知里幸恵(ちり・ゆきえ)のアイヌ文化紹介考

 (最新見直し2008.10.25日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 NHK番組「歴史その時」(キャスター・松平定知)の「神々のうた 大地にふたたび 〜アイヌ少女・知里幸恵の闘い〜」は、アイヌの少女・知里幸恵(ちり・ゆきえ)によるアイヌの伝承紹介ドラマを放映した。れんだいこは、これにより彼女を知った。ここに再確認しておく。「知里幸恵について」、「日記知里幸恵」その他を参照する。

 2008.5.19日、2008.10.25日再編集 れんだいこ拝


 明治、日本が近代化を推し進めるなかで、蝦夷地に生きるアイヌの暮らしと文化は消されようとしていた。その時、アイヌの復権に挑んだ少女が、知里幸恵。幸恵はアイヌの伝承をまとめ世に問うた。「梟(ふくろう)の神が羽ばたきをすると神の宝物が落ち散りました」……狩りや漁で生きるアイヌの人びとにとって、自然や神を敬う伝承「カムイユカラ」は、民族のアイデンティティともいえるものだった。しかし同化政策によってアイヌの人びとは生活を破壊され、貧困と差別に苦しみつづける。やがてアイヌは劣った民族だと思い込まされ、誇りを奪われていく。知里幸恵もそんな一人だった。

 しかし幸恵に転機が訪れる。15歳の時、アイヌ語研究に取り組む金田一京助と出会う。金田一は、急速な近代化で消えゆくアイヌの伝承を記録しつづけていた。交流を重ねる二人は、アイヌの伝承を集めた本の出版に取組む。そして幸恵はカムイユカラを改めて学び直し、その中で、アイヌ文化の本当の豊かさと、後世に引き継ぐ使命に目覚めていく。

 1923(大正12)年、『アイヌ神謡集』を出版。それはアイヌであることを否定しつづけてきた人々を覚醒させ、やがて差別撤廃と民族の復権を求める声となる。その声はさらに広く日本社会に共感を広げていく。
明治以降、近代化を推し進め列強国にならんと邁進してきた日本。番組では、その影で犠牲を強いられつづけた人びとの声に耳を傾ける。

【知里幸恵(ちり・ゆきえ)考】
 1903(明治36)年、北海道登別でアイヌのごく普通の家庭に生まれた。父は知里高吉、母はナミ。5~6歳の頃、祖母・モナシノウクと二人で暮らした。夜、囲炉裏(いろり)を囲み、祖母から謡ってもらうカムイユカラを聞いて育った。

 モナシノウクはカムイユカラを謡(うた)う人で、アイヌの伝承を幸恵に聞かせた。幸恵は、多くのユーカラを諳んじるほどになり、その影響を強く受けて育った。カムイユカラはアイヌ民族の「口承叙事詩」で、アイヌの英雄譚であるユカラとは区別され、神々が自ら語った物語の形式を取っている。繰り返して歌われる節回しが特徴。文字を持たないアイヌにとって、その道徳観・倫理観・自然との共生の大切さ・伝統文化を子孫に伝えていく上でカムイユカラは非常に大切なものとなっている。

 その後、叔母・金成マツのもとに養女に入り、旭川でマツ、モナシノウクと3人で暮らす。7歳以降、旭川で過ごす。幸恵は、当時のアイヌ女性としてはめずらしく女学校へ入学し卒業した。日本語を習得することでアイヌ語と日本語の両方に通じることになり、祖母や叔母が語るアイヌの伝承を日本語に翻訳した。

 15歳の時、アイヌ語研究に取り組む金田一京助が、幸恵の自宅を訪れた。金田一は、急速な近代化で消えゆくアイヌの伝承を記録しつづけていた。幸恵は、金田一が幸恵の祖母たちからアイヌ伝統のカムイユカラを熱心に聞き記録に取っていく姿を見て、金田一のアイヌ伝統文化への尊敬の念そしてカムイユカラ研究への熱意を感じた。

 幸恵は、学校教育で、明治政府の政策である「アイヌは劣った賎しい民族である」と繰り返し教えられ、そのまま信じ込まされていたが、金田一から、「アイヌ・アイヌ文化は偉大なものであり誇りに思うべき」と諭されて、独自の言語・歴史・文化・風習を持つアイヌ民族としての自信と誇りに目覚めた。

 二人はその後交流を重ね、カムイユカラを「文字」にして後世に残そうという金田一からの本の出版の誘いを受け、幸恵はアイヌの伝承を集めた本の出版に取組むことを決意する。カムイユカラを改めて学び直し、その中で、アイヌ文化の本当の豊かさと、後世に引き継ぐ使命に目覚めていく。

 1920.11月、17歳の時、金田一京助に勧められて幼い頃から祖母モナシノウクや叔母の金成マツより聞いていた「カムイユカラ」を金田一から送られてきたノートにアイヌ語で記し始める。翌年、そのノートを金田一京助に送る。1922年、「アイヌ神謡集」の草稿執筆を開始する。

 1922.5月、「アイヌ神謡集」出版のために上京する。東京本郷の金田一宅に身を寄せた。金田一の家で、幸恵は以前より行っていたカムイユカラをアイヌ語から日本語に翻訳する作業をさらにおし進めた。金田一をして、「語学の天才」、「天が私に遣わしてくれた、天使の様な女性」(「『心の小径』をめぐって」)と言わしめた幸恵であった。祖母モナシノウクや叔母・金成マツから聞いていたアイヌの伝承「カムイユカラ」をまとめ始め、時おり襲われる心臓発作に医者から絶対安静にと静止されたにも拘らず床(とこ)から起き翻訳・編集・推敲作業を続けた。9.18日、幸恵は、自らのその役割を終えたかのように、まさに編集を完了したその日の夜、金田一家で死亡(享年19歳)。

 この間、6.9日付けの日記に「幸恵が見た都会の人々について」、実父・知里高吉に宛てた手紙が認められている。6.14日付けの日記には「百貨店に関する記述が遺されている。東京・雑司ヶ谷に墓が設けられた。

 アイヌ神謡集によって、アイヌのカムイユカラが文字として遂に後世に残された。アイヌ語から日本語に翻訳されたその文章には、幸恵のアイヌ語・日本語双方を深く自在に操る非凡な才能が遺憾なく発揮されている。また、文字を持たないアイヌ語の原文を、日本人が誰でも気軽に口にだして読めるようにその音をローマ字で表し、日本語訳と併記している。アイヌ語の原文を、意味はわからなくとも気軽に口に出して読めるこの工夫は、文字を持たないアイヌ語のハンディをカバーしている。  

 民俗学者・柳田国男のもとに金田一京助が話を持ち込むことで発行が決まった。

 1923(大正12).8.10日、幸恵が、その命と引き換えに完成させた遺稿が、金田一の尽力によって13編からなる「アイヌ神謡集」と題して郷土研究社から出版された。アイヌ神謡集の一番最初に載録されているユカラは「梟の神の自ら歌った謡 銀の滴降る降るまわりに」。幸恵は金田一に送ったノートのなかで、このカムイユカラについて「非常に聞いていると優しい感じがします。この節が私は大好きなのでございます」と唯一自分の好きな歌であることを特記している。その『アイヌ神謡集』の中には、かつて自由に北の大地を駆けまわり、狩猟を生業とした勇敢で人情を尊ぶアイヌの失われた生活が、その豊かな精神生活とともに凝縮されていたのである。現在、岩波文庫(赤版)から出版されており、書店などで入手可能。現在、北海道立図書館に知里幸恵直筆のノート4冊が残されている。復刻版がNPO法人知里森舎より発行されている。幸恵の日記について、NPO法人知里森舎所蔵。東京時代に書かれたもので2冊現存している。

 当時新聞にも大きく取り上げられ、多くの人が知里幸恵を、そしてアイヌの伝統・文化・言語・風習を知ることとなった。また幸恵が以前、金田一から諭され目覚めたように多くのアイヌに自信と誇りを与えた。

 金田一京助は、幸恵の弟の知里真志保に大学教育の機会を与え(これは当時のアイヌとしては前例のないことである)、「わが後継ぎ」と頼める愛弟子として様々な世話をした。が、やがて真志保と金田一は決別することになる。アイヌとしてのアイヌ研究をしようとした真志保と、あくまで失われ行く文化の保存という立場から臨む田一との間に微妙な溝が生まれ、二人の心の中に生き続けた一人の少女「知里幸恵」の存在をめぐる目に見えない軋轢が生じた。知里真志保(ちり ましほ)は言語学・アイヌ語学の分野で業績を上げ、アイヌ初の北海道大学教授となる。

 知里幸恵はまた、違星北斗の心にも大きく影を落とすことになる。違星北斗は、東京で『アイヌ神謡集』を手にする。幼き日に北斗も、かつて炉端で祖父や両親から聞いたことのあるのと同じような神々の叙事詩を手にした。「滅び行く民族」の汚名を押しつけられ、被支配者の立場に甘んじている同胞から、東京でこのように本を出すような者が出たことが、どれほど違星青年を勇気づけ、奮い立たせた。

