428985 歴代天皇及び首相・閣僚の靖国神社公式参拝史及び戦犯合祀経緯について

 (最新見直し2006.8.20日)

 (これより前の靖国神社史は、靖国神社の由来と歴史についてに記す)

 (A級戦犯合祀問題については、「A級戦犯の靖国神社への合祀考」に記す)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、靖国神社への歴代天皇及び首相・閣僚の公式参拝の歴史を確認する。微妙にA級戦犯合祀問題が絡むので、その経過とこれに纏わる動きも追跡する。2006.7.21日付け東京新聞の「昭和天皇『靖国メモ』」が意欲的に解析しており、これを適宜援用する。

 2007.3.28日、国立国会図書館は、「新編靖国神社資料集」(A4判1200P)を公表した。靖国神社の内部資料や中曽根内閣当時の「閣僚の靖国神社参拝に関する懇談会」の議事録などか公開された。新聞各社は一斉に「戦犯合祀の過程判明」とする記事を掲載した。これを参照する。

 2007.3.28日 れんだいこ拝


【首相の靖国参拝は合憲か違憲か】
 首相の靖国参拝をめぐっての裁判所の判例は、違憲、合憲を繰り返している。最高裁見解は、1977(昭和52).7月の津地鎮祭訴訟で開陳された見解が代表的なものとなっている。同判決は、意訳概要「憲法20条は信教の自由と政教分離の原則を定めている。とはいえ、行政府が関与する宗教的行為の場合、その目的が宗教的な意義をもち、その効果が特定の宗教を援助、または他の宗教を圧迫するような場合でない限り、憲法に違反しない」と述べている。いわゆる「目的・効果基準」である。

 その後、国や地方自治体と宗教との関係をめぐる各地の玉ぐし料訴訟、忠魂碑訴訟などで、この法理論が踏襲されている。1985(昭和60).8月の中曽根康首相の靖国神社公式参拝を審理した大阪地裁、福岡地裁などでも、公式参拝を違憲とする原告側の訴えが退けられた。ただ、閣僚の靖国神社公式参拝を求めた岩手県議会の決議について、仙台高裁が判決理由でなく傍論の中で違憲の判断を示している。

 産経新聞の****.8.1日付け「主張」は、「それには判例拘束性はない。首相の靖国参拝が合憲であるという法的な判断は定着しているのである。中曽根公式参拝の当時、政府もそれまでの『憲法上疑義がある』とする見解を改め、『公式参拝は合憲』とする見解を打ち出している」と述べている。

(私論.私見)

 産経新聞の論調はとにかく没批判追従型であるからして今更驚くことも無いが、こうして法はあって無きが如しの後押し比べを競い合っていることが分かる。この連中に「法を守れ」の説教だけは聞かされとうない。

 2005.6.10日 れんだいこ拝


 1945(昭和20).9.20日、陸軍省が、戦没者に加え、一般国民の全戦災死亡者を合祀するよう提案したが、政府内で合意が得られなかった。


【サンフランシスコ講和条約締結、A級戦犯問題に言及せず】

 1951(昭和26).9月、日本は、連合国とサンフランシスコ講和条約を締結した。第11条で東京裁判を受諾し、独立を回復した。この時、大東亜戦争時の戦犯問題は玉虫色に規定された為、後々に尾を引いていくことになった。

 
護国派は次のようにその見解を述べている。

 サンフランシスコ講和条約第11条には、次のように書かれている。

 「日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判judgements)を受諾し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行するものとする。これらの拘禁されている者を赦免し、減刑し、及び仮出獄させる権限は、各事件について刑を課した一又は二以上の政府の決定及び日本国の勧告に基くの外、行使することができない。極東国際軍事裁判所が刑を宣告した者については、この権限は、裁判所に代表者を出した政府の過半数の決定及び日本国の勧告に基くの外、行使することができない」。

 このなかでjudgementsを「判決」と訳さず、「裁判」と誤訳したことから、日本は、東京裁判における事実認定(いわゆる東京裁判史観)を受け入れたとの誤解が生まれてしまったのである。しかし、この条文全文を読めば、この目的が、いわゆる戦争犯罪人を裁いた連合国の軍事法廷が日本人被告に言い渡した刑の執行を、日本政府に引き受けさせるとともに、赦免・減刑等の手続きを定める点にあることが理解されるだろう。

 実際、世界の国際法学者の多くは、この第11条に関して「日本政府は、東京裁判については、連合国の代わりに刑を執行する責任を負っただけで、講和成立後も、東京裁判の判決理由によって拘束されるなどということはない」と解釈している。

 なお、A級被告となりながら、講和独立後、閣僚となった賀屋興宣元法相や、重光葵元外相の政界復帰の事実と、それへの国際社会からの批判が皆無であったことは、独立後の日本政府は、東京裁判の判決に拘束されなかったことを示している。


 A級戦犯は56年、BC級戦犯は58年までに釈放された。

  問題の根源は別として、「A級戦犯の靖国神社合祀問題」の由来は、戦後日本が独立したときの国際条約となったサンフランシスコ講和条約に発している。サンフランシスコ講和条約は、極東国際軍事裁判(いわゆる東京裁判)の判決に沿ってさまざまな制限条項を設けていたが、A級戦犯の処遇に関する具体的には靖国神社への合祀については特段の規定が盛りこまれていなかった。想定外のことでもあったと思われるが、サンフランシスコ条約に「いわゆるA級戦犯の靖国神社合祀を禁止する」と書かれていなかったことが、合祀運動の余地を残すことになった。

【サンフランシスコ講和条約締結後のA級戦犯合祀の動き】
 占領が終わると、当時の国会は遺族援護関係法規を改正した。その眼目は次のことにあった。
 概要「いわゆる戦争裁判は連合国によってアジア・太平洋の各地で開かれたが、日本が主権を喪失していた時期に日本の意思とは無関係に一方的に裁いたものであるから、対外的には認められても、国内法上では犯罪者とはみなすべきでは無い。戦犯の遺族も一般戦歿者の遺族と同じように扱うようべきである」。

 この論法により、「大東亜戦争のA級戦犯靖国神社合祀」の道が開かれることになった。「A級戦犯の靖国神社合祀問題」は、今日なお政治的に悶着があり、それは過去の大戦の史的総括の無さと、そこから由来すると思われるが故に思想的にも処理されていないことに起因していると考えられる。

 A級戦犯の靖国合祀
の動きは、隠然と進められていったのが史実である。「1959(昭和34)年に最初のA級戦犯合祀が行われた」とあるが、B・C級戦犯の合祀が始まった、ということのように思われる。この経過に付き判明するところは次の通りである。靖国神社側の説明では、厚生省から送られてきた「祭神名票」(お祀りすべき人々の霊について記されたもの)に従って、淡々とお祀りしただけだ、と説明が為されている。中曽根政権以降の政府・自民党側の説明では、「いわゆるA級戦犯合祀には政府は関与していない」との見方を披瀝している。

 関係者の話を総合すると、時の政府の意向を踏まえて、厚生省が粛々と靖国神社A級戦犯合祀を取り計らっていったことになりそうである。つまり、サンフランシスコ講和条約その他を検討した結果、問題ないと判断し、当時の世情を勘案し官庁側が事務的な仕事として淡々と進めた結果であったということになりそうである。

 占領終了後の靖国神社の合祀は、国や都道府県と靖国神社との共同作業で行われた。つまり、「戦犯」の合祀は政府の主導で行ってきたと言っても過言ではない。まだ不明な点が残っているが、いずれにしても当時の政府・厚生省が決定したというのは、まちがいない事実のようである。

【歴史的経過1、首相の例大祭参拝期】
 1951年(昭和26).9月、サンフランシスコ講和条約が署名されると、吉田首相はその批准を待たず、まだ占領中であったが「戦没者の慰霊祭等への公人の参拝差し支えなし」という占領軍の許可を得て公式参拝を行った。「吉田も遺族達も感無量であった」と報じられている。

 同10.18日、吉田首相が戦後初の秋季例大祭に参拝在任中、計3回参拝する)。以降、岸、池田、佐藤、田中各首相も複数回参拝することになる。
 鳩山首相、石橋首相は、在任中参拝せず。岸信介首相は2回、池田勇人首相は5回、佐藤栄作首相は11回、田中角栄首相は6回、三木首相は3回、福田首相は4回、大平首相は3回、鈴木首相は8回、中曽根首相は10回参拝をしている。竹下、宇野、海部、宮沢、細川、羽田、村山首相は在任中参拝せず。橋本首相は1階。小渕、森首相は在任中参拝せず。小泉首相は既に4回。歴代首相は主として春秋の例大祭に参拝していた。

