中内功の履歴(プロフィール)



【中内功(なかうちいさお)の履歴(プロフィール)】 
 1922(大正11)年、兵庫県神戸市に長兄として生まれる。弟に中内力(つとむ)がいる。
 1941(昭和16)年、神戸高等商業(現神戸商科大学→兵庫県立大学)卒業。
 1942年、日本綿花(現ニチメン)に入社。
 1943年、召集されてソ満国境に送られる。フィリピンに転戦。重傷を負いつつ死線を彷徨(さまよ)う。終戦後、捕虜となる。
 1948年、復員帰国後、神戸三宮に友愛薬局を設立。医薬品の現金問屋を大阪平野町に設立。ヤミ市を舞台に人生の再スタートを切る。
 1957年、大栄薬品工業株式会社(現ダイエー)設立。
 1957.4月、株式会社「主婦の店ダイエー本店大阪」設立。この時、弟の中内力も加わる。
 1957(昭和32).9月、大阪市千林駅前に「主婦の店ダイエー」第1号店創立。
 1958.12月、2号店として三宮店(神戸市)オープン。チェーン化の第一歩を踏み出す。
 「主婦の店」の名前には、「主婦が消費者が主権をもつ時代をつくろう、そのためにも流通を改革しよう」という思いが込められていた。「良い品物をどんどん安く」の安売り哲学がダイエーのモットーとなり、これが消費者に支持され、驚異的に売上を伸ばしていった。

 以降、「メーカーに対する流通の優位」を業界の悲願とする理論武装の下で、規模拡大の積極経営で小売業界をリードし続け、戦後日本経済の発展とともに成り上がっていった。この間、日本のチェーンストア理論指導の草分け的な存在である日本リテイリングセンターの渥美俊一・氏がペガサスクラブを主宰し、業界を指導した。

 1960年代、流通業の産業支配権を目指して、花王石鹸(現花王)、松下電器産業など日本の有力メーカーと小売価格の価格決定権を廻って鋭く対立。特に、松下電器とは双方譲らず対立し続け、商品供給を止められれば仕入れルートを開拓、低価格で販売し続けた。これにより同社とは30年間以上も取引をしないという一徹さも見せた。この闘いは、「メーカーに対する流通の優位」の理論的実践でもあった。如何にも中内的な生硬なやり方であった。
 1964年、東京進出。関東には既にイトーヨーカドーが根強い地盤を持っており、「ダイエー対イトーヨーカドー戦争」と呼ばれる商戦が展開された。「藤沢商戦」は語り草となっている。
 1969年、経営方針の違いから、中内力がダイエーを去る。
 1970.3月、「主婦の店ダイエー」から「ダイエー」に社名変更。
 1970年、売上1000億円突破。
 1970.11月、ダイエー品質管理センター設置。市価の6割の5万円台のカラーテレビ「ブブ13型」発売。
 1971.3月、株式上場(大阪証券取引所市場第二部)。
 1972.3月、東京証券取引所市場第一部(東証一部)に株式上場。
 1972.8月、売上で小売業日本一を達成。創業15年で遂に、三越百貨店の売上げを抜き業界最大手の座を手に入れた。発足当初、「スーと現れ、パート消える」と揶揄されたスーパー業界の真面目を見せつけた。
 この年、狂乱物価が襲ったが、生活必需品を中心に価格の凍結を宣言(「物価値上がり阻止運動を宣言」)。従来の「よい品をどんどん安く」に「For the CUSTOMERS(お客様のために)」を加え、「消費者の味方」・「闘う商人」の観点を打ち出し、中内の名声が高まった。
 1975.6月、コンビニエンス・ストア、ローソンの1号店(桜塚店・大阪府)オープン。ダイエーは、コンビニエンス・ストア事業に乗り出すにつき、イトーヨーカドーのセブンイレブンに遅れを取った。これが明暗を分けていくことになる。
 1979.5月、中内功が流通関係の大学設立構想発表。(沿革
 1980.2.16日、小売業で初めて年間売上高(年商)1兆円突破。次の目標を「4兆円」に引き上げて5年後に達成すると宣言した。
 1980.12月、ストアブランド商品「セービング」を新発売。
 1983.5月、ダイエーグループ共通クレジットカード「オレンジメンバーズカード」発行。
 1984.4月、プランタン銀座オープン。
 1985.6月、生活便利マガジン「オレンジページ」創刊。
 1988年、4月、流通科学大学(中内理事長)開学、商学部(流通学科/経営学科) 設置。中内は、理事長に就任。
 1988.11月、プロ野球球団・南海ホークスを買収し、ダイエーホークスを発足させる。
 1990年、経団連副会長に就任。
 1993年、日本チェーンストア協会会長。
 1993年、流通業界で初めて勲一等瑞宝章受賞する。
 1993.4月、屋根開閉式多目的スタジアム「福岡ドーム」が開業。
 1994.3月、ダイエー、忠実屋、ユニードダイエー、ダイナハが合併。
 この間、規模拡大の強気の経営で小売業界をリードし続け、ローソンやプランタン銀座を手がけたほか、マルエツ、忠実屋、ハワイのアラモアナショッピングセンター、リクルート等の経営権も獲得。