 違星北斗が金田一の家を訪れ辞す。一年半の後、彼は東京を去って北海道に帰る。それからの短い生涯はすべて、差別も闘争もない「コタン」の実現をのぞみ、失われた原風景としての「コタン」を憧憬し、また知里幸恵の描き出した純粋な理想的世界としての「コタン」を自らの誇りの根拠として胸に抱いて、和人の搾取と蔑視、そして貧困と疫病と酒害とにまみれた、さびれ打ちひしがれた現実のコタンをめぐることに費やされることになる。

 森竹竹市、チェラー八重子も知里真志保と同様、公にアイヌの社会的地位向上を訴えるようになった。

 1990年、幸恵の文学碑は幸恵が伯母の金成マツ、祖母のモナシノウクとともに過ごした旭川・チカプニ(近文)の北門中学校の構内に荒井和子を中心とした市民の募金により建てられた。制作は彫刻家の空充秋氏。毎年幸恵の戸籍上の誕生日である6.8日にチカプニのアイヌの人々の主催で生誕祭がおこなわれている。

 生誕地の登別では2000年より毎年、幸恵の命日である9.18日の前の連休ごろに知里むつみ(幸恵の姪)を中心とする特定非営利活動法人「知里森舎」によって、幸恵や幸恵が命をかけて残した「カムイユカラ」を中心とするアイヌ文化などについて考えるイベントが開かれている。

 2003年、生誕100年をきっかけに幸恵の生地である、ヌプルペッ(登別)に幸恵の記念館(仮称・銀のしずく記念館)を建設しようという強い動きとなり建設募金運動が続いている。

 2006.1月、2008年度のノーベル文学賞を受賞したフランスの作家ジャン=マリ・ギュスターヴ・ル・クレジオがル・クレジオとともに『アイヌ神謡集』のフランス語訳の出版(ガリマール社)を実現した作家の津島佑子と幸恵の墓参に訪れている。

 2008.10.15日、NHKの『その時歴史が動いた』で幸恵が取り上げられた。


 金田一氏は、著者が同氏宅に滞在中に記していた日記を死ぬまで秘蔵していた。1971(昭和46)年、金田一氏が他界した。1975(昭和50)年夏、幸恵の墓を登別に移すことになった。雑司ヶ谷の墓の始末にきた幸恵の妹のMは、そこでご子息の晴彦氏から、くだんの日記類を手渡された。日記の間に一通の手紙があった。幸恵が死の4日前に出した手紙であった。手紙には、医者から結婚不可という診断を受けたことを両親に報じてあった。
 「此のからだで結婚する資格のないことをよく知ってゐました。それでも、やはり私は人間でした…充分にそれを覚悟してゐながら、それでも最後の宣告を受けた時は苦しうございました…村井が何んな事を感ずるかと云ふことが私の胸を打ちます。…昨日…知らせてやりました。何んな返事が来るか」。

 幸恵は、村井さんの返事を聞かないまま逝った。

 くだんの日記は、「日記 知里幸恵」にサイトアップされている。れんだいこは、知里幸恵が東京へ来て以来、「異常なほどにキリスト教の洗礼、マインドコントロールを受けて居る」事実を知らされた。彼女が望んだのか、誰に教唆されたのか分からないまま記述されている。彼女は懸命に学び、且つ多少の違和感を覚えつつ煩悶している。それは、彼女を愛育せしめてきたアイヌ思想との齟齬から生まれてきたように思われる。れんだいこは、19歳の彼女にかくも精神的暴力が加えられた事をなじりたい。

 れんだいこは、「金田一氏の日記秘匿」は、金田一氏と知里幸恵の不倫関係を窺うよりも、「知里幸恵のキリスト教洗脳事件」を秘匿せんが為ではなかったかと推理する。以下、、れんだいこの興味深い記述箇所を抜書きする。(れんだいこ式文法及び現代文に書き直す)
 大正11.6.1日

 私は思った。この月は、この年は、私は一たい何を為すべきであらう……昨日と同じに机にむかってペンを執る、白い紙に青いインクで蚯蚓の這い跡の様な文字をしるす……たゞそれだけ。たゞそれだけの事が何になるのか。私の為、私の同族祖先の為、それから……アコロイタクの研究とそれに連る尊い大事業をなしつゝある先生に少しばかりの参考の資に供す為、学術の為、日本の国の為、世界万国の為、……何といふ大きな仕事なのだらう……私の頭、小さいこの頭、その中にある小さいものをしぼり出して筆にあらはす……たゞそれだけの事が――私は書かねばならぬ、知れる限りを、生の限りを、書かねばならぬ。――輝かしい朝――緑色の朝。朝食の時、中條百合子さんの文章から、術レ芸と実生活、金持の人の文章に謙遜味のない事などを先生がお話しなすった。

 芸術と云ふものは絶対高尚な物で、親の為、夫の為、子の為に身を捧げるのは極低い生活だといふのが百合子さんの見解だといふ。「しかし芸術が高尚な尊い物であるのとおなじく、家庭の実生活も絶対に尊い物である事にまだ気がつかないのはまだ百合子さんが若いのだ、かはいさうに……」と先生は、若い彼の女をいぢらしいものの様にしみ/″\と仰る。私はよそ事ではないと思った。胸がギクリとした。私には芸術って何だかよくはわからないが……。

 それから、百合子さんは、あまりに順境に育ったので、人生は戦ひである事を知らずに物見遊山と心得てゐる……といふお話もあったが、わかった様なわからない様な気がした。喜びも悲しみも苦しみも楽しみも、すべてが神様の私にあたへ給ふ事なのだ。私に相応しくない物を神様は私にあたへ給ふ筈はない。だから私はあたへられる物を素直に喜んでいたゞかなければならない。不平、それは、神を拒否する事ではないか。感謝、感謝! 罪を犯して罰をのがれやうとは虫のいゝ話。
  六月二日

 此方のイアクニシパの遺稿『身も魂も』を読んだ。何といふ悲痛極る文字であらう。一字々々真紅な心臓から迸出る美しい生血で書つけられたものゝ様……。愛とは何。彼の君が命を懸けて戦った血と涙の記録、何うして涙なしに読む事が出来ようぞ。私にはちっとも批評などの出来る頭ぢゃない、たゞ/\痛切な同情同感の涙のみ……。

 真剣、私の心に真剣な愛があるか。真剣な愛を彼に捧げてゐるのか、果して。純真な美しい愛か。おゝ私は愛します。たゞ貴郎を愛します。身も魂も打こんで……。貴郎もまた私に然うである事を私は深く/\感ずる事が出来ます。信じます。私をも信じて下さい。……グリース神話読終る。
  六月三日

 お湯にゆく。自分の醜さを人に見られることを死ぬほどはづかしがる私は、何といふ虚栄者なんだらう。これでももし人並に、あるひは人以上に美しい肉体を持ってゐたら、自分以下の人に見せびらかして自分の美をほこるのであらうに。私にふさはしくないものを神様が私にあたへ給ふ事はない。私には何うしてもなくてはならぬ物かも知れない。私はあたへられた私のものを、何のはづる事があらう。神様の目からは、さういふ美醜などは何の差別もなく、みな一つのものではないか。尊い賜である肉体を醜いと云って愧ぢてゐた私。神様に何といふ私は親不
ママな子なんだらう。美しい、醜いなどといふ事を何処から割出してきめた事なんだらう。独決! 美しくてもみにくゝてもいゝではないか。みんな人間だ、みんなおなじに神の子ではないか。親の愛は美しい子にばかり偏るであらうか。否。肉体の美醜は親の愛をちっとも変らせる事はない筈だ。私はたゞ感謝する。感謝する。
 六月四日 日曜日

 七日のうち一日……遊ぶことをわすれて……真志保の声がきこえる様。一切を忘れて神様に祈って、懺悔し、感謝し、心のうちを神様に訴へる……あゝ何といふ尊い事であらう。私は「聖書が欲しい、教会へゆきたい――」それを抑えてたゞ祈る。神様よ、私が何うかしてほんとうに一すぢの心になれます様に――。

 旭川ではもう日曜学校を終ったらう。親、兄弟、親類、知己、一人々々の顔が目の前にうかぶ。父様の病気はなほったか知ら。種々な種類の美しく咲き揃った花を売りにあるく人が面白い声で花歌をうたふ。
やはり私には教会が懐かしい。神様のお話がきゝたい。讃美歌を歌ひたい。祈りしたい。不信仰な私は聖書を忘れて来たのだ……罪人。

 先生に教へられて本郷教会へ行く……大きくない教会だけど、あまり人の少いのにちょっと驚かされた。十二人の来会者のうち真面目に話をきく人が何人あるのかしら。若い青年がコクリ/\とゐねむりをし、若い女があくびの出しつゞけ。オルガンを弾く女の人は居ねむりを我慢しきれないでみっともない様子をする……。私には今夜きいたお話が何だかわからなかった。今私の頭に、胸に、何の印象も残ってゐない。

