陽明学の社会思想

 (最新見直し2010.09.01日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、陽明学の社会思想的側面を確認しておくことにする。


【良知の発揚について】
 「心の良知、これを聖と謂う。聖人の学はただこれこの良知を致すのみ。自然にしてこれを致す者は、聖人なり。勉然(べんぜん)としてこれを致す者は、賢人なり。自ら蔽(おお)われ自ら昧(くら)くして、肯(あえ)てこれを致さざる者は、愚夫不肖(ぐふふしょう)の者なり」。
 (解釈)
 「心にある良知こそ最高のものである。我々の目指す聖人になる為の学問は、ただこの良知を発現すること、これに尽きる。それを無理なくできるのが聖人、努力してできるのが賢人である。私欲に蔽われて、あえて良知を発現しようとしないのは愚かな人間である」

 次のような逸話もある。ある時弟子の一人が「致良知は、心を鍛える上で確かな手ごたえがあるのですが、本に書かれていることを理解する上では効果が無いように思いますが」と問うた。王陽明は次のように答えている。

 「心を把握することが先決問題である。心さえ把握できれば、本に書かれていることの意味も自ずから理解できるようになる。心を把握しようとしないで、本に書かれていることの意味だけを理解しようとすれば、却って自己流の解釈に陥ってしまうだろう」。他にも、弟子「せっかく本を読んでも、すぐに忘れてしまいます。どうしたものでしょうか」。王陽明「忘れたって一向に構わない。理解すればそれで良いのだ。但し、理解することにとらわれすぎると、肝心の目的が見失われてしまう。本を読むことの目的は、自分の心の本体をしっかりと把握することにある。記憶することに気をとられると、理解することが疎かになる。理解することに気をとられると、心の本体を把握できなくなってしまう」。


【読書の際の心得について】

 読書の際の心得について次のように諭している。

 「君はまだ若いにも関わらず、儒学の原典ばかりか、何でも読んで知識を広めようとしているようだ。だが、聖人は、人に教える場合、相手がややこしく理解することを好まなかった。だから、聖人の語っていることは、いずれも簡潔で分かりやすい。近頃は博識にあこがれる者が多いようだが、それでは却って聖人の教えが間違っているようなことになりかねない」。「飲食というのは、我が身を養うために必要なものである。だから、食べたら消化しなければならない。ただ腹に詰め込むだけであれば、たちまち病気になってしまう。それでは、少しも体の滋養にならない。後世の学者もこれと同じ事、ありあまる知識をたっぷり詰め込んでいるが、これはみな食当たりの類(たぐい)である」。

【良知の社会性向政治性について】
 「人は天地の心にして、天地万物は本(もと)吾が一体のものなり。生民(せいみん)の困苦茶毒(とどく)は、いずれか疾痛(しっつう)の吾が身に切なるものに非ざらんや。吾が身の疾痛を知らざるは、是非の心無き者なり。是非の心は、慮(おもんばか)らずして知り、学ばずして能(よ)くす。いわゆる良知なり」。

 (解釈)

 「人間は天地の心であって、天地万物はもともと我と一体のものである。だから、民衆の苦しみや痛みは、わが身にとっても、そのまま切実な痛みでないものはない。この痛みを感じないのは、是非の心を持たない者である。是非の心とは、『孟子』に『考えないでも分かり、学ばないでもできる』とあるもので、いわゆる良知に他ならない」。


 良知が人の心に存在することは、聖人愚人の別なく、古今東西すべてに共通している。だから君子たる者、ひたすら良知の発現につとめさえすれば、自ずから是非の判断を正しくし、好悪の心を共通にし、自分と同じように他人を見、我が家と同じように国を見、はては天地万物を自分と一体のものとみなすことができる。この基本さえ押さえていれば、あえて努力しなくても、天下はよく治まるのである。

 古人は、他人の善を見ては我がことのように喜び、他人の悪を見ては我がことのように悲しんだだけでなく、民衆が飢えているのを見てはわがことのように苦しみ、一人でも所を得ない者がいれば、自分が溝に突き落としたかのように責任を感じた。天下の信を得ようとして、わざとそうした訳ではない。良知を発現して心の充実を求めようとした結果、そうなっただけなのである。

【窮極の致良知について】
 王陽明は、50才を過ぎて、『致良知』説を提唱する。これが王陽明の思想の最後に到達した境地とされている。良知」とは禅の悟りのように、時と所と場所を問わず、常に即座に、その場にもっともふさわしい判断と実践をもたらす能力のことを意味した。この良知を育むものは『無私の自愛』と彼は説く。良知の自然な判断能力を、自分の奥深い内にある一人の聖人にたとえるなら、それとは別に常に日常生活の中にたち現れ、その聖人を無視してわがままに振舞うもう一人の凡人がいる。大事なことは、聖人がこの凡人を統御することによってはじめて良知・良能が発揮できる見なし、これを『致良知』と言った。

