428951 | 「自衛隊史、有事法制立法化の歩み」 |
非力ながられんだいこが「自衛隊史、有事法制立法化の歩み」のアウトラインをスケッチしてみる。国民的常識にされておらねばならぬところであるが、分かっているようで分かっていない。この作法は一時万事に云えることで「自衛隊の歩み」もその例に漏れない。これでは議論が空回りするしかない。基礎資料作りとしてれんだいこが又も体を張る。最初のものはまだまだ不十分で公開するには恥ずかしいものであるが、それはそれ次第に肉付けしていきたい。 国家主権の見地から自衛隊をどう位置づけ処遇するべきか論は別の章でこれを考察するとして、その膨張過程には大きな疑義がある。不謹慎ながら分かりやすく云う為に「先っぽ理論」で例えてみる。次のように云えるのではなかろうか。ならず者の親分が、資産もあって働き者の器量良しの夫人に目星を付け、配下の男に口説きに行かせる。夫人は、この男の口八丁手八丁で次第に受け入れ態勢に入る。いよいよベッドインに及ぶ。その時のセリフが「いいだろ、ちょっとだけ」。そのうちだんだん気持ちが良くなる。もう二人にはどこまでが「先っぽ」か分からなくなる。とはいえ妊娠の不安がある女性はイヤイヤを繰り返す。そこで云うたセリフが「大丈夫。安全対策してるから」。こうして男のズンドコが始まった。しかし、やはり物足りないのだろう。ここにきてやおらこう云い出した。「テツカブトは余計じゃ、したかせんかったか分からんような煮えきらんやり方はすかん。ナマに限る」。 ここまでの経緯につき合意があるなら和姦、無ければ強姦であろう。さて、この後どうなるのだろうか。一つの可能性として、「突いて突いてつきまくれぇ」と絶叫調の咆哮がこだまし、その手が首絞め技に入ることが考えられる。あるいは夫人がやおら身を起こし、逃げて帰ることも考えられる。いずれにせよ、遂に事がここまで及ぶことになった。思えば遠くまで来たもんだ。 2004.6.12日 れんだいこ拝 |
(なかなか進まないがとりあえずサイトアップしておく)
【警察予備隊の創設】 |
1950.6.25日、朝鮮戦争勃発。7.8日、マッカーサー連合軍最高司令官の吉田茂首相宛書簡で、警察治安部隊の創設が示される。1980.8.10日、政令第260号により警察予備隊令公布、即日施行した。こうして「軍隊の卵」のようなものとして「警察予備隊7万5000名の創設、海上保安庁8000名」が創設され、これが今日の自衛隊の前身となる(50年警察予備隊→52年保安隊→54年自衛隊)。ジャーナリズムは、これを「逆コース」と喧伝した。 |
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【対日講和条約と日米安保条約の締結】 |
1951.9.8日、対日講和条約(サンフランシスコ平和条約)締結により日本は国際的に国家主権を取り戻した。世算であるが、通常これを独立と云うのに、おかしなことに日共は未だに独立とみなさず、「半占領状態にある従属国家」なる論を吹聴している。 それはともかく、対日講和条約(サンフランシスコ平和条約)調印の5時間後日米安全保障条約が締結された(発効は翌1952.4.28日)。同条約には、 「平和条約の効力発生と同時にアメリカ合衆国の陸軍、空軍及び海軍を日本国内に配備する権利を日本国は許与し、アメリカ合衆国はこれを受諾する」とあり、在日米軍が引き続き存続することになった。 |
![]() 対日講和条約と日米安保条約の締結は「不文律吉田ドクトリン」の精華であり、ここに戦後日本の総路線が敷かれたことになる。 |
【警察予備隊が保安庁に昇格】 |
1952年、ダレス国務長官が、朝鮮戦争の後始末の為の勧告訪問後に東京に立ち寄った。「日本は東南アジアの中心国として、もっと積極的な防衛努力をしてほしい。イタリアは、日本よりもはるかに共産圏から離れているのに、国民所得の7%を防衛費に使っている。日本はわずかに2%だ」、「保安隊を35万に増強せよ」と要求している。 1952年、海上警備隊が海上保安庁に組織される。8.1日、警察予備隊(保安隊に改組)と海上警備隊(警備隊に改組)を管理運営する総理府外局として保安庁が設置される。10.15日、警察予備隊が保安隊に改組された。 |
【朝鮮動乱が休戦するも自衛力漸増方針が確認される】 |
1953.7.27日、朝鮮戦争休戦協定成立。しかし、10.30日、日米会談で自衛力漸増の共同声明が出され、「日本を東アジアにおける反共の砦として活用する」国策が確認されている。これに基づき、1954.3.8日、日米相互防衛援助協定(「MDA」注4)調印。 |
【保安庁が防衛庁に改称、自衛隊の発足】 |
1954.7.1日、自衛隊法、防衛庁設置法が成立し、航空自衛隊、海上自衛隊、陸上自衛隊の三軍構成による自衛隊、防衛庁が発足した。 |
![]() 当時の米軍事顧問団幕僚長・フランク・コワルスキーは、著書「日本再軍備」の中で、「国際情勢のためとはいえ、理想主義的憲法を踏みにじり、国民がきっぱり放棄した戦力を再建せねばならなくなったのは悲しい」と述べている。れんだいこに云わせれば、「微妙な戦後情勢の谷間に咲いた束の間の白百合(蓮華国家)」の理想が破綻したことになる。 |
【「早くも兵器商戦始動」。自衛隊装備品を廻って、国産開発派と対米調達派が暗闘】 |
1955.2月、空幕が、国産ジェット練習機開発の「T1計画」を決定し、「新三菱重工、川崎航空機、富士重工、新明和興業」に開発を依頼。しかし、兵器の国産開発の動きが始まる他方で米国のロッキード社、グラマン社の売り込みも激化する。以降、この流れは強まることはあれ逆の無い不可逆的流れで進行することになる。 補足すれば、この動きに合わせて1959(昭和34).6月日本航空機製造が設立され、日本発の国産旅客機「YS−11」の製造に着手している。飛行機による大量輸送時代の到来に備えるという狙いであった。日本は戦争中、戦闘機の名機をあまた作り出したが、旅客機製造の経験が無かった。敗戦とともに日本は航空機研究と製造が禁止されていた。対日講和条約の発効ととも1952年解禁となった。かっての「飛行機野郎」が参集した。設計部長は東条英機首相の次男・照雄。隼の太田稔が企画部長、零戦の堀越二郎、紫電改の菊原静男は社外サポーター、飛燕の土井武夫、試作機「航空機」の木村秀政らが「五人のサムライ」と呼ばれた。 |
【「国連加盟】 |
1956.12月、国連加盟。 |
【国防会議が「国防の基本方針」を打ち出す】 |
1957(昭和32).5.20日、国防会議「国防の基本方針」を打ち出し、閣議決定される。6.14日、国防会議が「防衛力整備目標」(1次防)を決定し、閣議了解される。この国防会議の国防計画に合わせて兵器商戦が繰り広げられることになる。 |
【初の有事法制の体系的な研究が行われる】 |