 杉原大尉を思ひ出す……杉原先生のお話がきゝたい。真砂町に小隊があるから……とたしかに仰ったのを覚えてゐるが、わからなくて困る。心からシックリと私の心に合ふお話がきゝたい。杉原先生を恵み給へ。

 先生が仰る。私が一つの原稿を書くにもこんなに苦しんで書く。誰にもその苦しみは認めては貰へないけれども、それでもいゝかげんにサラ/\と書く事が出来ないと仰る……おゝ何といふ尊い事であらう。何だか知ら、私は涙が出さうに先生の人格に敬服する……。苦しんで苦しんで出来した物を人はちっとも知ってくれないのに、それでも苦しまずには書けない……。私は心の中にそれを繰り返し繰返す。
お伽噺を読むと、私も天真爛漫な子供になってしまふ……。坊ちゃんに読んできかせて上げて、また寝るまで読んだ。グリムのお伽噺。

 東京の物売りは実際面白い。豆腐屋がアウ/\と何か気の狂った小僧さんの様な声を出して私を驚かして、わざ/\おもてへ飛出させたりしたっけ。今日はおうちでフロックスの花を買った。花を見ると、お父つぁんが思出されて仕様がない。万年筆が何うしたのか、インクが両方から漏り出して困るので赤いきれで繃帯してやったが、それでも漏って困った。先生がかはいらしい万年筆を貸して下すった。此の私のは今度直す所へやって下さるとのお話、東京の商人はずるくて、地方へは悪いものを持ってゆくのだと云ふお話もきいた。

 一たい商人といふものは何うしてさう利慾にばかり偏るのか知ら……今夜の牧師さんのお話もさういふのらしかった。富めるものゝ神の国に入るは如何に難いかな。神様の委託物である富を、神様の聖旨にかなう様に使はねばならぬ。富を得る為に悪い事をしたりする人は富を神の賜だと思はないから……自分の労力の代償だと思ふから……。ではその労力は何処から来る、其の代償は何処から来る。見よ、空の鳥はつむがず耕さずして而も豊かに日を暮してゐるではないか、といふおはなしであったのだ。私たちは何もさう、ちっぽけな智恵をしぼって富なる物を得ようとして脱線したりしなくとも、神様は、たゞ信頼し身も魂も任せてる者には、毎日のなくてならぬものは必ずあたへ給う、と。富があたへられたら神の為に……私は、何を持ってるだらう。
 六月五日 いゝお天気

 英語を教る。知らない事を覚えてゆくたのしみは非常に大きな物。旭川の母様からお手紙をいたゞいた。森長操さんといふ方が私と友達になりたいとの事、何だか困った事の様に思ふ……。私に今まで友達といふものが真にあったであらうか。知里さん、幸恵さん、どうぞ永久に御交際を……さう云って下すった人たちは今何処の空に暮してゐるのか、それさへ私にはわからない。私が東京へ来た、お友達に知らせやうと思った事いまだ一度もない。私にまごゝろがないからか。

 久方振りで聖書を見て私は喜ぶ。やはり私は神の子、常に神にそむいてゐながら、やっぱり神様を思ひ出づる。神を仰ぎたくなる。聖言葉がきゝたい。
六月六日

 朝、聖書を読む。我やすらかにして臥しまたねむらん。ヱホバよ、我を独にてたひらかに居らしむるものは汝なり。昨日、奥様に拝借した平民の福音を読む。人に親切をする事、それは非常にいゝ事である。だけどただ親切をするといふ美名を着るのみなら何にならう。親切は、ほんとうの心から、心の底から起る愛の発現ではないか。相手の人の心と自分の心とが同じになって、はじめて、自分の心が自分のからだを動かして働く……美しい事、尊い事。

 お昼はお汁粉、おいしかった。英語はだん/″\むづかしくなって来た。何うしてかう覚えが悪いか。でも、あせらなくったっていゝ。考えればわかるのだから……。もう少し敏捷に頭が働けばよいと思ふけれど自業自得か。それともこれが私に相応った頭であらう。勉強々々、何だか後から/\追はれる様な気がする。いそがしい事だ。

 おゝ、別れの時の光景が目の前に浮ぶ。フチたちよ、父母よ、兄弟よ、御身たちの健康を祈る。私はあなたたちの為に何のいゝ事をしたであらう。これからも何を為し得るであらう。寧ろ心配をかける事の方が多くなるのではないか。神様、私を導きたまへ、私に最もよきところへ。今日は一寸雨が降った。
 六月七日 朝

 悪に敵するなかれ。人汝の右の頬をうたば亦外のほゝもめぐらしてこれにむけよ。人汝に一里の公役を強なば、これとともに二里行け。汝に求るものには予へ、借らんとする者をしりぞくるなかれ。汝等の敵を愛み、汝等を詛ふ者を祝し、汝等を憎む者をよこし、なやめせしむる者のために祈祷せよ、神の子とならん為に……天の父が日を善者にも悪者にもてらし、雨を義き者にも義からざるものにも降らせ給へり。(馬太五・三九―四六)

 此の故に天に在す汝等の父の完全きが如く汝等も完全くすべし。我汝の指のわざなる天をみ、なんぢの設けたまへる月と星とを見るに、世の人はいかなるものなればこれを聖心にとめたまふや、人の子はいかなるものなればこれを顧みたまふや。たゞすこしく人を神よりも卑くつくりて栄と尊きとをかうぶらせ、またこれにみ手のわざを治めしめ万の物をその足の下におきたまへり。

 すべてのうし、羊、また野のけもの、そらの鳥、うみの魚、もろ/\の海路を通ふものまで皆しかなせり。われらの主ヱホバよ、なんじのみなは地にあまねくして尊きかな。(詩
ママ・三―九)

 神様は絶対公平の愛なのだ。私は広大無辺の宇宙を思ふ時にさう思ふ。そして、また最も小さい小さい虫を見ても草花を見てもさう思ふ。名もない草花、垣根の隅の小さな苔でも時が来れば花ひらき種を残して枯れてゆくではないか。神様がそれを彼にあたへ給ふて、彼の此の世の天職としたまふた。そしてかの小さい花は何の不平も持たぬではないか。彼等はそれでいゝのだ。太陽、星を支配したまふ神様はまたかく最小さきものをも些の乱れなく支配したまふ。

 お父様の手紙、お父様がさういふ事をお書きなさらうとは夢にも思はなかった。――人間は何が苦しいと云って、不快な程不幸な事はないであらうと思ふ。其身も将来家を営む上に充分注意を要するべく、其身世間のおかげで勉強して大な智恵袋に一ぱい智恵をつめこんでも、不健全な身体を持ち、不愉快な日を送る様では、何にも知らずに日々荷ナワを背負って薪木を拾ふ人、わらびをとって市に売る人々の方が何程幸福であるかわからぬのである。私の心配する処は其所にあるのですから、必ず/\注意すべきであります――。

 然り。お父様よ、其の通りで御座います。健康は実に人間の幸福の源でありませう。健康な人は日々の仕事も楽しく快くキパ/\やってのけるでせう。思ふがまゝに其のからだを動かして、夫の為、親の為、子の為、人の為につくすでせう。おゝ健康! 何といふいゝ物でせう。私はすべての人が何うぞ此の健康を得る様にと望みます。そして、私もそれが欲しう御座います。ですけど如何にせん、私には健康がありません。私の生命の源泉である心臓が不健全なのです。一秒々々、ちっともやすまずに湧出づる血潮をせきとめるかたい弁があるのです。しかもその障碍物は私の心臓から取去る事は出来ない、一生出来ない。それも私には無くてはならぬものだから……一度硬くなったそれは再びもとのようにはならないのであらう……。では私は、一生涯不健全な身体で、日々鬱々と不快な時を過さねばならないかしら……。おゝそれではあまりに不幸ではないか。神様は私の罪の償に健康を取上げ給ふた。しかし神様は私を愛したま
ママ……愛の鞭。病苦をあたへ給ふて私を錬りそして、心の健康をとらしめ給ふのだ。心に安心歓喜をあたへ給ふたのだ。私の心に悪魔が働く。私はもし充分な健康を持ってゐるならば、私は必ずやそれを無上のほこりとして、神を忘れ、世の人を忘れて己のためのみの人間になってしまふであらう。神様よ感謝します。私は弱い身も魂も神様にまかせてさゝへていたゞきますから、安心があり歓喜があります。

 何卒お父様御安心下さいませ。私はかうして神の愛をさとりましたから。世の同病者の為に心から祈る心が起る。人に健康を失はせまいといふ努力を心からする事が出来る。私は病苦を通して神様からかういふ賜をいたゞいたのだ。私の身は神に任せ、よろこびと感謝にみちた愛の笑顔を持って人に接しませう。
 六月八日 木曜日

 なんぢ施済をする時、右の手の為すことを左の手に知らする事なかれ。かくするは、其の施済のかくれん為なり。然ば、かくれたるに見給ふ汝の父は明顕に報ひたまふべし。(
ママ六・三―五)

