428985 | 歴代天皇及び首相・閣僚の靖国神社公式参拝史及び戦犯合祀経緯について |
(最新見直し2006.8.20日)
(これより前の靖国神社史は、「靖国神社の由来と歴史について」に記す)
(A級戦犯合祀問題については、「A級戦犯の靖国神社への合祀考」に記す)
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、靖国神社への歴代天皇及び首相・閣僚の公式参拝の歴史を確認する。微妙にA級戦犯合祀問題が絡むので、その経過とこれに纏わる動きも追跡する。2006.7.21日付け東京新聞の「昭和天皇『靖国メモ』」が意欲的に解析しており、これを適宜援用する。 2007.3.28日、国立国会図書館は、「新編靖国神社資料集」(A4判1200P)を公表した。靖国神社の内部資料や中曽根内閣当時の「閣僚の靖国神社参拝に関する懇談会」の議事録などか公開された。新聞各社は一斉に「戦犯合祀の過程判明」とする記事を掲載した。これを参照する。 2007.3.28日 れんだいこ拝 |
【首相の靖国参拝は合憲か違憲か】 |
首相の靖国参拝をめぐっての裁判所の判例は、違憲、合憲を繰り返している。最高裁見解は、1977(昭和52).7月の津地鎮祭訴訟で開陳された見解が代表的なものとなっている。同判決は、意訳概要「憲法20条は信教の自由と政教分離の原則を定めている。とはいえ、行政府が関与する宗教的行為の場合、その目的が宗教的な意義をもち、その効果が特定の宗教を援助、または他の宗教を圧迫するような場合でない限り、憲法に違反しない」と述べている。いわゆる「目的・効果基準」である。 その後、国や地方自治体と宗教との関係をめぐる各地の玉ぐし料訴訟、忠魂碑訴訟などで、この法理論が踏襲されている。1985(昭和60).8月の中曽根康首相の靖国神社公式参拝を審理した大阪地裁、福岡地裁などでも、公式参拝を違憲とする原告側の訴えが退けられた。ただ、閣僚の靖国神社公式参拝を求めた岩手県議会の決議について、仙台高裁が判決理由でなく傍論の中で違憲の判断を示している。 産経新聞の****.8.1日付け「主張」は、「それには判例拘束性はない。首相の靖国参拝が合憲であるという法的な判断は定着しているのである。中曽根公式参拝の当時、政府もそれまでの『憲法上疑義がある』とする見解を改め、『公式参拝は合憲』とする見解を打ち出している」と述べている。 |
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1945(昭和20).9.20日、陸軍省が、戦没者に加え、一般国民の全戦災死亡者を合祀するよう提案したが、政府内で合意が得られなかった。
【サンフランシスコ講和条約締結、A級戦犯問題に言及せず】 | ||
1951(昭和26).9月、日本は、連合国とサンフランシスコ講和条約を締結した。第11条で東京裁判を受諾し、独立を回復した。この時、大東亜戦争時の戦犯問題は玉虫色に規定された為、後々に尾を引いていくことになった。
A級戦犯は56年、BC級戦犯は58年までに釈放された。 問題の根源は別として、「A級戦犯の靖国神社合祀問題」の由来は、戦後日本が独立したときの国際条約となったサンフランシスコ講和条約に発している。サンフランシスコ講和条約は、極東国際軍事裁判(いわゆる東京裁判)の判決に沿ってさまざまな制限条項を設けていたが、A級戦犯の処遇に関する具体的には靖国神社への合祀については特段の規定が盛りこまれていなかった。想定外のことでもあったと思われるが、サンフランシスコ条約に「いわゆるA級戦犯の靖国神社合祀を禁止する」と書かれていなかったことが、合祀運動の余地を残すことになった。 |
【サンフランシスコ講和条約締結後のA級戦犯合祀の動き】 | |
占領が終わると、当時の国会は遺族援護関係法規を改正した。その眼目は次のことにあった。
この論法により、「大東亜戦争のA級戦犯靖国神社合祀」の道が開かれることになった。「A級戦犯の靖国神社合祀問題」は、今日なお政治的に悶着があり、それは過去の大戦の史的総括の無さと、そこから由来すると思われるが故に思想的にも処理されていないことに起因していると考えられる。 A級戦犯の靖国合祀の動きは、隠然と進められていったのが史実である。「1959(昭和34)年に最初のA級戦犯合祀が行われた」とあるが、B・C級戦犯の合祀が始まった、ということのように思われる。この経過に付き判明するところは次の通りである。靖国神社側の説明では、厚生省から送られてきた「祭神名票」(お祀りすべき人々の霊について記されたもの)に従って、淡々とお祀りしただけだ、と説明が為されている。中曽根政権以降の政府・自民党側の説明では、「いわゆるA級戦犯合祀には政府は関与していない」との見方を披瀝している。 関係者の話を総合すると、時の政府の意向を踏まえて、厚生省が粛々と靖国神社A級戦犯合祀を取り計らっていったことになりそうである。つまり、サンフランシスコ講和条約その他を検討した結果、問題ないと判断し、当時の世情を勘案し官庁側が事務的な仕事として淡々と進めた結果であったということになりそうである。 占領終了後の靖国神社の合祀は、国や都道府県と靖国神社との共同作業で行われた。つまり、「戦犯」の合祀は政府の主導で行ってきたと言っても過言ではない。まだ不明な点が残っているが、いずれにしても当時の政府・厚生省が決定したというのは、まちがいない事実のようである。 |
