次の処方箋がある。靖国神社の現行の如くな民営化且つ非政治色を良しとしており、但し、A級戦犯合祀で行くのか分祀で行くのかで論が分かれている。
方式 政教関係 公式参拝 参拝方式  その内容
戦後型・招魂・合祀 政教分離 任意 神道方式
非宗教色
 靖国神社を民営化で認め、創建時の招魂・慰霊を主とした祀りとする。A級戦犯合祀とする。
戦後型・招魂・分祀 政教分離 任意 神道方式
非宗教色
 靖国神社を民営化で認め、創建時の招魂・慰霊を主とした祀りとする。A級戦犯分祀とする。

【アイデア型】
 「アイデアト型」と称すべき次の処方箋がある。いずれも政教分離で政治色を薄め、「国立墓苑」創設構想、靖国神社に千鳥ヶ淵墓苑統合、千鳥ヶ淵墓苑に靖国神社統合すべしとする三案ある。A級戦犯の合祀・分祀は不明である。
方式 政教関係 公式参拝 参拝方式  その内容
「国立墓苑」創設 政教分離 義務
任意
神道方式
非宗教色
 靖国神社を国営化とし、慰霊を主とした祀りとする。
全て靖国神社に統合 政教分離 義務
任意
神道方式
非宗教色
 靖国神社を国営化とし、千鳥ヶ淵墓苑を統合し、慰霊を主とした祀りとする。
千鳥ヶ淵墓苑に統合 政教分離 義務
任意
非宗教色  靖国神社を解体し、千鳥ヶ淵墓苑に靖国神社の英霊を移し統合する。慰霊を主とした祀りとする。

【「れんだいこの靖国神社問題処方箋」】
 れんだいこは、次のような「靖国神社問題処方箋」を用意している。
方式 政教関係 公式参拝 参拝方式  その内容
靖国神社解体→再生
合祀
政教分離 義務
任意
神道方式
非宗教色
 靖国神社を特殊国営法人化と為し、英霊を慰霊し、不戦の誓いの砦とする。

 「れんだいこの靖国神社問題処方箋」は、靖国神社の意義を認め、但し、靖国神社が時の政治権力の下僕となって政治利用されるのを許さないという観点に立っている。国策の為に英霊と化した御霊を祀るのは国家責任であり義務である故に特殊法人化させてこれを解体再生させる。その際には、反戦平和に立脚し、英霊を無駄死にさせない不戦の砦として位置づける。

 中曽根ー小泉首相の靖国神社参拝路線の如く、米英ユ同盟の配下軍として自衛隊を海外派兵させんが為に靖国神社を参拝するなどという政治利用を断じて許さない。それは逆だろう、英霊の思いは「俺達の死を無駄にしてくれるな、二度と戦争になど直面してくれるな」という思いにこそあるのではないのか。そう思えば、自衛隊をイラクに武装派兵している小泉首相が英霊の御魂鎮魂という名目で靖国神社参拝し続けるのは英霊に対する二重の冒涜ではないのか。それを誰が提灯し続けているのだ。エエカゲン二センカイ。

 ということは、「靖国神社解体→再生」は、その名称まで改変を視野に置かねばならないと考える。「国を靖ぜしめる」のではなく、「国策に犠牲になった英霊の御魂(みたま)を靖ぜしめる」必要の或る故に、仮に「靖英霊国神社」、「靖御魂国神社」、「鎮魂国神社」」という風に改称せざるを得ない。

 つまり、「靖国神社問題」から逃げるのではなく、それを内在的に批判摂取していって解体→再生せしめねばならない。左派運動はそういう作法こそ確立せねばならない。弁証法的とはこういう作法を云うのではなかろうか。戦没者追悼団体を保守反動権力の手に渡すのではなく、我々の追悼の仕方こそが英霊の御魂の鎮魂の理に叶っていることを証して共同戦線化せねばならないのではないのか。

 英霊の行為を徒に軍部鼓吹の滅私奉公の表現態と擬して批判を逞しゅうする態度こそ、我々が尤も戒めねばならない公式主義、図式主義の悪弊ではなかろうか。この手合いの反戦平和民主主義多すぎるのが、れんだいこは気に入らない。そういう史観からは本当の闘争は生まれない。れんだいこはかく考える。

 2005.5.3日 れんだいこ拝

【「国家の政治責任として靖国神社参拝すべし論」について】
 「国家の政治責任として靖国神社参拝すべし論」につき、「帝國電網省」サイトの主宰者・竹下義朗氏が、「35.公人か? 私人か? 靖国神社閣僚公式参拝考(1998.8.6)」で次のように述べている。
 「私は諸外国や左翼勢力への変な配慮から『私人』の立場で参拝する事に異を唱えます。むしろ、首相以下閣僚は『公人』の立場で参拝すべきで、そうあってこそ始めて国家の為に殉じた『英霊』を鎮魂する事が出来ると思うのですが、皆さんは如何でしょうか?」。
(私論.私見) 竹下氏の「国家の政治責任として靖国神社参拝すべし論」について

  れんだいこは、竹下氏の指摘は正論と看做す。だがしかし、と云わねばならない。時の首相以下閣僚の靖国神社参拝には「ある種の負荷」が掛かっており、この「負荷の咎め意識」無しに参拝することは許されないと云うべきではなかろうか。「ある種の負荷」とは、「国策に殉じた英霊の死に対する丁重なる弔いをすべきであり、この観点からの参拝のみ許されるという制限」のことを云う。この意識無しに靖国神社を詣でて再度政治利用するのは、英霊を無駄死にするものであり、冒涜でしかない。かような靖国神社参拝は原理的に許されない、と云うべきではなかろうか。

 かような観点から以下述べる。
 2005.6月現在の小泉首相派の靖国神社論は、この点で支離滅裂している。なるほど口先では概要「不戦の誓いの再確認として靖国神社を参拝するのであり、首相として公的参拝するのが政治的責任である」と云う。しかしながら、小泉政権の諸政策に「不戦の誓い」に即したものがどこにあるか。やっていることがなべて「好戦」的なものであり、現行法秩序では許されない水準のものを暴力的凌辱的に敷設しつつある。しかもよりによって英霊達が闘った鬼畜米英に摺りよっており、自衛隊をその配下軍として武装派兵しており、更に実践参戦化の道へ突進させようとしている。