 300社といわれるグループ企業をあわせると、総従業員数十万人、オープンしてから40年でグループの総売上五兆円の一大流通帝國を築きあげた。かくて、中内功は、立志伝中の経営者となった。
 ところが、バブル経済の崩壊と共に、中内の積極経営策が裏目に出始め、拡大路線による巨額の借入金と売上の伸び悩みによる経営危機が表面化した。

 1995.1.17日、阪神大震災発生。本拠地の神戸地区の店舗が被災した(三宮では7店中4店が全壊)。中内氏は3日後に現地入りして復旧の陣頭指揮を取った。「水が無い、ガスが無い、そんなことは理由にならん。開けられんのなら店先に弁当を並べたらええやないか。それが商人や」と従業員に檄を飛ばし、「被災者のために明かりを消すな。店を開け続けろ。流通業はライフラインや」と指揮した。“がんばろやWe Love KOBE”キャンペーンを展開。しかし、この頃からダイエーが苦境に陥っていくことになる。

 1995.4月、福岡ドーム横に「シーホークホテル&リゾート」が開業。

 1996.2月、業態別に分社化したカンパニー制を導入。

 1997.12月、持ち株会社(株)ダイエーホールディングコーポレーションに子会社などを移管。

 1998.2月、ダイエーの2月期決算が上場以来初の経常赤字(258億円の経常赤字)となり、8月中間決算では無配に転落した。「グループ全体で2兆6000億円の有利子負債」問題が露見し、ダイエーの経営難が深刻化した。
 1999.1.20日、中内は、経営責任を取らされ社長辞任。以降、経営の一線を退き、代表権のある会長職に専念する。後任に、鳥羽董・副社長(とば・ただす、68歳、慶大卒。1955年に味の素に入社、社長、副会長を経て1996.12月ダイエーに顧問で入社。1998.5月からダイエー副社長)が社長に昇格。「創業者の中内氏がカリスマとして君臨し、大量消費文化の旗手として活躍してきた40年余りの中内ダイエー時代に終止符が打たれた」。

 3.30日、長男の中内潤・氏が代表取締役副社長から代表権のない無任所の取締役へ降格した(中内潤副社長降格)。持ち株会社ダイエーホールディングコーポレーション(DHC)の社長に就任するが、中内功の次期後継者と目されていた長男の潤・氏がダイエーから放逐されたことを意味する。

 1998.1月、GMSカンパニーを7つの地域別カンパニーに分割。

 1999.10月、福岡ダイエーホークス日本シリーズ優勝。

 2000年、日本経済新聞の「私の履歴書」連載。

 2000.9月、生活必需品を88円均一で提供する「暮らしの88」を発売。

 2000.10月、代表権の無い最高顧問に退く。この年、小売業売上高1位の座を28年ぶりにイトーヨーカドー系のセブン―イレブン・ジャパンに譲った。

 2001.1.30日、創業者中内功(78)が取締役退任。創業以来43年間のオーナー支配に終止符を打つ。役員退職慰労金について、ダイエーの経営状況が好転するまで受け取りを辞退することを表明した。中内氏は、流通科学大学の学園長のみとなった。