【歴史的経過1、首相の例大祭参拝期】 |
1951年(昭和26).9月、サンフランシスコ講和条約が署名されると、吉田首相はその批准を待たず、まだ占領中であったが「戦没者の慰霊祭等への公人の参拝差し支えなし」という占領軍の許可を得て公式参拝を行った。「吉田も遺族達も感無量であった」と報じられている。 同10.18日、吉田首相が戦後初の秋季例大祭に参拝(在任中、計3回参拝する)。以降、岸、池田、佐藤、田中各首相も複数回参拝することになる。 |
鳩山首相、石橋首相は、在任中参拝せず。岸信介首相は2回、池田勇人首相は5回、佐藤栄作首相は11回、田中角栄首相は6回、三木首相は3回、福田首相は4回、大平首相は3回、鈴木首相は8回、中曽根首相は10回参拝をしている。竹下、宇野、海部、宮沢、細川、羽田、村山首相は在任中参拝せず。橋本首相は1階。小渕、森首相は在任中参拝せず。小泉首相は既に4回。歴代首相は主として春秋の例大祭に参拝していた。 |
【靖国神社が宗教法人法により単立の宗教法人となる】 | |
1952(昭和27).1月、靖国神社は、宗教法人法(昭和26年法律第126号)により単立の宗教法人となった。 この時かこれより早くか不明であるが、「宗教法人『靖国神社』規則」と「靖国神社社憲」が定められ、「靖国神社」規則は次のように神社性格を規定している。
つまり、「ファクター5」の範囲内での信仰の強化運動が許容されたということになる。 これを見る限り、教規的には戦前の靖国神社の性格が継承されていることが判明する。但しこれを仔細に見れば、教義上、国家鎮護的な役割が薄められ、「招魂慰霊」を核とする役割に転換させられていることが分かる。ということは、「かっての役割を公然と復活することが宣言されており、つまり、目的や思想は何ひとつ変わっていない」とみなすことは、少々乱暴な把握の仕方であるということになる。 しかし、教義はやや変質したものの、祭祀、儀礼は戦前と異なるところはなく、同神社の霊璽(みたましろ)も神鏡と神剣であり、副霊璽(そえみたましろ・もとは祭神簿といわれていたが、これには祭神の氏名、戦没年月日、場所、本籍のある都道府県、軍における所属、階級、位階、勲等などが記入されている)として天皇の軍隊の忠死者若しくは戦争協力者を霊璽簿とよばれる名簿に記して祀っており、神道上の宗教施設としてこれを崇敬していることからすれば、傍目からは何ら変わっていないともみなされよう。 |
同4.28日、サンフランシスコ講和条約が発効する。この条約の発効により、神道指令が失効した。
同4.23日、吉田首相が参拝。
同8.1日、「救援法」を一部改正し、戦争裁判受刑者の遺族にも遺族年金や弔慰金が支給されるようになった。当時の左派社会党、右派社会党(委員長・河上丈太郎)もこれに賛成している。
【衆院本会議で、「戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議」を採択】 | |
同8.3日、衆院本会議で、「戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議」を採択。決議文の内容は次の通り。
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【サンフランシスコ講和条約発効、戦犯の釈放運動が全国で起る】 |
1952年、サンフランシスコ講和条約が発効し、日本が独立を回復すると、戦犯の釈放運動が全国で起った。嘆願署名は、4000万人を超えた。決議案は、この国民世論を受けたものである。共産党や労農党は反対の立場を示していたものの、戦勝国によって裁かれた裁判だとして極東国際軍事裁判の見直しとA級戦犯の名誉回復を掲げていた改進党や、国民意識としてのBC級戦犯釈放を掲げた社会党の後押しにより推進された。海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会が「全会一致をもつて原案を可決すべきもの」と議決したことを受けて、本会議で可決された(「ウィキペディア戦争犯罪」)。 |
1954(昭和29).10.19日、昭和天皇が靖国神社の例大祭に臨席。
この年、恩給法が改正され、戦犯への援護措置が拡充された。政府は、戦犯も「公務死」と位置づけ、国内法上、A級戦犯の公務復帰を妨げるような欠格事由規定などを設けなかった。
【遺族援護法が成立】 |
1955(昭和30)年、遺族援護法が成立し、敵国の戦争裁判で刑死、獄死した人々の遺族にも、遺族年金や弔慰金が支給されるようになった。その中心となったのは、堤テルヨという社会党の衆議院議員であった。堤議員は衆議院厚生委員会で「その英霊は靖国神社の中にさえも入れてもらえない」と遺族の嘆きを訴えた。堤議員の活躍が大きく貢献して、「占領中の敵国による軍事裁判で有罪と判決された人も、国内法的には罪人と見なさない」、という判断基準を含んだ法改正が与野党をあげて全会一致で可決された。 |
【靖国神社と厚生省引揚援護局との合祀事務打ち合わせの予備折衝】 |
1956(昭和31).1.23日、靖国神社と厚生省引揚援護局との合祀事務打ち合わせの折衝が始まった。各都道府県から集めた戦没者名簿を同局で取りまとめ、神社に送る事務処理安が提示されている。 |
