428984 A級戦犯の靖国神社への合祀考

 (最新見直し2007.3.28日)

 (れんだいこのショートメッセージ) 
 現在、靖国神社には、A級、B・C級を問わず、1000人余の戦争裁判で亡くなった人々が約210万柱合祀されている。論を起す前の予備知識として、戦犯の等級について概略しておくことにする。A級戦犯とは、第二次世界大戦後の連合国による極東国際軍事裁判(東京裁判)で、大東亜戦争を計画・準備・遂行した「平和と人道に対する罪」で起訴された東条英機・元首相ら28名のことを指す。A級戦犯のうち、東条氏ら7名は死刑、16名は終身禁固刑、2名が禁固刑、残る3名は裁判中の病死・病気による免訴となった。B・C級戦犯とは、捕虜虐待行為などの監督・命令者や実行者のことであり、A級戦犯とは区別されている。

 このA級戦犯のうち14名が1978年に靖国神社に合祀されたことから、靖国参拝が、先の大戦の戦争責任問題と大きく絡まるようになり、今日なお論争中である。中国政府は、かって「A級戦犯ら一部の日本の軍国主義者たちに責任がある」と主張してきた経緯があり、これを受けて与野党内に「A級戦犯分祀論」が広がりつつあるが、そのナンセンス論も根強い。

 れんだいこ史観に拠れば、「A級戦犯の靖国神社への合祀を廻る是非」は、日中両国政府による奇妙な且つ意味の有る歴史的合意によりややこしくなっている。つまり、本来なら、先の大東亜戦争の総括は天皇制国家の歴史的行為として天皇及び国家の責任を以って確認されねばならなかった。しかしながら、日中国交回復交渉史に於いて「A級戦犯責任論」で片をつけた。それは、一種のトリックであった。しかし、そういう論理立てしない限り日中国交回復の扉が開かれなかったという経緯がある。

 今、この時の歴史的智恵を顧みず、「A級戦犯は戦犯にあらず論」が復権しつつある。ならば、天皇責任、国家責任に向うのかというと向わない。つまり、一切合財免責論でもって「A級戦犯は戦犯にあらず論」が大手を振って闊歩しつつある。しかしそれは、余計に無茶苦茶であろう。こうなると、大東亜戦争論は永久に迷宮入りすることになる。しかしながら、我が国の知識人はかような見解をプロパガンダしつつある。

 れんだいこは、「A級戦犯は戦犯にあらず論」はその根拠を認める。しかし、天皇責任、国家責任も含めた大東亜戦争論に向かわない「A級戦犯は戦犯にあらず論」は認めない。且つ、第二次世界大戦の真の意味、世界裏政府的ロスチャイルド派による世界支配に対する日独伊枢軸の歴史的抗戦であった面が強いとみなさない「民主主義対ファシズムの戦い」なる論は認めない。これは当たり前のことではなかろうか。その当たり前が通用しなくなりつつある。哀しい現実では有る。

 2005.6.9日、2007.3.28日再編集 れんだいこ拝


【A級戦犯が靖国神社に祀られる直前の経過について】
 2006.4.29日付け毎日新聞は1面で「靖国神社元宮司『A級戦犯合祀は無理』」との見出しの記事を掲載している。それによれば、靖国神社の元公報課長(馬場久夫、81歳)が次のように証言したと云う。
 「終戦直後の1946年に旧皇族出身の故・筑波藤麿氏が第5代宮司に就任し、1978年まで務めた。筑波宮司は、A級戦犯合祀は無理として意識的に避けていた。1948年に東条元首相らが処刑されて間もなく、筑波氏に合祀について考えを聞いたところ、『宮内庁の関係も有る。合祀は自分が生きている間は恐らく無理だろう』と説明した。『宮内庁の関係』とは、続いていた天皇の参拝に影響するという懸念の意味で述べていたように思う。『生きている間は恐らく無理』とは、私の代では合祀はしないという意味で述べていたように思う。『国民の中に東条憎し』の感情があることも配慮していた」。

 2006.7.21日付け東京新聞「昭和天皇『靖国メモ』」は、馬場氏の次のような証言を掲載している。
 「(A級戦犯を含む合祀者名簿を)宮内庁に奏上した時、『こういう方をお祭りするとお上(天皇)のお参りはないですよ』と言われたそうです」。
 
