428919−2 | 憲法改定論とその論争史について |
(最新見直し2007.4.18日)
平成国際大学教授の高乗正臣氏の「憲法改正論の系譜」を転載する。(出所元失念)
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その意味から、ここではまず、日本国憲法成立の法理に関する学説を批判的に検討することにしよう。以下、有効論、無効論および 占領管理法説を見てみよう。 有効論ー@八月革命説 宮澤俊義教授によって唱えられた説(1)である。まず、宮澤教授は憲法の改正には限界があるという立場をとる。すなわち、憲法そのものの前提となっている根本的建前によって、改正手続自体がその効力の基礎を与えられているのであるから、その手続で根本的建前 を改正するということは「論理的に不能」であるという。つまり、「天皇が神意にもとづいて日本を統治するという原則は、日本の政治の根本建前であり、明治憲法自体もその建前を前提とし、根底としていた」のにかかわらず、「明治憲法の定める改正手続で、その根本建前を変更するというのは、論理的自殺を意味」するという。 ついで、宮澤教授は昭和二○年八月一一日の連合国回答(いわゆるバーンズ回答)を問題とする。ポツダム宣言の受諾に際して「国体 護持」の条件を付したわが国の申入れに対する連合国の回答がこれである。この回答は、「最終的の日本国の政治の形態は、『ポツダ ム』宣言に遵い、日本国国民の自由に表明する意思により決定せらるべきものとする」というものであったが、教授は、これは「日本の政治についての最終的な権威が国民の意思にある」ということ、すなわち「国民が主権者であるべきだ」ということを意味している から、この回答を前提にポツダム宣言を受諾したと同時に、わが国に法学的意味でいう「革命」が起こり(正当な法的手続を経ずに主権者が代わり)、天皇主権から国民主権に変わったという。日本国憲法は、この法学的意味でいう「革命」によって新たに主権者となった日本国民により有効に制定された憲法であるという。 ところで、ここで注意すべきことは、宮澤教授は、この「革命」によって帝国憲法が廃止されたとは見ていない点である。教授によれば、帝国憲法の規定は「革命」によってもたらされた新しい建前に抵触する限度において変わったと見るべきであって、その建前に 抵触しない限度においてはどこまでも帝国憲法の規定に従って事を運ぶのが当然だ、とする。この意味からすれば、日本国憲法の成立が帝国憲法七三条の改正手続によって行われたことは妥当ということになる。 この点について、清宮四郎教授は、同じ革命説をとりつつも、帝国憲法の効力に関する宮澤見解に疑問を提示する(2)。すなわち、清宮教授は、ポツダム宣言の受諾と同時に、「明治憲法は根底から動揺し、第七三条も、憲法改正規定としての資格が疑われるに至った」 と述べる。ついで、教授は「日本国憲法は、明治憲法にもとづいて制定されたのではなくて、国民が、国民主権の原理によって新たに認められた憲法制定権にもとづき、その代表者を通じて制定したものとみなさるべきであ」り、「その制定行為を明治憲法第七三条による 改正行為とし、新法と旧法とに『法的連続性』をもたせることは、法的には説明のできないことである」という。 八月革命説に立つ限り 、清宮説の方が論旨が一貫し、説得力に富むといえよう。論者は、この清宮教授の見解を「純粋革命説」と呼ぶ。 八月革命説に対する疑問 一時期、学界の多数説となった八月革命説には根本的な疑問がある。第一に、ポツダム宣言と、その受諾に関する日本政府による国体護持の申入れに対する連合国回答(バーンズ回答)の受容は、果たして、革命説がいうように天皇主権から国民主権への移行を要求していたか疑問である。まず、この説が根拠とする「国民の自由に表明する意思」による政府の樹立という文言は、同様の表現をとる「大西洋憲章」や「国連憲章」を見ても、「外国の干渉を受けることなく、自国のことは自国で決める」という意味での民族自決原則の表明としかとれず、 バーンズ回答やポツダム宣言の文言のみを「国民主権」を要求するものと解釈するのは無理である。 第二に、佐々木惣一博士が指摘するように、ここにいう「日本国国民(Japanese people)」とは、天皇に対立する国民の意味ではな く、日本国家を構成する日本人、すなわち、天皇を含む「日本国人」と解すべきであろう(3)。したがって、ポツダム宣言は、日本国の最終的な政治形態(天皇の地位を含む政治形態)は、日本国の構成員自体が自由にその意思を表明して決定すべきことを要求したもので あって、この意味からも「国民」の文言をもって国民主権の根拠とすることはできない。 