 かような諸政策を推し進めようとしている政権が、「不戦の誓いの再確認」なる二枚舌で靖国神社を公的参拝することが許されることであろうか。我々が咎めねばならないことはまさにここに有ると云えよう。メディア汚染の激しい我が日本の国内世論は容易に丸め込まれているが、隣国の中国、韓国は流石に騙されない。「云っている事とやっている事の違い」に対して憤然として不快感をぶつけている。先の暴動について、我々はかように受け止めるべきではなかろうか。

 信じ難きことだが、日本政治は年々壊死しつつある。何が起きても暴動に至らない。人民大衆が歴史的に持っていると看做すべき抗議権、抵抗権、革命(回天)権を喪失しつつある。それを良いことに、日本政府の反動化が著しい。我々は余りにも投げ遣りに慣らされてしまっているように見える。

 中国、韓国は、その裏舞台までは分からないが、一定の抗議権、抵抗権、革命(回天)権を保持しているように思える。かっては、我が日本でも例えば60年前後のブント運動、70年前後の全共闘運動という世界に聞こえたゼンガクレン運動があった。それは、毛沢東ならずとも造反有理運動であったと看做すべきであろう。

 その灯があまりにもか細いものになってしまっている。我々はこの事を杞憂すべきではなかろうか。商業新聞の論説委員はいともたやすく「中国、韓国の造反有理運動にお灸を論」を唱えて悦に入っている。しかし、それはあまりにもフザケタ説教ではなかろうか。政治的見解と運動を交叉しえる社会にこそ社会進歩とむしろ安定が有る。我々日本がそれを失いつつあることを噛み締める時に、安説教する輩にこそお灸を据えねばならない。

 2005.6.11日 れんだいこ拝


【鉄扇会の提言要旨】
 ここで「鉄扇会の提言要旨」を取り上げるのは、靖国問題の本質を深く捉えていると思われるからである。「鉄扇会」は「靖国問題特別企画」サイトを設営している。以下の文章のサイト元は失念したが、文中で概略次のように提言している。れんだいこがこれにコメント付ける。
 彼我の違いを越えて、すべての国々の戦没者に対して慰霊を行い、平和を祈願するための靖国参拝化。軍国主義、「天皇制イデオロギー」と訣別し、不戦の砦としての再生を期す。英霊をして政治問題の次元から解き放せ。

(私論.私見)

 これは全く正論である。

 政教分離の問題について。中曽根参拝の際には、手水場を使わずに、かげ祓いで、二礼二拍手一礼も、玉串奉奠もなかった。内閣法制局見解で、宗教色を抜くというのがその意図するところであったが、その根拠となるのは、「特定宗教への支援」にあたるか否かということである。靖国神社は、確かに現在、一民間宗教法人であるが、国民の多くが、神社神道なるものを宗教だと認識していないということもまた事実であり、こうした形式的なことに細々とした法的解釈をほどこすのは、ある意味、国民大衆の嘲笑を招くものだと言わなければならない。

(私論.私見)

 これも正論で、参拝するなら「郷に入りては郷に従え」で、手水場使って拝するのが儀礼だろう。玉串奉奠したければするが良かろう。

 中曽根康弘以来の16年ぶりの首相の靖国参拝に際し、単に過去を踏襲し事を済ませるのではなく、現憲法下での靖国参拝問題でいったい何が可能か、たとえドン・キホーテ的失笑を内外の一部で買おうとも、国会質疑で首相が言及した特攻隊の自己犠牲の精神を忘れず、新たなチャンレンジを敢然と行い、現憲法下での靖国参拝問題に対する特攻隊として時代の魁とならんという決然たる覚悟を示すことこそ、「変人」首相小泉純一郎にいかにもふさわしい8月15日であろう。
(私論.私見)

 れんだいこは、「不戦の誓い」をする為ならともかく「米英ユ同盟軍としての自衛隊の活用」の為に靖国神社参拝を強行し続ける小泉首相の識見を弾劾している。「現憲法下での靖国参拝問題に対する特攻隊として時代の魁とならんという決然たる覚悟」なるもので小泉首相の靖国神社参拝を鼓舞激励するとは、「鉄扇会」自身が「提言1」に反しているではないか。

 何のことはない、結局は現下の政治権力に提灯しているだけのことではないのか。「提言1」で行くのならその趣旨を頑固に主張せよ。

 2005.5.1日 れんだいこ拝


【靖国問題解決に当たっての議論のイロハ】
1、靖国神社を特殊法人化して、宗教法人から外す論について

 この論を為す者は概ね次のように主張している。

 「もともと神道は宗教とは言い難い面も強い。むかしのような官国幣社という考えはいまはできないから、これを国営の祭祀法人とすればよいではないか。靖国神社が現在、一民間宗教法人に過ぎないのに公式参拝するところに無理がある。だから政教分離が問題になるのだ。国営の特殊法人化することにより問題はクリアされる」

 これに対して、靖国神社側は、「祭祀法人として靖国神社を国の間接的管理下に置くことは、国家権力の民間への介入だ」と述べて反対している。

(私論.私見)

 靖国神社見解は、今でさえ政治利用されているのに何をいまさらという気がしないでもないが、一応の見識であろう。他の宗教法人からも、「他と宗教法人として横一線だった靖国神社にだけ特別扱いを施し、戦前の国家神道へと引き戻すものだ」と非難している。

(私論.私見)

 これも一理あろう。確かに、国営のものを民営化する場合と違い、民営のものを国営化するというのは、いくつかの銀行破綻の場合の整理のための少数例を除き、現在の自由主義・民主主義社会ではたいへんむずかしいという面もある。而(しこう)して、靖国神社の特殊法人化論は思いつきで有り、実際には困難な道筋だと言える。


2、靖国神社もしくは神道全般に関する新たな特殊な法律を作るか、憲法20条を改正する論について

 宗教とは言いがたい面も多々ある神道全般と靖国神社の歴史と現在に至る矛盾とをふまえ、その特殊性から終戦記念日の首相の靖国参拝を特殊事情として特殊法案化するか、憲法20条の改正をし、そこに適用外条項として首相・閣僚の靖国参拝条項を挿入するというもの。