1958.2月、自衛隊法制定三年半後、防衛庁・防衛研修所(現防衛研究所)の研究部長も務めた笹部益弘氏が「自衛隊と基本的法理論」を執筆。有事法制の体系的な研究に向けて言及した。 |
![]() 自衛隊が創設されれば、有事法研究に向かうのも必然である。しかし、戦後十余年のこの時期においては先の大戦の戦禍の爪痕が深く時期尚早として地下に潜行した。 |
【国防会議が次期超音速戦闘機の買い付け発表。グラマン社とロッキード社が激烈な商戦開始】 |
1958(昭和33年).4月、国防会議は、次期超音速戦闘機をグラマン社から購入することを内定。6月、国防会議は、先の内定を白紙撤回し、再調査することを決定する。11月、国防会議は、次期超音速戦闘機をロッキード社から80機購入することを内定。 この時の自衛隊次期防衛戦闘機選定経過が疑惑に包まれている。岸首相は当初はグラマン選定を支持していたが、最終局面になって総理大臣の権限と一存でロッキードのF104にどんでん返しで決めた。この時、 ロッキード側の日本商社とロッキード社から岸に巨額の金が渡っていたという話しが伝えられている。後の田中角栄のロッキード疑獄以前のしかも一けた違いの巨額疑獄であり、これが問題にならなかったのが不思議。山崎豊子の小説「不毛地帯」はこの疑惑をモデルに書いたといわれている。 |
![]() 国防会議が次期超音速戦闘機をグラマン社から購入することを内定していたものが白紙撤回され、ロッキード社から買い付けすることに変更した経緯は明らかにされていない。既にこの頃、「自衛隊の装備品調達を廻る利権構造」が発生していたことは誰しも見て取れよう。 |
【60年安保闘争と自衛隊出動の可能性】 |
日米安保条約改定阻止闘争いわゆる60年安保闘争が激化し、時の首相・岸は、自衛隊出動要請寸前であったことが判明している。岸首相はアイゼンハワー大統領の訪日に固執し、防衛庁長官赤城宗徳を南平台の私邸に呼んで自衛隊の出動を要請した。赤城はこれに反対し、内閣不一致をさらけ出した。当時の自衛隊陸上幕僚長杉田一次は、陸幕が「アイゼンハワー大統領訪日に伴う処理要綱(案)を完成し、大統領訪日に際し、諸行事にいささかも齟齬を来たさないような態勢ができつつあった」と、治安出動を含めた諸準備が為されていたことを明らかにしている。 |
![]() 60年安保闘争の昂揚時に、岸首相が自衛隊出動を要請したという史実は、それは幻に終わったとはいえ、自衛隊の治安対策的役割を如実に語っていよう。 |
【日米安保条約改定される】 |
1960.1.19日、日米安全保障新条約(「新日米安保」)が調印され、1960.6.18日、自然成立した。1951年の日米安保条約(旧条約)の対米従属的性格を対等のパートナーシップに基づく条約へと改定したところに意味があった。安保条約の改定は、日本の独占支配層がその帝国主義的自立化に対応させて、アメリカとの政治的.軍事的関係を再調整し、より自立性を持つ形で同盟関係を結ぼうとする要求に基づくものであった。アメリカ側は、日本を極東の戦略的中心に据え、アジアでの対共産圏の基地にしようとはかっていた。 この改定は、8年前の条約締結の単なる継続や再確認でなかった。@・自らの国会意思として日米軍事同盟を選択したこと。A・国土への米軍の半永久的基地化。B・日米軍事同盟に即しての日本の軍事力の増強、C・日米共同作戦の義務、D・経済面での対米協力義務等々において一層強固にしたことになり、タカ派的な政策選択であった。 |
【陸上自衛隊が増強される】 |
1961(昭和36年)年、陸上自衛隊が13個師団へ改編される。 |
【防衛施設庁発足】 |
1962.11.1日、防衛施設庁発足。 |
【自衛隊制服組による「三矢研究」暴露され問題となる】 |
1963・2月から6月にかけて、自衛隊の統合幕僚監部(俗に、制服組)により防衛庁内で、「第2次朝鮮戦争を想定した自衛隊の対米軍事協力、在日米軍の対応、国家及び国民の総動員体制確保のための法整備等についての秘密研究」が行われた。「昭和38年度統合防衛図上研究」(俗に「三矢研究」と云われる。「資料『三矢研究』一部抜粋」参照)がそれで、全部で1419ページにもなる大がかりなもので、「戦時立法の百科全書」とも呼ばれている。 「三矢作戦研究」の統裁官で統合幕僚会議事務局長だった田中義男陸将は、「三矢作戦研究は、ずっと遠い将来の防衛計画や国家の施策に役立たせるための研究だった」と証言している(2002.4.22日「しんぶん赤旗」の内藤功弁護士談話)。 1965.2.10日、衆議院予算委員会で「三矢研究」の存在が暴露され政治問題化した。マスコミがこれを大きく取り上げ、「言論統制を含む非常時立法の検討は戦時中の軍の思想につながる」と批判キャンペーンした。 その内容は、@・朝鮮半島における武力紛争の発生を想定し、米軍と自衛隊との協力支援ならびに共同作戦の研究。A・日本国内での戦時立法・戦時体制の確立の研究、という二本柱から考察されていた。これら国家総動員法を想起させる物的・人的動員の研究が「非常事態措置諸法令の研究」の名のもとに行われた。 朝鮮半島において北朝鮮と中国が韓国を侵略したという想定で、日米共同で北朝鮮・中国・ソ連と戦うという作戦の研究が為されていた。戦前、戦中の諸法令をもとにして、現行の憲法で何ができるのか、逆に何ができないかを分析され、核兵器の日本への持ち込みや自衛隊の海外派兵まで検討されていた。 具体的には、日本防衛について、「作戦調整所」つまり日米統合司令部を設け、在日米軍司令官が指揮するとされた。この方向付けが後に「日米防衛協力の指針(=ガイドライン)」として確立していくことになる。 特に問題となったのは、87もの「戦時諸法案」を制定して「国家総動員体制」へ移行させるという部分で、それを2週間で成立させ、急を要するものは委員会審議を省略していきなり本会議にかけることになっていた。“戦前・戦中のような”徴兵制、戒厳令、国家総動員法はできないが、それ以外はほとんど全部、「公共の福祉」の概念を拡大することによって可能である、という内容であった。その後の政府見解が「公共の福祉」を唯一のよりどころとして論を展開するようになったのはこの事情による。 |
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【防衛庁第3次防衛力整備計画原案が発表され、航空機商戦が演ぜられる】 |
1966(昭和41).4月、防衛庁が第3次防衛力整備計画原案(「3次防」)を発表。超音速戦闘機F−104Jの後継機としての新型超音速戦闘機FXの選定が始まる。調査団が欧米に数次派遣され、1969年(昭和44).1月、国防会議は、FXをマクダネル・ダグラス社のF−4EJに決定。104機発注。この年、海上自衛隊の輸送機をダグラスR4D−6から国産のYS−11Mに転換。 |
【「続・三矢研究」為される】 |
