428955 なぜ潰さねばならぬのかれんだいこ見解

 れんだいこは、小泉内閣の有事法制3法とメディア規制3法いずれにも反対である。しかしてその論拠をここに記したい。大方の反対意見とは少々観点を相違しているかも知れない。

 まず、有事法制そのものに対する見解は必ずしも反対ではない。ここがサヨ、左派見解と異なるところである。なぜ反対でないか。それは、物事には平常時と非常時(戦時)の識別が要るのが道理であるからである。国家で有れ政党で有れ組織であれ非常事態時の法制を整備しておくことは必ずしも愚昧ではないと考える。つまり、論理形式的には成り立つという観点が欲しい。

 では、なぜ、小泉内閣の法案上程に反対するのか。それは、本来の非常時用の論理と原理に貫かれた法案になっていないからである。どういうことか。それは、大和民族ないしは国家としての日本の自存の為の非常時立法ではなく、戦後憲法が卓越にも指針させている国際協調主義と平和主義の原理原則に真っ向から違背する【対米隷属法案でしかない】からである。

 同法第二条六の2のイには、「自衛隊の行動及びアメリカ合衆国の軍隊が実施する日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約(以下「日米安保条約」という。)に従って武力攻撃を排除するために必要な行動が円滑かつ効果的に行われるために実施する物品、施設又は役務の提供その他の措置」と、明確にアメリカとの連携で発動される「有事法制」であることが規定されている。

 我が国の防衛を考えるとき、残念ながら独立自存のそれは有り得ない。先の大戦の敗戦の然らしめるところである。その意味で、我が国土に現に存在する米軍基地の役割とその指揮下においてしか存在し得ない仕組みを語らない民族主義なぞ騙りでしかなかろう。あたかも国家主義的な見地からの法案賛成派は、一体先の大戦での敗戦の重みを何と考えているのだろう。

 しかも、その対米隷属形式の下で、従来の「極東有事」のテリトリーを一挙に乗り越え、地球の津々浦々にまで自衛隊を派遣する為の【危険極まりない、追って世界諸国から顰蹙を買うことしか出来ない結果が明白な盲動に誘われている法案でしかない】からである。

 ひとたび海外派兵を認めるや重石は次第に除されて来る。最初は国連軍の指揮下で非戦闘的なPKO軍としてであった。先の報復アフガン戦では実戦部隊としてであったが後方に位置した。次に来るのは実践前線部隊としてだろう。やがて米軍の負担を肩代わりする二人三脚旅へと向かうことになるであろう。こういう流れには歯止めが利かない。小泉は、如何なる痛痒も感じていないように見える。靖国の英霊と何を語っているのだろう。

 加えて、戦後という歴史的構造の質を理解せず、重度にアナクロな歴史観に基づき【我が社会の軍国体制総動員化を促進する法案でしかない】からである。幸いなことに、戦後の日本はこのくびきから解放されてきた。戦後における偏狭なナショナリズムからの脱却はまさに正の遺産である。他国では徴兵制が厳に存在する。我が国では存在しない代わりに恣意放縦が許されてきた。その弊害も有るが、徴兵制に復帰することで解決すべきではなかろう。

 以上から云える事は、有事法制という論理形式的には成り立つ研究課題が、こたび小泉内閣により上程されてきた法案は如何なるものなのか、精査されねばならないだろう。極めていびつに奇形化された形でしか貫徹し得ない機能し得ない危険愚昧な法案ではないのか。この認識の区別をせずに、国家有事の必要を説いたり不要論で反対論をぶってみても互いに空回りするしか無かろう。

 れんだいこ史観に拠れば、戦後とは、第二次世界大戦で疲弊した国家再建を廻っての経済戦争と技術開発競争の時代である。現代的にはこれに地球環境保全の為の協調づくりというベクトルが加わっている。我が国の敗戦から復興(吉田首相時代)、高度経済成長時代(池田首相時代)、列島改造計画(田中首相時代)とは、奇しくもこの【戦後の質=経世済民】を世界の中でどの国よりも嗅ぎ分けて即応させてきた偉大な時代であった。敢えて言えば、政権与党自民党ハト派系列がこれを牽引した。

 その遺産は、80年代のタカ派系中曽根内閣の登場以降食いつぶされてきたが、今又小泉内閣によって最後の駄目押しが為されようとしている観がある。奇妙なことに、今我らがもっとも頭を悩めねばならないのは、経済苦境からの打開、先進国中随一の泥沼雪達磨式国家負債重圧からの脱却であろう。アルゼンチン並みの国家破産の足音が次第にその音を高めつつある。