【厚生省引揚援護局調査課が、各都道府県に、「祭神名票」作成を通達する】 |
1956(昭和31).4月、厚生省引揚援護局調査課(現厚生労働省社会・援護局)が、各都道府県に合祀事務に協力するよう「靖国神社合祀事務協力について」を通達した。この時、同課は、旧陸軍の流れをくみ、元軍人が仕切っていた。これにより、恩給法と戦傷病者戦没者遺族等救援法で「公務死」と認められた者が合祀予定者に選ばれた。その名簿が、「祭神名票」として厚生省から靖国神社に送付、合祀された。その後も、遺族の申し出などにより、ほぼ毎年合祀が続いている。 |
1957(昭和32).4.23日、昭和天皇が靖国神社の例大祭に臨席。
同4.25日、岸首相が靖国神社参拝(在任中、計2回参拝する)。
【靖国神社と厚生省引揚援護局との合祀事務第1回打ち合わせ】 |
同6.3日、「合祀事務に関する厚生省引揚援護局関係者との第1回連絡会議録」が残されており、その後、合祀基準などについて頻繁に検討会が開かれている。神社側は宮司に次ぐ役職の権宮司ら数名、引揚援護局側は旧軍人の職員らが出席している。 |
1958(昭和33).4.9日、靖国神社と厚生省の合同会議で、引揚援護局の事務官が、「戦犯者(A級は第一復員者ではない。B級以下で個別審議して差し支えない程度でしかも目立たぬよう合祀に入れてはいかが。神社側として研究してほしい」と提案している。神社側は、「総代会(神社の最高意思決定機関)に相談してみる。その上でさらに打合会を開きたい」と回答している。合祀の話し合いはこの時より始まる。
同9.12日、靖国神社と厚生省の第7回合同会議で、厚生省側から「全部同時に合祀することは種々困難もありとすることであるから、まず外地刑死者(BC級戦犯)の合祀のこと、目立たぬ範囲で了承してほしい」と提案がなされ、神社側は、「新聞報道関係の取り扱い方いかんで、その国民的反響は重要な問題として考えねばならず、宮内庁関係にも事前に了承を求める必要も考えられる」と回答している。
この年、厚生省が、A、B、C級の祭神名票を作成した。が、A級の送付は8年後の66年まで待った。
同10.21日、岸首相が靖国神社参拝。
同12月、靖国神社の総代会が開かれ、A級戦犯合祀を今後検討すべきだという意見が出たが、総代の小泉信三元慶応義塾塾長が「ここで決定するのではないのですね」とほっとした表情で語ったという。当時、神社側は合祀論一色ではなかったことがうかがえる。
1959(昭和34).3.28日、千鳥ヶ淵戦没者墓苑完成。
同4.8日、昭和天皇が靖国神社の臨時大祭に臨席。
この頃より国家神道の復活が叫ばれるようになり、自民党による靖国神社国営化運動が推進された。自民党の族議員や同党の支持団体である日本遺族会などが、靖国神社の「国家護持」を復活させる運動を開始した。
この年、靖国神社は、BC級戦犯の合祀を始めた。
1960(昭和35).10.18日、池田首相が靖国神社参拝(在任中、計5回参拝する)。
1961(昭和36).6.18日、11.15日、池田首相が靖国神社参拝。
この年、厚生省と神社の検討会で、A級戦犯の「合祀可、非公表」を決める。但し、翌年「保留」に変える。
1962(昭和37).11.4日、池田首相が靖国神社参拝。
1963(昭和38).9.22日、池田首相が靖国神社参拝。
1964(昭和39).8.15日、靖国神社境内で、政府主催の全国戦没者追悼式を行う。この動きは次第に強まり、60年代後半から政治問題化することになる。
1965(昭和39).4.21日、佐藤首相が靖国神社参拝(在任中、計11回参拝する)。
同8.15日、日本武道館で、政府主催の全国戦没者追悼式を行う。以降、毎年武道館で開催。
同10.19日、昭和天皇が靖国神社の臨時大祭に臨席。
同12.8日、靖国神社と厚生省の合同会議で、「後日審議のため保留となっている項目について現段階においての検討について」との議題で検討、保留の結論となった。
【厚生省援護局調査課長が、靖国神社に「祭神名票」を送付する】 |
1966(昭和41).2.8日、厚生省援護局調査課長が、事務次官ら幹部に断りないまま靖国神社調査部長に対し、「祭神名票の送付について」の表題の祭神名票が靖国神社に届ける。「東京裁判関係(A級)死没者12。.軍人軍属(B・C級内地死刑者53)」と計205名の「区分」が列記されていた。別紙に、東京裁判関係(A級)死没者として、元首相・東条ら刑死者7名と元陸軍大将・梅津ら5名の名前が列挙されていた。 |
同4.21日、佐藤首相が靖国神社参拝。
1967(昭和42).4.22日、佐藤首相が靖国神社参拝。
同5.8日、靖国神社と厚生省の合同会議で、A級戦犯の合祀保留が打ち合わせられる。
ところで、どこで見た文章か分からなくなったが、「1967(昭和42).10月、靖国神社は、東条英機元首相ら東京裁判のA級戦犯14人を『昭和殉難者』として遺族にも知らせず合祀した」との記述が為されている。これは理解不能である。1978(昭和53).11月が正式のようである。
1968(昭和43).1.17日、平泉渉・氏が、岸信介元首相と「重要なる会談」をした。翌年、自主憲法制定会議(岸会長)が発足。
1968(昭和43).4.23日、佐藤首相が靖国神社参拝。
