佐藤一斎

 (最新見直し2007.3.7日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、佐藤一斎の人となりを確認する。「ウィキペディア佐藤一斎」、「」その他を参照する。

 2005.5.5日再編集 れんだいこ拝


【佐藤 一斎の履歴】
 佐藤 一斎(さとう いっさい、1772年11月14日(安永元年10月20日)- 1859年10月19日(安政6年9月24日))は、美濃国岩村藩出身の著名な儒学者。諱は担。通称は捨蔵。字を大道。号は一斎のほか、愛日楼、老吾軒。

 1772年11月(安永元年10月)、岩村藩家老佐藤信由の次男として、江戸浜町(中央区日本橋浜町)の藩邸下屋敷内で生まれた。1790年(寛政2年) より岩村藩に仕えた。十二、三歳の頃、井上四明の門に入り、長じて大阪に遊学、中井竹山に学んだ。 1793年(寛政5年)に、藩主松平乗薀(のりもり)の三男乗衡(のりひら)が、公儀儒官である林家に養子として迎えられ、当主(大学頭)として林述斎と名乗った。一斎も近侍し門弟として昌平坂学問所に入門する。1805年(文化2年)には塾長に就き、述斎と共に多くの門弟の指導に当たった。

 儒学の大成者として公に認められ、1841年(天保12年)に述斎が没したため、公儀の学問所昌平黌(しょうへいこう)の儒官(総長)を命じられ、広く崇められた。当然朱子学が専門だが、その広い見識は陽明学まで及び、学問仲間から尊敬をこめて『陽朱陰王』と呼ばれた。門下生は3000人と言われ、一斎から育った弟子として、山田方谷、佐久間象山、渡辺崋山、横井小楠等、いずれも幕末に活躍した人材たちがいる。同門の友人には松崎慊堂がいる。将軍侍医の杉本宗春院とは極めて親しかった。

 また、一斎は常に時計を持ち、時間厳守を第一とする厳格な性格の持ち主であった。だが「蛮社の獄」では、無実の罪で窮地に落ちいった渡辺崋山を、擁護する毅然とした対応を取らなかったので、後々(特に明治以降)「言行不一致」と批判される事となった。

 1854年(安政元年)の、日米和親条約の締結交渉では、大学頭林復斎(述斎の六男)を補佐している。

 1859年10月(安政6年9月)、88歳で死去した。後に、陽明学者として「東の一斎、西の大塩」と評される。


【「言志四録」】
 「言志四録」(げんししろく)は、佐藤一斎が後半生の四十余年にわたって書いた随想語録。言志録全2496条(佐藤一斎42歳(1813年)から53歳(1824年)までに執筆されたもの)、言志後録全255条(佐藤一斎57歳(1828年)から67歳(1838年)までに執筆されたもの)、言志晩録全292条(佐藤一斎67歳(1838年)から78歳(1849年)までに執筆されたもの)、言志耋(てつ)録全340条(佐藤一斎80歳(1851年)から82歳(1853年)までに執筆されたもの)の4書の総称で総1133条よりなる。指導者のためのバイブルと呼ばれ西郷隆盛の終生の愛読書だったことでも知られている。2001年(平成13年)5月に総理大臣に就いて間もない小泉純一郎が、衆議院での「教育関連法案」審議中に言志四録について述べ、知名度が上がった。

 その文につき「言志四録」がサイトアップしている。
言志録 
 1-20
言志後録
 1-17
言志晩録
序-6
言志録
 21-50
言志後録
18-48
言志晩録
7-43
言志録
 51-81
言志後録
 49-78
言志晩録
44-83
言志録
82-111
言志後録
79-109
言志晩録
84-118
言志録
112-142
言志後録
110-140
言志晩録
119-
言志録
143-173
言志後録
 141-170
言志録
174-
201
言志後録
171-201
言志録
202-232
言志後録
202-231
言志録
233-246
言志後録
232-255