(私論.私見)

 理論的裏付けなきその場凌ぎは却って混乱を招くのではなかろうか。


3、首相・閣僚在任中は、靖国神社ほか、仏教・キリスト教ふくめあらゆる宗教施設に肩書きつき公費では一切出入りできない・連絡してはならないとの法案を作る論について
 「一律禁止」による解決の道筋であり、政教分離・A級戦犯合祀、双方の問題点ともクリアされる。
(私論.私見)

 しかしながら、これは政治側・宗教側ともに喜ばず、そうした規制の是非問題もある。また、宗教の持つ教育的効果という側面を、一切見ない「ためにする法案にすぎない」との批判もまた、生まれてくる。

4、靖国参拝問題は、一部の人々にとっては、決して悠長にかまえることのできない重要な未解決問題だと言わなければなりません。また、われわれ後世の日本人にとっては、歴史・宗教・政治・法律・倫理・道徳といったおびただしい要素を含んだ最も困難な思想哲学上の現代の大問題だと言えましょう論について
(私論.私見)

 これはその通りである。

【「靖国神社の宗教法人格の考察」】
 日本遺族会、崇敬奉賛会、戦友連、鉄扇会等の議論を経ての見解のようである。サイト元は失念した。判明次第明示することにする。以下、れんだいこ風に構成し直した上でコメント付けてみる。
1、そもそも神社神道は宗教なんですか? また神社というのは宗教施設と言えるんでしょうか?
 明治期にも、神道は宗教ではないという意見がありました。そして、その見解にしたがって明治近代は始まっています。くわしくは、当WEB「その他資料・明治期の神道非宗教論の一考察」をご参照下さい(「国家神道」ということばは、戦後発明されたものであることも語られております)。

 現在でも、神社や神道を宗教だと認識している日本人は少数派であり、むしろ国民の習俗や倫理の一つにすぎないとの考え方が大勢を占めているようです。もちろん、当會會員もまた例外ではありません(鐵扇會が、神道による宗教集団でない以上、当然の結果であると思います)。また、歴代首相のなかで、故・大平正芳はクリスチャンでありましたが、自ら何の問題もなく靖国神社参拝をおこないました(「自分はクリスチャンであるから、神社には行かない」とか「天皇を崇めない」とかいった原理主義的な宗教観は、戦後生まれ社会になってから顕著になってきたことでありましょう。それは一つには、第二の西欧化とも言うべき西欧的な宗教観念の浸透がありましょうが、それよりも、帰属すべき場の喪失から来る不自然かつ過度な忠誠によってしか己を証することのできないという、アイデンティティの危機や孤立感が深く関係していると考えられます。いずれにしても、、日本人の精神伝統からはやや外れている現象だと言えましょう)。

 また、神道が宗教であるとすれば、神道は仏教・キリスト教と同一線上に並ぶほかありません。もともと数ある宗教の内の一つにすぎないのならば、神道だけをとって、これを国が国民に押しつけることは当然できないのです。しかしながら、国民の習俗・倫理・守るべき超自然的なものへの道徳儀礼であり伝統であるとするならば、もともと政教分離は問題にならないことになります。どころか、国や公立学校は、これを社会道徳として大いに奨励しなければなりません。


 当會内部でも、こうした神道非宗教論を踏まえて、「神社本庁解体論」「全神社・宗教法人離脱論」「靖国神社炎上論」「教育改革と教部省設置論」ほか、さまざまな意見があり、50日にも及ぶ會員掲示板での大議論はたいへん興味深い展開を示しました。靖国問題を考えるとき、神社とは、神道とはそもそも何であるのか、という原点に立ち返って、これを考えることは重要なことであり、俗化した靖国神社の一部風景をもそのまま「聖域」だとして、これを不可侵のものとすることは、精神の怠慢であると言わなければなりません。

2、いま英霊は真に救われているのか?
 その原点に帰って、靖国問題を掘りさげていくことが大事です。その場合、神社本庁や神道を宗教法人からはずし、この靖国問題を一気に解決しようとすることもまた、新世紀の日本国民にとって、いくつかの選択肢の内の一つにはなっていると言えましょう。

3、神道を宗教だと見た場合に、国や地方自治体が、神道の儀式を行うことが許されるのかどうか、そういう判決はありますか?
 あります。津地鎮祭訴訟というものです。これは、靖国神社の参拝のときにもたびたび内閣法制局などが引用するものです。しかしながら、それとは別の解釈をする判例も出ております。くわしくは、当WEB「ネット内外部データ1・3」などをご覧下さい。

 さきの戦争の敗戦によりGHQから神道指令(当WEB「その他資料」参照)が出たことで、元来、宗教であるのかないのかはなはだ曖昧であった神道が、戦後日本社会のなかで本来の位置から少々ずれて定義されていることは靖国参拝問題においてもまた悲劇であると言えましょう。

4、靖国神社側にも問題はありますか?
 政府自民党 vs 靖国神社側
 
政教分離をクリアするために、政府・自民党が靖国の特殊法人化を言えば、靖国はもとより他の宗教団体も反対をする、A級戦犯合祀の問題では、自民党は「靖国側が勝手にやったことだ」と言い(当WEB「政府側資料5」参照)分祀案を作り、靖国側は「厚生省を中心に官民一体でやってきたことではないか、今さら何を言うか」と反論する----そういう構図があります(ちなみに、新聞報道は政府発表のみを公式の唯一の歴史としているようです。当WEB「メディア側資料5の読売新聞記事内の「年表」をご覧下さい。「靖国側が極秘にA級戦犯を合祀」との文言があります。

 
また、遺族会の一部にもまた、いわゆるA級戦犯合祀に抵抗感を持つ人々もあります。みながそれぞれの立場で、それぞれを主張するために、英霊は真に救われていない、宙ぶらりんのままさまようほかはない、そういう側面は否定しようもありません。また、選挙における支持母体としての政治活用という生ぐさい側面が靖国・千鳥ヶ淵双方に存在しており、(靖国神社自体も含めた)俗化した泥沼に靖国問題が足をからめとられているということは事実でありましょう。