1969(昭和44).1.31日、靖国神社と厚生省の合同会議で、再確認事項で、法務死没者(A級戦犯)合祀可との判断を示した。但し、「総代会の意向もあるので合祀決定とするが外部発表は避ける」とした。
同4.22日、佐藤首相が靖国神社参拝。
【靖国神社の国家管理を盛り込んだ「靖国神社法案」が議員立法で国会に提出される】 |
同6月、日本遺族会の後押しを得て、靖国神社の国家管理を盛り込んだ「靖国神社法案」を議員立法で国会に提出する。同法案は、靖国神社を非宗教化して、内閣総理大臣が管轄する特殊法人として国営化することを骨子としていた。以降5回繰り返される。だが、根強い反対もあり、大きな反対運動が起こり、法案はその都度審議未了→廃案が繰り返された。1974年に最終的に廃案となった。 この動きは、ファクターDに新たに「国家管理」という条件を設定しようとする動きと見ることが出来る。但し、「国家護持」機能の付加なのか、国家責任による英霊祭祀化なのか分明でない。 |
同9月、靖国神社国家護持国民協議会発足。
同10.18日、佐藤首相が靖国神社参拝。
同10.20日、昭和天皇が、靖国神社創立100年記念大祭に臨席。
同11.8日、神道政治連盟が発足。靖国神社国営化が挫折すると、神道政治連盟が発足し、天皇、首相の公式参拝の実現運動が大々的に組織されていった。
1970(昭和45).4.22日、10.17日、佐藤首相が靖国神社参拝。
同6.25日、靖国神社と厚生省の会議で、A級戦犯合祀について、「諸情勢を勘案保留とする」とした。保留に戻ったことになる。
【靖国神社の崇敬者総代会で、A級戦犯合祀の方針を決定する。但し、時期に就いては宮司一任】 |
この年、東条英機内閣で大東亜相だった青木一男氏(故人)ら二人の元A級戦犯がリードする靖国神社の崇敬者総代会が開かれ、A級戦犯合祀の方針を決めた。但し、時期に就いては宮司一任とした。 |
1971(昭和46).4.22日、10.18日、佐藤首相が靖国神社参拝。
1972(昭和47).4.22日、佐藤首相が靖国神社参拝。
同7.8日、10.17日、田中首相が靖国神社参拝(在任中、計6回参拝する)。
1973(昭和48).4.23日、10.18日、田中首相が靖国神社参拝。
1974(昭和49).4.23日、10.19日、田中首相が靖国神社参拝。
この年、「靖国神社国家護持法案」が最終的に廃案にされた。
1975(昭和50).4.22日、三木首相が靖国神社参拝(在任中、計3回参拝する)。
【歴史的経過2、三木首相の8.15日私的参拝期】 | |||||||||||||||||
1975(昭和50).8.15日、三木武夫首相が、私人としての「参拝4原則」を強調し、「私的参拝」と表明しつつ現職首相として戦後初めて終戦記念日のこの日に靖国神社を参拝した。政府要人による靖国神社参拝が政治的問題となったのは、この時を契機としている。三木氏自身、この時が総理として2度目の参拝であった。 この時、「首相の戦後初めての8.15日靖国神社参拝」を廻って「公私」の区別が問題なった。新聞記者たちが、総理としての公式参拝であるか、私的参拝であるかという質問をし、三木氏は内閣総理大臣としてではなく、三木個人としての「私人」参拝であると答えた。その理由として、1・公用車は使わない、2・玉ぐし料はポケットマネーで負担、3・内閣総理大臣の肩書きは記帳しない、4・公職者を随行させない、との4原則を設け、「私的参拝」であることを強調した。 公式参拝と私的参拝の区別が論じられるようになったのは三木首相の時からである。三木は歴代総理の中でも例外的なポピュリスト(大衆迎合政冶家)・パシフィスト(一国平和主義者)であり、防衛費の1%枠とか、防衛計画の大綱とか、その軌道再修正にその後数内閣を要するような、自らの手をしばる制限を自ら課しているが、その時も「私人として参拝した」と説明した。これ以後、総理が参拝するときには、公人としての参拝か私人としての参拝かという資格が問題にされるようになった。 これも、そう言わねばならない客観的情勢は何もなく、自分から言い出した事である。何か理由があるとすれば、当時稲葉法相が自主憲法制定国民会議に出席した事を「個人の立場で」と釈明したことがその背景にあったと推察されている。 同11.20日、参院内閣委員会で、野党が首相の靖国神社参拝を憲法違反として追求し、これに対し内閣法制局長官・吉国一郎氏が、「私人としてのお参りは差し支えない」と繰り返している。野党は、「天皇の公式参拝は抵触するか」と質疑し、吉国氏は、「憲法20条3項(国の宗教的活動禁止)の重大な問題になる」と答弁している。 同11.21日、昭和天皇夫妻が参拝。但し、この時の参拝を最後に途絶える。 1976(昭和51).10.18日、三木首相が靖国神社参拝。 この頃になると日本遺族会などを中心に「英霊にこたえる会」が結成された。「こたえる会」は、首相の公式参拝を要求し、地方議会に働きかけて決議をあげた。 1977(昭和52).4.21日、福田首相が参拝(在任中、計4回参拝する)。
同4.21日、福田首相が参拝。 同6.4日、靖国神社総代の村上勇・元建設相にして日本遺族会会長が、福井県勝山市の生家の白山神社宮司になっていた平泉渉・氏を訪ね、松平永芳(ながよし)氏の宮司就任につき相談、同月末内定した。 平泉氏はかねがね次のように述べていた。