【靖国神社が宗教法人法により単立の宗教法人となる】
 1952(昭和27).1月、靖国神社は、宗教法人法(昭和26年法律第126号)により単立の宗教法人となった。

 この時かこれより早くか不明であるが、
「宗教法人『靖国神社』規則」と「靖国神社社憲」が定められ、「靖国神社」規則は次のように神社性格を規定している。
 「本法人は、明治天皇の宣らせ給うた『安国』の聖旨に基づき殉ぜられた人々を奉斎し、神道の祭祀を行ひ、その神徳をひろめ、本神社を信奉する祭神の遺族その他の崇敬者を教化育成し、社会の福祉に寄与しその他本神社の目的を達成するための業務及び事業を行うことを目的とする」。

 つまり、「ファクター5」の範囲内での信仰の強化運動が許容されたということになる。

 これを見る限り、教規的には戦前の靖国神社の性格が継承されていることが判明する。但しこれを仔細に見れば、教義上、国家鎮護的な役割が薄められ、「招魂慰霊」を核とする役割に転換させられていることが分かる。ということは、「かっての役割を公然と復活することが宣言されており、つまり、目的や思想は何ひとつ変わっていない」とみなすことは、少々乱暴な把握の仕方であるということになる。

 しかし、教義はやや変質したものの、祭祀、儀礼は戦前と異なるところはなく、同神社の霊璽(みたましろ)も神鏡と神剣であり、副霊璽(そえみたましろ・もとは祭神簿といわれていたが、これには祭神の氏名、戦没年月日、場所、本籍のある都道府県、軍における所属、階級、位階、勲等などが記入されている)として天皇の軍隊の忠死者若しくは戦争協力者を霊璽簿とよばれる名簿に記して祀っており、神道上の宗教施設としてこれを崇敬していることからすれば、傍目からは何ら変わっていないともみなされよう。

 同4.28日、サンフランシスコ講和条約が発効する。この条約の発効により、神道指令が失効した。


 同4.30日、「戦傷者戦没者遺族等援護法」(「救援法」)施行される。
 同5.2日、新宿御苑で、初の政府主催全国戦没者追悼式挙行される。
 同10.16日、昭和天皇が「神道指令」後初めての靖国神社参拝。以降、1975.11.21日まで6回参拝する。
 同10.17日、吉田首相が新憲法施行後初の靖国神社参拝。
 この年、政府は、A級を含む全ての戦犯の赦免、減刑を急連合国に勧告。衆参両院で戦犯釈放に関する決議が出ている。A級戦犯は1956年までに、BC級戦犯は58年までに釈放された。
 1953(昭和28).3.11日、日本遺族会設立。講和条約発効後、未合祀者を合祀する運動が置き、遺族会がその意を汲んで活動し始める。

 同4.23日、吉田首相が参拝。


 同8.1日、「救援法」を一部改正し、戦争裁判受刑者の遺族にも遺族年金や弔慰金が支給されるようになった。当時の左派社会党、右派社会党(委員長・河上丈太郎)もこれに賛成している。


【衆院本会議で、「戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議」を採択】

 同8.3日、衆院本会議で、「戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議」を採択。決議文の内容は次の通り。

 8月15日9度目の終戦記念日を迎えんとする今日、しかも独立後すでに15箇月を経過したが、国民の悲願である戦争犯罪による受刑者の全面赦免を見るに至らないことは、もはや国民の感情に堪えがたいものがあり、国際友好の上より誠に遺憾とするところである。

 しかしながら講和条約発効以来戦犯処理の推移を顧みるに、中国は昨年8月日華条約発効と同時に全員赦免を断行し、フランスは本年六月初めに大減刑を実行してほとんど全員を釈放し、次いで今回フィリピン共和国はキリノ大統領の英断によって、去る22日朝横浜ふ頭に全員を迎え得たことは、同慶の至りである。且又、来る8月8日には濠州マヌス島より165名全部を迎えることは衷心欣快に堪えないと同時に濠州政府に対して深甚の謝意を表するものである。

 かくて戦犯問題解決の途上に横たわっていた最大の障害が完全に取り除かれ、事態は最終段階に突入したものと認められる秋に際会したので、この機を逸することなく、この際友好適切な処置が講じられなければ受刑者の心境は憂慮すべき事態に立ち至るやも計りがたきを憂えるものである。われわれは、この際関係各国に対して、わが国の完全独立のためにも、将又世界平和、国際親交のためにも、すみやかに問題の全面的解決を計るべきことを喫緊の要事と確信するものである。よって政府は、全面赦免の実施を促進するため、強力にして適切且つ急速な措置を要望する。

 右決議する。


【サンフランシスコ講和条約発効、戦犯の釈放運動が全国で起る

 1952年、サンフランシスコ講和条約が発効し、日本が独立を回復すると、戦犯の釈放運動が全国で起った。嘆願署名は、4000万人を超えた。決議案は、この国民世論を受けたものである。共産党や労農党は反対の立場を示していたものの、戦勝国によって裁かれた裁判だとして極東国際軍事裁判の見直しとA級戦犯の名誉回復を掲げていた改進党や、国民意識としてのBC級戦犯釈放を掲げた社会党の後押しにより推進された。海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会が「全会一致をもつて原案を可決すべきもの」と議決したことを受けて、本会議で可決された(「ウィキペディア戦争犯罪」)。


 1954(昭和29).10.19日、昭和天皇が靖国神社の例大祭に臨席。


 この年、恩給法が改正され、戦犯への援護措置が拡充された。政府は、戦犯も「公務死」と位置づけ、国内法上、A級戦犯の公務復帰を妨げるような欠格事由規定などを設けなかった。


【遺族援護法が成立】
 1955(昭和30)年、遺族援護法が成立し、敵国の戦争裁判で刑死、獄死した人々の遺族にも、遺族年金や弔慰金が支給されるようになった。その中心となったのは、堤テルヨという社会党の衆議院議員であった。堤議員は衆議院厚生委員会で「その英霊は靖国神社の中にさえも入れてもらえない」と遺族の嘆きを訴えた。堤議員の活躍が大きく貢献して、「占領中の敵国による軍事裁判で有罪と判決された人も、国内法的には罪人と見なさない」、という判断基準を含んだ法改正が与野党をあげて全会一致で可決された。

【靖国神社と厚生省引揚援護局との合祀事務打ち合わせの予備折衝】

 1956(昭和31).1.23日、靖国神社と厚生省引揚援護局との合祀事務打ち合わせの折衝が始まった。各都道府県から集めた戦没者名簿を同局で取りまとめ、神社に送る事務処理安が提示されている。


【厚生省引揚援護局調査課が、各都道府県に、「祭神名票」作成を通達する】

 1956(昭和31).4月、厚生省引揚援護局調査課(現厚生労働省社会・援護局)が、各都道府県に合祀事務に協力するよう「靖国神社合祀事務協力について」を通達した。この時、同課は、旧陸軍の流れをくみ、元軍人が仕切っていた。これにより、恩給法と戦傷病者戦没者遺族等救援法で「公務死」と認められた者が合祀予定者に選ばれた。その名簿が、「祭神名票」として厚生省から靖国神社に送付、合祀された。その後も、遺族の申し出などにより、ほぼ毎年合祀が続いている。


 1957(昭和32).4.23日、昭和天皇が靖国神社の例大祭に臨席。


 同4.25日、岸首相が靖国神社参拝(在任中、計2回参拝する)。


【靖国神社と厚生省引揚援護局との合祀事務第1回打ち合わせ】

 同6.3日、「合祀事務に関する厚生省引揚援護局関係者との第1回連絡会議録」が残されており、その後、合祀基準などについて頻繁に検討会が開かれている。神社側は宮司に次ぐ役職の権宮司ら数名、引揚援護局側は旧軍人の職員らが出席している。

 1950年代後半のこの時より以降、靖国神社と厚生省は、A級戦犯の靖国神社合祀問題について再三会合を開き、合祀の可能性を検討していたことが、2007.3.28日に国立国会図書館が公表した「新編靖国神社問題資料集」で明らかになった。それによると、1956年、両者の会合が始まり、1958年、戦犯合祀問題が議題に上った。1965.12月、この時の会合で、A級戦犯合祀の保留が決められた。


 1958(昭和33).4.9日、靖国神社と厚生省の合同会議で、引揚援護局の事務官が、「戦犯者(A級は第一復員者ではない。B級以下で個別審議して差し支えない程度でしかも目立たぬよう合祀に入れてはいかが。神社側として研究してほしい」と提案している。神社側は、「総代会(神社の最高意思決定機関)に相談してみる。その上でさらに打合会を開きたい」と回答している。合祀の話し合いはこの時より始まる。