【名言集】
 言志録 」その他を参照する。
 一燈(いっとう)を提(さ)げて暗夜を行く。暗夜を憂うることな.かれ。ただ一燈を頼め。.
 少にして学べば、則ち壮にして為すこと有り。壮にして学べば、則ち老いて衰へず。老いて学べば、則ち死して朽ちず.(言志晩録第60条)
 春風(しゅんぷう)を以て人に接し秋霜(しゅうそう)を以て自らを粛む。
 他人の行いを見るとき、長所を見て短所を見ないようにするのがよい。 ..
 たとえ他の人が自分を裏切る行ないをしても、自分はその人を見捨ててはならない。そして、他の人からそむかれた原因を十分に反省し、自分の 人間をきたえ、みがく材料にするのがよい。このようにすれば、私にとって利益となる。どうして敵視する必要があろうか。すこしもないのだ。 .
 生はこれ死の始め、死はこれ生の終わり。生ぜざれば則ち死せず、死せざれば則ち生ぜず。.
 老人の自らの養ふに四件有。曰く和易、曰く自然、曰く遺遥、曰く流動、是れなり。諸々激烈の事皆害有り...
 人我に負くとも我人に負く勿れ。
 人の言は須らく容れて之を択むべし。拒むべからず。又惑ふべからず。
 愚か者の鈍さは利口者の砥石です。
 人の賢者は初見の時に於いてこれを相す。多く誤らず。
 愚かな知恵者になるよりも、利口な馬鹿者になれ。
 昨の非を悔ゆる者はこれあるも、今の過ちを改むる者は鮮し。
 逆境に遭ふ物は宜しく順境を以てこれを処するべし。順境に居る者は宜しく逆境を忘れざるべし。
 人間がものになるには良い本を師とする、良い人格を持った人を師尚とする、天地自然を師とすることである。
1  憤之一字
 憤の一字は、是れ進学の機関なり。舜何人ぞや。予何人ぞやと、まさに是れ憤なり。学は立志より要なるはなし。立志もまた之を強いうるにあらず。ただ本心の好む所に従わんのみ。
2  人須自省察
 人須らく自ら省察(せいさつ)すべし。天何が故に我が身を出生する、我をして果たして何の用に供せしむる。我既に天物なれば、必ず天役有り。天役供せざれば、天咎必ず至る。省察して此に到れば、則ち我が身の苟(いやし)くも生くべからざるを知る。
3  多聞多見
 吾既に善を資(と)るの心有り。父兄師友の言、唯聞くことの多からざるを恐る。読書に至りても、亦多からざるを得ん。聖賢云う所の、多聞多見、意正に此の如し。
4  間思雑慮
 間思雑慮、紛々擾々たるは、外物の之を溷(みだ)すによる。常に志気をして剣の如く一切の外誘を駆除し、敢えて襲近せざらしめば、肚裏(とり)自ら浄潔快豁(じょうけつかいかつ)を覚ゆ。
5  省心一助
 心の邪正、気の強弱、筆画これを掩うこと能わず。喜怒哀懼、勤惰静操に至るも、亦皆これを字に形(あらわ)す。一日の内自ら数字を書して、以って反観するも、亦省心の一助なり。
6  自責厳
 自ら責むること厳なる者は、人を責むることも亦厳なり。人を恕すること寛なる者は、自ら恕するところも亦寛なり。皆一偏を免れず。君子は則ち躬自ら厚くして、薄く人を責む。
7  口説多忙
 今人おおむね口に多忙を説く。其の為す所を視るに、実事を整頓する十に一・二、閑事を料理する。十に八・九、又閑事を認めて、以って実事と為す。むべなり其の多忙なるや。志有る者誤りて此の窪を踏むこと勿れ。
8  緊立此志