 筑波藤麿氏の長男で元早稲田大教授の筑波常治(ひさはる)氏は、次のように証言した。
 「筑波宮司は、BC級戦犯は一般兵士と同じ犠牲者だが、A級戦犯は責任者だとの考えから、合祀への慎重姿勢を終生変えなかった」(毎日新聞記者の取材証言)。
 「父から天皇の気持ちについて聞いたことはない。父は、『B、C級戦犯は被害者なので祀るが、A級は戦争責任者なので後回しだ。自分が生きているうちは合祀はないだろう』と言っていた」(2,006.7.20日付け日経新聞記事より)。

 概要「(A級戦犯合祀について)父は『戦争の犠牲者の合祀が終了してから考えたい』と話していました。松平さんになって方針が変わった」(2006.7.21日付け東京新聞「昭和天皇『靖国メモ』」)。

 馬場氏も「(筑波氏から)僕らが生きているうちは無理だ。宮内庁の関係もある、と言われました」と説明する。「(A級戦犯を含む合祀者名簿を)宮内庁に奏上した時『こういう方をお祭りするとお上(天皇)のお参りはないですよ』と言われたそうです」とも証言し、松平氏が、昭和天皇の意向に反して合祀を強行したことを明かしていた。


 これにつき貴重な情報が為されている。
「筑波常治教授の定年退職と筑波藤麿靖國神社宮司」サイトで次のような記述がある。
 「ところで、筑波教授の父、筑波藤麿氏は、敗戰後、長らく靖國神社宮司を勤めてゐた。その在任中、昭和四十五年(一九七〇)六月三十日、靖國神社總代會で、青木一男元大東亞相の強硬な主張によつて極東軍事裁判A級戰犯を靖國神社に合祀する方針が決められた。ただし、合祀の時期は宮司に任せる、とされた。極東軍事裁判A級戰犯を『戰爭責任者として合祀しないとなると神社の責任は重いぞ』といふ青木一男による脅迫まがいの主張に對して、筑波藤麿宮司は、『ご方針に従う。時期は慎重に考慮したい』と答へ、實施を延ばし、結局、在任中には極東軍事裁判A級戰犯合祀を行はなかつた」
 「しかし、靖國神社宮司が松平永芳氏に代って間もなく、昭和五十三年(一九七八)十一月(イ十月)、秘密裏に極東軍事裁判A級戰犯合祀が實施された(それが新聞に報道されたのは翌年四月)。さらに、昭和六十年(一九八五)八月、中曾根康弘總理大臣が靖國神社への公式參拜を行ひ、日本國の内外に問題が生じるに至つたこと、既に周知の通りであらう」。
 「昭和天皇の侍從長を勤めた徳川義寛氏は、この極東軍事裁判A級戰犯合祀について、『筑波さんのように、慎重な扱いをしておくべきだったと思いますね』と、松平永芳宮司の措置を批判的に語ってゐる」。

 これに補足すれば、A級戦犯ら14名を合祀した松平永芳宮司は、松平春獄の孫に当たり、月刊誌等で、合祀した理由について次のように述べている。
 「すべて日本が悪いという東京裁判史観を否定しない限り日本の精神復興はできない」。
 「日本とアメリカが完全に戦闘状態を止めたのは(サンフランシスコ条約が発効した)昭和27(1952)年4月28日。サンフランシスコ平和条約前の戦闘状態で行われた東京裁判は軍事裁判であり、そこで処刑された人々は戦場で亡くなった方と同じ」。

 これを整理すれば次のようになる。
 1966年、旧厚生省が、A級戦犯の名簿を靖国神社に送た。1970年、靖國神社の信徒代表らで作る総代会で、青木一男元大東亞相の強硬な主張によっA級戰犯を靖国神社に合祀する方針が決められた。但し、合祀の時期は宮司に任せるとされた。時の宮司筑波氏は、合祀に難色を示し続け、1978.3月、在任のまま死去した。その後任の松平永芳宮司の代になって、旧厚生省が作成し神社側に送られていた名簿に基づき、1978.10月、東条英機元首相等A級戦犯14名の合祀に踏み切った。二人の宮司の対応の差には、A級戦犯に対する認識の違いが有った。