同8.15日、福田首相が前例に従い「内閣総理大臣」と記帳しながら「私人」と主張し参拝した。この時、1・警備上の都合や緊急時の対応のため公用車を利用できる。2・記帳には肩書きを記すことが出来る。3・閣僚が同行できるとの政府見解(安倍晋太郎官房長官の国会答弁)を打ち出した。新見解は、三木首相時の「4原則」の枠組みを踏まえながら公的参拝性を強めていた。この政府見解が今に至っている。 同10月、安倍晋太郎官房長官が、国会答弁で、「首相の私人資格の参拝は自由」と述べ、概要「1・記帳で肩書きを付すのは慣例に過ぎない。2・公用車使用は警備上の都合によるものに過ぎない。3・閣僚の随行は、気持ちを同じくした者の同行であり、私人の立場を離れたものとはいえない。4・玉串料の公費支出などの事情が無い限り、私人の立場での行動と看做すべき云々」と解説した。
同10.18日、福田首相が靖国神社参拝。 1979(昭和54).4.21日、大平首相が参拝、在任中に計3回参拝(79年に2回、80年に1回)した。 同4.19日、朝日新聞(「共同通信スクープ」との説も有る。調べれば分かることだろうが)が、A級戦犯14名の合祀を報道し、事実が明らかになった。大平首相は、A級戦犯合祀問題が表面化したため8.15日の参拝を見合わせた。 同10.18日、大平首相が靖国神社参拝。 同年、元号法成立。 1980(昭和55).4.21日、大平首相が靖国参拝。 同5.30日、昭和天皇に仕えた入江相政侍従長(故人)の日記に、「靖国神社の松平君が『(皇太子さまが)御成年におなりになったのだから靖国神社に御参拝になるべきだ』と言ってきた由。『そんなのほっとけば』といふ」とある。 同8.15日、鈴木善幸首相が靖国参拝(80年に2回、81年3回.82年3回、在任中に計8回参拝)。鈴木首相は閣議で申し合わせ、18名の閣僚を引き連れて参拝した。 同10.18日、鈴木首相が靖国参拝。 同10.30日、法務大臣・奥野誠亮氏が、参院法務委員会で、「憲法20条に謳われている宗教的活動は、制定当時十分な議論がなされたのかどうか、疑問を持ち続けている。憲法上疑義があるとされるため、閣僚が靖国神社に参拝しても、私人の資格で参拝したといわなければ、国会で問題化する事態になっている。これは早く解決の道を出してもらいたいと念願している」と発言。 同11.5日、法務大臣・奥野誠亮氏が、衆院法務委員会で、社会党・稲葉誠一氏との質疑で、「憲法20条で、国は宗教的活動をしてはならないと書いてあるが、靖国神社に参拝することを禁止しているとは私には受け取れない。私が靖国神社に参拝する時に、ことさら私人の資格で参拝と言わざるを得ないような、ぎこちない姿をなんとか解決してもらえないか。
また憲法20条の規定は、マッカーサー草案そのままになっている。制憲議会においても、参拝がそれに触れるとか触れないとかいう議論はしていない。
また、津の地鎮祭訴訟において、最高裁で合憲とされたが、宗教的活動の範囲については問題があった。靖国神社に参拝することが20条に触れるとは考えられない。
その解釈が国会で合意が生まれてくれば解決が早いと思うので、早くすっきりしたものにしてもらいたい」と発言。 同11.7日、法務大臣・奥野誠亮氏が、衆院法務委員会で、社会党・横山利秋氏との質疑で、「国会でいろいろお尋ねいただき、その都度私なりに率直にお答えしている。
批判は謙虚に受けとめたい。 私はひたすら、国会においては、国の運命を背負っていることだから、今後の日本のあり方について率直に意見を交換する。議論を交し合っていく。それでなければ責任を果たせないのではないか。あんなことを言ったらいけない、こんなことを言ったら咎められる、ということよりも、むしろ自由闊達に議論を尽す。そうして国の将来に過ちなきを期していくことが大事ではないか。こんな気持ちを強く持っているので、特段に策を持ってお答えしているつもりはない。 (後略)」と発言。 同11.17日、宮沢喜一官房長官が、国会答弁で、概要「公式参拝は違憲ではないかとの疑いをなお否定できない。政府としては違憲とも合憲とも断定してはいないが、従来から事柄の正確上、慎重な立場をとり、閣僚としての資格で参拝することは差し控えることが一貫した方針としてきたところである」との政府統一見解を発表。 1981(昭和56).3.18日、村上正邦参院議員ら衆参259名による「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」が発足する。8.15日、「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」が集団参拝をした。 改憲団体「日本を守る国民会議」結成される。 同4.21日、8.15日、10.17日、鈴木首相が靖国参拝。 1982(昭和57).4.21日、8.15日、10.18日、鈴木首相が靖国参拝。