 かくれたるに見たまふ父、かくれたるに在す神、おゝ、見るものなしとて罪を犯す私の愚さよ。何うしたらいゝだらう。人さへゐなければ、何かのかげにさへ身をおけば、何かで身をおほふてしまへば、それで自分はかくれてゐるのだと思ふ、何といふ馬鹿者でせう……私は……。

 かくれたるに見たまふ神、かくれたるに在す神。しみくひ、さびくさり、ぬすびとうがちてぬすむ所の地に財をたくはふる事なかれ。しみくひ、さびくさり、ぬすびとうがちてぬすまざるところの天に財をたくはふべし。(太六・十九―二二)

 そは、なんぢらの財のあるところに心もまたあるべければなり。ほんとうに、地上のたから……金を持つ人は金に心を奪はれる。身の外形のみに飾りをつける事に腐心して肝心の心をるすにするんですもの。

 人は二人の主に仕ふる事能はず。なんぢら神と財に兼つかふる事あたはず。(太六・二四)

 此の事についてえらい人の話をきゝたい。杉原先生のおはなしをきゝたい。

 是故に汝らにつげん、生命のために何を食ひ、何をのみ、またからだのために何をきんと思ひわづらふ事なかれ。生命は糧よりまさり、からだは衣よりもまされるものならずや。空の鳥を見よ。まく事なく、かる事せず、倉にたくはふる事なし。然るになんぢらの天の父はこれを養ひたまへり。

 馬太伝六章には、何とまあいろ/\な事があるのでせう。私の浅い知識で解せない所は多々ある。何卒教へて下さる人を与へられます様に……。

 神ヱホバよねがはくはかれらにおそれをおこさしめたまへ。もろ/\の国人におのれたゞ人なる事を知らしめ給へ。(詩九・二〇)

 おのれたゞ人なる事を私は時々忘れる……。此の広大無辺なる宇宙を見よ。極細少から最大の物まで皆一つの運命をもってゐるではないか。深山の奥にある一つの苔も此の家の土台の際の小さい草も、みんなおなじく時がくれば花をひらく……春夏秋冬、世はみんな一定の法則のもとに刻一刻、ちっともかはらずに動いてゆくではないか。神様の力は何処まであるか、それを見て量知る事が何うして出来よう。大きな力、無限の力、無始のはじめから無終の終まで、大きいものから小さいものまで一貫してはたらく其の力、それこそは神様ではないか。

 あゝ何と云ったらいゝかわからない。たゞありがたい。夕食後、平民の福音からはじまって先生に宗教談をうかゞった。私は何だかしら何もかも解決がついた様な気がしてたゞ嬉しい。

 おつるさんといふ人のおはなし。はじめは感心し、羨望し、驚愕し、同情し、おしまひには何だか何もわからなくなってしまった。大病人の看護を打捨てゝおいて、自分の霊の糧を得るために、何時間も費す、それで自分は義しいのだと主張する……それでいゝのか知ら……。自分の満足のために人を犠牲にする、それが宗教の最高なものか。私はわからない。一杯の水を人にあたへても、それはその人にあたへたのではなくてヱス様に上げる事なのだと仰ったではないか。人に至誠を持って仕へる、それがすなはち神様に仕へるわけではないか。自分をすてて人につくす、だから十字架が尊いのではないか。あゝ私はまとめて今夜のお話と感想を書つらねる事は出来ない。たゞし何となしに重い心が急に軽くなった様な気がする。
 六月九日

 偽善者よ、先づ己の目より梁木をとれ、さらば兄弟の目より物屑を取得るやう明かに見べし。(太七・五) 偽善者とは私の事、ほんとうに私の事。
 六月十日

 天国近きに在り、ほんとうに。私たちの周囲は天国にもなれば地獄にもなるのではないか知ら。私の心も天国になり地獄になる。
 六月十一日 日曜日 風 晴 月夜

 朝九時前に本郷基督教会へ行く。日曜学校も北海道とはちっとも変らない。何うしてだらうか。きれいな若い女の人、讃美歌の声の素敵に美しい人が女の子を教へて庭でしきりに讃美歌のけいこをしてゐた様で、男の子は、眼鏡をかけたハイカラな人が教へてゐた。紙に刷った何かを一枚づゝ、五六人の子にわけて低い声で話をしてゐた。エレミヤの話らしかった。が私にはきゝとれなかった。あれが子供たちの頭にどれだけ深い印象を与へ得たのだらうか。たゞ印刷物を読んで字の通りを説明してきかせて……。子供等はあき/\してゐた様に見えたった。大人集会、聖餐式、寺西牧師不在、聖女学院教授平井先生のお話。私にはよくわからなかった。パンはユダヤ人の常食、葡萄酒はお茶の様な常飲料だから、それから見て、キリスト教は特別な人の宗教ではなくて、たゞの人の宗教、深山に世捨人になって難行苦行するとは違って誰にでも出来得る事である、といふ事。

 キリスト教は信者が各自、自分の家庭の人を導いてゆくならば、国はスッカリキリスト教になり得るといふ事。聖書を読まねば信者とは云はれないといふ事。大体さういふのであった。

 夕食後、何といふ教会か知らないけれど、教へられて行って見た。若い子供の様な顔した青年が、何でも信仰の証言をたてゝゐる所へ私が行ったのらしかった。キリスト教にはいって楽しよう、安心しようと云ふのぢゃなくて、かへって十字架を負ふて主の苦しみを苦しみ、悪と戦はねばならぬ。人間に仕へるは難く、神に仕へるは易く。一生涯を安楽に暮すのではなくて、一生涯を罪と戦って苦しんで死んだ方が、神の嘉し給ふ所である……と。それから、歴史学者が小さい茶碗のかけらを得るために一生涯を費し、科学者や其の他何とか学者が学術の為に命を捨てる。キリストは悪と戦って死んだが、再びゆきて我世に勝てりと云ふ事が出来た。我々も悪と戦って命を捨て、最後の勝利を得ようとしてゐる……。さういふあらましであった。

 波多野牧師の話。江原素六先生(武士道と宗教)と云ふだいで、江原先生の人格についてのおはなしであった。ポーロがダマスコへ行った時は人を沢山つれて行き、三年たって帰った時はスッカリ別になって一人で何も持たずに帰り、人権をのみ重んじてゐたのが、三年の後には天爵、神の力を尊敬する様に変った。江原さんは武士道からキリスト教に移った為に、家柄よりも日本を思ひ、日本よりも世界的、ひろい心になったといふ事。江原さんの如何に宗教に対する熱心だったかを波多野牧師は話した。今夜は私は何を得たのか。

 教会で思ひがけなく河野さんに会った。きれいに白粉をつけた彼女は短い時間にいろ/\な事を話した。ホワイトナーさんのベビーさんが出来た話は何となし嬉しかった。あそこにゐた美しいおとみさんが出されてしまったといふ――急に品行が悪くなって夜遊びするのだった、と云ふ……。かはいさうに……。

 救世軍はもう終りかけた所へ行った。小隊長が細い/\手を動かして、しかも強い声でザアカイの話をしてゐたらしかった。私が行ってから二口三口で終ってしまった。――求むる心、切に求むる心がつひにザアカイをして何をもはゞからず桑の木にのぼらしめた。そして望む所の貴い物をかちえた。十二年血漏をわづらった女は無言のまゝ、主の衣にさはって医しを求めた――。

 求むる心――それは今の私の心ぢゃないか。少い会衆の多数が立ってお祈りをし、一人の女が泣声で一言二言お祈りした様であった。一人の人は熱心過ぎて、家もわれんばかりの声で祈った。熱心な人々――何といふ純な人たちであらうか、羨しい程――。
 六月十二日

 昨日のお客は、発音学専門の独学者だと云ふ……その弟の人はやはり言葉にばっかり興味をもって、今は六ヶ国の国語に上達して、各国の小説を読んでゐると云ふ。面白いうまれつきを持った人たちもあるもの。うまれつきりっぱな頭脳を持った人は楽々といろ/\な事が覚えられる。私の様に暗記も出来ない頭脳の、それこそ遅鈍の頭か土人の頭か知らないが、人一倍苦労して/\覚え得たものも、直ぐになくしてしまふ人もうまれつきだから仕方がない。それも私には、それでいゝのだ。

 私は昨日、大へんな事をきいた。先生は、私に話しない方がいゝか知ら……と考えていらしったが、それであなたの信仰がぐらつく事はないであらう……と仰ってお話下すった。オックスフォード大学のえらい世界中の学界の権威フヱザーといふ学者の発表したキリスト様の事に就いての事……。

 それから、日本の天照大神の事などもそれのついでにきかせていたゞいた。そして、そのために信仰をぐらつかせるものは、夫が美男子だから貞操の妻になる、親がえらくないから子は親不
ママをしてもいゝといふ様なのと同じだといふ事もきいた。成る程、わかった様な気がした。