 太田龍・氏の「2,006.8.10日付時事評論bP768」の「故松平永芳靖国神社宮司問題の本質としての平泉澄門下皇国史観派の一人としての松平宮司の存在」は、松平靖国神社宮司について次のように論評している。(れんだいこ編集)
 次第に、いわゆるA級戦犯を合祀した松平永芳靖国神社宮司問題に一部のマスコミ上で、焦点があてられつつある。このひとは、中学時代一年間、平泉澄の家に預けられて居たと言う。平泉澄は、戦時中、東大国史科教授。皇国史観の総本家格である。

 満州事変以後、平泉教授は、陸軍士官学校、海軍兵学校を始めとする陸海軍の各種教育機関、軍の各種会合、その他などで、一年間、百回かそれ以上、講義、講演をして、当時の陸海軍将校の間に、絶大な思想的影響を与えた、とされて居る。松平永芳宮司は、敗戦時、海軍少佐。つまり、れっきとした、平泉門下、筋金入りの皇国史観派将校である。しかし、昭和天皇は、昭和初年から平泉皇国史観に対して、本音では否定的、であったろう。

 平泉澄は、敗戦直後、東大教授を辞任し、福井県の実家、白山神社に復帰して居り、戦後も、終生、その立場を変えて居ない。松平永芳は、戦後、陸上自衛隊に入隊したものの、戦後の自衛隊は、米帝国主義の手先、つまり売国奴と化した。必然的に、皇国史観派の松平永芳は、陸上自衛隊で冷遇され、一佐(大佐)で定年退職。この人物が、昭和五十三年靖国神社宮司に就任したのであるから、大張り切り。

 親英米派の昭和天皇(大英帝国ガーター騎士団員)と、平泉学派=皇国史観派軍人生き残り松平永芳宮司と、二つの政治思想路線の正面衝突はまぬがれない。表層の力関係から見れば、今の日本では、松平宮司派=皇国史観派の力は、限りなくゼロに近いであろう。政治的に、今の日本の国家(米国=イルミナティサタニスト世界権力の日本民族抹殺戦争のための道具)が、政治的法律的イデオロギー的に、靖国神社を事実上、抹殺することは十分可能である。麻生外務大臣の靖国処分試案発表は、その兆候である。しかし、これは表層的次元の話である。

 平成十八年七月。この記念すべき月に、三つの文化的事象が出現した。即ち、(1)鬼塚英昭著「天皇のロザリオ」(成甲書房、上下二巻)、(2)富田メモの発表(七月二十日各紙)、(3)「徳富蘇峰終戦後日記」(講談社、七月下旬)。この三者は、表面下では一つに結び付いて居る。筆者は、平成三年以降、毎年八月十五日、靖国神社に参拝し、東條英機首相の英霊に玉串料を奉納し続けて居る。

 大東亜戦争の正しい歴史的総括は、日本民族の歴史上唯一、公然たる反ユダヤ反フリーメーソンの思想戦を遂行した「国際政経学会」(昭和十一〜二十年)の立場に立ち、それを今日的に復活発展させることによってのみ、可能となることに、今、日本民族有志は目覚めるべき時である。(了)

 【注】
 ちなみに、昭和天皇がむきだしに忌避し嫌悪する、白鳥敏夫(獄中病死)は、国際政経学会の有力な同志の一人である。

 太田龍・氏の「2006.8.24日付時事評論bP768」の「二〇〇五年、日本は米国の属国と成る」との予告は正しかったことが証明されたと、関岡著は言う。しかしそれだけか、そのあとはどう成る」は、松平靖国神社宮司について次のように書き添えている。
 そもそも、問題の松平永芳靖国神宮宮司は、皇太子の「英国オックスフォード大学留学」に対して、強硬に反対した、と伝えられて居る。この松平宮司の反対は、一顧だにされることなく、黙殺されたもののようである。

【A級戦犯合祀を巡る皇室との遣り取りについて】
 A級戦犯合祀に当り、靖国神社側が内奏しており、その経緯が次のように判明しつつある。

 当時侍従長だった徳川義寛氏の面談録である「侍従長の証言」によると、次のように記されている。
 「東条さんら軍人で死刑になった人はともかく、松岡洋右さんのように、軍人でもなく死刑にもならなかった人も合祀するのはおかしい、と指摘した」。
 「A級合祀に疑問を呈したところ、そちらの勉強不足だみたいな感じで言われ、押し切られた」。

