428986 靖国神社参拝に対する中国、韓国等の対応について

 2004年の外交問題として、小泉首相の靖国神社参拝に対して中国政府首脳からの手厳しい批判が為されている。日本左派運動はこれにどう対処すべきか、理論構築すべきかが問われているのに、しゃきっとしたものに出くわさない。あたかも失語症に陥っている感がある。

 この問題は殊のほか難しい。これを正しく課題設定し、解答を為し得る者は世界広しと雖もそうは居ないであろう。れんだいこはそう認識しているので、識者の多くがダンマリ決め込むのを批判しようと思わない。そこで、いつものように体張り人れんだいこが物申すことにする。如何なる評価をいただくことができるだろうか。しかし、書き上げてみたものの甚だ不満足なできではある。 

 2004.12.12日 れんだいこ拝


【中国側からの批判の経緯】
 中国側からの批判の経緯を記す。
 2004.11.21日、チリのサンティアゴで開かれたアジア太平洋経済協力会議(APEC)に出席中の小泉首相と中国の胡錦濤国家主席が閉幕後、日中首脳会談を開いた。日中首脳同士の往来は3年余り途絶えており、1年1カ月ぶり会談となった。

 席上、胡錦濤国家主席が靖国神社参拝を廻り小泉首相の政治姿勢を厳しく批判した。曰く概要「首相の靖国参拝が日中の政治停滞、困難を創りだしているので適切な対処を要望する。来年は反ファシスト勝利60周年に当たっており、否が応でも歴史を振り返らねばならないことになる。我々は、歴史を鑑(かがみ)として未来に向かうべきだ」と述べた、と伝えられている。つまり、小泉首相の靖国神社参拝の中止を求めるという首脳会談では異例の発言をしたことになる。

 これに対し、小泉首相は、概要「靖国神社について胡主席から言われたことは、誠意をもって受け止める。心ならずも亡くなった先人に哀悼の真心をささげ、不戦の誓いをするということで参拝している」と述べた、と伝えられている。

 2004.11.27日、ラオス訪問中の小泉首相は、ビエンチャン市内で中国の温家宝首相と会談した。温首相は、曰く概要「今の日中関係を困難にしているのは、日本の指導者の靖国参拝である。歴史を鏡として対処していくことが重要だ。靖国神社参拝を中国国民は受け入れられない。数千万人を惨殺したA級戦犯が祀(まつ)られている。戦争犯罪者と心ならずも亡くなった一般の国民を分けるべきだ」と指摘した。

 これに対し、小泉首相は、「私が参拝したのは、『二度と戦争をしない。中国に迷惑をかけない』との理由だ。日中問題を重視していないことは全くない」と述べた、と伝えられている。

 してみれば、小泉首相は、中国の最高実力者である主席、首相双方から靖国神社参拝を廻って手厳しく批判されたことになる。ところが小泉首相もさるもので、ほとんど病気的ないつもの全く噛み合わない議論でお茶を濁し、見解は平行線を辿った。但し、小泉首相は、参拝を続けるかどうかについての明言を避けた。

【日本側の対応の様子】
 日中首脳会談の遣り取りに対する日本側の反応は概ね馬耳東風で、むしろ内政干渉であるとしてこれを批判し、逆に小泉首相の靖国神社参拝をけしかける見解が打ち出されている。その論拠たるや相変わらずのステロタイプなもので、中国には中国の日本には日本の立場がある、中国政府の要望を配慮する必要は無いとして意に介さない。

 他方、これを批判する左派運動は日増しに衰退しており、その言論ももはや何の影響力も持たない。かくして、靖国神社参拝問題が問題にならない。この状況は明らかに政治の貧困ではなかろうか。

「A級戦犯論問題」の奥深さ−戦争被害賠償金問題との絡みについて
 れんだいこは、問題を次のように整理する。この問題を解く為には先ず最初に、中国側がなぜ「日本国首相の靖国神社参拝問題」に執拗に拘るのかその理由を忖度せねばならない。我々は、中国側の1・靖国神社批判、2・A級戦犯批判、3・日本国首相の靖国神社参拝の論拠を知らねばならない。大方の評者はここを全く無視したまま論じている。