1983(昭和58).3.14日、昭和天皇に仕えた入江相政侍従長(故人)の日記に、「また靖国神社の松永(松平)宮司が馬鹿(ばか)なこと、浩宮様(皇太子さま)の御留学について反対を云(い)ってきたとか」の記述がある。靖国神社宮司の松平氏と皇室のギクシャク関係が判明する。 同4.21日、中曽根康弘首相が、「内閣総理大臣たる中曽根康弘」として靖国参拝(83年に3回、84年に4回、85年に3回、在任中に計10回参拝)。 1984(昭和59).1.5、4.21日、8.15日、10.18日、中曽根首相が靖国参拝。 8月、中曽根首相は、かねてから「戦後の総決算」を標榜していたが、藤波孝生官房長官の私的諮問機関として「閣僚の靖国神社参拝問題に関する懇談会(靖国懇談会)」を設けた。江藤淳・東工大教授、梅原猛・京都市立芸大学長、曽野綾子・作家ら憲法、哲学、宗教など各界の識者15名で構成された。 11.19日、第4回靖国懇談会会合で、「人間は全て罪人であるとするキリスト教の立場からは、戦没者の中でA級戦犯だけを区別するのはおかしい」という意見が出された。 1985(昭和60).1.21日、4.22日、中曽根首相が靖国参拝。 同2.12日、第8回靖国懇談会会合で、「戦犯については、東京裁判で決まり、サンフランシスコ平和条約第11条で守ることになっていると云われるが、事後法で裁かれたものであるのでおかしい」という意見が出された。 同3.6日、第9回靖国懇談会会合で、「A級戦犯は、まさにそういう戦争に日本国民を導いて行った人々であり、戦争の犠牲者であるという要素はほとんどない」、「裁判の合法性にも疑問がある。とりまとめてA級戦犯というのは不正確であり、抵抗がある」という意見が出された。 6.14日、富田朝彦宮内庁長官が退任、7.8日付で宮内庁参与に就任。後任は藤森。 靖国懇談会が、「宗教儀礼に拠らなければ首相等の公式参拝も合憲とする」報告書を提出、談話を発表した。「戦没者の追悼を目的とし、本殿又は社頭で一礼する方式で参拝することは、憲法の規定に違反する疑いはない」(藤波官房長官の国会答弁)で政府見解を変更した。 同.8.**日、藤波孝生官房長官が、「宗教色を薄めた形式ならば公式参拝は合憲」と談話を発表。「首相の資格で公式参拝する。目的は、戦没者の追悼で、宗教的意義が無いことを方式などの面で客観的に明らかにし、靖国神社を援助する結果にならないよう充分配慮すれば、憲法が禁止する宗教的活動に該当しない。参拝方式は、神道形式ではなく、本殿で一礼云々」。 |
【歴史的経過4、首相の8.15日公的参拝期】 | ||||||||||||||||
1985(昭和60).8.15日、中曽根康弘首相が、終戦記念日のこの日に18名の閣僚と共に「内閣総理大臣たる中曽根康弘」として靖国神社公式参拝を強行した。 8.27日から30日までの社会党訪中において、社会党と中国は公式参拝批判の気勢を大いに上げ、反対運動は燃え上がり、中曽根首相は、その後退任まで参拝できなくなってしまった。 同9.29日、入江相政侍従長が急死(享年80歳)。10.1日付で勇退する予定であった。 同10月、自民党が靖国神社にA級戦犯の合祀取りやめを申請、神社側はこれに拒否回答。 ?10月、自民党靖国問題小委員会で、奥野誠亮委員長が「国家社会の代表が代表としてお参りできないようでは、将来、事があった場合どうなるのか」と発言する。「公式参拝を、過去の戦没者追悼ではなく、将来の有事対策」との視点を披瀝している。この時期に、平成13年の現在までその後の20年余りに及ぶ「靖国参拝問題」の議論の典型的な雛形が完成することになる。 同11月、中曽根首相の政策ブレーンの一人・瀬島龍三(元大本営参謀)が、A級戦犯として処刑された板垣征四郎氏の子息、当時の板垣正参院議員に対して次のように述べている。
中曽根首相は、衆院本会議で、「国際関係では、我が国だけの考えが通用すると思ったら間違いだ。特にアジア諸国の国民感情も考え、国際的に通用する常識で政策を行うのが正しい。それが国益を守る方途に通じる」と述べている。
1988(昭和63).6月、自衛官合祀訴訟で、遺族の意思に反した殉職自衛官の護国神社への合祀を合憲とする最高裁大法廷判決。 同6月、富田宮内庁長官が退任する。 1991(平成3年).1.10日、岩手靖国訴訟で、玉ぐし料の公費支出や首相らの公式参拝を違憲とする仙台高裁判決(その後確定)(「岩手靖国神社公式参拝、玉ぐし料訴訟控訴審仙台高裁判決」)。 1992(平成4).2月、福岡高裁で「公式参拝は違憲の疑い」との判決が下される。 同7月、大阪高裁は、中曽根首相の公式参拝で供花料の公費からの支出をめぐる損害賠償請求訴訟の判決で、原告の控訴を棄却した上で、概要「公式参拝については、憲法違反とまでは断定できないが、外形的、客観的には宗教的活動との性格を否定できないうえ、国民的合意も得られておらず、憲法に違反する疑いがある」との判断を示した。 同11月、宮沢喜一首相が非公表で靖国神社参拝。 1993(平成5)年、細川首相が記者会見で日本がおこなった戦争を「侵略戦争」と表明。自民党靖国三協議会が抗議の申し入れ。 1995(平成7)年、村山首相が終戦50年の「談話」で「植民地支配と侵略」に反省とおわび。自民党「歴史・検討委員会」が『大東亜戦争の総括』を発表。 1996(平成8).7.29日、橋本龍太郎首相は、自らの誕生日の7.29日に「私的」参拝。11年ぶりの首相としての靖国神社参拝となった。但し、これも中韓両国などから批判を浴びて、翌年には「この仕事(首相)には私人というものはないということを知った」として参拝を見送った。この時、自民党の加藤幹事長が、中曽根元首相に「分祀は可能か」相談している。 1997(平成9).4月、愛媛玉ぐし料訴訟(玉串(たまぐし=サカキなどの枝を神前にささげる神道儀式に於ける玉ぐし料公費支出を違憲とする訴訟)で、愛媛県が支出した護国神社への玉ぐし料を違憲とする最高裁大法廷判決。