さらに、バーンズ回答にいう「最終的」(ultimate)という語は占領終了後を意味すると解され、また、「日本の政治の形態」(form of Governmentof Japan)は、あくまでGovernmentすなわち政府の形態であり、form ofthe Stateすなわち国家の形態ではない。も し、後者だとすれば「主権の所在の問題」となるだろうが、そうではない。むしろ、ポツダム宣言10項では「民主主義的傾向ノ復活強 化(revival and strengthening」とあることから、バーンズ回答もポツダム宣言も、主権の所在の変更を要求したものではないとす る見解も説得力がある。 以上述べたことのほかに、八月革命説には致命的な欠陥があるというべきであろう。革命説は、法的意味での革命によって主権が天皇から国民に移行したと主張するが、事実の上で誤っている。事実からいえば、主権は天皇から国民へ移行したのではなく、紛れもな く連合国最高司令官に移行したのである。先のバーンズ回答が述べるとおり、「降伏ノ時ヨリ、天皇及日本国政府ノ国家統治ノ権限ハ ・・・連合国最高司令官ノ制限ノ下ニ(subject to)置カレ(4)」たのであって、「国家意思を最終的に決定する力」という意味での主 権が国民に移ったなどということは、全く事実の基礎を欠くものである。 これらの点から、八月革命説は理論的に破綻をきたしている。この説は、占領下という異常な状況の中で、何とか日本国憲法の有効 性を導き出そうとして案出された「政治的」な理論といえるであろう。この意味から、八月革命説に基づいて現行憲法を有効なりと結 論づけることは妥当ではない。 有効論ーA改正説 佐々木惣一博士によって代表される見解(5)である。佐々木博士は、改正手続による憲法改正には何ら限界がないという立場に立って 、現行憲法は帝国憲法の全面的な改正憲法であり、有効に成立したとする。つまり、現行憲法は帝国憲法七三条の定める天皇の提案、 帝国議会の議決、天皇の裁可という手続によって成立したものであるから、内容的に帝国憲法を全面的に変更したとしても、革命によ って成立した憲法ということはできないとする。 博士によれば、日本国憲法は天皇が制定されたものであるから「欽定憲法」というこ とになる。 また、博士は、右に見たバーンズ回答でいう「最終的の日本の政治の形態」の内容について、回答は何もいっておらず、その内容の決定については「日本国人」の自由に表明した意思に委ねているのであるから、ポツダム宣言受諾後も、帝国憲法は従来通り完全に有効であるとする。そして、回答にいう最終的な日本の政治形態の選択・決定は占領政策とは関わりなく、日本側の自由意思によってなされうるという。 改正説に対する疑問 この見解が立脚する憲法改正無限界論が妥当であるか否かについては議論があることを別としても、ポツダム宣言受諾後も帝国憲法が従来通り完全に有効だとする点には疑問がある。先のバーンズ回答が示しているように、現行憲法は「天皇及日本国政府ノ国家統治ノ権限」が「連合国最高司令官ノ制限ノ下ニ置カ レ」る状況で成立したのであるから、帝国憲法はその機能を停止していたと解さざるをえない。 ところで、主題とは若干それるが、ポツダム宣言とバーンズ回答については一言しておく必要がある。ポツダム宣言は、知日派とし て著名であったグルー国務次官が日本本土決戦を回避することを狙いとして起案したもので、わが国の主権喪失という意味合いを極力避けようとした意図が見てとれる。すなわち、同宣言は、@無条件降伏をするのは日本政府ではなく軍隊であり(一三項)、A日本の主権は本州、北海道、九州および四国等に限定され(八項)、B占領の対象は日本国領域内の諸地点で(七項)、C国民の間における民主主義的傾向の復活強化は日本政府の責任であり(一○項)、D平和的で責任ある政府が樹立されれば占領軍は撤退する(一二項)、と定めて いた。 この宣言を読むかぎりわが国は無条件降伏をしておらず、まして占領者が憲法の制定権を有するなどということは出てこない(6) 。 しかし、ここで動きがあった。まず、七月上旬、グルーの方針に批判的なバーンズが国務長官に就任し、ついで八月に行われた広島・長崎への 原爆投下とソ連の参戦によって日本の敗色が一層明確になった。ここに来て、アメリカ国務省はポツダム宣言に見られる慎重な配慮を捨て、宣言 には関わりなく無条件降伏の姿勢で臨もうとしていた矢先、わが国からの前記「国体護持」確認照会の申し入れが発せられた。