1966年には防衛庁内局、法制調査官の研究が行われた。これは「三矢作戦研究」を内局のシビリアン(文民)の立場でチェックし、36本の法令に絞って検討されたものである。 |
【「3次防主要項目閣議決定」される】 |
1967(昭和42)年、「3次防主要項目」閣議決定される。 |
【「新日米安保」自動延長される】 |
1969(昭和44).11.21日、日米共同声明(佐藤首相・ニクソン大統領、安保条約継続・72年沖縄返還が決まる)。70年安保闘争が展開されたが、戦術的に過激化しただけで60年安保闘争時の昂揚が起こらぬまま、1970.6.23日、日米安全保障新条約が自動延長となる。60年安保闘争時の自衛隊出動危機を予想していた三島由紀夫氏は、1970.11.25日、陸上自衛隊東部方面総監部で割腹自殺。 |
【第1回防衛白書「日本の防衛」発表される】 |
1970(昭和45).10.20日、第1回防衛白書「日本の防衛」発表される。1972.10.9日、国防会議が「文民統制強化の措置」などを決定、閣議決定される。1974.4.25日、防衛医科大学開校。 |
【三島由紀夫の「**事件」】 |
1970(昭和45).11、三島由紀夫事件。 |
【「4次防」閣議決定】 |
1972(昭和47)年、「4次防」閣議決定される。 |
【「平和時の防衛力」発表】 |
1973(昭和48)年、「平和時の防衛力」発表される。 |
【政府与党ハト派の「自衛隊日陰者政策」】 | ||||||||||
しかし、その後の日本を規定したものは戦後復興であり、「戦後は終わった」宣言後も内政重視型高度経済成長政策であった。この間、自衛隊は「日陰者」的地位に甘んじ、その予算は、「GNP1%枠」にタガはめされ続け「「1%枠軍隊」にとどまる。これを指導してきたのが政府自民党内主流派を形成したいわゆるハト派政治であった。 だが、高度経済成長政策は成功し、日本は世界史上稀なる発展を遂げた。こうなると「GNP1%枠」にせよ、その軍事防衛予算も膨大なものになる。更には、経済成長一辺倒ではなく大国としての国際的責任論が持ち上がり始め、「不文律吉田ドクトリン」の限界点に達する時代がやってきた。 「不文律吉田ドクトリン」を後継した池田、佐藤、田中、大平、鈴木内閣のハト派系の「戦後日本の安全保障政策」は、次の原則から構成されていた。
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【「ロッキード事件勃発」】 |
1976(昭和51).2.4日、米国上院外交委員会の多国籍企業小委員会(民主党のチャーチ上院議員を長とする「通称チャーチ委員会」)の公聴会証言で、ロッキード社の会計監査に当たった会計士W・フィレンドレーによってロッキード社の対外秘密工作が漏洩され、
「ピーナッツ100個(暗号領収書、ピーナッツ1個は100万円で、100個は1億円)などロッキード社不法献金の証拠資料」となる公聴記録が突如発表された。 フィンドレーは、「米ロッキード社が新しく開発したジャンボジェット機L1011トライスター航空機売り込みのため巨額の工作資金を日本、ドイツ、フランス、オランダ、イタリア、スウェーデン、トルコなどに流していた」こと、概要「ロッキード社は日本の全日空にトライスター機を売り込むに当たって、その裏金を政商・小佐野、右翼の大物である児玉誉士夫、総合商社の丸紅を仲介として、政府高官たちに1千万ドル(当時の円換算30億円)の工作資金を流した。うち708万5000ドル(当時のレート換算で約21億円相当)が児玉に秘密コンサルタント料として渡った」と証言した。 2.6日、ロッキード社のアーチボルド・カール・度コーチャン社前副社長が同じ委員会での公聴会尋問に答えて、概要「児玉に払った21億円のうち、いくらかが国際興業社主小佐野賢治に渡ったと思う。我が社の日本での代理店丸紅の伊藤宏専務に渡った金は5億円であり、日本政府関係者複数に支払われた。そうした支払いの必要性を私に示唆したのは丸紅会長の桧山広か、専務の大久保利春だった」。 この爆弾証言が、ロッキード事件の幕開けとなった。米国SEC によるロッキード社の極秘賄賂工作の暴露は、電波に乗せられたちまち全世界に報道された。この結果、当時の政界を牛耳っていた前首相・田中角栄氏の逮捕へと発展し、田中氏は「ロッキード裁判」に忙殺されていくことになる。 |
【ソ連(現ロシア)のミグ25が北海道の函館空港に強行着陸】 |
1976(昭和51).9.6日、ソ連(現ロシア)のミグ25戦闘機が、北海道の函館空港に強行着陸。 |
【国防会議が「防衛計画の大綱について」発表】 |
1976.10.29日、」国防会議「防衛計画の大綱について」を取りまとめ閣議決定される。「当面の防衛力整備について」閣議決定。 |
【国防会議が次期対潜哨戒機、輸送機を発注】 |
1976(昭和51).1月、次期主力戦闘機機種選定作業が始まり、 12月、F−15が決定する。1977(昭和52).8月、防衛庁は、次期対潜哨戒機をP−3Cに内定。12月、国防会議が、対潜哨戒機にP−3Cを制式採用。1981年(昭和56)年、この年、ロッキードC−130H輸送機4機を発注。1982(昭和57).7月、国防会議でF−15Jの10年間100機生産を155機に修正する。 |
【福田首相が有事立法の研究を指示】 |
1977年、福田首相が防衛庁(三原前防衛庁長官)に「日米防衛協力の指針(=ガイドライン)」研究を指示。1977.8月、防衛庁が有事法制研究に着手。 1978(昭和53)年の福田内閣の時代には、防衛庁官房長の竹岡勝美氏が八項目に整理して有事の研究を始めたと発表した。 |
【現職統幕議長・栗栖氏が、有事の際の超法規的措置について言及、批判を浴び更迭される】 |
1978.7月、栗栖弘臣統幕議長、「超法規的措置」について言及(「栗栖発言」注2)栗栖弘臣統幕議長が週刊誌「週刊ポスト」掲載のインタビュー記事の中で、諸外国から奇襲があった場合、防衛出動命令が下されるまでの間は現行自衛隊法制に不備があるため、有事の際には超法規的行動を取らざるを得ないという趣旨を発言。現職統幕議長の発言としてはシビリアン・コントロールの観点から不適当とされ、栗栖統幕議長は更迭された。 |
【「日米防衛協力のための指針」(「旧ガイドライン」)研究の流れ】 |
1978.9.21日、防衛庁が、有事法制研究のあり方・目的等を公表。「現在、防衛庁が行っている有事法制の研究は、シビリアン・コントロールの原則に従って、昨年8月、内閣総理大臣の了承の下に、の指示によって開始されたものである」とする政府見解=旧「日米防衛協力の指針(=ガイドライン)」が発表された。 |
【福田首相が「有事法制の研究の必要」を発言】 |