 
靖国神社とは、巨大な政治勢力であり、日本右翼の聖地の一つだと見られている、その周辺もまたはげしく俗化している----。そのことが英霊というものを中途半端な形にしたまま、はなはだ不細工な形式での首相参拝しか可能にせずに、また、今上陛下の御親拝(天皇陛下の靖国公式参拝)を却って妨げているとするならば、平成13年夏の小泉参拝を期に、心ある者たちはこれを真剣に受けとめ、考えていかなければならないでありましょう。

 他にも、「汎神論的立場から、「神道は宗教ではない」、「靖国神社を宗教法人から外し、祭祀法人として国が抱えよ」という意見」、「日本において神の祭司である天皇を否定することは、日本自体を否定することになる』という意見。日本は世界の中で、あくまで「特殊な国」として存在すべきだし、認識すべきだ論」、「天皇を肯定するとしても、もともと意図的に作られた「靖国神社」なるものは、言われる天皇の本質に馴染まない」等々の見解が有り、議論が望まれている。


Re:れんだいこのカンテラ時評188 2006/07/21
【A級戦犯分祀論と新国立追悼施設設置の動きについて】
 2006.7.20日付けの日経新聞スクープによる「富田宮内庁長官の1988年メモに基づく昭和天皇のA級戦犯靖国神社合祀不快発言」(以下、単に「富田宮内庁長官メモ」と云う)を廻って、A級戦犯分祀化の論調が高まりつつある。れんだいこがこれにコメントする。

 この問題は次の三点から論ぜられるべきである。一つは、不快発言に見られる昭和天皇のA級戦犯観論。二つ目は、A級戦犯分祀の是非論。これに関連して新国立追悼施設設置の是非論。三つは、小泉首相の「天皇思惑に拘わらず参拝自由論」に絡む不敬問題。これを総合的に論ずることが要求されている。昨今の論調は、これに真っ当に答えているであろうか。例によって無内容な論議に終始していないか。


 第一の「不快発言に見られる昭和天皇のA級戦犯観論」について。これについて、太田龍・氏の「2,006.7.20日付けbP747時事寸評」の「昭和天皇が、A級戦犯靖国神社合祀に不快感、との富田メモが公表された。そのことの意味」が参考になる。太田氏は次のように述べている。
 意訳概要「昭和天皇は元々親英米派であり、松岡洋右、白鳥敏夫両外交官による日独伊三国同盟推進には本心では反対であったと思われる。しかし、天皇としての拒否権を発動することは出来なかった。日独伊三国同盟推進側に付いた靖国神社と昭和天皇には根本路線上の対立がある。それは、大東亜戦争に対する評価、東京裁判に対する評価についての対立となる。つまり、米英帝国主義に対する日本の戦争を正義の戦争として今の日本人が評価すべきか否か、と言う問題になる。この問題は更に、日本が、現在そして将来も米英帝国主義と戦い続けるべきか否か、と言う風に発展する。ちなみに、米英帝国主義の実体は、イルミナティサタニスト世界権力に他ならない。富田宮内庁長官メモ問題には、イルミナティサタニスト世界権力とどう向き合うのかという根本問題が宿されている」。

 今、このように立論し得る者が他に居るのだろうか、れんだいこは知らない。これによると、昭和天皇は、極東軍事裁判所が示した観点をそのまま乗りかかり、A級戦犯を東京裁判史観で位置づけ、断罪していることになる。本来なら、昭和天皇自身の戦争責任論が問われるところ、自らA級戦犯に責任を被せることで安堵していることになる。それはともかく、太田氏の指摘の如く、昭和天皇は元々親英米派であり、開戦に反対であったと看做される節がある。故に、利用するに如かずとして、免責された史実過程も理解することができることになる。その代わりに、A級戦犯に戦争責任を全て被せる論法となる。現在、ウヨサヨマスコミ朝野挙げてこの論法に与している。

 太田氏は、かく解析した上で、昭和天皇の親英米派性ひいてはイルミナティサタニスト世界権力親疎性を批判しようとしている。ここに太田龍史観の真骨頂がある。それは、世上の天皇制護持論者の何も知らない軽薄さを衝いている。同時に、既成左派の反天皇及び天皇制論の無能ぶりをも一蹴していることになる。れんだいこは、イルミナティサタニスト世界権力問題を見据えて離さない太田氏の史観は鋭いと思っている。

 れんだいこが更に補足すれば、明治以来の天皇は歴史的伝統的天皇と同一線上で論ずることができない。少なくとも、1・幕末王朝交代論を媒介させつつ、2・明治天皇治世論、3・大正天皇治世論、3・大正天皇押し込め政変、4・昭和天皇治世論を、それぞれ関わりを持たせつつ個別にも論じなければ真っ当なものにならないと思っている。その上で、親英米派性を濃厚にした昭和天皇の特質を論ぜねば、昭和天皇論は全うしないと思っている。このように立論する者が居ないが、かく論ずるべきだと思っている。

 この観点に照らすと、昭和天皇の親英米派性ひいてはイルミナティサタニスト世界権力親疎性を論ずる太田龍史観は本質を衝いたかなり精度の高いものであることが分かる。但し、昭和天皇の特質はそれだけではなく、「大正天皇押し込め政変」に深く関わって時代に弄ばれた面と自身もその流れに興じた面の考察が更に必要であると思っている。かく肉付けせねばならないと考えている。但し、昭和天皇の親イルミナティサタニスト世界権力性を踏まえない限り解けないのは事実であろう。

 第二の「A級戦犯分祀の是非論。これに関連して新国立追悼施設設置の是非論」について。世論は今、「富田宮内庁長官メモ」の加勢を得てA級戦犯分祀論に傾斜しつつある。与野党問わず一色になりつつある。「2006.7.20日付け毎日新聞・大久保和夫、竹中拓実記者記事」は、一橋大大学院社会学研究科の吉田裕教授の次のような見解を載せている。
 「徳川義寛侍従長の回想で示唆されていたことが確実に裏付けられ、松岡洋右元外相への厳しい評価も確認された。今後は分祀論にはずみがつく。小泉首相も、少なくとも(終戦の日の)8月15日に参拝をしない理由になるのではないか。首相の参拝には多少の影響はあると思う」。