 良知とは孟子にある言葉で、天賦自然に備わった道徳的な善を知る能力であり、王陽明の心のままに行動するということが孟子の主張と合致し、人間の本能的な善は良知という語に集約されると考えた。朱子学に見られる我欲を捨てるというような表現は消極的で自己抑制的で、そういった工夫よりも良知説は積極的で自発的であり、いかにも王陽明らしい主張ではあった。そして良知が人心にあることは聖人・愚人の別なく、天下古今に共通し、ただ心の良知を発揮すればよいとまとめている。

 「大抵学問の功夫は、ただ主意頭脳の是當ならんことを要す。もし主意頭脳、専ら良知を致すを以って事と為さば、すなわち凡その多聞多見は、良知を致すの功に非ざるなし。けだし日用の間、見聞しゅう酢(さく)は、千頭万緒といへども、良知の発用流行にあらざるなし。見聞しゅう酢を徐却せば、また良知の致すべきなし」(致良知之功)。

 ある時、陽明は何人かの弟子を前にして次のように諭している。

 「近頃致良知の三字こそ、真に聖門の正法眼蔵(しょうほうがんぞう・学問の最も妙奥な大眼目)であることを、確信し得るようになりました。以前にはまだ多少の疑問がふっきれないで残っていたのですが、今ではいろいろの事件にぶつかつてみて、ただこの良知さえあれば足らぬところはないと思っています。例えて見れば、舟を動かすのに舵を得れば、静かな波、浅い瀬にはむろん思いのまま、烈風逆浪に出会っても、舵の柄さえしっかり握っていれば、沈没溺死の心配が無いようなものです」。

【万物一体の仁思想について】
 「夫子(ふうし)の汲汲煌煌(きゅうきゅうこうこう)として、亡子(ぼうし)を道路に求めるが如く、席を暖むるに暇(いとま)あらざりしは、寧(いずくん)ぞ以って人の我を知り我を信ぜんことをもとむるのみならんや。蓋(けだ)しその天地万物一体の仁の疾痛迫切(しっつうはくせつ)にして、これを巳めんと欲すと雖(いえど)も、自ずから巳む容(べ)からざる所あればなり」(万物一体の仁)。
 (解釈)

 「孔子は、血眼になって迷子を捜すように、席を暖める暇もないほどに奔走した。それというのも、人に理解してもらいたい、信用してもらいたいと願ってのことではない。思うにそれは、万物を一体のものとみなす仁の心が切迫した痛みとなり、それに突き動かされて、やむにやまれぬものがあったからである」。

 王陽明は、この「万物一体仁」思想に辿り着くことによって、社会的実践へのやみがたい衝動を帯びるに至った。


【致良知の抵抗精神性について】
 「それ学はこれを心に得るを貴ぶ。これを心に求めて非なれば、その言の孔子に出づるといへども、敢へて以って是と為さざるなり。しかるをいはんやそのいまだ孔子に及ばざる者をや。これを心に求めて是なるや。その言の庸常(ようじょう)に出づるといへども、敢へて以って非と為さざるなり。しかるをいはんやその孔子に出づる者をや」(学貴心得)。

 いかに自分の信念を曲げずに生きることが大切か、これが陽明の教えであった。自分の信念を正しい判断したら、どのような危険にも尻込みせず、自己を主張すべきである。「長いものに捲かれろ」という処世の智慧もあるが、時によりけりだろう。孔子はそれを「義を見て為(せ)ざるは勇なきなり」と云い、「自ら省みて縮(なお)くんば、千万人といえどもわれ往かん」と云った。

 ある時、陽明は朱子学的立場に立った先輩の羅欽順に次のように反論している。

 「そもそも学問というものは、心得(心に納得)することが大事です。心に求めて間違っていると考えられたら、たとえその言葉が孔子の口から出たとしても、決してそれを正しいとすることはできません。ましてや、孔子に及ばない人の場合にはなおさらです。また心に求めて正しいと考えられたら、たとえその言葉が平凡な人の口から出たとしても、決してそれを間違ったものとすることはできません。ましてやそれが孔子の口から出た場合にはなおさらです」。

 王陽明は、致良知説の提起にしても、決して平静安穏な生活の中で、何の苦も無く行われたものではなく、「私のこの良知の説は、百死千難の中から得来たったものだが、やむにやまれぬ心から、人々のためにずばり一口で言い尽くした」と語っている。

 ある時、陽明は朱子学的立場を墨守する警察官吏から講学を中止し師弟朋友の交わりを慎重にするがよろしかろうと忠告された。その時の王陽明は次のように反論している。

 「私は、良知が誰でも同じに持つものであることを真に発見したのです。ただ学問を志す人たちはまだそのことを開悟しきれないばかりに、賊に随い非を習うことに甘んじているのです。だから今、仮にも本当の学問をしようという心を持ってやってくる者があるとしたら、どうして一身の嫌疑や誹謗を恐れ、共に語るのを拒むに忍びましょうか」。