 ところが、これらとまったく没交渉な流れで有事法制3法とメディア規制3法が立法化されようとしている。このようなことが許されて良いことだろうか。それは戦前辿った歩みのリバイバルにしかならないのではなかろうか。決して乗ってはならない流れであり、この道はどうしても阻止せねばならない、そういう意味でそれこそまさに非常時事態的動きであると考える。

 なお、次の観点も添えておく。日本の戦後は、憲法のお陰で、産軍複合体の出現を阻んできた。案外とこのことが評価されていない。これは、我が社会のとてつもない財産である。如何に不況とはいえ、産軍複合体に侵されていない我が社会には処方箋さえ正しうすれば復元力があると考える。

 産軍複合体はそれほど恐ろしい病魔である。このビールスに冒されるや、社会の細胞組織は奇形化させられ、正常な営みが出来なくなる。戦後の冷戦構造時代、世界各国は資本主義圏、社会主義圏、開発途上国を問わずこの病魔にしてやられてきた。この間日本は、滅法有り難いことに軽武装国家として国土改造、産業革新に専念邁進することができた。そうして蓄えた富を大衆社会に還元し、あるいは又その一部を有償無償の開発援助資金として世界各国に散じることが出来た。この功績は我々が思っている以上に大きいものがある。

 この「正」の遺産を台無しにしようとしているのが、中曽根−小泉ラインの動きである。「大国としての国際的責務」論で、戦後の遺産がことごとく放擲されてきている。れんだいこにはそのように見える。我々は、タカ派系連中の口先の美辞麗句の裏に隠された空疎愚昧な精神を読み取るべきではなかろうか。我が社会には多くの自称インテリが居るにも関わらず、この歴史観、社会観が見えていないようだ。つまり、専門馬鹿ばかりではなかろうか。知恵の無いものが知識を集積すればこの程度にしかならないという標本のように見える。

 アメリカに追随して行けば事が足りる時代は終わった。なるほど今やアメリカは随一唯一の覇権国ではある。しかし、アメリカの内部もかなり深く亀裂している。しかし、アングロ・サクソン民族の懐の深さと怜悧さは、我々の又推し量ることの出来ない能力のうちにあり、自力復元力を持っているやに見受けられる。そこら辺りを思慮せずアメリカがやっていることだからと同様に国家債務を膨張させ、いつでもどこでもブッシュのいいなりになっておりさえすれば何とかなる、アメリカが面倒見てくれると考えるのは売国的な大間違いだろう。そういう軟い国際環境では無かろう。

 かく時代を読み取るべきであり、以上の観点から少なくともこたびの愚挙だけは堰止め封印せねばならないだろう。それが現代を生きる我々の歴史的任務であると考える。

(2002.4.24日れんだいこ)


 書ききれなかったが、軽武装国家の秀逸性を別途に考察しておこうと思う。今や世界は、重武装から軽武装へ向かって変貌しつつあるように見える。ソ連邦の崩壊は、このことを鋭くキャッチしたスラブ民族の叡智であった。今は産みの苦しみにあるが、社会の質的転換を遂げた後のロシアの国家的台頭は実に21世紀半ばには再び無視できなくなるだろう。EC諸国の国家的統合も概ねこの基本線に沿っているのではなかろうか。こう捉えるような歴史観が欲しい。

 こうしたトレンドの対極にあるのは、アメリカ−イスラエル−イギリス連合のように見える。この枢軸に日本が組み込まれようとしているように見える。我が国におけるタカ派系の論理と行動は、この戦略にすっぽりと乗っている。このことが正視されるべきだろう。このまま行くと恐らく日本は、米英軍の態の良い使い走り傭兵国家として世界各地の紛争への参戦化を余儀なくされていくのだろう。このカウンター勢力として、中国とアラブ諸国家が対峙していくように見える。果たして、どちらが悪の枢軸だろうか。こう捉えるような歴史観が欲しい。

 しかして中曽根−小泉連合が向かわせようとしている道は、かって靖国の英霊が夢想した大東亜共栄構想の真反対の対応であるが、靖国参拝を殊のほか好むこの一族郎党は毎年誰に何を誓おうとしているのだろうか。れんだいこには一向に整合しない。靖国神社を再度食い物にする輩であり、売国亡国の道への誘い人のように思えて仕方ない。こう捉えるような歴史観が欲しい。

 さて、本題に入る。上述のような国際環境の中で、国家財政に占める軍事防衛費の割合の適正をどのように考えるべきであろうか。(只今格好資料模索中に付き、以下略)