 これは一般評論したものに過ぎないが、さて、分祀論は正解だろうか。靖国神社側は当然の事ながらそれを批判している。宗教学的見地からすれば、いったん祀った御霊を別のところにも祀る分霊はできても、御霊の資格を剥奪するような分祀はできない。「御霊降ろし」という方法が無い訳ではないが恣意的にはできない。この理屈が分からない宗教学文盲の自称知識人が多過ぎる。

 仮に、靖国神社が世論に押されて分祀しようとしても、その前に自己批判を免れず、場合によれば自己否定に繋がりかねない危険を犯さねばならなくなる。そういう意味からすれば、靖国神社は絶対に分祀できない。そう知るべきであろう。結果的に、靖国神社もレイプ覇王愉快犯首相小泉にしてやられることになる。

 A級戦犯の遺族も又困惑している。A級戦犯として処刑され、靖国神社に合祀されている東条英機元首相の二男輝雄氏・元三菱自動車工業社長(91)は次のように述べている。
 「そんな話、いまだかつてどこからも聞いたことがない」、「信ぴょう性が分からない以上、言いようがない。個々の動きでいちいち大騒ぎしても仕方ないよ」。

 同じく合祀されている板垣征四郎元陸軍大将の二男の正・日本遺族会顧問・元参院議員(82)は次のように述べている。
 「三木(武夫)総理(当時)が昭和50(75)年に現職首相として初めて参拝し、その秋の国会で論議になったため、陛下はその後参拝できなくなったのだと私は思うし、さまざまな史料からも明らかだ。A級戦犯合祀は、陛下の参拝が止まった後のことだ」、「(富田元長官が)何を残され、言われたかは関知しない」。

 A級戦犯の遺族の立場もはっきりしている。大東亜戦争の政治責任を問われ、絞首刑の露と消えて後も政治責任を問われ続けるほどの政治責任はないとして、むしろ政治的トリックの犠牲者である、と主張していることになる。れんだいこもそう思う。

 この観点からすれば、新国立追悼施設設置は気休めばかりの国費の無駄以外の何物でもない。そういう小手先によっては何の解決にもならないのに、この気運が高まりつつある。勝手にすれば良かろう。お前達にはお似合いの解決策だ。れんだいこが思うに、この問題は、自由自主自立的な反戦平和、国際協調思想に武装された来る人民権力による靖国神社の革命的再生を通じてしか解決しえない、そう悟るべきであろう。

 最後に、小泉首相の「天皇思惑に拘わらず参拝自由論」に絡む不敬問題について。小泉首相は、先の訪米、サミット時の嬌態外交で名を売ったばかりであるが、「富田宮内庁長官メモ」に対しても又もや酩酊ぶりを晒している。このバカは一事万事に於いて問題の本質を理解することができない。こういう首相を5年有余のさばらせた日本政治史は後世のお笑いになるだろう。

 彼は何と言ったか。概要「『富田宮内庁長官メモ』の影響はありません。陛下におかれてもさまざまな思いがおありだったのだろう。(A級戦犯合祀後、昭和天皇が靖国神社参拝を見合わせたことについても)私がどうこう云う問題ではない。あの人が、あの方が言われたからいいとか悪いとかという問題ではない。私が靖国へ行く行かないは私の心の自由であり適切に判断する。(国立追悼施設は)結論が見えにくい。(「A級戦犯」分祀は)議論は結構だ。一宗教法人に政府が言わない方がいい」。正確には分からないが、凡そ以上のように云っている。

 末尾の「(「A級戦犯」分祀は)議論は結構だ。一宗教法人に政府が言わない方がいい」だけが正解で、後は無茶苦茶な論法だ。天皇陛下の言に左右されないのはそれこそ戦後憲法の政教分離精神であるが、それは聞く耳をもつなという意味ではない。政治的に作用されないという意味で理解すべきだろう。

 ましてや、春秋の例祭ではなく、8.15日に公式参拝となると、大東亜戦争の総括無しには微妙な問題が多過ぎて見識として見合わせるべきところ、当然中韓両国の意見にも耳を傾けることも必要であるところ、平然と無視し続けてきている。首相職に有る者の態度とはとても思えない。どうしても行くなら、最低限自身が大東亜戦争の総括を開陳せねばなるまい。それもしないままに勝手論で煙に巻いているが幼稚園児に劣る愚行でしかない。

 同様に、戦後でもやせてもかれても象徴天皇、戦前なら現人神的大元帥的地位にあった同じ人物である天皇陛下の言ならば忖度すべきであろう。彼は、一国の首相職でありながら、平然と関係ないという。これほど不敬なことはあるまいが、それが罷り通るから不思議だ。読売産経あたりがどう述べているのか知らないが、日頃の愛国御用評論のリトマス試験紙になろう。れんだいこが思うのに、小泉の不敬発言は滑稽な話だろうか、怖い話ではないだろうか。

 察するに、彼の靖国神社参拝が売国奴性を隠すイチジクの葉でしかないと同様に、こたび露呈した不敬さこそ彼の真骨頂ではあるまいか。彼は、ブッシュとイスラエルを詣でてきたばかりだ。何の必然性があって行ったのか。彼が、身も心もそこに預けていることを示したとしか考えられない。恐らく長年の夢を果たしたのだろう。これほどあけすけに己の政治の本質をさらけだし得る狂人性こそ彼の強みといえば云える。

 れんだいこは、小泉劇場は遠の昔に見飽きたが、未だに名宰相として囃し立てる取り巻きマスコミがいる限り、政権は安泰なのだろう。訳の分からない世論調査でトリックされた高支持率で幻惑されつつ、このタイタニック号は座礁するまで宴会し続けるのだろう。この船から逃げ出せないれんだいこは辛い。

 「靖国神社の再創建に向けてのれんだいこ提言(れんだいこの靖国神社論)」
 ( daitoasenso/sengodemocracy_yasukuni._saisoken.htm)


 2006.7.21日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評192 れんだいこ 2006/07/28
 【平沼赳夫の政見はまだまだ焼きが入っていないにつき批判しておく】

 2006.7.28日付け毎日新聞は、特集「『靖国』私の考え3」で、元経済産業相の平沼赳夫氏のインタビューを掲載している。これと対話してみる。

 A級戦犯として靖国神社に合祀されている平沼騏一郎は平沼氏の養父である。平沼氏の戦前の政治履歴は、左派運動から見れば食えるものではないが、これはがまんして、平沼氏の靖国神社及びA級戦犯合祀問題に対する見解に耳を傾けてみよう。彼は云う。