 同9.12日、靖国神社と厚生省の第7回合同会議で、厚生省側から「全部同時に合祀することは種々困難もありとすることであるから、まず外地刑死者(BC級戦犯)の合祀のこと、目立たぬ範囲で了承してほしい」と提案がなされ、神社側は、「新聞報道関係の取り扱い方いかんで、その国民的反響は重要な問題として考えねばならず、宮内庁関係にも事前に了承を求める必要も考えられる」と回答している。

 この年、厚生省が、A、B、C級の祭神名票を作成した。が、A級の送付は8年後の66年まで待った。


 同10.21日、岸首相が靖国神社参拝。


 同12月、靖国神社の総代会が開かれ、A級戦犯合祀を今後検討すべきだという意見が出たが、総代の小泉信三元慶応義塾塾長が「ここで決定するのではないのですね」とほっとした表情で語ったという。当時、神社側は合祀論一色ではなかったことがうかがえる。


 1959(昭和34).3.28日、千鳥ヶ淵戦没者墓苑完成。


 同4.8日、昭和天皇が靖国神社の臨時大祭に臨席。


 この頃より国家神道の復活が叫ばれるようになり、自民党による靖国神社国営化運動が推進された。自民党の族議員や同党の支持団体である日本遺族会などが、靖国神社の「国家護持」を復活させる運動を開始した。


 この年、靖国神社は、BC級戦犯の合祀を始めた。


 1960(昭和35).10.18日、池田首相が靖国神社参拝(在任中、計5回参拝する)。


 1961(昭和36).6.18日、11.15日、池田首相が靖国神社参拝。


 この年、厚生省と神社の検討会で、A級戦犯の「合祀可、非公表」を決める。但し、翌年「保留」に変える。


 1962(昭和37).11.4日、池田首相が靖国神社参拝。


 1963(昭和38).9.22日、池田首相が靖国神社参拝。


 1964昭和39).8.15日、靖国神社境内で、政府主催の全国戦没者追悼式を行う。この動きは次第に強まり、60年代後半から政治問題化することになる。


 1965(昭和39).4.21日、佐藤首相が靖国神社参拝(在任中、計11回参拝する)。


 同8.15日、日本武道館で、政府主催の全国戦没者追悼式を行う。以降、毎年武道館で開催。


 同10.19日、昭和天皇が靖国神社の臨時大祭に臨席。


 同12.8日、靖国神社と厚生省の合同会議で、「後日審議のため保留となっている項目について現段階においての検討について」との議題で検討、保留の結論となった。


【厚生省援護局調査課長が、靖国神社に「祭神名票」を送付する】
 1966(昭和41).2.8日、厚生省援護局調査課長が、事務次官ら幹部に断りないまま靖国神社調査部長に対し、「祭神名票の送付について」の表題の祭神名票が靖国神社に届ける。「東京裁判関係(A級)死没者12。.軍人軍属(B・C級内地死刑者53)」と計205名の「区分」が列記されていた。別紙に、東京裁判関係(A級)死没者として、元首相・東条ら刑死者7名と元陸軍大将・梅津ら5名の名前が列挙されていた。

 この年、A級戦犯14名(後に、元外相・松岡ら2名が追加された)を含む新たな祭神名票が「崇敬者総代会」に諮られ、合祀が了承された。時期は、宮司に一任された。東京裁判のパール判事に勲一等瑞宝章が授与される。佐藤首相が靖国神社参拝。

 同4.21日、佐藤首相が靖国神社参拝。


 1967(昭和42).4.22日、佐藤首相が靖国神社参拝。


 同5.8日、靖国神社と厚生省の合同会議で、A級戦犯の合祀保留が打ち合わせられる。


 ところで、どこで見た文章か分からなくなったが、「1967(昭和42).10月、靖国神社は、東条英機元首相ら東京裁判のA級戦犯14人を『昭和殉難者』として遺族にも知らせず合祀した」との記述が為されている。これは理解不能である。1978(昭和53).11月が正式のようである。 


 1968(昭和43).1.17日、平泉渉・氏が、岸信介元首相と「重要なる会談」をした。翌年、自主憲法制定会議(岸会長)が発足。


 1968(昭和43).4.23日、佐藤首相が靖国神社参拝。


 1969(昭和44).1.31日、靖国神社と厚生省の合同会議で、再確認事項で、法務死没者(A級戦犯)合祀可との判断を示した。但し、「総代会の意向もあるので合祀決定とするが外部発表は避ける」とした。


 同4.22日、佐藤首相が靖国神社参拝。


【靖国神社の国家管理を盛り込んだ「靖国神社法案」が議員立法で国会に提出される】
 6月日本遺族会の後押しを得て、靖国神社の国家管理を盛り込んだ「靖国神社法案」を議員立法で国会に提出する。同法案は、靖国神社を非宗教化して、内閣総理大臣が管轄する特殊法人として国営化することを骨子としていた。以降5回繰り返される。だが、根強い反対もあり、大きな反対運動が起こり、法案はその都度審議未了→廃案が繰り返された。1974年に最終的に廃案となった。

 この動きは、ファクターDに新たに「国家管理
という条件を設定しようとする動きと見ることが出来る。但し、「国家護持」機能の付加なのか、国家責任による英霊祭祀化なのか分明でない。

 同9月、靖国神社国家護持国民協議会発足。


 同10.18日、佐藤首相が靖国神社参拝。


 同10.20日、昭和天皇が、靖国神社創立100年記念大祭に臨席。


 同11.8日、神道政治連盟が発足。靖国神社国営化が挫折すると、神道政治連盟が発足し、天皇、首相の公式参拝の実現運動が大々的に組織されていった。


 1970(昭和45).4.22日、10.17日、佐藤首相が靖国神社参拝。


  同6.25日、靖国神社と厚生省の会議で、A級戦犯合祀について、「諸情勢を勘案保留とする」とした。保留に戻ったことになる。


【靖国神社の崇敬者総代会で、A級戦犯合祀の方針を決定する。但し、時期に就いては宮司一任】
 この年、東条英機内閣で大東亜相だった青木一男氏(故人)ら二人の元A級戦犯がリードする靖国神社の崇敬者総代会が開かれ、A級戦犯合祀の方針を決めた。但し、時期に就いては宮司一任とした。

 1971(昭和46).4.22日、10.18日、佐藤首相が靖国神社参拝。


 1972(昭和47).4.22日、佐藤首相が靖国神社参拝。


 同7.8日、10.17日、田中首相が靖国神社参拝(在任中、計6回参拝する)。


 1973(昭和48).4.23日、10.18日、田中首相が靖国神社参拝。


 1974(昭和49).4.23日、10.19日、田中首相が靖国神社参拝。


 この年、「靖国神社国家護持法案」が最終的に廃案にされた。


 1975(昭和50).4.22日、三木首相が靖国神社参拝(在任中、計3回参拝する)。


【歴史的経過2、三木首相の8.15日私的参拝期】
 1975(昭和50)8.15日、三木武夫首相が、私人としての「参拝4原則」を強調し、「私的参拝」と表明しつつ現職首相として戦後初めて終戦記念日のこの日に靖国神社を参拝した。政府要人による靖国神社参拝が政治的問題となったのは、この時を契機としている。三木氏自身、この時が総理として2度目の参拝であった。

 この時、「首相の戦後初めての8.15日靖国神社参拝」を廻って「公私」の区別が問題なった。新聞記者たちが、総理としての公式参拝であるか、私的参拝であるかという質問をし、三木氏は内閣総理大臣としてではなく、三木個人としての「私人」参拝であると答えた。その理由として、1・公用車は使わない、2・玉ぐし料はポケットマネーで負担、3・内閣総理大臣の肩書きは記帳しない、4・公職者を随行させない、との4原則を設け、「私的参拝」であることを強調した。

 公式参拝と私的参拝の区別が論じられるようになったのは三木首相の時からである。三木は歴代総理の中でも例外的なポピュリスト(大衆迎合政冶家)・パシフィスト(一国平和主義者)であり、防衛費の1%枠とか、防衛計画の大綱とか、その軌道再修正にその後数内閣を要するような、自らの手をしばる制限を自ら課しているが、その時も「私人として参拝した」と説明した。これ以後、総理が参拝するときには、公人としての参拝か私人としての参拝かという資格が問題にされるようになった。