 れんだいこは次のように思う。歴史認識問題として、1・靖国神社批判、2・A級戦犯批判については、日中双方に大きな食い違いはあるまい。大東亜戦争肯定論者の観点は話が大きくなりすぎるので、ここでは問わない。

 日本の食い違いは次のところから生じている。先の第二次世界大戦で、日帝は敗戦国、中国側は勝戦国となった。日本にとって有り難いことに、第二次世界大戦後は第一次世界大戦後の処理のように敗戦国に対する過酷な制裁は課せられなかった。第一次世界大戦の例で見れば、敗戦国は拡張領土を取り上げられた上に且つ莫大な損害賠償を課せられている。

 ワイマール体制下のドイツを想起すれば良い。第一次世界大戦後のドイツ及び国民が如何に喘いだことか。第二次世界大戦後にこの手法が適用されていたならば、敗戦国日本には莫大な損害賠償債務を背負わされたことだろう。特に、中国の被害は天文学的で金額の予想も付かない。経緯は分からないが、中国側には国際法上その権利があったにも拘らず、これを行使することを控えてきた史実がある。

 しかし、この問題はいつしか解決されねばならない。では、それがどのように解決されたのか。これを知るには、1972年の日中国交回復交渉を調べねばなるまい。この問題は、日中官僚の事前折衝で次のように処理された。まずは日本側が過去の侵略行為を詫びた。これを歴史責任として認めた。次に中国側は、戦前の日帝の大陸侵略政策に付き、これを国家に責任を求めず、これを主導した一部の軍部勢力に責任を被せることにした。その上で、一部の軍部勢力をいわゆるA級戦犯に限定し、批判するというロジックを編み出した。結論、中国政府は、A級戦犯を批判することにより日本国及び人民に責を求めず、「歴史を鑑(かがみ)として未来に向かう」ことにより今後の日中関係をこそ重視するという立場を表明した。

 これが、「中国政府の未来へ向っての友好の礎石を打ち立てる為の過去の問題の処理論法及び論理」であった。これは、次のように言い換えることも出来る。中国側は、戦前日本と戦後日本の権力の質の差を踏まえ、先の侵略行為は戦前的権力亡者どもが日本人民大衆の意思に反して為したものであるから、彼らを蟄居させた上で成り立っている戦後日本の権力及び日本人民大衆に直接の責任を求めるのは上策ではない。つまり、全ての非は一部の戦前的権力亡者にありとして、彼らに責任を被せる見解を打ち立てた。

 この論理の果てに、一部の戦前的権力亡者を極東裁判で裁かれたA級戦犯に集約するという仕掛けが導入された。こうして、戦前日本の統治行為の歴史的責任を特殊化させることにより、賠償金請求権放棄の論理を生み出した訳である。中国側のA級戦犯論にはそういう背景がある。この論法が正しいのかどうかは別にして、この論理に拠って、日中双方が賠償金請求権問題を解決したことは疑いない。

 してみれば、この時点から、A級戦犯論にはそういう日中両国政府による歴史的約束事が為されたとみなすべきであろう。日中共同声明は、第5項で、「中華人民共和国政府は、日中両国民の友好のために、日本国に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言する」と明記した。これを日本側から見れば、戦前の侵略責任に対し、A級戦犯をスケープゴートにすることにより一件落着させた、ことを意味する。「日中国交回復と経済交流」に道を開くための、最善かどうかは分からないが、これはこれで一つの歴史的決着のさせ方であったであろう。

 ところが時代は変遷する。日中共同声明を発表時の政権は、中国側は毛ー周の左派政権、日本側は角栄−大平のハト派政権であったがその後共に失脚している。つまり、このロジックを生み出した政権が今や共に不在で、両国政府とも国際金融資本に拝跪しつつ排外主義的国益論を唱える政府に変貌している。このことが確認されなければ見えるものが見えてこない。

 この路線上で、小泉首相の靖国神社参拝が繰り返し強行されていることが確認されねばならない。そして、中国政府首脳が小泉首相の靖国神社参拝を強く批判している、という構図が確認されねばならない。それは何を物語るのであろうか。れんだいこには、本質的に国際金融資本に拝跪することで政権延命を画策しつつある両国政府の売国奴性を隠すイチジクの葉として、日本国首相は靖国神社参拝を強行し、中国政府はそれを批判するという戯画的演出でしかないように見える。