 「まず、根っこに有る東京裁判(極東国際軍事裁判)の検証をすべきだ。戦勝国が敗戦国を一方的に強者の論理で裁くのは認められないし、東京大空襲や原爆など自分たちの人道上の問題は棚に上げ、事後法で裁いた。法律の大原則を無視した強権的な裁判と言える」。
 「分祀というのは、(中国などから)加えられた圧力を外すための政治的な姑息な配慮に過ぎない。そもそも神道に分祀というのはなく、不可能だ。靖国神社も認めないでしょう。日本の精神的支柱として神道があり、靖国神社はその延長線上にある」。
 (引用以上)
 
 れんだいこは、ここまでの見解に対しては特段に違和感を覚えない。気になる点は、戦前の靖国神社と戦後の靖国神社は寺社の性格を変えている点について不言及なところであるが、それは云うまい。問題は、次からの発言に有る。彼は次のように述べている。

 「(こたびの「相天皇メモ」について)表に出たことでいろいろな影響が有るでしょうね。ただ、昭和天皇は、公的には政治的な発言を一切されない原則を守られた。心を許した人に日常会話で言われたことを書き留めたことは不見識だと思うし、公表すべきではなかった」。

 平沼氏よ、果して本当にそうか。昭和天皇の政治的発言は、戦前は公的に戦後は私的にかなり頻繁に為されている。それを隠すことは無い。問題は、天皇の政治的発言は戦後は拘束力を持たなかったことにある。それで良いではないか。「昭和天皇は、公的には政治的な発言を一切されない原則を守られた」などと、訳の分からない煙巻き論法を使うな。

 従って、「心を許した人に日常会話で言われたことを書き留めたことは不見識だと思うし、公表すべきではなかった」などと云うのはナンセンス極まりない。公文書ないしそれに同等のものが、一定期間過ぎたら公開されるのは、政治の在り方として良いことであり、「公表すべきではなかった」などと逆に云うのは、時代に後れた権力者意識丸出しであろう。

 更に、小ネズミはんの8.15日参拝について次のように述べている。
 「小泉さんはこれまで毎年参拝を続けている。私は小泉政治を評価しないが、そこは評価できる。首相が国に殉じて下さった方々に哀悼の誠を捧げるのは当然だ。ぜひ、首相を辞める直前の8月15日に参拝して欲しいし、行くか行かないかは五分五分の確立だと思う」。

 れんだいこは、ここの観点が、平沼氏と全く違う。小ネズミはんの靖国参拝は、靖国の英霊に哀悼を捧げるためのものではなく、極めて政治主義的にあるいは中韓との揉め事を意図的に起こすためのものでしかないことは、既に判明していることである。

 それと、妙なことだが、8.15日参拝首相は、三木が始まりで続いて中曽根続いて小泉というように稀代の米英ユ同盟のエージェントであることで共通している。己の売国奴性をイチジクの葉で隠す煙幕的な意味での靖国参拝でしかない。動機不純である。
そう見立てる必要があるのではないのか。

 「靖国の英霊に哀悼を捧げる」為だけなら、靖国神社の春秋の例祭に詣でればよい。歴代の首相はそのように参拝してきた。中韓は、これには批判的言辞を控えてきた歴史が有る。よりによって、8.15日参拝となると、侵略側と被侵略側、戦勝国と敗戦国という立場を踏まえつつ更にそこから抜け出したところでも、先の大東亜戦争の史的総括のすり合わせをせねばならない。それが政治家としての見識と云うべきではないか。

 小ネズミはんは、ただの一度でもそういう外交交渉をしたことがあるのか。自分の言葉で信念と思いを伝えたことが有るのか。膝詰め交渉を避け続けているのではないのか。公然と内政干渉的要望が為されているというのなら、それに公然と対応するのが筋ではないのか。

 ちなみに、小ネズミはんの大東亜戦争観を聞いてみたまえ。さほど流布されていないが、且つ滅多に語られないが、一度聞いたれんだいこの覚えでは、「あの戦争は間違っていた。なぜなら、勝てもしない戦争へ向ったからだ云々」。

 れんだいこ風に意訳すると、「世界を牛耳っているのは、米英ユ同盟であり、この最強権力の側に位置し続けるのが日本と私の御身安泰の道である。私はかく考え、小泉政権5年に於いて、歴史の歯車をそのように回してきた。忠誠心を見せろと云うならみせます。先だっては、イスラエルをわざわざ詣でて、『嘆きの壁』でユダヤ帽被ってユダヤ教徒の如くに祈念してきました。何でもやります、云い付けくださ云々」ということになる。

 平沼よ、小ネズミはんの場合、靖国詣では特段の信念ではなかろう。「『嘆きの壁」詣での方がより真意なのではないのか。つまり、稀代のユダヤ被れ首相である。そう読み取らないと、この問題に対する正しい対応が出来ないのではないのか。お前は、小ネズミはんに非情な仕打ちを受けながら、その異常性がまだ分からんのか。漬ける薬が無いとはこのことだ。

 2006.7.28日 れんだいこ拝

Re:靖国問題の一考察 れんだいこ 2006/08/06
 坂東太郎さんちわぁ。靖国参拝の件ですが、れんだいこは、歴史的に遣り取りされている私人公人論争を好みません。政府要人が参拝するならいつでもどこでも当然にその資格に関わる政治責任が伴うと考えております。そういう意味で、小泉さんの云うような「これは心の問題だ」はナンセンス極まりありません。この間、私人公人論争に明け暮れてまいりましたので、そういう論法が許される余地が生まれているのでせう。

 れんだいこ的には、首相が参拝すれば私服であろうがなかろうが、拝礼しようがしまいが、公用車使おうが使うまいが、首相の参拝として責任が問われるべきです。それは誰しも同じで、仮にれんだいこが夜のスナックで私的に飲もうと、何か事があれば会社の肩書を含めて責任がついて廻るのと同じことです。そういう肩書き込みで飲んでいるのであり、純然たる私人なぞありゃしない。