バーンズは、これを 好機として前記の天皇および日本政府の統治権限は連合国最高司令官に従属する(subject to)という回答を示した。 バーンズ回答は明らかにポツダム宣言のラインを超えている。占領の対象を国内の諸地点としていたポツダム宣言と異なり、回答は天皇と日本政府の上にそれらを従属させる絶大な権力の存在を容認させるものであった。わが政府が、これを受諾した以上、占領期間中に帝国憲法が 従来通り有効に機能にしていたとすることは無理であろう。 右に見たように、八月革命説と改正説には無視できない重要な疑義が ある。このため、現行憲法が有効に成立したという前提に立った改正論 ー有効論に基づく「補修的改正論」ーには法理の上で無理があるといわ ざるをえない。 無効論 井上孚麿教授(7)、相原良一教授(8)などによって唱えられた説である。 この立場は、改正の時期や方法などを理由として現行憲法が無効であることを主張する。まず、第一に、帝国憲法が改正された時期はわが国の国家統治の権限が連合国最高司令官に従属している時期、すなわち 国家の統治意思の自由のない時期になされたこと、第二に、現行憲法の 成立過程の全般にわたって占領軍による「不当な威迫、脅迫、強要」が 存在したこと、さらに第三に、帝国憲法の改正は、占領者は絶対的な 支障がないかぎり占領地の現行法を尊重すべきことを明記するハーグ 陸戦法規(一九○七年)に違反していること、などを根拠に現在も現行憲法 は無効であるとする。 これとは論拠を異にする見解に、小森義峯教授の「非常大権説(9)」 がある。この立場は、ポツダム宣言の受諾と現行憲法の成立を、帝国憲法 三一条に定める天皇の非常大権の発動として説明する。つまり、ポツダム 宣言の受諾は天皇の非常大権の発動によってなされたものであるから、 それを原点として成立した現行憲法は「暫定基本法」としての性格を有 するに過ぎず、「憲法」としての性格を有しない。憲法としては、占領期間中といえども、あくまで「大日本帝国憲法」が厳存した。 ところで、 帝国憲法は占領下では「仮死」ないし「冬眠」の状態にあったが、 占領解除の時点において「法理上当然に非常大権の発動は解除され、 帝国憲法は完全に復原した」とする。教授によれば、今日でも憲法として はあくまで帝国憲法が厳存しており、日本国憲法は帝国憲法に矛盾しない限りにおいてのみ「基本法」として有効であるという。 無効論に対する疑問 無効論が指摘する憲法改正の時期、方法の問題と国際法違反の指摘は 説得力に富む。たしかに、統治意思の自由のないところに憲法の改正も 制定もあり得ない。成立過程を客観的に見る限り、占領軍による「不当 な威迫、脅迫、強要」があったことは事実である。 有効論に立つ論者が、昭和二一年四月、男女平等の普通選挙制度に よって行われた衆議院議員総選挙を強調し、第九○帝国議会において国民 の自由意思によって憲法の改正が審議されたなどと主張するのは、全く 事実を無視する議論である。なぜなら、今日では、すでに評論家江藤淳氏 の一連の労作(10)によって、当時GHQによって行われた徹底的な検閲の 実体が明らかになっているからである。 憲法の正統性を論ずる際、成立過程の事実を無視ないし軽視して、 成立した憲法の質や内容を問題とする「結果本位、実益本位」の考え方は、 結果さえよければ植民地支配さえ正当化するという不当なものである(11)。 この意味から、無効論は法理論として筋道の正しさを失っていない。 ただ、次のような批判は成り立つであろう。@強要あるいは強制が あったとしても、日本国民が最終的に自発的意思によってこれを受け 容れたとすればどうか。その場合には、現行民法九六条の「詐欺又ハ強迫 ニ因ル意思表示ハ之ヲ取消スコトヲ得」という法理、すなわち取り消さ ない限り強迫による意思表示も有効として扱われることにならないか。 A上記の「非常大権説」がその根拠とする帝国憲法三一条は、戦時または 国家事変の場合に軍隊の活動のために必要な限度内で法律によらずに 人民の権利・自由を侵害できることを定めた規定であり、憲法の全面停止 を意図した規定とは解釈できないのではないか、などがこれである。 これらの点はしばらくおくとしても、戦後五十余年間、今日に至るまで、 日本国憲法という法典が存在し、それが現実に法的拘束力をもって機能 しており、大多数の国民がこれを承認しているという厳然たる事実が 存在する。現実に拘束力をもっている法規範がなにゆえに効力がないのか。 無効論に投げかけられる疑問は、むしろこの点にあるといえる。この 無効論の弱点は、そのまま「復元改正」論や「無効破棄」論の弱点とな ろう。 占領管理法説 竹花光範教授の立場がこれである(12)。 