1978(昭和53).10.9日、福田首相が、参議院・予算委で、「有事法制の研究の必要」について次のように述べた。「自衛隊が何のために一体あるのだ、これはもう有事のためにこそあるわけなんでありますから、その有事の際に自衛隊がその与えられた任務を完全に遂行できる、こういう体制に置かれなければならない。その体制はいかにあるべきかということ、これについて検討するということは、私はもう当然だというよりは、これは政府、防衛庁、自衛隊の責任である、義務である、このように考えておるわけであります」。 |
【航空自衛隊が初の日米共同訓練、海上自衛隊、陸上自衛隊も続く】 |
1978(昭和53).11.27日、航空自衛隊、初の日米共同訓練を実施。「日米防衛協力のための指針」 閣議において了承。 1980.2.26日、海上自衛隊、「リムパック(注1)」に初参加。1981.10.1日、陸上自衛隊、初の日米共同訓練(通信訓練)。 |
【「ダグラス・グラマン事件勃発」】 |
1979.1.9日、トーマス・P・チータム米グラマン社前副社長が、同社の早期警戒機(E2C)対日売り込みに関連して、疑惑の政治家名を明らかにして、岸、福田、松野、中曽根の4名を挙げた。捜査当局がダグラス・グラマン疑惑の解明に動くことになった。第二次ロッキード事件として大騒ぎとなった。 1.9日<東京地検特捜部はこのダグラス・グラマン両社の航空機売りこみにからむ疑惑について法務省に米側資料の入手を要請、捜査を開始した。捜査の中心は、両社の販売代理店である日商岩井であったが、2月1日、グラマン疑惑の重要人物であり、東京地検に召還されていた日商岩井島田三敬(みつたか)常務が東京・赤坂のビルから飛び降り自殺し、捜査は難航する。 1.30日、通常国会再開。冒頭からダグラス・グラマン疑惑で荒れた。衆院ロッキード問題調査特別委員会が「航空機輸入調査特別委員会」と改称された。特別委員会は、ダグラス・グラマン疑惑はもちろん、民間機、航空機の売り込みにかかわる、すべての疑惑を調査することになった。野党は、岸・松野らの証人喚問を要求したが拒否した。日商岩井の植田三男社長、海部八郎副社長らが喚問となった。 2.9日から国会(衆院予算委員会)で疑惑解明の集中審議を開始、防衛庁に強力な影響力を持つ岸信介元首相と太いパイプで結ばれた日商岩井の植田三男社長・海部(かいふ)八郎副社長らと松野頼三元防衛庁長官を証人喚問した。 参院予算委で航空機疑惑集中審議最中の4月2日には海部が外為法違反容疑で特捜部に逮捕されるが、この時、伊藤栄樹法務省刑事局長(1925年2月名古屋市の生まれ。学徒出陣で海軍に入隊。戦後の司法修習生の1期生で、1949年に検事任官。東京地検特捜部検事、法務省人事課長、東京地検次席検事、法務省刑事局長、事務次官、東京高検検事長などを経て、1985年12月に検事総長に就任。1988年3月24日、病気のため任期を約2年残して退官した)は、「捜査の要諦(ようてい=肝心なところ)はすべからく、小さな悪をすくい取るだけでなく、巨悪を取り逃がさないことにある。もし、犯罪が上部にあれば徹底的に糾明し、これを逃さず、剔抉(てっけつ=あばき出すこと)しなければならない」と述べ、政界中枢への波及を示唆した(「巨悪を逃さず」はこの年の流行語なる)。 4.16日、検察側の総指揮官であった検事総長が定年で神谷尚男から辻辰三郎に交代した。神谷は「サヨナラ記者会見」で「検察の捜査力はまだまだ頼むに足る。私は事件途中で去るが、背後に検察の意気込みを感じながらやめるのはうれしい」との言葉を残した。 結局、同社から総額5億円を受け取った松野元防衛庁長官(79年7月に議員辞職。10月の総選挙でも落選)が“灰色高官”として浮上しただけで、捜査中に明らかになったダグラス社と元首相のかかわりが示唆する内容が記されていた「海部メモ」に名前の出た岸信介元首相については、検察側の事情聴取もなく、また証人喚問すらなされず、捜査は79年5月に未解明のままで打ち切られた(刑事訴追を受けた政治家はゼロ)。 |
【「ハト派タカ派のせめぎあい時代」】 |
しかし、ハト派の総帥田中角栄が「金権政治批判」で内閣総辞職を余儀なくされ、「ロッキード事件」で羽交い絞めされて以降、ジリジリとタカ派が台頭してきた。政権与党としての70年代の自民党政治は、「田中、大平、福田、中曽根、三木」の5派閥で仕切られてきたが、最大派閥田中派が混迷し始め遂に分裂しその主流は竹下派へ移行する。大平派はハト派対タカ派の党内抗争に翻弄され急死、後釜の鈴木は頼りなくやがて宮沢派に移行するが、優柔不断の官僚政治しか為しえずジリ貧化する。かくて、福田派と中曽根派に出番が回ってきた。しかし、福田派は大平派と相打ちし、80年代初頭遂に中曽根派が漁夫の利を得て天下取りに成功する。 |
昭和54年 中・越紛争。
「53中期業務見積」発表。
ソ連、アフガニスタン侵攻。
昭和55年 海上自衛隊、リムパック参加 。
イラン・イラク戦争開始。
【中曽根政権の自衛隊浮上政策】 |
中曽根の登場により、「内向きの政治から大国としての国際責任政治」への意向が呼号され始め、それまで日陰者であった自衛隊の表舞台化、「GNP1%枠外し」、憲法改正、自衛隊の海外派兵化が促進され始める。以降、この流れが本流となり、21世紀初頭の小泉政権の登場により激流化する。自衛隊はもはやシオニストの傭兵化し、公然武装式海外派兵に転じ、連合国軍指揮下で参戦化しつつある。 |
【「有事法制研究の中間報告」】 | ||||||||||||
1981(昭和56).4.22日、有事法制研究の中間報告が発表された。それによると、研究対象が
各区分の検討状況として、「現段階においては、第1分類についてはかなり検討が進んでいるが、第2分類については他省庁との調整事項等も多く、検討が進んでいる状況にはなく、第3分類については未だ研究に着手していない」と報告されている。これらの研究によって、現行法令に基づく法令の未制定の問題が明確にされ、様々な角度から必要な政令とこの政令に盛り込むべき内容についての検討が進められていることが明らかにされた。「今回まとめた内容にさらに検討を加えるとともに、未だ検討が進んでいない分野について検討を進めていくことを予定しているところである。なお、今回の報告で取り上げた問題点の今後の取扱いについては、有事法制の研究とは別に、防衛庁において検討するとともに、関係省庁等との調整を経て最終的な決定を行うこととなろう」とコメントされている。 1981年、第1次中間報告(第1分類)。1984年、第2次中間報告(第2分類)。 |
その後、防衛庁は問題点を整理し、防衛出動を命じられた自衛隊が任務を遂行する上で、自衛隊法に不備はないのか、あるとすればどういう点か、についての研究を更に深めていくことになった。これが今日の有事立法提出につながる基礎になる。 |