 緊(きび)しく此の志を立てて以って此れを求むれば、薪を搬び水を運ぶといえども、亦是れ学の在る所。況や書を読み理を窮むるおや。志の立たざれば、終日読書に従事するも、亦唯是れ閑事のみ。故に学を為すは立志より尚(たか)きはなし。
9  富貴貧賎
 富貴は、譬えば則ち春夏なり。人心をして蕩せしむ。貧賎は譬えば則ち秋冬なり。人心をして粛ならしむ。故に人富貴に於いては、則ち其の志を溺らし、貧賎に於いては、則ち其の志を堅くす。
10  天尊地卑
 天尊く地卑く、乾坤定まる。君臣の分、既に已に天定に属す。各其の職を尽くすのみ。故に臣の君に於ける、まさに畜養の恩如何を視て、其の報を厚薄にせざるべし。
11  実際学問
 山嶽に登り、川海を渉(わた)り、数十百里を走り、時有りてか露宿して寐ねず。時有りてか餓えて食わず、寒えて衣ず。此は是れ多少実際の学問。夫の徒爾(とじ)の明窓浄几、香を焚き書を読むがごときは、恐らく力を得る処少なからん。
12  砥砺切磋
 凡そ遭う所の患難変故、屈辱讒謗、払逆の事、皆天の吾才を老する所以にして、砥砺切磋(しれいせっさ)の地にあらざるなし。君子は当に之を処する所以を慮るべし。徒に之を免れんと欲するは不可なり。
13  第一等人物
 世間の第一等の人物為らんと欲する、其の志小ならず。余は則ち以って猶小なると為す。世間の生民衆しと雖も、而も数に限り有り。茲(こ)の事恐らくは済し難きにあらざらん。前古己に死するの人の如きは、則ち今に幾万倍す。其の中聖人賢人、英雄豪傑、数うるに勝(た)うべからず。我今日未だ死せずんば、則ち稍出頭の人に似たり。而も明日既に死すれば、 すなわち忽ち古人の録中に入る。是に於いて我が為す所を以って、これを古人に校するに、比数するに足る者無し。是れ則ち愧づべし。故に志有る者、要は当に古今第一等の人物を以って自ら期すべし。
14  惜陰
 人少壮の時にあたりて、惜陰を知らず。知ると雖もはなはだ惜しむに至らず。四十己後を過ぎて、始めて惜陰を知る。既に知るの時、精力漸く耗す。故に人学を為すは、須らく時に及びて勉励するを要すべし。しからざれば則ち百悔すとも亦竟(つい)に益無し。
15  学問不離日用
 経を読む時にあたりては、須らく我が遭う所の人情事変を把(と)りて注脚となすべし。事を処する時に臨みては、則ち須らく聖賢の言語を把りて注脚となすべし。事理融会し、学問日用を離れざる意思を見得するに庶からん。
16  一部歴史
 一部の歴史、皆形迹(けいせき)を伝え、情実或いは伝わらず。史を読む者、須らく形迹に就いて以って情実を討出するを要すべし。
17  読書
 吾書を読むに当たりて、一たび古昔聖賢豪傑体魄皆死するを想えば、則ち首を俯して、感愴(かんそう)す。一たび聖賢豪傑精神尚(なお)存するを想えば、則ち眼を開いて憤興(ふんこう)す。
18  責善
 善を責むるは朋友の道なり。只須らく懇到切至(こんとうせっし)以って之に告ぐべし。しからずして、徒(いたずら)に口舌に資りて以って責善の名を博せば、渠 (かれ)以って徳と為さず。卻(かえ)って以って仇と為す。益無きなり。
19  食貨
 国家食貨に於いて遺策無し。園田山林市廛(してん)を連ね、尺地の租入を缺く無し。金銀銅並びに署をゥきて鋳出す。知らず日に幾万計なるを。而るに当今上下困弊し、財帑足らず。或いは謂う奢侈の致す所と。余は則ち謂う。特に比のみならず。蓋し治安日久しきを以って、貴賎人口繁衍し、これを二百年前に比すれば、恐らくは翅に十数倍のみならず。之を衣食する者、逐年増多し、之を生ずる者給せず。勢い必ず此に至らん。然らば則ち困弊此の如きも、亦試治安の久しきに由る。