 頭の工合が少し変だ。寝不足の故為だらう。胸の鼓動も此の頃は少し急な様……。ゐねむりをしてしまった。そして種々な夢を見た。何うしてあんな夢などを見るのかしら……。登別の家でお引越し。みんなが荷物を背負って搬ぶ。フチと浜のフチがおんなじ格好でサラニプを背負った。行ってみる。私もあとからブラ/″\と行く。彼処は何処だらう。深い/\谷をめぐる山の上を私たちはあるいてゐた。そして谷へ下りるかなり傾斜の急な馬車道がある。そこを下りるとオンネシサムが薪を積んでゐた様だった。そして、その翁さんが知らせたのか何うか、私は、何だか「此の道を下りてゆくなら今直ぐに下りてゆかねばならぬ。もう少しおくれれば大へんだ。谷の底からヱンユクが飛出す……」といふ事を思って恐怖の念が私の心にみちてゐた。と、フチも浜のフチも姿が見えなくなった。「あゝ私は一人とり残された」といふ感じが私をおそふて、ずいぶんいやあな気持がした。お父つぁんもハボも見た様な気がするが、ハッキリわからない……。

 またねむった。やっぱり前とおなじ様な沢道を通った――見渡す限り濃緑の――一つの大樹のそばを通った……何だか黒いかたまりがあった――私はぞっとした。何かしら、それが大きな黒い蛇がグル/\アカムになって、そこにゐる様な気がして……。

 思ひついて、ポン先生に葉書を出した。あの先生にも随分かはいがっていたゞいたが……。一ばんはじめに学校へいらしった時はまだ子供子供したお顔で、教室のわれる様な声で教へて下すった。私の事をレキヱ/\と云って、私のうはさを云っていらしったさうだ。だんだんなれるに従って随分かはいがっていたゞいた。学びの友といふ生徒の成績品だの、先生のおはなしだのを綴ぢた本をつくったり、平岡先生批評書とかいふのをつくってみんなに廻して、平岡先生が来られたのに対しての感想を書かせたものだ。お祭などには先生のお家へ、川上トメさんなどゝ一しょに遊びに出かけたものだ。そして先生の兄さんのお家のこわめしを御馳走になったっけ……。

 栗山タツさんが、今思へばつくりごとであったかも知れないが、とんでもない事を云ひ出して先生をびっくりさせた事があった。タツさんから先生に取りついだのは私だった。その時の人の名は、たしか管野とか言った様であったが、その人こそ迷惑至極であったらうが……。高等科へ上ってから、私は毎日の様に試験の答案を先生に持って行ってはお見せした。先生と一しょにオルガンを弾いて歌った。何も出来ない子供等の中に、私は少しよかったので先生は私の将来に望を
ママしていらしったのだったらう。まだ/\/\いろ/\な事があったっけ……。アイヌの子供をちっとも差別せずに、自分の弟や妹の様に思っていらしった事は、何時までたっても忘れられない。

 試験に及第した時も成績の悪い時も、あたかも我事ででもあるかの様によろこびまた心配して下すった。私の事ばかりぢゃない。教子全体の為にも……勇さんの事で赤松先生の所へ、おっかさんから勇さんを連れてゆけと云はれて学校へ行った時も、先生は遠い雪道の帰りかけをわざ/\勇さんの為に戻って来られたのを覚えてゐる……。お祭でも何かの時には、平気で私たちを連れて行って下すった……まだ/\一ぱいある……。私は今日先生に葉書を出したが、きっと先生はよろこんで下さるだらう。お湯へ行って来て今日も終る。
六月十三日

 私が東京の地をふんでからちょうど一月たった。長い様でもあり短い様でもあった。私は、あと一月を越す事が出来るかしら……明日ありと思ふことなかれ……私が一月ゐるか十日ゐるか、目に見えぬ絶大の力、神の力のまに/\行く私たちですもの……其の時其の日を真実に過せばよいのだ。そんなら私の生活はこれで真実なのか。今、たゞ今、私の命が現世を去っても何の悔もなく目を瞑ることが出来るか! おゝ私は……。
  六月十四日
(太――六・十九)

一、もろ/\の天は神の栄光をあらはし、おほぞらはそのみてのわざをしめす。
二、この日ことばをかの日につたへ、この夜知識をかのよにおくる。
三、語らずいはず、その声きこえざるに。
四、そのひゞきは全地にあまねく、其の言葉は地のはてまでおよぶ……。(詩十九・一―四)
九、ヱホバのさばきはまことにしてこと/″\く正し。(詩十九)
十二、誰かおのれのあやまちを知り得んや。ねがはくは我をかくれたるとがより解放ちたまへ。

 
自分を捨てゝ人の為に……何といふ難かしい事であらう。私にはとても出来ない事であらう……が、此の前先生が仰った様に、自分を捨てきる事は出来ないけれども捨てゝ人の為にしようといふ努力はやはり尊いものである。努力、努力! そして出来るだけ完全に近い所へゆく……それが人間にとってもっとも尊い事である。

 おひる過ぎ、先生お一人を残して三越に出かける。電車の中は涼しかった。奥様のお顔も涼しく見えたので嬉しかった。昨日いたゞいた着物を早速着て出かけたのだ。嬉しかった。真心から与へられたものを真心から有難いと思ふ――それでいゝのだ。何でお礼が返せるかなどゝ思ふのは、かへって与へた人の真心を無にする所以かも知れない。私だって人に物をあたへる時、価を貰はうとして与へるか。それでは押売りではないか。

 三越の中をあるいて/\くたびれてしまった。お汁粉、ドーナツ、曹達水を御馳走になって帰って来た。文明世界は私たちから見ればまるで戦場の様な目まぐるしいものだと思った。二尺に一尺ぐらゐの平べったい瀬戸物の中に水をたゝへて、其中に黒い石の凸凹になったり穴のあったりしてゐて二十円だといふ。小さな二つ三つの赤い花をつけた鉢が二円いくらだといふ。何だかぐちゃ/\とした半衿が一かけ五円だといふ。すべてが私の目をまるくする種であった。何を見たのかちっとも覚えてゐない。何でもあゝいふものは私よりも色の白い人たちが興味を持って見るものであらう。私はたゞ別な人間の住む星の世界を見物にでも来た様な気がした。自分で欲しい、自分の身につけて見たいなどゝはちっとも思はなかった。

 夜本郷キリスト教会の祈祷会に奥様のお許しを得て出席した。男は牧師を入れて七人、女は私と八人、女の子が二人ゐた。ちっとも熱のない会の様に思はれた。私は何故こんな心になったのだらう……。兵隊さんあがりの商人らしいりっぱな人の信仰の証言があった。それは自分の妻をうんとほめそやしたものであった。

 愛は忍ぶ――ほんとうに然うだらう。夫を愛すればこそ何事も忍ぶ――おうちの旦那様も奥様を愛するから忍耐しておいでなさる――奥様も子がかはいゝからこそ自分の苦しみを忍んで朝からあゝしていらっしゃる――愛があればこそ――。私に愛があるか――お前がお前を愛すると云ふ事のみでなく人を愛する愛を持ってゐるか――。

 白髪交りの梅原先生や、谷先生の奥さんによく似たよささうな人が私たちの為にお話をなされた――曰く、貴女がたが此の静かな時を得て、口に出さねど心の中に祈る為に此のみ堂に集ったのは何といふ幸福な事でせう。すでに祈祷会に出席しようと思って一歩を外に踏出した事が救はれてゐる心の拠証で、貴方方は実に仕合せな人たちだ――。

 牧師さんがねむさうなのにはお気の毒な感じがした。今日旅から帰られたばかりだといふ。無理もないこと。人の話に感動して額を机にすりつけて居られるのかと思ったら、それはねむっていらしったらしかった。おねむい時はあゝいふ会に成るべく出席なさらない方がいゝのぢゃないかしらと思った。

 牧師さんのお話は、何でも御旅行先の森岡とかいふ人が、肺結核になって一時は非常に悲観して世を呪ひ人を呪ってゐたが、この頃はその病気がすっかりなほって、其の家庭がまるで変ったといふ事であった。そして其の病気のなほったのは其の心持からで、たしかに神の霊感を受けたからで、私たちは誰でもみんなその霊を感ずる事が出来る――といふのであった。
でも教会へ行く事が私には大きな楽なのだ。

 私に感化されてお菊さんがたいへんよくなったと奥様が、おひるきくさんがお使行のあとで仰った。私の内心びくりとした。ハテ、私に一たい何んなよいところがあるのか、臆病な卑怯な心の持主の私の、何処が人を感化する力を持ってゐるのだ――自分で自分をさへよくする事が出来ない私ではないか――おゝはづかしい――。お菊さんは不幸な人で、さうして幸福な人だ――物を見て、人のでも構はず欲しくなって手を出すといふ癖を持つ人は沢山ある。私は、物を見る――きれいだ、と思ふ――然しそれが欲しい、自分のものにしたい、などゝ思ふ事があるかしら――。お菊さんはその心が出て来たときに自制する事が出来ないから不幸な人であったが、今は心を入換へてそんな性癖を矯してしまったといふ。何といふ尊い事でせう。彼女は幸福な人である。自分の性癖をまったくすてゝしまふ、それは何んなに難かしいか知れない。私にはどんな性癖があるのだ。――人前をかざる――それではないか。即ち嘘偽! 言葉にも行動にも。でもほんとうに純な心になってる事がある――そんな時には決して嘘なと云はれないが。他人の感情を害ふ事を無闇とおそれる私。やはり臆病なのだらう、心にもないお世辞を吐いたりする。
人の感情を害すまいとして、自分の思ふと違ふ、寧ろ反抗したい様な事柄も口では然り! と相槌を打つのが私のくせだ。それは正しくない虚偽の生活か――わからない――それだからって、自己に忠実に、人の感情が不快であらうがどうであらうがそれは知った事ではない、自分の思ふ事をどし/\言ってしまって人の心の平和をかきみだしてしまふ――それでよいのかしら――わからない――。