 新会長に通産省出身の雨貝二郎氏、昨年10月以来空席だった社長には元リクルート専務の高木邦夫氏が就任した。高木氏は1986年にダイエー取締役に就任、90年に常務に昇格。92年にリクルートの常務を兼任、94年にダイエーの専務昇格。99.7月に兼任していたダイエーの取締役辞任という経過を見せている。

 2001.1月、業態別、地域別カンパニーを9つの店舗サポート本部とSM事業部に再編成。

 2001.2.1日、中内はダイエーを去った。中内は、「流通革命はまだ道半ば、いや、3分の1くらいだ」の言葉を残し、経営の第一線から姿を消した。今後は、自らが設立した流通科学大学の理事長として、流通革命の実現を託す後進を育てる。

 息子(次男)の正氏が福岡ダイエーホークスのオーナーに就任。

 2001.3月、優先株9000万株を発行し、資本金を増強。

 以降、ダイエーは、経営再建的見地から関連企業の売却に着手する。2001.2月、ローソンの発行済み株式の8%を三菱商事に売却、主力取引銀行の引き受けで1200億円の優先株を発行。3月、ダイエー本体の希望退職1000人を募集。7月、プランタン銀座が持つ高島屋株の同4%を証券会社に売却。8月、ローソン株の同20%を売却。9月、東京証券取引所の株価が上場以来初めて一時100円割れ。10月、2003年2月期以降の5年間で7500億円の有利子負債削減計画を表明。12月、生活情報誌オレンジページをJR東日本に売却。2002.1月、ダイエー・ロジスティクス・システムズのローソン関連物流部門を三菱商事に譲渡すると発表。1月、銀座OMCビルを63億円で全株を婦人服販売などを手掛けるシャネル(東京・渋谷)に売却。「新浦安オリエンタルホテル」等々の売却に入る。
 2001.9.21日、ダイエーは、2001.8月中間期の業績予想を修正し、単独赤字40億円、8月中間下方修正――連結は240億円の黒字。中間期の単独経常利益は60億円となったようだ。「経費削減が計画を上回るペースで進み、経常利益は前期より増えたが、デフレが厳しく計画を下回った」(高木邦夫社長)。

 2002.1.12日、ダイエーと主力取引銀行(三和銀行、三井住友銀行などの主力4行)が産業活力再生特別措置法(産業再生法)の活用を検討していることが明らかになった。約1兆8000億円(ダイエーオーエムシーを除く、2001.8月末)に上るダイエーの連結有利子負債を初年度となる2003.2月期に5000億円前後減らし、3年間で約7500億円減の1兆円強まで圧縮する方向で最終調整に入った。従来の計画22年前倒しするとともに、新しい再建計画の初年度に負債圧縮を一気に進めるとのこと。

 小泉政権が進める銀行の不良債権処理政策に従い、平沼赳夫経産相が「ダイエーの再建を全面的に支援する」と述べ、経済産業省がダイエーの適用申請があれば基本的に認める姿勢を表明した。

 ダイエーは2002年度以降、大型ディスカウント店25店前後を中心に50店超の不採算店を閉鎖、ホテルや外食など本業に関連の薄い事業を売却する方針を発表した。これに伴い多額の損失が生じるため、主力4行から4000億円程度の債権放棄を受ける方向で調整している。金融支援策として債務を株式に転換するデット・エクイティ・スワップ(債務の株式化)の手法も組み合わせる案が有力となっている。