 これも、そう言わねばならない客観的情勢は何もなく、自分から言い出した事である。何か理由があるとすれば、当時稲葉法相が自主憲法制定国民会議に出席した事を「個人の立場で」と釈明したことがその背景にあったと推察されている。

 同11.20日、参院内閣委員会で、野党が首相の靖国神社参拝を憲法違反として追求し、これに対し内閣法制局長官・吉国一郎氏が、「私人としてのお参りは差し支えない」と繰り返している。野党は、「天皇の公式参拝は抵触するか」と質疑し、吉国氏は、「憲法20条3項(国の宗教的活動禁止)の重大な問題になる」と答弁している。

 同11.21日、昭和天皇夫妻が参拝。但し、この時の参拝を最後に途絶える。


 1976(昭和51).10.18日、三木首相が靖国神社参拝。


 この頃になると日本遺族会などを中心に「英霊にこたえる会」が結成された。「こたえる会」は、首相の公式参拝を要求し、地方議会に働きかけて決議をあげた。


 1977(昭和52).4.21日、福田首相が参拝(在任中、計4回参拝する)。


【「津地鎮祭訴訟の最高裁判決」】

 同7.13日、津市地鎮祭訴訟で、市体育館起工式への公金支出を合憲とする最高裁大法廷判決が下る(「津地鎮祭訴訟」)。最高裁は、国や自治体に許されない宗教的活動の範囲を「社会的・文化的条件に照らして相当限度を超えるもの」に限定、その上で「どの程度の関わり合いならば憲法上許されるのか」を基準として判断すべしとする「目的効果基準」を示し、憲法20条が禁ずる国の宗教的活動について「行為の目的が宗教的意義を持ち、その効果が宗教への援助、助長、促進又は圧迫、干渉になるような行為」と解釈し、「国家と宗教との関わり合いが、相当とされる限度を越える場合は憲法に反する。社会的通念に従って客観的に判断しなければならない」と判示した。その上で、津市が公費で行った体育館施設の地鎮祭は「宗教的儀式でなく一般的慣習」と捉え、神道を助長する目的も効果もなかったと判断し合憲とさせた。

 当初、基準としては漠然と過ぎるとの批判もあったが、政教分離関係訴訟のその後の判断基準として定着するようになった。なお、「一定の範囲内なら合憲」とする司法見解は、後の展開から見て「政教分離に抵触しない『適切な方式』による公式参拝は容認される」論への道を開くことになった。


【筑波第5代宮司が急逝】
 1978(昭和53).3月、明治天皇の孫に当たり、戦後永らく靖国神社宮司を務めた筑波藤麿氏が急逝した。筑波氏は、A級戦犯合祀に否定的だったといわれる。

 筑波氏の履歴は次の通り。東大の国史出身で、筑波研究部を作り、平泉澄・氏に対抗する形でグループを形成した。「国史学会」という学会回顧を毎年発刊。その間に皇族を離れて筑波家を興した。

 同4.21日、福田首相が参拝。
 同6.4日、靖国神社総代の村上勇・元建設相にして日本遺族会会長が、福井県勝山市の生家の白山神社宮司になっていた平泉渉・氏を訪ね、松平永芳(ながよし)氏の宮司就任につき相談、同月末内定した。

 平泉氏はかねがね次のように述べていた。
 「戦犯というものは存在しない。国に尽くした人たちの戦死に準じる絞首刑だ。靖国神社に合祀すべきだ」。
 「(「東京裁判は認められないが、戦犯と云われる人たちは無謀な戦争をやった」と述べた田村元・元衆院議長に対して)日本の国体をもっと勉強しなさい。
 「現行のマッカーサー憲法なるものは外国の暴力による強制であり、日本国の憲法とすることは恥ずべきこと。何よりも先に顔を洗ってつばの汚れを去るべきだ」。

【松平永芳(ながよし)氏が第6代宮司に就任】

 7.1日、松平永芳(ながよし)氏が第6代宮司に就任した。松平氏は、幕末期の安政の大獄で閉門を命じられた福井藩主・松平春嶽の孫で、大東亜戦争期には海軍士官として従軍、戦後は陸上自衛隊に勤務した経歴を持つ。特徴的なことは、戦前の皇国史観(万世一系の天皇を持つ日本が世界を治める責務を持つ云々という考え方)のイデオローグであった東京帝大教授・平泉澄・氏の思想的影響下にあったことである。平泉氏は、万世一系天皇論及び大東亜戦争聖戦論を唱え、天皇への忠誠を責務とする一方、吉田松陰の「諫死(かんし)論」(たとえ主君でも、考えが誤っていたら命がけで諌(いさ)めよと説く教え)を信奉していた。その教えを受けた旧陸軍の若手佐官らは終戦に反対し、クーデター未遂を起こしている。

 松平氏は、平泉氏と同郷の後輩で、海軍機関学校受験のため上京した際に東京本郷の平泉邸に下宿し、「他の方々には感ぜられない畏敬の念」を覚えるなど、自ずとその薫陶を受けていた。第6代宮司に就任した際には、大東亜戦争聖戦論の立場から戦争の犠牲者を等しく祀る観点に立っており、A級戦犯合祀に向うことになる。

 1989年に発行された雑誌の対談で、当時の心境について次のように語っている。

 「(就任を)決心する前、東京裁判を否定しなければ日本の精神復興はできないと思うから、いわゆるA級戦犯の方々も祭るべきだという意見を申し上げた」(2005.7.12付け毎日新聞「靖国と政治1」)。

【松平宮司が総代会でA級戦犯14名の合祀を再確認する】
 松平宮司は、改めて総代会で確認のうえA級戦犯14名の合祀を確認する。昭和天皇の侍従長を務めた徳川義寛氏の「徳川義寛終戦日記」によると、合祀を確認した78年総代会で、戦時中に大東亜相を務めた青木一男氏が「(A級戦犯合祀について)合祀しないと東京裁判の結果を認めたことになる」と強く主張した、とある。

 同8.15日、福田首相が前例に従い「内閣総理大臣」と記帳しながら「私人」と主張し参拝した。この時、1・警備上の都合や緊急時の対応のため公用車を利用できる。2・記帳には肩書きを記すことが出来る。3・閣僚が同行できるとの政府見解(安倍晋太郎官房長官の国会答弁)を打ち出した。新見解は、三木首相時の「4原則」の枠組みを踏まえながら公的参拝性を強めていた。この政府見解が今に至っている。


 同10月、安倍晋太郎官房長官が、国会答弁で、「首相の私人資格の参拝は自由」と述べ、概要「1・記帳で肩書きを付すのは慣例に過ぎない。2・公用車使用は警備上の都合によるものに過ぎない。3・閣僚の随行は、気持ちを同じくした者の同行であり、私人の立場を離れたものとはいえない。4・玉串料の公費支出などの事情が無い限り、私人の立場での行動と看做すべき云々」と解説した。


【靖国神社がA級戦犯14名の合祀を秘密裏に行う】

 同10.17日、靖国神社が、就任して間もない松平宮司の指揮の下で、秋の例大祭の前日に当たるこの日、密かに連合国による極東国際軍事裁判(東京裁判)で有罪判決を受けた東条英機元首相らA級戦犯14名を昭和受難者として合祀(現在、1,000人以上のABC級戦犯を合祀している)する手続きが為された。この時、遺族にも事前に通告されることなく、「昭和殉難者」として祀られた(1979.4.19日に判明する)。靖国神社の当時の公報課長・馬場久夫氏は、概要「A級戦犯の靖国神社合祀は神社内でも公にされず、報道されるまで知らなかった」と証言している。

 松平宮司は、1985年、東京神田錦町の学士会館で行われた戦後教育批判の会合で、次のように述べている。

 「生涯で意義あると自負できるのは、A級戦犯合祀だ。現行憲法否定を願うが、その前に極東軍事裁判の根源を叩いてしまおうという意図の下に合祀した」。

 同10.18日、秋季例大祭で、松平宮司が、「昨晩、新しい御霊を合祀申し上げた。白菊会に関係のある14柱の御霊もその中に含まれております」と報告した。白菊会とは、A級戦犯を含む戦犯の遺族でつくる「白菊遺族会」のことを云う。

 「A級戦犯14名の靖国神社秘密裏合祀」と首相の公式参拝の是非問題が加わり、紛争の種となり今日に続いている。この動きは、ファクターDの「英霊祭祀」にA級戦犯を加えた動きであり、その是非は靖国問題というよりもっと大きなファクターとしての国際政治問題であると見なされる。