「県が特定の宗教団体を特別に支援している印象を与え、特定の宗教への関心を呼び起こす」として憲法違反との判決を下した。尾崎行信裁判官は、大正末期から昭和にかけての軍国主義化と言論の自由が奪われ戦争へと突入した歴史を示し、「情勢の急変には十年を要しなかった」「些少(さしょう)だと思われる事態が既成事実となり、積み上げられ、取り返し不能な状態になることは歴史の教訓」と警告した。 同年、改憲団体が合流して「日本会議」発足。憲法調査委員会設置推進議員連盟発足。 1998(平成10)年、「靖国神社奉賛会」が「靖国神社崇敬奉賛会」に再組織される。2002年の大増築の事業費集めに協力する。 1999(平成11).8.6日、小渕内閣の野中広務官房長官が、A級戦犯分祀と靖国特殊法人化を提唱する。 同年、「英霊にこたえる会」などが「三権の長」の靖国参拝を求める請願書提出、請願行進。 2000(平成12年)、森内閣発足。日本遺族会などが首相参拝求め「総決起大会」。「英霊にこたえる会」がビデオ「君にめぐりあいたい」制作。「神の国」発言で物議をかもした森総理は、公式参拝はおろか8月15日には私的参拝も行わなかった。 2001(平成13).4月、自民党総裁選で、小泉候補が、日本遺族会幹部に「終戦記念日の参拝」を確約明言。 同5月、小泉首相が国会答弁で8.15日の靖国参拝を表明。 同7月、中国・韓国両外相が、田中外相に首相の参拝中止を要請。 今年もまた、昭和60年と同じゲームが練り返されつつある。新しい状況として、中国外交のやり方が客観視され始めたことだろうか。米偵察機衝突事件、李登輝(前台湾総統)訪日、訪米ビザ問題など見ると、当初の脅迫的な警告と、その後実際にとった処置との間の乖離が甚だしく、一定の政治的スタンスとして主張されているのではないかという判断が生まれつつある。
2001(平成13).12月、福田康夫官房長官が、官房長官の私的諮問機関として「追悼・平和祈念施設の在り方を考える懇談会」を設置する。 2002(平成14).4.21日、小泉首相が参拝。 同年、「遊就館」が大増築後、開館式。 同12月、「追悼・平和祈念のための記念碑等施設の在り方を考える懇談会が、靖国神社と併行して国立の新追悼施設を作る、幅広く追悼対象とする報告書を纏めた。しかし靖国神社、日本遺族会が反発し頓挫する。 2003(平成15).1.14日、小泉首相が参拝。 同4月、小泉首相の靖国神社参拝に対する宗教関係者などが起こした損害賠償訴訟で、福岡地裁判決。原告の訴えを棄却しているが、傍論で、「首相の参拝直後の終戦記念日に前年の2倍以上の参拝者がいるなど、靖国神社を援助する効果をもたらした」とし、憲法が禁じる宗教的活動に当たり違憲、との判断を示した。小泉首相は、判決後、「何で憲法違反なのか分からない。伊勢神宮にも参拝しているけどね」と記者団に語った。 2004(平成16).1.1日、小泉首相が参拝。 福岡地裁判決。小泉首相の2001年の参拝について、「職務の執行。政教分離原則に反する」と判断。「今後も違憲行為が繰り返される可能性が高い」と述べ、8件の訴訟のうち唯一、原告側の主張を酌んだ。 同年、靖国神社は、分祀論議に対し、「仮にすべてのご遺族が賛成されるようなことがあるとしても、分祀することはありえません」との見解を公表した。 2005(平成17).6月、小泉首相が衆院予算委員会でA級戦犯について「戦争犯罪人であると認識している」と答弁。 同6.25日、靖国神社境内に設置されている旧軍の資料を展示した「遊就館」に、極東国債軍事裁判(東京裁判)で、東条英機元首相らA級戦犯の無罪を主張したインドの故パール判事の顕彰碑が建立された。除幕式には、在日インド大使館から武官が出席した。碑には、南部利昭宮司の次のような賛辞が記されている。
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【小泉首相の5回目の靖国神社珍奇参拝】 | ||||||
同10.17日、小泉首相は首相就任以来、毎年1回の参拝を続けているが、就任以来5回目になる靖国神社参拝を強行した。参拝は秋季例大祭に合わせ行われ、午前10時すぎ、公用車で秘書官を伴いスーツ姿で靖国神社に到着。こたびの参拝は過去4回と形式を変えた。 これまでは、1・私的参拝と云いながらも「内閣総理大臣 小泉純一郎」と記帳し、2・政教分離に配慮して玉ぐし料ではなく自費負担で献花料をお供えし、3・神道形式の「二礼二拍手一礼」しない形式を取っていたが、こたびの参拝では1・記帳せず、2・玉ぐし料、献花料のいずれも供えず、3・本殿に上がらず、4・「二礼二拍手一礼」せずというないない尽くしの参拝となった。一般参拝と同じように拝殿前で済ませ、拝殿前で一礼した後、ポケットから賽銭(さいせん)を投じ、約30秒間手を合わせて参拝した。 小泉首相は、昼の政府与党連絡会議で、「平和を願う一国民として参拝した。不戦の決意で祈った。近隣諸国とは未来志向の形で努力していきたい」と説明した。細田博之官房長官は、記者会見で「首相の職務として参拝しているのではない」と強調した。 17日夕、小泉首相は、自らの靖国神社参拝について、首相官邸で記者団に次のように応答した。
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【戦後歴代首相の靖国神社参拝史】 | |||