 2002.1.15日、ダイエーの主力取引4行のうち、2行が三和銀と東海銀。同日に両行は合併し、新たにUFJ銀行(寺西正司頭取)が誕生した。

 2002.1.17日、ダイエーは、「中内一族一掃。けじめが必要」の観点を打ち出し始める。この日、創業者の中内功前会長(79)をグループ企業のすべての役職から退任させるとともに、支払いを見合わせている約20億円の退職慰労金を支払わない方針を固め、主力銀行などに通知した。再建計画で巨額の金融支援を求めることに対する経営責任を明確にするとともに、中内氏の影響力を払しょくして新生ダイエーをアピールする。さらに中内氏が保有する私財の供出を求めることも今後、検討される見通しとのこと。今回の経営再建策をめぐって4000億円を超える巨額の金融支援を行う主力行などからは中内氏の経営責任を問う声が強く、ダイエーは中内氏の意思にかかわらず、退職慰労金を支払わないことを決めた。

 また、中内氏は依然として「福岡ダイエーホークス」の取締役会長やグループ企業の外食チェーン「フォルクス」などの最高顧問に就いていることから、こうした役職からもすべて退任させる。一方、18日に枠組みを発表する再建計画については、UFJ(旧三和、東海)、富士、三井住友の主力3行とダイエーの大詰めの調整が続いている。

 2002.2.18日、経営再建中のダイエーは、プロ野球・福岡ダイエーホークスの代表取締役オーナー、中内正・氏に対し、オーナー辞任と、保有する発行済み株式の40%のホークス株の供出を求める方針を明らかにした。

 ダイエーは、UFJ銀行など主力3行から総額4200億円の金融支援を受けて再建する計画の詳細を月末にもまとめる方針で、創業者一族がグループの経営に引き続き関与することは得策でないと判断した。中内功氏はすでにホークス球団を含むグループ企業の役職をすべて退いている。

 2002.2.22日、ダイエーの高木社長と球団の高塚社長が会談し、中内氏のオーナー職辞任、保有する球団株40%の無償提供は撤回された。中内正オーナーの排除には地元福岡で強い反発があり、この時点で排除するのは得策ではないと判断したものと思われる。中内オーナーは、「ボクは中内のためにもダイエーのためにも(オーナーを)やってるわけじゃない。福岡のためだ。今のダイエーに株は譲れない。自分の人生観として一生続けていく」と主張しており、ダイエー球団の経営的成功もあり、この主張が受け入れられたことになる。


 2.27日、ダイエー主力3行(UFJ銀行、三井住友銀行、富士銀行)が、経営再建中のダイエーに対し、計5200億円の金融支援を実施することを発表した。金融支援は、(1)保有するダイエー優先株1200億円の100%減資と10対1の株式併合、(2)貸出金2300億円を株式化することによる実質増資引き受け、(3)貸出金1700億円の債権放棄――の3項目。今回の優先株の減資と株式併合により、3行の出資額がゼロに減るとともに保有する株数も10分の1に減ることになる。

 3.19日、経営再建中のダイエーが、同社と不動産管理子会社、オレンジエステート(東京・港)に対する産業活力再生特別措置法(産業再生法)の適用を経済産業省に申請した。債務の株式化などを円滑に行い、再建計画の透明性を高める。経産省は4月にも認める方向で、債権放棄を受ける企業に対する初の適用事例となる。

 ダイエーは同日開いた臨時取締役会で、同法の申請を決め、経産省に今年4月から2005年2月までの事業再構築計画を提出した。認定されれば、同社が計画しているUFJ銀行など主力3行による債務の株式化や、不動産の所有権の移転時の登録免許税が軽減される。

 続きは、ダイエー乗っ取り史その1、経営「再建」の動き

 2005.9.19日、脳梗塞で逝去(享年83歳)。
 戦後、大衆的小売り流通業界(スーパーマーケット)の草分けであり、その最大手に成長せしめたスーパー王、経団連副会長も務め勲一等瑞宝章も受章した。ところが、バブル経済崩壊後、政務の無策もあって生み出された長期の政策不況により、中内式積極経営策が破綻し、2000.10月、代表権を返上し経営から退く破目になった。

 「戦後、神戸から出て大きくなったのは山口組とダイエーだけや」と名ゼリフをはき、流通革命を主導した。変革的発想(イノベーター)と気魄に満ちたビジネス哲学、国際感覚を武器に、高度経済成長とともにダイエー急発展せしめた手腕の評価は高い。財界の風雲児、カオス人間、創造的破壊者とも云われる。





(私論.私見)