こうした地下水脈での研究が精力的に為されているにも関わらず、「『三矢作戦研究』以来39年、福田内閣以来24年も法案の国会提出ができないまま推移したのは、平和憲法と国民世論の力です」と自賛するのが共産党中央見解である。凡そ史実に則さない欺瞞的見解でしかなかろう。 |
1983.1.14日、政府、対米武器技術供与の途を開くことを決定。 |
1983.9月、大韓航空機撃墜事件。
(空)初の日米共同抱揮所訓練。
昭和59年 (海)初の日米共同指揮所訓練。
日航機墜落事故に対する災害派遣。
1985.9.18日、「中期防衛力整備計画」国防会議・閣議決定。
1985.12.27日、対米武器技術供与実施細目取極締結。
昭和61年 チエルノブイリ原発事故。
(陸)初の日米共同統合実動訓練。
「安全保障会議設置法」成立。
1987.8.26日、「国際緊急援助隊派遣法」成立。
昭和62年 「今後の防衛力整備について」 安保会議・閣議決定。
1988.11.29日、.航空自衛隊の次期支援戦闘機「FS−X」共同開発に関する日米政府間の交換公文及び細目取極署名。
1989.1.27日、「防衛力検討委員会」設置。
1989(平成元年)11月ベルリンの壁崩壊。同12月マルタにおける米ソ首脳会談での東西冷戦終結の確認。
ソ連アフガニスタンから撤退完了。
天安門事件。
米ソ首脳会議(マルタ島) 。
冷戦期は専守防衛の枠内で日米安全保障条約に従って在日米軍の日本防衛機能を補完する役割を負った。1990年代からは国際協力の目的で、海外派遣が試みられはじめている。 |
【湾岸危機発生、政府の対応】 |
1990(平成2).8月、イラク軍がクウェートに侵攻。湾岸危機発生。8.30日、政府、湾岸での平和回復活動に対する10億ドルの協力を決定。 10月、第119国会に政府は国際連合平和協力法案を提出したが、この法案は審査未了のまま廃案となった。 |
1990.10.3日東西ドイツが統一、ドイツ連邦共和国が誕生。
1990(平成2).12月、「中期防衛力整備計画(平成3年度〜7年度)」決定。早期警戒管制機×4機の整備を規定する。 |
【湾岸戦争勃発】 |
1991(平成3).1月、湾岸戦争勃発。多国籍軍がクウェートに侵攻したイラク軍を攻撃、地上戦に突入。 1991.1.14日、「在日米軍駐留経費負担に係る新特別協定」署名。 1991.1.25日、「湾岸危機に伴う避難民の輸送に関する暫定措置に関する政令」閣議決定。 同3月、第120回国会で湾岸地域平和回復活動支援の財源確保法案が成立し、90億ドルの追加支援を決定。さらに人的貢献として、同年4月、ペルシャ湾の機雷除去のため海上自衛隊掃海部隊を、自衛隊法第99条の規定に基づき派遣した。 4月、停戦合意。 4.26日、初の海外派遣。ペルシャ湾へ海上自衛隊の掃海艇など六隻派遣。 |
【PKO法案】 |
1991(平成3).9月、宮沢内閣は、第121回国会で、政府は国連の平和維持活動や人道的な国際救援活動に日本が本格的に参加するために国内体制を整備することを目的として国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律案(PKO法案)を提出した。同法案は以降、一つの法案審議としては異例の三国会にわたる審議が行われることになり、難産の末1992(平成4)・6.15日、自公民3党で可決、社党、社民連は欠席という形で成立した。このPKO法による自衛隊派兵。 第121回国会では衆議院継続審査。第122回国会では衆議院通過、参議院継続審査。第123回国会では、衆参両院でこれに反対する社会党、共産党等の牛歩戦術の展開により徹夜国会となり、参議院では五日間に及ぶ本会議の末、修正議決、衆議院でも四日間に及ぶ本会議となった。 国会の審議では、法案と憲法との整合性、国会承認の是非、PKF参加五原則、平和維持活動本体業務の凍結等の問題に焦点が当てられ、最終的には自衛隊の部隊等が行う一部の平和協力業務については国会の承認を要すること等、政府提出法案に修正が加えられた。 社会党(137名)、社民連(4名)の全衆院議員計141名は法案の成立阻止を目指し、議員辞職願を桜内衆院議長に提出した。政党がまとまった形で議員辞職願を提出するのは現行憲法下では初めてで、社会党・社民連の強硬な反対姿勢が歴史に刻印されることになった。国会は、その扱いをめぐって調整に手間取り、午前10時開会予定の衆院本会議が大幅に遅れた。桜内衆院議長は、議員辞職願を受理せず、議長預かりで宙に浮くことになった。衆院議院運営委員会理事による政党間協議が開かれたがここでも、受理できないとする自公民三党と、先議案件として本会議での処理を求める社会党が対立した。中西啓介議運委員長は、事態の打開をはかるため、各党間のハイレベル協議の開催を各党に打診したが、自公民三党は、本会議開会前の協議を拒否した。 桜内議長は同日夕、田辺社会党委員長、江田社民連代表を国会内の議長室に招き、@・辞職願は、事態が正常化するまで預かる。A・午後5時半から衆院本会議を開き、並行して国対委員長会談を開く。B・党首会談を、PKO法成立後に開く、との考えを表明。社会党は、辞職願の処理を求めて、この要請を受け入れず、衆院本会議を欠席する方針を決め、社民連も同調した。自公民三党は、この間、幹事長・書記長会談を開いて、議員辞職願を議長預かりにしたまま、同日中に本会議を開いてPKO法案を処理する方針を確認した。 社会党は6.16日夜、都内で、PKO法に反対する全国集会を開くのをはじめ、議員辞職願の提出を背景に、衆院解散・総選挙を求める運動を展開する方針。しかし、宮沢首相は、解散には応じない姿勢を示しており、会期を残しながら、事実上、参院選に向けた各党の対応に拍車がかかることになるとみられる。
衆院本会議は6.15日午後5時半すぎから開かれた。社会党、社民連議員は本会議を欠席した。林義郎・衆院国際平和協力特別委員長の報告後、発言時間制限動議を起立採決で可決、質疑、討論(自公民三党は賛成、共産は反対)を行い、PKO法、国際緊急援助隊派遣法改正を一括して記名採決に入った。共産党は牛歩投票した。この結果、両法は、同8時29分、投票総数346、自公民三党など賛成329、共産党と進民連の田川誠一氏の反対17で、可決、成立した。 |
10.9日、国連のイラク化学兵器調査団に初の自衛官派遣。
1991.12.17日、「ソ連邦崩壊」。ゴルバチョフ・ソ連大統領とエリツィン・ロシア大統領がソ連邦の年内消滅で合意。12.25日、ゴルバチョフ大統領辞任、ソ連が崩壊。独立国家共同体(CIS)発足。
1992(平成4).2月、早期警戒管制機の機種について再調査・検討。12.26日、早期警戒管制機をE−767に決定。
1992.6月、国連平和維持活動(PKO)協力法成立。
1992.9.17日、国連カンボジア暫定機構(UNTAC)へ自衛隊のPKO部隊等を派遣。