 しかし、こんな事で迷ふのは、私がばかなのだらう。それは時と場合によるのだから……。だけども、それは人各自の性質の如何で、同じ時、同じ場合でも一方はさらりと竹を割る様に活溌に自己の思ふ事を其のまゝ発表してしまひ、一方は内気に控へて言ひたいのをこらへて、口にまで出るのをのみこみ/\何うしても言出し得ないでもじ/\する。私は一たい何れに相当するのか――私は臆病なのだ――意気地なしなのだ――。

 久しぶりで英語をおならひする事が出来た。先生はほんとうにおねむさうなのに、私故に無理をなすって教へて下さるのを思ふと、安閑と毎日を暮しておせわになり、其の上に英語を教へていたゞくなんて随分勿体なさすぎる事だと思って気が気ぢゃなかった。

 昨夜の先生の御講演はアイヌの宗教についてで、非常に賞讃を受けられたと云ふ。何だかしら嬉しかった。二滴らし三滴らしの酒と一つの柳の削ったのを神に捧げて、そして大きな願をする――ずいぶん虫のいゝはなしだ――と思ふ人ははぢなければならない、といふ。何故なら神は人を造ったと云ふが、学問上からは人が神をつくるのだとする。西洋の神は西洋人と同じ神様、日本人の神様はやはり日本人とおなじ神様である。だからアイヌの神様もまたあいぬ自身の心の反映だから、あいぬの神が一滴二滴の酒とイナウをうけて、そして人間の大きな願を容れて大きな恵を下す……それは即ちアイヌの心持を其のまゝ物語るものであるといふ。寡慾なアイヌが頼まれゝば厭とはいへないといふ様な性質なのだ、といふお話でありましたさうな。何だか涙ぐましい気分になったのだった。
 六月十六日

 先生のお話。亜米利加では監獄の囚人を信じて獄外に出して、中学とかと野球の試合をさせる。すると囚人は一人も逃げるものなんか無く、信じられた嬉しさ有難さに泣いて獄屋に帰って来る、といふ。ほんとうに、信じられるといふ事は幸福な事ですね、と仰った。まったく信じられた時は、何うしても「こんなにまで信じられては、何うしてもしっかりしなければならぬ」といふ責任観念がひとりでに起って来て、むやみと疑はれる時は、こんなにしてもうたがはれる、と思ふと馬鹿らしくなるのが人の感情であらう。勿論、信じられようが疑はれようが、自分の尽すべき事を忠実につくし得る、尊い誠心がなければならないけれど……凡人は何うしても前者の様になりやすい、と思ふ。
 六月十七日

 汝心を尽し、精神を尽し、意を尽し、主なる汝の神を愛すべし。これ第一にして大いなる誡なり。第二もまたこれに同じ。己の如く汝の隣を愛すべし。(太二二・三七―三九)

 ほんとうに最も大きな誡、これだけを守る心がある人は全くのえらい人でせう。私にはとても出来ない。完全なえらい人になる事は出来ないのは当然だらう。が、先生がいつか仰った様に努力! 完全といふ目的にむかって真直に進んでゆく……それが私には最大なものである。
 六月十八日 日曜日

 中央会堂へ行く。波多野牧師、能力の宗教といふ説教。荻原副牧師の祈祷は何とも云はれずよかった。夜、救世軍へ行って、親の勤めと云ふおはなしをきいた。
 六月十九日 月

 奥様は痛切に神を求めていらっしゃる。先生は、奥様に神を信じさせようと熱心に努めていらっしゃる。
ときの声をお目にかけた。ブース大将の悲哀の教訓を……。先生はそれを奥様に読んでおきかせなすった。それから、馬太伝六章二十五節からおしまいまでのヱス様の御教訓を奥様にお読きかせなさいました。
 六月二十一日

 登別の父様、母様からお手紙が来た。親の愛、それはほんとうに疑ふことの出来ないものである。深いふかい親の慈愛をありがたく思はずに居られない。筆不精の父様が長い手紙を、書ぎらひなはぼがあれだけ書いて下さる。不孝する子ほど可愛いものだといふ。私はしみ/″\思ふ。親の深い恩愛を……。

 今朝お銭をいたゞいて涙した事が寝る前になっても胸にのこってゐて、泣きたい様な感謝の心が湧く。私が何をした為にかうしてお銭をいたゞくのか……こんなことを思ふのは間違ってるのだ。心よく与へて下さるものはありがたうございますと、溢るゝ感謝と共に真直にいたゞくのがいゝのだ。
  六月二十二日

 S子さんからの長いお手紙、ひらくと、ぱたりと落ちたのは二円のお銭。あの方の愛は純粋なのだ。私の愛はにごってゐる。おゝ御免なさい。私はあなたの為に生きます。お銭など送って下さらなくともいゝのに……。午後お母様からのお手紙、真子と富子からの手紙。

 救世軍の人に対してニシパが非常に悪感情を持って居られるといふ。救世軍は熱烈、死をも厭はぬといふ所はいゝが、大事な聖餐もなければ洗礼式もない、といふ。誰に断って人の家へ無断で来て集会を開いたり、人の部屋から寄付金をとったりするのであるかと、憤慨して居られるといふ。救世軍! 私は救世軍が好きだ。形式ばっかりの宗教よりもだん/\/\/\内容充実となる様に進んで行く。何故、聖公会だの救世軍だの何だのかんだのとわかれわかれになってるのだらうか。仏教だのキリスト教だのって……。自分の神さまを信ずる人のみが天国へ行き、あとのすべての人は地獄へ行くといふ。私にはわからない。あゝもう宗教の事なんかわからない。たゞ神様はある、たしかにあるといふ事だけを私は確信してゐる。孔子様だの何様だのはほんとうにえらい聖人であったらう。イヱス様の聖書を読んでは、一々、胸をさゝれる思ひがする。ほんとうに拝んでもいゝ。拝まなければならない。理屈なしに信ずればそれでよいではないか。何故私はかうも生意気なのだ。しかし、わからない。あゝ今夜は頭がをかしい。くしゃ/\してゐる。

 汝人をさばくは正しく己の罪を定むるなり。そは、さばく所の汝も同じくこれをおこなへばなり。此の如く行ふものをさばきてこれを行ふ者よ、汝神のさばきをのがれんと意ふや(ロマ二・一―三)

 マデアルさんが肋膜炎だといふ。何て情ない事であらう。さうあの人は弱々しい体格の持主だった。ほんとうに素直な優しい気性の人。学業の方は何うか知らないけれど、彼女をあのまゝ病の人にしてしまふのはあまりいたましい事である。

 何故アイヌは、知識と健康を併得る事が出来ないであらうか。幸に知識と健康を得たとしても愛を失ってゐる。無味乾燥、少しのやはらかみのないものが出来上ったりするのではないかしら。

 知識を得よう、知識を得ようと砕身粉骨に近い努力、先ず自分の最善を尽した私は、とう/\健康を失ってしまった。しかも、それほど望んだ知識なるものも望みの四半分も得る事が出来なかった。何故、私があまりに自然にさからったからか。さうかも知れない、さうでせう。自然にさからふ、それは大きな罪であらう。自然に伴ふべく最善をつくせばそれでよいのだ。マデアルさんの健康を心から私は願ふ。

 トシ子さん、ツナ子さん、マデアルさん、トヨさんが此の次には洗礼をうけるから、その人たちの為に祈れと母様が云はれた。ほんとうに彼の若い人たちが、何卒私の様な生半な心にならず、をさなごのやうにまっすぐな一途な心になって信仰の道にはいられる様に私は願ふ。
  六月二十三日 金曜日

 善をなすものなし。一人もあるなし。その喉は破れし墓、その舌はいつはりをなし、其の唇は蝮の毒をもてり、その口は詛と苦きとに満ち、その足は血を流さん為に早し。
残害ヤブレと苦難は其道に残れり。彼等は平康なる道を知らず。その目の前に神をおそるゝのおそれある事なし。(ロマ三・十二―十九)何といふ痛烈な峻厳な言葉であらう。人の胸を突刺すオプの様……。
 六月二十四日

 患難にも欣喜をなせり。蓋、患難は忍耐を生じ、忍耐は練達を生じ、練達は希望を生じ、希望ははぢを来らせざるを知る。(ロマ   )