 この流れを見ると次のように概括できる。戦犯合祀の問題の経緯は、まず講和条約発効と同時に、まだ服役中の同胞の釈放運動が起こり、講和条約の規定の下に関係諸国の同意を得て昭和33年までに全員が釈放された。これと並行して戦争裁判の刑死、獄死者の遺族年金、恩給支給の運動も起こった。通常懲役3年以上の刑に処ぜられた者の恩給は停止されるが、戦争裁判の刑死者等は日本国内法の犯罪者ではなく戦争の犠牲者と考えるという事であり、当時の左右社会党を含む国会の全会一致で決定された。その頃の日本人の心の中には迷いはなかったと言える。

 靖国神社への合祀予定者の選考基準は引揚援護局が決定したが、その際、遺族援護法や恩給法の受給者原簿が参考とされた。そして1959(昭和34)年から戦争裁判受刑者が逐次合祀され、1978(昭和53)年にA級14名が合祀されて完了した。


 同10.18日、福田首相が靖国神社参拝。


 1979(昭和54).4.21日、大平首相が参拝、在任中に計3回参拝(79年に2回、80年に1回)した。


 同4.19日、朝日新聞(「共同通信スクープ」との説も有る。調べれば分かることだろうが)が、A級戦犯14名の合祀を報道し、事実が明らかになった。大平首相は、A級戦犯合祀問題が表面化したため8.15日の参拝を見合わせた。


 同10.18日、大平首相が靖国神社参拝。


 同年、元号法成立。


 1980(昭和55).4.21日、大平首相が靖国参拝。


 同5.30日、昭和天皇に仕えた入江相政侍従長(故人)の日記に、「靖国神社の松平君が『(皇太子さまが)御成年におなりになったのだから靖国神社に御参拝になるべきだ』と言ってきた由。『そんなのほっとけば』といふ」とある。


 同8.15日、鈴木善幸首相が靖国参拝(80年に2回、81年3回.82年3回、在任中に計8回参拝)。鈴木首相は閣議で申し合わせ、18名の閣僚を引き連れて参拝した。


 同10.18日、鈴木首相が靖国参拝。


 同10.30日、法務大臣・奥野誠亮氏が、参院法務委員会で、「憲法20条に謳われている宗教的活動は、制定当時十分な議論がなされたのかどうか、疑問を持ち続けている。憲法上疑義があるとされるため、閣僚が靖国神社に参拝しても、私人の資格で参拝したといわなければ、国会で問題化する事態になっている。これは早く解決の道を出してもらいたいと念願している」と発言。


 同11.5日、法務大臣・奥野誠亮氏が、衆院法務委員会で、社会党・稲葉誠一氏との質疑で、「憲法20条で、国は宗教的活動をしてはならないと書いてあるが、靖国神社に参拝することを禁止しているとは私には受け取れない。私が靖国神社に参拝する時に、ことさら私人の資格で参拝と言わざるを得ないような、ぎこちない姿をなんとか解決してもらえないか。 また憲法20条の規定は、マッカーサー草案そのままになっている。制憲議会においても、参拝がそれに触れるとか触れないとかいう議論はしていない。 また、津の地鎮祭訴訟において、最高裁で合憲とされたが、宗教的活動の範囲については問題があった。靖国神社に参拝することが20条に触れるとは考えられない。 その解釈が国会で合意が生まれてくれば解決が早いと思うので、早くすっきりしたものにしてもらいたい」と発言。


 同11.7日、法務大臣・奥野誠亮氏が、衆院法務委員会で、社会党・横山利秋氏との質疑で、「国会でいろいろお尋ねいただき、その都度私なりに率直にお答えしている。 批判は謙虚に受けとめたい。 私はひたすら、国会においては、国の運命を背負っていることだから、今後の日本のあり方について率直に意見を交換する。議論を交し合っていく。それでなければ責任を果たせないのではないか。あんなことを言ったらいけない、こんなことを言ったら咎められる、ということよりも、むしろ自由闊達に議論を尽す。そうして国の将来に過ちなきを期していくことが大事ではないか。こんな気持ちを強く持っているので、特段に策を持ってお答えしているつもりはない。 (後略)」と発言。


 同11.17日、宮沢喜一官房長官が、国会答弁で、概要「公式参拝は違憲ではないかとの疑いをなお否定できない。政府としては違憲とも合憲とも断定してはいないが、従来から事柄の正確上、慎重な立場をとり、閣僚としての資格で参拝することは差し控えることが一貫した方針としてきたところである」との政府統一見解を発表。


 1981(昭和56).3.18日、村上正邦参院議員ら衆参259名による「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」が発足する。8.15日、「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」が集団参拝をした。 改憲団体「日本を守る国民会議」結成される。


 同4.21日、8.15日、10.17日、鈴木首相が靖国参拝。


 1982(昭和57).4.21日、8.15日、10.18日、鈴木首相が靖国参拝。


【歴史的経過3、首相の靖国神社参拝と海外の無反応期】

 この当時は、中国等から何の抗議もなく、54年の大平、55、6年の鈴木参拝も何の問題も生じなかった。但し、鈴木首相は「私人の資格」で参拝した。「公私の区別には答えない。答えないことに意味がある」と、立場を曖昧にして参拝した。その後は私的参拝か公的参拝か曖昧のままの参拝となった。

 
三木武夫氏の3回の参拝以降、福田赳夫氏4回、大平正芳氏3回、鈴木善幸氏8回、中曽根康弘氏10回の参拝をしている。福田氏・大平氏は私人として参拝、鈴木氏は公人か私人か明言を避けた。中曽根氏自身58年にも59年にも8月15日の終戦記念日当日に参拝を実施している。

 57年となると、最近二十年間の「自虐史観」問題の端緒となる教科書問題が起こり、中国の対日批判が激しくなるが、「A級戦犯合祀」の批判はとくにはなく、中曽根首相となって58、59年の参拝も問題なく行われた。


 1983(昭和58).3.14日、昭和天皇に仕えた入江相政侍従長(故人)の日記に、「また靖国神社の松永(松平)宮司が馬鹿(ばか)なこと、浩宮様(皇太子さま)の御留学について反対を云(い)ってきたとか」の記述がある。靖国神社宮司の松平氏と皇室のギクシャク関係が判明する。

 同4.21日、中曽根康弘首相が、「内閣総理大臣たる中曽根康弘」として靖国参拝(83年に3回、84年に4回、85年に3回、在任中に計10回参拝)。


 1984(昭和59).1.5、4.21日、8.15日、10.18日、中曽根首相が靖国参拝。


 8月、中曽根首相は、かねてから「戦後の総決算」を標榜していたが、藤波孝生官房長官の私的諮問機関として「閣僚の靖国神社参拝問題に関する懇談会(靖国懇談会)」を設けた。江藤淳・東工大教授、梅原猛・京都市立芸大学長、曽野綾子・作家ら憲法、哲学、宗教など各界の識者15名で構成された。
 11.19日、第4回靖国懇談会会合で、「人間は全て罪人であるとするキリスト教の立場からは、戦没者の中でA級戦犯だけを区別するのはおかしい」という意見が出された。

 1985(昭和60).1.21日、4.22日、中曽根首相が靖国参拝。


 同2.12日、第8回靖国懇談会会合で、「戦犯については、東京裁判で決まり、サンフランシスコ平和条約第11条で守ることになっていると云われるが、事後法で裁かれたものであるのでおかしい」という意見が出された。
 同3.6日、第9回靖国懇談会会合で、「A級戦犯は、まさにそういう戦争に日本国民を導いて行った人々であり、戦争の犠牲者であるという要素はほとんどない」、「裁判の合法性にも疑問がある。とりまとめてA級戦犯というのは不正確であり、抵抗がある」という意見が出された。
 6.14日、富田朝彦宮内庁長官が退任、7.8日付で宮内庁参与に就任。後任は藤森。

 靖国懇談会が、「宗教儀礼に拠らなければ首相等の公式参拝も合憲とする」報告書を提出、談話を発表した。「戦没者の追悼を目的とし、本殿又は社頭で一礼する方式で参拝することは、憲法の規定に違反する疑いはない」(藤波官房長官の国会答弁)で政府見解を変更した。

 同8.7日の朝日新聞は、靖国問題を「中国が厳しい視線で凝視している」と書き、10日の人民日報は、靖国参拝に批判的な日本国内の動きを報道し、はじめは互いに相手国を引用する形で、反対運動を開始した。遂に14日には、中国外務省スポークスマンが、「アジア各国人民の感情を傷つける」と、はじめて公式に反対の意思表示をした。