 以上を受けて、政府要人が靖国参拝するのなら、春秋例祭に参拝するのが筋であると考えております。そこまでは国内的にも国際的にも認められており、三木首相前までは歴代の首相はそのようにしてまいりました。小泉はんのようにわざわざ8.15大東亜戦争終戦記念日参拝を画策するのは、三木、中曽根以来の愚挙で、よりによって皆これネオシオニスト・エージェント首相であるということが共通しております。なんでこうなるのか、ここを考えねばなりません。

 国策に殉じた英霊を慰霊したのなら、それまでの国家がしてきたように8.15日は、政府主催の戦没者慰霊式を挙行し、大々的且つ厳粛にやれが良い。それで何も不都合ありません。それをやらずに、三木、中曽根、小泉は何ゆえに8.15日靖国参拝を目論むのか。そこに胡散臭さを感じ取るべきです。

 如何にも愛国ぶるこの連中こそユダヤエージェントではないのか。靖国参拝は、そのエージェントぶりを隠すイチジクの葉として政治的に利用されているのではないのか。それは靖国神社にとっても本来は有りがた迷惑であり、そう気づくべきです。特に小泉の8.15参拝は異常で、今後の論議によっては靖国解体に繋がる可能性が強い。結果、靖国も又小泉はんお得意のレイプに巻き込まれたことになるでせう。

 中国、韓国、北朝鮮三国の首相の8.15日靖国参拝批判は、微妙なものがあります。彼らからすればそれは正義で道理が叶っていると考えます。国内世論に耳を傾ければ抗議せざるを得ないのでせう。但し、70年代までの彼らは、それまでは日本の首相による春秋例祭時の靖国参拝を問題にしたことはない。最近になって、首相の靖国参拝自体に干渉し始めているとしたら、それも問題です。

 我々は、日本、中国、韓国、北朝鮮が相互に揉めるように、纏まらないようにミスリードされているのではないかと詮索するべきです。それは誰にとってメリットがあるのか。日中韓北台が紛争し続ける限り、軍事兵器が売れるし、国防予算がつぎ込まれることにより内治政策が後回しになるし、結果的に社会発展が遅れます。そういう風にミスリードしている国際的意志が働いているとみなすべきです。

> 個人的には、近い将来にアジア版のユーロ圏のような、体制が構築されると良いと考えます

 いわゆるアジア共栄圏がつくられるべきところ、何ゆえアメリカ無しには為し得ないのか。北朝鮮問題を廻る六ケ国協議もうそ臭い。地政学的にはアメリカは要らないのに、何ゆえアメリカのシナリオで進めざるを得ないのか。この場合、アメリカの後ろ盾は現代世界を牛耳る国際金融資本帝国であり、何ゆえ国際金融資本帝国無しには為し得ないのか、と云い代えて考えねばなりません。この連中によって、アジアは纏まらないように揉めるように操作されていると考えるべきはないでせうか。

 彼らは今中近東紛争で忙しく、アジアが相互にいがみ合う姿が好ましいのでせう。その意向を受けて小泉はんが忠勤しているのでせう。中共政権もかっての毛沢東-周恩来同盟期のそれではなく、親ユ政権です。彼らは日本に変わるアジアの盟主の地位を画策しており、日本ごときになめられてたまるかというところでせう。この政治パワーゲームに日本の頭脳が追いついているのか。この間日本は、国際金融資本のいいなりで、そのことによって頭脳が衰弱しているのではないかと考えます。明治維新以来最悪の貧脳時代に入っているのではないでせうか。

 結論として、小泉はんが靖国神社参拝するのは、同神社に対して思い入れが強いのではなく、アジアで揉め事を起こし続ける政策に則り強行されていると考えるべきだということになります。それが証拠に、小泉はんは首相前も首相後も靖国には見向きもしなくなるでせう。彼の信仰は「嘆きの壁」の方こそ真意であり、ユダヤ教狂信徒としての立ち居振る舞いこそが生き甲斐のようです。安倍も良く似た勝共連合被れです。

 それにしても、日本の現役首相の「ユダヤ教聖地・嘆きの壁」公式参拝、靖国神社へのコソドロ式参拝とは大きく様子の違うユダヤ帽被っての神妙そうな参拝こそ、即失脚させられるべき一大事件なのに、与野党マスコミともども問題にしていない。これって何なんだ。もう政治が死んでいる。

 そういえば、この間テポドン騒動に明け暮れたが、同時にパレスチナで第6次中東戦争が勃発している。こちらの方の報道は抑制され続けており、故に日本人は盲目状態にされている。北朝鮮問題ではあれほど精緻な分析をするのに、パレスチナでは幼稚園児のそれにも及ばない。おかしいことです。れんだいこの見るところ、パレスチナ紛争は現代史の一級課題で、これに対する豊富な情報と分析を持たねば今後国策を大いに誤ることになると考えております。

 2006.8.6日 れんだいこ拝

 「靖国&A級戦犯問題」の一考察
 「靖国&A級戦犯問題」で踏まえねばならぬことは第一に、露骨に戦勝国が敗戦国に押し付けた論理論法を客観化させることである。どう公平に見ても人類の進歩はそれほどではなく、古今東西明らかなことは、戦勝国は敗戦国を檻の中に入れることである。歴史が学んだとすれば、これを如何に巧妙にやるかであって、戦勝国が敗戦国を檻の中に入れることを止める訳ではない。敗戦が実に悲哀であることはこれにより知らされる。戦後日本はこの例に漏れず、戦勝国さてまたその実態としての米英ユ同盟の檻に入れられ、隠然と公然と陰陽に彼らの論理論法で馴致され、その学問を学ばされてきた。その種の学問にどれだけ習熟したかで博士号が授与されるという、その種の口舌にどれだけたけたかでマスコミ的棲息が許されると云う痴態を演じてきている。こういう環境の中で「靖国&A級戦犯問題」が論ぜられているので、本来為すべき地平での議論にならない。この当り前のことを確認することが、極東国際軍事裁判、A級戦犯、靖国神社に関する「靖国&A級戦犯問題」を論ずるに当っての前提となる。

 では、本来の左派運動ならどう論ずるべきか、につき愚考したい。まず、極東国際軍事裁判であるが、敗戦国側の責任者を平和の罪、人道の罪という事後法論法で裁いたに過ぎない。エピゴーネン達は、強く云えば云うほど左派的であるかの如くに勘違いしている如くで、全くその通りとしてA級戦犯断罪論を声高にしている。