1992.5.11日、国連モザンビーク活動(ONUMOZ)へ自衛隊の部隊等を派遣(第1次カンボディア派遣)。
1993(平成5).3月、北朝鮮がNPT脱退宣言。核開発疑惑と半島危機。
平成5年 モザンビーク派遣輸送調整中隊派遣。
北海道南西沖地震災害に対する災害派遣。
マーストリヒト条約発効。
1993.5月、北朝鮮、日本海に向けてノドン・ミサイル試射。
1994(平成6).6月、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の核開発疑惑をめぐる危機がカーター元米大統領の訪朝で回避。
1994.7月、社会党委員長の村山富市首相が自衛隊容認。
防衛問題懇談会発足。
1994.9.17日、ルワンダ難民救援を目的にザイールへ自衛隊の部隊等を派遣。
1995.1月、阪神大震災で災害救援活動。
阪神・淡路大震災に対する災害派遣。
1995(平成7).2.27日 「東アジア戦略報告」(Nye Report)。
1995.3.20日、地下鉄サリン事件に伴う災害派遣で陸上自衛隊・化学防護隊が出動。
1995年11月20日 村山ーゴア米副大統領会談。*SACO(沖縄に関する特別行動委員会)設置合意。
「特措法」成立
【「新防衛計画大綱」閣議決定される】 | ||||||||||||||
1995.11.28日、「新防衛計画大綱」閣議決定、発表される。
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「中期防(平成8年〜11年)」閣議決定。
ボスニア平和協定調印。
1996.1.31日、国連兵力引き離し監視隊(UNDOF)へ自衛隊の部隊等を派遣。
平成8年 第1次ゴラン高原派遣輸送隊派遣開始 。
「日米安全保障共同宣言」発表 。
「日米物品役務相互提供協定」公布。
自衛艦初の訪露。
1996年2月23日 橋本首相訪米 普天間基地返還要請。
1996年4月12日 橋本−モンデール米駐日大使会談。*普天間基地返還合意。
1996年4月15日 ACSA(日米物品役務相互提供協定)締結。
1996.4.17日、日米安保共同宣言。橋本−クリントン米大統領会談(東京)、橋本四項目(1996年5月13日発表)。橋本龍太郎・クリントン会談で冷戦後の日米安保の役割を再定義した「日米安保共同宣言」(旧ガイドライン見直し)発表。 |
1996.12.2日、SACO最終報告 日米安全保障協議委員会で了承。
1996.12.13日、第1回日露防衛当局間協議。
1997.7.12日、カンボジアにおける武力衝突に際し、航空自衛隊C−130輸送機をタイに派遣。
平成9年 ナホトカ号海難事故に対する災害派遣。
「日米防衛協力のための指針」見直し。
1997.9.23日、「新ガイドライン」(「日米防衛協力のための指針」(ガイドライン)))策定、日米合意。周辺事態での協力を盛り込む。日米安全保障協議委員会了承。 |
1998.3.26日、即応予備自衛官制度の導入。
インドネシアにおける暴動に際し、航空自衛隊C−130輸送機をシンガポールに派遣。
1998.8.31日、北朝鮮によるテポドン発射事件。北朝鮮の弾道ミサイル「テポドン」が日本上空を通過。
1998.11.15日、陸・海・空3自衛隊初の統合演習を硫黄島で実施。
1998.11.19日、「防衛調達改革の基本的方向について」を公表。
1998.12.22日、情報収集衛星の導入について閣議決定。
1998.12.5日、「弾道ミサイル防衛に係る日米共同技術研究について」安全保障会議了承。
1999.3.24日、能登半島沖の北朝鮮工作船事件。能登半島沖で発見された不審船舶に対処するため、海上における警備行動を発令。初の海外警備行動で警告の爆弾を投下。
1999.5月、日米防衛協力の新指針(ガイドライン)関連法成立。1999.5.28日、「自衛隊法一部改正法」(在外邦人等の輸送)公布・施行。
1999.8.16日、弾道ミサイル防衛(BMD)に係る日米共同技術研究に関する日米政府間の交換公文及び了解覚書署名。
1999.8.25日、「周辺事態安全確保法」施行。
1999.9.23日、トルコ共和国における国際緊急救助活動に必要な物資輸送のため自衛隊を派遣。
1999.12.27日。防衛庁、海上保安庁と「不審船に係る共同対処マニュアル」を策定。
【「周辺事態法関連法」成立】 |
1999.5.24日、「周辺事態法」関連法が、自自公の3党の賛成多数により成立した(「新ガイドライン関連法成立」)。これにより、「周辺事態」が起きた際に、日本が米軍を支援する枠組みが決められた。要するに米軍の作戦遂行に日本国民も自治体も協力しなさいという法案である。だが、「非常事態」の定義が曖昧なたため、今後に問題を残すことになった。 |
【「盗聴法案」、「国民総背番号制法案」成立】 |
1999.5.28日「盗聴法案」(「組織犯罪対策法案=通信傍受(盗聴)法案」)関連法が、衆院法務委員会で可決され、自・自・公の3党の賛成多数により6.1日衆院通過、8.12日参院通過し成立した。続いて、住民基本台帳法の改正案(「国民総背番号制法案」)も同様に参院本会議で可決・成立した。 「一般市民はこの法律とは無関係だから、決して盗聴されることはない」などと政府・自民党などは説明しているが、それはとんでもない大うそだ。盗聴の範囲や対象はどこまでも際限なく広がる。本人の知らないところで会話や通信が筒抜けになる危険性は極めて高い。 |
【「国旗・国歌法」成立】 |
1999.8.9日、こうした一連の重要法案のなかでも象徴的な位置にあった「国旗・国歌法」が圧倒的多数(166対71)で正式に成立。 |
【「船舶検査法」成立】 |
200.年、不審船逃亡事件発生。2000年、船舶検査法成立。 |
【「アーミテージ報告」為される】 |
2000.10月、アーミテージ氏(現米国務副長官)らが米国防大学国家戦略研究所で特別報告した。「成熟した日米パートナーシップにむけて」。この報告はブッシュ政権の中核に位置づけられ、日本政府に実行を迫ることになった。報告書では、(1)日米同盟関係が米英関係のようになること。(2)集団的自衛権の行使ができないことが最大の障害である。(3)有事立法、機密保護法を含むガイドラインの誠実な実行等に言及している。 |
有事法制が研究の段階から大きく動き出したきっかけになったのは「アーミテージ報告」であり、その意味は大きい。この報告の3カ月後、当時の森首相が有事法制の検討を施政方針演説で明らかにし、小泉首相がこれを引き継ぐことになる。有事法制は、文字通り「戦争動員態勢法」、「戦争国家法」であり、絶対許してはなりません。 |
2000.12.4日、治安出動に係る防衛庁と国家公安委員会との協定の改正。
2001.1月、森喜朗首相が施政方針演説で有事法制の立法化検討開始に言及。