 同.8.**日、藤波孝生官房長官が、「宗教色を薄めた形式ならば公式参拝は合憲」と談話を発表。「首相の資格で公式参拝する。目的は、戦没者の追悼で、宗教的意義が無いことを方式などの面で客観的に明らかにし、靖国神社を援助する結果にならないよう充分配慮すれば、憲法が禁止する宗教的活動に該当しない。参拝方式は、神道形式ではなく、本殿で一礼云々」。


【歴史的経過4、首相の8.15日公的参拝期】

 1985(昭和60).8.15日、中曽根康弘首相が、終戦記念日のこの日に18名の閣僚と共に「内閣総理大臣たる中曽根康弘」として靖国神社公式参拝を強行した。

 
但し、中曽根首相は、本殿に昇殿するものの神道方式での「二礼二拍手一礼」の礼拝をせず、お祓い、玉ぐし奉呈の儀式も省略し、生花の前で一礼、玉串料の代わりに供花料を公費で支出した。つまり、「神道方式に拠らない公式参拝」という形式をとった。

 中曽根首相はこのように宗教色を極力排除することで、「今回の方式なら、社会通念上、憲法が禁止する宗教的活動に該当しない」(藤波官房長官談話)と批判をかわした。これによって、1980年に宮沢官房長官の国会答弁で為された「違憲との疑いをなお否定できない」としていたそれまでの政府見解を変更した。

 但し、当時の靖国神社宮司の松平氏は、憲法の政教分離規定に抵触しないよう宗教色を薄めようとする首相官邸側に対して、「神道参拝の理に背く」と抵抗したと伝えられている。公式参拝実現を熱望した遺族会の説得もあって譲歩したが、官邸側と緊張関係が生じた。

 現在の靖国問題が始まったのは、1985(昭和60)年からである。「内閣総理大臣としての資格で」という談話発表に基づく終戦記念日に合わせた日本国首相の靖国神社公式参拝」に対して内外から強力な批判と抗議の声があがった。靖国神社参拝が外交問題化し、近隣諸外国、なかんずく中華人民共和国からの内政干渉を招くことになった。


 8.27日から30日までの社会党訪中において、社会党と中国は公式参拝批判の気勢を大いに上げ、反対運動は燃え上がり、中曽根首相は、その後退任まで参拝できなくなってしまった。


 同9.29日、入江相政侍従長が急死(享年80歳)。10.1日付で勇退する予定であった。

 同10月、自民党が靖国神社にA級戦犯の合祀取りやめを申請、神社側はこれに拒否回答。


 ?10月、自民党靖国問題小委員会で、奥野誠亮委員長が「国家社会の代表が代表としてお参りできないようでは、将来、事があった場合どうなるのか」と発言する。「公式参拝を、過去の戦没者追悼ではなく、将来の有事対策」との視点を披瀝している。この時期に、平成13年の現在までその後の20年余りに及ぶ「靖国参拝問題」の議論の典型的な雛形が完成することになる。


 同11月、中曽根首相の政策ブレーンの一人・瀬島龍三(元大本営参謀)が、A級戦犯として処刑された板垣征四郎氏の子息、当時の板垣正参院議員に対して次のように述べている。
 「A級戦犯として処刑された旧軍の関係者はみな、部下思いだった。現在の難しい状況を受け、合祀を辞退されるお気持ちになるのではないか」(2005.7.14日付毎日新聞「靖国と政治bR」より)。
 「これが、以後20年にわたる分祀論議のスタートとなった」とある。
【後藤田官房長官が、中曽根首相の8.15靖国神社公式参拝中止を発表】

 1986(昭和61).8.14日、後藤田官房長官が、「宗教色を薄めた形式なら公式参拝は合憲」との見解を打ち出し、中曽根首相の8.15靖国神社公式参拝中止を発表した。談話の中で、参拝そのものは「合憲」としつつも、その理由を次のように述べている。

 概要「首相の参拝がA級戦犯に対して礼拝したのではないかとの批判を生み、ひいては我が国が様々な機会に表明してきた過般の戦争への反省とその上に立った平和友好への決意に対する誤解と不信さえ生まれる恐れがある。それは諸国民との友好増進を念願する我が国の国益にも、そしてまた、戦没者の究極の願いにもそう所以(ゆえん)ではない。国際関係を重視し、近隣諸国の国民感情にも適切に配慮しなければならない。首相の8.15日の公式参拝は差し控える。今回の措置が公式参拝自体を否定しようとするものではない」。

【中曽根首相の8.15靖国神社参拝中止】

 同8.15日、中曽根康弘首相は、「近隣諸国への配慮」を理由に参拝を見送った。

 これにより、1975年の三木武夫首相から始まり、85年の中曽根首相まで続いた首相の公式参拝が打ち切られることになった。以後の竹下、宇野、海部、細川、羽田、村山、小渕、森首相は在任中は参拝せず、2001年の小泉首相の参拝まで公的にも私的にも控えた。


 中曽根首相は、衆院本会議で、「国際関係では、我が国だけの考えが通用すると思ったら間違いだ。特にアジア諸国の国民感情も考え、国際的に通用する常識で政策を行うのが正しい。それが国益を守る方途に通じる」と述べている。
【靖国神社が、「遊就館」再開】
 同年、「遊就館」再開。

【昭和天皇が、「A級戦犯の靖国合祀に不快感」を宮内庁長官に表明】
 2006.7.20日付け日本経済新聞は1面で「A級戦犯 靖国合祀 昭和天皇が不快感」、社会9面で「昭和天皇の意志明確に」なる見出しの記事を掲載している。これを参照する。

 1988.4.28日、昭和天皇は、A級戦犯合祀に強い不快感を示した。当時の宮内庁長官・富田朝彦氏は、次のような天皇の言葉をメモに残している。
 「私は、或る時に、A級(戦犯)が合祀され、その上、松岡、白取(原文のまま)までもが。筑波は慎重にしてくれたと聞いたが。松平の子の今の宮司がどう考えたのか、易々と。松平は平和に強い考(え)があったと思うのに、親の心子知らずと思っている。だから、私はあれ以来参拝をしていない。それが私の心だ」。
 (注) 松岡は、松岡洋右・当時の外相、白取は、白鳥敏夫・当時の駐伊大使、筑波は、1966年に厚生省からA級戦犯の祭神名票を受け取りながら、合祀しなかった筑波藤麿・靖国神社宮司。松平は、終戦直後に最後の宮内大臣を務めた松平慶民氏と、その長男で1976年にA級戦犯合祀に踏み切った松平永芳・当時の靖国神社宮司。

 富田氏は、警察官僚出身で、警視庁警備局長として1972年の浅間山荘事件を指揮。内閣官房室長を経て、1974年に宮内庁次長に就任。1978年、宇佐美毅長官の後任として、戦後3代目の長官に就任した。1987年には、歴代天皇では初めてとされる昭和天皇の開腹手術を決断。1988年の退任後は同庁参与、国家公安委員を務め、2003.11月、83歳で逝去した。後任は、藤森昭一氏。

 これによれば、昭和天皇は、戦後8回参拝しているが、1975.11月の参拝を最後に以降参拝をしていない。これまで、「A級戦犯合祀が原因」、「三木首相の靖国参拝時の『公人か私人か』を廻る政治問題化が原因」との二説為されているが、「A級戦犯合祀が原因説」が裏付けられたことになる。
 2007.4.26日、昭和天皇に1969年より侍従として仕え最後を見届けた卜部(うらべ)亮吾氏の日記が公開され、天皇が靖国神社参拝を取りやめた経緯について「A級戦犯合祀が御意に召さず」と記されていることが判明した。後年の2001.7.31日の記述にも「靖国神社の御参拝をお取りやめになった経緯 直接的にはA級戦犯合祀が御意に召さず」と記している。富田メモと整合しており、これにより、昭和天皇がA級戦犯合祀に強い不快感を示し、以降の靖国神社参拝中止に至った経緯が確定されたことになる。

 1988(昭和63).6月、自衛官合祀訴訟で、遺族の意思に反した殉職自衛官の護国神社への合祀を合憲とする最高裁大法廷判決。


 同6月、富田宮内庁長官が退任する。

 1991(平成3年).1.10日、岩手靖国訴訟で、玉ぐし料の公費支出や首相らの公式参拝を違憲とする仙台高裁判決(その後確定)(「岩手靖国神社公式参拝、玉ぐし料訴訟控訴審仙台高裁判決」)。