まず、竹花教授は、ポツダム宣言および降伏文書に基づいて行われた 占領軍の日本統治は、間接統治の方式によったが、占領期間中、日本の 主権が連合国最高司令官の手にあったことは明らかだとする。すなわち、 占領下においては「占領軍の意思」が実質的には最高規範であり、 最高司令官の指示が憲法に優越したから、それが憲法の規定と矛盾する ときは憲法の効力が停止する状態となった。そうだとすれば、ポツダム 宣言の受諾により、帝国憲法はその法的性格を変えたと解さねばならない。 つまり、帝国憲法は、占領軍の占領施策に不都合でない限りにおいて 有効であるにすぎないものとなった。いわば、帝国憲法は一種の「占領 管理法規」に変質したとする。 さらに、教授は、憲法が国家の最高法規といえるのは、国家の法秩序 の中で最高の強制力を有するからであって、強制力の最高性が失われた 法規が「憲法」であるはずがないという。日本国憲法の成立過程も 「占領管理法」となつた帝国憲法を全面的に改めるという方式で行われた ということになる。 では、このような過程で成立した日本国憲法の性格はどのように 考えるべきか。教授は次のように述べる。憲法は、主権すなわち憲法 制定権力を行使して作られ改められるべきものである。憲法改正権は、 憲法に定められた条件の下にその行使が義務づけられている憲法制定権 と考えてよい。したがって、主権なくして(占領下に)憲法の制定も改正 もあり得ないということになる。とすれば、「日本国憲法」なるものは、 名称は「憲法」であっても、実体はポツダム宣言受諾後の帝国憲法と 同様、占領軍がわが国を占領統治するための基本法、すなわち 「占領管理法」だといわざるを得ない。 |
おわりに これまで見たように、八月革命説と改正説には事実に反するという
欠陥があり、無効論にも理論上の難点がある。このことは、主権を否定 された占領下に、占領軍の威圧、強制によって成立させられた現行憲法
の法的性格を合理的に説明することが、いかに至難の業であるかを、 間接的に証明するものである。
これらに対して、現行憲法を占領管理法として位置づける見解が比較的妥当な考え方といえよう。ところで、ポツダム緊急勅令等の一般の占領管理法は、占領の終了時 に失効したものとして廃止の手続がとられたが、日本国憲法のみは廃止の手続がとられずに、その後は最高法規としての効力をもち続けた。 この点をどのように考えるかは問題であろう。 竹花教授が指摘されるように、天皇を含む日本国民が日本国憲法に 対して「憲法」としての黙示の承認を与えたと見れば、昭和二七年四月 の独立回復時に、日本国憲法は法的性格を変えて主権国家日本国の正式 の「憲法」となったといえよう。この立場からすれば、日本国憲法の 改正は九六条の規定に基づいて「補修的改正」を行うことが筋ということ になろう。しかし、国民による明示の承認がないことを重視して、 あくまで占領管理法としての日本国憲法が今日まで継続施行されていると解すれば、国会においてこれの廃止措置を講じた後、新たに 「自主憲法制定」に進むことが筋であろう。 (1)宮澤俊義『憲法の原理』岩波書店、昭和四二年、三七五頁以下。 (2)清宮四郎『全訂憲法要論』法文社、昭和三六年、六五ー六七頁。 (3)佐々木惣一『憲法改正断想』甲文社、昭和二二年、九二頁以下。 (4)原文のsubject toは「従属・隷属スル」という意味であるが、当時 徹底抗戦を主張していた陸軍に配慮した外務省が「制限ノ下」と意図的 に誤訳したといわれる。 (5)佐々木『憲法学論文選(一)』有斐閣、昭和三一年。 (6)長尾龍一『思想としての日本憲法史』信山社、平成九年、一六六頁 以下参照。 (7)井上孚麿『憲法研究』神社新報社、昭和三四年、同『現憲法無効論』 日本教文社、昭和五○年。 (8)相原良一「現行憲法の効力について」公法研究一六号、昭和三三年。 (9)小森義峯「非常大権説の法理」(同『天皇と憲法(改訂新版)』皇學館 大學出版部、平成三年)、同『正統憲法復元改正への道標』国書刊行会、 平成一二年。 (10)江藤淳『一九四六年憲法ーその拘束』文藝春秋社、昭和五五年、 同『閉ざされた言語空間ー占領軍の検閲と戦後日本』文藝春秋社、平成元年。 (11)中川剛『憲法を読む』講談社現代新書、昭和六○年、四○頁。 (12)竹花光範『憲法学要論(補訂版)』成文堂、平成一○年、一一○頁以下、 同『憲法改正論への招待』成文堂、平成九年、七一頁以下。なお、 三潴信吾『日本憲法要論』洋販出版、昭和六一年、七三頁以下は、 現行憲法を「不確定期限附臨時基本法」と位置づけている。 |
(私論.私見)