2001.9.11日、米国で、政府中枢同時多発テロ事件発生。
2001.10.6日、インドにおける国際緊急援助活動に自衛隊部隊を派遣。
2001.10.6日、アフガニスタン難民救援国際平和協力業務の実施。
10.7日、アフガニスタンへの空爆開始。
20001.11月、テロ対策特別措置法(テロ特措法)成立。
2001.11.2日、「テロ対策特措法」「自衛隊法一部改正法」(警護出動、通常時の自衛隊の施設警護のための武器使用、治安出動下令前に行う情報収集、治安出動時及び海上における警備行動時の武器使用権限の強化、秘密保全のための罰則の強化)公布・施行。
2001.11月、海上自衛隊が支援艦隊をアラビア海に派遣。
2001.12.2日、テロ対策特措法に基づき、インド洋で海上自衛隊補給艦による米艦艇への洋上給油を開始。
2001.12.14日、「国際平和協力法一部改正法」(武器の使用による防衛対象の拡大、自衛隊法第95条の適用除外の解除、PKF本隊業務の凍結の解除)施行。
12.22日、奄美大島沖で北朝鮮工作船追撃事件。「九州南西海域不審船銃撃・撃沈・虐殺事件」発生。
【テロ対策支援法】 |
2001(平成)11月のテロ対策特措法全12条(テロ対策支援法)。米同時多発テロを受け、日本の対米支援策として、同時テロに限定して策定された特別措置法。米軍のアフガニスタン軍事行動に伴うアフガン難民支援も想定し、米軍などへの後方支援と国連決議に基づく人道支援の2本柱。 対米支援では「協力支援活動」と「捜索救助活動」、難民支援は「被災民救援活動」を定めている。2年の時限立法で、従来、近くの自衛隊員に限定されていた武器使用の防護範囲を「自己の管理下に入った者」まで広げた。 |
「自衛隊法改正案」、船体射撃の要件を緩和する「海上保安庁法改正案」 「ガンコに護憲」の社民党だけ。共産党ですら海上保安庁法改正には賛成している。自民党では野中広務と古賀誠の両議員が本会議の採決を退席した。 |
2002.2.18日、東ティモール国際平和協力業務実施のため司令部要員を派遣。
【「有事法制」】 |
2002.2.4日、「小泉純一郎首相が有事法制の通常国会提出を言明」。小泉首相は施政方針演説で、政府・防衛庁の長年にわたる強い要求となっている有事法制について「今国会に提出する」と言明し、これを受けて政府・与党は、有事に対する基本原則や日本が武力攻撃を受けた際の意思決定手続きなどを包括的に盛り込んだ基本法的な「武力攻撃事態対処法案」(仮称)と、自衛隊法改正案など個別の関連法案を3月末までに一括して提出する方針を固めた。3法案とは、@・包括法としての「武力攻撃事態におけるわが国の平和と独立並びに国及び国民の安全の確保に関する法律案」(武力攻撃事態法案)と、A・「自衛隊法等改正案」、B「安全保障会議設置法改正案」である。小泉内閣は、会期を大幅に延長(8月9日まで50日間の延長)して何がなんでも今国会中に成立させる腹づもりのようである。なお、3法案の成立を突破口に今後関連有事立法を次々に立法化しようとしており、事態は容易ならざる局面に突入した。 提出法案は、軍事的には米軍と共同して戦争ができる軍隊をめざすとともに、政治的には戦争ができる国家体制づくり、イデオロギーの重視を執ように追い求めている点を見据える必要がある。とくに、軍事的背景には国際情勢の変化がある。ソ連崩壊後、日米安保体制は、対ソ軍事対決から米国の一国覇権体制を支える日米安保へ、さらに今日ではアジアにとどまらず、地球規模の安保へと変質しつつある。 PKO協力法にも、「国以外の者の協力」を求めるなどの有事立法としての条文規定があることが指摘されている。周辺事態法では、自治体や「国以外の者」に「協力を求めることができる」としていたのが、有事法制では罰則が盛り込まれ、強制となることを見逃してはならない。まさに有事法制は、言論や表現の自由といった基本的人権を制限しようとしているのである。このことからもわかるように、有事法制は、反戦・反基地・平和運動だけが取り組む問題ではない。様々な運動が、課題を越えて取り組まなければならない問題である。 |
4.21日、小泉首相が靖国神社に参拝。
4.29日小泉首相が東ティモールを訪問し、PKO派兵の自衛隊を督励。
4.21日、日共の筆坂政策委員長は、NHK日曜討論で、「仮に本当に日本に武力攻撃があったときには、国民は罰則なんか科さなくても、自らの命、財産、家族の安全を守るために立ちあがる。当たり前の話です」と発言。 4.23日、日共機関紙赤旗は、「戦争国家法案 違憲の法案審議へ特別委 日本共産党は設置に反対」なる見出しで、衆院議院運営委員会が22日の理事会で、「戦争国家法案」(有事三法案)審議の特別委員会設置を23日の本会議で議決することを決めたのに対し、「憲法違反の法案を審議する委員会の設置は認められない」と反対したことを伝えている。これに対し、民主党、自由党は、「五十人規模」を主張。社民党も「十分な審議がなされることが前提で、五十人規模に」とのべた、とある。 日本共産党の児玉健次議員は「法案は、日本国憲法の戦争放棄、基本的人権の尊重という侵すことのできない原則を踏みにじるもので、憲法とまったくあいいれないものだ。そのような法案を審議する委員会の設置は認められない」と主張。特別委の「委員長候補」なる人物を首相が事前に「激励」することなどは「許しがたい事態だ」と批判した、とある。 |
4.26日、有事法制審議が衆院本会議でスタート。武力攻撃事態法案を柱とする有事法制関連3法案の趣旨説明と質疑が26日午後、衆院本会議でスタートした。小泉純一郎首相は26日午後、衆院本会議で、日本が直接の武力攻撃を受けた際の有事法制関連3法案について「国・国民の安全にとって最も緊急かつ重大な事態への対処を中心に国全体としての基本的な危機管理体制の整備を図るもの」と、その意義を説明した。そのうえで有事法制整備が「国家存立の基本として行われていなければならなかったもの」と述べ、政府としての長年の課題であった点を指摘した。