 私は親の愛をつく/″\思ふ。父の愛、母の愛、それは何れ劣らぬものである。父様とはまだしみ/″\とお話をしたことは無い。だけど私は、父の愛も母の愛も、私の胸にしっくりと刻みつけられてあるのを今見出す。今此の指の先を流れてゐる血も、父母のわけてくれた血、その血の中には絶えず父母の愛が循
ママしてゐるのだ。かうして私が父母を思出してゐる時も、父母はきっと私の事を思出してゐてくれるのだらう。それが何百里遠い此処まで私の心に通じ、硬ばった弁膜をとほして胸の底まで徹して、それでかうしてあふれる涙があるのではないかしら……。私は今日何うかしてゐる。何故こうも父母が思出されるだらう。

 父様よ母様よ、私は父様にも母様にも不孝な子です。生れるから死ぬまで御心配かけどほしでした。これからだっても私に何が出来るでせう。今までより以上の不孝を続けるかも知れない。だから孝行などゝはあまりに大きくて、私にはそばへもよりつかれない事でありませう。此のまゝの状態で幸恵には何時此の世を去るべき時が訪れるかわからない。

 此の世にうまれて何一つ仕出かしたいゝ事もなくて、何時私は死んでゆくかわからない。だけど、父様よ、母様よ、幸恵は生きてゐてなんにもおとっちゃんやおっかさんにいゝ言葉をおきかせしなかったし、ましていゝ事などは出来るはずもなかったけれど、幸恵の心は、おとっちゃんやおっかさんの慈愛に対する感謝でもって一ぱいになってゐたといふ事だけは真実な事です。ゆるして下さい。それだけでゆるして下さい。(二十五日朝)
 六月二十五日

 奥様が教会へ……。何だか嬉しかった。波多野牧師は『神の子』といふお話をなすった。神を見る……それはむづかしい事だと思ってゐる。がそれはちっともむづかしい事ではない。一輪の花を見てもそこに神が見える。一羽の飛ぶ鳥を見ても神が見える。一人の赤ん坊を見れば一層そこに神の姿を見る事が出来る。人の心には良心がある。愛がある。それは神様の姿である。目に見えぬ神は、常に目に見える人の形をとって人にあらはれ給ふ。親の愛、夫婦の愛、友情などといふ愛を感ずる時、そこに神の姿が見えるではないか。キリストは神の子、その人格に神の姿が見えるのだ……。然うだ! 然うだ※(感嘆符二つ、1-8-75)
  六月二十六日

 奥様に手拭地を一反いたゞいた。何うしてこんなにいたゞいてばかりゐるのかしら。たゞ嬉しかった。ありがたかった。夜皆様おやすみのあと腰巻を一枚縫ってしまった。坊っちゃんがチッカッパをしようと仰ったのを快くお受けしたのはよかったけれど、外の事でおきくさんと一しょに何かを話してる間に、チッカッパはみんなしまはれてゐた。花火の話をきいてゐる時、またおきくさんが何かを云ったのに気をとられてよく坊ちゃんのお話を聞かなかった。坊っちゃんは不快さうにしてお床に就かれた。

 おゝ御免あそばせ。私が悪うございました。何んなに御不快だったでせう。小さい美しい子供心にちっとも同鳴せずに、大人である自分の事ばかりに気をとられた。何といふ私は利己主義な人間であらうか。清い美しい坊ちゃんの御心に一点の不快を点じた私の罪。おゝ御免あそばせ。私自身、一ばん人よりもさういふ事には一人で心をいためる。自分の言ふ事を知らぬ顔されるほど気持の悪い事は無い――さうした経験をあまるほど持ちながら――私は何といふひどい罪の人であらう。御免あそばせ、坊っちゃま。
  六月二十八日

 救世軍の杉原大尉からのお手紙。とう/\部落から手を抜くやうになりましたと。何だか情けない様な気がした。ほんとうに情ない。松山さんからの手紙。あの方の文字はあの人の気性其の物をあらはした様な文字。美しくて強味のある人であったが……。兄嫁と不和な為に北海道へ渡ってひとりぽっち、語るに友なき淋しい生活をしてゐる故、末ながく姉妹の契りを結ばうといふお手紙。美しいうちに強みを持った、優しいなかにきりっとしたところのある彼の女が兄嫁との不和で北海道へ来たといふ……ありさうな事だ。私の様に骨もない様な人には人と不和の為に遙々旅してわざ/\孤独の生活にはいる……さういふ事が出来るかしら。あゝ私が今こゝへ来てゐるのは何の為?

 松山さんはほんとうに懐かしみのある人だった。たしかにいゝ人だった。姉妹の契り、そんな事は私として、はいそれでは、と直ぐにそのまゝうけいれるだけの心の準備がない。たゞありがたう、と言ひたい。私の様なものにさう言って下さるとは随分変った人もあるものだ。
六月二十九日

 直三郎さんの病気を昨夜きいてから、何だかむやみと胸が塞る。とう/\あの子が肺病になったといふ。なんといふ痛しい事であらう。今朝先生がいろ/\とお話しなすった。ほんとうに我子をよくしよう/\とあせって、かへって我手で殺してしまふ。魚をとってばけつに沢山入れる。此方ではいまに池へはなしてやらうと思ってるのに、生悧巧な魚は逃れようとあせってピン/\飛立ってばけつの外に出てバタ/\して、とう/\砂まみれになる。おとなしいのは、終りまでじっとしてゐて池へ入れられる時を待つ。さういふお話を承って成程と感じた。運命に逆らはう、自然の力に抵抗しようと思ふのは罪ぢゃないか。おのれたゞ人ではないか。小さい、いと小さい人の力が絶大無限の神の力にさからはうとするのはあまりに愚な事ではないか。何故神は我々に苦しみをあたへ給ふのか。試練! 試練※(感嘆符二つ、1-8-75) 胸に燃ゆる烈火の焔に我身をやききたへ、泉とほとばしる熱血の涙に我身を洗ふ。さうしてみがきあげられた何物かは、最も立派なものでなければならぬ。

 私たちアイヌも今は試練の時代にあるのだ。神の定めたまふた、それは最も正しい道を私たちは通過しつゝあるのだ。捷路などしなくともよい。なまじっか自分の力をたのんで捷路などすれば、真っさかさまに谷底へ落っこちたりしなければならぬ。あゝ、あゝ何といふ大きな試練ぞ! 一人一人、これこそは我宝と思ふものをとりあげられてしまふ。

 旭川のやす子さんがとう/\死んだと云ふ。人生の暗い裏通りを無やみやたらに引張り廻され、引摺りまはされた揚句の果は何なのだ! 生を得ればまたおそろしい魔の抱擁のうちへ戻らねばならぬ。死よ我を迎へよ。彼女はさう願ったのだ。然うして望みどほり彼女は病に死した。何うしてこれを涙なしにきく事が出来ようぞ。心の平静を保つことに努めつとめて来た私もとう/\その平静をかきみだしてしまった――だからアイヌは見るもの、目の前のものがすべて呪はしい状態にあるのだよ――。先生が仰った。おゝアイヌウタラ、アウタリウタラ! 私たちは今大きな大きな試練をうけつゝあるのだ。あせっちゃ駄目。ぢーっと唇をかみしめて自分の足元をたしかにし、一歩々々重荷を負ふて進んでゆく……私の生活はこれからはじまる。

 人を呪っちゃ駄目。人を呪ふのは神を呪ふ所以なのだ。神の定めたまふたすべての事、神のあたへたまふすべての事は、私たちは事毎に感謝してうけいれなければならないのだ。そしてそれは、ほんとうに感謝すべき最も大きなものなのだ。
七月一日

 夕方奥様のお供をして中央会堂へ行く。一時間ほど待ってやっとはじまった。無邪気な子供等の映画に心が柔いで平和な気分になる。ジャン
ママルジャンの劇、父様の事が妙に思出されるので涙がこぼれた。其の家の女、親子の愛の美しさを目のあたりに見せつけられて涙を抑へる事が出来なかった。フ※[#小書き片仮名ヰ、168-6]リップが自分の学識、手腕をのみたのんで、それで愛児を救はうと思ったけれども、それは駄目であった。科学の力よりも母の愛の力が強かった。科学を絶対の大なる力と信じてゐた彼は、科学以外の存在を知る事が出来た。
七月九日 日曜日

 昨夜の夢はずいぶん変だった。兼吉さんの家に地下室があって、電燈が点ってゐた。私は富子をおんぶしてゐた。富子だと思ったが、泣声をきくと此方のたぁたんであった。中央に白布をかけた卓子があって、学校にあるやうな籐椅子が沢山あって、私はS子さんと対座してゐた。S子さんだと思ったのは川村サイトさんだった。兵隊さんが三人はいって来た。何処かのアイヌの兵隊さん……。私とサイトさんは大声で何かの議論をした。サイトさんが私にまけた。外へ出た。かんとくさんの家の前は一ぱい雪があって、道は凸凹でずいぶん悪かった。ヤイペカ/\しながら来ると、マデアルさんに出会った。瓦
ママか何かの縞柄のきれいな袷を着て長い袂の姿優しく蝦茶のメリンスの袴をはいて、靴をはいて、ニッコリ会釈して、あの素直なやさしい黒い瞳を輝かして行過ぎた。私は後見送った。うちにあった赤い表紙の讃美歌を右手に持ってゐた。