 これが、間接的ながら昭和天皇の御内意に近いかと思われる。戦後間もなく侍従次長を務めた木下道雄氏の「側近日誌」は、昭和天皇のA級戦犯観を次のように伝えている。
 「(天皇は、実直な東条英機首相に信頼を寄せて『東条の最後の努力』を評価して)国家の為、粉骨努力した多くの忠誠の人々を戦争犯罪人たらしめたことに付いては、我が祖先に対して誠に申し訳なく、衷心陳謝する」。

 かく述べていたという。してみれば、「昭和天皇『靖国メモ』」と照らし合わせると、A級戦犯に対して、日独伊三国同盟締結を強行した松岡洋右らに対する不興と東条らへの陳謝のニ通りの対応を見せていたことになる。

【中曽根首相の8.15公式参拝をめぐる騒動】
 1985.8.15日、中曽根康弘首相が戦後初の8.15日首相の公式参拝を強行した。これに中韓政府及び国民が猛反発し、中曽根首相は翌年の8.15日の靖国神社参拝を見送った。この経緯につき、次のように記されている。
 「1985.8.15日の中曽根康弘首相による戦後初めての公式参拝の際、中国政府はA級戦犯合祀の事実を問題視して反発し、翌年から首相参拝は中断した。以後自民党は、神社の祭神からA級戦犯を除外(分祀)するよう要請しているが、神社側は信教の自由などを理由に拒否の姿勢を見せている」。

【靖国参拝問題「鐵扇會提言及び活動趣旨」】
 (引用サイト元を失念しております。ご指摘賜ればすぐにリンクさせてもらいます。その間失礼をば) 

 さて、A級戦犯合祀について、「官界」での野田毅・渡辺喜美対談によれば、「あれは靖国側の判断だ」とされるが、 元参議院議員板垣正氏の証言や靖国神社側の説明は、それとは異なっている。重大な問題である以上、単に、靖国への情感的な思いとは別に、援護法を踏まえた首相の戦後認識を何かしらの形で国民の前に明らかにすべきではないか。
 

 さらに、諸々の証言から以下の点が正しければ、それを中韓側に誠実に説明していく外交努力もまた重要であろう。
  • いわゆるA級戦犯(昭和殉難者)は、公務死と認定され、通常の犯罪による刑死とは別物とされた。
  • そのため、軍恩規定に違反せず、恩給も支払われている。
  • 昭和20年代後半からの祭神名票による靖国合祀では厚生省と靖国神社がいわば官民一体となってこれを進めてきた。昭和53年のA級戦犯合祀もその一環として行われたものにすぎない。
  • サンフランシスコ講和条約の条項に、戦犯の靖国合祀に関する禁止事項はなかった。
 これらが歴史的事実としてある以上は、いったん官民一体でお祀りしたものをその時々の外交情勢で海外の顔色をうかがい、ひとり靖国神社側に戦犯分祀はどうかなどと持ちかけることは、法的にも政府の責任道義上でも許されるべきではない。いったんお祭りしてしまった以上は、それを前提に、あとはたゆまぬ外交努力と誠意ある説得で、たとえ何十年何百年かかろうが、相手国と交渉していくほか道はあるまい。そのことをまず銘肝する必要があろう。


(私論.私見) 「れんだいこの『A級戦犯の靖国神社合祀問題』をどう論ずるべきか」

 「A級戦犯の靖国神社合祀問題」をどう論ずるべきか。この問題は、先の大東亜戦争の史的総括を為さざる限り論評のしようがないとすべきところ、これを為さずして諸子百家が任意に饒舌しているところに馬鹿さ加減がある。そういう事情であるから、唯一の対立軸が、方やA級戦犯遺族の情緒論、方や韓国、中国からの抗議に対する配慮論に設定され、ああでもないこうでもないと右往左往させられている。

 れんだいこは思う。この問題は、偏にA級戦犯の戦犯としての位置付け問題に収斂しているのではないのか。A級戦犯がまさにA級戦犯としての史的役割を負っているのなら合祀されるには無理がある。しかし、A級戦犯も又当時の時代の悲劇者であったとするのなら、その御霊は合祀されるべきであろう。一体、どちらなのか。この論議こそ避けて通れない。

