「それ学はこれを心に得るを貴ぶ。これを心に求めて非なれば、その言の孔子に出づるといへども、敢へて以って是と為さざるなり。しかるをいはんやそのいまだ孔子に及ばざる者をや。これを心に求めて是なるや。その言の庸常(ようじょう)に出づるといへども、敢へて以って非と為さざるなり。しかるをいはんやその孔子に出づる者をや」(学貴心得)。 |
いかに自分の信念を曲げずに生きることが大切か、これが陽明の教えであった。自分の信念を正しい判断したら、どのような危険にも尻込みせず、自己を主張すべきである。「長いものに捲かれろ」という処世の智慧もあるが、時によりけりだろう。孔子はそれを「義を見て為(せ)ざるは勇なきなり」と云い、「自ら省みて縮(なお)くんば、千万人といえどもわれ往かん」と云った。
ある時、陽明は朱子学的立場に立った先輩の羅欽順に次のように反論している。
「そもそも学問というものは、心得(心に納得)することが大事です。心に求めて間違っていると考えられたら、たとえその言葉が孔子の口から出たとしても、決してそれを正しいとすることはできません。ましてや、孔子に及ばない人の場合にはなおさらです。また心に求めて正しいと考えられたら、たとえその言葉が平凡な人の口から出たとしても、決してそれを間違ったものとすることはできません。ましてやそれが孔子の口から出た場合にはなおさらです」。 |
王陽明は、致良知説の提起にしても、決して平静安穏な生活の中で、何の苦も無く行われたものではなく、「私のこの良知の説は、百死千難の中から得来たったものだが、やむにやまれぬ心から、人々のためにずばり一口で言い尽くした」と語っている。
ある時、陽明は朱子学的立場を墨守する警察官吏から講学を中止し師弟朋友の交わりを慎重にするがよろしかろうと忠告された。その時の王陽明は次のように反論している。
「私は、良知が誰でも同じに持つものであることを真に発見したのです。ただ学問を志す人たちはまだそのことを開悟しきれないばかりに、賊に随い非を習うことに甘んじているのです。だから今、仮にも本当の学問をしようという心を持ってやってくる者があるとしたら、どうして一身の嫌疑や誹謗を恐れ、共に語るのを拒むに忍びましょうか」。 |
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