20  如此国危
 一物の是非を見て、大体の是非を問わず。一時の利害に拘わりて、久遠の利害を察せず。為政此の如くんば、国危からん。
21  慎口
 人最も当に口を慎むべし。口の職は二用を兼ぬ。言語を出し、飲食を納るる。是なり。言語を慎まざれば、以って禍を招くに足り、飲食を慎まざれば、以って病を致すに足る。諺に云う、禍は口より出、病は口より入ると。
22  鬼神将伺之
 枚乗曰く、人の聞くこと無きを欲するは、言うこと勿きに若くは莫し。人の知ること無きを欲するは、為すこと勿きに若くは莫し。薛文靖以って名言と為す。余は則ち以って未だしと為す。凡そ事当に其の心如何を問うべし。心苟くも物有れば、己言わずと雖も、人将に之を聞かんとす。人聞かずと雖も、鬼神将に之を伺わんとす。
23  心猶火
 心は猶火のごとし。物に著きて体を為す。善に著かざれば、則ち不善に著く。故に遊芸の訓は、特に諸を善に導くのみならず、又不善を防ぐ所以なり。博奕の已むに賢るも、亦此れを以ってなり。
24  理到之言
 理到るの言は 人服せざるを得ざる。然れども其の言激する所有れば則ち服せず。強うる所有れば則ち服せず。挟む所有れば則ち服せず。便する所有れば則ち服せず。凡そ理到りて人服せざれば、君子必ず自ら反す。我先ず服して後人之に服す。
25  人家乗除之数
 有名の父は、其の子家声を墜さざる者鮮し。或いは謂う。世人其の父を推尊し、因りて其の子に及ぶ。子為る者、眷養に長じ、且つ挟む所有り。遂に傲惰の性を養成す。故に多くは不肖なりと。固より此の理無きに非ず。而るに独り此のみならず。父既に常人に非ず。寧んぞ慮予め之が防を為すに及ばざらんや。畢竟之を反する能わず。蓋し亦数有り。試みに之を思えば、草木の如きに就きて、今年結実過多なれば、則ち明年必ず歉(けん)す。人家乗除の数も、亦然る者有り。
26  吾躯為父母
 吾静夜独り思う。吾が躯の一毛一髪、一喘一息、皆父母なり。既に吾が躯の父母為るを知れば、又我が子の吾が躯為るを知る。則ち推して之を上ぐれば、祖・曾・高我にあらざる無きなり。逓(てい)して之を下せば、孫・曾・玄我にあらざる無きなり。聖人九族をを親しむ。其の念頭を起こす処、蓋し此に在り。
27  忠孝両全
 君に事えて忠ならざれば、孝にあらざるなり。戦陣勇無きは、孝にあらざるなり。曽子は孝子なり。其の言此の如し。彼の忠孝両全ならずと謂う者は、世俗の見なり。
28  孔門之学
 孔門の学、専ら躬行に在り。門人の問目、皆己の当に為すべき所を挙げて、之を質す。後人の経を執りて叩問するが如きにあらず。故に夫人の之に答うるも、亦人々異なり。大抵皆偏を矯め弊を救い、長を裁ち短を補い、以って諸を正に帰せしむるのみ。譬えば猶良医の症に対して剤を処するがごとし。症は人々異なり故に剤も亦人々異なり。懿子・武伯・游子・夏子問う所同じくして、答え同じからず。亦以って当時の学を想うべし。  

【参考文献、ネットリンク集】
 『佐藤一斎全集』全14巻が明徳出版社で刊行、1991年−2003年。(10巻目のみ未刊行)
  • 言志四録』から西郷隆盛が101条を選んだ「手抄言志録」を収録。69頁に佐藤一齋略傳を収録。

 外部リンク






(私論.私見)