1945(昭和20).8.15日以降、13名の歴代総理大臣が参拝している。 | |||
東久邇宮稔彦王 | 1回 | 1945(昭和20) | 1945.8.18日、東久邇宮稔彦親王殿下 参拝。 |
幣原喜重郎 | 2回 | 1945(昭和20) | 1945.10.23日。11.20日。 |
吉田茂 | 5回 | (自)1951(昭和26)
(至)1954(昭和29) |
1951.1018日。1952.10.17日。1953.4.23日・10.24日・1954.4.24日。 |
岸信介 | 2回 | (自)1957(昭和32)
(至)1958(昭和33) |
1957.4.25日。1958.10.21日。 |
池田勇人
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5回 | (自)1960(昭和35)
(至)1963(昭和38) |
1961.6.18日。11.15日。1962.11.4日。1963.9.22日。 |
佐藤栄作 |
11回 | ( 自)1965(昭和40)
(至)1972(昭和47) |
1965.4.21日。1966.4.21日。1967.4.22日。1968.4.23日。1969.4.22日・10.18日。10.19日、天皇・皇后両陛下御親拝・・・靖国100年記念大祭。1970.4.22日。10.17日。1971.4.22日・10.19日。1972.4.22日。 |
田中角栄 | 5回 |
(自)1972(昭和47) (至)1974(昭和49) |
1972.7. 8日。1973.4.23日。10.18日。1974.4.23日。10.19日。 |
三木武夫
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3回 | (自)1975(昭和50)
(至)1976(昭和51) |
1975.4.22日。8.15日、「私的参拝」発言により憲法論議を招来、これ以降、マスコミが「私的・公的」の別、「玉串料の国庫からの拠出」等を質問するパターンに入る。 |
福田赳夫 |
4回 | (自)1977(昭和52)
(至)1978(昭和53) |
1978.10.18日、秋の例大祭。 |
大平正芳 | 3回 | (自)1979(昭和54)
(至)1980(昭和55) |
1979.4.21日、春の例大祭。1979.10.18日。1980.4.21日。※大平首相の個人的信仰はキリスト教であった。 |
鈴木善幸 |
8回 | (自)1980(昭和55)
(至)1982(昭和57) |
1980.8.15日、終戦記念日。1980.10.18日。1981.4.21日。1981.10.17日。1982.4.21日。1982.8.15日。1982.10.18日。 |
中曽根康弘 |
10回 | (自)1983(昭和58)
(至)1985(昭和60) |
1983.4.21日。1983.10.18日。1984.1.5日。1984.4.21日。1985.1.21日。1985.4.22日。1985.8.15日。 |
宮沢喜一 | (1回) | 1992.11月 | |
橋本龍太郎
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1回 | 1996(平成8) | 1996.7.29日。 |
小泉純一郎 | 5回 | 2001.8.13日。2002.4.21日。2003.1.14日。2004.1.1日。2005.10.17日。2006.8.15日。 | |
【2001.8.15日小泉内閣閣僚の靖国神社参拝の動き】 | |||
【参拝派】 | 途中経過 | 8.15日 | |
小泉首相 | 熟慮中 | ||
福田康夫官房長官 | |||
阿部官房副長官 | |||
片山虎之助総務相 | |||
平沼赳夫経済産業相 | 参拝明言 | 「例年お参りをさせていただいており、今年もお参りする」 | |
扇千景国土交通省 | 参拝明言 | ||
村井仁国家公安委員長 | 参拝明言 | 「参ります」 | |
【逡巡派】 | |||
塩川正十郎財務省 | |||
武部勤農相 | |||
中谷元防衛庁長官 | |||
尾身幸次沖縄・北方相二 | |||
柳沢伯夫金融担当相 | 「例年になく非常に関心を集めているし、近隣諸国の反応も敏感になっている」 | ||
石原伸晃行革担当相 | |||
【見送り派】 | |||
森山真弓法相 | 参拝しない | 「首相がお考えになることで、私がどうこう申し上げることではない」 | |
田中真紀子外相 | 参拝しない | 「首相は熟慮に熟慮を重ねている最中だと発言しているので、その立場を尊重する時期にも入っていると考えている」
「私はしません」 |
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遠山敦子文部科学相 | 参拝しない | 「私自身は改めて行く考えはない」 | |
坂口力厚生労働相 | 参拝しない | 「熟慮して、誤りなきように決定していただきたい」 | |
川口順子環境相 | 「(知人に戦没者がいて)追悼する気持ちは強いが、靖国神社にうかがうという形で表そうとは思っていない」 | ||
竹中平蔵経済財政相 | 「私自身は予定していない」 |
(私論.私見)