 にも拘わらず、この中心的論議を為さぬまま戦犯論と悲劇者論が対立させられ、姑息なことに国民の目を欺くかのようにして合祀させられたことで余計に混乱を引き起こしている。こう観るべきではないのか。

 れんだいこは思う。A級戦犯も又当時の時代の悲劇者である。しかし、これを立証せんとするなら、昭和天皇の戦犯問題も巻き込んで一度は俎上に乗せた上で、史的に総括し直さねばならない。東京裁判のやり直しも視野に入れるべきであろう。

 その結果が、戦犯と出るのなら、昭和天皇も含めA級戦犯達はむしろ分祀させ、格別の取り扱いをすべきだろう。その結果が、悲劇と出るのなら、昭和天皇は別挌としてもA級戦犯達はむしろ進んで合祀されるべきであろう。

 で、れんだいこはどう応答するか。つまり、第一に、今からでも遅くない先の大戦の史的位置付けを喧喧諤諤せしめよ。第二に、戦犯の範囲と重度の落ち度と止むを得なかった面との複合的理解で仕分けせよ。それは何も、A級戦犯を救済するだけのことを狙っているのではない。我々の社会体制にある陥りやすい欠陥を摘出し、同時に当時の日本が果たした世界史的意義をも明らかにせねばならないと考える。これを為す複眼能力が我々にあるのか、それが問われているのではないのか。単に左派、右派の観点で解決できるような事柄ではない、これを結論としたい。

 2003.8.16日、2,006.7.20日再編集 れんだいこ拝

【「日本国首相の靖国神社参拝擁護論」考】

 「高橋**さん」とあるばかりで情報元が分からなくなったが、「靖国神社とA級戦犯」を廻って次のような見解が為されている。

 靖国神社にはA級戦犯が奉られているから首相は参拝すべき出ないという意見があります。しかし、ここでの戦犯というのは極東軍事裁判という全く正当性のない裁判で決められたものです。これはもはやヨーロッパ諸国でも既に疑う余地のないものになっています。

 まず前提として、あの裁判での日本側弁護人が述べている通り、戦争自体は犯罪ではありません。当時は無論、現在でも尚、国家間の紛争解決の最終的手段として合法と認められているものです。新聞の国際面に毎日のように載っている通りです。もちろん双方ともに避けなければならぬ忌まわしい行為ですが、さりとて「絶対悪」では有りません。この点からして、多くの日本人が勘違いしています。

 極東軍事裁判の正当性につき、インド判事が異議を表明したことは有名です。当時の国際法に鑑み、著しく戦争目的を逸脱した行為、例えば、一般市民の大量虐殺は裁かれて当然でしょう。しかし、ドレスデンなどヨーロッパや日本に対する空爆は言うに及ばず、原爆という明確な無差別大量虐殺が裁かれていないのですから、政治的には極東軍事裁判を尊重する必要はありません。所詮は「戦勝国による政治的なショー」だったのです。

 もちろん、戦時中の日本人が自ら内部改革できず、また戦後の総括をしなかったことは紛れもない事実ですが、極東軍事裁判の正当性を問うこととは別問題ですね。主体的な総括をしなかったのだから、極東軍事裁判には正当性があるのだ、ということにはなりません。

 敗戦後55年も経過し、日本という国がまるで変わってしまった今、過去を「裁く」とは「アンフェアー」のみならず、現在を正義とする「傲慢」な行為でもあります。しかも余りに遅すぎます。必要なのは冷静に事実を知ること、事実と主観・意見、史実と史観は峻別することでしょう。

 私個人の意見としては、歴史書を読んでいると率直に言って、数百万人の同胞を死に追いやり日本を破滅させた当時の幾人かの政治家・軍人について、改めて「縛り首」にしてやりたい衝動に駆られることが有ります。しかし、現在の日本国の首相がデタラメな裁判の結果に基づいて行動をする必要はありません。小泉首相は個人の信条に基づき、日本国総理として行動すれば良いのであり、また現実問題としてそれ以外に彼が実際に取れる選択肢は有りません。

(私論.私見) 「日本国首相の靖国神社参拝擁護論」について

 
上述末尾のような「日本国首相の靖国神社参拝擁護論」は一考に値する。しかし、れんだいこは、この説を採らない。論理的な問題と歴史的な問題とを混同していると考えるからである。「靖国神社の再創建に向けてのれんだいこ提言」でこれを論ずる。





(私論.私見)