 概要「首相らが公的資格で参拝すれば、国又はその機関が靖国神社を公的に特別視し、他の宗教団体に比して優遇的地位を与えているとの印象を社会一般に生じさせ、国の非宗教性ないし宗教的中立性を没却するおそれが極めて大きい」、「天皇の公式参拝は内閣総理大臣のそれとはくらべられないほど、国家社会に影響を及ぼす」と述べ、この判決は上告されなかった為、確定した。「公式参拝の是非は司法の場で決着済み」の根拠となっている。

 1991年に就任した宮沢喜一首相は、自民党総裁選中に日本遺族会に在任中の靖国神社参拝を約束。これを果たす為に92年の暮れから93年4月までの間に私的にこっそり参拝していたことが後に明らかとなった。


 1992(平成4).2月、福岡高裁で「公式参拝は違憲の疑い」との判決が下される。


 同7月、大阪高裁は、中曽根首相の公式参拝で供花料の公費からの支出をめぐる損害賠償請求訴訟の判決で、原告の控訴を棄却した上で、概要「公式参拝については、憲法違反とまでは断定できないが、外形的、客観的には宗教的活動との性格を否定できないうえ、国民的合意も得られておらず、憲法に違反する疑いがある」との判断を示した。

 この経緯から見てわかる事は、靖国問題は法的問題では違憲論、合憲論が繰り返されておらず決着がついていない観があり、極めて特殊な政冶的問題であるということである。57年の教科書問題以降の新しい形の反体制運動の雰囲気の中で、中曽根首相の「戦後総決算」という姿勢に平和護憲勢力が反発したことを契機としてますます論議が沸騰しつつある。

 靖国神社問題の問題性は、理論的に殆ど未解決のまま事態が進行しつつあることに認められる。そもそも三木首相の思いつきでしかない公式非公式なる観点での「終戦記念日に合わせた日本国首相の靖国神社公式参拝論」は愚劣なものでしかない。

 「昭和52年の最高裁の判決は、津市が体育館の起工式に神式の地鎮祭を行った問題について、そんなものは社会的慣習であって多少の公的賛用も神道への財政的援助とは言えないと、合憲としている。それはもっともな理由のようにも思われる。墨田区の戦災慰霊祭は仏式で盛大に行われているが、仏式なら許容されるのだろうか。憲法の原案を作った当のアメリカの大統領は、就任の宣誓をキリスト教の聖書の上に手を置いて行っている。いずれも社会的慣習に過ぎず、憲法問題というような大げさな事ではない」という指摘も為されている。


 同11月、宮沢喜一首相が非公表で靖国神社参拝。


 1993(平成5)年、細川首相が記者会見で日本がおこなった戦争を「侵略戦争」と表明。自民党靖国三協議会が抗議の申し入れ。


 1995(平成7)年、村山首相が終戦50年の「談話」で「植民地支配と侵略」に反省とおわび。自民党「歴史・検討委員会」が『大東亜戦争の総括』を発表。


 1996(平成8).7.29日、橋本龍太郎首相は、自らの誕生日の7.29日に「私的」参拝。11年ぶりの首相としての靖国神社参拝となった。但し、これも中韓両国などから批判を浴びて、翌年には「この仕事(首相)には私人というものはないということを知った」として参拝を見送った。この時、自民党の加藤幹事長が、中曽根元首相に「分祀は可能か」相談している


 1997(平成9).4月、愛媛玉ぐし料訴訟(玉串(たまぐし=サカキなどの枝を神前にささげる神道儀式に於ける玉ぐし料公費支出を違憲とする訴訟)で、愛媛県が支出した護国神社への玉ぐし料を違憲とする最高裁大法廷判決。「県が特定の宗教団体を特別に支援している印象を与え、特定の宗教への関心を呼び起こす」として憲法違反との判決を下した。尾崎行信裁判官は、大正末期から昭和にかけての軍国主義化と言論の自由が奪われ戦争へと突入した歴史を示し、「情勢の急変には十年を要しなかった」「些少(さしょう)だと思われる事態が既成事実となり、積み上げられ、取り返し不能な状態になることは歴史の教訓」と警告した。


 同年、改憲団体が合流して「日本会議」発足。憲法調査委員会設置推進議員連盟発足。


 1998(平成10)年、「靖国神社奉賛会」が「靖国神社崇敬奉賛会」に再組織される。2002年の大増築の事業費集めに協力する。


 1999(平成11).8.6日、小渕内閣の野中広務官房長官が、A級戦犯分祀と靖国特殊法人化を提唱する。


 同年、「英霊にこたえる会」などが「三権の長」の靖国参拝を求める請願書提出、請願行進。


 2000(平成12年)、森内閣発足。日本遺族会などが首相参拝求め「総決起大会」。「英霊にこたえる会」がビデオ「君にめぐりあいたい」制作。「神の国」発言で物議をかもした森総理は、公式参拝はおろか8月15日には私的参拝も行わなかった。


 2001(平成13).4月、自民党総裁選で、小泉候補が、日本遺族会幹部に「終戦記念日の参拝」を確約明言。


 同5月、小泉首相が国会答弁で8.15日の靖国参拝を表明。


 同7月、中国・韓国両外相が、田中外相に首相の参拝中止を要請。


 今年もまた、昭和60年と同じゲームが練り返されつつある。新しい状況として、中国外交のやり方が客観視され始めたことだろうか。米偵察機衝突事件、李登輝(前台湾総統)訪日、訪米ビザ問題など見ると、当初の脅迫的な警告と、その後実際にとった処置との間の乖離が甚だしく、一定の政治的スタンスとして主張されているのではないかという判断が生まれつつある。

 日本国内の状況も、3年前の江沢民(中国国家主席)訪日以来大きく変わって来つつある。教科書問題に対する日本国民、世論の対応にはかってのような反対運動が見られない。靖国神社公式参拝を公約に掲げる小泉首相も登場してきている。中曽根首相は戦後の総決算を呼号して正面から衡突したが、小泉氏は2001.8.15日をどのように迎え、対応するのであろうか。長年日本の政界にくすぶる靖国問題の決着をつけることができるだろうか。それを為しえたなら、後世、それは小泉内閣の大きな業績の一つとして評価されよう。

 今回、石原慎太郎東京都知事が「東京都知事として」と明言して参拝しただけでなく、公人・私人の区別について「そろそろそういう訳のわからない迷妄から覚めた方がいいんじゃないの?日本全体が」、「公人とか私人とか、くだらない仕分けはしない方が良い。公人としてここに来て何が悪いのか。公人にも信教の自由はあるし基本的人権もある。

 
公式参拝推進派は次のように云う。「我が国の舵取りをする総理大臣は、我が国のために献身の徳を成就した英霊を尊崇し、参拝するのが当然の務めである。しかるに、この当然のことが現在の日本では行われていない。「私には私の信仰の自由もある」と、実に小気味良く、これまで誰も容易に口に出せなかった本当のことを、ばっさりと言い切ってしまった。右顧左眄する森総理の優柔不断にはあきれはてるばかりだし、野中幹事長の靖国問題懇談会の怪しげな議論のゆくえが気がかりだが、石原都知事によって、日本人が常識に帰るきっかけが与えられ、今後に大きな光明が灯されたことをひとまず喜びたい」。


【歴史的経過5、小泉首相が就任後初靖国神社参拝、中韓からの批判強まる期】
 同8.13日、小泉首相が参拝。二礼二拍手一礼という神道方式の儀礼は避け、祭壇の前で一礼、玉串料の代わりに献花料を私費で支出した。8.15日を避け、「国内外の状況を真摯に受け止めた」との談話を発表した。

 2001(平成13).12月、福田康夫官房長官が、官房長官の私的諮問機関として「追悼・平和祈念施設の在り方を考える懇談会」を設置する。


 2002(平成14).4.21日、小泉首相が参拝。


 同年、「遊就館」が大増築後、開館式。


 同12月、「追悼・平和祈念のための記念碑等施設の在り方を考える懇談会が、靖国神社と併行して国立の新追悼施設を作る、幅広く追悼対象とする報告書を纏めた。しかし靖国神社、日本遺族会が反発し頓挫する。


 2003(平成15).1.14日、小泉首相が参拝。


 同4月、小泉首相の靖国神社参拝に対する宗教関係者などが起こした損害賠償訴訟で、福岡地裁判決。原告の訴えを棄却しているが、傍論で、「首相の参拝直後の終戦記念日に前年の2倍以上の参拝者がいるなど、靖国神社を援助する効果をもたらした」とし、憲法が禁じる宗教的活動に当たり違憲、との判断を示した。小泉首相は、判決後、「何で憲法違反なのか分からない。伊勢神宮にも参拝しているけどね」と記者団に語った。