 れんだいこは、その種の見解を全くナンセンスとして退ける。本来の左派運動は、幕末維新以降東洋の雄として台頭して行った日本がアジア友好、植民地解放の牽引に向わず、むしろ西欧帝国主義に追随しアジアの抑圧者として立ち現われるに至ったことを論難すべきであろう。主体的には、日帝軍国主義の治安維持法的抑圧の前に敗北させられたことを痛苦に受け止めるべきであろう。

 本来の左派運動は、西欧帝国主義による日帝軍国主義に対する平和の罪、人道の罪での断罪なぞという虚構を許すべきではない。西欧帝国主義がそれまで為してきた世界各地での植民地化政策の所業を見よ、一体何の面目有りてそのような茶番論理と論法を駆使し得るのか。ユダヤ・ネオシオニストの考えそうな狡知でしか無い。にも拘わらず、日本サヨ運動は、ユダヤ・ネオシオニストの狡知論理と論法をオウム返しで真似ている。馬鹿馬鹿しいことこの上なかろう。

 そういう恣意的な断罪であったが故に、戦犯とは、単に戦争責任者というのみならず、ユダヤ・ネオシオニストの世界支配政策上容認し難かった戦犯であるというに過ぎない。A級戦犯とは、彼らにとって最もみせしめに値する戦犯という意味であり、我々日本人が同じ口真似してA級戦犯と云うには当らない。日本左派運動の見識が真っ当なものであれば、史上のA級戦犯とは違う真性A級戦犯を論うことが可能である。しかしながら、日本左派運動は今日に至るまでそのような史的検証はしていない。如何にユダヤ・ネオシオニストの下働きしている存在に過ぎないかが分かろう。

 靖国神社論も然りである。日本左派運動からみて、靖国神社の果たした歴史的政治的役割は断罪されるに値する。しかしながら、今日のサヨ運動が口上しているような、「軍国主義普及と戦争推進の精神的支柱」論だけで片付くものではない。明治維新以降の天皇制国家神道にの戦争政策に付随した犠牲兵士の鎮魂を目的として創建された神社であり、これを日本左派運動側から捉えれば、国家政策犠牲者でありなお且つ死してなお国家政策に利用されている非を衝くことが肝腎である。

 ところが、日本左派運動は、霊魂問題に関して全く無能な見識しか持ち合わさないので、犠牲兵士を弔う術を持たない。故に、祀る方も祀られる方も一手独占で靖国神社で祀られてきたという経緯が有る。何しろ本左派運動は、そのどの党派に於いてさえも、自派の党運動の犠牲者、功労者に対してさえろくに祀らぬからして、犠牲兵士の祀りになぞ及ぶべくもない。それだけならまだしも、犠牲兵士遺族に対してまで冷淡に遣り過ごしてきた。そういう訳で、戦後与党を形成した自民党政府が細々と国家責任を果たしてきた。

 ところが、その政府自民党は次第にユダヤ・ネオシオニストに浸食され、ロッキード事件でハト派の総帥田中角栄を葬って以来、国神社の政治的再利用に向かい始めた。ヌエ政治を特質とした三木内閣の8.15参拝が嚆矢で、ハト派でありながら鈴木内閣が無定見に追随し、中曽根が大々的に演出し、その後自粛したものの小泉に至って再度鳴り物入りで復活することとなった。特徴的なことは、三木、中曽根、小泉という売国型ユダヤ・ネオシオニスト・エージェント首相がよりによって靖国神社参拝を好むということである。歴代の首相は同神社の春秋の例祭に顔出しするのが常であったが、何ゆえか彼らは終戦記念日の8.15日参拝を好む。その真意はなへんにあるのか推定せねばならない。れんだいこは、要するにユダヤ・ネオシオニストの世界支配政策が「アジアが纏まらないようにむしろ揉めるように」策定しており、ユダヤ・ネオシオニスト・エージェント首相はその政策を忠実に履行しているに過ぎないと看做している。

 このことは、8.15日靖国神社首相参拝問題以外の手法に於いて「アジアが纏まらないようにむしろ揉めるように」為しえたなら、靖国神社は容易に不用にされ、否むしろ解体される運命にあるということを意味する。現在は、その右派イデオロギーと政治的利用の比較に於いて後者が優っているので容認されているに過ぎない。してみれば、靖国神社は、政治的利用に迎合していくことで再度の解体的危機の道へ踏み込みつつあるということになる。一度目は僥倖にも許されたが、ユダヤ・ネオシオニストはそうは甘くないぞ、今から覚悟しておけ。

 それについても、日本サヨ運動は見事なまでにユダヤ・ネオシオニストのシナリオ通りに靖国神社解体論に向かいつつある。

 
「靖国&A級戦犯問題」で踏まえねばならぬことは第一に、露骨に戦勝国が敗戦国に押し付けた論理論法を客観化させることである。どう公平に見ても人類の進歩はそれほどではなく、古今東西明らかなことは、戦勝国は敗戦国を檻の中に入れることである。歴史が学んだとすれば、これを如何に巧妙にやるかであって、戦勝国が敗戦国を檻の中に入れることを止める訳ではない。敗戦が実に悲哀であることはこれにより知らされる。極東国際軍事裁判、靖国神社、A級戦犯を論ずる「靖国&A級戦犯問題」は、論ずるに当ってこのことを踏まえ無い限り噛み合わないだろう。

【大江志乃夫(おおえしのぶ)「靖国神社」(岩波新書・1987年第8版より)の目次】
 大江氏の「靖国神社」の見出しを掲げておく。
一  なぜいま靖国神社問題か
1 靖国神社の祭神たち
2 敗戦後の政教分離
3 敗戦後の「祭政一致」
二  天子・大元帥・天皇
1 近代天皇制を生みだしたもの
2 国家神道の成立 .
3 政治制度としての国家神道
三  靖国神社信仰
1 特異な性格の靖国神社
2 人霊から神霊へ
3 教育と軍事における靖国
四  村の靖国・忠魂碑
1 靖国神社・護国神社・忠魂碑
2 忠魂碑と招魂祭
おわりに  靖国の宮にみ霊は鎮まるも
参照・参考文献




(私論.私見)