【致良知の社会批判について】
 陽明は、現代社会批判として、政治の現状に厳しい批判の眼を持っていた。政治がかくも乱れ、世の中の混乱がいよいよ甚だしくなっているのは、他でもない、良知の学が失われてしまったからではないかとして次のように舌鋒鋭く現代の病弊に切り込んでいっている。
 「ところが後世になると、良知の学がなおざりにされ、天下の人々はそれぞれに私智を働かせて争うようになり、その結果、人の心はバラバラとなり、低俗な意見や陰険な術数のたぐいが幅をきかせるようになった。仁義を隠れ蓑にしながら実際は私利私欲の追及に走り、もっともらしいことを言って世俗におもねり、わざとらしいことを行って評判を高めようとするばかりか、他人の善を覆い隠しておいて、あたかもそれが自分の善であるかのように吹聴したり、他人の私事を暴き立てて自分を売り込む材料に使ってみたりする。あるいは私憤をもって相手を攻撃しておきながら、正義の味方であるような顔をし、陰険な手段を使って相手を倒しておきながら、悪を憎んでしたことだと強弁する。また、有能な人材を排斥しておきながら、是非のけじめをつけただけだと言い張り、欲望のままにふるまっておきながら、人様と同じようなことをしているに過ぎないと弁解する。こうして人々は争いあい傷つけあい、骨肉の間柄でさえも、白だ黒だと、勝ち負けを競って対立しあうのである。これで、どうして広大な天下に存在する万物を一体のものとして見ることができようか。当然のことながら、世の中の乱れはいよいよ甚だしくなり、いつ果てるともなく続いていくのである」。

【大同社会論について】
 「世の君子、ただその良知を致すを務むれば、すなわち自ずから能く是非を公にし、好悪を同じくし、人を視ることなお己の如く、国を視ることなほ家のごとく、而して天地万物を以って、一体と為さん。天下の治まるなからんことを求むるも、得べからざるなり」(万物一体仁)。

 「礼記」の中の礼運扁に描かれた「大同社会」思想。「理想社会では、大道<真実の道>が行われ、社会は公正無私となり、賢明な者・才能のある者が選び出され、信誼(しんぎ)が尊ばれ、親睦が実行される。だから人は自分の親だけを親とは思わず、自分の子だけを子と思わず、老人は余生を全うし、壮年者は処を得て活動し、幼少の者は教育され、身寄りの無い者や身体に故障のある者はみな面倒をみてもらえるし、男はけじめをわきまえ、女はしかるべきところに嫁ぎ、財貨が地面に棄てられたままであるのは嫌うけれど、それを自分だけでしまいこむことはなく、労働を自分からしないことを嫌うが、さりとて自分だけの為ということは考えない。だから権謀術数は完全に無くなり、泥棒や乱賊は出てきようも無く、戸は開け放したままで閉めないでも平気である。−−−これが大同社会である。

 陽明は、理想社会の欠かせぬ大要素として次のように述べている。

 「そもそも人間は天地の心であり、天地万物は本来的に我なる人間と一体のものである。だからこそ、あらゆる人間の苦痛・害毒は、すべてそのまま我が身にとっての、切実な痛みとして感じ取られるのである。もし我が身の病みを知り得ぬひとがあるとすれば、それは是を是とし非を非とする心、すなわち人間の道徳的本性である良知を喪失したものとせねばならぬ。しかし良知の人心に備わることは、聖人と愚人で異なるはずはなく、天下古今を通じても変わらない。だからもし人がその良知を致すことつに務めるならば、自ずからその人の是非は公平になり、好悪の感情も他人と一致するから、他人を自分と同じに、国家と家庭と同じに見ることができ、天地万物を一体と考えるようえになる」。

 陽明のユートピア論は次の通り。

 「聖人の心(尭・舜・兎などの為政者の心)とは、天地万物を一体とみなす仁愛の精神であり、全ての人間を内外遠近の分けへだてなく扱い、凡そ生きとし生ける者に、皆親子兄弟や子供に対すると同じ愛情を注いで、これを安んじ教育することを念とした。もちろん一般の人の心も、本来は決して聖人と異なったものではなかったが、彼らの場合は、自己中心の私情に妨げられ、物欲の障害に隔てられた結果、広大なるべき心が矮小となり、他人と通じ合っていた心も塞がり、人それぞれに私心を抱いて一人一人の心がバラバラになってしまった結果、遂には親子兄弟を仇敵視する者さえでてきてしまったのである。そこで聖人はこれを憂えて、万物一体の仁心を推し及ぼし、人々を教化して、彼らが皆その私情を克服し、物欲の障害を除去し、人皆同じく有する心の本体に立ち帰らせるようにしたので、人々はやがてその本然の姿を取り戻し、道徳的で平和に満ちた社会を現出することができた」。
 「万物一体の仁心を持つ聖人によって運営される古代の理想社会においては、完全な教育が行われる。その教育は、道徳教育、個々人の人格完成を目的とするが、同時に個々人の才能・力量を尊重してこれを伸張することにも留意される。例えば、礼楽に長じ、政治・教育に長じ、農耕指導に長ずる者があれば、ますますその才能を磨かせた上で、これに相応しい職業と地位に任じ、終身そのことに専念させる」。




(私論.私見)