 2004(平成16).1.1日、小泉首相が参拝。 


 福岡地裁判決。小泉首相の2001年の参拝について、「職務の執行。政教分離原則に反する」と判断。「今後も違憲行為が繰り返される可能性が高い」と述べ、8件の訴訟のうち唯一、原告側の主張を酌んだ。
 同年、靖国神社は、分祀論議に対し、「仮にすべてのご遺族が賛成されるようなことがあるとしても、分祀することはありえません」との見解を公表した。
 2005(平成17).6月、小泉首相が衆院予算委員会でA級戦犯について「戦争犯罪人であると認識している」と答弁。
 同6.25日、靖国神社境内に設置されている旧軍の資料を展示した「遊就館」に、極東国債軍事裁判(東京裁判)で、東条英機元首相らA級戦犯の無罪を主張したインドの故パール判事の顕彰碑が建立された。除幕式には、在日インド大使館から武官が出席した。碑には、南部利昭宮司の次のような賛辞が記されている。
 「博士は東京裁判が、勝利におごる連合国の、いまや無力となった敗戦国日本に対する野蛮な復讐の儀式に過ぎないことを看破し、事実誤認に満ちた連合国の訴追には法的根拠が全く欠けていることを論証し云々」。

 2005(平成17).7.10日、靖国神社の宮司を務めた福井市立郷土歴史博物館長、松平永芳(まつだいら・ながよし)氏が死去した(享年90歳)。

【小泉首相の5回目の靖国神社珍奇参拝】
 同10.17日、小泉首相は首相就任以来、毎年1回の参拝を続けているが、就任以来5回目になる靖国神社参拝を強行した。参拝は秋季例大祭に合わせ行われ、午前10時すぎ、公用車で秘書官を伴いスーツ姿で靖国神社に到着。こたびの参拝は過去4回と形式を変えた。

 これまでは、1・私的参拝と云いながらも「内閣総理大臣 小泉純一郎」と記帳し、2・政教分離に配慮して玉ぐし料ではなく自費負担で献花料をお供えし、3・神道形式の「二礼二拍手一礼」しない形式を取っていたが、こたびの参拝では1・記帳せず、2・玉ぐし料、献花料のいずれも供えず、3・本殿に上がらず、4・「二礼二拍手一礼」せずというないない尽くしの参拝となった。一般参拝と同じように拝殿前で済ませ、拝殿前で一礼した後、ポケットから賽銭(さいせん)を投じ、約30秒間手を合わせて参拝した。

 
小泉首相は、昼の政府与党連絡会議で、「平和を願う一国民として参拝した。不戦の決意で祈った。近隣諸国とは未来志向の形で努力していきたい」と説明した。細田博之官房長官は、記者会見で「首相の職務として参拝しているのではない」と強調した。

 17日夕、小泉首相は、自らの靖国神社参拝について、首相官邸で記者団に次のように応答した。

 (参拝目的について)

 「二度と戦争をしないという決意を表明した。今日の平和は生きている人だけで成り立っているのではない。戦没者に敬意と感謝の気持ちを伝えるのは意義のあることだ」と意義を強調した。
 (「私的参拝ということでよいか」との問いに対し)

 「首相の職務として参拝したのではない、それがすべてだ」と語った。
 (拝殿前での参拝にとどめるなど、形式を改めたことについて)

 「首相である小泉純一郎が一人の国民として参拝する。首相という扱いより、普通の一般の国民と同じがいいと思った。首相の職務として参拝したのではない」と語った。 
 (中国、韓国などの反発について)

 「日中友好、日韓友好、アジア重視は変わらないのでよく説明していきたい。こういう問題も、長い目で見ればだんだん解消される」と指摘した。一方で、「(参拝は)本来、心の問題だ。外国政府が、日本人が日本人の戦没者や世界の戦没者に哀悼の誠をささげるのを『いけない』とかいう問題ではない」と不快感を表明した。
 (17日に参拝した理由について)

 同日に始まった靖国神社の秋季例大祭に合わせたと説明し、「例大祭の期間中の参拝も憲法の定める政教分離の原則には触れない」との考えを示した。
 (大阪高裁が首相の靖国参拝を違憲とした判決があることについて)

 「伊勢神宮にも参拝しているが、そういう判決が出るのならそれはどうして違憲ではないのか」と述べた。

(私論.私見) 小泉首相の10.17日靖国神社参拝後の記者団との質疑考

 小ネズミの頭脳の程度がよく分かるという意味で記録に残しておく。

 2005.10.19日 れんだいこ拝



【戦後歴代首相の靖国神社参拝史】
 1945(昭和20).8.15日以降、13の歴代総理大臣が参拝している。
東久邇宮稔彦王 1945(昭和20) 1945.8.18日、東久邇宮稔彦親王殿下 参拝。
幣原喜重郎 2回 1945(昭和20) 1945.10.23日。11.20日。
吉田茂 5回 (自)1951(昭和26)
(至)1954(昭和29)
1951.1018日。1952.10.17日。1953.4.23日・10.24日・1954.4.24日。
岸信介 2回 (自)1957(昭和32)
(至)1958(昭和33)
1957.4.25日。1958.10.21日。
池田勇人

   

5回 (自)1960(昭和35)
(至)1963(昭和38)
1961.6.18日。11.15日。1962.11.4日。1963.9.22日。

佐藤栄作

11  自)1965(昭和40)
(至)1972(昭和47)
1965.4.21日。1966.4.21日。1967.4.22日。1968.4.23日。1969.4.22日・10.18日。10.19日、天皇・皇后両陛下御親拝・・・靖国100年記念大祭。1970.4.22日。10.17日。1971.4.22日・10.19日。1972.4.22日。
田中角栄 5回

(自)1972(昭和47)


(至)1974(昭和49)

1972.7. 8日。1973.4.23日。10.18日。1974.4.23日。10.19日。
三木武夫

     

3回 (自)1975(昭和50)
(至)1976(昭和51)
1975.4.22日。8.15日、「私的参拝」発言により憲法論議を招来、これ以降、マスコミが「私的・公的」の別、「玉串料の国庫からの拠出」等を質問するパターンに入る。

福田赳夫

4回 (自)1977(昭和52)
(至)1978(昭和53)
1978.10.18日、秋の例大祭。
大平正芳 3回 (自)1979(昭和54)
(至)1980(昭和55)
1979.4.21日、春の例大祭。1979.10.18日。1980.4.21日。※大平首相の個人的信仰はキリスト教であった。

鈴木善幸

8回 (自)1980(昭和55)
(至)1982(昭和57)
1980.8.15日、終戦記念日。1980.10.18日。1981.4.21日。1981.10.17日。1982.4.21日。1982.8.15日。1982.10.18日。

中曽根康弘

10回 (自)1983(昭和58)
(至)1985(昭和60)
1983.4.21日。1983.10.18日。1984.1.5日。1984.4.21日。1985.1.21日。1985.4.22日。1985.8.15日。
宮沢喜一 1回 1992.11月
橋本龍太郎

    

1回 1996(平成8) 1996.7.29日。
小泉純一郎 5回 2001.8.13日。2002.4.21日。2003.1.14日。2004.1.1日。2005.10.17日。2006.8.15日。

【2001.8.15日小泉内閣閣僚の靖国神社参拝の動き】
【参拝派】 途中経過 8.15日
小泉首相 熟慮中
福田康夫官房長官
阿部官房副長官
片山虎之助総務相
平沼赳夫経済産業相 参拝明言 「例年お参りをさせていただいており、今年もお参りする」
扇千景国土交通省 参拝明言
村井仁国家公安委員長 参拝明言 「参ります」
【逡巡派】
塩川正十郎財務省
武部勤農相
中谷元防衛庁長官
尾身幸次沖縄・北方相二
柳沢伯夫金融担当相 「例年になく非常に関心を集めているし、近隣諸国の反応も敏感になっている」
石原伸晃行革担当相
【見送り派】
森山真弓法相 参拝しない 「首相がお考えになることで、私がどうこう申し上げることではない」
田中真紀子外相 参拝しない 「首相は熟慮に熟慮を重ねている最中だと発言しているので、その立場を尊重する時期にも入っていると考えている」
「私はしません」
遠山敦子文部科学相 参拝しない 「私自身は改めて行く考えはない」
坂口力厚生労働相 参拝しない 「熟慮して、誤りなきように決定していただきたい」
川口順子環境相 「(知人に戦没者がいて)追悼する気持ちは強いが、靖国神社にうかがうという形で表そうとは思っていない」
竹中平蔵経済財政相 「私自身は予定していない」




(私論.私見)