 しかし、以上の観点は評論的なものでしかない。しからば、日本人民大衆はどう対応すべきか、について愚考してみる。中曽根−小泉首相の靖国神社参拝問題が、歴史的経緯を踏まえず、中国側の神経を逆撫でしていることが確認されねばならない。この「歴史的経緯を踏まえず」のところが踏まえられていないから、この問題の奥行きが理解できず、徒な反発ばかりが目立つ。それでは何の解決にもならないというのに、同じ調子の音色の万年批判で一戦構えようとしている。他方で、あるいは中国の言うことはその通り式のお辞儀論法で応答しようとする者も居る。どちらにしても何の役にも立たない。

 もし、真に「日本国首相の靖国神社参拝問題」を解決せんとするならば、歴史的に合意されてきた「虚構のA級戦犯論批判」の論理を片や踏まえつつ片や再検証に向わねばならない。そうすると、既に時効かどうか分からないが、あるいは国際法上の有効度が分からないが、勝戦国側による敗戦国に対する賠償金請求権問題に再び直面せねばならない。

 そうすると、日本側には次の仕事が迫られることになる。まず、中国に対し賠償金請求権放棄問題は解決済みであることを説得せねばならない。次に、日中両国側双方が既成のA級戦犯論に代わる戦前の不幸な日中戦争を総括する歴史観を創造せねばならない。未来に繋ぐ日中友好の新観点を創造せねばなるまい。

 日本側には今のところ相変わらずのアナクロ的聖戦論以外に無い。しかしそれでは何も解決しない。ならば、果たして我々にはそれを為す能力があるのだろうか。それが問われているのだと思う。「中国側の靖国神社批判、A級戦犯批判問題」にはそういうややこしい課題が付き纏っていることを踏まえての論議でないと、何の意味もない。

 2004.12.9日 れんだいこ拝

「A級戦犯論問題」の奥深さ−内政干渉論との絡みについて

 中国政府の「日本国首相の靖国神社参拝批判」に対して、これは「内政問題であり、他国があれこれ口を差し挟むことがらではない」との反論が為されている。1972年の「日中共同声明」第6条には次のように記されている。「日本国政府及び中華人民共和国政府は、主権及び領土保全の相互尊重、相互不可侵、内政に対する相互不干渉、平等及び互恵並びに平和共存の諸原則の基礎の上に両国間の恒久的な平和友好関係を確立することに合意する」。つまり、「内政に対する相互不干渉」を謳っているからして、「日本国首相の靖国神社参拝」はこれに該当する内政問題であるから、中国の非難は「日中共同声明」違反に当たる、との論拠も示されている。

 我々は、この立論に如何に対応すべきだろうか。前章「『A級戦犯論問題』の奥深さ−戦争被害賠償金問題との絡みについて」からすれば、かなり怪しげな内政不干渉論になろうが、何と日共論理からすればこれに批判できない。自業自得と云うべきで、彼らは、国家間のみならず政党間に於いても内政不干渉論を押し付けているからして、反論無し得ない。こういうところで反動理論の極致が露呈することになる。

 それはともかく、日本政府側が、「日中共同声明第6条規定による内政不干渉論」を持ち出して反論するのは得手勝手が過ぎよう。もしどうしても小泉首相が靖国神社参拝を強行しようとするのなら、中国政府に対し事前に根回しすべきではないのか。それが、歴史的経緯の重みというものであろう。この「歴史的経緯の重み」を凌辱して強行することに中国側は苛立っているのであるからして、それは当然に為さねばならぬ。

 小泉首相は、米英ユ同盟に対して、彼らの意に反するかような行為をただの一つでも為し得るだろうか。彼らに対してはへいこらし、嬉々としてポチとなる腹いせに中国、韓国、北朝鮮に対しては横柄にしているのではなかろうか。これがいわゆるタカ派系政治の共通姿勢ではあるからして驚きはしないが、「小泉首相の靖国神社参拝」は、東アジア共栄圏思想を持たない戦後タカ派の変態性異常嗜好を浮き彫りにしていることは相違ない。

 2004.12.14日 れんだいこ拝

「A級戦犯論問題」の奥深さ−戦前日帝軍部論との絡みについて
 日本軍の果たした皮肉な歴史的役回り考」に記す。





(私論.私見)