さらに「憲法に定める国民の自由と権利の尊重を基本理念として明記。武力攻撃事態への対処においても、この基本理念に則って行うこととしている」と語り、有事法制が憲法に定める国民の権利を侵害するものではないと強調した。また「具体的に国が地方に関与していく場合、個別の法律に根拠を持たなければならない」と、地方自治に配慮していることも訴えた。 関連3法案は外国からの武力攻撃を想定し、緊急時における政府の意思決定手続きや私権制限を包括的に定めた戦後初の有事立法。政府・与党は今国会の最重要法案と位置づけ会期内の成立を目指している。野党の協力も求める姿勢だが、民主党は法案への賛否を明確にしておらず、法案修正などで与党と民主党が歩み寄れるかどうかが焦点になる。 審議入りしたのは、武力攻撃事態法案のほか自衛隊法と安全保障会議設置法の両改正案。質疑ではまず自民党の菱田嘉明氏が、自衛隊が防衛出動する前に陣地構築という新たな行動に踏み出すことや、自衛隊の物資保管命令や立入検査に違反した場合に罰則規定を置くことなどの必要性をただす。また、民主党の伊藤英成氏は法案が政府の権限を拡大していることに関連し、疑惑続きの政権に国民の権利の制限をゆだねられるか、などと追及する。 衆院は予算委員会並みの50人規模の武力攻撃事態特別委員会を設置、大型連休明けの5月7日から全閣僚出席による基本的質疑を始める。 武力攻撃事態法案は、日本に対する外部からの武力攻撃があった場合だけでなく、攻撃が予測される段階から国としてどう対処するか定める。防衛出動命令発令前に自衛隊部隊が基地外で陣地や防御施設を構築することも可能になるほか、有事の際の地方自治体や公共機関に対する首相の指示・代執行の権限を認める。自衛隊法改正案は、防衛出動時や陣地構築時の土地収用手続きなどを定めたほか、物資保管命令とその際に必要な立入検査に従わなかった場合の国民に対する罰則規定も盛り込んでいる。 しかし、国民の生命や財産などの保護に関する法制は2年以内に整備すると先送りした。大規模テロや武装不審船対策も「必要な施策を講じるとする」にとどめた。これらをめぐる政府と与野党の攻防が、今後の国会審議のポイントとなる。[毎日新聞4月26日] ( 2002-04-26-13:26 ) |
【有事関連法が成立 研究着手から四半世紀】 | ||||||
6.5日、参院本会議で、武力攻撃事態法、改正自衛隊法、改正安全保障会議設置法の有事関連法3法が、与党3党と民主、自由両野党の賛成多数により可決、成立した。採決は押しボタン方式で行われ、賛成202、反対32、欠席者12、棄権1を含む全議員247名の82%の賛成を得た。神本美恵子氏(民主)は、党議拘束に反して棄権した。小泉首相は、有事関連3法の成立を受けて「我が国の安全保障上の長年にわたる懸案だった法律が、与野党の幅広い合意の下に成立したことは、大きな意義を有する」とする談話を発表した。
政府は昨年4月、3法案を国会に提出したが、通常国会、秋の臨時国会とも継続審議となった。与党3党が有事の定義などに変更を加えた修正案を提出を昨年12月、民主党が今年4月にそれぞれ修正対案をまとめ、5月13日の小泉首相と菅民主党代表の党首会談により、共同修正案に合意。同15日に衆院を通過した。衆院通過前の与党と民主党の修正協議で、憲法の基本的人権保障規定を最大限尊重する趣旨を追加したほか、(1)国会が対処措置の終了を議決した場合、対処措置の中止を閣議決定する(2)テロや大規模災害などの緊急事態に対処する組織整備について検討する−ことも盛り込まれた。これまでの審議で(1)「有事」認定の前提となる事実は日本の領土、領海内に限らない(2)朝鮮半島有事などの周辺事態と武力攻撃予測事態とが併存する可能性がある−ことなどが明らかになった。 有事法制では、国民保護法制のほか、(1)米軍支援(2)捕虜の取り扱いや非人道的行為の処罰(3)電波の優先割り当てや船舶の航行制限などの自衛隊支援−に関する法制の整備も残されており、政府は検討作業を急ぐ。 政府は今後、有事における住民の避難誘導や復興・復旧などに関する国、地方自治体、国民の役割分担などを定める国民保護法制を整備するため、早期に法制整備本部を設置する方針だ。 また、〈1〉米軍の行動を円滑化する有事法制〈2〉捕虜の人道的な扱いなどを定めたジュネーブ条約の国内法――などについても整備を急ぎ、有事法制全体の完成を目指す。 さらに、改正安保会議設置法に盛り込まれた「事態対処専門委員会」(委員長・官房長官)を早期に発足させ、様々な有事を想定した対応策についての調査・分析作業を開始する。専門委は、外務、防衛、警察など関係省庁の担当局長や、統合幕僚会議議長など自衛隊制服組幹部で構成される見通しだ。 武力攻撃事態法は、政府による武力攻撃事態の認定、対処基本方針の決定、対策本部の設置などの手続きを定めている。改正自衛隊法は、有事における自衛隊の部隊の移動・輸送の際の道路補修について、道路管理者の承認を義務づけた道路法の適用を除外するなど、約20の法律について特例措置を設け、自衛隊の行動の円滑化を図っている。三法は月内に施行される。ただし、武力攻撃事態法の首相の自治体への指示権限部分などは、国民保護法制が整備されるまで凍結される。 3法は、日本有事の際の政府の対応を定めるとともに、自衛隊が円滑に行動できるようにするもの。1963年、自衛隊制服組による非公式研究が始まる。1977年、当時の福田赳夫首相の下で公然研究が始まった。以来凡そ4半世紀を経て実現、92年の国連平和維持活動(PKO)などの国際協力を規定した「PKO協力法」、99年の海外で活動する米軍への支援を規定した「周辺事態法」、新たに日本有事対処を加えた「有事関連法」が加わり、有事に備える法体系が整ったことを意味する。推進派にとっては画期的な意義を持つもので、日本の安全保障政策は新たな局面に入った。政府は今後、国民保護法制などの整備を急ぎ、来年の通常国会への関連法案の提出を目指す。 |
2002.11.1日、「自衛隊法一部改正法」(秘密保全のための罰則の強化)施行。
2002.12.16日、テロ対策特措法に基づく実施要項の変更を受け、イージス艦が出港。
2003.2.8日、自衛隊が保有する対人地雷の廃棄完了(例外保有は除く)。
2003.3.27日、「防衛庁設置法等一部改正法」(自衛官の定数及び即応予備自衛官の員数変更)施行。
2003.3月、イラク戦争。
2003.6.6日、武力攻撃事態対処関連3法(通称:有事関連3法案)参院本会議で可決成立。
2003.7.26日、「イラクにおける人道復興支援活動及び安全確保支援活動の実施に関する特別措置法」(通称:イラク復興特措法)参院本会議で可決成立
2003.12.9日、イラク特措法に基づく自衛隊派遣の基本計画を閣議決定。
2003.12.26日、イラク特措法に基づき、航空自衛隊をイラクに派遣。
2003.12月、ミサイル防衛網(MD)導入を閣議決定。北朝鮮の中距離弾道ミサイル・ノドンへの対処を想定し、システム構築やミサイルの購入で総経費は1兆円に上る見通し。
2004.1.16日、イラク特措法に基づき、陸上自衛隊をイラクに派遣。
2004.2.16日、海上自衛隊の輸送艦及び護衛艦、イラクに派遣。
2004.2.24日、政府、有事法制関連7法案(国民保護法案、自衛隊法改正案、特定公共施設利用法案、米軍支援法案、外国軍用品海上輸送規制法案、国際人道法違反行為処罰法案、捕虜取扱法案)の要綱を決定。
2004.6月、国民保護法など有事関連7法成立。
(私論.私見)
防衛庁・自衛隊の歴史
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