 中央会堂へ行く。副牧師のおはなし。何だか少しわかった様な気がした。汝等愛せらるゝ児女のごとく神に效ふべし。偶像をおがむ者のキリストと神との国をつぐ事を得ざるは汝等知ればなり。汝等もと暗かりしが今主にありて光れり。
以弗所書五・一―二二ママ

 欧州戦争の時、佛蘭西のジョフル元帥が戦傷者の呻吟してる病院を見舞った。すると、何とかの毒とかの為に顔がスッカリ腫れあがって顔の形もなくなった一人の兵士を彼は見た。おゝ、おん身はこの様に顔の形が無くなるまでに佛蘭西の為に苦戦してくれたか。さあ、握手をしよう、と手をのべた時、彼は体をおほふ薄い布の下から手を出した。おゝ其の手は肩の下から切れてゐた。あゝ右の手が無くなるまでおん身は佛蘭西のために苦闘してくれたか。では左の手で握手を……。元帥の言葉に彼は左の手を出した。がその手は腕の所がプッツリ切れてゐた。おゝ、おん身は、顔の形を無くし、右の手を失ひ、左の手をきられるまで佛蘭西の為に悪戦苦闘してくれたか。さらば……とジョフル元帥は、彼の醜く腫上って顔といふ形もない彼の一兵士の熱に皮むけた唇に其の唇をつけて強いキッスを与へた。兵士は泣いた。今までかつて泣いたことのない彼が涙を流した。彼が其の後少し快い時に友人の手をかりて一篇の詩を書連ねた。我愛は酬ひられたり……と。

 人の為、世のために己をすてゝ、あらゆる悪戦苦闘を続けて、ふくれあがり、はれあがり、きれ/″\に身はならうとも、感謝し、喜んでそれを甘受する……それがクリスチャンの生涯だといふ。キリストにならふ所以だといふ。その愛に酬るあついキッスは何?
七月十一日

 母様からの手紙。松山さんの話、大尉の話、八重さんの話、すべてにお母様式を遺憾なく発揮してるのが面白く、またかなしい気がする。葭原キクさんはほんとうに死んでしまったのだ。何卒嘘であってくれるやうに……と思った甲斐もなく。彼の女に就いて思出すことは、容貌の美しかったこと、よく泣く人であったこと、よく笑ふ人であったこと、幼い記憶に残ってるのは先づそんなものである。文字が上手であった。怒った時の表情も目の前に見るやうだ。動作はしとやかな、先づ私たちアイヌのうちにも彼女がゐたことは喜ばしいことである。私を可愛がってくれたった。

 その人も今やなし。またしても何故アイヌはかうして少しよい人をみな失ってしまふのかと泣きたくなる。きくさんの娘はみゆきと言った。可愛い子であったが、父なく母なき孤子になってしまったのだ。妙に気にかゝって仕様がない。今は何処にゐるのか知ら。母親に似て、色白の顔の形もとゝのった美しい子だった。さうして、やはり母親に似て利発な子であった。今はもう十歳ぐらゐにもなるであらう。おゝかはいさうに。幼くして母を失ったおん身は、これから何ういふ生活に入るのか。さなきだに涙の多い母を持ったおん身だから涙もろい性質を持って居るのであらうものを、きっと、さびしい/\涙の子におん身はなるであらう。それもよし。泉と湧く涙に身を洗ったならば、おん身は却って、美しい清い魂を得るであらう。何卒さうなって下さい。涙の谷に身を沈めてはいけない。決して沈んでしまってはなりません。
七月十二日 晴、終日涼

 岡村千秋さまが、「私が東京へ出て、黙ってゐれば其の儘アイヌであることを知られずに済むものを、アイヌだと名乗って女学世界などに寄稿すれば、世間の人に見さげられるやうで、私がそれを好まぬかも知れぬ」と云ふ懸念を持って居られるといふ。さう思っていたゞくのは私には不思議だ。私はアイヌだ。何処までもアイヌだ。何処にシサムのやうなところがある※(疑問符感嘆符、1-8-77) たとへ、自分でシサムですと口で言ひ得るにしても、私は依然アイヌではないか。つまらない、そんな口先でばかりシサムになったって何になる。シサムになれば何だ。アイヌだから、それで人間ではないといふ事もない。同じ人ではないか。私はアイヌであったことを喜ぶ。私がもしかシサムであったら、もっと湿ひの無い人間であったかも知れない。アイヌだの、他の哀れな人々だのの存在をすら知らない人であったかも知れない。しかし私は涙を知ってゐる。神の試練の鞭を、愛の鞭を受けてゐる。それは感謝すべき事である。

 アイヌなるが故に世に見下げられる。それでもよい。自分のウタリが見下げられるのに私ひとりぽつりと見あげられたって、それが何になる。多くのウタリと共に見さげられた方が嬉しいことなのだ。それに私は見上げらるべき何物をも持たぬ。平々凡々、あるひはそれ以下の人間ではないか。アイヌなるが故に見さげられる、それはちっともいとふべきことではない。ただ、私のつたない故に、アイヌ全体がかうだとみなされて見さげられることは、私にとって忍びない苦痛なのだ。おゝ、愛する同胞よ、愛するアイヌよ!!!
七月十六日 日曜日

 中央会堂で波多野牧師の「信仰の種類」と題するお説教。ちっともわからなかった。
七月十八日

 宮下長二といふ青年が私を訪ねて来た。あんまり真面目な人に見えなかった。が、それは私の間違ひかも知れぬ。トメさんと文通してるといふ。研究するんぢゃなくて、たゞ好奇心からアイヌの歴史をきゝ、生活状態を見、心理状態を観察しやうといふのだ。なんだか私は侮辱をさへ感ずる。しかしいくらものずきでもよく訪ねてくれたと感謝する。
七月二十一日

 賜はことなれども、霊は同じ。
七月二十三日 晴、九十度の暑さ

 中央会堂へ。先生に五円、お小費にと戴いた。嬉しくて堪らない。けれど何もしないで……といふ気持がまだ浮ぶ。たゞ感謝すればいゝのに……。会堂では副牧師の説教。
我生るに非ず、キリスト我にありて生るなり。波多野牧師に御挨拶申した。随分いい方だ。
 七月二十六日

 くたびれた割に今朝は早く目をさました。金田一さん、金田一さん、とあはたゞしく門をたゝいた山本の奥さん。一ぱいの水にやっと息をついて、一言二言語った事。みいちゃんが死んだ、汽車で自殺した、と。つひ先達見えたあのみいちゃん。美しくらふたけたあのみいちゃん。人の奥さんと呼ぶにはあまりにいたいけな、二十歳だといふても精々十七ぐらゐにしか見えなかったあのみいちゃん。こんな人が奥さんとはあまりに痛ましい事だ、と私が言ったっけが。神経衰弱とは何とおそろしい病気であらうぞ。





(私論.私見)

[編集] 『アイヌ神謡集』執筆の動機と「序」

『アイヌ神謡集』執筆の動機は、アイヌ研究家の金田一京助に、「カムイユカラ」の価値を説かれ、勧められたからであるが、これは外面的なことであり、知里幸恵の内面的な動機は、『アイヌ神謡集』の「序」に書かれている。この「序」は名文であり、知里幸恵の信条や思いが伝わる文である。

アイヌの自由な天地、天真爛漫に野山を駆けめぐった土地であった北海道の大地が、明治以降、急速に開発され、近代化したことが大正11年3月1日の日付をもつ「序」からわかる。それは「狩猟・採集生活」をしていたアイヌの人々にとっては、自然の破壊ばかりでなく、同時に生活を追われることでもあり、平和な日々をも壊すものであった。この「序」には、亡びゆく民族、言語、神話ということを自覚し、祈りにも似た思いで語り継いでいこうというせつない願いがあり、アイヌの文化を守りたいという、切々としたその思いをこの「序」は見事に伝えている。『アイヌ神謡集』の完成・出版によって、若いアイヌの女性が自らの命を削って、民族の神話を伝えた。その真の執筆動機、その思いはこの「序」から十分すぎるほど読み取れる。また、近代から現代まで続いた「開発」がどれほど自然を破壊してきたか、この「序」は、1922年という20世紀の初めの時点で訴えており、知里幸恵は「先見の明」を持っていたとも思われる。

時代は下って2008年6月7日には、前日の国会におけるアイヌ先住民決議の採択を受けた朝日新聞の天声人語において、知里幸恵・『アイヌ神謡集』と共にこの「序」の一部が紹介されるに及んだ。この取り上げ方には、アイヌを「亡びゆくもの」であると"本土"の立場から固定しようとする見方であるなどの批判があるが、知里幸恵とその思想が広く全国に知らしめられたという点では特筆すべき出来事であった。